詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

龍秀美『父音』

2017-01-08 11:19:49 | 詩集
龍秀美『父音』(土曜美術紗出版販売、2016年12月15日発行)

 龍秀美の父は台湾の人である。この詩集には「きょうはんしゃ(共犯者)」という形で登場してくる。台湾生まれの父と生きることで「聞こえる声」がある。その「声」に耳を済ましている。「声」は基本的に「ひとり」のものだが、ことばは「ひとり」のものではなく共有されて動いている。共有は「無意識」のときもある。「無意識」が「声」をつきやぶると、同じことばが違うことばに聞こえることもある。「違い」は、しかし、なかなか説明するのがむずかしい。ふいに見える何か、「あっ、見えた」と感じる何か。
 「一九八一年刊『民衆日韓辞典』」が「とっかかり」としてはおもしろいかもしれない。職場の大掃除をしていて偶然見つけた辞書。おもしろい例が載っている。

<きんたま>=文例1:~火鉢
なるほど 日本のどの辞書でも
文例の1にこれは載っていないだろう

ぱっと開いたページに
<し>=文例1:ふぐは食いたし、命は惜しし……

 『民衆日韓辞典』というのだから民衆の「口語」から、ことばがどうつかわれているかを「例文」としてつかみとるというものなのだろう。頭で整理する前の、なまなましい「肉体」を感じる。
 特に「きんたま火鉢」がおもしろい。「体(肉体)」が芯から冷えたとききんたまをあたためると体があたたまる。「実感」が動いている。「ふぐは食いたし、命は惜しし」も「肉体」の欲望が直接的でいい。「肉体の正直」が強くあらわれた辞典だ。
 龍の感想を省略して、ことばと文例だけを引用してみる。

<おんな>=文例1:~になる 文例2:~のくさったような
文例3:~ネコ 文例4:~をこしらえる 文例5:~を囲う
<色>=文例1:あの芸者は社長の色だ
<だんな>=文例1:~お安くしておきます

 日本人の周りにいる韓国人が必要に迫られて覚えたことばである。日本人に対する韓国人の姿勢が見え、また韓国人に対する日本人の姿勢が見える。
 同じようなものが台湾にもあったかもしれない。一九八一年ではなく、もっと昔に作られていたかもしれない。

<語る>=文例1:~に落ちる
<治下>=文例1:他国の~に苦しんだ時代

 笑って読みとばそうとすると、その奥から「苦しみ」が聞こえてくる。どんなことばにも「苦しみ」の共有がある。「苦しみ」が「声」になろうとして、動き回っている。
 「民衆」とは違う場所では違うことばが動いていただろう。けれど「民衆」の「肉体」のなかで動いているのは、こういうことばなのである。その奥底の「力」とどう自分を結びつけていくか、連帯するかというのはむずかしい問題である。むずかしいけれど、龍は、むずかしいところを結びつけ、ことばを生み出そうとしている。その姿勢がつたわってくる。例文は龍のことばではないから龍の詩ではないという見方もできるかもしれないが、いろいろなことばから例文を選択するとき、そこに龍がいる。龍の「肉体」がそこにある。だから、引用であっても、それは龍の詩なのである。

 龍は「民衆の声」を聞き取り、それを「ことば」として引き継ぎ、残そうとしている。「跨いだ原爆--ある証言」は長崎で被爆者の遺体を運んだ男の証言である。多くの人に読んでもらいたい作品だが、それは詩集にまかせて、別な作品について書こう。
「母が言う--芭蕉とバナナ」。龍の父と母が登場する。夫婦でやってきた商売をたたみ、植物園に行ってきた。花が少なくて母にはつまらないのだが、父はおもしろかったという。サボテンや葉っぱを「生まれて初めて植物を見たみたいに」見つめる。商売をやめて「初めて周りの物を/落ち着いて見ることができた」とでもいうかのように。その様子を見ながら、母は思う。

じゃあ これまで見えていたのは
いったい何だったの
わたしと一緒に見てきたはずのものは--

 「違う風景」。「違い」は「ことば」にならないと、なかなかわからない。『民衆日韓辞典』のようなもの、『家族日台辞典』のようなものは、意識されたことがない。
 それが思いがけない形で、このときに母の「肉体」を貫く。

あのね
丈の高い南方芭蕉の木と
それよりちょっと低いバナナの木があって
私には区別がつかないんだけれど
「こっちの木の方にバナナが生るんだ」
って説明するの
わたしゃ驚いたのなんのって
あの人と六十年つきあってるけど
台湾のこと説明してくれたの初めてよ

 「私には区別がつかない」が強い。「私には区別がつかないけれど、父には区別がつく」。「違い」が見える。違いを「バナナ」と「芭蕉」という「ことば」にできる。父は(夫は)母に(妻に)、芭蕉とバナナの区別をしながら生きてきた思い出を語る。「肉体」が覚えていることを語る。その「肉体」は、きっと母が「区別がつかない」多くのことを見分けてきたはずである。「違い」を「肉体」のなかの「辞典」にしまいこんでいるはずである。面と向かっては話さない。けれど、動いていたことばがあるはずである。

のっぽの芭蕉の木がぼんやり突っ立っていて
それより少し小ぶりのバナナの木が
のほほんとあっちを向いている--
この二つの違いを
あの人は六十年目に初めてわたしに話してくれたの

ほんの少しの違いなんだけどね
どうってことないことだけどね

 最後の二行は、むずかしい。
 「ほんの少しの違い」「どうってことのないこと(違い)」と思いたい。そう思う人がいる。一方で、そう思えないひともいる。「ほんの少しの違い」と思ってみても、実際に気がついてみると、そこからどんどん「違い」が目につくようになることがある。
 「ことば」はいつでも解きほぐされ、もう一度生まれ変わって動き出したい願っている。そのとき、「遠く」で聞こえるどの「声」といっしょに自分の「声」を動かすか。自分の「声」を重ねるか。言い換えると、だれと「共犯者」になるか。
 龍は、父の「声」の方に、龍自身のことばの可能性をかけようとしている。「共犯者」になるとは、そういうことだと思いながら読んだ。
詩集 TAIWAN
クリエーター情報なし
詩学社
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