詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを「鍋島の地」

2007-04-20 23:36:12 | 詩(雑誌・同人誌)
 岩佐なを「鍋島の地」(「交野が原」62、2007年05月01日発行)。
 ちょっと驚かされた。気持ち悪くない。私は岩佐の詩を読むと、たいてい気持ち悪くなる。ところが今回はまったく気持ち悪くならない。

渋谷に割って入ると、Y字路の(人体でいえば下腹部の)あたりに妖しい池のある鍋島区域があって。昔々、ここには逞しい鉄骨の檻つめたく組まれ、その外側をデカ角の大鹿が腕組んで難しい顔をしながら散歩していたものだった。池はたまたま(またまた)深くなったり水面を拡げたりして勝手気儘にふるまってはいた。「いつまでも耀うなかれ池の波あるじなければ草もぼーぼー」と書かれた立て札に血が付いている。

 「血」ということばが印象に残らないくらい気持ち悪くない。「鉄骨の檻つめたく組まれ」の「が」の省略にかすかに岩佐の文体の不思議な粘着力、粘着力を利用してずるずるとずれていく感じが残っているが、その粘着力が減ってきている。かわりに「空隙」ができている。
 「Y字路の(人体でいえば下腹部の)」というような文体は、いままでの岩佐にはなかったのではないだろうか。肉体、皮膚感覚で、皮膚そのものを侵食して肉体の内部に入っていく感じが消え、いったん「頭」を通過するときに生まれる「空隙」のようなものを感じてしまう。
 粘着力が弱くなっているというのは岩佐も感じていることかもしれない。

なすりつけられたホリー(旅行中)のちょっとした鼻血で、いまどき猫の愛憎が、煮詰めた血色の真っ黒くねばねばした人型(偽人間)と化して悪さをしたりはしない。

 「ねばねば」ということばを必要としないのが「粘着力」である。「ねばねば」と書くのは文体に「粘着力」がなくなっててきため、それを補おうとする無意識の操作だろう。ここから岩佐がどこへ行こうとしているのか、よくわからない。
 猫の恋、血みどろの(?)戦い……がまるで童話のように描かれる。
 びっくりしてしまった。



 読売新聞夕刊に連載の松浦寿輝「川の光」も童話である。松浦独自の文体は最初の頃には感じられたが、だんだん「さらさら」してきた。童話を粘着力のある文体で書くのは難しいのだろうか。
 それとも「童話」というのは肉体ではなく「頭」で書くものなのだろうか。
 「頭」で書いた「童話」でなく、肉体で書いた「童話」をふいに読みたくなった。


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松岡政則「行方知れず」、小長谷清実「迷路の日」

2007-04-19 11:54:02 | 詩(雑誌・同人誌)
 松岡政則「行方知れず」、小長谷清実「迷路の日」(「交野が原」62、2007年05月01日発行)。
 詩のおわり方について考えさせられた。
 松岡政則「行方知れず」は2連からできている。その1連目。

あなたを
コンクリートの橋桁に圧しつけて
ハズカシイと言わせたい
ぼくは何も言わない
絶対に。
分かっている
言えば青空が台無しになる
五月の震えさえも逃がしてしまう
真昼の、剥き出しの現れに、
川つらの、目映い光にじっと耐える、
あなたにぼくは見えない
草の匂いだけがあなたの背後に広がる
ぼくは濡れた指先の無言からどろどろと溶けて
そのまま日向の行方知れずになりたい行方知れずになりたい

 最後の「そのまま日向の行方知れずになりたい行方知れずになりたい」がとてもいい。「行方知れずになりたい」が2度繰り返されているが、最初の「行方知れずになりたい」には「そのまま日向の」という修飾節があるのに、あとの方ではそれがない。こころが無駄なものを捨て去って収斂していく感じ、それが行の長さそのままにこころの底までおりてくる感じがとてもいい。
 前半の5行が「絶対に」に向かってどんどんことばが短くなるのに、それ以後は「行方知れずになりたい」まで徐々にことばが増えてくる。そのリズムと「真昼の、剥き出しの現れに、」という未消化のことば、さらに「川つらの、目映い光にじっと耐える、/あなたにぼくは見えない」の行の渡りが、「行方知れずになりたい」という理不尽な欲望(不安?)を揺さぶる感じがとてもいい。
 詩はここで終わればいいのに、と私は思うが、松岡はこのあと2連目として5行のことばを書いている。その5行は、私の印象にすぎないのかもしれないが、とてもつまらない。がっかりする。だから、ここではその5行を省略したまま、この詩の感想を終えておく。



 小長谷清実「迷路の日」の作品は松岡の詩と対照的だ。小長谷のことばには独特のリズムがあって私はとても好きだ。
 この作品にもなかほどに「あれやこれやの中からか」という美しい行がある。末尾の「か」へ向かって揺れる揺らぎにうっとりしてしまう。口がというか、のどがというか、口蓋がというか、ようするに声を発するための肉体がくすぐられる。声に出して読みたいという欲望に揺り動かされる。私は詩を声に出して読むことはしないが、その黙読のあいだも、肉体が揺り動かされる。
 もしこの行が「あれやこれやの中から」だったら、肉体はそれほど刺激されない。単に意味の上を意識が動いていくにすぎない。「か」が付け加えられているために肉体が動き、その肉体の動きが意味をどこかへ押し流し、その感じが、また「ああ、これが詩なのだ」と感じさせてくれる。
 この「か」に小長谷のことばの特徴があらわれていると私は感じている。断定ではなく、意識を中途半端にしておいて、ただリズムを感じさせ、リズムのなかで何かを発見させようとする詩--そういう作品として、私はいつも小長谷の作品を読んでいる。楽しんでいる。
 しかし、この作品に関して言えば、実は私は、「あれやこれやの中からか」という行には感心したが、それ以外は、かなり窮屈な感じがして好きではない。特に2連から構成されているこの作品の1連目が、とても窮屈に感じる。なんだかつまらないなあ、とさえ感じる。
 ところが、2連目で印象が一気に変わる。

し しっ し し し と
私は応答する
しているらしい 限りなく今も

 「私は応答する/しているらしい」が不思議な美しさに満ちている。1連目は私には「詩」とは感じられなかったけれど、2連目で突然それが「詩」に変わったという感じだ。この作品の終わり方がとてもいい。小長谷にしかできないものだと思う。
 「応答する」と断定しておいて、すぐに「しているらしい」とはぐらかす。「しているらしい」と「応答」が省略されているのも、不思議なあじわいがある。省略することで逆に「しているらしい」ことの動作がくっきりする。しかも意識としてくっきりするのではなく、こころのなかであいまいなまま(?)くっきりする。「応答」が手触りというか、何か肉体の動きそのもののように感じられる。
 「あれやこれやの中からか」にも肉体を感じるが、「しているらしい」にも私は肉体を感じる。たしかに、そこに存在している「もの」があると感じる。

 「限りなく今も」というくらいなら「応答している」のか「していないのか」、「らいし」ということばを省略した形で言えそうな気もするかもしれないが、そういうことは錯覚で、どんなに「限りなく今も」、そう感じるしかないことというのはあるのだ。そして、そういう感覚こそ「迷路」というものだろう。「らしい」の限りない繰り返しが迷路の肉体となるのだ。

 この2連目の3行のあと、小長谷には書くことがあったか、なかったか。たぶんあったと思う。もしかすると知らず知らずに書いてしまったかもしれない。小長谷は、何語か、あるいは何行か書いて、それからそのことばを消したかもしれない。
 この詩は「終わっている」というより「中断している」。そして、その「中断」が、この作品を「詩」にしているのだと思う。
 「あれやこれやの中からか」も「か」によって「中断」している。「中から」で終われば断定だが、「か」を追加することで、その「断定」から一歩退く。小長谷の「中断」は突然終わるのではなく、一歩(あるいは意識できないくらいの半歩)引き下がることにある。そして、その引き下がりのなかに「詩」がある。引き下がるのは、後ろへではなく、小長谷の肉体の内部へ、つまりこころへ引き下がるのだから。引き下がることによって「こころ」が(それをこころと呼んでいいものだとすれば、ということだが)、手触りのあるものとしてあらわれてくる。

