谷口鳥子『とろりと』(金枝雀舎、2020年10月31日発行)
谷口鳥子『とろりと』はたいへんおもしろい詩集だ。今年読んだ詩集の中では最高傑作と言っていい。いろいろなスタイル(形)があるのだが特に行頭がそろっていない作品が印象に残る。このブログではことばの配置をそのまま再現することがむずかしいので、すべて行頭をそろえた形で引用する。(正しい形の作品は詩集で確認してください。)
何がおもしろいか。
ことばがことばのまま、意味にならずに、そこにある。
たとえば「足ゆび」。
だんご虫みたいに
まるまって足ゆび
紫のカーテン少しだけめくり
月見えるときだけ月 見上げ
吸いこんで細ク白ク
白糸で五本指ソックスの穴かがる
うごけうごけうごけ パーのできない足のゆび
足ゆびに線くにゃり
おしこめられている
朝ノ空気ウゴキダス前ニ線ハ字ニナッテ詩ニナッテ線ハ
ベランダの柵を抜け壁をつたい舗道の目地じぐざぐ
信号機にまきつき見えなくなって月のほうへ
黄色い線の内側に
二列に並んでいる
夜、五本指ソックスの穴をかがっている、ときのことを描いているのか。「意味」はなんとでも「捏造」できる。つまり、私自身に引きつけて「誤読」できる。その穴をかがったソックスを履いて誰かが朝出かけていく。谷口ともとれるし、別の人ともとれる。私はただなんとなく、そのひとを見送っている感じを受け止めるので、谷口ではない人(でも、身内だね)が谷口につくろってもらった靴下を履いて外出していく、そのひとを谷口はそっと見守っているという「情景」を「意味」として「誤読」する。
まあ、こんなことはどうでもいい。どうでもいいと書くと語弊があるが、「詩」はそんなところにはない。「詩」は「意味」ではない。つまり「説明」ではないからだ。
詩は、たとえば書き出しにある。
だんご虫みたいに
まるまって足ゆび
これは、
うごけうごけうごけ パーのできない足のゆび
と言い直されているが、たしかに足の指は手の指ほどには器用に動かない。丸まっている。でも、それがどうした? 何か困る? いや、困る人もいるだろうけれど、そしてこの靴下の持ち主はきっとそういうことで困ってもいるのだろうけれど、困っていること(また、谷口がその困っていることに対して親身になっていること、だからこそ穴をつくろっている)を忘れて、その「だんご虫みたい」と「まるまっている」とか「うごけうごけうごけ パーのできない足のゆび」ということばそのものに引きつけられる。
「意味」はあるかもしれないが、「意味」になる前の、「ただのことば」がある。それは先に書いた「困っていること/気にかけていること」が、ふとことばにならない何かのなかからひっぱりだした「思いつき」なのだが、この「思いつき」に何とも言えない深い温かさがある。
それは
足ゆびに線くにゃり
というような表現に、不思議な形で結晶している。「足ゆび」が「くにゃり」としているのかなあ。穴をつくろったときの「線」が「くにゃり」としているのかなあ。もし、「線」が「くにゃり」としているとしたら、それは谷口のつくろいかたがへたくそだったからかなあ。それとも足ゆびに問題があってまっすぐな線も「くにゃり」とさせてしまうのかなあ。
この詩には谷口だけのことばが書かれているように見えるが、もしかすると、ここには対話があるかもしれないな、と思う。
「ほら、穴は塞がったよ。履いてみて」
「みっともないなあ。線がくにゃりとしてる」
「それは、あなたの足の指がくにゃりとしているから。だんご虫みたいに/まるまってる。この足ゆびのせい」
こんな会話があるのかもしれない。
もちろん、こんな「ストーリー」は「誤読」。
「誤読」とわかっていて感想をつづけるのだが、誰かと何かを「共有」していて、その何かを「共有」することによってはじめて引き出される「ことば」、受け入れられる「ことば」というものがある。そのときの「共有」の深さというのか、ひろがりというのか。なんと言っていいのかわからないのだが、一緒に生きていることによって動くものがある、そしてそれは「意味」にしなくても(散文のように、主語、述語、目的語、補語というテキストやストーリーにならなくても)、「もの」のように存在する。あるいは、「穴のあいたソックス」「穴をつくろったソックス」のように存在する。「あれ取って」「あ、あれ」という慣れ親しんだひとの「あれ」のように「具体的」なのものとして存在してしまう。
