さとう三千魚『山崎方代に捧げる歌』(らんか社、2020年11月01日発行)
さとう三千魚『山崎方代に捧げる歌』は歌人・山崎方代の短歌に触発されて書いた詩集。私は山崎方代を知らない。さとうの詩で初めて存在を知った。どの作品も、冒頭に山崎の歌を引き、そのあとさとうのことばが動く。
「04」
とぼとぼと歩いてゆけば石垣の穴のすみれが歓喜をあげる
朝に
めざめて
モコを庭におろす
おしっこを
させる
モトは
いつも上目遣いに
わたしをみてしゃがんでする
朝には
高橋悠治のシンフォニア11を聴く
くりかえし聴く
それからモコと散歩にいく
読んだ後、あ、さとうは犬との散歩のとき、山崎の見たすみれを見たのか。同じ体験をしたのか、と思う。とぼとぼと歩く散歩なのだろう、というようなことも思う。
犬が上目遣いにみあげながらおしっこをするというのは、「上目遣い」がこまかな描写で、そのことばのなかに、さとうと犬の交流(関係)がうかがえて楽しい。散歩にゆくのだから、散歩まで待てばいいのかもしれないが、その待つということが厳しくなっている犬、老犬なのかもしれないなあ、と思ったりする。
最後の「くりかえし聴く」は毎日繰り返しなのか、その朝何度もなのか、ちょっと判断に迷う。まあ、どっちでもいいことだけれど。
どちらにしろ、すべてのことが「くりかえし」なのだ。
そして、散歩に出た高橋は、いま山崎の歌を、少し違うかたちで「くりかえし」ている。みる花が「すみれ」ではなく、いまの季節なら石蕗かもしれない。なんであれ、とぼとぼ歩いて、そばに咲いている花を見て、「あ、すみれだ」「あ、石蕗だ」と思う。
ことばは「くりかえす」ためにある。受け止めて、それを自分で言ってみるためにある。音楽もまた受け止めて、それを確かめるためにある。いぬのおしっこも、まあ、似ているかもしれない。
「05」は、この詩のつづきなのかと思ってしまう。
一昨日の
朝も
モコと散歩にいった
赤紫の白粉花が
咲いていた
紫の朝顔も咲いていた
それから
仕事にでかけていった
こだまから
青い海をみていた
素数の椅子に座る
青い海が平らにひろがっていた
「素数の椅子」というのは座席番号が「素数」という意味だろう。ちょっとこのことばの展開だけが非日常的だが、私の知らない日常をさとうが生きているのだろう。
ということを別にすれば、散歩の途中で花を見つけるのは「04」と同じだなあ、と思う。
でもこの詩は、
ネクタイに首をくくりていでくれば町は働く人ばかりなり
という歌に捧げられた詩なのである。
さとうもネクタイを締めて仕事に出た、ということなのだろうが、「04」に捧げられた詩だとしても違和感はないだろうと思う。
たぶん、ここが大事なのだと思う。
ほんの少しの違い。しかし、それは私から見たほんの少しの違いであって、さとうには大きな違い。でも、そのことがちがっていたからといって、特に問題になるわけでもない。そういう世界を私たちは生きている。そして、そのとき何に目を向けるか。他人とどう生きるか、ことばとどう生きるか。考えるとややこしいが、ややこしいことは、ぼんやりとやりすごせばいいのだろう。
くりかえしていれば、何かがなじんでくる。
「17」は、こんな詩。
柚子の実がさんらんと地を打って落つただそれだけのことなのよ
土曜日だったのかな
今日は
夜中にタクシーで帰った
今朝
車を取りにいった
用宗でラーメンを食べた
それから海辺のプールで五百二十m 泳いだ
夕方
ビールを飲んで
眠った
いまペルトを聴いている
すべては「それだけのことなのよ」。でも、山崎の「さんらんと」という表現は「それだけのこと」ではなく、何か、重大な「発見」である。しかし、それにしたって「それだけのこと」ということもできる。「それだけのこと」というとき、こころは何にもとらわれていない。あるがままを受け入れている。このあるがままを受け入れ、それを自分のことばにしてみる、ということでさとうは山崎と向き合っているのだろう。
で、そのあるがまま、なのだけれど、あるがままと簡単にいってしまうけれど、実は微妙。
さとうは「用宗」(たぶん店の名前)にこだわっている。「五百二十m」という中途半端な数字にこだわっている。「ペルト」にこだわっている。それがさとうにとっては「あるがまま」なのに、きちんとことばにする。
そして、このとき、そこには「嘘」がまったくない。うそがないから「あるがまま」というのだが、これはむずかしいぞ、と私は感じる。
むずかしいところを、さとうは、軽く乗り越えている。ほんとうは「軽く」ではないのかもしれないが、重く感じさせないで乗り越えている。前作の『貨幣について』(傑作!)も同じだ。とても正直な詩人なのだと思う。
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