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森永かず子「思い出」、山本まこと「少年遊戯」

2007-04-18 11:54:06 | 詩(雑誌・同人誌)
 森永かず子「思い出」、山本まこと「少年遊戯」(「水盤」1、発行日不明)。
 人間にはわかることとわからないことがある。あたりまえのことかもしれない。そういうあたりまえと思われていることがらを森永はていねいに描いている。
 「思い出」の冒頭。

思い出せることを
すべて「思い出」と呼ぶのだろうか
たった一度
車内から見たその人
過ぎていく時のなかにうつむいて
いつまでも立ちすくむ人

 2行目の「すべて」がとてもいい。
 この「すべて」はことばは「すべて」だが意味的には「すべて」というよりはきわめて限定的だ。「すべて」と呼ばれているのは「たった一度」であり、「車内から見たその人」であり、そしてその人は「いつまでも立ちすくむ人」である。
 森永は偶然見かけた人について何一つ知らない。名前も知らなければ、その人が立っている理由も知らない。そこでは「すべて」が欠落している。そういうものを「思い出」ということばにしてしまっていいのだろうか。--そういう疑問を、反語の形で森永は提出している。
 偶然見かけた人の「すべて」を知らないかわりに、ここには書かれていない「すべて」を森永は知っている。その人を見たときの森永の気持ち、そのとき感じた森永のことばにならない思い。ことばにならないけれど、まざまざと思い出せる瞬間--そのときの「すべて」を森永は知っている。
 「思い出」は森永の外(思い出している対象)にあるのではなく、森永の内部にある。こころといえばいいのか、肉体といえばいいのか、どう呼んでいいかわからないが、森永の内部にあり、それが外部とのつながりをもとめてさまよい出てくる。その不安--不安の「すべて」が「思い出」である。
 思い出せる「こと」ではなく、「思い出せる」というこころの動きが「思い出」なのだと、森永は「すべて」ということばで語っている。

 「おつかい」は駅に「ヤマダのおばさん」を迎えに行った「思い出」を書いている。ヤマダのおばさんを知らないのにヤマダのおばさんを迎えにゆく理不尽な思い出。

ヤマダのおばさん ヤマダのおばさんと
念じ続けた
出来損ないの紙飛行機のように
落下していくヤマダのおばさんが
私のなかでいっぱいになる

 ここには「思い出」では書かれていなかった「すべて」が描かれている。そのときの気持ちが書かれている。こころのなかに何が起きていたか。

出来損ないの紙飛行機のように
落下していくヤマダのおばさんが
私のなかでいっぱいになる

 この紙飛行機は実在ではない。こころがつくり出した幻である。幻は他人にとっては実在ではないが、森永にとっては実在である。--この矛盾。他人と森永とでは「実在」そのものがまったく正反対であるという矛盾のなかに「詩」がある。他人にとっての真実ではなく、森永自身にとっての真実を語る。そこから「詩」がはじまる。
 「思い出す」ではなく「思い出せる」。森永の意志を超えて、何かが動く。その動きに森永自身をゆだね、そのときの動き(ゆらぎのようなもの)を「すべて」と断定するとき、「詩」ははじまる。



 山本まこと「少年遊戯」のことばの動きは、私には高岡修のことばの動きに似ているように感じられる。山本が高岡に似ているのでもなく、また高岡が山本に似ているのでもない。同じ「教養」を生きているものが自然に似てしまうという感じの似方である。

カラスアゲハの鱗粉に汚れたシャツを精神のようにあらった夏
光陰という主題もなしに
遥かな射精のリズムに囚われ、て
少年、きみはうたうのだ

 「少年」という存在は、世界のつむぎ方が均一ではない。知っていることと知らないことが入り乱れ、認識の網目は粗い。その世界は凸凹している。そして、その凸凹に抒情がある--というのが山本の、そして高岡の「詩」である。
 山本のことも高岡のことも私は知らないのだが、二人は同じような年代なのだろう。同じような「文学教養」を生きてきたのだろう。そして二人とも幼いときから秀才だったんだろうなあ、という感じがとても強く感じられる。


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木村るみ子『異邦人』、豊原清明「赤子を抱いた中也さん」

2007-04-17 12:13:20 | 詩集
 木村るみ子『異邦人』(岳文堂、2007年04月20日発行)。
 「オマージュ」の1連目の後半。

どこかで繋(つな)がっている者たちが一様に光を放ち始める
そうしてそっとわたしを囲っていたものたちを思い出す 遠い昔話のように
そこには見えない星の配置があって
ふぅっと息を吹きかければかき消えてしまう淡さ
そんなつながりが欲しかったのではないか 或いは あなたは

 「繋がる」「つながり」。「見えない」「配置」。木村は、存在の見えないつながりをことばでとらえようとしている。そのつながりは「息を吹きかければかき消えてしまう淡さ」。淡く、弱いものであるからこそ、ことばにして定着させようとするのだろう。ここに木村の「詩」がある。「思想」がある。

そこにあるのは小さな花の環(わ)
記憶を引き寄せてはたどる無明の軌跡
それでも浮かび上がるおぼろな輪郭線

 これは「揺らぎ」の書き出しである。「小さな」「花」「おぼろ」。木村のことばは同質なものに「つながり」を求めている。同質なもののなかに存在する透明、はかない、弱いもののつながりを探している。この姿勢が一貫しているので作品はとても落ち着いている。
 それはそれでいいのだと思う。
 一方、何か物足りない。
 「つながり」というのは同質なもののなかにはもちろんあるのだが、異質なもの、たとえば花や星を踏みにじるものと花、星のあいだにもつながりがある。そういうものを取り込んで、世界を活性化し、自分をつくりかえていく--詩を書き終わったとき、詩を書くまえの木村とは違った木村に生まれ変わっている、ということもこれからは必要なのではないか、と思った。



 豊原清明「赤子を抱いた中也さん」(「白黒目」5、2007年04月発行)。
 豊原は異質なもののつながりを描いている。「わからない」ものを「わからない」まま書いている。「わからない」のになぜ書けるかというと、それが肉体に響いてくるからだ。見える。聞こえる。感じる。「見えないつながり」はもちろん見えるはずがない。ただし、それは小さく、弱いつながりだからではない。巨大で強すぎるから見えない。豊原にとって「つながり」は目の前の巨大な壁だ。豊原は、その巨大なつながりをたたく、よじのぼる、ねころんでふてくされる。そのとき、豊原の肉体が、そのまま感情となってあらわれる。
 私たち人間は「感情」をいくらことばで説明してもらっても実感できないのに、肉体についてなら何の説明もなしに納得してしまう。腹をかかえてうずくまっている人間を見れば、腹が痛いのだとわかる。自分の痛みでもないのに痛みがわかる。「みえないつながり」は私たちを一気にのみこんでしまう。「つながり」のなかへ人間を引き入れてしまう。
 「つながり」は木村のように外から眺めるものではなく、豊原のように、その巨大さのなかにのみこまれることで実感するのもなのだ。実感を強靱なロープ、巨大すぎて壁とすら思えるものにぶつかり、そこから出ていこうと悪戦苦闘する。そのときの肉体の、なにやかや、ことばにできない汗のようなものの苦しみと、同時に不思議な快感がとても楽しい。(楽しい、と書くと、豊原に申し訳ないけれど……。)
 「赤子を抱いた中也さん(一)」の冒頭。

