詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

覚和歌子『はじまりはひとつのことば』

2017-01-28 10:50:16 | 詩集
覚和歌子『はじまりはひとつのことば』(港の人、2016年07月22日発行)

 覚和歌子『はじまりはひとつのことば』のことばから音楽が聞こえる。
 タイトルになっている作品の一連目。

それは「ぼく」だったかもしれない
それは「そら」だったかもしれない
「あした」だったかもしれない
ひかりがはじけ あたりにとびちって

 繰り返しがある。一行目と二行目。「それは……だったかもしれない」。繰り返しはひとつの音楽。耳になじみ、肉体のなかにひろがる。そのひろがりのなかで「ぼく」と「そら」が交代する。その変化も音楽。いや、この変化の方が音楽の「主体」になっているかな。
 三行目は「それは」がなくなる。もうリズムができているから、繰り返さなくても読む人は自然に「それは」を補う。そういうことのほかに、もうひとつ。「ぼく」「そら」と二音節ことばが「あした」と三音節になる。音が増えた。増えた分を「それは」を省略することで軽くしている。「それは」があってもなくても「意味」はかわらないが、音が肉体に入ってくるときの感じ、肉体のなかでひろがるときの感じが違う。
 この音のマイナスとプラスは、つきつめると「0」にならない。同じではない。変化といってもいいし、乱れといってもいい。この乱調を利用して、覚はことばを飛躍させる。四行目は「それは……だったかもしれない」とは違ったことばになっている。とても自然だ。そこに音楽がある。
 二連目は、一連目の変奏。「イメージ」というか、まだ「意味」になっていないものを整えるように「意味」が動いていく。

ひとつのことばのたねのなかには
きがもりがまちがひそんでいた
ひとつのことばのたねのなかで
ものがたりがはじまりをまっていた

 これは「ひとつのことば=ぼく」のなかに「そら」がひそんでいた。「あした」がひそんでいた、ということ。「ぼく」ということばから、「そら」と「あした」があふれだし「ものがたり」になっていこうとしている、という「意味」である。
 三連目は「ものがたり」がさらにひろがる。

どろだらけのしゃつ
ぬりえのかいじゅう
おとうさんのおさけくさいくしゃみ
おかあさんのおろおろ
あさやけゆうやけをくりかえし
やがてぼくはおおきなふねをつくるだろう
さがしあてたいせきのかべをよじのぼるだろう

 最初の二行は「ぼく」の現実。ここでは「動詞」が省略されている。三行目、四行目も体言止めでイメージが飛躍していく。「おさけくさい」とか「おろおろ」とか、こどもが「肉体」で反応してしまうものが、最初の二行のはつらつとした「ぼく(こども)」とは対照的だが、それが「陰影」になって「やがて……」の二行を支える。大きな「ものがたり」をつくりはじめる。
 このあたり、谷川俊太郎がまねしそう。(覚が谷川の影響を受けているというよりも、谷川がここから影響を受けて次の詩を書きそう。そういうことを感じさせる。)
 ここは「起承転結」の「転」だね。イメージを拡大して、次の四連目「結」でもう一度「意味」を語る。そのときの「意味」は一連目、二連目で語った「意味」を突き破っている。突き破ることで「結晶」になっている。

どんなげんじつもつくりおこせる
いつもはじまりはひとつのことばだから
しずかなゆきのはらをひびきわたる
おおかみのとおぼえのような

 一、二行目で「意味」を強烈に語り、そのあと三、四行目で「意味」を壊して、解放する。「雪の原」「狼の遠吠え」。美しい。「おおかみ」のなかに「ぼく」がいて、「ゆきのはら」に「そら」がいる。それをつなぐ「とおぼえ/ひびきわたる」。「とおぼえ」は「名詞」だが「とおぼえをする」と「動詞」にしてとらえると「ぼく」の「あした」が強烈になる。「ぼく」が「ものがたり」をつくっていくことが実感できる。
 この「ぼく」から「おおかみ」の変身。それが「からだをもらう」という詩のなかで、突然よみがえってくる。「からだをもらう」という詩を読んだとき、私は「はじまりはひとつのうた」を思い出した。

ひとつ前がだれだったのか、もう忘れた
からだを持っていたとき
わからないことだらけだったそのことが
苦もなく全部わかってしまい
それをまた全部忘れて
もういちど からだをもらう
何度目かの 創作
は 反復ではないはずだ

 「輪廻転生」を書いていると考えてもいいかなあ。「ぼく」は「おおかみ」になった。それは「おおかみ」から言わせれば、「ひとつ前」は「ぼく」だった、ということだろう。その「ぼく」のからだが持っていたものは、全部忘れた。いまは「おおかみ」のからだを生きている。その変化(変身/転生)の瞬間に、あらゆることを「わかった」。それが「輪廻転生」の「思想」の核なのかもしれない。
 でも、こういうことを考えるのは、ちょっとうるさくて、めんどうくさい。
 私が「はっ」としたのは、

もういちど からだをもらう
何度目かの 創作
は 反復ではないはずだ

 この三行。「反復」とは、先に私が「繰り返し」ということばで言い表したもの。それを覚は「反復ではない」と言っている。
 「創作」だと言っている。
 繰り返すのは、何かを生み出すため。あるいは何かに生まれ変わるため。「何か」とあいまいに言ってしまうのは、それは「音楽」のように「抽象」と「具象」がからみあったものだから。音楽は「楽譜」のなかにもあるだろうけれど、それは具体的に「音」として表現されてひろがっていく。
 「楽譜」と「演奏された音」をむすびつけるのが「音楽」、ひとつになったのが「音楽」だね。

 「かりんとかたつむり」はタイトルそのもののなかに「か」の繰り返しの音楽があって誘い込まれる。この繰り返し(反復)も、実は「創作」。覚によってつくりだされたもの、生み出されたものということになるだろう。
 その一連目。

愛のことは知らない
なのに
かりんの実が路地に匂って立ちどまるとき
歩道橋から潮を待つとき
お客を送り出して窓ぎわに座るとき
そこにいないあなたで
私はいっぱいになった

 繰り返される「……のとき」。「放心するとき/放心したとき」といいなおすことができるかもしれない。その「放心」というからっぽが「あなた」でいっぱいになる。
 それが、「愛」。
 「愛」というのは、それが何であるか、どういうものであるか問題にし、語ろうとすると「何も知らない」ものに思えてくる。語ると、さらに「わからなくなる」。でも、その「わからない/知らない」と言っているひと(覚)を見ると、あ、このひとは愛を知っている、わかっている、と感じる。
 愛を「生きている」と感動する。
 この詩は、そういう感動を与えてくれる。
はじまりはひとつのことば
クリエーター情報なし
港の人
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