粕谷栄市「厭世」(「現代詩手帖」2017年01月号)
粕谷栄市「厭世」は、こう始まる。
へちまが好き、ということ以外は何も書いていない。「九月の風に吹かれて」が「一本一本、蔓からぶら下がって」と言いなおされ、「のんびり」が「ふらふら」と言いなおされている。言いなおされることで何かが変わったわけではない。
「それぞれ」は「少しひねくれて曲がったまま/その一本」と言いなおされている。でも、何かがかわったという印象はない。
さらに、
「男」は粕谷とは別人とも受け取れるし、粕谷自身とも受け取れる。粕谷自身だろうなあ。へちまを見ている男を毎日見ているなんていうのは、まるでへちまになった感じじゃないか。
と書いて思うのだ。
そうか、何かを書くことは何かになることなのだ。
粕谷は「へちま」になってしまっている。「へちまを見る男」になってしまっている。そして「完結する」。
「完結」を「病気」という。
そうだろうなあ。人間というのは「完結」しない。どうしても、どこかへつながって、広がっていく。自分を開いていく。開いていかなければ、閉じたまま。そこでおしまい。
「病気」はこう言いなおされる。
これは、前に書いたことの言い直しでもある。男がへちま「そっくり」になる。へちまになる、と言い換えてもいい。人間なのにへちまになるのだから「病気」。
「病気」のあとは「死ぬ」。
おもしろいのは、死んだらおしまいなのに、生き返っていること。「一度、死んだ男になって、そう思うのだ。」は正確には、
だろう。
書くことは「生き返ること」でもある。
「へちま」を「詩」と読み替えてみるといいかもしれない。
「へちま」のように「無意味/無価値」にふらふらしている詩。それが好き。詩になって生きるとき、「ふつうの男」は死ぬ。死ぬことで「生き返る」。そういう自画像を書いている。
繰り返し同じことをする。同じことなのに、飽きることがない。「飽きずに同じことをする」のは世間から見れば「厭世」かも。
「結論」は出さなくていい。ぼんやりと、風に吹かれるへちまをみるように、詩をぼんやりと見つめていればいいのだろう。
粕谷栄市「厭世」は、こう始まる。
へちまが好きだ。九月の風に吹かれて、のんびり、揺
れているへちまが好きだ。一本一本、蔓からぶら下がっ
て、ふらふら、揺れているへちまが好きだ。
へちまが好き、ということ以外は何も書いていない。「九月の風に吹かれて」が「一本一本、蔓からぶら下がって」と言いなおされ、「のんびり」が「ふらふら」と言いなおされている。言いなおされることで何かが変わったわけではない。
みんな揃って、それぞれが、思い思いに、ふらふら、
揺れているへちまが好きだ。少しひねくれて曲がったま
ま、風に吹かれている、その一本も好きだ。
「それぞれ」は「少しひねくれて曲がったまま/その一本」と言いなおされている。でも、何かがかわったという印象はない。
さらに、
そして、毎日、そららを、ぼんやり、窓から見ている
男も好きだ。毎日、ただ、ふらふら、蔓からぶら下がっ
ているへちまをみているだけの男が好きだ。
「男」は粕谷とは別人とも受け取れるし、粕谷自身とも受け取れる。粕谷自身だろうなあ。へちまを見ている男を毎日見ているなんていうのは、まるでへちまになった感じじゃないか。
と書いて思うのだ。
そうか、何かを書くことは何かになることなのだ。
粕谷は「へちま」になってしまっている。「へちまを見る男」になってしまっている。そして「完結する」。
それで、よく暮らしていられると思うが、その男は、
そうしているほかないのだ。たぶん、少し変わった病気
に罹っているのだ。一生、ふらふら、揺れているへちま
を見ているしかない病気だ。
「完結」を「病気」という。
そうだろうなあ。人間というのは「完結」しない。どうしても、どこかへつながって、広がっていく。自分を開いていく。開いていかなければ、閉じたまま。そこでおしまい。
「病気」はこう言いなおされる。
その男が好きだ。どんな事情からにせよ、あまりに永
く、へちまばかり眺めていたために、へちまそっくりの
長い顔になってしまった、その男が好きだ。
これは、前に書いたことの言い直しでもある。男がへちま「そっくり」になる。へちまになる、と言い換えてもいい。人間なのにへちまになるのだから「病気」。
そんなことがあるわけがない。ばかばかしいと言われ
るかも知れない。けれども、九月の風に吹かれて、ふら
ふら、揺れているへちまが好きだ。いつも、それを見て
いる、へちまそっくりの顔をした男も好きだ。
この世が、厭になって、一度、死んでしまえば、そう
していられるのかも知れない。そうなのだ。そのへちま
そっくりの、一度、死んだ男になって、そう思うのだ。
「病気」のあとは「死ぬ」。
おもしろいのは、死んだらおしまいなのに、生き返っていること。「一度、死んだ男になって、そう思うのだ。」は正確には、
一度、死んだ男になって、「生き返って」そう思うのだ。
だろう。
書くことは「生き返ること」でもある。
「へちま」を「詩」と読み替えてみるといいかもしれない。
「へちま」のように「無意味/無価値」にふらふらしている詩。それが好き。詩になって生きるとき、「ふつうの男」は死ぬ。死ぬことで「生き返る」。そういう自画像を書いている。
繰り返し同じことをする。同じことなのに、飽きることがない。「飽きずに同じことをする」のは世間から見れば「厭世」かも。
「結論」は出さなくていい。ぼんやりと、風に吹かれるへちまをみるように、詩をぼんやりと見つめていればいいのだろう。
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