詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

コーエン兄弟監督「ノーカントリー」

2008-03-17 10:26:15 | 映画
監督 ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン 出演 トミー・リー・ジョーンズ、ハビエル・バルデム、ジョシュ・ブローリン

 傑作「ファーゴ」の別バージョンという趣がある。私は「ファーゴ」の方が格段に好きである。「ファーゴ」のあとでは、どうしても「ファーゴ」の二番煎じという感じがしてしまう。
 それでも傑作である。

 映像がまず美しい。最初の荒野、砂漠の美しさは異様である。ワイエスが描いた田舎をそのまま荒野へ移行したようなはりつめた空気の美しさに圧倒される。アメリカ映画で風景に見とれるというのは「ブロークバックマウンテン」以来だが、これは監督がアメリカ人ではない。アメリカ人の監督の風景は私にはどうにもなじめないが、唯一、コーエン兄弟の風景だけは美しいと感じる。たとえば「ミラーズ・クロッシング」の森。
 そしてこの美しさは「無意味」ではない。つまり登場人物と無関係ではない。きちんとリンクしている。荒野の風景のなかに登場してくる人物は常にひとりで生きている。彼は偶然大金を見つけて、そのことをきっかけにこの映画の物語がはじまるのだが、彼は常に「荒野」を生きている。彼には妻がいて、妻にはそれにつながる家族がいるのだが、彼にはそうした人物はとても遠い。いっしょにいても、とても遠い。人間関係のなかに、とてつもなく広い空間(荒野)がある。そして、その荒野としての空間(人間関係)には密接なつながりはない。愛があったとしても、それは荒野で行き違う人間に対する愛に似ている。なつかしさだ。けっして、相手を束縛しようとはしない。互いに束縛せず生きている。そういう「掟」のようなもので、ひっそりと連動している。そういう美しさである。
 あと2人、重要な人物が登場するが、その2人もそれぞれの風景をもっている。大金を見つけた男を追う殺し屋。彼の風景は空間を持たない。彼はただ人物だけを見る。殺す相手だけを見る。ほかに何もない。それは別な視点でいえば「凶器」の視点である。彼は、殺しの道具そのものである。それ以外の何者でもない。そして、彼は風景を持たないかわりに、とんでもない「風景」をつくりだして行く。いままで存在しなかった「風景」をつくりだして行く。たとえば、最初の殺しのシーン。手錠をつかって保安官を殺す。殺される保安官が必死になってあばれる。そのとき靴が床をひっかく。リノリウムの床に、保安官の足が動いたあとが無数の線となって残る。そういう、存在してはならない「風景」をつくりだして行く。この映像は、とてつもなく美しい。映画のなかに刻印された、もっとも美しい殺人現場である。
 もうひとりの男。彼には「風景」がわからない。「風景」が現実のものとして感じられない。昔は「風景」があった。しかし、いまは、次々に新しい「風景」がつくりだされ、それがなぜ存在するのかわからない。どう風景と向き合っていいかわからない。その戸惑いが、先に上げた保安官殺害現場の「風景」を見たときのとまどいとしてくっきり描かれる。これは何? なぜ、こんなふうにして人間が生きてきた痕跡が残されている? (ここから私は「長江哀歌」を思い出す。「長江哀歌」をしのぐ美しい映像をスクリーンに定着させる監督がいるとしたらコーエン兄弟だけだと思う理由はここにある。コーエン兄弟は生活とかけ離れたふ「風景」も美しく描くが、その「美しさ」が常に生活との対比のなかにあることを深く自覚している。)この残された「風景」を現実の人間関係にもどしてゆくとき、「風景」は「事件」にかわる。ここに、この映画に「保安官」が登場しなければならない理由がある。(とてもよくできた脚本だ。)
 この三つの風景は、出会う。出会うけれど、それは最後まで別々のままである。出会って、そこで変化が起きる、ということはない。変わらない。分離したまま、そこに存在し続ける。
 --たぶん、ここにこの映画の「現代性」がある。悲しみがある。おかしさがある。絶望がある。

 映画にしろ、小説にしろ、多くの作品にはカタルシスがある。人と人が出会い、ぶつかり、そこで人間が変わる。主人公がそれまでの生き方をかえる。いわば生まれ変わる。その瞬間に観客や読者は感動する。喜びや悲しみを共有し、自分自身の感情・感性・知性を洗い直す。それが普通である。
 しかし、この映画では、人と人は出会い、ぶつかるが、誰一人として自分の人生を変えはしない。何もかわらない。3人は3人のまま、彼ら自身の「風景」を抱いて生きているだけである。そういう悲しみとおかしさと、絶望がある。そして、それぞれの「風景」が完璧に美しい。完成されている。逃げる男の「荒野」、殺し屋の「オリジナルの銃」、保安官の「日常」(日常と書くのは、それが私の生活にいちばん近いからである)。まじりっけなしに、純粋に、ほんとうにそれは美しい。
 三つの「風景」は、ほんとうは出会ってはいけないものである。そういう世界が存在してもかまわないというと変だけれど、盗み、殺しというような「風景」(事件)は、普通、私たち一般人(?)が出会ってはいけないものである。そういう出会っていけないものが、なぜか出会うようになってしまったのが、現代のかなしみであり、おかしさであり、絶望である。
 象徴的なのが、荒野の中の小さな店のシーン。殺し屋と店の店主。話が合わない。殺し屋の、「この男は殺すべき男かどうか」という視線のなかで、店長の「風景」がどんどんかわっていく。殺し屋の「風景」に浸食されて、ずたずたになる。それを防ぐ方法はない。おかしくて、かなしくて、絶望するしかない。

 こんな現代を私たちはどうやって生きていけばいいのだろうか。

 最後の最後にトミー・リー・ジョーンズが語る美しい美しいシーンがある。絶望しながらも、その絶望のなかでつかんだ透明な祈りがある。これにつていは、ここでは書かない。ぜひ、見てもらいたい。この文章を読んでくれた人、みんなに見てもらいたい。この美しいシーンと、トミー・リー・ジョーンズの哀しい目を見てほしい。
 ハビエル・バルデムはたしかにすばらしい。だが、トミー・リー・ジョーンズもすばらしい。ラストシーンは永遠に残る名演である。






次の2本は絶対に見よう。

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芦田はるみ『雲ひとつ見つけた』

2008-03-16 00:40:40 | 詩集
 芦田はるみ『雲ひとつ見つけた』(編集工房ノア、2008年03月10日発行)
 安水稔和の「火曜日」に参加している詩人である。「火曜日」の詩人たちは素朴である。「現代詩」とどこか違うかといえば、ことばに対する「批評」精神である。書かれたことばに対する疑問、批判がない。それはことばを信じているという意味である。信じるということは悪いことではない。いや、きっといいことなのだろうと思う。
 「はる」という作品。

せがまれて
「はる」と地面に書いた
雪が溶けたばかりというのに
今日はこんなにも暖かい

文字を覚えはじめたばかりの子に
せがまれて
「はる」の横にまた
「はる」を書いた

地面はいつの間にか
「はる」でいっぱいになりました

 「はる」ということばが「はる」を引き寄せる。「春」ではなく、「はる」を。まだ形が定まっていない。どんなふうにでもなる輝きを。「はる」でしかないものを。

「はる」の横にまた
「はる」を書いた

 この2行はとても美しい。
 ことばを信じる力が輝いている。「はる」と書けば「はる」がやってくる。そういうことを真剣に信じているわけではないだろうが、予感のように、それを感じている。ことばは何かを書き表す。その何かは、いまそこに存在するものだけとはかぎらない。まだそこに存在しないものを引き寄せる。そんな不思議な力がある。真剣に信じているのではなく、無意識に、その力の方へ動いて言っている。
 「溶けたばかり」「覚えはじめたばかり」と「ばかり」ということばが2度出てくるが、この完了しているといえば完了しているのだけれど、まだ次の段階に達する前の、一種の未熟さ、初々しさがのこる何か。初々しさは、たぶん「可能性」と言い換えることができると思うが、その「可能性」に通じるものがここには動いている。輝いている。

 「春」を前にして、こういう作品を読むと、「はる」に浮き立つこころが新しく生まれてくるような気持ちになる。素朴な詩、ことばを信じている詩にはことばを信じている詩の美しさがある。


