詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

学問の自由は「乱用」できるものなのか。

2020-11-07 21:06:02 | 自民党憲法改正草案を読む
共同通信がおもしろい記事を配信していた。
https://this.kiji.is/697063830492546145

見出しは「伊吹氏『学問の自由は印籠か』/学術会議側をけん制」。
そこに、こう書いてあったのだ。

自民党の伊吹文明元衆院議長は5日の二階派会合で、日本学術会議の会員任命拒否問題に関連し「学問の自由と言えば、水戸黄門の印籠の下にひれ伏さなくてはいけないのか。憲法は、自由は乱用してはならないと定めている」と述べ、学術会議側をけん制した。
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これを読みながら、私は、こう考えた。

非常に疑問に思うのだが、「学問の自由を乱用(濫用)する」ということばをつかったとき、伊吹はどういうことを想定して発言したのだろうか。
たとえば「学問」といえるほどのことではないが、私はいろいろな文学作品を読んで好き勝手な感想を書いている。「自由」に書いている。
これは、どれだけ自由に書いても、大丈夫か。
「谷川俊太郎の詩はつまらない。この作品のこのことばが納得できない」と書けば、谷川は怒るか。怒ったからといって、別に、だれの迷惑になるわけでもないだろう。
どんな基準で、どう評価するか、その評価を谷川がどう思うか、谷川のファンがどう思うか。
こういうことに対して、菅が「学問の自由を濫用している」と批判するわけがない。
そうすると、別のことを考えないといけない。
たとえば私は「詩人が読み解く自民党憲法草案の大事なポイント」という本を出した。あるいは「天皇の悲鳴」という本を出した。
その中では、2012年の自民党改憲草案を批判し、安倍の平成の天皇への圧力を批判している。
私の場合は「学問」という立派なものではないが、「学者」ならもっと厳密に批判するかもしれない。
もし「学者」が私が書いたようなことを研究し、公表する。自民党批判、政府批判を展開する。
たぶん、こういうときに「学問の自由を根拠に、政治批判をしてはいけない」ということが言われるのである。
「学問の自由は濫用してはいけない」は「自民党批判、政府批判をするために、学問の自由を主張してはならない」ということであり、「学問は自民党を肯定し、政府を肯定するものでなければならない」へと転換していくのである。
「学問の自由と言えば、水戸黄門の印籠の下にひれ伏さなくてはいけないのか」という言い方には、とてもおもしろい視点が見え隠れする。
「学問の自由を根拠に、学者が自民党批判、政府批判をしたら、自民党や政府はその批判にひれ伏さないといけないのか(そんなことはない)」と言いたいのである。
いろんな現象にはいろんなものの見方がある。
たとえば原発問題。自民党、政府は「原発は安全である。経済的である」という「学者」の意見は積極的に採用し、それを前面に押し出す。
その一方で、「原発は危険である。廃棄処理に金がかかり、不経済である」という「学者」の意見は退ける。
「学者」の意見が対立したとき、どうするか。自民党、政府は、「原発は危険である。廃棄処理に金がかかり、不経済である」と国民に主張するのは「学問の自由の濫用である」と言い出すだろう。そういう批判があると、「原発を推進できなくなる(批判する学問は邪魔になる)」からだ。
実際に起きたこと(6人任命拒否)を中心に考えれば、もっとはっきりする。
6人は政府方針を批判した。つまり「学問の自由」に基づいて、自分自身の意見を言った。
菅は、なぜ「政府は、その6人の意見を水戸黄門の印籠のように尊重し、ひれ伏さなければいけないのか」、そんなことはしたくない。だから任命を拒否したのだ。
しかしなあ。
「水戸黄門の印籠」という例がけっさくだなあ。「ひれ伏す」という動詞の使い方がけっさくだなあ。
伊吹は、政治というものを「絶対権力」と「権力にひれ伏す」という関係でとらえている。
そして、そこに「学問」という「絶対中立」的な存在が入り込むことを恐れている。
「学問の自由」という言い方が、たぶん、「誤解」を招きやすいのだ。「学問の自由」という表現を利用して、伊吹は「自由の濫用」とことばを動かしているが、「学問の自由」とは実は「学問の中立性」にほかならない。
「学問」は権力に奉仕するためのものではない。権力にも国民にも、そして外国人にも(中国人や韓国人にも)「中立」のものである。誰でもが利用できる。それが「学問」。
そうであっては、困る、というのが伊吹の姿勢であり、菅や自民党の姿勢である。
伊吹は菅の主張を代弁しているだけである。
「学問の自由と言えば、水戸黄門の印籠の下にひれ伏さなくてはいけないのか。憲法は、自由は乱用してはならないと定めている」という伊吹のことばだけでは、何が起きるのか、よくわからない。
でも、自分がしていることがどうなるか、ということを具体的にことばにしてみれば、伊吹の主張の危険性がわかる。
「乱用」ということばにだまされてはいけない。
特に「自由の乱用」ということばにだまされてはいけない。
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杉谷昭人『十年ののちに』

