阿蘇豊『とほくとほい知らない場所で』(土曜美術社出版販売、2016年11月15日発行)
阿蘇豊『とほくとほい知らない場所で』の、巻頭の「ラッキーガーデンの肉まん、うまい」の「1」の部分。
一行目の「きっと」が生きている。
「黙読」の場合、ことばはなんとなく「周囲」にあることばも読んでしまう。「きっと」の近くに「なでたり つまんだり はじいたり」「つきさしたり」という「動詞+たり」ということばがぼんやりと動いているのが感じられる。
でも、「きっと」はそれをさっと束ね、それとは違うものになるんだろうなということを確信させる。「きっと」は「……だろう」ということばを予測させ、初めと終わりの「枠」になるので、あいだに様々な動詞が散らばっていても、なんとなく安心する。安心して、いくつもの動詞を行き来できる。
「違う」ということばを起点に、一行空いて、主語が「指」から「ことば」に転換する。このとき「指」が「ことば」の比喩なのか、「ことば」が「指」の比喩なのか、よくわからなくなる。
どちらでもいいんだろうなあ。
たぶん、こういう「どちらでもいい」という「枠」のないことろが詩なのかもしれない。
片一方に「きっと……だろう」という「枠」がある。けれど、書かれていることは「意味」を限定しない。「意味の枠」を無効にする。
これがおもしろいのだけれど、それにつづく断章は「意味」が強すぎて、あまりおもしろくない。
「枠」を無効にするというか、「枠」を超える感じを期待しながら読んでいくと「きょう」という詩に出会う。
これは、いいなあ。「つながる」という動詞が強い。
窓を開けたら「室内の空気」と「室外の空気」がつながった、という「意味」なのかもしれない。「室内の空気」「室外の空気」は「つながった」と言わなくても、どこかでつながっているものだろう。しかし、それが「つながった」と言うと、まるで「つながり」そのものが「生まれてくる」みたいでおもしろい。
「意味」を超える、「意味」を破壊するというのは、「意味」を発見すること。「ことば」を発見すること。「発見」されるものは、最初から存在している。ひとが見落としていたもの。見落としていたものを「見える」ようにすることを「発見」というのだが、この詩の「つながった」は、それに似ている。
「室内という枠」「室外という枠」がぱっと破壊され、「枠」を遠くへ、広いところまで拡大する。
こんな具合に。
「生まれたもの」「死んでゆくもの」の対比が強烈だが、矛盾するものが「枠」のなかで「つながる」になる。「意味」が否定され、「ある」ということの強さが、「ある」というまま「生まれてくる」。「ひとつ」になる。
この「ひとつ」はとても複雑だ。「ひとつ」を「ことば」が「つつく」と、そこから「くらやみ」も「あかつき」も生まれる。「生まれたもの」も「死んでゆくもの」も生まれる。矛盾したものを生み出す「場」が「ひとつ」。そこでは全てが「つながっている」。
これを起きて、窓を開けた瞬間につかみ取る。
これは、すごい。
抽象的になり書けたことばを「台所」「洗濯機」「ドリアン」で引き戻し、「はぜていたドリアン」を「発見」する。
ものを「発見」すると、「精神」も動く。「精神」というとおおげさかもしれないけれど、ドリアンがはぜた原因を「洗濯機の振動でだろうか」と推測したりする。見えないものを、思考で浮かび上がらせたりする。
こういう「精神」の動きがあるので、最終連の「空気のふちどり」がくっきりつたわってくる。「仕立てる」という動詞もいいなあ。
「仕立てる」はなにかをつないで「ひとつ」にするということかもしれないなあ。
阿蘇豊『とほくとほい知らない場所で』の、巻頭の「ラッキーガーデンの肉まん、うまい」の「1」の部分。
僕の指はきっと
なでたり つまんだり はじいたり
ときには つきさしたり
日によってちがっているだろうね
まるで きみにむかう
ことばみたいに
一行目の「きっと」が生きている。
「黙読」の場合、ことばはなんとなく「周囲」にあることばも読んでしまう。「きっと」の近くに「なでたり つまんだり はじいたり」「つきさしたり」という「動詞+たり」ということばがぼんやりと動いているのが感じられる。
でも、「きっと」はそれをさっと束ね、それとは違うものになるんだろうなということを確信させる。「きっと」は「……だろう」ということばを予測させ、初めと終わりの「枠」になるので、あいだに様々な動詞が散らばっていても、なんとなく安心する。安心して、いくつもの動詞を行き来できる。
「違う」ということばを起点に、一行空いて、主語が「指」から「ことば」に転換する。このとき「指」が「ことば」の比喩なのか、「ことば」が「指」の比喩なのか、よくわからなくなる。
どちらでもいいんだろうなあ。
たぶん、こういう「どちらでもいい」という「枠」のないことろが詩なのかもしれない。
片一方に「きっと……だろう」という「枠」がある。けれど、書かれていることは「意味」を限定しない。「意味の枠」を無効にする。
これがおもしろいのだけれど、それにつづく断章は「意味」が強すぎて、あまりおもしろくない。
「枠」を無効にするというか、「枠」を超える感じを期待しながら読んでいくと「きょう」という詩に出会う。
起き抜けに
窓を開けたら空気がつながった
これは、いいなあ。「つながる」という動詞が強い。
窓を開けたら「室内の空気」と「室外の空気」がつながった、という「意味」なのかもしれない。「室内の空気」「室外の空気」は「つながった」と言わなくても、どこかでつながっているものだろう。しかし、それが「つながった」と言うと、まるで「つながり」そのものが「生まれてくる」みたいでおもしろい。
「意味」を超える、「意味」を破壊するというのは、「意味」を発見すること。「ことば」を発見すること。「発見」されるものは、最初から存在している。ひとが見落としていたもの。見落としていたものを「見える」ようにすることを「発見」というのだが、この詩の「つながった」は、それに似ている。
「室内という枠」「室外という枠」がぱっと破壊され、「枠」を遠くへ、広いところまで拡大する。
こんな具合に。
きのうときょうと
くらやみとあかつきと
生まれたもの死んでゆくもの
木のにおいと肉のにおい
「生まれたもの」「死んでゆくもの」の対比が強烈だが、矛盾するものが「枠」のなかで「つながる」になる。「意味」が否定され、「ある」ということの強さが、「ある」というまま「生まれてくる」。「ひとつ」になる。
この「ひとつ」はとても複雑だ。「ひとつ」を「ことば」が「つつく」と、そこから「くらやみ」も「あかつき」も生まれる。「生まれたもの」も「死んでゆくもの」も生まれる。矛盾したものを生み出す「場」が「ひとつ」。そこでは全てが「つながっている」。
これを起きて、窓を開けた瞬間につかみ取る。
これは、すごい。
立ち上がり
台所に行ったら
きのうの夜
洗濯機の振動でだろうか
転がしておいたドリアンがバリッ
はぜていた
それを今日の空気のふちどりに仕立て
手は冷蔵庫を開けた
抽象的になり書けたことばを「台所」「洗濯機」「ドリアン」で引き戻し、「はぜていたドリアン」を「発見」する。
ものを「発見」すると、「精神」も動く。「精神」というとおおげさかもしれないけれど、ドリアンがはぜた原因を「洗濯機の振動でだろうか」と推測したりする。見えないものを、思考で浮かび上がらせたりする。
こういう「精神」の動きがあるので、最終連の「空気のふちどり」がくっきりつたわってくる。「仕立てる」という動詞もいいなあ。
「仕立てる」はなにかをつないで「ひとつ」にするということかもしれないなあ。
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