高橋睦郎『深きより』(3)(思潮社、2020年10月31日発行)
「三 私がゐるのは」は「柿本人麻呂」。
歌と文字とは 私において つひに一つ
私は うたつた歌を 文字で書きしるした
あるいは 文字で書くことで 歌をうたつた
この三行を書き写しながら、私は私の書いていることが「無効」であることを認識せざるを得ない。
柿本人麻呂を「文字で書くことで 歌をうたつた」と定義するとき、高橋は「文字で書くことで 詩をうたつた(詠んだ/つくった)」詩人ということになる。ところが私はワープロの関係で、高橋の「書いた文字」をときどき別の文字に書き換えている。つまり、改変している。改竄している。
高橋は正字、旧かなで詩を書いている。「文字」にこだわっている。私は、その高橋の「こだわり」を無視する形で詩を引用している。
これに先立つ部分には、
私の終の臥床 奥津城どころを捜しあぐねる人よ
無駄なこと 私の記憶は それらの何処にもない
私の仕事は つまるところ 私の足跡を消すこと
うつめみの私を消すことこそが 歌を立たせること
という行がある。「歌を立たせる」と、ここに「立つ」という動詞があり、それは「私が立つ」ということと重なる。「歌」といういわば形のないもの(ことば)を、「肉体」として「立たせる」として言い直すとき、そこに「抽象」を「具体」に変えていく何かがある。しかし、まだ、何かが曖昧だ。
高橋は、これをさらに
私がゐるのはただ 私のうたつた 歌のその内
私の書きとめた文字の並びの その中に のみ
と言い直すが、これではさらに「抽象」にもどってしまう感じがする。「文字」を「ことば」に変えれば、多くのひとが言いそうなことである。「歌」を「作品」と言い直せば、あらゆる芸術家が言うだろう。「私はただ私の作品のなかにだけいる」と。それでは、単なる「抽象」であり、「普遍」に過ぎない。
これを高橋は「文字」ということばで「個」に変える。「普遍」(抽象)であることを拒否する。
そして、最初に引用した三行の前に、こう書いている。(直前に引用した二行と、最初の三行を、次の行で結びつけている。)
私は稚く うたふことを覚え 書くことを習った
ここには私をつまずかせるおそろしいことが書かれている。「覚える」と「習う」。この二つの動詞を私はどんなふうにつかってきたか。ほかのひとはどうつかっているか。
私は「覚える」を「無意識に知る」という意味でつかう。そして、その「知る」に「肉体に覚え込ませる」と同じである。本能(欲望)にしたがって、他人の「肉体」を見ることで、それを自分の「肉体」にしみこませる。ほとんど無自覚に。
「習う」は違う。それは意識的な行為である。「知らない」ことを「習う」。ただし習うことで吸収できるものは、たぶんすでに自分の「肉体」のなかに蓄積されている何かだと思う。「肉体」のなかに蓄積されたものがないと、いくら習っても、それは身につかない。「肉体」の奥にあるものが刺戟され、表に出てくる。そして形を成す。それが習うであり、身につくということだろう。
「書くことを習う」を具体的に言い直すと、「文字」を見る。それが「文字」であるとわからないまま「肉体」のなかにたまりつづける。それを「文字」としてひっぱりだすことを書く。書くとは、書き方を習うこと、肉体のなかにある「文字」を出現させると。その出現のさせ方を「習う」。
次に習ったことが(「肉体」の奥から出てきたものが)、「肉体」を整える。「肉体」が整えられて、ひとに見せられる「人間」になる。ここに「立つ」という動詞が隠れている。「人間として立つ」のだ。「歌を立たせる」は「人間として立つ」なのだ。
ここには自己肯定と呼ぶしかない自己否定、つまり新たに出現してきた自己の肯定、本能を習ったもので整えるという力業がある。その戦い現場が「文字」なのだ。
さらに私はこんなことも考える。
「うたふことを覚え 書くことを習った」は「文字」の前に「うたう」という本能があった、それが動いた。それを「書く」(文字)が制御した。制御された「ことば」は制御された「肉体」でもある。この制御するという動詞のなかにある「葛藤」が、また「歌」でもある。
こんな厳しいことばの世界を、私は読み続けられるだろうか。
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