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進一男『美しい人 その他』

2008-03-15 10:13:22 | 詩集
 進一男『美しい人 その他』(詩画工房、2007年12月12日発行)
 進一男の詩は悪くはない。--悪くはない、という感想が最初に出てきてしまう。ことばがきちんとしている。何も悪くはない。でも、それでは進の詩を好きになるか、というとなかなか好きにはなれない。嫌いでもないが、好きにはなれない。そのことばにおぼれることができない。
 なぜだろうか。

 「夢の中の風景」という美しい詩がある。その前半。

私の夢のなかに何時ものように現われてくる道がある
美しい垣根の間の 懐かしい道である
その夢の中でのような 美しい道は
現実には何処にも見当たらないであろうと思われる
夢の中のその道を歩くと 風が流れる
道の向こうには 海がある
私はその道を 自分勝手ながら
私がそこから来たところの道なのかも知れないと考える
その道は きっと 私が生まれてきた道に違いない
だから 夢の中のその道を歩くと 何時も
私は優しく抱かれる

 ことばにさそわれて、私自身の「夢の中の風景」を歩いている気持ちになる。「美しい」「懐かしい」という2行目に登場する「詩語」から遠いことばも、この静かな調子にはあっていると思う。悪くはない。

夢の中のその道を歩くと 風が流れる
道の向こうには 海がある

 と、ことばがスピードアップしていくところは、「悪くはない」ではなく、「とてもいい」。引き込まれてしまう。このリズムをいかすために、2行目(そして3行目)の「美しい」「懐かしい」ということばがあったのだとさえ感じる。
 ところが、私は、その次の行につまずいてしまう。

私はその道を 自分勝手ながら

 「自分勝手ながら」に完全につまずいてしまう。
 進の詩がいまひとつおもしろくないのは、このことばに起因している。「自分勝手ながら」と書いてしまう「控えめ」の部分、「おことわり」の部分が作品をだめにしている。詩は自分勝手でなくてはならない。他人のことばなど無視して自分の、自分にしかわからないことば、自分にさえもわからないことばでないと、詩にはならないのである。
 「自分勝手ながら」を省いてみよう。

夢の中のその道を歩くと 風が流れる
道の向こうには 海がある
私はその道を
私がそこから来たところの道なのかも知れないと考える

 ことばの動きが速くなり、「私がそこから来たところの道なのかも知れない」という下手くそな(?)翻訳口調さえ、あ、正しい日本語(?)、流通している日本語では言えないこと、進のほんとうに感じていること--まだ、だれも言っていないことを書こうとしていることが、ぐいっ、と近づいてくる。
 こんな美しい部分を「自分勝手ながら」ということばで傷つける必要はない。

 進はもっともっと「自分勝手」を出すべきなのである。「自分勝手」をどんどん書いて、それに対して「自分勝手ながら」と「おとこわり」を挿入しない。そうすれば、悪くはない」ではなく、「おもしろい」詩が生まれるのだと思う。



進一男詩集
進 一男
土曜美術社出版販売

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マノエル・ド・オリベイラ監督「夜顔」

2008-03-15 00:08:39 | 映画
監督 マノエル・ド・オリベイラ 出演 ミシェル・ピコリ、ビュル・オジエ、レオノール・バルダック

 オリベイラ監督の作品を見るのは3本目である。「アブラハム渓谷」「クレーブの奥方」、そして今回の「夜顔」。「アブラハム渓谷」「クレーブの奥方」は東京で見た。自分の住んでいる街でオリベイラ監督の作品を見ることができるとは夢にも思わなかった。
 オリベイラ監督の映像は非常に特徴がある。剛直である。剛直すぎるくらい剛直である。
 映画はドヴォルザーク「交響曲 8番」ではじまるが、この映像に剛直さが特徴的に出ている。カメラは指揮者を中央において、まったく動かない。接近もしなければ、別の角度からとらえることもない。そして、省略もしない。そこに存在するものの、いちばん美しい姿を、ただ正面からとらえる。その映像が美しくない、あるいは退屈と感じる人がいるかもしれないが、そういう観客をオリベイラ監督は気にしていない。彼の感じる美を美と感じる人だけに向けて映像を構築している。正面から存在と向き合えない観客を気にしていないのである。
 パリの町並み、バー、ホテル、レストラン。どれも揺るぎがない。動かない。人物されも動かない。人々は、せりふをしゃべるが、動いてはいない。(唯一例外は、ミシェル・ピコリとビュル・オジエが街角であらそうシーンである。)動かないことによって、彼の(彼女の)内面を観客が想像するのにまかせている。登場人物の「正面」に立つことを要求し、そこから登場人物を直視するように要求しているといった方がいいかもしれない。
 それはたとえていえば絵の鑑賞方法に似ている。たとえば1枚の絵がある。そこには美しい人物がいるだけであって、ほかの情報はなにもない。そういうとき、人は絵の正面にたち目を凝らす。そして目に入ってくるすべてを直視し、その絵のなかの要素を組み立てて、あれこれ思いを膨らませる。それはある意味では、絵を見るというより、自分自身を世界をのぞくということになるかもしれない。
 そのとき、絵は、鑑賞者のあれこれの思いを受け止めて、なお、そこに揺るぎなく存在している何かである。
 そういうものをオリベイラ監督はスクリーンに定着させる。存在のニュアンスというものを、正面から直視することで排除する。そうして、正面から観客の視線を存在の奥へと引き込む。正面こそが、オリベイラ監督のキーワードである。横顔をとらえたとしても、それは横顔という正面なのである。はっきりした横顔なのである。視線が動いて、たまたま目に入ってきた横顔ではなく、横から見るとどうなっているか、それをはっきり把握するための横顔である。
 こうした態度は、映像よりも「せりふ」に耳を傾けるとき、いっそうきわだつ。人間の会話にはひそひそ話や、言いよどみ、わざと嘘を含んだものもある。オリベイラ監督は、そうした声のニュアンスというようなものを排除する。ことばを、まるで「書かれた絵」のようにくっきりと輪郭をもったまま映画のなかに閉じ込める。肉体をとおった「声」ではなく、肉体と拮抗することばを、ことばのまま、そこに定着させる。観客は俳優の肉体をくぐりぬけてきたニュアンスではなく、自分の肉体で、そこに剛直に存在していることばを受けとはめなければならない。
 映像とことばで(そして音楽で)、こういうことを要求してくる監督を私は知らない。とてもびっくりする。

 こうした真っ正面の映像、真っ正面のことばに、スクリーンをとおして向き合っていると、では俳優の仕事は? という疑問が生じるかもしれない。生じるはずである。なぜ、そこに実際に動く人間が必要なのか、という疑問が生じるはずである。「絵」と「音」を組み合わせればいいではないか。そういう批判が出てくるはずである。--論理的には。
 ところが映画を見ていると、そうい疑問は生まれない。なぜか、そういう疑問は生まれない。オリベイラ監督は、俳優にも正面を要求している。正面でいることを要求している。こういう要求に答えられる肉体というのは、実は、数少ない俳優だけである。だれでもが、正面でいられつづけるわけではない。ずらし、ぶれる。そういう差異のなかに「個性」(あるいは人間性というニュアンス)を浮かび上がらせる。オリベイラ監督は、そういうことを拒絶する。むき出しの、正面を要求する。「存在感」のない役者ではだめなのである。正面からの直視に耐えられる存在感が必要なのである。演技ではなく、存在感が要求される。かっちりした正面からの映像。剛直なせりふまわし。それを超越する存在感を要求されている。そして、俳優陣は、その存在感の要求に十分にこたえているからである。
 特に、ラストのレストランでの食事シーンなど、ぎょっとするほどの存在感である。二人が何を感じているか、何を思っているかなど具体的には何も語られない。ただ黙って食べている。それなのに、二人が無言の会話のなかで相手の思いを感じあっているということだけが生々しく伝わってくる。「わからなさ」が「わからないまま」、直に伝わってくる。
 これはすごいことである。

 そしてこれは、ルイス・ブニュエルへのオマージュとして登場する鶏にもいえる。なぜそこに鶏が? そういう疑問を拒絶して、鶏を足をあげて歩く。そのときの不思議な存在感。ユーモア。
 オリベイラ監督は、あらゆるものを正面から直視し、その存在感を引き出し、スクリーンに定着させる監督である。



