詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

相生葉留実『海へ帰る』

2010-05-24 12:12:12 | その他(音楽、小説etc)
相生葉留実『海へ帰る』(ふらんす堂、2010年03月21日発行)

 相生葉留実『海へ帰る』は句集である。私は、俳句は門外漢である。たぶん、私の感想はトンチンカンなものだろう。
 気持ちのいい句がたくさんある。

雲も水も旅をしてをり花筏

 「も」には当然、「私」もふくまれるのだろう。そして、というのもちょっと変だけれど、このときの「私」は「雲」と「水」と、どっちの方に、より寄り添っているのだろう。わからなくなるが、そのわからなさのなかに、「雲」ももちろん「水」からできているという考えがふと割り込んできて、あ、相生は、雲と水とを同じものと感じていたのかも、と思う。天と地にあるもの。かけ離れたもの。違って見えるもの--けれども、それは「同じもの」でもある。その「同じもの」に「私」が自然に融合していく感じがする。相生は、何か、「私」意外なものに、すーっと融合していき、一体感をもって世界を見渡す。そのとき、世界がおだやかに変化する。そういう世界を描いていると思う。

長旅の川いま海へ大晦日

 「雲も水も」の旅は、いますべての「水」の「母」である「海」へ帰っていく。「海」には「水」(サンズイ)と「人」と「母」がいると言ったのは誰だったろうか。
 そのとき、長い長い旅のおわりに水が海にたどりついたとき、その水が浮かべていた、たとえば「花筏」はなんだったのだろう。不思議な出会い。出会いの中での美しさというよろこび。それが、静かに記憶として「長い」時間を飾ってくれるに違いない。さまざまな出会い、美しさの発見、そういうことを繰り返しながら、でも最後は「起源」である水そのものへ、その「母」である「海」へ帰る。
 相生がみつめているやすらぎが、そのなかに見える。

まくなぎに出口入口ありにけり

 もし一句だけ選ばなければならないとしたら、私はこの句にするかもしれない。「雲も水も」や「長旅の」に比べると、美しい感慨というものがあるわけではないが、その美しくないところ(?)に、「いのち」のとまどいとよろこびがある。
 どんなものにも出口、入り口がある。出口は入り口であり、入り口が出口である。ひとが(私が)それを出口と呼ぶとき、それは出口。入り口と呼ぶとき入り口。
 もし、そうであるなら、ひとはあるものを「雲」と呼ぶなら、そのとき「雲」。「水」と呼ぶなら、そのとき「水」。「長旅」と呼ぶなら、そのとき「長旅」。すべては、ひとの思いといっしょになって、世界そのものとして目の前にあらわれてくる。
 そういう一種の「事件」を相生は「ありにけり」とすっぱり言い切る。この「ありにけり」は、有無を言わせない力がある。とてもいい。
 先に書いたことを繰り返すことになるが、私の感覚では、人が「水」というとき、それが「水」に「なる」のだが、相生は、「なる」とはいわない。「ある」というのだ。この「ある」の力がすごい、と思う。
 「ある」の世界の中で、ひとは「なる」を繰り返しているのだが、その「なる」はいつか「ある」にならなければならない。「ある」に到達しなければならない。相生は、到達している。そう感じた。

 ほかにもおもしろい句がたくさんある。思いつくまま、違った印象が残る句をあげると、

鳥帰るほんとに帰つてしまひけり
花木槿夕方までに書く手紙
ゆび頬に弥勒菩薩の秋思かな 

 水が登場する句は、たいがいがおもしろい。

春の水まがりやすくてつやめける
芹摘めば水拡がつて流れけり
さざなみの風にうまれて一枚田
田植水鳥のくちばし撫でてをり

句集 海へ帰る
相生 葉留実
ふらんす堂

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北川透『わがブーメラン乱帰線』(9)

2010-05-24 00:00:00 | 詩集
北川透『わがブーメラン乱帰線』(9)(思潮社、2010年04月01日発行)