吐息をつく度にひとつのため息が
ドブの辺りに集まって
綿飴のように
ベタベタとして
ますます憂鬱の度合いが
増してくる。
力の尽きた、団地の四階
女を抱いたこともない
くやしさは
梅の木の下、赤子のように笑う。

 「女を抱いたこともない/くやしさ」と「梅の木」はなんの関係もないように見えるかもしれない。しかしそうではなく、巨大な「つながり」のなかにのみこまれていて、その「つながり」の突破口が「梅の木」なのである。「つながり」という巨大なロープをよじのぼったのか、あるいは巨大な「つながり」という壁をぶち破ったのか、ふいに吹いてきた風のようなさわやかさ。その唐突さが、いつも気持ちがいい。
 「赤子のように」は「赤子になって」という意味である。「比喩」ではない。「事実」なのだけれど「事実」として書くと、世界がおかしくなってしまうので、世界のためを思って「比喩」の形で書いているだけなのである。
 詩を書くことで、巨大なつながりのなかから脱出する。脱出しながら豊原は「中也」になり「赤子」になる。生まれ変わる。

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入沢康夫と「誤読」(メモ6)

2007-04-16 12:36:07 | 詩集

 『夏至の火』(1958年発行)。
 「思う」ということばを入沢はどんなふうにつかっている。「樹木 その他」のなかの「石」という断章。

石の上で蜥蜴(とかげ)が眠り 蜥蜴の下で石が眠つていた 眠つ
たまま石は縦横に走ることができる それというのも石
は眼ざめている時は身動き一つできないのだから 動け
ないくせに眼ざめている時石は自分を雲だと思い また
野鼠だと思ったりする

 眠っているとき、つまり意識がないときではなく、目覚めているとき、意識がはっきりしているときに「石は自分を雲だと思」う。このときの「思い」は事実とは違う。事実ではないことを「思う」。「思う」とは事実をねじまげることである。事実を否定することである。意識的に「誤読」することが「思う」なのだ。石は自分を石ではなく雲だと「誤読」する。自分自身を「誤読」することが「思う」なのだ。
 しかも、この「誤読」には、もうひとつ特徴的なことがある。
 「また/野鼠だと思ったりする」。その「また」。「誤読」は複数存在する。そしてそれは同等の「誤読」である。ひとつの「誤読」のなかへ突き進んでゆくのではなく、複数の「誤読」をかかえこむ。
 「誤読」した「内容」(雲、野鼠)に意味があるのではなく、「誤読する」という動作(動詞)に意味がある。「内容」ではなく、「誤読する」ということこそ、入沢は欲している。
 「思う」とは「誤読する」ことだ。動きだ。動きのなかにあるエネルギー、動きを成立させる力--そういうものを入沢は明るみに出そうとしている。
 「雲」と「野鼠」は明らかに違った存在である。しかし「誤読する」というエネルギーにとっては、それは同等のものである。「石」であることを否定し、石以外のものへ向けて自分自身を変形させる意志が「誤読」である。
 「世界」を変える--これは「革命」である。世界をそのままにして自己を変える。そういう「誤読」とは、それではいったい何だろう。何と呼べばいいのだろう。今はまだ私にはわからない。 



 「自己改革」「自己変革」としての「思う」。それと対比してみたいことばがある。「考える」。「樹」のなかに出てくる。

ポータブルタイプライターを持った甚だ非個性的な娘が
街角に立つて突然聞えてきた会話に--無遠慮な会話に
当惑している 彼女は自分がかつて樹であつたことを知
つている人があろうとは考えもしなかつた

 自分自身については「思う」が、他人については「考える」。正確に使い分けているかどうかはこの2例だけでは判断できないが、入沢は「思う」と「考える」を使い分けているかもしれない。「思う」は「こころ」で思う。「考える」は「頭」で考える。そういう使い分けがあるのではないか。(これは、私の予測である。すぐに判断できるほど、私はていねいに入沢のことばを読んで来なかった。)
 自分自身については「誤読」するが、他人については「誤読」しない。「誤読」の対象はあくまで自分自身、自分の思いを優先させることが「誤読」なのである。

 この詩は、「彼女」が「自分がかつて樹であつた」と「誤読」している作品だ。そんなふうに自分を「非個性的」(特別な)人間だと「誤読」している。タイプがへたなのは、彼女が樹であったせいだと「誤読」しようとしている。
 その「誤読」するこころを見透かしたように、たとえば同僚の誰かが「まるで彼女の指は樹木の枝のように固い。スムーズに指が動かない。だからタイプがへたなんだ」と陰口をたたく。その陰口、批判のなかに「樹木」という「比喩」が出てくる。他人の「比喩」と彼女自身の「誤読」が重なり合う。そのことに彼女は驚いている。

 「比喩」とはまた、そこにあるものを、そこにないもので把握することである。そこにも事実のねじまげがある。「比喩」にもほんとうは、その比喩を使ったひとの「思い」が込められている。他人の「思い」と自分の「思い」が重なっている。そのことを彼女は「こころ」で「思う」のではなく、「頭」で正確に「考える」(判断する)。「考える」は「理性」の運動である。

 「比喩」にしろ「思う」(想像力)にしろ、それは今、ここにあるものとは違うものをありありと感じることだ。その「ありあり」のなかには、つねに「こころ」がある。事実とは無関係に、かってに動いてしまう欲望がある。「比喩」「想像力」のなかには、人間の根源的な生きる力のようなものがある。「誤読」でしか共有できない何かがある。
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ジョエル・コーエン、イーサン・コーエンほか監督「パリ、ジュテーム」

2007-04-15 15:26:48 | 映画
 18話のオムニバス。あまりにも断片すぎていて、忙しすぎる。一番おもしろいのは、ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン監督の部分だ。
 ほかの監督が「人生」を描こうとしているのに対し、コーエン兄弟は「人生」を拒否している。「人生」ではなく「日常」を描こうとしている。「人生」は自分の中でつみかさねられる時間である。「日常」は自分と他者との出会いの瞬間に存在する時間であって、それも自分の時間には違いないのだが、ウェートはどうしたって他人に置かれる。人間が生きている「現場」では「私」よりも「他人」の方が圧倒的に数が多いからだ。
 主人公はパリの地下鉄で向かい側のホームの若いカップルを目撃する。いちゃいちゃしている。目が合ってしまう。そして「何を見てるんだ」と言いがかりをつけられ殴られる。コーエン兄弟は、このスケッチを、若いカップルと主人公に限定せず、孫をつれた婦人と孫、ホームミュージシャンをも取り込んで描く。主人公の時間は、出会った他人との「1対1」ではなく「1対複数」のなかで分断され「人生」になりえない。どうしようもない。他人のなすがままである。
 この感じが旅行者の感覚とぴったり重なる。「旅は人生」などということばがあるが「旅は日常」である。激しく「日常」である。「日常」以外の何物でもない。
 主人公にとって「人生」はモナリザの微笑みである。男に殴れたあと、紙バッグ(だったと思う)からルーブルで見たモナリザの絵葉書が無数にこぼれ落ちる。主人公はモナリザを見ることに「人生」の意味を感じていた。しかし、そんな思い込みの「人生」は「日常」で簡単にばらばらにされてしまう。--ここに、人間が生きていることのおもしろさがある。
 人は誰でも「人生」を生きている。しかし、その「人生」はいつでも「日常」によって分断される。その瞬間、あなたは、自分のいのちをいとおしく感じますか? 「人生」を分断していった他人を許し、受け入れることができますか? 他者を受け入れることができたとき、たしかに「パリ、ジュテーム」という気持ちが生まれるのだと思う。
 「パリ」は他人が他人のまま生きている「日常」の時間でできている。パリにすんだことはないけれど、たしかにそう思う。その感じをコーエン兄弟の作品は笑いのなかに(悲しい笑いのなかに)くっきりと浮かび上がらせている。
 他の作品は「人生」を描こうとして、短さにつまずいている。


