「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)
高橋順子の作風は結婚後大きくかわったと思う。そしてかわってからの作品が私は非常に好きだ。他者を受け入れるとは他者のために自分がどんなふうにかわってもいいと覚悟して生きることだが、それを楽しんでいる。余裕を持って高橋自信が、ゆったりとかわっていく。
「紅娘哀悼」はてんとう虫を飼った日々のことを書いているが、ここでは高橋は連れ合いと同時にてんとう虫という何を考えているかわからない生き物を受け入れる。さらにはてんとう虫を食べるネズミを受け入れる。受け入れながら、そのときどきに動くこころを淡々と語る。そこに静かなユーモアと悲しみが同居する。ゆったりと生きるとは、おかしくて、悲しいことである。
引用部分ではあまり特徴が出ていないが、高橋と連れ合いの会話の、東京弁(標準語)と関西弁の拮抗も楽しい。連れ合いのことばは対象を語りながらこころを語る。対象とこころが溶け合っている。そのとけあった場へ高橋が自然と誘い込まれ、不思議なにおいを身につけて高橋自身の場へ戻ってくる。
その動きもとても自然で、気持ちがゆったりとしてくる。
*
山本かずこ「その日わたしは草であった」。
山本も共振力というか、共鳴力というか、そういうものが非常に強く、しかも山本は自分の肉体で共振、共鳴する。こころなどわからない。こころなばわからないが、風が吹けば風を感じる。そして風を感じるとき呼吸が整う。その瞬間に、山本は世界そのものになる。世界がその瞬間「ふつうの草」であったとしても、それが「世界」であることにかわりはない。
名前のない草、どこにでも生えている草。それをとおして見えてくる世界がある。
山本の肉体をはなれないことばはいつも魅力的だ。
*
山本純子「男の子が三人」。
「ぼくの分」(わたしの分)は、私にとっていつもいつもとても大切なものだ。
高橋順子も山本かずこも他者と出会い、他者を受け入れ、受け入れることで変化しながら、そっと自分の分を大切に守っている。抱き締めている。
山本純子の詩から、再び高橋順子の詩へ戻って読み返す。
「さみしい気持ち」。この静かなことばの美しさは、そのまま最後の「わたしたちはわたしたちの羽をたたみ/ふかく頭を垂れた」につながる。
どんなときにも人は、その人にだけできることがある。
また、山本純子の詩に戻る。
「こんにちは」が「おいしい」というのは、山本が発見したことだろうか。すれ違った男の子が教えてくれたものだろうか。
両方である。区別がつかない発見である。
高橋順子の「さみしい気持ち」も「ふかく頭を垂れた」行為もまた高橋自身のものであり、同時に連れ合いが高橋に分け与えてくれたものだろう。
他者が分け与えてくれたものをしっかり受け止め、きちんと自分自身のできる形で返す。そのとき、世界は確実に美しくなる。
「詩」になる。
高橋順子の作風は結婚後大きくかわったと思う。そしてかわってからの作品が私は非常に好きだ。他者を受け入れるとは他者のために自分がどんなふうにかわってもいいと覚悟して生きることだが、それを楽しんでいる。余裕を持って高橋自信が、ゆったりとかわっていく。
「紅娘哀悼」はてんとう虫を飼った日々のことを書いているが、ここでは高橋は連れ合いと同時にてんとう虫という何を考えているかわからない生き物を受け入れる。さらにはてんとう虫を食べるネズミを受け入れる。受け入れながら、そのときどきに動くこころを淡々と語る。そこに静かなユーモアと悲しみが同居する。ゆったりと生きるとは、おかしくて、悲しいことである。
「鼠に喰われてもた むざん」
「鼠が柿なんか食べるかしら」
「何もなければ何でも食べる」
さあお食べというように
皿の上にわたしたちは
ヒデコを載せて出ていったのだった
わたしたちはわたしたちの羽をたたみ
ふかく頭を垂れた
引用部分ではあまり特徴が出ていないが、高橋と連れ合いの会話の、東京弁(標準語)と関西弁の拮抗も楽しい。連れ合いのことばは対象を語りながらこころを語る。対象とこころが溶け合っている。そのとけあった場へ高橋が自然と誘い込まれ、不思議なにおいを身につけて高橋自身の場へ戻ってくる。
その動きもとても自然で、気持ちがゆったりとしてくる。
*
山本かずこ「その日わたしは草であった」。
女と子供が去ったあと、風がやってきて わたしをしばらく揺らしてくれた そうすることで呼吸を整えよ、と言っているかのように そのあと わたしはふつうの草に戻った
山本も共振力というか、共鳴力というか、そういうものが非常に強く、しかも山本は自分の肉体で共振、共鳴する。こころなどわからない。こころなばわからないが、風が吹けば風を感じる。そして風を感じるとき呼吸が整う。その瞬間に、山本は世界そのものになる。世界がその瞬間「ふつうの草」であったとしても、それが「世界」であることにかわりはない。
名前のない草、どこにでも生えている草。それをとおして見えてくる世界がある。
山本の肉体をはなれないことばはいつも魅力的だ。
*
山本純子「男の子が三人」。
男の子が三人
向こうからやってきて
こんにちは
こんにちは
こんにちは
って、通りすぎるから
私も
こんにちは
こんにちは
って、通りすぎたら
ぼくの分がたりない
というつぶやきが聞こえた
「ぼくの分」(わたしの分)は、私にとっていつもいつもとても大切なものだ。
高橋順子も山本かずこも他者と出会い、他者を受け入れ、受け入れることで変化しながら、そっと自分の分を大切に守っている。抱き締めている。
山本純子の詩から、再び高橋順子の詩へ戻って読み返す。
クリスマスの夜
ヒデコは仰向けになったまま動かなかった
連れ合いはもう寝てしまった
あれからたった五日しか生きていなかった
連れ合いの愛人とはいえ さみしい気持ちで床に就いた
「さみしい気持ち」。この静かなことばの美しさは、そのまま最後の「わたしたちはわたしたちの羽をたたみ/ふかく頭を垂れた」につながる。
どんなときにも人は、その人にだけできることがある。
また、山本純子の詩に戻る。
こどものころ 母が
すいか、とか
ようかん、とか
おいしいものを切るとき
私の分は
って、いつも見つめた
こんにちは、も
きっと
おいしいんだ
「こんにちは」が「おいしい」というのは、山本が発見したことだろうか。すれ違った男の子が教えてくれたものだろうか。
両方である。区別がつかない発見である。
高橋順子の「さみしい気持ち」も「ふかく頭を垂れた」行為もまた高橋自身のものであり、同時に連れ合いが高橋に分け与えてくれたものだろう。
他者が分け与えてくれたものをしっかり受け止め、きちんと自分自身のできる形で返す。そのとき、世界は確実に美しくなる。
「詩」になる。