 ことばは誰のものだろう。書いたひとは(話したひとは)、書いたひとのもの(話したひとのもの)というだろう。それはもちろんそうなのだが、そのことばを読んだひとがどんなふうに動かしていくかを、書いたひとは決定できない。もちろん、他人が自分の書いたことばをかってにつかっているのを読んだならば、書いたひとはそれについて抗議はできる。抗議はできるが、それでも誰かがかって動かしていくというそのこと自体は止めることができない。
 たとえば、この文章。私は北川の詩を引用し、そのことばをかってに動かしている。そのことばの「意味」(?)だとか、有効性(というか、射程というか……)などについて、かってに私の考えを書いている。考えにもなっていない、思いつき、ただのぐだぐだを書いている。それに対して、北川は「私はそんなことは書いていない。谷内の誤読だ」と抗議し、批判することはできる。できるけれど、それは、もう私のことばが動いたあとであり、動いてしまったものをもとにもどすことはできない。また、北川が何といおうが、私はそれを無視して私のことばを動かしつづけることもできる。北川はこう書いているけれど、私はそのことばを、こんなふうに動かしてみたと、さらに書きつづけることを北川は止めることができない。
 そうすると、北川のことばは、北川のことばであっても、もう北川だけのものではない。まあ、もちろん、だからといって、それが私のもの(谷内のもの)ではないのだけれど……。そして、私のものではないのだけれど、私が北川のことばを私なりに動かしていかない限り、それは北川のことばにもなりえないと思う。少なくとも、私にとっては、北川のことばは、それを私がかってに「誤読」し、ねじまげ、動かしていかない限り、北川のことばではない。かってに動かしていくとき、「誤読」に「誤読」を重ねていくとき、私にとって北川がはじめて姿をあらわす。北川がはじめて北川になる。「誤読」しないかぎり、それは、ただ紙に印刷された「活字」にすぎない。
 --これは乱暴すぎる飛躍になるかもしれないが、北川もまた私と同様「誤読」によって他人のことばを北川自身のものにすることで、他人と出会う。そこで、北川の「誤読」と闘いながら、いつまでもいつまでも生き続けている「他人」を知り、さらに「誤読」をつづけるためにことばを動かす。私には、北川は、そんな詩人に思える。(それがすべてではないが、そういうことをしている詩人に見える。)
 で、その証拠。
 詩を書きはじめて九日目の(とは、この詩には書いてないのだけれど)部分。カフカが登場する。「変身」のグレゴールが登場する。グレーテが登場する。そして、妹に同情する北川が登場し、その北川のことを北川が書いている。そこでは、書かれている北川(と、私はかってに読んでいるのだが)は、グレーテと結婚し、グレーテはその結婚が同情によるのもであって愛情によるものではないと思い、ぐれて(グレーテ--なんてことは、もちろん、北川は書いていないが)、万引きをするようになるが、でも、万引きをほんとうにしているのはグレーテではなく、北川では? ほら、この詩の部分のように、かってな引用、誤読をつづけること、捏造すること、その行為って、他人のものをかすめとってくる万引きとどう違う? というような、ことを書き綴った、そのあとに、引用。

 真実の道は一本の綱の上を通っていく。その綱は空中ではなく、地面すれすれに張られており、通らすよりも、むしろつまずかせるためにあるらしい。

 あ、これってカフカのことばなのに、もう完全にカフカではなくなっている。誰が読んだってカフカだし、北川は、ちゃんと注釈をつけて、カフカ全集(白水社)からの引用だと書いているのに、カフカのことばではなくなっている。
 カフカの「誤読」を北川はすることができる。カフカの作品が先行し、あとから北川が読むからである。でも、カフカはそういうことはできない。カフカは北川のことばを一切知らない。知らないはずなのに、こうやってカフカのことばが北川のことばのあとに引用されると、まるでカフカが、北川のことばを読んで、それに対してそう言ったように見える。
 実際、ここでは、死んで、もう存在していないはずのカフカが、北川のことばを読んで、そう言っているのだ。そういうカフカに、北川は詩の中で出会っている。
 「変身」を「誤読」し、変身の登場人物をかってに動かし、その動きに北川自身を関係させていっている内に、そこには存在しないはずのカフカが甦り、北川に対して(北川のことばに対して)、「真実の道は……」と言ってしまうのだ。

 でも、でも、でも。
 それが問題。
 このときって、そのカフカは、誰? そのカフカのことばは、誰のことば? 北川が発見し(北川が発見しなくても、すでに存在しているのは、コロンブスのアメリカ大陸の発見と同じ)、「発見」することで、他の読者にも(たとえば、私にも)見えるようになったカフカなのだから、それは北川のことばと言ってもいいのでは? アメリカ大陸の発見はコロンブスによるもの、アメリカはコロンブスの大陸と言ってもいいように……。

