詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇93)Joaquin Llorens Santa “T. E”

2020-11-22 11:25:58 | estoy loco por espana


Me parece que la sombra es una pluma (o un mano).
Probablemente no solo estoy mirando la forma de la escultura, sino tambien estoy mirando el nuevo espacio creado por la escultura.

La "cosa" en sí misma no está ahí.
Nací y viví allí de una manera que siempre corresponde a "algo" en mí.
Para decirlo al revés, hasta momento yo vi algo, no hay "cosa".

Esto no significa negar la existencia de un artista.
Es necesario "encontrarse" en cualquier momento.
Hay algo que nace por primera vez cuando nos conocemos.
Para eso tengo que irme a España.
Tienes que ver el trabajo directamente.

Siempre lo creo.



影がもう一枚の羽(あるいは、手)のように見える。
私はたぶん彫刻の形だけを見ているのではない。
彫刻がつくりだす新しい空間を見ている。

「もの」はそれ自体として、そこにあるだけではない。
常に私のなかにある「なにか」と呼応する形で、そこに生まれ、そこで生きている。
逆に言えば、私が見ないかぎり、「もの」は存在しない。

これは芸術家の存在を否定するということではない。
いつでも「出会う」ということが必要なのだ。
出会って、そのとき初めて生まれるものがある。
そのために、私はスペインに行かなければならない。
直接、作品を見なくてはいけない。

いつも、そう思う。
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古井由吉『われもまた天に』

2020-11-22 10:58:59 | その他(音楽、小説etc)


古井由吉『われもまた天に』(新潮社、2020年09月25日発行)

 古井由吉の文体は、「ある」ということを「状態」として、つまり動かないままに定着させる。「ある」があるだけで、それがどう動いていくのか予測できない。また動いているようにも見えない。それなのに読み進むとたしかに「事件」は起きている。時間が過ぎ、そのなかで人間が動き変化している。
 でも。
 読み終わると、やっぱり「ある」だけがある。「静謐」となって、そこにある。しかも、不思議なことに、こんな激動を私はくぐり抜けられないと感じてしまうときの「静謐」なのだ。古井由吉が激動を静謐になるまで文体で(ことばで)おさえつけた結果として、ここに「静謐」がある。いま、私は「静謐」ということばをつかっているが、この「静謐」すらもないただならぬ動かないものが「ある」という感じに、私はうちのめされる。一種の恐怖心を感じる。でも、恐怖心を感じることがうれしくて、私は読んでしまう。

 「遺稿」という未完の作品のなかに、こんな文章が出てくる。夢の中で、文章を「見る」。そのときのことを書いている。(125ページ)

横文字の時もあり、縦文字のこともある。どちらも読み取るように誘いながら、もうひと掴みのところで散乱する。とにかく音声が伴わないので、いくら読もうとしても読み取れないのだ、と恨みのようなものが後に残る。

 こういう経験が、私にもある。中学生のころ、頻繁に見た。アルファベットが切れ目なく一ページくらいつづく。そんなことばがあるはずがないと思いながら辞書を引く。そうするとその文字らしいものがみつかるのだが、最後までたどりつくまえに文字がほどけてしまって確認できない。
 なぜなんだろう。
 古井由吉は「音声を伴わないので」と書いている。あ、そうだったんだ、と私は非常に納得してしまった。音が聞こえなかった。だから、ことばをつかみきれなかった。
 このことの「激動」がどこにあるか。
 「とにかく」ということばにある。「とにかく音声が伴わないので」。この「とにかく」を私は体験していない。いや、体験しているのだけれど「ことば」にできずにいた。「とにかく」のなかにある「もがき」が突然「激しく」私の肉体を「動かす」。
 激しく動く、ではなく、激しく動かす。動かされる。その「激/動」、それが「激動」ということになる。それを誘う者が古井由吉のことばのなかにある。
 それがそのまま「激動」として、つまり「動き」として「ある」のではなく、「恨み」という別のもの、内にこもったものとして「残る」。この「内にこもる」感じが「静謐」なのだ。
 「いくら読もうとしても」の「いくら」が「とにかく」と呼応して、ことばの粘着力が非常に強くなっている。この粘着力の強さも「静謐」(動いているのに、動かない)という印象を誘う。
 引用した「部分」は小説の「あらすじ/ストーリー」とは関係がないのかもしれないが、私は、古井由吉の、こういう文体が好きで読んでしまうのである。
 そうか、あのとき「とにかく」と「いくら」が拮抗していたのか、と思い出すのである。そして、それは「覚えている」にかわる。覚えているという認識の中で、「静謐」が完成する。
 
 古井由吉の「文体」のなかには、拮抗がある。そこに激動と静謐がある。この拮抗を、もっと「日常的なことば」(とはいうものの、私はつかわない)で言い直すと、こんなことばになるか。
 117ページに、台風が過ぎた後の、湿気の多い日のことが書かれている。台風の後、電気も水道も来ない。

そんな窮地に自分のような者が置かれたら、とても持たないだろうなと思うにつけても、身の弱りを覚えさせられた。一夜の内にまた弱ったような気もした。

 「思うにつけても」の「……につけても」。あることがらに、別のことがらが「つけ」られている。「つける」だから、かならずしも「拮抗」とはいえないかもしれないが、このときの「つける」粘着力が強いので、こんなに強い粘着力が必要なのは、それが「拮抗」するものだからだ、と感じてしまう。
 粘着力が強いので、その粘着力の強さに気をとられて、その瞬間ふたつのものが存在し、動いていることに気がつかない。だが、動いているのだ。
 これは「覚えさせられた」と言った後、「気もした」と言い直されているが、この微妙な変化のなかにも、息苦しくなる粘着力がある。静謐な拮抗がある。
 この直後に、翌日の描写がつづく。
 その117ページの8行にわたる一段落は、何度も何度も読み返さずにはいられない「激動/静謐」に満ちている。
 ここでは引用しない。ぜひ、本を買って、読んでください。