マノエル・デ・オリヴェイラ傑作選 「世界の始まりへの旅」「アブラハム渓谷」「階段通りの人々」

紀伊國屋書店

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渡辺十糸子「ゆずりは」

2008-03-14 08:26:19 | 詩(雑誌・同人誌)
 渡辺十糸子「ゆずりは」(「庭園 アンソロジー2008」2008年02月22日発行)
 「ゆずりは」(新しい葉が育ってから、古い葉が落ちる樹木)と男の厄落し(?)をしている女のことが重なりあう形で描かれている。
 その最終連が、どうしてもわからない。

ゆずりは。
なにものもゆずられず
なにをゆずるでもないわたしの
死児と胞衣で
ゆずりはの樹はそだつ。
ゆめのようにしあわせなこの村で。
いつまで、

 「いつまで、」がわからない。読点「、」で終わるのはどうしてだろう。句点「。」が書かれているだけに、とても不思議である。中途半端な気持ちにさせられる。私はことばを読むとき、どうしても「論理」で読む癖があるので、こうした中途半端に出会ったときは、なぜ? とどうしても思ってしまう。
 せめて「いつまでも、」と「も」があれば、「いつまでも、/ゆめのようにしあわせなこの村で。/ゆずりはの樹はそだつ。」と倒置法の文章として読むことができる。だが、「も」がない。そして、こうやって倒置法の文章に書き換えてみるとわかるのだが、もしこれが倒置法の文章の変形だとするならば、その倒置法は、実は二回おこなわれていることになる。「ゆめのようにしあわせなこの村で。/ゆずりはの樹はそだつ。」という倒置法に、もう一度「いつまで、」が付け加わる形で倒置法が繰り返される。この繰り返しは「円」を感じさせる。「循環」を感じさせる。
 たぶん、このことと「も」が省略された「いつまで、」は関係しているのだと思う。
 繰り返される倒置法によって「循環」が生まれる。だから「も」は省略されているのだ。意図的な「省略」がここには存在するのである。

 そして、この少し変わった「循環」こそが、渡辺の描きたいことなのだと思う。「いつまで、」という不自然な(?)「循環」のあぶりだしに渡辺の思想がひそんでいるのだと思う。

 「ゆずりは」の「循環」、葉の成長→落葉→新芽は普通の樹木とは違う。落葉は新芽が葉になるのを待ってからである。そこには、奇妙ないい方になるが「も」のようなものが強調されている。「も」はないけれど、「ゆずりは」は落葉樹なのに「いつまでも」葉が存在する。「も」の重複が、「も」の強調のようなものが、「ゆずりは」そのものにある。
 落葉樹は新芽→落葉→新芽という循環を「いつまでも」繰り返すが、ゆずりはは、その「→」の部分に古い葉と新しい葉が重なり「も」を隠している。隠すことで「も」を強調している。
 隠すことによる強調。--これが「いつまで、」ということばのなかにある思想であるかもしれない。

 世界には常に隠されたものがある。そして隠されたものによって「循環」が成り立っている。あるいは「循環」のなかに、隠されたものがあり、それこそが「いのち」である、という認識が(思想が)、たぶん、渡辺のどこかに存在する。「どこか」というのは、明確に指摘することのできない部分、肉体になってしまっている部分という意味である。

 「いつまで、」と呼応するように、とても不思議な魅力をたたえる部分がある。

そんなときおとこはからだをきよめ
夜、わたしの寝所にくる
災厄をわたしのはらに宿し
死児として棄てるために
おとこは一晩ねむらずにわたしを抱き
わたしのからだのおくそこの
とおい神の国に願いがとぎくまで
いっしんにわたしを磨くように
ていねいに執拗にたえまなくわたしを揺さぶる。

あんなきもちのいい夜は
それはもう、くらべるものがないほど
飢えをうったえた口に
熱く滴る命の意味をねじこまれるような夜で、

 「厄落し」の一種の「神話」。そのなかで繰り返される儀式。そして、そのなかで「神話」を裏切るような形で存在する「愉悦」。ここには不思議な「暴力」がある。「暴力」の美しさがある。そして、その「暴力」は、男が「厄落し」に女を利用するという「暴力」ではなく、そういう「暴力」を超越して、女が愉悦に酔うという「暴力」である。「いち」そのものの「暴力」である。そういうものが、「神話」を、そして「神話」が内包する「循環」をどこかで支えている。そういう「暴力」がないと「神話」は成立しない。成立することを、女が許さない。女はそういう「暴力」を隠すことで、そういうものがあることを強調し、「循環」を支えている。
 渡辺が書こうとしているものは、そうした「おんな」の「いのち」そのものかもしれない。

 ゆずりはは、新しい葉がでてきてから落ちるのではない。新しい葉を育ててから身を棄てるのである。木が命を育てている。--のではなく、その木が育てていると思い込んでいる葉、それ自身が木を利用して新しく生まれてくる葉を育てている。「循環」を「樹木」ではなく、「葉」からとらえる、「葉」が「隠しているもの」からとらえる。そういう視線の動きを感じる。

*

Fの残響
渡辺 十糸子
河出書房新社

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豊原清明「哀しいと言う木」

2008-03-13 10:27:23 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「哀しいと言う木」(「白黒目」10、2008年03月発行)
 豊原のことばは無防備である。そして、その無防備であることが、とても強い。「防備」という「頭」を肉体が破って、はみ出してくる。その力が、あらゆる「防備」の水準を超える。--たぶん、私の書いていることは論理的ではない。だが、そうとしかいまの私には書けない。
 全行引用する。

こちらから遠くへと 汗を噴きながら歩いて
監視カメラの威圧感に、
僕の体はいたぶられる
祈ることも出来ない我が街
ああ どうしたら良いのだろうか?
古本の値段がそう、囁いた
そうねえ、生家まで行ったら良いかしらねえ
老人を冷やす、扇風機がそう提案した
ウン こんなとこいられない
生家へ行って、僕のお家はヒステリックな
母と僕がいつも叫びあって
母は一泊二日の高知へ行った
だから僕はバスに乗って
草原の丘へ走っていった
しかし生家は全く別の、
ビルディングになっていた
僕はうわあああと叫び
走っていった
すると野の公園が見えて
ごろんと寝転がって
草はそっと頬を撫でてくれた
よく来てくれた。
ふと頭が軽くなった
昼間 父と日替わりランチをくった、ナア。
づづづ、草が何と言うことだと、
自然治癒せえや
空き缶、踏み潰して、草の臭い

 後半が特に美しい。草も父も僕も、みんなが無防備になりぶつかりあう。溶け合ってしまう。しかし、溶け合うといっても、それが一体になるというのではない。それぞれの別個の存在でありながら、別個であることによって(別個であることを自覚することで)、はじめて一体になる。宇宙が(というとおおげさだろうか)、あらゆる別個の存在で成り立っている。そして、それは別個であるがゆえに、宇宙というひとつのものになる。無防備なもの、防備することを忘れてしまって、ただ互いが向き合う。その一瞬。
 
 豊原のことばは、ただ向き合うのだ。何かと。

 草と向き合う。父と向き合う。(そして、あまり仲がよくない?母とも。)あるいは監視カメラとも古本とも扇風機とも。向き合って、その向き合った相手に対して、ただ無防備になる。
 すると、不思議なことが起きるのだ。
 無防備になった瞬間、「僕」は「僕」でありながら、同時に「僕」以外の何かでもあるのだ。たとえば、「草」が「僕」そのものとして、突然話しはじめるのである。

僕はうわあああと叫び
走っていった
すると野の公園が見えて
ごろんと寝転がって
草はそっと頬を撫でてくれた
よく来てくれた。

 この草との対話、草から「よく来てくれた」という声の、その瞬間の美しさ。
 この部分は、草が「よく来てくれた」と「僕」に対して語りかけているだが、そういう草と僕との会話というより、僕が草そのものになり、僕を迎え入れている。そういう一体感がある。
 どこか草原へ行って「よく来てくれた」という草の声を聞き出すというよりも、何か、草原まで駆けて行って、そうやって駆けて行った(駆けてきた)自分自身に対して「よく来てくれた」というような感じ。自分で自分をほめてやりたいような感じ。自分で自分をほめてやるために、その一瞬、草になる、という感じ。
 この哀しい、美しさ。