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入沢康夫と「誤読」(メモ5)

2007-04-15 15:04:48 | 詩集

 『夏至の火』(1958年発行)。
 入沢の詩には「物語」がある。ストーリーがある。ただし結末があるといっていいかどうかはわからない。小説のように主人公の抱えている問題が解決した、という印象を残して詩が終わるわけではない。ただことばが動いてゆく。「物語」があるというよりも、ことばが、「いま」「ここ」から別の世界へ動いてゆく運動があると言い換えた方がいいかもしれない。そのことばを動かしているエネルギーは何だろう。

 「誤読」と類似のことば、「混同」が出てくる作品がある。あるものを別のものと混同したとき誤読ははじまる。その「混同」。
 「犠牲」という作品。書き出しの5行

今日三人の兵士をつれて私は歩いていた 三人の兵士に
つれられて私は歩いていた 空間には赤いスカーフが揺
れ そこここで獣たちが交尾していた 水辺で花火 花
のない地帯で
それは唯一の花の記憶と混同される

 「花火」と「花」の「混同」。こんなことは実際にはありえない。花火は夜。花を見るなら昼。それなのにこの混同に私は「詩」を感じる。「花」ということばが引き起こす錯乱にのみこまれてしまう。
 「花火」は「花」ではない。そう知っていて、人はそれを「花・火」と名づけた。呼んだ。「誤読」はその瞬間にはじまっている。入沢が「誤読」したのではなく、「誤読」は「花火」ということばのなかにあり、ことばのなかにある。これは、そのことばをつかう日本人の意識のなかに「誤読」があるということだ。ぱっと開き輝く何か。その何かはすべて「花」なのだ--という「誤読」を入沢は積極的に受け入れている。受け入れるだけではなく、それを強調もしている。

それは唯一の花の記憶と混同される

 散文形で書かれながら、この1行だけが独立している。その独立した行のなかに「混同」ということばがある。
 そして、この1行には「混同」と同じように「誤読」にとって深い関わりのあることばがある。「記憶」。
 「花火」はそれを見た瞬間に「花」と「混同」されるわけではない。そういうことは実際にはありえない。「混同」されるのは「記憶」のなかにおいてである。「記憶」は直接対象と向き合っていない。「記憶」はことば(イメージ)といっしょにある。今目の前に存在しないものといっしょにある。
 「誤読」は「記憶」のなかにおいて、精神の動きのなかにおいて起きる。「誤読」は肉眼ですることがらではない。肉眼がかかわるにしろ、そのとき肉眼は、「記憶」あるいは精神の動きによって影響を受けている。精神が「誤読」を欲するのだといってもいい。

 精神は目の前にあるものを、事実をそのまま受け入れるとはかぎらない。むしろ受け入れたいように事実をねじまげて受け入れる。書き出しの2行にそのうした精神の動きが描かれている。

今日三人の兵士をつれて私は歩いていた 三人の兵士に
つれられて私は歩いていた

 事実はどちらか一方である。兵士をつれて歩いていたのか。兵士につれられて歩いていたのか。入沢は、ここではそれを特定したくない。なぜ特定したくないのか。特定すれば、「私」の肉眼は兵士と私の関係に支配されて、自由な「誤読」ができないからだ。
 「花火」を「花」と「誤読」するのは、兵士をつれて歩いた私か、兵士につれられて歩いた私か、その判断を読者にまかせたいのだ。「私」の肉眼が「関係」に特定されないがゆえに、視線は自由に動き回る。
 「誤読」は「自由」とどこかで通じ合っている。これが入沢の「詩」の形だ。

 2連目にも印象深いことばがある。

背中を鉛の塊りが圧しつける夏の第一日あるいは春の最
後の昼日中に 円卓はわずかづつ回転して 私と 兵士
らをまざまざと青い鎖でつなぎとめる

 「つなぎとめる」。「誤読」とは何かと何かをつなぎとめることである。本来関係ないものをつなぎとめることから「誤読」ははじまる。「花火」と「花」。ぱっと開いて、ぱっと散る。その運動が「花火」と「花」を「つなぎとめる」とき、「誤読」は成立する。つなぎとめる「もの」、媒介は、人間の精神である。こころである。花火はぱっと開いてぱっと散る。花もまたぱっと開いてぱっと散る。こころが、そういうふうにとらえないかぎり、ふたつはつなぎとめられない。「誤読」されることはない。
 このつなぎとめを、入沢は「まざまざと」ということばで強調している。
 私が兵士をつれて歩いているのか、兵士につれられて私が歩いているのかは判然としない。「まざまざと」は意識されない。そのかわりに、私と兵士とのあいだにあるもの、風景が「まざまざ」と意識される。
 ある存在と存在(人物と人物)の関係が、人間の力関係(?)ではなく、そういうものとは無縁の「風景」によって「つなぎとめ」られる。
 ここにも入沢の作品の重要なポイントがある。
 「私」の意識が世界を構築するのではなく、世界の存在(風景)が、あるいは風景のなかに紛れ込んでいる「日本人の意識」が「私」に働きかけて、その働きかけを受け止めるとき、世界が手触りのあるものとなって立ち現れる。「私」の意識のほかに、「歴史」の意識が作用している。だからこそ「誤読」するのだ。
 「花火」も「花」も入沢がつくりだしたことばではない。すでに存在している。そのことばには、そのことばをつかってきた人間の意識が潜んでいる。そういうものを浮かび上がらせ、同時に積極的に、人間の意識の中へもぐりこみ「誤読」する。それが入沢の詩である。
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エドワード・ズウィック監督「ブラッド・ダイヤモンド」

2007-04-14 15:20:52 | 映画
監督 エドワード・ズウィック 出演 レオナルド・ディカプリオ、ジャイモン・フンスー、ジェニファー・コネリー

 レオナルド・ディカプリオはあいかわらず透明感がある。彼の演技を見ていると、いつも、その透明感の向こうに自分のこころが見るような錯覚に陥る。たとえば「ギルバート・グレイプ」。ディカプリオの演技、肉体、こころを見ているはずなのに、自分自身のなかにある「純粋な何か」を見たような気持ちになる。肉体をとりはらって、こころの闇をとりはらって、無防備なままそこに存在している感情--それをみつめている気持ちになる。肉体の動き、表情に同化するというより、こころそのものに同化してしまうような錯覚に陥る。こういう役者の場合、「純粋な少年」がとても似合う。そして、「不透明な男」は似合わない。「タイタニック」も「アビエーター」さえも「純粋な少年」だった。「不透明な男」ではなかった。「ディパーテッド」も嘘に嘘を重ねて生き抜く恐怖のなかに「純粋な少年」が生々しい形ででていた。小学生の感想文ではないが「自分だったら……」と引き込まれていく神経のぴりぴりした感じに「純粋な少年」がでていた。
 「ブラッド・ダイヤモンド」も最後は「純粋な少年」になるのだが、ちょっとなあ……と思ってしまう。
 最後にみせる「純粋な少年」によって映画のメッセージを強調するというのは、あざとくはないか。「少年の純粋さ」によって世界を動かすというのであれば、家族を奪われ、反政府軍(解放軍?)の少年兵にさせられてしまった少年の視点から映画をつくりなおすべきだろう。
 ダイヤモンドによって自分の生活を一変させる--そういう一攫千金の夢のために何でもする男、「不透明さ」を押し出し、誰にもこころをみせない、そういう人間をどんなふうにディカプリオが演じるのか興味があったが、やはりそういう人物像をディカプリオは演じることができなかったというか、そういう展開の映画にはならなかった。
 最後はただただ「純粋な少年」になってしまう。
 映画ではていねいには描かれていないが、ジェニファー・コネリーの告発記事も、ジャイモン・フンスーの告発演説も、最後のよりどころというか、論点の底にディカプリオがみせた「純粋な少年」がいる。もちろん映画を見ている観客の「ダイヤモンドは血によごれている」という意識、「ダイヤモンドは買うまい」という意識の底にも「純粋な少年」としてのディカプリオがいる。ディカプリオが自分を犠牲にしてジャイモン・フンスーを救った、その行為にこたえるためにも「ダイヤモンドは買うまい」という意識が動く。
 こういう意識の動かし方、操作というのは、私はどうも好きになれない。
 ディカプリオが最後にみせた純粋さ(少年の純粋さを通り越して人間の純粋さ、かもしれないけれど)への共鳴ではなく、前半部分の悪人・ディカプリオへの批判がダイヤモンドを買わないという動きにつながらないかぎり、この映画で描かれている不幸はなくならない。同情・共感は大切なものだが、同情・共感ではなく、批判によって社会をしっかり見つめなおすという視線が必要だ。批判力を育てるという形で映画が展開しないかぎり、「ハリウッド映画」で終わってしまう。