 何か違う?
 もちろん、違いますねえ。違うことは承知で、でも、私は、そんなふうに「間違い」をことばにしたいのだ。



わがブーメラン乱帰線
北川 透
思潮社

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北川透『わがブーメラン乱帰線』(8)

2010-05-23 00:00:00 | 詩集
北川透『わがブーメラン乱帰線』(8)(思潮社、2010年04月01日発行)

 北川の今回の詩集を読みはじめたとき、私はその日の「日記」の最後に(つづく)と書いたはずだが、そして、いまもその感想を書きつづけているといえはいえるのだけれど、うーん、「持続感」がない。つづけているのか、それともまったく関係がなくなってきているのか、よくわからない。
 北川の書いているものって、詩なのかなあ。
 もしかすると、詩のふりをしていることばかもしれない。詩のふりをしながら、詩について考えていることば。でも、そのことばが、詩のふりをしてしまうと、そのふりにことばがひっぱられていつのまにか詩になってしまって、こんなはずじゃなかったともがいている感じ。詩をこわしたいのに、そのこわすということばの暴走が詩になってしまう。
 何か変。

「大朗読」の日が近づいている。
朗読って、詩の不可能を証明するために朗読するの?
それとも、朗読の不可能を証明するために朗読するの?

 そのことばを借りて書き直せば、

詩は、詩の不可能を証明するために存在るの?
それとも、詩の不可能を証明するために詩は書かれるの?
詩の不可能を証明できたときに、ことばは詩になるの?

 わからないが、そのわからなさだけが、うそではないことがらかもしれない。
 最初のころは、北川は、詩を書くぞと張り切っていたが、だんだん、ああ、詩が書けないと嘆きながら、詩ってなんなのさ、とその方向へことばを動かしはじめている。
 北川が書いていることばは、学校教科書でいう「詩」とはかなり違っているが、そしてそれが詩であるかどうかは、まあ、わからないが、詩について考えているという、そのことばの運動のなかには、うそではなく、ほんとうが書かれている。
 ほんとうは、詩って何、という問いと、その問いに対してことばを吐き出したいという北川の思いのなかにある。あ、思いなんて、いっちゃいけないなあ。その問いに対して動きはじめたことばのなかにだけある。そして、それはとまっているときは見えない。動いているときにだけ、見える--そういうものである。
 動いているときにだけ見える--というのは。
 つまり、私は、こうして北川のことばをときどき引用しながら私自身が感じたこと、考えたことを書いているのだが、その私の書いたもののなかには、もうすでに何もない。何も見えない。ただ、北川のことばを追いかけて私がことばを書いているというその瞬間にだけ、私には北川がとても身近に感じられる、ということである。
 書く。ことばを書く。そのときだけ、詩は、ふいにあらわれ、書き終わると、そんなものなんてどこにもないさ、と消えてしまう。
 この感覚は--たぶん、こういう書き方は強引すぎるのだろうけれど、北川にもあると思う。書いている、その瞬間だけ北川は詩にふれている。詩を実感できる。けれど、書いてしまうと、それは詩ではないという形でしか、詩であることを証明できない。そういう矛盾した感じ……。

……いったい誰があんたに詩を書くことを教えたの?
わたしは従順で無力な娘を転がしながら、何度も責めた。
娘にとっても、わたしにとっても忘れられないあの夜。
わたしに背いて、知らない男とあんたは寝た。
それが憎いのではない。わたしにはウソを突き通して、
詩の中にだけ本当の事を書いた。
あんたはオトコとヤッタだけじゃないのよ。詩とヤッタ。
それが許せない。わたしにはいつもウソばっかり。

 ここに書かれていることばを、私は書き換えたい欲望に襲われる。「わたし」とは「流通言語」、「娘」とは「詩にあこがれることば」。「男」は「詩」である。ことばは詩にあこがれ、詩とセックスをする。それが、どういうものか、かいもく見当がつかないが、若い娘がセックスが何かまったく知らなくても現実にセックスできるのと同じように、ことばはいつだって詩とセックスできる。詩とセックスし、詩の快感を存分に味わうことができる。でも、その味わったよろこび、味わいながらことばがことばを超えていった瞬間(エクスタシーの瞬間)は、あとから語るとみんな「ウソ」。「ウソ」になってしまう。「本当の事」はセックスしている瞬間にしかない。
 瞬間にしかないとわかっているのに、書く--書くことの中に、瞬間と、瞬間をこえる暴走がある。書かれてしまったものには、もう、暴走する力はないかもしれない。けれど、書くというその瞬間は、暴走するのだ、ことばが。

