詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

さとう三千魚『山崎方代に捧げる歌』

2020-11-25 10:31:37 | 詩集


さとう三千魚『山崎方代に捧げる歌』(らんか社、2020年11月01日発行)

 さとう三千魚『山崎方代に捧げる歌』は歌人・山崎方代の短歌に触発されて書いた詩集。私は山崎方代を知らない。さとうの詩で初めて存在を知った。どの作品も、冒頭に山崎の歌を引き、そのあとさとうのことばが動く。

 「04」

とぼとぼと歩いてゆけば石垣の穴のすみれが歓喜をあげる

朝に
めざめて

モコを庭におろす

おしっこを
させる

モトは
いつも上目遣いに

わたしをみてしゃがんでする

朝には
高橋悠治のシンフォニア11を聴く

くりかえし聴く
それからモコと散歩にいく

 読んだ後、あ、さとうは犬との散歩のとき、山崎の見たすみれを見たのか。同じ体験をしたのか、と思う。とぼとぼと歩く散歩なのだろう、というようなことも思う。
 犬が上目遣いにみあげながらおしっこをするというのは、「上目遣い」がこまかな描写で、そのことばのなかに、さとうと犬の交流(関係)がうかがえて楽しい。散歩にゆくのだから、散歩まで待てばいいのかもしれないが、その待つということが厳しくなっている犬、老犬なのかもしれないなあ、と思ったりする。
 最後の「くりかえし聴く」は毎日繰り返しなのか、その朝何度もなのか、ちょっと判断に迷う。まあ、どっちでもいいことだけれど。
 どちらにしろ、すべてのことが「くりかえし」なのだ。
 そして、散歩に出た高橋は、いま山崎の歌を、少し違うかたちで「くりかえし」ている。みる花が「すみれ」ではなく、いまの季節なら石蕗かもしれない。なんであれ、とぼとぼ歩いて、そばに咲いている花を見て、「あ、すみれだ」「あ、石蕗だ」と思う。
 ことばは「くりかえす」ためにある。受け止めて、それを自分で言ってみるためにある。音楽もまた受け止めて、それを確かめるためにある。いぬのおしっこも、まあ、似ているかもしれない。
 「05」は、この詩のつづきなのかと思ってしまう。

一昨日の

朝も
モコと散歩にいった

赤紫の白粉花が
咲いていた

紫の朝顔も咲いていた

それから
仕事にでかけていった

こだまから
青い海をみていた

素数の椅子に座る
青い海が平らにひろがっていた

 「素数の椅子」というのは座席番号が「素数」という意味だろう。ちょっとこのことばの展開だけが非日常的だが、私の知らない日常をさとうが生きているのだろう。
 ということを別にすれば、散歩の途中で花を見つけるのは「04」と同じだなあ、と思う。
 でもこの詩は、

ネクタイに首をくくりていでくれば町は働く人ばかりなり

 という歌に捧げられた詩なのである。
 さとうもネクタイを締めて仕事に出た、ということなのだろうが、「04」に捧げられた詩だとしても違和感はないだろうと思う。
 たぶん、ここが大事なのだと思う。
 ほんの少しの違い。しかし、それは私から見たほんの少しの違いであって、さとうには大きな違い。でも、そのことがちがっていたからといって、特に問題になるわけでもない。そういう世界を私たちは生きている。そして、そのとき何に目を向けるか。他人とどう生きるか、ことばとどう生きるか。考えるとややこしいが、ややこしいことは、ぼんやりとやりすごせばいいのだろう。
 くりかえしていれば、何かがなじんでくる。
 「17」は、こんな詩。