 私たちはそれぞれ別個の人生を、いのちを生きている。しかし、ときどき、自分のいのちだけではなく、他人の(他者の)いのちを生きる。他人になって、自分と向き合う。そういうことができるのは、自分自身が無防備になったときだけなのである。自分を防御したままでは他人(他者)にはなれない。

自然治癒せえや

 それは父が言ったことばだろう。
 しかし、それを豊原は自分自身のなかからあふれてくることばとして聞く。父と僕とが一体になり、僕の傷ついたこころが自然に治癒することを祈る。
 この一体感--それは「愛」のようなものである。
 「愛」というのは常に私と他者とがいて成り立つ。それぞれが別個であるがゆえに、そこに「愛」ということがらも起きる。
 「愛」はいつでもいのちが輝くことを願っている。それが自分のいのちであるか、他人のいのちであるかは区別せずに、ただいのちが輝くことを祈っている。
 祈るとき、ひとは無防備である。--無防備に、ただ祈ることができる、そのときの不思議な強さが、この詩にはあふれている。





夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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たなかみつあき「(ミリ単位で隆起する地形の傷口を…)」

2008-03-12 10:54:59 | 詩(雑誌・同人誌)
 たなかみつあき「(ミリ単位で隆起する地形の傷口を…)」(「庭園 アンソロジー2008」2008年02月22日発行)
 年03月10日の日記で取り上げた杉本徹「(頬よせる車窓をつかのま…)」とことばの印象がとても似ている。タイトルの書き方も同じである。二人で競作というか、交互に作品を書きあったのかもしれない。「往復詩」なのかもしれない。
 杉本が

「かわく樹、かわく横顔、
そこまでの数年もまた、見知らぬ天体だった」

 と書いたのに対し、たなかはどう答えるか。

無風のうしろで生乾きの建物は
雨中を走り抜けたランナーでのすばやい引き渡しを求める

 「かわく」に対して「生乾き」、「天体」に対して「雨中」。「雨中」を「うちゅう」と読むと、それは「宇宙」=「天体」になる。意識的か、無意識にか、私にはわからないが、そこには不思議な呼応がある。
 たなかの「無風のうしろで」の「うしろ」ということばに私は強い魅力を感じた。杉本は「照り返し」ということばをつかっていた。「光」ということばもつかっていた。杉本のことばが、何か、前進していくのに対して、たなかのことばは「うしろ」が象徴するように、前進はしない。つねに「背後」を耕す。前進してきても、「いま」、その「存在」のその位置までである。それから先へは進まない。
 2連目の全行。

無風のうしろで生乾きの建物は
雨中を走り抜けたランナーでのすばやい引き渡しを求める
このネガでほつれかけたガーゼで
街路の仮死を仮縫いする《時間の火事》
地上波なのに海藻がつぎつぎに神経のようにゆれる
左手のナイフでしゃにむにむきはじめたリンゴの皮が
無風のうしろで早くも脱輪して垂れる
末端はアナコンダかそれとも剃り残されたひげか
生乾きの理髪店でカミソリがいきなり顎に接近する

 「生乾きの理髪店でカミソリがいきなり顎に接近する」という行は、現実には、カミソリが省略されている「私」の外部から「私」の「顎」へ接近してくるのだが、なぜか私には「私」の内部から接近してくるように感じられる。現実の位置としては、カミソリを持つ人が「私」の「うしろ」にいて、「うしろ」にいる理髪師の手にあるカミソリが「私」の前方から「顎」へ接近してくるという動きが考えられるのだが、たなかのことばの「うしろ」には、なぜか「内部」という印象があり、そのために、私は一種のまぼろしのようにして、カミソリが独自に「私」の内部からひげを剃っていくように感じてしまうのである。
 それに先立つ行に「神経」ということばがあるせいかもしれない。「肉体」の内部にあるもの、「肉体」の表面の「うしろ」に存在するもの。何か、「うしろ」という領域にあるものの方が、存在の「外部」そのものと呼応するような感じなのだ。
 うまく言えないが、「宇宙論」が「素粒子論」と呼応するような感じ。「外部」が「宇宙論」で「うしろ(内部)」が「素粒子論」である。
 「りんご」という存在は「皮」をむかれて「宇宙論」の輪郭を失い、「素粒子論」になる。「皮」は行き場をなくして、「脱輪して垂れる」。それはいったん「無意味」になるということだが、「宇宙論」と「素粒子論」が呼応するかぎり、あらゆる仮定(仮説、ここでは「輪郭」としての「リンゴの皮」)は常に反撃してくる。反証を要求する。それが理髪店の「カミソリ」。「ナイフ」は外部から「リンゴ」にあてられ、「皮」をむく。しかし、「カミソリ」はどうしたって「内部」からあてられなければならない。それが「呼応」というもののあり方である。

 私はこれまで何度かたなかの「訳詩」、そのことばを読んできたが、「訳」は、たぶん、理髪店のカミソリのように、内部から詩に接近するものなのだろう。内部を、外国語の「うしろ」を動き回って、血管や神経の構造を解剖し、むき出しにする。それはけっして外国語の前へは出て行かない。あくまで、「うしろ」(内部)を日本語にしてみせるものである。

 たなかのことばは、何かと呼応することが好きなのである。呼応しながら、他者のことばが「外部」を動くのに対して、たなかは「外部」へは行かずに、「うしろ」に控え、「うしろ」にも「宇宙」がある、「宇宙」と呼応する構造があるということを浮かび上がらせる。
 たなかの作品が、私が仮定したように杉本との「往復詩」という形で書かれたものであるとすれば、たなかと杉本は互いにとてもいいパートナーだ。向き合うことで、ことばが互いに自在な動きを獲得していく。つまずくとしても、そのつまずきは新しい動きを切り開くためのつまずきである。

 (この文章は、実は11日に書いたのだが、杉本、たなかとつづけて感想を書くと、結びつきがあまりにも強くなりすぎる気がして、小笠原の詩集の感想を間に挟んだ。しかし、間に小笠原の詩の感想という異質なものを挟んでみると、逆に、杉本-たなかの結びつきがより強烈に浮かび上がるような気もしてくる。不思議なものである。)

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小笠原茂介『青池幻想』

2008-03-11 10:36:39 | 詩集
青池幻想
小笠原 茂介
思潮社、2008年02月29日発行

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 「遺言」という作品が収録されている。この作品はとても好きである。亡くなった妻への愛が感情というより「肉体」として伝わってくる。魂がいまも残っている、というのではなく、肉体そのものがまだ、いま、ここに存在している。そういう感じで、愛が伝わってくる。(2007年03月22日の「日記」にすでに書いた。) 他の作品も同様である。 小笠原には亡くなった妻の魂が見えるだけではなく、肉体そのものが見える。手触りとして見える。手触りとして、というのは、その肉体が小笠原のことば、視線などに反応して動く--その動きとして見える、ということである。 「帽子」の全行。
夜明け近く 階段を降りると朝子の寝室の扉の下方から 薄明かりが漏れているいつ帰って来たのかほっとして扉を開けると朝子が姿見のまえで帽子を選んでいる見慣れない帽子のうえにまるで生きもののような鶯色の小鳥が蹲り薄黄の蝶か花かが群れ 震えているぼくに気づいて振りかえりこれから遠くまで旅行するので全天候型の帽子にするのだという開け放たれたままの窓から霧が入り込みカーテンの白いレースが揺れる--食事の支度をする暇なかったから 自分でしてね冷たくいうわりには暖かな笑顔に木立の暗い緑が影を落としている
 「冷たくいうわりには暖かな笑顔に」という1行に魅了される。 それに先立つ「幻」には小笠原の妻を亡くした悲しみが反映されている。遠く旅立つ妻。その妻はどごで、どんな天候であっても美しくいてほしいという祈りのようなものが感じられる。そういう祈りのあとに、
冷たくいうわりには暖かな笑顔に
 この「冷たくいう」がいい。日常の生活ではすべてのことは無意識に規則正しくおこなわれる。その規則正しさは退屈だけれど、退屈ななかに、蓄積された時間の美しさがある。いつも同じ時間を生きてきたという美しさ、むだのなさ、のようなものがある。それは時には「冷たい」。その「冷たさ」を正確にことばにしているところにひかれる。 さらに「冷たくいうわりには」の「わり」と「には」がいい。そういう日常の繰り返しのなかに、いつでも繰り返しではないものが混じる。一度として同じではない。繰り返されるからこそ、違っている。その違いに気がつくのは、そういう繰り返しをていねいに生きている人間だけである。繰り返しだからといって手を抜いて生きると、その少しの違いの美しさ--少しの違いの、こころの美しさ、こころを動かすことの美しさがわからない。 「わり」「には」。深く結びつきながら、小笠原のこころの動きを伝える。しかし、その動きは小笠原の動きであって、実は小笠原の動きではない。ぴったり亡くなった妻の動きである。妻のほんの少しの動き、こころの動かし方が、そっと小笠原によりそい、重なる。 あ、これが愛なんだ、と気づく。 積み重ねられた愛。積み重ねることの美しさなのだと気がつく。  そして、この積み重ねてくることで美しくなったものは、いまは、ここにはない。けれども、ここにはないにもかかわらず、常にここにある。--こんなことを書くと矛盾だが、ここにないがゆえに、それはけっしてかわらないもの、永遠として常に存在する。 それは、たとえて言えば、花火大会の花火を見るときにのぼった丘のようなものである。「花火」の最終連。
丘は変わらずにあるがもう行くこともない花火の夜にはひとり庭に出る丘が風邪を送って寄こす心に沁みる涼やかな風である花火の匂いも籠もっている
 いつでも、なんでも、そうなのだと思うが、「変わらずにある」ものが、揺れ動く人間のこころを、かなしく、うつくしく、切なく浮かび上がらせる。 妻との繰り返し繰り返し繰り返した日々。その愛。すべてが変わらずにある。だからこそ、悲しく、せつない。その悲しさ、せつなさが美しい。  その美しさが結晶した「一粒の砂」。その後半。
朝子が一本の光る絹糸のうえを渡っている滑るように 揺れ踊るように 糸の光が失せぬかぎりは糸はどこまでもいつまでも続くとみえる朝子の光も消えぬとみえる
*  もう1冊読むなら。
夜明けまえのスタートライン
小笠原 茂介
思潮社

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杉本徹「(頬よせる車窓をつかのま…)」

2008-03-10 09:02:42 | 詩(雑誌・同人誌)
 杉本徹「(頬よせる車窓をつかのま…)」(「庭園 アンソロジー2008」2008年02月22日発行)
 ことばが大好きな詩人というものが存在する。杉本徹もそのひとりだろうと思う。何を書きたいかというと精神の動きや感情の動きではなく、ただひたすらことばなのだ。
 作品の書き出し。

頬よせる車窓をつかのま、レンズの底を光がつたう
……あらゆる照りかえしは問いを孕み
「かわく樹、かわく横顔、
そこまでの数年もまた、見知らぬ天体だった」
地平をさえぎる風景は恒星に曳かれつつ、流れ
いつか地平を鋭角で截るビル影に、光年の谺をかえすため
わたしの一秒を、翔ぶものの骨となす--

 ひとつのことばが他のどんなことばと結合可能であるか。杉本はただそれが知りたい。書きたいものがあるとしたら、その結合の可能性の有無である。
 たとえば「レンズの底を光が」のあとに杉本は「つたう」と書いているが、「走る」ではどうか。「にごる」ではどうか。「……あらゆる照りかえしは問いを」のあとは「孕み」がいいのか「拒絶し」がいいのか。
 この問いは、しかしほとんど無意味だろう。
 それは瞬時に、ただインスピレーションによってのみ可能な選択である。というより、いくつかの候補のなかから選択する(推敲して選びとる)というものではなく、どこからかやってくることばをただ受け止め、それを間違えずに書き残すことが杉本の仕事である。
 「書きたい」のではなく「書かされたい」のである。何によってか。詩によってである。そして書くことをとおしてことばを読みたいのだ。
 あることばが別のことばと結びつくとき、いったいそこで何が起きているのか。

 だれも、そのとき起きていることを読み切ることはできない。杉本にも、私を含め、他の読者にもできない。私は、たわむれにこうやって文章を書きながら杉本の詩を読んでいるふりをしているが、読んでいるわけではない。意味を探ったり、そのことばの響きの価値を判断し、何かを言っているわけではない。私はただそのことばの動きについていっているだけである。ことばが動く。ことばが別のことばと結びつく。その結びつきに誘われてついて行っているだけである。
 ことばとことばの結びつき。その一瞬。
 それだけがただ繰り返される。意味を拒絶し、文脈とはいうものも拒絶し、それでもことばは存在し、そこに結びつき、結合として立ち現れてくる。この定義不能な結合の立ち現れ、出現、それこそが詩なのである。
 不可思議な結合が、それまでのことばを破壊する。
 そして、この破壊を「批評」は呼ぶこともできる。既存の言語への批評、と。あるいは既存の言語への批判、と。
 破壊され、批評され、批判されたとき、その向こう側に何かが瞬間的に見える。
 詩とは、そういうものである。

 この、破壊の向こうに瞬間的に見えるものは、錯覚かもしれない。たぶん、いまは、錯覚なのである。しかし、いま錯覚であるものが、将来も永遠に錯覚であるかどうかはわからない。将来は、そういう言語の結合する世界が真実になるかもしれない。なぜなら、人間のこころはかわるからである。とんでもない具合にかわるからである。好きであったものが突然嫌いになったり、嫌いであったものが突然その人を支配し、恍惚とさせてしまったり。その瞬間に、幻が、現実となって出現する。

 どのことばが、そういう力を秘めているか。
 そんなことは、実は、わからない。永遠にわからない。
 ただ、あ、これ、いいじゃないか、という印象として、そこに存在するだけである。まったくの無防備で、ただ、ことばとして。

地平をさえぎる風景は恒星に曳かれつつ、流れ

 この1行は、私は嫌いである。

いつか地平を鋭角で截るビル影に、光年の谺をかえすため

 も嫌いである。特に「光年の谺」が嫌いだ。「谺」が嫌いだ。とても古くさく感じる。なぜ古くさく感じるのかわからないけれど、いったいだれがいま、こんなことばをつかうのだろうと思ってしまう。
 ところが、その次の、

わたしの一秒を、翔ぶものの骨となす--

 この古さが私は好きだ。「翔ぶものの骨となす」の「なす」ということばの古い古い強さがとても好きだ。この古さの強さが、全体のことばの古びた軽さを押さえている。焦点のように、あるいは重力の中心のようにというか、全体を「なす」という世界へ引きずり込む。
 その動きの強さが好きである。

*

いま手に入る杉本の詩集。


十字公園
杉本 徹
ふらんす堂

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小島数子「空に深く見下ろされた」

2008-03-09 01:38:07 | 詩(雑誌・同人誌)
 小島数子「空に深く見下ろされた」(「庭園 アンソロジー2008」2008年02月22日発行)
 最後の方にとても美しい行がある。

人に食べてもらえる魚を
海で獲れなくなったら
どこで獲ろう
と思う漁師たちの溜め息は
秋の花の紫色に落ちる

明日は憂いのあるものに憂いのないことを願い
明日は憂いのないものにも憂いのないことを願い
と言ってみる

 作品のちょうどページが変わったところからはじまるので、そこだけを1篇の詩として何度も読んだ。
 繰り返し繰り返し読んでいる内に私が書くとしたら、と思わず思ってしまった。1か所、たった1か所、どうしてもつまずく部分がある。

 「紫」という音はとてもむずかしい音だと思う。「紫色」となると、なおむずかしい。音楽にならない。(私の耳にとって、というだけのことであって、小島の耳には音楽として響くのだとは思うが。)

と思う漁師たちの溜め息は
秋の花の紫に落ちる

 「色」ということばを省きたくてしようがないのである。「むらさきいろ」と「むらさき」のどこが違うのかと聞かれたら、私にもよくわからない。ただ「むらさき」と単独の場合の方が私には美しく響く。「色」が見える。「紫色」というと「色」が突然濁ってしまう。
 かつて私が住んでいた街には「紫川」という川があって、私はこの川が非常に嫌いだった。その川のことは何度も詩に書いたりしたが一度も「紫川」ということばをつかったことはない。どうしてもなじめない。特に、その街特有の鼻濁音ではない音で「むらさきがわ」と発音されると耳をふさぎたくなる。こんな汚い音をよく川につけたものだ。だからこんなに汚い川になったのだ、とさえ思った。
 こんなことを書いてみても、小島の詩について書いたことにはならないのだが、どうしても、「紫色」という音についてだけは書いておきたかった。



