詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

内田麟太郎「ターザン」

2017-01-27 11:14:56 | 詩(雑誌・同人誌)
内田麟太郎「ターザン」(「zero」6、2016年12月28日発行)

 内田麟太郎「ターザン」は、感想をまとめるのがむずかしい。こういうときは「まとめる」のではなく、散らかして書く。

綾子さんは遊廓生まれで
母さんが五人も変わったから
よく鬱病になりもう三年も同窓会には出て来ない

 ここから「古里」の話が始まる。

遊廓のすぐ裏は大牟田川で
いつも赤い脱脂綿が無造作に投げ込まれていたが
満潮がぷかぷかと川面に浮かべ
浮かべて運び
運んで沈めて
有明海の海にまぜてくれていた

その有明海のムツゴロウが
一斉に宙にはねたのは
(たぶん)
海の下で炭塵爆発があったからだ
四五八名が死に
八三九名がアホ・バカ・インポにされ
お雇いの九大教授は
「脳溢血だ」といいはったけど
男たちの脳は左右同時に壊れていた

 「遊廓」がある炭鉱の街。炭鉱労働者が「遊廓」を必要とした。その炭鉱で事故があった。三池炭鉱の事故を指しているのだと思う。「四五八名」「八三九名」の具体的な数字が強烈である。忘れることができない。その直後に「アホ・バカ・インポ」という「口語」が出てくる。誰でも一度聞いたら覚えてしまうことば。それと同じ強さで「四五八名」「八三九名」は内田の「肉体」に刻み込まれている。私は「四五八名」「八三九名」の数を間違えるが、内田は「アホ・バカ・インポ」と同じ感じで、いつでも「肉体」のなかから、その数字が出てくる。
 それは大牟田川に浮いていた「赤い脱脂綿」と同じように、いつもくっきりと見える。「ぷかぷか」「浮かべて運び/浮かべて沈めて」。しかし、沈んでも「見える」。言い換えると、ことばにならずにはいられない。ことばにせずにはいられない。
 「怒り」だから、「沈んで」消えるということはない。「アホ・バカ・インポにされ」の「され」に「怒り」がこもっている。自分でなったのではない。「された」。それは忘れることができない。
 最終連は、こうである。

あれから半世紀
アホ・バカ・インポにされた男たちは
右脳も左脳も一切平等ナミアミダブツ
満ち潮引き潮の大牟田川を
ぷかぷか
ぷかぷか
行ったり来たり
ときどきにも
女の名前を思い出せないで
「アー アー アー」
ワイズミューラーだったよね

 「怒り」は忘れないけれど、同時に「生きている」ことも忘れない。生きるとは「平等」ということ。死の前で人間は平等。
 「右脳も左脳も一切平等ナミアミダブツ」は「脳溢血といいはった」お雇いの九大教授を笑い飛ばす。つまらない「欲」にしばられて生きている「知性」をたたき壊す。。
 「アホ・バカ・インポ」と言い合う人間は、互いを罵り合いながらも、互いを尊敬している。それが「平等」ということばになっている。「ナミアミダブツ」ということばでつながっている。「ナムアミダブツ」の「意味」はわからなくていい。そう唱えれば、みんな平等、みんな死ねる。極楽へゆける。「欲」という「区別」を取っ払って生きる。
 「ナムアミダブツ」だから死んでいるのに、なぜか、「生きている」という強い感じがある。「アホ・バカ・インポ」も、いわば死(知性の死、性器の死)なのに、なぜか「生きている」ものを感じさせる。死を超えて生きている「強さ」を感じさせる。生と死の区別を取っ払い、なお生きようとする力といえばいいのか。
 この不思議な力は、組織化されていない。組織化できない。「ぷかぷか/ぷかぷか/行ったり来たり」。怒ったり、悲しんだり、まだ生きているぞと、「底力」となって動いている。
 「アホ・バカ・インポ」になっても、男は女の名前を呼んだりする。ことばにならない。声にならない。

「アー アー アー」
ワイズミューラーだったよね

 思い出せない女の名前を呼ぶときに、「アホ・バカ・インポ」の男は、自分もターザンだったと思い出している。ターザンだったことを肉体が覚えている。
 「肉体」が覚えている「底力」の美しさを感じる。

さかさまライオン (絵本・ちいさななかまたち)
内田 麟太郎
童心社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする