詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フェデリコ・フェリーニ監督「8 1/2 」(★★★★★)

2020-11-09 20:41:43 | 映画

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 マルチェロ・マストロヤンニ、クラウディア・カルディナーレ、アヌーク・エーメ、サンドラ・ミーロ(2020年11月09日、KBCキノシネマ、スクリーン2)

 KBCシネマで「生誕100年フェデリコ・フェリーニ映画祭」が始まっていた。一日一本、一回かぎりの上映なので「甘い生活」「道」は見逃してしまった。(気がついたら上映が終わっていた。)
 この映画で私がいちばんおもしろいと思うのは、「視線」のとらえ方である。冒頭、渋滞する車の中でマルチェロ・マストロヤンニが息苦しくなる。それをまわりの車からひとが見ている。それぞれ孤立している。孤立しているのに、すべての視線がマルチェロ・マストロヤンニに集中する。いや、集中しない視線もあるが、その視線でさえ見ないことでマルチェロ・マストロヤンニを見ている(意識している)と感じる。象徴的なのが、バスのなかの「顔のない乗客(顔が隠れている)」である。「視線」がないことによって、観客の「視線」をマルチェロ・マストロヤンニに集中させる。マルチェロ・マストロヤンニは車を脱出し、凧のように空を飛び、凧のように地上に引き下ろされる(引き落とされる)が、私はそのとき観客としてマルチェロ・マストロヤンニを見ているのではなく、スクリーンのなかの「誰か(描かれていない人間)」としてマルチェロ・マストロヤンニを見ている。マルチェロ・マストロヤンニ自身として、マルチェロ・マストロヤンニを見ているような気持ちにもなる。(これが最後の「祝祭」のシーンで、私もその踊りの輪の中に入っている気持ちにつながる。)
 最初の方の湯治場の描写も同じである。多くの「名もないひと」がマルチェロ・マストロヤンニを見つめる。その「視線」がなまなましい。「名もないひと」の不透明な肉体が「視線」のなまなましさの奥に感じられる。マルチェロ・マストロヤンニは「見られている」。そして同時に、「生もないひと」を見ている。しかも、なんというのか、「見る欲望」を見つめていると感じる。「名もないひと」は「見る」ことで何らかの欲望を具体化している。簡単に言い直せば、マルチェロ・マストロヤンニを見てやるぞ、という感じかもしれない。
 これは単にマルチェロ・マストロヤンニが有名人(映画監督という役どころ)だからではなく、人間はだれでも目の前にいる誰かに何かを感じたら、それを見てしまうものなのだ。象徴的なのが、マルチェロ・マストロヤンニがクラウディア・カルディナーレの「まぼろし」を見るシーン。クラウディア・カルディナーレが見つめている。見つめることで何かを語りかけている。愛の欲望と言い直すと簡単だ。マルチェロ・マストロヤンニは見られているというだけではなく、愛の欲望の対象として見られている(誘われている)と感じる。クラウディア・カルディナーレの視線は、それほど強烈である。
 ほかの女優たちもマスカラや眉を強調することで、「視線」のありかをはっきり知らせる「化粧」をしている。顔を見せているだけではなく、「見ている」ということを見せているのだ。
 マルチェロ・マストロヤンニのまわりには大勢の女がいる。その大勢の女の中で、クラウディア・カルディナーレ(ミューズか)、アヌーク・エーメ(妻)の対比がおもしろい。ウディア・カルディナーレの「視線」は「見ているぞ」という感じで動く。目力が非常に強い。しかし、アヌーク・エーメは化粧の関係もあるのかもしれないが、「視線」が「引いている」。なんというか、「引いた演技」をしている。「視線」だけではなく、もっと「肉体」全体でマルチェロ・マストロヤンニと向き合っている。そうか。こういう感じが「妻」なのか。長い時間をいっしょに生きてきて、「視線」だけではなく、手や足や、からだ全体の動き方で相手を受け止めている。何かを訴える、という「深さ」のようなものを感じさせるのか。
 もうひとり重要な役どころとしてサンドラ・ミーロがいるが、彼女は気晴らしの愛人か。「視線」がらみでいうと、「娼婦風に」といってマルチェロ・マストロヤンニが眉を描きくわえるシーンがおもしろい。
 マルチェロ・マストロヤンニはこの三人の間を、非常に無邪気に渡り歩く。マルチェロ・マストロヤンニの「子ども時代」を思い起こさせる少年が出てくるが、その「少年」のままの「こころ」が動いている。誰かに焦点をしぼり、そのひとと生きていく、という「決意」のようなものをつかみきっていない。それが「かわいい」といえば「かわいい」のかもしれない。けっして「汚れない」という感じ。純粋なまま、という感じ。でも、肉体はおとななんだよなあ。そこに、まあ、「苦悩」があるのかもしれない。
 まあ、どうでもいいんだけれど。
 マルチェロ・マストロヤンニには、何か、不透明になりきれない「純粋さ」のようなものがあるなあ、と感じた。
 それにしても。
 このころの映画というのは、いまの映画から見ると「絶対的リアリズム」を表現しようとしていないところが、とても新鮮だ。どこかに「リアル」があれば、あとは嘘でもいい。クラウディア・カルディナーレがはじめて登場するシーンが象徴的だが、「視線」さえリアルなら、歩き方(動き方)は逆に不自然でもかまわない。いや、不自然な方が「視線」を強調することになるから、おもしろい。ぜんぜん関係ないが、ハンフリー・ボガードの「動かない両手」のようなものである。両手を動かさず、突っ立っている感じなので、表情の微妙な動きや声の変化が印象に残るような感じかなあ。人間の「視線」さえつたわるなら、ほかの部分は「視線」を強調するための「脇役」。この映画は、そんな具合にして撮られていると思った。