 この詩の美しさは、

と思う漁師たちの溜め息は
秋の花の紫色に落ちる

 という行の「と」からはじまる転調にある。「と」からはじまり「は」で終わる。ここに急に動く音楽がある。意味を追いかけてきたことばが、突然、いったん意味を放り出す。
 「思う」ということの内容が放り出され、それが「溜め息」にすりかわって、主語になる。そして、「思う」こと(思ったこと)の内容からふっきれて、いままでそこには存在しなかったものへと一気に結びつく。
 ありえない出会い。いままで存在しなかった出会いが突然誕生する。

秋の花の紫色に落ちる

 この突然の変化、転調の果ての開かれ方にうっとりしてしまう。秋の花の紫を見に行きたくなる。どこに咲いている? と思わず聞きたくなる。
 そういう美しさだ。
 次の、

明日は憂いのあるものに憂いのないことを願い
明日は憂いのないものにも憂いのないことを願い
と言ってみる

 もすばらしい。とてもすばらしい。ほんとうにすばらしい。何度も何度も繰り返し読まずにはいられない。

明日は憂いのあるものに憂いのないことを願い
明日は憂いのないものにも憂いのないことを願い

 の絶妙な変化。「明日は憂いのないものに憂いのあることを願い」だったら、この美しさは生まれない。「明日は憂いのないものにも憂いのないことを願い」という一種の想像力を裏切る動きが、対を破る破調がとても美しい。それが

と言ってみる

 と締めくくられるとき、あ、いま読んだ行をもう一度聞かせて、何度でも聞かせて、と言いたくなってしまう。
 「と言ってみる」のなかにある、何かを追い求めるような気持ち、ほんとうは存在しないものをことばで取り出そうとする祈りのようなものを感じてしまう。その祈りの音楽にこころを奪われる。

 私の感想は印象批評でありすぎるかもしれない。でも、こうとしか書けない。この数行の美しさをだれかがもっとていねいに書いてくれたらなあ、と思わず願ってしまう。

*

小島数子の詩をもっと読むなら。


詩集 等身境
小島 数子
思潮社

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糸井茂莉「(夢の)破片」

2008-03-08 10:12:10 | 詩(雑誌・同人誌)
 糸井茂莉「(夢の)破片」(「庭園 アンソロジー2008」2008年02月22日発行)
 繊細にことばがゆらぐ。ゆらぎの中で、あるいはゆらぎの「間」で名付けられぬものが動く。そのとき「間」は「ま」になる。「ま」は「魔」になり、「魔」が「真」になる。 冒頭。

くさはらの(草)。水うみの(みず)。

 「くさ」と「草」。これは無数のうごめくくさの群れ(くさはら)から糸井自身の探している1本の草、糸井だけがはっきりと自覚できる1本を探す精神の動きを連想させる。だが、次の「水」と「みず」はどうか。私は一瞬目眩をおぼえる。「みずうみ」は「水うみ」ではない。「湖」である。しかし、その「みずうみ」を「水うみ」と認識し、「みず」へ戻す。「草原」から「草はら」へ、そして「くさはら」へという精神のうごきと錯綜する。何かが違っている。ずれている。そのずれがゆらぐ。ずれているから、何かがゆらぐ。たとえば、私、という基本的な何かが。

くさはらの(草)。水うみの(みず)。あかるい夜、だから光っている。くさを掻き分けさがす、逃げた夢の尾びれ。ときにひとの手(と声)を借りて。草を書き分け、なくした草稿のひとひら。彼方で白く光っている。(あれが、そう)。

 「くさ」から「草」、そして、そこから「草稿」へ。「草稿」にひそむ「草」へ。それに「水うみ」に住んでいる魚の「尾びれ」が侵入する。「くさはら」が「水うみ」なのだ。「湖」という存在ではなく、「湖」からずれてしまった「水うみ」。
 「書き分け」ということばが象徴的だが、糸井は、意識の揺れを統一しようとはしない。ゆらぎをゆらぎとして「書き分ける」。つまり、ゆれをていねいに定着させ、そうすることで、「ずれ」を明確にし、「ずれ」がかかえこむ「間」へ読者の意識を誘い込むのである。

(あれが、そう。)

 この末尾のことばのなかに「草」(そう)が隠れている。ゆらいでいる。ゆらぎながら見え隠れするもの--それが「真」である。「真」は糸井にとっては固定化されたものではない。固定化されず、ゆらぐもの。ゆらぎながら、何かをひきずり、動くもの。いまあることば、「流通している言語」ではつかみとることのできないもの。それが「真」であると宣言することは、現在流通している言語、固定化された言語は「真」ではないとささやく「悪魔」(魔)の声である。
 「魔」の声は、私をとらえる。「魔」はこわいが、そのこわいことが快感なのだ。ふあんてい。どうなるかわからない。そのゆらぎが、肉体の奥をゆさぶる。つまずけば「魔が差した」といいのがれすればいい。つまずかず、ここから飛躍できれば、「これこそが真だ」と知ったかぶりをすればいい。ことばは現実をなぞるものではなく、現実をその内部からじわりと変形してゆくもの、ゆがめてゆくものだからである。ゆがみによって、現実はひろがってゆく。豊かになってゆく。
 (この「ゆがみ」について、糸井は別のことばをつかっているが、それは作品を読んで確かめてください。書き出すと長くなるので、ここでは省略。)

 そして、このゆらぎの豊かさは、実は、とてもやっかいである。みさかいがない。区別がない。論理を拒絶する。1連の短い文が、ねじれ、句読点のない世界へまで達する。
 終わりから2連目の数行。

天空を割って(桃のように)開闢のときに立ち会う(ビャクという音(おん)から白檀の香りがただよう)すばしっこい小動物も(栗鼠?)からからいう木の実もみなあふれだして(砕けて)真珠のようにかたい(やわらかい(歯の))白を剥き夢の牙(夢の皮膜)も剥いてあらわれる獣の(手のひらにのるほどの)頭蓋(桃のような)

 主語は何? 述語は? かたいの? やわらかいの? 牙をむくが、皮膜を、桃の薄皮を剥くと重なり合う時、「流通言語」にふれていない「無垢」のことばが、ことばにならないままあふれ、ししたる。
 そのしたたりは、甘いか。汚いか。
 これは読者次第である。ももの汁をあまいと感じるひとがいるように、手がよごれてきたないと感じるひとがいる。
 甘いと感じるひとは、からみついた汁を、指をねぶりながらねぶる。汁をねぶっているか、指をねぶっているのかわからない--その楽しみをもあじわいながら。そして、ねぶりながら、自分のなかの体液、つばと汁を一体化させ、その一体感に酔う。
 汚いと感じるひとはさっさと手を洗う。念入りに、水道の水、人工の水で洗い流すだろう。

 糸井の詩は、ある意味で読者を選別するかもしれない。
 私は、あくまで、その汁をねぶる。糸井のことばをねぶりつづける。それが糸井のことばではなく、私のつばにまみれ、べたべたになり、「え、そんなことを糸井は書いていないよ」という批判があふれるようになるまで、ただひたすらねぶりつづける。
 たぶん、「糸井は谷内の書いているようなことは書いていない、誤読だ」という批判が確立した時、糸井のことばは私のなかで、まぎれもない「真」になる。




糸井の詩集を読むなら。


アルチーヌ
糸井 茂莉
思潮社

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桑原文次郎「若さ」

2008-03-07 11:27:53 | 詩(雑誌・同人誌)
 桑原文次郎「若さ」(「光年」133 、2008年02月15日発行)
 「四行詩三編」というタイトルでくくられたなかの、冒頭の作品。「若さ」。

私にはアンドレ=ジイドの趾(あし)の裏まで見えるような気がすると言って
 友人を驚かせたとき
私に 何がわかっていただろうか
恐らく 何もわかっていなかった
それでも そのときの若さが感じていたものは確かにあった