                



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判断は知事?(情報の読み方)

2020-11-22 08:53:43 | 自民党憲法改正草案を読む
判断は知事?(情報の読み方)

 2020年11月22日の読売新聞(西部版・14版)の1面。

感染拡大地域へ旅行 停止/首相表明「GoTo」見直し/判断は知事

 菅首相は21日、新型コロナウイルス感染症対策本部の会合を首相官邸で開き、感染者の急増を受け、需要喚起策「Go To キャンペーン」の運用を見直す考えを表明した。観光支援事業「Go To トラベル」では、感染拡大地域を目的地とする旅行の新規予約を一時停止する。対象地域は、都道府県知事の判断をもとに選定する方針だ。

 この記事には、いくつかわからない点がある。
①感染拡大地域を目的地とする旅行の新規予約を一時停止する。
「目的地」としか書いていない。出発地が感染拡大地域であってもいいということか。つまり東京や北海道へは行ってはいけないが、東京や北海道から感染者の少ない地域へは行ってもいいということか。
②旅行の新規予約を一時停止する。
いつから? すでに予約しているひとはどうなるのか。記事中には「停止によって生じたキャンセル料は国が負担する方向だ。西村経済再生相は記者会見で、「キャンセル料で取りやめをちゅうちょすることがないように、観光庁でしっかりと制度設計する」と述べた。」とあるのだが、いま旅行中のひとが旅行を短縮・中止した場合はどうなるのだろうか。
③対象地域は、都道府県知事の判断をもとに選定する。
感染地域の知事が「中止しない」と言った場合はどうなるのか。逆に感染地域の基準があてはまらない地域の知事が「中止する」と言った場合はどうなるのか。感染地域の基準未満(?)の知事が「中止する」と言った場合、キャンセル料はどこが負担するのか。菅は、国が判断したわけではないから、国は払わないと言うのではないのか。

 今回の「方針(首相表明)」で、いちばんわからないのは「GoTo」が国の事業なのに、国が主導権を取らないところである。読売新聞は、見出しに「判断は知事」ととっているが、これでは感染が拡大したら責任は知事に押しつけられる。
 コロナ感染が問題になった当初、国は検査基準を設定し、その基準をクリアしないと国民は検査も受けられない(保健所から検査対象外と言われる)という状態がつづいた。一方で現場の判断を拒否し、今回は現場の判断にまかせる。やっていることが逆だろう。

 なぜ、菅は「GoTo」をやめられないのか。やめるのに、こんなに時間がかかるのか。
 2面の記事に、こういう下りがある。
 トラベル事業は首相が官房長官だった今年7月、旗振り役となって、賛否両論の中、実現した。「社会経済活動を再開させる最大のエンジンだ」と周辺に語るなど思い入れが強い。

 見出しには「GoTo 苦渋の修整」とある。
 菅が「旗振り役」だったから、やめられないのだ。
 これは「学術会議」問題に、とてもよく似ている。問題が起きても「前言」を撤回できない。事業を中止できない。菅のことばにだれも反対できない。異論を言えないという状況が、混乱を拡大させている。
 今回のGoToを中止するかしないか、「判断は知事」と言うのも、結局のところ、「責任は菅にはない」と主張するためのものである。「旗振り役」の菅が決断しないといけないのに、判断を知事に押しつけている。「ぼくちゃん、悪くない」の安倍路線を継承している。
 「政府の方針に反対の人間は異動させる」という菅の方針が、すでに周知徹底され、だれも菅に反対意見を言わなくなっている。菅独裁の「後始末」のために混乱が拡大し続けている。
 「GoToを開始したのが間違いだった。学術会議の6人任命拒否は間違いだった」と菅が認め、謝罪しないかぎりは、混乱は拡大し続ける。コロナ感染は終息しない。トップの間違いのしりぬぐいを官僚に押しつけ続けるかぎり、コロナ感染は拡大し、民主主義は崩壊する。
 それにしても、読売新聞の記事(記述の仕方)はおもしろい。菅の「独裁」の問題点を「思い入れ」ということばで表現している。
 菅にあるのは「思い入れ」だけなのである。判断の客観的な根拠がない。

 一面には、こういう言及もある。

 有識者による新型コロナ対策分科会は20日、感染拡大地域では知事の意見を踏まえ、トラベルなどの運用を見直すよう提言した。

 20日に有識者会議が提言し、それを踏まえて21日に菅が方針を発表したと読むかぎりは、「時系列」的に、菅の判断に問題はないように見える。「客観的」な判断をしている、と読めないことはない。しかし、有識者会議が提言する前に、多くのひとがコロナ感染拡大の問題点、「GoTo」の危険性を指摘していた。そのなかには「学者(医者)」も大勢いる。それらの学者は菅にとっては「不都合な学者」ということになる。「不都合」とは「思い入れ」である。「有識者会議」のメンバーには、そういう「菅にとって不都合な学者」ははいっていないのだろう。「思い入れ」を忖度して「提言」をまとめてくれる専門家ばかりを集めたのだろう。その「菅にとって好都合な有識者会議(菅に対して忖度を働かせ続ける専門家)」さえ、菅に異を唱えざるを得なくなった。そして、やっと提言し、菅は方針転換に踏み切った。
 しかし、あとになって、菅はきっと言うに違いない。「有識者会議の提言が遅かった。有識者会議が何も提言しないので、対策が遅れた」と。西村や加藤も、それに口を合わせて「有識者会議の提言が遅れたことに問題がある。GoToに間違いはなかった」と言うだろう。





*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



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アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

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