詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マーチン・ピータ・サンフリト監督「ヒトラーの忘れもの」(★★★★★)

2017-01-26 09:38:05 | 映画
監督 マーチン・ピータ・サンフリト 出演 ローラン・モラー、ミケル・ボー・フォルスガード、ルイス・ホフマン

 デンマークの海岸で、ドイツの少年兵(捕虜?)がナチスの埋めた地雷を撤去する。それだけの話なのだが、それだけだからこそぐいぐい飲み込まれていく。余分なものが何もない。
 地雷を掘りあて、信管を抜き取る練習から始まる。実際に海岸へゆく。腹這いになって、鉄の棒を砂のなかに突き刺す。金属に触れたら、それが地雷。手で砂をかき分ける。本体が姿をあらわす。信管につながるキャップ(?)を回す。つながっている信管を外す。本体を掘り出し、集める。繰り返し繰り返し、その作業をみつめる。「作業」というよりも手の動きだな。見続けていると、少年たちの手が少年の手に見えなくなる。自分の手だと感じ始める。視線も、なんといえばいいのか、スクリーンのなかに自分の視線があって、その目が手の動きをみつめている。砂をみつめている、という気持ちになる。
 感情がわかる、というのではない。「肉体」そのものになってしまう感じ。
 ストーリーは、あるといえば、ある。うまく処理できずに、少年の両腕が飛ぶ。2個重なっていることを知らずに、上の1個を取り除いた瞬間に、下の地雷が爆発する。安全なはずの(信管を取り除いたはずの)地雷に信管が残っていて、大爆発が起きる。そういう「お決まり」の事故。
 さらに知らずに地雷のある砂浜に入り込んだ少女を救い出す、というエピソード。
 少年たちに次第にこころを許していく軍曹。少年たちとのサッカーの交流。そういうエピソードもある。
 でも、やっぱり地雷を処理する少年たちの手、目だなあ。何度も見ているのに、「何度も」にならない。毎回、それっきりの一回一回。初めてとか最後とか、そういう感じではなく、それしかないという一回。
 ほかにも感想を書こうと思えば書くことはたくさんある。でも、書きたくない。少年たちの思いとか、軍曹の思いとか。それは、書きたくない。
 海があって、砂浜があって、枯れた草が繁っている。自然のままの海岸。太陽の光があって、風が吹いて、「人間の気持ち」などを気にしない絶対的な自然がある。そのなかに地雷がある。見えない地雷。間違って触れると死んでしまう危険が、ぴったりと密着している。それをひとつひとつ探し当て、ひとつひとつ処理する。
 まとめて、ということができない。
 これだね、テーマは。
 「生きる」ということは「まとめて」ということができないのだ。「ひとつひとつ」自分の肉体をかかわらせていくことでしか、何もできないのだ。「ひとつひとつ」を「ひとりひとり」と言い換えると、ここから、世界がかわる。
 少年たちは「ひとりひとり」。だれもかわることができない。一つの地雷に、ひとりの少年。ひとりの少年の「いきる」は、そのひとりの少年の「肉体」すべてにかかっている。
 だから、とここで私の感想は飛躍する。
 新しい海岸へつれていかれる4人の少年。生き残った少年。彼らを呼び戻し、国境の近くまでトラックで運び「500メートル先が国境だ、走れ」というデンマークの軍曹。彼も「ひとり」なのである。たったひとり。少年たちの脱走を手助けするとどうなるか。わかっているけれど、「ひとり」として、そうするのである。
 「ひとり」というとき、彼はデンマーク人ではない。軍曹でもない。なんでもない、ほんとうの「ひとり」。にんげん。丸裸の人間。いのち。地雷の埋まっている海岸が、ただ海岸というのときの感じに似ている。絶対的な「ひとり」。完結している。かわりはない。だれもかわることができない。
 映画は、この「ひとり」の発見というか、「ひとり」を最後にくっきりと浮かび上がらせる。この「ひとり」に非常に勇気づけられる。
                      (KBCシネマ1、2017年01月25日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西村勝『シチリアの少女』

2017-01-26 09:32:34 | 詩集
西村勝『シチリアの少女』(ふらんす堂、2016年12月12日発行)

 西村勝『シチリアの少女』は世界一周クルーズの旅日記詩集。神戸を4月13日に出て、横浜へ7月25日に帰って来ている。うーん、豪華だ。
 「日の出」はスエズ運河を通過するときの詩。

おお シナイ半島の日の出だ
稜線は真っ赤になり
やがて大きな火の玉が
ゆっくり顔を現わし
甲板は息をのんで静まる
泣き出す者もいる
手を合わせる者もいる
僕はどんなことばも出て来ずに
ほんとうに困ってしまった

 詩集の中では、ここがいちばん印象に残った。「どんなことばも出て来ずに」がいい。他の部分では、ことばが出すぎている。
 詩は、「ことばを出す」ということとは相いれないのだろう。自分が持っていることば、自分のなかにあることばを「出す」かぎりは、それは詩ではない。
 詩は、ことばを「生む」、ことばを新しく「つくる」こと。
 「ほんとうに困ってしまった」と西村は素直に書いているが、「困る」瞬間が詩。作者が「困る」とき、読者は一緒に「困る」。それが楽しい。

 表題作の「シチリアの少女」はシチリアであったアコーディオンを弾いている少女のことを書いている。

彼女は学校帰りにひとりであの路地で
アコーディオンを弾いていることだろう
シラクーサに行くことがあったら
オルティジア島の旧市街を歩いてみたまえ
アポロ寺院からマティオッテ通りへ入り ちょっと脇道へ入るんだ
脇道の名前だって?
しょうがないなあ 特別に教えてあげよう
CAVOUR通りという路地だ
じっと耳をすませていれば
どこからかすてきなアコーディオンが聞こえてくるだろう

 ことばの動きが「きざっぽい」。きざでもいいのだが、そのきざが「流通言語」になっている。西村が「生んだ」ことばではないし、「つくった」ことばでもない。西村のなかに無意識に溜まっていたことばが「出て来ている」。
シチリアの少女
クリエーター情報なし
ふらんす堂
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする