詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市「厭世」

2017-01-04 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「厭世」(「現代詩手帖」2017年01月号)

 粕谷栄市「厭世」は、こう始まる。

 へちまが好きだ。九月の風に吹かれて、のんびり、揺
れているへちまが好きだ。一本一本、蔓からぶら下がっ
て、ふらふら、揺れているへちまが好きだ。

 へちまが好き、ということ以外は何も書いていない。「九月の風に吹かれて」が「一本一本、蔓からぶら下がって」と言いなおされ、「のんびり」が「ふらふら」と言いなおされている。言いなおされることで何かが変わったわけではない。

 みんな揃って、それぞれが、思い思いに、ふらふら、
揺れているへちまが好きだ。少しひねくれて曲がったま
ま、風に吹かれている、その一本も好きだ。

 「それぞれ」は「少しひねくれて曲がったまま/その一本」と言いなおされている。でも、何かがかわったという印象はない。
 さらに、

 そして、毎日、そららを、ぼんやり、窓から見ている
男も好きだ。毎日、ただ、ふらふら、蔓からぶら下がっ
ているへちまをみているだけの男が好きだ。

 「男」は粕谷とは別人とも受け取れるし、粕谷自身とも受け取れる。粕谷自身だろうなあ。へちまを見ている男を毎日見ているなんていうのは、まるでへちまになった感じじゃないか。
 と書いて思うのだ。
 そうか、何かを書くことは何かになることなのだ。
 粕谷は「へちま」になってしまっている。「へちまを見る男」になってしまっている。そして「完結する」。

 それで、よく暮らしていられると思うが、その男は、
そうしているほかないのだ。たぶん、少し変わった病気
に罹っているのだ。一生、ふらふら、揺れているへちま
を見ているしかない病気だ。

 「完結」を「病気」という。
 そうだろうなあ。人間というのは「完結」しない。どうしても、どこかへつながって、広がっていく。自分を開いていく。開いていかなければ、閉じたまま。そこでおしまい。
 「病気」はこう言いなおされる。

 その男が好きだ。どんな事情からにせよ、あまりに永
く、へちまばかり眺めていたために、へちまそっくりの
長い顔になってしまった、その男が好きだ。

 これは、前に書いたことの言い直しでもある。男がへちま「そっくり」になる。へちまになる、と言い換えてもいい。人間なのにへちまになるのだから「病気」。

 そんなことがあるわけがない。ばかばかしいと言われ
るかも知れない。けれども、九月の風に吹かれて、ふら
ふら、揺れているへちまが好きだ。いつも、それを見て
いる、へちまそっくりの顔をした男も好きだ。
 この世が、厭になって、一度、死んでしまえば、そう
していられるのかも知れない。そうなのだ。そのへちま
そっくりの、一度、死んだ男になって、そう思うのだ。

 「病気」のあとは「死ぬ」。
 おもしろいのは、死んだらおしまいなのに、生き返っていること。「一度、死んだ男になって、そう思うのだ。」は正確には、

一度、死んだ男になって、「生き返って」そう思うのだ。

 だろう。
 書くことは「生き返ること」でもある。

 「へちま」を「詩」と読み替えてみるといいかもしれない。
 「へちま」のように「無意味/無価値」にふらふらしている詩。それが好き。詩になって生きるとき、「ふつうの男」は死ぬ。死ぬことで「生き返る」。そういう自画像を書いている。
 繰り返し同じことをする。同じことなのに、飽きることがない。「飽きずに同じことをする」のは世間から見れば「厭世」かも。
 「結論」は出さなくていい。ぼんやりと、風に吹かれるへちまをみるように、詩をぼんやりと見つめていればいいのだろう。





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