そういうことを感じるのである。
ベランダの柵を抜け壁をつたい舗道の目地じぐざぐ
というのは「線」の描写のようでもあり、穴をつくろった靴下を履いてあるいていくひとの足どりのようでもある。「壁をつたい」というのは「壁をたよりに」とも読むことができるし、そういう足どりだからこそ「じぐざぐ」というようなことばも動くのだろうと思う。
黄色い線の内側に
二列に並んでいる
というのも信号が変わるまで待っている感じだなあ。「青信号を待っている」と書くと「意味」になってしまうが、その「意味」を「足ゆび」と「ソックス」にひきもどして、そこに存在させてしまう。
それは実際に見えるものではなくても(つまり、靴を履いてしまえば、穴のつくろいなど見えないからね)、谷口には見える。
ほんとうは(というか、客観的には)見えないものが、谷口のことばによって見えるものとして、いまここにある。それが「ことば」。それが「詩」。
もう一篇。「音」。
魚屋でイカ買い
踏切超えると
賑やかにくりかえす宝くじ屋の宣伝
二つ目の角 右に折れ
裏まわると細長い庭
腰丈の物干に
一人分の洗濯物 奥からおっちゃんの声
来たか
やるか
斧買い換えたんや
いけるか
重いで
丸太の上に丸太 どガッと
斧握り
振り おろす
ガ ゴッ
虫くってるやつは ス ごッ
(燃えたら一緒や)
瓶の肩の薄い埃払って
注ぐ芋焼酎 一息あとに
とくっ ととくッ
生きかえったみたい
(燃えたら一緒やな)
おっちゃん
イカやけたで
「おっちゃん」の知り合いが酒の肴(イカ)を買ってきて、なんと、薪を割って火をおこし、イカをあぶって焼酎を飲んでいる。そういう「意味/ストーリー」を捏造するのはとても簡単。
でも、そういう「ストーリー」ではなく、「来たか/やるか」「いけるか/重いで」という二人のやりとりがとてもおもしろい。「やるか」は「いっぱいやるか」の前の、薪を割るかということなのだが、それは読んでいる内にわかる。これは読者が読んでいる内にということであって、会話しているひとは「薪を割る」という行為が「共有」されているので、そのことばを省略してしまうのだ。
それがないと意味が通じないのに、つい省略してしまうことば、本人にはわかりきっていることば(肉体になってしまっていることば)を私は「キーワード(思想のことば)」と呼んでいるが、ここでは酒の肴をあぶるために薪を割る、ということが「肉体の思想」になっている。そしてそれが「共有」されている。そこには「斧は重い」というようなことも「共有」されている。だから、ことばは「必要最小限」のものだけが「ことば」として投げ出される。
虫食いの丸太は簡単に割れるとか、そういう一仕事をしたあとの焼酎はうまいとか、「意味」を書かずに、その瞬間に、「肉体」からあふれだすことば、肉体から聞いた音を「もの」として、そこに存在させる。
(燃えたら一緒やな)
この一行は、二度くりかえされる。最初は薪のことを言っているが、二度目は私には、火葬場でのひとの会話のようにも見える。そうすると「虫くってるやつ」というのは病魔におかされている「おっちゃん」と「誤読」できる。
おっちゃん
イカやけたで
は、そこにはいない「おっちゃん」への呼び掛けに「誤読」できる。でも、そういう「意味」はどうでもいい。「意味」よりも、「ことば」そのものの「響き」。「意味」を突き破って存在する響き。思わず、そう書いてしまうのは、「意味」は「捏造」できるが響きは捏造できないからだ。響きは、肉体をとおって声になるその瞬間にしか存在しない。そういう絶対的な響きを、そのまま、書きことば(印刷された文字)なのに、そこに出現させてしまう。
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