柚子の実がさんらんと地を打って落つただそれだけのことなのよ

土曜日だったのかな
今日は

夜中にタクシーで帰った

今朝
車を取りにいった

用宗でラーメンを食べた
それから海辺のプールで五百二十m 泳いだ

夕方
ビールを飲んで

眠った

いまペルトを聴いている

 すべては「それだけのことなのよ」。でも、山崎の「さんらんと」という表現は「それだけのこと」ではなく、何か、重大な「発見」である。しかし、それにしたって「それだけのこと」ということもできる。「それだけのこと」というとき、こころは何にもとらわれていない。あるがままを受け入れている。このあるがままを受け入れ、それを自分のことばにしてみる、ということでさとうは山崎と向き合っているのだろう。
 で、そのあるがまま、なのだけれど、あるがままと簡単にいってしまうけれど、実は微妙。
 さとうは「用宗」(たぶん店の名前)にこだわっている。「五百二十m」という中途半端な数字にこだわっている。「ペルト」にこだわっている。それがさとうにとっては「あるがまま」なのに、きちんとことばにする。
 そして、このとき、そこには「嘘」がまったくない。うそがないから「あるがまま」というのだが、これはむずかしいぞ、と私は感じる。
 むずかしいところを、さとうは、軽く乗り越えている。ほんとうは「軽く」ではないのかもしれないが、重く感じさせないで乗り越えている。前作の『貨幣について』(傑作!)も同じだ。とても正直な詩人なのだと思う。






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「桜」の行方/答弁してもらった?(情報の読み方)

2020-11-25 08:26:03 | 自民党憲法改正草案を読む
「桜」の行方/答弁してもらった?(情報の読み方)

 2020年11月25日の読売新聞(西部版・14版)の1面。「桜を見る会前夜祭」の続報。気になる点がふたつ。

「桜」前夜祭/安倍氏側 領収書破棄か/不足分 周辺者、補填認める

 安倍晋三前首相(66)側が主催した「桜を見る会」の前夜祭を巡り、安倍氏側が費用の一部を補填した際、会場のホテル側から受け取った領収書を廃棄していた疑いのあることが関係者の話でわかった。東京地検特捜部は安倍氏側の補填額が昨年までの5年間で計800万円超に上るとみており、政治資金規正法違反(不記載)容疑などでの立件の可否を検討している。

 これが、見出しと前文。
 23日の第一報(特ダネ)では、「容疑」の部分を、こう書いていた。

 前夜祭を巡っては、市民団体や法曹関係者ら複数のグループが、政治資金規正法違反や公職選挙法違反の容疑で告発状を提出していた。

 24日続報でも、こう書いていた。

 前夜祭を巡っては、差額分を安倍氏側が補填していたのではないかと野党が追及。市民団体なども政治資金規正法違反や公職選挙法違反の容疑で特捜部に告発状を提出していた。

 23日、24日の報道では「政治資金規正法違反や公職選挙法違反の容疑」となっているが、きょう25日の紙面では「政治資金規正法違反(不記載)容疑など」となっており、「公職選挙法違反の容疑」が消えている。
 もちろん「消えている」といっても「など」に「公職選挙法違反」が含まれると「説明」はできる。
 でも、「政治資金規正法違反(不記載)」と「公職選挙法違反」では問題の重さが違うだろう。書類への「不記載」はいつでも「記載漏れでした。修整します」ということができる。実際、そういう事例がこれまでもたくさんあるのではないか。しかし「公選法違反(たぶん、買収)」となれば「お金を補填することが買収にあたるとは知りませんでした」とは「言い逃れ」できない。
 だからこそ、これまで安倍は「安倍(事務所)はいっさい支出していない」と言ってきた。
 で、この「報道の仕方」からわかることは、読売新聞の追及が「政治資金規正法違反(不記載)」に傾いている、「政治資金規正法違反(不記載)」の範囲内で問題をかたづけようとする「方針」(だれの方針かは、いまのところわからない)に加担しているのではないか、ということだ。
 これは見出しの「主語」が「安倍氏側」「周辺者」ととっていることからもわかる。書類をつくっているのは安倍自身ではなく、「事務所の職員」である。見出しでは、このあたりを強調するために「安倍氏側」の「側」をわざわざ「周辺者」と言い直している。「安倍氏側」というのは「安倍氏ではなく、その側(そば)にいる人」という意味であり「「側にいる人」は「周辺者」である。新聞の見出しは、基本的に短さを目指すはずである。同じ「主語」を二度繰り返す必要はない。「主語」をことばを変えて繰り返すくらいなら、かわりに「800万円」を補って、

800万円、補填認める

 とすべきだろう。もちろん「800万円」はまだ「推計」であり、「安倍側」が「認めた」のは「補填」という事実だけであり、金額には触れていない、ということなのだろうが……。また、「800万円」はすでに24日に、

