詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

なぜ「GOTO」にこだわるか(情報の読み方)

2020-11-14 18:39:06 | 自民党憲法改正草案を読む
なぜ「GOTO」にこだわるか(情報の読み方)

 2020年11月14日読売新聞(西部版・14版)1面。

新型コロナ/首相「GoTo」継続強調/感染1750人、2日連続最多

 という見出し。とても奇妙に感じる。記事の書き方は、ちょっと微妙。(番号は私がつけた。)

①政府は、新型コロナウイルスの新規感染者数の急増に警戒を強めている。本格的な冬場は感染拡大のリスクがさらに高まるとされており、経済活動を進めながら、増加傾向に歯止めをかけるという難しい課題に取り組むことになる。
②菅首相は13日、首相官邸で記者団に「飲食を伴う懇親会やマスクを外しての会話など、感染リスクが高まる『五つの場面』を踏まえ、今一度、基本的な感染防止対策に努めてほしい」と国民に呼びかけた。
③政府は一方で、緊急事態宣言の再発令や需要喚起策「Go To キャンペーン」の見直しは現時点で検討しない方針だ。首相は「専門家も現時点でそのような状況にないとの認識を示している」と強調した。加藤官房長官も記者会見で「県をまたいだ移動の自粛を一律に要請する必要があるとは考えていない」と述べた。(略)
④13日は新たに国内で1705人の感染が確認された。12日の1660人を超え、2日連続で過去最多を更新した。都道府県別では大阪府(263人)、岩手県(13人)、長野県(23人)が最多を更新した。
 
①は「前文」。全体の記事の紹介。それにしたがえば、「本記」は、まず「新規感染者数の急増」について書き、次に「政府は警戒を強めている」。そのあとに「経済活動を進めながら、増加傾向に歯止めをかける」ということになる。
 私の割り振った番号でいえば、④②③の順序に書かないといけない。そうしないと、読者が混乱する。見出しも

感染1750人、2日連続最多/首相、感染防止呼び掛け/(しかし)首相「GoTo」継続強調

 という順序にしないと、論理の整合性がとれない。
 言い直すと、感染者が1750人になった。感染が拡大しているから注意が必要。しかし、政府は「GoTo」を継続すると強調している。(でも、なぜ?)
 で、ここから言えることは、まず、読売新聞は「首相、感染防止呼び掛け」を見出しに取らなかったということ。つまり、国民の不安、警戒心には触れないようにしている、ということ。そして、「GoTo」を継続については「疑問」を書かないようにしていることがわかる。
 (でも、なぜ?)
 これは、私が先に記事を要約したときにつけくわえたことばだが、このことは書かれていない。そして、これが問題だ。
 政府は「経済活動を進めながら、増加傾向に歯止めをかける」というのだが、私はこの書き方にも疑問をもっている。
 「経済活動」って、なに? 「GoTo」にかかわる「経済活動」といえば、まず、旅行。ホテル、旅館である。それをなんとしても維持したい。
 でも、なぜ?
 書かれていないからこそ、私は想像する。そして、すぐに思いつく。最近、政府が血眼になってやっていることを見ると、すぐに気づくことがある。
 政府がコロナ対策の傍ら、いまもうひとつ一生懸命にやろうとしていることがある。東京オリンピックだ。その東京オリンピックと「GoTo」は関係があるのだ。いま、ホテル、旅館はたいへん厳しい経営環境にある。つぶれてしまいそう、と悲鳴を上げているところがたくさんある、と聞く。もし、ホテル、旅館が東京オリンピック前に倒産し、営業できなくなったらどうなるか。選手には「選手村」があるかもしれない。しかし「オリンピック観戦客」の宿泊場所がなくなるのだ。それでは観光客がやってこれない。観光客を受け入れようにも、受け入れることができるホテル、旅館がない。観光客が落としてくれる金で日本の経済を立て直すきっかけにしたい、と考えている政府(あるいは電通か)にとっては、これはたいへんな問題だ。東京オリンピックが終わるまでは、ホテル、旅館に倒産してもらっては困るのだ。だから、躍起になっている。
 これは、安倍の残した大きな負の遺産だ。菅は「安倍継承」を訴えて首相になったので、オリンピックを中止して日本経済を立て直すという「新方針」を提出できないのだ。
 日本国民の健康はどうでもいい、なんとしても電通が企画したとおりにオリンピックを成功させないことにはたいへんなことになる。そういう「見方」しかできなくなっている。それが「GoTo」継続(ホテル、旅館を倒産させない、資金援助をする)という政府方針になってあらわれている。
 こういうことは、実際に「取材」していれば、「肌」で感じ取れるはずのことである。しかし、それを隠している。「なぜ?」という疑問を書かずに、菅の言うことが「正しい」と思わせる書き方をしている。そのために、記事そのものが混乱している。「前文」の記述内容の順序と、本記の記述内容の順序が食い違うという奇妙な書き方になっている。新聞記事にはどういうふうに書かなければならないという「決まり」があるわけではないだろうが、ちぐはぐな(わかりにくい)文章の流れ、見出しのつけ方から、私は、そんなことを思ってしまうのだ。もう菅(政権)に見切りをつけて、国民のためにほんとうのことを書くべきではないのか。







