監督 マーチン・ピータ・サンフリト 出演 ローラン・モラー、ミケル・ボー・フォルスガード、ルイス・ホフマン
デンマークの海岸で、ドイツの少年兵(捕虜?)がナチスの埋めた地雷を撤去する。それだけの話なのだが、それだけだからこそぐいぐい飲み込まれていく。余分なものが何もない。
地雷を掘りあて、信管を抜き取る練習から始まる。実際に海岸へゆく。腹這いになって、鉄の棒を砂のなかに突き刺す。金属に触れたら、それが地雷。手で砂をかき分ける。本体が姿をあらわす。信管につながるキャップ(?)を回す。つながっている信管を外す。本体を掘り出し、集める。繰り返し繰り返し、その作業をみつめる。「作業」というよりも手の動きだな。見続けていると、少年たちの手が少年の手に見えなくなる。自分の手だと感じ始める。視線も、なんといえばいいのか、スクリーンのなかに自分の視線があって、その目が手の動きをみつめている。砂をみつめている、という気持ちになる。
感情がわかる、というのではない。「肉体」そのものになってしまう感じ。
ストーリーは、あるといえば、ある。うまく処理できずに、少年の両腕が飛ぶ。2個重なっていることを知らずに、上の1個を取り除いた瞬間に、下の地雷が爆発する。安全なはずの(信管を取り除いたはずの)地雷に信管が残っていて、大爆発が起きる。そういう「お決まり」の事故。
さらに知らずに地雷のある砂浜に入り込んだ少女を救い出す、というエピソード。
少年たちに次第にこころを許していく軍曹。少年たちとのサッカーの交流。そういうエピソードもある。
でも、やっぱり地雷を処理する少年たちの手、目だなあ。何度も見ているのに、「何度も」にならない。毎回、それっきりの一回一回。初めてとか最後とか、そういう感じではなく、それしかないという一回。
ほかにも感想を書こうと思えば書くことはたくさんある。でも、書きたくない。少年たちの思いとか、軍曹の思いとか。それは、書きたくない。
海があって、砂浜があって、枯れた草が繁っている。自然のままの海岸。太陽の光があって、風が吹いて、「人間の気持ち」などを気にしない絶対的な自然がある。そのなかに地雷がある。見えない地雷。間違って触れると死んでしまう危険が、ぴったりと密着している。それをひとつひとつ探し当て、ひとつひとつ処理する。
まとめて、ということができない。
これだね、テーマは。
「生きる」ということは「まとめて」ということができないのだ。「ひとつひとつ」自分の肉体をかかわらせていくことでしか、何もできないのだ。「ひとつひとつ」を「ひとりひとり」と言い換えると、ここから、世界がかわる。
少年たちは「ひとりひとり」。だれもかわることができない。一つの地雷に、ひとりの少年。ひとりの少年の「いきる」は、そのひとりの少年の「肉体」すべてにかかっている。
だから、とここで私の感想は飛躍する。
新しい海岸へつれていかれる4人の少年。生き残った少年。彼らを呼び戻し、国境の近くまでトラックで運び「500メートル先が国境だ、走れ」というデンマークの軍曹。彼も「ひとり」なのである。たったひとり。少年たちの脱走を手助けするとどうなるか。わかっているけれど、「ひとり」として、そうするのである。
「ひとり」というとき、彼はデンマーク人ではない。軍曹でもない。なんでもない、ほんとうの「ひとり」。にんげん。丸裸の人間。いのち。地雷の埋まっている海岸が、ただ海岸というのときの感じに似ている。絶対的な「ひとり」。完結している。かわりはない。だれもかわることができない。
映画は、この「ひとり」の発見というか、「ひとり」を最後にくっきりと浮かび上がらせる。この「ひとり」に非常に勇気づけられる。
(KBCシネマ1、2017年01月25日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
デンマークの海岸で、ドイツの少年兵(捕虜?)がナチスの埋めた地雷を撤去する。それだけの話なのだが、それだけだからこそぐいぐい飲み込まれていく。余分なものが何もない。
地雷を掘りあて、信管を抜き取る練習から始まる。実際に海岸へゆく。腹這いになって、鉄の棒を砂のなかに突き刺す。金属に触れたら、それが地雷。手で砂をかき分ける。本体が姿をあらわす。信管につながるキャップ(?)を回す。つながっている信管を外す。本体を掘り出し、集める。繰り返し繰り返し、その作業をみつめる。「作業」というよりも手の動きだな。見続けていると、少年たちの手が少年の手に見えなくなる。自分の手だと感じ始める。視線も、なんといえばいいのか、スクリーンのなかに自分の視線があって、その目が手の動きをみつめている。砂をみつめている、という気持ちになる。
感情がわかる、というのではない。「肉体」そのものになってしまう感じ。
ストーリーは、あるといえば、ある。うまく処理できずに、少年の両腕が飛ぶ。2個重なっていることを知らずに、上の1個を取り除いた瞬間に、下の地雷が爆発する。安全なはずの(信管を取り除いたはずの)地雷に信管が残っていて、大爆発が起きる。そういう「お決まり」の事故。
さらに知らずに地雷のある砂浜に入り込んだ少女を救い出す、というエピソード。
少年たちに次第にこころを許していく軍曹。少年たちとのサッカーの交流。そういうエピソードもある。
でも、やっぱり地雷を処理する少年たちの手、目だなあ。何度も見ているのに、「何度も」にならない。毎回、それっきりの一回一回。初めてとか最後とか、そういう感じではなく、それしかないという一回。
ほかにも感想を書こうと思えば書くことはたくさんある。でも、書きたくない。少年たちの思いとか、軍曹の思いとか。それは、書きたくない。
海があって、砂浜があって、枯れた草が繁っている。自然のままの海岸。太陽の光があって、風が吹いて、「人間の気持ち」などを気にしない絶対的な自然がある。そのなかに地雷がある。見えない地雷。間違って触れると死んでしまう危険が、ぴったりと密着している。それをひとつひとつ探し当て、ひとつひとつ処理する。
まとめて、ということができない。
これだね、テーマは。
「生きる」ということは「まとめて」ということができないのだ。「ひとつひとつ」自分の肉体をかかわらせていくことでしか、何もできないのだ。「ひとつひとつ」を「ひとりひとり」と言い換えると、ここから、世界がかわる。
少年たちは「ひとりひとり」。だれもかわることができない。一つの地雷に、ひとりの少年。ひとりの少年の「いきる」は、そのひとりの少年の「肉体」すべてにかかっている。
だから、とここで私の感想は飛躍する。
新しい海岸へつれていかれる4人の少年。生き残った少年。彼らを呼び戻し、国境の近くまでトラックで運び「500メートル先が国境だ、走れ」というデンマークの軍曹。彼も「ひとり」なのである。たったひとり。少年たちの脱走を手助けするとどうなるか。わかっているけれど、「ひとり」として、そうするのである。
「ひとり」というとき、彼はデンマーク人ではない。軍曹でもない。なんでもない、ほんとうの「ひとり」。にんげん。丸裸の人間。いのち。地雷の埋まっている海岸が、ただ海岸というのときの感じに似ている。絶対的な「ひとり」。完結している。かわりはない。だれもかわることができない。
映画は、この「ひとり」の発見というか、「ひとり」を最後にくっきりと浮かび上がらせる。この「ひとり」に非常に勇気づけられる。
(KBCシネマ1、2017年01月25日)
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