 余分なことが書かれていない。そういう美しさがある。「気がする」「わかっていた」「わかっていなかった」「感じていた」。この四つのことばは微妙に動く。
 「気がする」はもちろん「わかる」ことではない。明快な「理解」ではない。「頭脳」で判断して「わかる」と言っているわけではない。あくまで「気」なのである。この「気」は肉体と深くからんでいる。肉体のなかに「気」がある。「頭脳」のなかに「気」があるのではない。
 「気」の前の「見える」が「肉体」である。「見える」はここに書かれている「見える」は「肉眼」ではない。「肉眼」ではないけれど「見える」ということばをつかう。そのとき、ことばは「頭脳」ではなく「肉体」をくぐり抜ける。「肉体」をとおる。そして、その「肉体」をとおるということが「気」を引き出すのである。1行目の美しさは、この「肉体」をくぐりぬけることばの動きにある。とても自然な「見える」から「気」への移行がある。
 また桑原の「肉体」はこのとき、「アンドレ=ジイドの趾の裏」とも交感している。もちろんそんなものは「肉眼」ではみえない。しかし「気」にとっての「肉眼」には、それを見ることが可能なのである。これは「頭脳」の世界ではない。
 そうした「肉体」「気」「気としての肉体」と「見る」という動詞の関係を書いておいて、そこから2行目で、距離を置く。離れる。そのとき「頭脳」の世界があらわれる。「頭脳」が過去をなつかしい「肉体」としてよみがえらせる。2行目、3行目と、時間をかけてゆっくり「肉体」(気としての視力)について思いめぐらす。「わかっていただろうか」「わかっていなかった」の2行の反復する感覚が「時間」を明確に浮かび上がらせる。反復することで動詞は「時間」を内包する。
 その「時間」を4行目で「若さ」と定義し直し、桑原は「肉体」を見つめなおす。その「肉体」はいまはない。その「肉体」へのどうしようもないなつかしさ、とりかえしのつかないなつかしさが「感じていたものは確かにあった」ということばのなかで、そっと自分の位置を確かめている。
 「気」から「感じ」への移行。
 桑原はさらっと書いているが「気」と「感じ」は「強さ」が違う。「気」は「感じ」よりはるかに強い。充実している。「気」は肉体を超越し、あふれていく。「見える」というような越権的(?)な動きをする。「気」に「目」はない。しかし、「気」は「目」を持たないけれど「見る」。見てしまうのだ。そこにないものを。そして、どこにもないものを。「肉体」が欲するものを。
 若い時代、桑原の「肉体」は「アンドレ=ジイドの趾の裏」という、おそらくだれも見たことのないものとまで交感することができた。「気」は、そんなふうに超越的なもの、特権的なものである。
 時間がたち、「気」が薄れる。そのとき「感じ」が残る。

 とても美しい詩だ。


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エラン・コリリン監督「迷子の警察音楽隊」

2008-03-06 10:01:48 | 映画
監督 エラン・コリリン 出演 サッソン・ガーベイ、ロニ・エルカベッツ、サーレフ・バクリ

 フランス、イスラエルの合作。
 エジプトの警察音楽隊(といっても8人)がことばのわからないイスラエルで迷子になる。田舎町。どこにもホテルはない。食堂の女主人の好意で8人が3家庭に分かれて宿泊する。(1グループは食堂に、だが)そのときの交流を描いている。
 どのシーンもとてもおもしろい。「音楽警察隊」というかたぐるしいのか、やわらかいのかわからないような性格が自然なユーモアをかもしだす。「音楽隊」にひとりまぎれこんだ(?)プレイボーイも、とてもいい感じだ。
 おもしろいシーンはいろいろあるが、傑作は、プレイボーイの警官が、童貞少年に恋の手ほどきをするシーンである。少年のデート。少年の隣で少女が泣いている。ハンカチをわたし、涙を拭かせる。それから「何か飲むといい」とささやく。これはもちろん「こういう時は、何か飲み物を買ってきて、いっしょに飲むといい」という助言なのだが、少年はそのことばをそのまま少女にささやく。少年は警官のコピーしかできないのである。助言を助言として受け入れ、そこから自分の行動を考え出すというようなことができない。それくらいウブである。だから、警官はもうことばでは助言しない。少年のとなりにすわったまま、警官が少年だったら少女にするようなことを少年にする。つまり、膝に手をおいて、その手が拒まれなかったらゆっくり手を動かす。これをそっくりそのまま少年は少女に繰り返す。このパントマイム劇がほんとうにおもしろい。
 それに先立って、少年が警官に「セックス(初体験)ってどういう感じ?」という質問をする。それに対する答えが、また、とてもおもしろい。肉体の快感というようなことはいわず、セックスこそが愛なんだということを、純粋な、至高の愛として語る。プレイボーイはただ肉体の欲望のままに行動しているんじゃない。いのちの愛し、生きていることを愛している。
 このことばが、少年と少女がキスする瞬間に、ふっとよみがえる。
 ぎこちなく、そこにユーモアがただようからこそ、その「愛」のことばが忘れられないものとして強く印象に残る。

 映画はことばを聞くものではなく、あくまで映像と音楽を楽しむものだと私は思っているが、もう一か所、とても感動的なセリフがある。
 夫婦喧嘩ばかりしている家庭に副団長が宿泊する。彼は作曲もする。ただし、それは未完成である。夫婦喧嘩を見られた男が、副団長を赤ん坊の部屋へつれていく。(そこが彼らの仮の寝室になる。)そこで男は副団長に語るともなく語る。「音楽の終わりは沈黙がいい。小さなものがいい。赤ん坊のいるこの部屋とか、ランプとか」。その瞬間、男が、そういもの、小さな小さなしあわせ--そっとみつめているだけで、こころが安らぐようなものを求めていることがわかる。そのあと、副団長の耳に音楽が流れてくる。それは突然の、未完成の曲のつづきであり、その最終楽章でもある。男の悲しみと、副団長の音楽が、ひとつのこころとなって静かに流れる。はっと息をのむ美しさである。
 この映画では、ことばと映像と音楽がとても自然に結びついている。ことばがけっして映像を邪魔しない。音楽も映像を邪魔しない。副団長が聞く音楽は現実には存在しない音なのに、現実の音として聞こえる。この絶妙な美しさは、タビアーニ兄弟の「父、パードレ、パドレーネ」で主人公が遠くから聞こえるアコーディオンの音をフルオーケストラの音として感じるシーンに通じる感動的なシーンに似ている。

 ラストにも美しいシーンがふたつある。
 団長が、団長にひそかに思いを寄せる食堂の女主人と別れるシーン。団員全員が町を離れるシーン。団長が手を振る。そっとためらいがちに、手を挙げずに、ほとんど下の方で。そして、後ろに並んだ団員たちに手を振るようにうながす。プレイボーイの警官だけが元気に手を振る。彼は、最後の最後になって、団長から女主人を寝とった(?)。一夜限りの恋人に、楽しかったよ、ありがとう、という感じでよろこびの別れの手を振る。団長はそれを受け入れている。女主人も、別れにやってきた少年も、夫婦喧嘩の絶えない男も、その8人を見ている。
 ここで映画は終わってもいい。私は、そこで終わるものとばかり思っていた。それくらい美しいシーンである。余韻もたっぷりある。

 そこにもうひとつ、美しい美しいシーンが追加される。食後の大切な大切なデザートのように。
 「警察音楽隊」は無事に目的地に着きコンサートを開く。そのシーン。団長が歌い、指揮をする。導入部を歌い、バックの隊員に音楽をうながす。そこにプレイボーイがアドリブで音をはさむ。それはプレイボーイから団長への挨拶なのである。旅の間(そして、旅に出る前からも)、プレイボーイは堅苦しい団長が嫌いだった。でも、不思議な一夜、迷子の一夜をすごすことで、団長から女主人を寝とることで、団長とこころが通ったのである。ひとがこころを開き、交流することは楽しい--という思いを共有することができたのである。そういうことがいっしょにできて楽しかったね、よかったね、という挨拶である。
 それを受け、団長がふたたび歌いだし、隊員が演奏をあわせる。
 とってもいい。

 この映画は音楽隊員と田舎町の住人の交流だけを描いているように見えて、同時に隊員同志のはじめてともいえる交流を描いている。人間はいっしょにいるから交流しているとはかぎらない。いっしょにいなくても(別れても)交流できる。こころを開いて語り合う瞬間、それは一瞬だけれど永遠だ。一瞬だけれど消えない。繰り返し繰り返し、音楽のようにこころによみがえってくる。出会いは一期一会。でも、それは永遠だ。