*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



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フェデリコ・フェリーニ監督「甘い生活」(★★★★★)

2020-11-14 09:14:40 | 映画
フェデリコ・フェリーニ監督「甘い生活」(★★★★★)(2020年11月13日、KBCシネマ1)

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 マルチェロ・マストロヤンニ、アヌーク・エーメ、アニタ・エクバーグ

 この映画のラストシーンは好きだなあ。
 海岸で巨大なエイが引き上げられる。それは巨大さゆえに美しいとも醜いとも言うことができる。ちょうど、この映画のほとんどで繰り広げられる「甘い生活」のように、私のもっている感覚を超越している。自分のついていけない世界については醜悪と拒否することも、甘美とあこがれることもできる。どちらにしろ、それは存在を「認識」だけであって、「体験」するわけではない。特にそれが映画のなかの世界ならば、なおさらだ。だから、何とでも言うことができる。醜悪といっても、甘美と言っても、私がそのことばを口にすることで私自身は傷つかない。その後のことばの展開に何も影響を受けない。いつでも表現をかえることができる。実感ではないのだから。肉体でつかみとった「事実」というものは何もない。
 でも、そのあと。ひとり仲間(?)から離れたマルチェロ・マストロヤンニに河の向こうの少女が何かを言う。聞こえない。何を言われたかわからないままマルチェロ・マストロヤンニは仲間といっしょに引き上げる。それを見送る少女の顔のアップ。
 少女はマルチェロ・マストロヤンニを知っている。手伝いに行った保養地(?)のレストランのテーブル。マルチェロ・マストロヤンニはタイプライターで小説を書こうとしている。少女は音楽が好きで、ジュークボックスを鳴らす。歌を口ずさむ。マルチェロ・マストロヤンニは音楽を止めろ、と言う。そこから短い会話がある。少女はそれを覚えている。マルチェロ・マストロヤンニはどうだろう。覚えていないかもしれない。マルチェロ・マストロヤンニが関心があるのはセックスの相手としての女だからだ。
 このシーンが印象的な理由は、ここにある。
 マルチェロ・マストロヤンニの知らないところで、だれかがマルチェロ・マストロヤンニを支えている。そして、その「支え」のなかには、ラストシーンの少女のような存在もある。明確に気づいていないけれど、気づいていない何かが影響してくる、というものがある。「支え」と書いたが、言い直せば「影響を与えてくれる」ということである。
 たとえば、それはモランディを愛し、パイプオルガンを弾く友人かもしれない。映画のなかで、その友人とは「数回会ったことがある」というセリフが出てくるが、数回でも深く影響する何かというものがある。(少女とは何回会ったか知らないが、たぶん映画にあるレストランのシーンの一回だけだろう。)あるいは、田舎に住んでいる父かもしれない。父だからひっきりなしに会っていたはずである。非常に影響を受けいているはずである。しかし、マルチェロ・マストロヤンニはその影響を受け取ろうとはしない。むしろ拒絶しようとしている。そういうときも、「無意識」のなかを動いている「影響」はある。それはマルチェロ・マストロヤンニを「支え」ているはずである。