 閑話休題。
 この映画でディカプリオはアカデミー賞の主演男優賞の候補になった。この作品でノミネートされた瞬間からディカプリオは賞を逃していたのは明白だ。
 アカデミー賞は「対」がとても好きな賞である。「キング」に対して「クィーン」は最初から決まっている。「キング」がアフリカの実在の「悪人」なら、その対抗馬もアフリカの「悪人」でなければならない。「ディパーティッド」のような「善人」であっては比較の対象として困るということだろう。
 またアカデミー賞はいつでも「実在」の人物が好きだ。実在の人物にどれだけ接近するか。演技というのは「ものまね」ではないはずなのに、アメリカでは「そっくり」が評価の重要な基準になっているようだ。昨年の主演男優、女優も実在の人物を演じ、ことしもまた実在の人物であった。

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岬多可子「桜病院周辺、春」

2007-04-14 14:20:47 | 詩集
 岬多可子「桜病院周辺、春」(「樹林」25、2007年03月16日発行)。
 高見順賞受賞作『桜病院周辺』のなかの一篇が転載されている。

(重)

八重の桜が重くて
眠い。
熱帯の河を
暗い部屋に流れる映像で見ていると
自分の腕や脚が嵩を増し
他人のもののように思えてくる。
他人の腕や脚。
そんなものを運ぼうとしたら
重いだろうな、
思いどおりにならないだろうな。
春の
雨を含んだ夜に
ものを切、断、する音がある。
重くて眠い音。

 春の倦怠感--その体で感じる重力がとても自然だ。

他人の腕や脚。
そんなものを運ぼうとしたら
重いだろうな、
思いどおりにならないだろうな。

 「重い」と「思い」はことば遊びだが、思考が「遊ぶ」ことでしか動かない、そういう倦怠感と重なり合う。
 重なるはずのないものが重なり合い、重なり合うことで動いていく。
 それは、「八重の桜」と「重い」、「重い」と「熱帯の河」の水の「重さ」、さらには「熱帯の河」水の量、「嵩」(水嵩)へと揺れる。そしてそれは「自分」と「変化してしまった自分」、眠くて、体中が重くて、まるで「他人のように感じる自分」(他人)への移動を、まるで熱帯の大河の水が海や流れるように、ゆらゆらとたゆたいながら、自然に動かしていく。
 ものうさ、倦怠とはたしかにこうしたものだと思う。
 「重い」「思い」は重なり合って「重い思い」になる。「重い」といっても持ち上げられない重さではなく、「重い」と「思って」しまう程度の重さ。
 「重い思い」はまた「思い思い」でもあるのか、思考はひとつにまとまることをいやがって、すぐにほかのことへと逃げていく。

雨を含んだ夜に
ものを切、断、する音がある。

 「切断」ではなく「切、断、」。ほんらいひつとのものがばらばらになっている。倦怠感の重力は、思考を、そんなふうに分離させる。

 倦怠感がそのままことばの肉体を獲得した、とてもすばらしい詩だと思う。


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くらもち さぶろう「かぜ にわ くち が ない」

2007-04-13 22:40:30 | 詩(雑誌・同人誌)
 くらもち さぶろう「かぜ にわ くち が ない」(「ガニメデ」39、2007年04月01日発行)。
 くらもちには世界がどんなふうに見えているのだろう。世界の存在がすべて溶け合って見えているのだと思う。そして、溶け合っているけれど、常に、その瞬間瞬間において個別の形をとろうとしている。
 「かぜ にわ くち が ない」の書き出し。

かぜ わ
ひくい いえ の やね を こえて
たかい ビル の
わき を すりぬける
ひふ を すりむく こと も なく

 最初は風しかない。風が世界の始まりとして存在する。その風が動くと、低い家が生まれる。屋根が見えてくる。さらに動いてビルがあらわれる。ビルの「わき」があらわれる。くらもちは風の動きを見ているだけではない。風そのものになって動いている。それだけではない。動きながら、同時にビルにもなっている。ビルの「わき」。「すりぬける」。それは、両方ともくらもちなのである。ビルの「わき」であると同時に、そこをすりぬける風。あるいは風がすりぬけることによってはじめて意識されるビルの「わき」。その肉体感覚。それに刺激されて、ふいに皮膚感覚が目をさます。「ひふ を すりむく こと も なく」。
 風はもちろん肉体ではない。けれどもくらもちには肉体があるから、彼が風を見つめ、風になるときには、どうしてもそこに肉体が紛れ込む。風と肉体が一体になり、そこから世界がはじまる。世界は、くらもちにとって肉体でもある。くらもちの肉体が世界でもある。それは区別がつかない。区別がつかないものであるけれど、瞬間瞬間には別個の存在として、今、ここ、に存在する。

あたたかい ち の ながれる
ほお に キス する
くろい かみ を なでる
でも かぜ にわ くち が ない から
いやがる ひと わ いない
かぜ にわ て が ない から
さわった と いって おこる ひと わ いない

 風--肉体としての風は、「いやがる」「おこる」という感情にもなる。この変化も、とてもおもしろい。肉体は肉体であるとは言えない。肉体はあるときは肉体としか見えないけれど、別の瞬間には感情そのものでもある。世界のあらゆる存在、肉体、感情は、溶け合っている。そして、その溶け合った世界から、何かが、瞬間瞬間、独立して浮かび上がる。
 しかし、これは独立というものではないかもしれない。
 あるひとつとして浮かび上がることで、世界を深める。立体的にする。明確にする。なんといえばいいのか私にはまだわからないけれど、浮かび上がった一つ一つの事柄が、世界そのもののなかへ私たちを導いてくれる。
 くらもちのことばには不思議な往復運動が隠されている。溶け合った世界からことば(ことがら)が浮かび上がり、同時に、その浮かび上がったことがらが私たちをもう一度すべてが溶け合った世界--始原の世界へと誘い込む。その誘い込みにしたがってくらもちのことばを追いかけるとき、私たちの内部で世界がはじまる。