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新しいことばを、どう伝えるか

2020-11-09 09:47:50 | 自民党憲法改正草案を読む
 きのう書いたことのつづき。(あるいは、まとめ。)
 共同通信が、次の記事を配信した。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/8b16798e0adde7928ea231da18a21fc50ac023e7?fbclid=IwAR1JK1ecmQXwCvo8C3_mbI9Pi0JLckbR6c7wPwuaAzv-L6WZOlXBIvKsw2U

 首相官邸が日本学術会議の会員任命拒否問題で、会員候補6人が安全保障政策などを巡る政府方針への反対運動を先導する事態を懸念し、任命を見送る判断をしていたことが7日、分かった。安全保障関連法や特定秘密保護法に対する過去の言動を問題視した可能性がある。複数の政府関係者が明らかにした。
 菅義偉首相は国会審議で6 人の任命拒否に関し「個々の人事のプロセスについては答えを差し控える」と繰り返し答弁。拒否理由は今回の問題の核心部分となっていた。日本学術会議法は会議の独立性をうたっており、政治による恣意的な人事介入に当たるとして、政府への批判がさらに強まる可能性がある。

 ネット配信の記事はここまでだが、ほんとうはもっと長いのかもしれない。
 同じ書き出しの記事が、東京新聞(写真は中沢けいさんのフェイスブックから借用)と他の新聞(山本義彦さんのフェイスブックから借用、静岡新聞だろうか)にも掲載されている。2紙の記事はもっと長いから、それぞれの記者が独自に取材したのかもしれないが、文言がまったく同じなので、共同が取材したものだと思う。
 同じ記事だが、見出しがそれぞれ違う。



共同通信 官邸、「反政府先導」懸念し拒否 学術会議、過去の言動を問題視か
東京新聞 政府方針 反対言動を懸念/官邸、安保法など巡り
別の新聞 「反政府」懸念 6人を拒否/学術会議 官邸、言動問題視か

 共同通信と山本さんがアップしていた新聞には「反政府」という文字がある。東京新聞にはない。
 新聞の見出しは、原則的に記事にあることばをつかう。「解釈」して別の表現にすることもあるが、そういうときは、見出しをつける部門は取材もとに、こういう表現の見出しにしていいか確認する、と聞いた。(ときには、こういう表現をつかいたいが、記事にその文言を書き加えることは可能か、と問い合わせることもあると聞いた。)
 東京新聞は、どういう基準で「反政府」を「反対言動」に変えたのかわからないが、ここには大きな問題がある。
 中沢さんは、フェイスブックで、共同通信の「タイトル問題あり。政府批判を『反政府』とは言わない。ましてや「先導」なんて的外れ。」と書いていたが、「反政府」は記者が率先してつかったことばではなく、「複数の政府関係者」である。記者は「複数の政府関係者」がつかったことばをそのまま書いている。見出し(タイトル)も、その表現をそのままつかっている。
 問題は、タイトル(見出し)でもなければ、記者がその表現をつかったことでもない。「複数の政府関係者」が語ったことばを、何の批判も加えずに、そのまま公表したことである。
 いままで学術会議に対して「反政府運動を先導している」というようなことは、公式に語られたことはない。「複数の政府関係者」が語ったと報じられたことはない。だから、これはある意味では「特ダネ」である。「特ダネ」であるからこそ、共同通信は表現に手を加えず、正確に伝えている。
 中沢さんが指摘するように、共同通信の見出し(タイトル)は刺戟的である。
 そして、これからはネットの世界では、この「学術会議=反政府(運動を先導する)」という表現が横行するだろう。
 どうすればよかったのか。
 たとえば、私が新聞記者ならどうするか。