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洞口英夫『闇のなかの黒い流れ』

2008-03-05 02:13:51 | 詩集
闇のなかの黒い流れ
洞口 英夫
思潮社、2007年07月31日発行

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 「邂逅」という作品がある。昭和四十一年四月二十九日という日付が入っている。その日付をみながら、あ、ことばは時代とともにずいぶんかわったな、と思った。現在、こういう詩を書く人がいるだろうか。
 「邂逅」の全文。

春の日 あぜ道につながれている牛が
ずうっと僕の方を見ていた
遠い昔 鉄格子の中から僕を見ていた
美しい白痴の少女の眼に似ていて
どこをみているのだろうと思われるような
まなこを 私は見ていた

それは いかにも牛が どこか以前で
人間であった時を思い出しているといったふうな--
牛に生まれたということが
そうさせられているのであろう

遠ざかってゆく 私を牛が
ずうっと見ている

 「うし」「あぜ道」という農村の風景のことを、私は問題にしているのではない。そうした風景がまだ日本にあるかどうかはわからないが、かつてはあったし、いまでも世界のどこかには存在するだろう。
 だが、

美しい白痴の少女の眼に似ていて

 この1行を、現代のだれが書くであろうか。
 「美しい」「白痴」少女」。この結びつきは、昭和四十一年には、ある意味を持ったかもしれない。私は、その当時でも、何らかの衝撃、つまりことばへの批評がそこにふくまれていると感じるひとは少なかっただろうと想像するが、現代では、なおのこと、そこにはことばへの批評は感じられない。非常に陳腐な紋切り型の意識しか感じない。いや、それだけでなく、そういう紋切り型を平気でつかうことに対するやりきれなさを感じてしまう。
 「美しい」は「白痴」を修飾しているようにも、「少女」を修飾しているようにも、眼」を修飾しているようにも見えるが、どちらにしろ、そういう組み合わせが、とても気持ちが悪い。「美しい」「白痴」「少女」「眼」という組み合わせがほんとうだとしても、それがそんな単純にストレートに、まるで水が上から下へ流れるように結びつき、それを「詩」として提出する姿勢に、とても気持ち悪さを感じる。
 昭和四十一年四月二十九日という日付があったにしろ、なんだか、いやあな気持ちになるのである。ことばに対する批評・批判が、その結びつきにふくまれているとは感じない。昭和四十一年であっても、そんなふうにことばとして定着させることに洞口が疑問を感じなかったのかどうか、それがわからないが、少なくともこの詩集は2007年に出版されている。その時点で、きちんと自分の書いたことばに批評・批判を加えるべきだろう。昭和四十一年のものだから、これでいいとは、私はいう気持ちになれない。

 古い時代の詩を詩集にするときはただ年代を明示すればいいというものではないだろう。時代ととともに、ことばも発想もかわる。その変化に対応できる視点を洞口は昭和四十一年には欠いていた。そして、それう修正することもなく、いま、ここに、こうして提出している。
 こういう姿勢は間違っていると思う。

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軽谷佑子「ウィンターランド」

2008-03-04 10:24:20 | 詩(雑誌・同人誌)
 軽谷佑子「ウィンターランド」(「現代詩手帖」2008年03月号)
 投稿欄「新人作品」のなかの1篇。藤井貞和が選んでいる。

まどの向こうに降る雨を
みているだけなら好きなんだけど
実際に外へ出て雨にぬれるのはいや
なのだとあのひとは言って
皿に残るソースの染みを
みつめていたのでした
真っすぐな顔をしてこちらをみていた壁と
カーテンがひといきに水をふくみ
それはあのひとの癖で
霧が出て顔が
みえなくなってあたり一面に人の
気配がみちて

 「なのだとあのひとは言って」という1行が何度読み返しても不思議である。
 前の行からの、ことばの「渡り」がある。もし、「渡り」がなかったなら、この作品は「散文」になってしまう。「言って」という表現は「渡り」に飲み込まれて(「渡り」の印象が強すぎで)消え入りそうだが、この「接続」の仕方も微妙な音楽がある。
 乱暴な比較になるが、たぶん比較しないと説明できないことなので、比較してみる。
 この作品の冒頭の6行は「散文」で書けば、

「まどの向こうに降る雨をみているだけなら好きなんだけど、実際に外へ出て雨にぬれるのはいやなのだ」とあのひとは言った。そして、皿に残るソースの染みをみつめていたのでした。

 「言った」と「みつめていたのでした」は、ともに「あのひと」を主語とする動詞である。ひとつの文章にひとつの主語とひとつの動詞。そういう関係でとらえなおすと「散文」はすっきりと読むことができる。(そのために複数の動詞があらわれる文章は、たとえば「 」をつかって、会話仕立てにしたりする。)
 そして、こうして「散文」にしてみると、

なのだとあのひとは言って

 という1行のなかに、「なのだと」という「渡り」と、「言って」という「接続助詞」による「わたり」があることがはっきりする。「言って」という表現は、ごく普通の表現なので、それが次の行に「わたり」として働いていることを見過ごしてしまいがちだが、このふたつの「わたり」が「あのひと」によってしっかり結びついていることが、この作品の魅力なのだ。
 私たちの意識は、あることがらからべつのことがらへ知らず知らずにうつっていく。そのことがここでは「あのひと」を強調するようにして、しっかり結びつき、その結びつきの強調がそのまま「恋歌」になる。

 そして、この「恋歌」という視点から見つめなおすと、もう一度不思議な姿が浮かび上がる。

なのだとあのひとは言って

 「渡り」を強く印象づける「なのだ」はほんとうはだれのことばなのだろうか。「なのだ」はなくても、この1行は「渡り」を構成する。
 「なのだ」は文章としては単なる強調形にすぎないけれど、もしかするとここには「理由」が含まれているかもしれない。そしてその「理由」は実は「あのひと」が感じている「理由」ではなく、「わたし」が納得している(私が思い描いている)「理由」なのかもしれない。この1行の主語は「あのひと」であるけれど、その「あのひと」というのは現実の(いま、ここにいる)「あのひと」ではなく、いま、ここにはいない「あのひと」、記憶の「あのひと」である。
 「あのひと」と「わたし」が入り交じり、融合して、(「恋歌」であるから、一体となってと言った方がいいかもしれないが)、強い「渡り」を構成しているのである。

 「あのひと」が「言う」という構文の「渡り」は最終連にも登場する。

あのひとは海王星で死ぬ
と言ってわたしはくるしい呼吸を
したのでしたいまは
冬の国にいてここは庭
なんの心配もなく座っていると空から
たくさんの冬が降ってきて髪の毛や
腕をおおいわたしは
地面とかわらなくなります

 4行目の「なのだ」(のだ)と言う表現が「あのひと」の口癖であるなら、最終連の2行目も「のだと言ってわたしはくるしい呼吸を」という形をとったはずである。ところが、ここでは「のだ」は含まれていない。
 このことは4行目の「なのだ」が「あなた」の口癖であるというより、「わたし」が付加したものであることを明らかにするだろう。
 「あのひと」と「わたし」の強い一体感--それが「わたし」の方からの「思い込み」。そして、それが崩れる。「一体」であったものが、途中からずれてしまう。「あのひと」と「わたし」の関係を結ぶもの、その「渡り」のなかから「あのひと」が静かに退場し、ただ「わたし」だけが「渡り」を支えている。
 こういうことを「失恋」と言うのだけれど、その「失恋」の苦しみが最終連でせつせつと語られる。
 これはひさびさにあらわれた「失恋」の「現代詩」である。とても胸に響く。この「恋歌」が歌謡曲にならずに、(と書くと、歌謡曲ファンに叱られるかもしれないが)、「現代詩」として屹立しているのは、軽谷が「渡り」を意識的に(明確な批評意識で)つかっているからだろう。ことばに対する批評が含まれる時、詩が誕生するが、軽谷は「渡り」という表現方法を洗い直し、そこに詩を成立させた。「渡り」という表現方法を、独自に、新たに生み出したと言っていいくらいである。

 今年読んだ詩の中では、この作品がいちばんおもしろい。5連から構成されている作品なので、ぜひ、「現代詩手帖」を買って全行を読んでください。引用しなかった部分にも「渡り」が魅力的につかわれている。




現代詩手帖 2008年 03月号 [雑誌]

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