 くらもちのことばは「分かち書き」によってばらばらに存在しているように見える。「かぜ わ」の「わ」のように日本語の正字法に反した表記もある。「わ」は「音」として意味から切り離されている。そこに特徴的にあらわれていることだが、くらもちは「意味」と「ことば」をひきはなしてしまう。「ことば」そのものとして独立させてしまう。この独立は「解放」ととらえなおすとき、くらもちのやっていることがいっそう明確になるかもしれない。
 世界は、そして世界に「流通」していることばは「意味」によって(あるいは「価値」によって)、しばりつけられている。それをくらもちは切り離す。ばらばらにする。「意味」から解放されて、ことばは混じり合う。存在は溶け合う。なんのつながりもないことば、存在、ことがらが自在に飛び回っている。その自在な動きのなかに、世界そのもののエネルギーのようなもの、自在な動きそのものをささえる何かが、たとえば肉体感覚(皮膚感覚)、感情が、今までなかった動きを獲得する。それが「詩」だ。

 ことばを縛りつけ、あるいはねじまげ、そこから生まれる力を利用して突き進む詩がある。一方で、くらもちのようにことばをただひたすら解放することで、そこからはじまる世界にかけようとする詩もある。


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くらもち さぶろう「タバコ」

2007-04-12 12:08:32 | 詩(雑誌・同人誌)
 くらもち さぶろう「タバコ」(「ガニメデ」39、2007年04月01日発行)。
 たばこと人間の関係が逆転している。逆転しているのに、たしかにこの関係はありうると思う。

しろい ふく の タバコ が ニンゲン を
すって いる
この よ にわ こんなに うまい もの わ
ない と いう ように
め を ほそめて すって いる
すばらしい かんがえ が うかぶ か の ように
まじめな かお を して すって いる

うす むらさき いろ の けむり と なって
テンニョ の ころも の ように
ゆるやかに まい ながら
そら に のぼって いく
よごれた この よ を すてて
たましい が そら に のぼる ように

 なぜ、この関係がありうると感じてしまうのだろうか。たとえば私たちはたばこか人間にとって害であり、いのちを縮めることを知っている。くらもちの詩を読みながら、たばこを吸うことはたばこにいのちを吸い取られることだということを感じ、「しろい ふく の タバコ が ニンゲン を/すって いる」を寓話として受け止めているのだろうか。
 4連目。

ち が ぜんぶ すいとられて
かわいて かさかさ に なる と
あたま も むね も はら も
もえつきた かみ の ように
かぜ も ない のに
ひとりでに くずれて きえる

 こうした行を読むと「寓話」に意識がどんどん傾いてゆく。
 だが、これは「寓話」なのだろうか。たばこを吸うことで人間はいのちを縮める。たばこの火が燃え尽きるように人間も燃え尽き、焼いた肉体はくずれる……。
 「意味」が成立するだけに、そういう「意味」にどうしてもすがりつきたくなる。「寓話」と思って読んだ方が楽に読むことができる。

 だが、くらもちは、今書いたようなことを書こうとしているわけではないのだと私は思う。もし「寓話」を描きたいのなら、もっと簡単に書けるだろう。この作品ではことばがそれぞれ独立しているかのようにぽつんぽつんと「分かち書き」で書かれている。「寓話」という意味の連続、現実世界と平行してある架空の世界を描くなら、どこまでも連続カンを感じさせる書き方の方がわかりやすいだろう。
 ところがくらもちはそういう書き方をせず、ことばを「分かち書き」する。その書き方こそがくらもちの詩であり、思想だ。

 くらもちは、まず、たばこと人間が「一体」であるということを書く。人間がたばこを吸うとき、人間とたばこは切り離せない。たばこという存在がなければ、人間はたばこを吸うことはできない。ふたつは分離不能である。たばこと人間は、たばこを吸えば人間のいのちは縮まる。それはたばこによって人間のいのちが縮むということだ、という「意味」によって人間とたばこが「一体」となるのではない。意味ではなく、たばこの煙が人間の体の中へ入ってきて、また出ていくという運動、時間そのものと一体になる。
 意味、とりわけ死とか敗北とか悲しみという意味によって人間と人間以外のものが「一体」となるのは抒情のひとつの手法だが、くらもちの「一体」は抒情とは違う。
 悲劇的、そしてセンチメンタルな意味を放棄することでくらもちの描くたばこと人間は一体になっている。「この よ にわ こんなに うまい もの わ/ない」。幸福の、ことばにならないことばによって人間とたばこが一体になっている。ありふれたことば、だれもが口にすることば、そういう単純なことばが共有される。共有され、たばこと人間のあいだで区別がつかなくなっている。
 この世界に幸福があるとすれば、こういう区別のない世界である。
 私と私以外のものがとけあってしまって、そのどちらが「主人公」でどちらが「脇役」かわからなくなる。その区別がなくなったことを手がかりにして、私と世界との区別もなくなっていく。私が世界になってしまう。--その喜び。喜びに「意味」はない。ただ充実感があるだけだ。
 くらもちは「うまい」ということばそのものとも一体になり、「うまい」ということばを書いたときは「うまい」そのものなのだ。

 くらもちはたばこを吸っているとき、たばこと一体であり、世界はたばこをすっている、たばこがうまいというだけの世界である。すべての存在の区別が消え、単純にたばこがうまいという充実感だけがある。
 すべてが「一体」になってしまっているからこそ、ある意識の瞬間瞬間、世界そのものとして一個の単語が独立しても気にならない。というか、あらゆる瞬間瞬間に、あらゆる存在、あらゆる感覚、感情が浮き彫りになって、その立ち上がってきたことばそのものが世界の全体なのである。

 くらもちは詩のことばを、激しく「分かち書き」している。ことばがそれぞれ独立して、ぽつんぽつんと置かれている。つながっていない。
 つながっていないけれど、それは「孤立」とは違う。
 「孤立」ではなく、全体なのだ。世界そのものなのだ。世界がそれぞれのことばのなかに、瞬間瞬間、凝縮して存在する。くらもちが書こうとしているのは、そういう世界だ。とてもおもしろい。


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進一男『続続進一男詩集』

2007-04-11 22:30:28 | 詩集
 進一男『続続進一男詩集』(沖積社、2009年02月20日発行)。
 『豚と私と』のなかの「豚の擁護」。その書き出しが美しい。

夢を見ていた
豚軍団が襲っていた
失われた美を奪回するために

幼い日
裏庭の片隅に豚小屋があった
子豚のブータが住んでいた

 子豚をブータと呼ぶ単純さ。その単純さのなかに美しさがある。幼い日々の美しさがある。子豚をブータと呼ぶとき、進は豚が好きだったはずである。好きとは、このとき、おもしろいとほとんど同じ意味である。尾の形も、尻の形も、人間とは違っている。ほかの動物とも違っている。そのことがうれしかったはずである。違っているものを見て、驚き、うれしいと思うこころ--そこに美しさがあり、その美しさが「ブータ」という命名のなかにある。人は好きなものに名前をつけたい。名前をつけることで自分のものにしてしまいたい。その単純な欲望のなかにある輝かしいまでの美しさ……。
 しかし、この美しさは「失われた美」である。
 一瞬にして、消えてしまう。3連目。

おお
いとしい豚よ
尾を振り尻を振り
ぶうぶう泣くものよ
私の影が丸い豚になるとき
私は私自身に呟く
人間この愛すべき豚よ

 「人間この愛すべき豚よ」。こういう意識によって「美」は失われる。そこには「ブータ」はいない。ブータと名づけた生々しい喜びもない。そのかわりに「豚」という「概念」がある。喜びから遠い、さめきった「頭」だけがある。
 「概念」にも美はあるかもしれない。しかし、その美はよほど厳しくことばを動かさないと見えて来ない。
 「概念」が動きはじめると、肉眼は目をつぶる。何も見なくなる。脳が、脳の中だけをみつめる。
 「尾を振り尻を振り/ぶうぶう泣く」豚は姿を消す。手で触ったときの感触、いっしょに走り回ったときのでたらめな動きの楽しさは消える。汚れる楽しさ、汚くなる快感が消える。そのかわりに、「私の影」が大きくなる。「私の影」ということばが象徴的だが、「概念」というのは「影」なのだ。そこには「実体」はない。それはブータに触るようには触れない。触ることができるのは、影ではなく、影をうつしているもの、たとえば地面、たとえば壁。それは豚とは似ても似つかない。尾も振らなければ尻も振らない。そして、進を汚したりもしないし、その結果として、「汚い」とたとえば母から叱られるというようなこともない。(叱られること、母を困らすことも、子どもにとっては一種の喜びだが、そういうものはいっさい消えてしまっている。)