「学術会議を反政府運動」と定義/官邸、安保法への言動巡り

 くらいの見出しで、「複数の政府関係者」(および官邸)に問題があると指摘する。
 悪質なのは「学術会議」ではなく、官邸である。官邸は「学術会議」を「反政府運動を先導する団体」呼ばわりした。
 「学術会議」にかぎらず、国民はだれでも政府を批判する権利と自由を持っている。批判はもちろん「反対意見」を含んでいるが、「反対意見」があるからといって「反政府」であるとは言えない。6人の発言の詳細を私は知らないが、政府のある方針に反対し、批判的意見を述べたからといって、政府の存在そのものを否定したわけではないだろう。政府に政権放棄を迫ったわけではないだろう。「反政府運動」とは言えない。言えないからこそ、そこをごまかして「先導する」と「複数の政府関係者」はつけくわえたのだろう。実際には「反政府運動をしていないようにみえる。しかし、先導している」と。
 私の、官邸は「学術会議」を「反政府運動を先導する団体」呼ばわりした、という批判に対しては、「複数の政府関係者」はきっとそう反論するはずである。「反政府運動をしている(反政府団体である)と断定していない」と。

 いまおこなわれているのは、非常に手の込んだ「罠」なのだ。「複数の政府関係者」はマスコミを利用して「学術会議=反政府団体」というレッテルをはろうとしている。もちろん、先に書いたように、「複数の政府関係者」は「学術会議=反政府団体」とは言わない。言わないけれど、そう国民が感じるようにしむける。そのことばが国民の間に浸透するように工夫する。
 「学術会議=反政府運動を先導する団体」というのは、リークされた情報なのである。「学術会議=反政府団体」ということばを浸透させるためにリークしたのだ。
 リークされた情報をどう処理するか。これは非常にむずかしい。
①官邸が、「学術会議=反政府運動を先導する団体」という認識をもっていることを「正しい」と判断し、それをそのまま公表する。
②問題が大きい認識であり、そのまま「正しい」と感じられる形で報道するのはまずい。政府認識を批判する形で報道する。
③この認識が公になれば、政府の独裁的(独断的)な姿勢が明確になる。そういう批判が起きると困るのではないかと忖度し、その報道をしない。
 大きくわけて、三つ考えられる。
 共同通信の見出しと山本さんが紹介している新聞の見出しは、どちらかといえば①である。「正しい」とは書いていないが、読者はたいてい新聞に書かれていることは「正しい」という認識で受け止める。(私のように、新聞に書いてあることはどこまで正しいのか、この情報の裏にはどんな認識が動いているか、ということを疑うひとは少ないと思う。)
 東京新聞の見出しは「反政府」という文言が刺戟的すぎる(問題がある)と考えて、「反対言動」という表現にしたのだと思う。「批判言動」ならすでに言われていることである。「批判」から一歩踏み込んで「反対」ということばにしている。これは「工夫」していると言えばいいのか、政府に配慮しているといえばいいのか、私には判断しかねる。新聞制作現場で、どんなやりとりがあったのかわからない。
 ただ思うのは、政府を批判し続けている東京新聞でさえ、こういう見出しにしてしまうことに、私はおそろしさを感じる。「学術会議=反政府団体(を先導する)」という認識に問題があるとするならば(そう感じるならば)、それを紙面にしないといけない。政府認識を批判する立場から見出しをつけ、記事を補足しないといけない。記事が共同通信から配信されたものだとしたら、その内容に対して記者が批判的な解説を書く、あるいは誰か識者(?)から批判コメントを取材し、それを紙面にするという工夫が必要である。