2020-11-07 09:27:48 | 詩集


杉谷昭人『十年ののちに』(鉱脈社、2020年06月19日発行)

 杉谷昭人『十年ののちに』は、口蹄疫から十年たった宮崎県のことを書いている。いや、2010年からの十年を書いている。
 「農場跡」という作品。

とんでもない話を聞いた
子牛が一頭生まれたというのだ
この村では四年前に口蹄疫が発生し
三千頭もの牛がガスで殺処分されて
うち一頭の雌牛が埋却ぎわに出産して
ある農夫がその子牛をこっそり隠した

獣医師の眼をかすめて育ったその牛が
今朝がた新しいこどもを産んだという
あってはならないはずのことだが
その噂を信じたいとみなが思っている
ただ子牛を見た人はまだ誰もいない
村じゅうひそひそ声が流れているだけ

 「あってはならないはずのことだが/その噂を信じたいとみなが思っている」の二行がとても切ない。切実だ。
 牛は売るために育てている。牛は食べるために育てている。それでも育てるということは愛をそそぐことである。どうしても、つながりができる。そのつながりは、けっして忘れることができない。
 だから、新しく飼いはじめた牛のなかに、かつて飼っていた牛の姿を見ることがあるだろうし、子牛が生まれれば、かつて飼っていた牛が子牛を産んだときのことも思い出すだろう。
 「信じたい」は子牛の存在を信じたいと同時に、これからも牛と一緒に生きていく人生を信じるということでもある。ひとの生き方は、そんなに簡単には変えられない。一度牛を愛してしまうと(牛と一緒に生きる生活を愛してしまうと)、それを貫きたいと思う。そして、苦しくてもそういう道をふたたび歩きはじめるひとを、ひとは頼りにする。
 菅は「自助・共助・公助と絆」と言ったが、「自助・共助」は言われなくても、生きている人間はそれを実行している。問題は、「自助」をひとがいつでも実践できるだけの「公助」をどれだけ用意できるかなのである。
 あ、余分なことを書いたが、「ただ子牛を見た人はまだ誰もいない/村じゅうひそひそ声が流れているだけ」という二行も美しい。まるで夢の中で見た夢のよう。その子牛がほんとうにいるなら、どんなにうれしいだろう。
 「畜魂祭」は口蹄疫のとき処分した牛をなぐさめるためのもの。その会場で「蝦蟇口」を拾う。そこから詩ははじまっている。その後半部分。

この町が口蹄疫に襲われたのは四年前のことだった
三十万頭からの牛と豚がガスで殺処分されて
農場に掘った大きな穴につぎつぎと埋却されて
その上に菜種やコスモスの種子が撒かれた
〈畜魂碑〉と刻まれた一本の石碑も建った

生活のない土地が生まれて
記憶を作り出しようもない毎日がやってきて
わたしたちは慣れない仕事についた
道路工事 小荷物の配送 コンビニの店員
きょうはみんなが帰ってくるはずの日なのだ

畜魂祭のざわめきとともに拾った蝦蟇口を手にしたまま
わたしは いやわたしたちは何かをじっと待ちつづける
一年ぶりにあの髭面に会えるかもしれぬ
牛小屋の干し草の匂いが嗅げるかもしれぬ
足下の小石の蔭から一本の牧草が生えてくるかもしれぬ

 「生活のない土地が生まれて/記憶を作り出しようもない毎日がやってきて」の二行が、やはり強い。
 「生活」と「記憶」は同義語である。

「記憶」のない土地が生まれて
「生活」を作り出しようもない毎日がやってきて

 と言い直せば、杉谷の書いていることがよくわかる。どんな土地でも「記憶」を持っている。そこで何をしたか。そこが牧草地ならば、農家のひとは、どこにどの草が生えているか、その草を食べたのはどの牛か。そんなことまで「記憶」している。その「記憶」はことばの記憶ではなく、肉体でそのまま覚えていることだ。忘れることができない「事実」の積み重ねだ。
 その土地で、ひとは「あした」を生きる。「あした」を生み出していく。もちろん「過去」があり、「いま」があるのだが、作り出していくのは「あした」である。ある日突然、その「あした」を奪い去られれる。「未来」をつくりだせなくなる。
 そのときから、「生活」は「いま」を生きる形をとりながら、いつも「過去」を生きる。思い出を生きることになってしまう。もちろん、それではいけないということはわかるが、「道路工事 小荷物の配送 コンビニの店員」の何をしていたとしても、思い出してしまうのは牛を育てたことだろう。
 みんなもう一度牛を育てたいと思っている。杉谷には牛を育てた「体験」がないかもしれないが、その杉谷も牛を育てたいと感じている。牛を育てるは「自助」の問題ではなく、杉谷にとっては「共助」の問題なのだ。だからこそ、書くのだ。「足下の小石の蔭から一本の牧草が生えてくるかもしれぬ」と。杉谷は、牛を育てている。そして、牧草を育てている。それが杉谷の町で「生きる」ということである。
















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