 「概念」は命名(名前をつけること)とどこか違うか。
 豚に名前をつけるとき、自分のことばで名前をつける。ところが「概念」は自分のことばではない。多くの人によってすできに共有されていることばである。他人がつかっていることばに自分の思いを合わせていく、ととのえていく、ということがおうおうにして起きる。
 「豚を軽蔑してはならない」という行が6連目に出てくるが、豚と軽蔑を結びつけるというのは「概念」である。否定形で「軽蔑してはならない」とは書かれているが、ここにはすでに豚=軽蔑(侮蔑)の別称という多くの人によって共有された思いがある。
 豚をはじめて自分のものと感じた喜びはここにはない。美しさはない。

 私は、こういう作品が嫌いだ。
 「子豚のブータが住んでいた」という美しい行がなければ、そんなに嫌いにはならないのだが、その美しい行ゆえに、この詩が嫌いだ。なぜ、こんな美しい行を書いた進が「人間この愛すべき豚よ」と簡単に書いてしまうのか。
 子豚をブータと呼んだ幼い日、進は「人間」であるよりも、子豚ではなかったか。子豚そのものになっていなかったか。子豚と自分の区別がつかない幸福を生きていなかったか。区別がない世界を生きるという美しさに輝いていなかったか。
 その輝きを消してゆく「影」--その「影」について語る進の気持ちが私にはわからない。
 汚れる喜びを捨てて、「影」という暗い(--比喩として、汚い、でもあるのだが)けれど肉体を汚すわけではないものに、さっと身を翻してしまうのか、その気持ちがわからない。
 だから、嫌いだ。
 「影」は肉体を汚さない。しかし、たぶん精神を汚す。「概念」は「頭」を汚し、精神を汚す。そういうことに無頓着なまま「概念」を導入することで、何らかの「意味」を装う姿勢が嫌いだ。



 詩集の「帯」を古賀博文が書いている。この文章に私は腹が立ってしまった。帯の文章に腹が立ってしまって、そのまま「豚の擁護」の感想を書いたので、先の感想にはかなり不当なもの(?)が含まれているかもしれない。

今日までの進一男の真摯な創作活動の様態や近年の彼の出版点数の夥しさなどを鑑みるにつけ、一笑にふせない切迫した意志をつい感じてしまう。

 「一笑にふせない」とはどういう意味だろうか。無価値なものとして問題にしないということはできない、ということだろうか。こういう発言は、進の作品を無価値なものとして問題にしないという意見が存在することを前提としている。「つい感じてしまう」もなんという言い方だろうと、無性に頭に来る。
 いったい誰が進の作品を一笑にふしているのか。
 そして、古賀がほんとうに進の作品に切迫した意志を感じるなら、進の作品を「一笑にふしている」批評を徹底的に批判するか、あるいは完全に無視して、ひたすら進の作品を紹介すればいいだろう。なぜ、わざわざ「一笑にふしている」批評があるということを語る必要があるのだろう。「つい」などという軽いことばで、何を語ろうとしているのだろうか。「つい」、ほんのちょっと感じたことではなく、ずーっと感じ続けていることを書けばいいだろう。誰が進の作品を「一笑にふしている」のか不勉強な私にはわからないが、そのことに対して古賀が疑問に感じているなら、それは「つい感じてしまう」(ちょっと感じてしまう)というようなものではないだろう。

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松尾静明「キャベツの癖」ほか

2007-04-10 11:37:12 | 詩(雑誌・同人誌)
 松尾静明「キャベツの癖」ほか(「鰐組」221 、2007年04月01日発行)。
 松尾静明「キャベツの癖」は比喩のなかに人事を持ち込むことで抒情をつくりだす。

内側へ内側へ主張を巻き込んでいくことが
外側をふくらませるのだと 知っている処世の術(すべ)のことも

 「内側」から「外側」への視線の転換。矛盾を凝縮させる方法としての比喩。ちきんとした文体だ。きちんとしていて悪いわけではないのだが、きちんとしすぎているために抒情が予定調和的で、それがすこし窮屈だ。



小林尹夫「棲息29」。

食べる、という労働。瞬間の楽しみ。刻々消える楽しみ。
食べなければ、私は幸福も楽しみも得られない。
ごちそうは腐敗し、とてけ流れる。私は石になって流れる。
待つ。待ち続ける。この時間は過ぎ去らず、いのちだけが過ぎ去る。

 同じことばを繰り返す。「楽しみ」「食べる」「流れる」「待つ」「過ぎ去る」。繰り返しのリズムをつくりあげておいて、主語を変化させる。そのとき動詞が「比喩」になる。ことばにならないことばが凝縮して、どこにも存在しなかったことばに。
 「とけて流れる。私は石になって流れる。」がとてもおもしろい。
 「石」が比喩なのではなく、「流れる」ということが比喩なのである。石はもちろん普通は流れない。とても小さな石か、とてもエネルギーに満ちた流れの場合をのぞいては。小林は「私」を「(ちいさな)石」ととらえているのではなく、何か巨大な「流れ」があるということを隠した形(比喩)で伝えたいのだ。隠した形で--というのは、間違いのない形で、ということである。ことばで正確に書こうとすればするほど、つかったことばの数だけ間違いが増えてゆく。そういうことを避けるために比喩を持ち出し、一気に書きたいことを結晶化したまま投げ出す。その結晶が読者という光線を浴びて、複雑に解体され、その仮定で小林の考えていることが明らかになるのを待っているかのようである。


 言いなおそう。
 「流れる」--「流れ」は不思議である。
 「ごちそうは腐敗し、とけて流れる。」腐敗したものは流れる。「私は石になって流れる。」は「私は腐敗せず、とけることもなく、石のように固い固体のまま流れる。」というのがたぶん普通の読み方だろうと思う。「石」を比喩ととらえて小林の「抒情」を理解するのがたぶん普通の読み方だろうと思う。
 しかし、これではつまらないと思う。小林がことばを繰り返している意味がないと思う。「石」ではなく、繰り返されることば、その繰り返しにこそ小林の詩を書く意味があるのだと私は思う。
 「ごちそうは腐敗し、とけて流れる」と「私は石になって流れる」では「流れる」の意味が違う。後者は「私は石になって流される」(私は石のように自分を守ったまま流される)ということである。「流される」のは「流れるもの」(流れ)があるからだ。その書かれていない「流れ」そのものに眼を向けてほしくて、小林は「流れる」ということばを繰り返しているのだ。
 3連目に「流れる」はもう一度出てくる。

上(かみ)から、倫理や論理や論難やが、流れてくる。

 「流れる」は「流れてくる」にかわっている。「流れてくる」の方が「流れる」よりも「流れ」が見える。「流れる」ときは「流れ」そのものを見はしない。「流れる」とは自分が流れるであり、「流れてくる」は自分以外のものが「流れる」のである。「私」を一点に固定させておいた方が「流れ」は見えやすい。
 「流れ」。「倫理や論理や論難や」の流れ。
 それが見えますか、と小林は問うているようである。どんな「流れ」が世界を作っているか、それを言えますか、と問うているのである。その問いが「私は石になって流れる」と「流れる」のなかにある。繰り返されたことばの、 2度目のことばのなかにある。
 おなじようなことが、「楽しみ」「待つ」「過ぎ去る」にも起きているはずである。それをどこまで探してゆくことができるか--それが小林の作品を読むということなのだと思った。