詩はチベットの文字ではない。詩に完成を求めるな。
何度、沙漠に反乱が起こっても、石はパンに変わらず、
ゴキブリはライオンに化けない。

 それはたしかにそうである。「流通言語」では。
 けれど、詩を書く--その書くという瞬間において、沙漠に反乱が起きるとき、石はパンになる。ゴキブリはライオンに化けるだけではなく、ライオンになる。
 いつだって、書くとは「なる」ことなのだ。
 北川が、

本当のことを言おうか。
わたしは男の振りをしているが、男ではない。
詩を書き始めると声が変わる、でも、朗読しなければ分からない。
十行ほども詩を書いていると、わたしの胸は次第に膨らんでくる。

 これは、ウソではなく「本当の事」なのだ。そう書いているとき、北川は、男ではなく「女」に「なる」。ことばは北川を「女」にしてしまう。ことばによって、北川は「女」にされてしまう。されてしまうというのが、まあ、私の感覚では「ほんとう」のことなのだけれど、そのことを北川なら「なる」というと思う。
 書くことで「なる」。
 これは、むちゃくちゃな定義かもしれない。
 でも、むちゃくちゃだから、真実である。

 北川のことばは、まだまだ「つづく」。そのことばは「なる」ということを繰り返し繰り返し、また繰り返して、その残骸を上の上に残しつづける。その残骸は詩ではない。だが、その残骸がさらにえんえんと残骸を産みつづけるならば、そのときは、それが詩である。
 我田引水して言いなおすと。
 北川のことば--それが詩集の形で一冊であるとき、それは残骸である。けれども、たとえば、私が、あるいは別の誰かが、その残骸に触れながら、さらに残骸を増殖させるなら、その増殖の瞬間においては、それは詩なのだ。そのとき、私が北川のことばを増殖させていると思うのは、実は、私の錯覚であって、そのとき、私が増殖させたことばを突き破って、北川のことばこそが増殖する。拡大する。さらに暴走する。そういう運動が、詩というものだと思う。
 だから、私は、書く。私の書いていることは、あいかわらず「誤読」である。私は「誤読」しか書かないが、それは「誤読」こそが、ことばの暴走、拡大の瞬間だと信じているからだ。



わがブーメラン乱帰線
北川 透
思潮社

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北川透『わがブーメラン乱帰線』(7)

2010-05-22 00:00:00 | 詩集

北川透『わがブーメラン乱帰線』(7)(思潮社、2010年04月01日発行)

夢にうなされて目が覚めた。
たしか七日目の朝だろう。

 いそいで、ページをくって「七日目の夜」がないことを確認しました。(ライブ日記ですので、いそいでいます。あれこれしていると22日になってしまう。--私は、前日に書いたものを翌日の0時にアップしているのです。)

夢にうなされて目が覚めた。
たしか七日目の朝だろう。
詩らしきものを書いては消し、書いては消している。
詩らしくても詩にならないのは、次から次へと湧き出ることばが、
魚の骨汁や人糞や牛の唾液にまみれているからだろう。

 自分自身の書いたことばを否定し、詩ではない、と書き綴り、その次の行、これが過激である。

それは皮膚の細かい穴から出る感情でぬるぬるしている。

 詩ではない、と否定することば。そのことばが過激になった瞬間、その1行が詩になる。詩となって輝きはじめる。
 「詩らしきもの」、疑似詩を否定し、批判するとき、その批判のなかに、ほんものの詩が輝くということだろう。詩らしきものが、どういうことばでできているか、それを自覚すること--それが批判になる。そして、それが批判になるのは、実は、その批判のことばが、いままでのことばを超越しているということが必須条件である。

それは日本的情緒にまみれた使い古されたことばである。

 では、「流通言語」のやっている「批判」である。それでは批判にならない。批判が批判になるためには、その批判自体が独自のことばをもたなければならない。
 だが、それはむずかしい。

