古井由吉『われもまた天に』(新潮社、2020年09月25日発行)
古井由吉の文体は、「ある」ということを「状態」として、つまり動かないままに定着させる。「ある」があるだけで、それがどう動いていくのか予測できない。また動いているようにも見えない。それなのに読み進むとたしかに「事件」は起きている。時間が過ぎ、そのなかで人間が動き変化している。
でも。
読み終わると、やっぱり「ある」だけがある。「静謐」となって、そこにある。しかも、不思議なことに、こんな激動を私はくぐり抜けられないと感じてしまうときの「静謐」なのだ。古井由吉が激動を静謐になるまで文体で(ことばで)おさえつけた結果として、ここに「静謐」がある。いま、私は「静謐」ということばをつかっているが、この「静謐」すらもないただならぬ動かないものが「ある」という感じに、私はうちのめされる。一種の恐怖心を感じる。でも、恐怖心を感じることがうれしくて、私は読んでしまう。
「遺稿」という未完の作品のなかに、こんな文章が出てくる。夢の中で、文章を「見る」。そのときのことを書いている。(125ページ)
横文字の時もあり、縦文字のこともある。どちらも読み取るように誘いながら、もうひと掴みのところで散乱する。とにかく音声が伴わないので、いくら読もうとしても読み取れないのだ、と恨みのようなものが後に残る。
こういう経験が、私にもある。中学生のころ、頻繁に見た。アルファベットが切れ目なく一ページくらいつづく。そんなことばがあるはずがないと思いながら辞書を引く。そうするとその文字らしいものがみつかるのだが、最後までたどりつくまえに文字がほどけてしまって確認できない。
なぜなんだろう。
古井由吉は「音声を伴わないので」と書いている。あ、そうだったんだ、と私は非常に納得してしまった。音が聞こえなかった。だから、ことばをつかみきれなかった。
このことの「激動」がどこにあるか。
「とにかく」ということばにある。「とにかく音声が伴わないので」。この「とにかく」を私は体験していない。いや、体験しているのだけれど「ことば」にできずにいた。「とにかく」のなかにある「もがき」が突然「激しく」私の肉体を「動かす」。
激しく動く、ではなく、激しく動かす。動かされる。その「激/動」、それが「激動」ということになる。それを誘う者が古井由吉のことばのなかにある。
それがそのまま「激動」として、つまり「動き」として「ある」のではなく、「恨み」という別のもの、内にこもったものとして「残る」。この「内にこもる」感じが「静謐」なのだ。
「いくら読もうとしても」の「いくら」が「とにかく」と呼応して、ことばの粘着力が非常に強くなっている。この粘着力の強さも「静謐」(動いているのに、動かない)という印象を誘う。
引用した「部分」は小説の「あらすじ/ストーリー」とは関係がないのかもしれないが、私は、古井由吉の、こういう文体が好きで読んでしまうのである。
そうか、あのとき「とにかく」と「いくら」が拮抗していたのか、と思い出すのである。そして、それは「覚えている」にかわる。覚えているという認識の中で、「静謐」が完成する。
古井由吉の「文体」のなかには、拮抗がある。そこに激動と静謐がある。この拮抗を、もっと「日常的なことば」(とはいうものの、私はつかわない)で言い直すと、こんなことばになるか。
117ページに、台風が過ぎた後の、湿気の多い日のことが書かれている。台風の後、電気も水道も来ない。
そんな窮地に自分のような者が置かれたら、とても持たないだろうなと思うにつけても、身の弱りを覚えさせられた。一夜の内にまた弱ったような気もした。
「思うにつけても」の「……につけても」。あることがらに、別のことがらが「つけ」られている。「つける」だから、かならずしも「拮抗」とはいえないかもしれないが、このときの「つける」粘着力が強いので、こんなに強い粘着力が必要なのは、それが「拮抗」するものだからだ、と感じてしまう。
粘着力が強いので、その粘着力の強さに気をとられて、その瞬間ふたつのものが存在し、動いていることに気がつかない。だが、動いているのだ。
これは「覚えさせられた」と言った後、「気もした」と言い直されているが、この微妙な変化のなかにも、息苦しくなる粘着力がある。静謐な拮抗がある。
この直後に、翌日の描写がつづく。
その117ページの8行にわたる一段落は、何度も何度も読み返さずにはいられない「激動/静謐」に満ちている。
ここでは引用しない。ぜひ、本を買って、読んでください。
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