 仲山清「設計士の帰郷」。

そう 重い足音の持ち主が
おまえのからだに踏み込んだのだ

 「そう」が書きたかったのだと思う。自分であれこれ考える。その考えを自分で肯定する。ほかに、誰も肯定しないから、自分で自分を肯定するしかないのだ。
 肯定するものが自分しかいないということは、「肯定」されたことにはならない。そんなことは知っている。知っていて、それでも「そう」と肯定する。矛盾である。その矛盾のなかに「詩」が結晶している。


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利岡正人「全焼」、坂多瑩子「台所」

2007-04-09 23:07:36 | 詩(雑誌・同人誌)
 利岡正人「全焼」、坂多瑩子「台所」(「鰐組」221 、2007年04月01日発行)。
 利岡正人「全焼」は、放火魔(?)というか、火の方からみつめた夜の風景。

夜が更けるのを待っている
こうして人目につかぬ路地裏に介在して
隣家からかすかに漏れる声や窓の明かり
それらが途絶えるのを壁越しにただ待っている

 いいなあ。家を焼きたくてチャンスを待っている火の気持ち。冷静に周囲を見回している。その冷静さを反映した文体。
 どこにでも文体はある。文体があれば、そこに「詩」がある。それまでことばにならなかったことばが動きはじめる力がある。
 実際に火が燃え上がっても、この文体の冷静さには変化がない。それがまたとてもいい。

寝静まった町を叩き起こしてしまって申し訳ないが
当の町全体に匿われていたあなたに伝えたい
これ以上は燃え上がることはない

 まるで家が放火され、それが全焼するのを唖然としてみつめるように、ただただ利岡の文体をみつめてしまった。



 坂多瑩子「台所」。いつも引き込まれてしまう。後半部分。

誰が誰の母親で
誰の誰が母親か
ぬれぞうきんの下や
クレンザーの箱のうしろでは
何かのたまごが
孵化しかけています
たまごの中で
胎児の私がごはんを作っていました
お母さん
夕飯できました

 「台所」は母から娘へ、そして娘が母になってさらに娘へと引き継がれていく--というのは、面倒くさいことをいいはじめるときりがない。かならず「差別」の問題が顔をのぞかせる。「制度」の問題が浮き上がってくる。
 面倒なことを坂多は

誰が誰の母親で
誰の誰が母親か

という2行で、いっきにかきまぜ、無視してしまう。無視してしまうというと誤解を呼んでしまうかもしれないが、「母から娘へ、そして娘が母になってさらに娘へ」という「伝説」の奥にあるものを、「差別」や「制度」とは無縁ないのちのありようを、奇妙な形でつかみとってしまう。
 「誰が誰の母親で」は、たとえば「おばあちゃんはお母さんの母親で」と言い換えることができる。ここから継承される制度、差別の問題がはじまる。
 ところが「誰の誰が母親か」は? 言い換えようとするとうまく言い換えることができない。「私のおかあさんがおばあちゃんの母親か」と思わず私は錯乱してしまう。そして、それを真実だと思ってしまう。
 この錯乱させる文体が坂多のことばの不思議なところである。
 坂多は「私のおかあさんがおばあちゃんの母親で」というようなことは少しも書いていないのだが、台所での仕事というのは世代をどこかでひっくりかえしてしまうところがある。「たまねぎを切ったり/湯をわかしたりする」、料理をするというのは、母親の「仕事」のひとつであるけれど、その仕事をすることが「母親」である証拠ならば、「おかあさんがおばあちゃんの母親」という関係もありうる。そして、実際に、そういう「入れ替わり」は女性たちのあいだで繰り返されている。女性だけではなく、人間のすべてのあいだで形をかえて繰り返されている。年上、年下、強者、弱者は関係なく、年下であろうが、弱者であろうが、その人が年上、強者のために何かをするとき、その人こそが「保護者」なのである。
 たとえば坂多がごはんを作ることで母親の母親になってしまうということは日常茶飯事のことである。子どもが料理を母親のために作ることをとおして、母親の母親になってしまうというのは、「論理」的にはおかしいけれど、現実としては何もおかしいことがない、というか、それがおかしいかどうかの判断を無視して、そういうことがおこなわれている。このひっくりええりを、私たちは、感謝しながら受け入れている。ひっくりかえすことが生きること、責任を引き受けることであるとさえ信じている。

 そういうおかしなことをおかしなまま、坂多はことばにすることができる。

何かのたまごが
孵化しかけています

 おかしなこと、おかしいけれど日常的なこと、母親と娘がいつのまにか入れ代わってしまうという「事実」の「たまご」が孵化しかけているのである。「たまご」はありふれた(?)というべきなのかどうかよくわからないけれど、坂多が直面している「事実」の比喩である。
 「女性詩」とか「台所詩」というと、女性に一定の役割をおしつける「差別的」な印象があるが、坂多の「台所詩」はそうした差別的な視点を吹き飛ばしてしまう。「制度としての女性」あるいは「制度としての台所」ではなく、時間そのものをひっくりかえしてしまう何かを秘めている。時間をひっくりかえすということは、歴史を、つまりは制度をひっくりかえすことである。

 坂多は何かことばにならない不思議なものをつかんでいる。「たまご」をつかんでいる。「たまご」という比喩でしか語れない何かを、あたためている。


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渡邉十糸子「春愁」、田辺芙美子「夜の頁に」

2007-04-08 11:44:37 | 詩(雑誌・同人誌)
 渡邉十糸子「春愁」、田辺芙美子「夜の頁に」(「泉」63、2007年04月01日発行)。
 渡邉十糸子(谷内注・「十糸子」の「糸」は糸がふたつが正しい)「春愁」はどことも知れぬ国のことを描いている。寓話である。

紐をむすぶ
紐をむすびなおす
うらうらとものうい
春分の朝である

 「紐をむすぶ/紐をむすびなおす」の「なおす」がいい。ここに詩がある。「なおす」のは不具合を感じて、それをととのえようとするからである。そのあることを感じ、それをただす、しかも同じことを繰り返してととのえる。同じことしかできない。そこにたしかに春の愁いの「ねっこ」があるかもしれない。

 「なおす」は形をかえて、もっとおもしろく書かれる。2連目の後半。

それはすでに決まったことで
決まっていることが
春の
曇天の
陰りをさらにすこし深めている
卓におちる
濃すぎる砂糖水の
うごめく影のように

 ふいにあらわれる「砂糖水」。これは何か。3連目にもう一度登場する。

溶けきれない砂糖水がしたはらで疼く

 体の不調を「砂糖水」(甘いもの)によって主人公である男は「なおす」、なおそうとしている。ととのえようとしている。
 このととのえなおすという意識が、「したはらに疼く」の「疼く」によって、よみがえる。なおさなければならないものがある、そういうものを「したはら」にかかえこんでいる。そのことを思い出させる。
 こういうていねいなことばの動きが私は好きだ。

紐をむすびなおす

 詩は最後にもう一度「なおす」を繰り返して終る。「技法」といえば「技法」なのだが、うるさくなるまえに終っているのもいい。



 田辺芙美子「夜の頁に」は書き出しに惹かれた。

陽はすでに没し影が失せてゆく
読みつづける本の頁が夜を浸しはじめる

 「影が失せてゆく」。しかし、これは光にかき消されてのことではない。影よりも暗いものが影の存在の意味を奪ってゆくのである。影が大きくなって闇になるのではなく、闇が影の存在価値を奪ってゆく。そういう微妙な「価値」(意味)の変化を追い続ける姿勢がこの2行に凝縮している。


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