それは細長く円筒状に伸びる頭のなかでがんがん響いている。
もう、うんざり。けっこう毛だらけ、トゲだらけ。
それは前脚の折れた馬みたいに尻尾を振っている。
樹枝状に分かれたその空洞を針千本が泳いで通る。 
気管支が破裂しそうだ。
痙攣、嘔吐、ことばは尿毒症にかかっている。

 この数行が、「流通言語」を批判し、独自のことばきして成立しているかどうか、ちょっとわからない。引用しながらも、この1行こそ……と思うことばがない。
 北川自身、どう感じて書いたのか、そしてそれ以後をどう感じて書いたのか……。
 北川は、詩と歴史を重ね合わせ、ことばを動かすことも試している。

どんな歴史も消されることはないが……消されている。
どんな詩句も葬られることはないが……葬られている。

 そして、ことばが消され、葬られた瞬間のことを書く。

 ……あの敗亡の一九四五年夏……小学校の教室……女先生は泣きべそをかいて……幼いわたしたちの心を……みずからの手を使って墨で塗りつぶすことを命じた……わたしたちがひるんでいると……みずから口のなかに手を突っ込んで……臭くて醜い肉の塊を引っ張り出した……これが心というものよ……先生は針金で巻いて黒板に吊るし……真っ黒に墨を塗った……さあ……今度はあなたたちの番ね……あなたたちも進んで墨を塗るのよ……と言って……涙目でわたしたちを睨んだ……女先生は汚い爪が長く伸びた手を前に突き出し……わたしを指した……指されたのはわたしではない……わたしではない……わたしではない
誰かが笑った。
それがどうした、と言うわけではないが、
また、誰かが笑っている。

 ことば(流通言語)を批判することば--それは詩である、という定義は成り立つか。この問題はむずかしい。たとえば戦時中の「流通言語」を反戦時に、教育現場では一斉に批判した。ことばを墨で塗りつぶして、そういうことばはなかったということにした。その行為は詩であるか。
 あ、こんな、問いのたて方自体が「笑い」の対象かもしれない。誰かが、それこそ、わらっているだろう。誰かではなく、北川が笑うだろう。
 設問はどうでもいいのだ。笑うことに意味がある。笑いこそが最大の批判である。笑い以上の批判はない。
 北川のことばが、過激に、乱暴に、でたらめ(?)に動いていくのは、そこに「笑い」への渇望のようなものがある。ただ過激であってもおもしろくない。笑いのように、既存の価値を一気に吹き飛ばしてしまうようなものこそ、ことばには必要なのだ。

 その「一気」は、あるときは「くすくす」ということもある。


わがブーメラン乱帰線
北川 透
思潮社

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フィリップ・シュテルツェル監督「アイガー北壁」(★★★★)

2010-05-21 23:31:36 | 映画
監督・脚本 フィリップ・シュテルツェル 出演 ベンノ・フュルマン、フロリアン・ルーカス

 映画というのは不思議である。結末がわかっていても、違う結末を想像してしまう。「アイガー北壁」が描いている「事実」を私は知らないが(知らなかったが)、映画の冒頭で、北壁に挑んだ大切なひとが死んでしまった(登頂に失敗した)ことは明確に語られる。恋人の女性が、男が残していった手帳をめくりながら、回想する形で映画は始まるのだから……。
 それなのに、クライマックスで、恋人(男)は助かるのでは? と思ってしまうのだ。だって、映画でしょ? 映画だったら、恋人が助からないで、いったいどうする? ほら、最後の力をふりしぼって男がロープに手をのばす。その手はきっとロープにとどく。愛の力が奇蹟を起こすはず。
 この映画のテーマはアイガー北壁に挑んだ男たちの現実を描くことだけれど、ね、その背後にあった熱い愛、愛がいのちを救った--それこそ、感動的なテーマ。きっと、助かる。恋人が祈っているだけではなく、恋人の情熱に引きずり込まれるようにして、地元の登山家が救出に参加している。彼らは、単に、男のいのちを助けるために救出に山をのぼったのではなく、女のいちずな愛にこたえたいからでもあるんだよねえ。だから、きっと助かる。
 ほら、あと少し。もう一回、力をふりしぼって。頑張れ、頑張れ、頑張れ。
 あ、まるで、恋人を見つめ祈る女になりかわって、祈り、祈りながら、どきどきしてしまう。
 この不思議さ。