 わかることとわからないことがある。そのなかで人間は、その日そのときの欲望で生きている。「甘い生活」におぼれるのか、「苦い生活」を生き抜くのか。どちらが「正しい」ということはない。「判断保留」を生きる。そういう生き方そのものが「甘い」のかもしれないが。まあ、そういうことは、いってもはじまらない。
 そして、人間は、こういう「影響」を与えてくれたかどうかさえわからない人間のことは、どうしても忘れてしまう。ひとは「影響」を受けたい、「影響」を受けて自分自身を変えてしまうことを夢見る存在なのかもしれない。
 象徴的なのが、「マリアを見た」という兄弟のエピソードである。「マリアを見た」という体験を共有したいと大勢のひとが集まってくる。マリアの「影響」を受けることで、自分自身の生活を変えたいのだ。「奇跡」にすがりたいのだ。でも、「奇跡」なんて、起きない。突然降り出した雨のために、体の弱っていた老人(?)がひとり死ぬだけである。マリアの助けを求めてやってきかたひとが、マリアの奇跡には遭遇せず、雨に濡れて死んでいく。
 現実というものが、こんなふうに首尾一貫しないものならば、どうやって生きていけばいいのだろう。こういうことを書き始めると「意味」になってしまうので、私は書かない。ちょっと考えた、という「経過」だけを書いておく。
 私は、この映画に出てくるような「甘い生活」というものを知らないので、もうひとつだけ、私にとってなじみやすかったシーンを書いておく。冒頭のキリストをヘリコプターで運ぶシーン。いわば、こけおどし、のシーンだが、ビルの壁にキリストの影が映り、その影がビルの壁をのぼるようにして空に消えていく。この1秒足らずの映像が美しい。フェリーニの狙いがどこにあったか知らないが、私はこのキリストの影のシーンが撮りたかったのだと信じている。アマルコルドの孔雀と同じで、影のシーンが絶対必要なわけではない。それがなくてもキリストを運んでいることはわかるのだから。でも、だからこそ、そのシーンがフェリーニには必要だったのだ。
 さらに。ヘリコプターにはマルチェロ・マストロヤンニが乗っている。彼と屋上(?)で日光浴をしている女たちが会話をする。ラストの少女との会話のように、互いに言っていることばは聞き取れないのだが。ただし、「大人」の会話なので、何を言っているかはテキトウに判断することができる。「デートのために、電話番号を聞いている」とかなんとか。少女とマルチェロ・マストロヤンニとのあいだでは、そういう「テキトウな想像(自分の欲望)」にあわせた「意味」というものは存在しなかった。このときの、女たちの「腋毛」。剃っていない。その、なまなましい自然。
 このなまなましい自然から、少女の純粋な自然までの「間」。そこにゆれ動くマルチェロ・マストロヤンニ、というふうに見ることのできる映画でもある。フェリーニの映画では、男は一種類(女の気持ちがわからないのに、女に持ててしまう優柔不断な美男子)なのに、女の方は今回の少女やジェルソミーナの純心からアニタ・エクバーグの肉体派、あるいはジュリエッタ・マシーナの素朴からクラウディア・カルディナーレの美貌、アヌーク・エーメの神秘まで、振幅(?)が大きい。でも、フェリーニは最終的には「純真」を選ぶということなのかなあ。最終ではなく、それは出発点ということなのかもしれないけれど。
 福岡(KBCシネマ)でのフェリーニ祭は9本ではなく6本の上映。私は「道」を最後に見ることになる。私が最初に見たフェリーニだ。フェリーニへの「初恋」だと思うと、見る前から胸がときめく。



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