詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野田順子『あの夏は金色と緑と水色だった』

2020-11-06 00:00:00 | 詩集
野田順子『あの夏は金色と緑と水色だった』(空飛ぶキリン社、2020年10月30日発行)

 野田順子『あの夏は金色と緑と水色だった』で私が好きなのは「はさみ」。

ジュースをのんだあとの紙パックを切っていると
善人になった気がするね
人生にはむだなことなんてひとつもないんだと
無邪気に信じているおとなになれた気がするね
はさみを持っていると いろいろな
とりかえしのつかないことをしてみたくなるのだけれど

一日一日がとりかえしのつかない時をかさねていくよ

紙パックを一枚一枚そろえてかさねて
うんとがんばってきたのにこんなところに行きついたなんて
やっぱりわたしの切りたいものは紙パックじゃないな

 一連目の「善人になった気がするね」「無邪気に信じているおとなになれた気がするね」はだれのことばだろうか。「わたし(野田)」のことばだろうか。それとも誰か対話者がいて、そのひとが言っているのか。こんなことを考えるのは「ね」ということばが、対話者に呼び掛けるときのニュアンスを持っているからだ。ひとりごとなら、必要はない。ひとりごとで、つい、そう言ってしまうのだとしたら、それは自分自身への語りかけになる。
 私は、自分自身への「語りかけ」と思って読んだ。
 この「……ね」は「一日一日がとりかえしのつかない時をかさねていくよ」と「……よ」にかわったあと、「やっぱりわたしのきりたいものは紙パックじゃないな」の「……な」にかわる。この変化はおもしろくて、切ない。
 「……ね」と念押しというか、確認するように相手に(自分に)語りかける。そうすると「……よ」と、自分はこう思っている「よ」と反論が返ってくる。「そうだね」と「ね」で終わらない。追認しない。
 そのあとで、ほんとうにひとりごとになる。「……な」。聞いているひとはいない。自分に語りかけているのだとしても、そのときは自分は二重化していない。「ひとり」のまま、ことばを受け止めている。
 「意味」を追っていくと、とても重たいのだけれど、「ことばの肉体」を追っていくと、その「重さ」よりも切なさが迫ってくる。「……な」と自分で言ったことがあるな、と思い出すのである。
 私は、こういうことばのなかにあらわれた「肉体」に「正直」を感じる。そして、それが好きになる。
 「待っています」と「雨の中で」には「雨」が出てくる。
 「待っています」。

大きな傘を持っていて ふたりでその中に入って歩くの
覚えてる? ってわたしが聞くの
覚えてるよ ってその人が答えるのがはっきり聞こえなくてもいいから
雨がぽつぽつ降っていてほしい

 ここでは「……の」が気持ちがいい。自分に言い聞かせている静けさがある。特に「返答」は求めていない。自分で「確認」しているのだ。これは途中で「……ね」を経由して、こんなふうに終わる。

雨がひどくなる前に家に着けるように急ごう
そして乾いた部屋の中で
待たせたね ってあなたが言うの
胸の奥をくすぐるような ちょっとかすれたあなたの声で

 「……ね」「……の」のあと、最後の一行。「胸の奥をくすぐるような」の「胸」はだれの胸だろうか。「あなた胸」か「わたしの胸か」。区別がつかない。どちらの胸であってもいいというより、それは「ひとつになった胸」なのだ。「くすぐる」「かすれた」ということばが動くとき、それは「わたし」の実感だからである。
 「雨」。

雨が降ると 君を思い出す
君がわたしを思い出すだろうということも思い出す
雨が降ると 冷たい雨でもどこかがちょっとあたたかくなる
雨が降ると 舐めてみたわけじゃないけれどちょっと甘い気持ちになる
雨が降ると 濡れた路面からなつかしい匂いが立ちのぼる

わたしは雨が降らないと君を忘れているけれど
君はいつでもわたしを想っていてくれますか

 「あたたかくなる」「舐める」「甘い」「なつかしい匂い」ということばに「肉体」を刺戟される。「立ちのぼる」も「匂いの肉体」のように、私は感じてしまう。
 ということは、別にして。
 ここには「……ね」も「……よ」も「……な」も「……の」もない。でも、もし補うとすれば、一連目のそれぞれの行に何を補いますか? そして、その語尾を追加すると、ことばの印象はどうかわるだろうか。
 あ、これ、次のカルチャー講座でやってみたいなあ。きっとおもしろい。










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