 そして、登場人物とのこの不思議な一体感のあと、もう一度不思議なことが起きる。それこそ奇蹟が起きる。
 主役は死んでしまう。アイガー北壁に挑んだ二人のドイツ人、二人のオーストリア人は死んでしまう。死んでしまったのに、その二人が、映画を見終わったあと、こころのなかで甦る。特に、トニーが強く甦ってくる。冷静で、いつも安全を、いのちを大切にしていた男。けがをしたオーストリア人登山家を助けることを優先して北壁登頂をあきらめた。その結果、最悪の悲劇が起きたのだけれど、そのトニーが他人に向けた愛--いのちを最優先にするという姿勢。それが、ふっと、甦ってくる。あ、あのとき、そのいのちを最優先し、万全の態勢で行動するということを守っていいたら、この悲劇は起きなかったのに……という後悔もいっしょに甦る。そして、そういう常にいのちを大切に生きるという姿勢がにじんでいるからこそ、他人(いっしょに行動する友人)を惹きつけ、恋人を惹きつけ、それから地元の登山家(救出に向かう登山家)を惹きつけるんだろうなあ、ということがわかる。
 とても立派な登山家だった。偉大な人間だった、ということがわかる。映画を見ているときは、はらはらどきどきしていただけだが、映画が終わって、トニーが死んだ瞬間から、トニーが私のこころの中で生きはじめるのである。
 私は登山をしないが、あ、そうか、登山のときは何に気をつけなければいけないのか、ということもトニーのことばとしてわかるのである。登頂よりも大切なものがある。いのちである。生きて下山するということである。どんなときでも、下山のことを考えておくべきである。むりはしてはいけない。けれども、可能ならばそれはしなければならない。それは、誰かのためではなく、自分のためである。

 映画の結末は、映画の冒頭でわかったが、映画が見終わったあと、私のこころの中で誰が生きはじめるのか、どんな奇蹟が起きるのか--それは、わからなかった。あ、この不思議な奇蹟を体験するために、映画はあるんだねえ。


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北川透『わがブーメラン乱帰線』(6、その2)

2010-05-21 22:25:39 | 詩集
北川透『わがブーメラン乱帰線』(6、その2)(思潮社、2010年04月01日発行)

 さて、七日目--のはずであるが、「ギャーッ」。七日目がない。

六日目の夜。
まだ、わたしは家には帰らない。帰れない。

 なんなだなんだ、六日目は「朝」と「夜」と二回、詩を書いている? 急いでページをめくると、スーページ先に、

夢にうなされて目が覚めた。
たしか七日目の朝だろう。

 おおおい、北川さん、裏切りじゃないか。裏切りだよ。こんなふうに、突然、朝と夜とに一日をわけるなんて……。
 と、書きながら、実は、私はこの裏切りが好き。なんというか、闘争心がわいてきますねえ。負けない、つきやってやるぞ、追い付いてやるぞ、なんて思ってしまう。こういう気持ちになるから(させられるから)、詩というか、文学というか、芸術って楽しい。
 いくら頑張ったって、私が北川のことばに追い付けるなんてことはありえないのだけれど、でも追い付きたいという気持ちにさせられる。ことばを読み進めたいという気持ちにさせられる。瞬間が、なんとも、うれしいのだ。
 追い抜いてしまった(そう感じる)ことばはおもしろくない。脇をすーっと走っていってしまうことばを見た瞬間、あ、追い付きたい、そのスピードにあわせて走りたい、そのスピードで走ることばが見るものを見てみたい--そういう気持ちになる。
 
 「ギャーッ」と叫んで、それから、私は大急ぎでことばを追いかける。速く追いかけないと、22日(7日目)になってしまう。

まだ、わたしの詩は一行も書けていない。
空漠とした天上から濃い闇が海面に降りてきて、
ポー、ポー、ポーと気だるく汽笛が鳴る。
高く低く、強く弱く、かすかな光が尾を引いて、
めざめる。ゆっくりと、それが何だと言うのではない。
わたしは幾度もことばを失った。でも、
いま、胸に響いているものは何か。