安倍氏側 800万円超補填か/東京地検 「桜」前夜祭 5年間

 と報道しているから省略したと言うこともできるが。
 で、ここで問題になるのは、やはり、何を省略したか、なのだ。
 「10万円」でも「800万円」でも「補填」は「補填」。しかし、読者の印象は違うだろう。
 だからこそ、私は、こういう部分に「忖度」を感じるのだ。「800万円」を省略し、「政治資金規正法違反(不記載)」を強調するために、「安倍氏側」「周辺者」を繰り返す書き方に。
 記事は、こんな書き方をしている。(番号は私がつけた。)ここからが、気になった点のふたつめ。読売新聞は、とてもおもしろい書き方をしている。

①24日に取材に応じた安倍氏周辺によると、前夜祭の問題を巡り、安倍氏が事務所の担当者に対し、事務所で差額を補填していないかどうかを確認した際、担当者は「支出はしていない」と虚偽の説明をしていたという。
②安倍氏は昨年11月の参院本会議で、前夜祭の費用に関して「後援会としての収支は一切なく、政治資金収支報告書に記載する必要はない」と答弁していた。安倍氏周辺は、「収支報告書に記載していなかったため、そういう答弁をしてもらう以外にないと判断した」としている。
 
 ともに、安倍には問題はない、という書き方である。
①は、安倍が事務所に問い合わせたら、担当者は虚偽の説明をした。つまり騙されたのは安倍である。安倍は進んで虚偽を語ったわけではない。
②も、周辺(①では担当者)が、不記載を隠すために「そういう答弁をしてもらう以外にないと判断した」という。ここでも「主語」は安倍ではない。悪いのは「周辺(者/担当者)」であり、安倍は進んで虚偽答弁をしたのではない、と「弁護」していることになる。
 それにしても。
 ②の最後の記事の「周辺(者)」の「説明」が非常に長いのが、なんといっても不自然である。「答弁をしてもらう」と「もらう」という表現も、非常におかしい。
 「もらう」というのは、私の感覚ではふたつの方法がある。ひとつは、自分が不都合なことをした場合、それを「隠蔽して」と頼んで、隠蔽「してもらう」。もうひとつは、「隠蔽して」と頼んだわけではないが、相手が「忖度して」くれた。後者は、ふつうは「してくれた」という。「もらう」ではなく「くれた」。これは「主語」をどう認識するかという問題がからんでくる日本語特有の微妙な表現なのだが、「もらう/くれる」にしろ、そこには単なる「事実」ではなく「心理」が動いている。「周辺(者)」が「もらう」という表現をつかっているかぎり、そのとき、そこには安倍と周辺(者)の間で「交渉」があったのだ。どうしたって、安倍は、「事実」説明だけではなく、「事情」説明も知っているはずである。
 そして、それは周辺(者/担当者)が独断でやれることではないだろう。「800万円」の金が動いている。簡単に言い直せば、「800万円」補填するということは、会計に「800万円」の赤字が発生することである。そういうことを「黙って」担当者がやれるのか。責任者が支持しないかぎり、できないだろう。
 読売新聞の記事の書き方は、そういうことを「暗示」しているとも言えるが、知っていてそれを隠すために複雑な書き方をしているともいえる。

 しかし、まあ。
 今回の読売新聞の「手柄」は「そういう答弁をしてもらう以外にないと判断した」という周辺(者)の声を引き出し、「正確に」再現しているところにあるのかもしれない。周辺(者/担当者)、つまり、部下が、安倍に「答弁をしてもらった」。「もらった」としか言いようのないことがあったとつたえていることだ。
 くりかえすが、「もらう」というのは、かなり日本語独特の含意の多いことばである。そういうことばが、一面の記事にまぎれこんでいるのは、たいへんたいへんたいへん、おもしろいことである。この「もらう」ということばが、安倍自身の「関与」を濃厚に浮かびあがらせるからである。「周辺(者/担当者)」説明を鵜呑みにして、安倍が知らずに間違った答弁をしたときは、それ「してもらう(してもらった)」とは言わないからである。





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