 ここまでは、きのう書いたことの「復習」である。そして、これから書くこともきのう書いたことの「復習」なのだが、書いておく。
 「新しいことば」に出会ったとき、ことばに接する仕事をしているひとが最初にしなければならないのは、そのことばを疑うことである。なぜ、いままでつかっていたことばではなく、別なことばをつかうのか。いままでのことばでは、何が言えないのか。新しいことばをつかうことで、いったい何をあらわし、何を隠そうとしているのか。
 たとえばコロナウィルスの拡大に伴っていろいろな「新しいことば」が飛び交うようになった。「新しい生活様式」だとか「3密」だとか「ソーシャルディスタンス」とか。
 このなかでいちばんややこしいのは「新しい生活様式」である。たしかにいままでとは違った生活様式をとらないといけない。それこそ「3密を回避する」「ソーシャルディスタンスを維持する」ということが求められている。でも、それは「新しい」と呼ぶのにふさわしい生活様式なのか。遠く離れているひとが身近に接して人生を楽しむことができない、というのは「新しい」のではなく「古い」生活様式である。世界のどこへでも行き、そこにいるひとと直接会って、ハグして、キスして、セックスもする。こういう生活は消費を拡大し、その消費の拡大が経済の拡大を支える。そういうことを私たちは「豊かな生活」と信じて行動してきた。そのための交通手段も発達してきた。それが一気に封印される。これは「新しい」生活ではなく、「古い」生活に逆戻りである。少し周りを見渡せば、すぐにわかる。客が来なくて困っているひとがどれだけいるか。飛行機会社もたいへんな赤字を抱えている。「新しい」ということばが持っている「豊かさ(夢)」は、どこにもない。それなのに、それが「新しい生活様式」と呼ばれる。
 なぜなのか。簡単である。こういう事態を招いた「政府の失敗」を隠すためである。「新型コロナ」と呼ばず、「新型肺炎」と呼んでいた今年のはじめごろ、政府がいち早く「中国封印」という方針を打ち出していたら、どうなったか。クルーズ船の対応をもっと厳しいものにしていたら、どうなったか。もちろん、こういう「後出しじゃんけん」に見える批判は、いまとなっては意味がないが、きっと状況は違っていた。日本がいち早く厳しい対応をとったから感染が拡大しなかったということになったかもしれない。台湾のように対応が評価されることになったかもしれない。そしてそれが「世界基準」になっていたら、いまの状態はずいぶん違っていたはずである。
 「新しいことば」は、大概の場合、何事かを隠している。間違いを「正しい」と言い直す(言い含める、ごまかす)ためにつかわれる。ときには、その「新しいことば」をふりまわし、「なんだ、おまえ、まだこのことばを知らないのか」と恫喝する。いまならば、たとえばマスクをしていないと「マスクをしろ(新しい生活様式を守れ)」と叱られる。「新しいことば」を知っている人間が正しい、という主張である。「新しい知識」はたしかに「正しい」ことが多い。しかし、「新しいことば」は「新しい知識」ではないし、「新しいことば」は「古い悪事を隠す」ためにつかわれることがある。
 「学術会議」を「反政府(運動を先導する)団体」と定義することは、政府が学術会議の存在を疎ましく思っていることを隠している。どんな世界にも、民主主義の国であろうとそうでなかろうと、批判は必ずある。そういう批判を「反」ということばでひとくくりにして排除するという姿勢が、今回の「政府関係者」のことばからわかる。
 この「排除」の姿勢が「反政府」ということばで隠蔽されている。学術会議が「反政府団体」なのではなく、政府が、自分とは異なる意見を排除する組織、異論を排除し、独裁を強める組織なのである。

 ことばをどう読むか。それは自分の立場をどう確認し直すか、ということである。「自分のコンテキスト」でことばを読み直す。「新しいことば」の問題点をさぐる。
 いま、私がやっているのは、そういうことである。けっして他人の「コンテキスト」を鵜呑みにしない。あらゆることばは、それなりに完結する「コンテキスト」を持っている。「ことば」をときほぐし、「コンテキスト」の根本をひっぱりだす。そして、その問題点を指摘する。





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「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



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