 きのうの「短歌」の影響だろうか、「汽笛」というような日本的情緒にことばがひっぱられている。ああ、この瞬間こそ、「ことばを失った」ということなのかもしれない。ただ、何かを言えなくなる、ことばがつづかなくなる--というのではなく、ことばが、それまであったことばのなかにかすめとられていく。その瞬間こそが、ことばを失うということなのだと思う。不思議なのは、そういうときも、「胸に響いている」ものがあるということだ。
 でも、それは、北川が否定すべきものだ。

そんなものはない。そんなものを信じて、
おまえの体内の真っ赤なインク壺をぶっちゃけるな。
汽笛は鳴っても……、繰り返し鳴ってはいるが、
船は影さえ見せない。詩はノスタルジックな汽笛ではない。
詩は経験のぼろ屑、世界に見捨てられた玩具、
詩は臭い断片の集積、おまえと他者が必死に生きて排泄した経験の、
詩は剽窃、裏切り、ひ弱で卑賤な感覚の綴れ織り、
詩は宙吊り、仮死、調子の狂ったコレクション、
詩はことばのチェーンスモーカー、中毒、四肢錯乱……

 詩を真剣に模索している北川がここにいる。





詩的レトリック入門
北川 透
思潮社

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小池昌代『怪訝山』(2)

2010-05-21 12:28:59 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『怪訝山』(2)(講談社、2010年04月26日発行)

 小池昌代が書こうとしている「いまこのとき」。その矛盾したというか、どこにも属さず、ただ生身の身体だけがあって、それが「ここ」ではないどこかへとつながってしまう感じ--それは詩、というものかもしれない。
 「いまこのとき」は「いま」から離れて、「いま」ではなく「過去」「未来」、「ここ」から離れて「どこか」と結びつく--いや、融合する。「空白」として、融合する。
 その瞬間に、詩があらわれる。
 小池昌代は、私にとっては小説家であるというより詩人なので、私はどうしても彼女の文章に詩を読みとってしまう。 
 たとえば、「木を取る人」の書き出しのあたり。湯船に入って、栓をぬく。お湯がなくなり、裸の体が残される描写。同じことを、小池は2度繰り返して書いている。1度では書き足りずに2度書いている。

 その、一瞬手前に宿る認識のようなもの。

 2度書きながら、「その、一瞬」と強調するときの「その、」が「いまこのとき」である。「いまこのとき」には、意識が過剰にふくまれている。過剰であることによって、「いま」を超え、「過去」「未来」、あるいは「ここ」ではない「どこか」と融合し、その瞬間に、それが「いま+ここ」、つまり「いまこのとき」になる。

 いま、私は、偶然のようにして、「いまこのときに」なる、と書いたが、その「なる」ということが「いまこのとき」に起きているすべてかもしれない。そして、何かが何かに「なる」という変化の瞬間こそが詩なのだ。
 「なる」ということばをつかった文章がある。そして、こそに詩があらわれてくる部分がある。「木を取る人」の後半部分。

 役割を終えた雑巾は、バケツの端に広げられてかけられる。その表情は、よく使われたモノだけが持つ、さばさばとして、いい具合にくたびれた感じがあった。義父の手にかかると雑巾さえも、それにふさわしい、ある輪郭を取り戻す。雑巾は雑巾になり、きみしぐれはきみしぐれになる。

 きのう書いた「怪訝山」にもどれば、「いまこのとき」、美枝子は美枝子になり、イナモリはイナモリになる。コマコはコマコになる。それは「過去」でも「未来」でも、「いま」でもなく、ほんとうに「いまこのとき」なのだ。意識の空白において、思うとき--その矛盾のとき。
 そういう「とき」に私はひきつけられる。すいこまれる。

小池昌代詩集 (現代詩文庫)
小池 昌代
思潮社

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北川透『わがブーメラン乱帰線』(6)

2010-05-21 00:00:00 | 詩集
北川透『わがブーメラン乱帰線』(6)(思潮社、2010年04月01日発行)

 ……六日目の朝が来た……雨が降って……庭の地面が柔らかいので……

 あ、もう六日目なんだねえ。私は何を書いてきただろうか。北川は何を書いてきたんだろうか。申し訳ないが、いい加減、記憶があいまいになる。わかるのは「六日目」だけですねえ。
 で、私の街では、いまは雨シーズン。きのうの雨が残っている。犬を散歩させていると、公園に水たまりがある。水が大好き、泥んこ遊びが大好きなわが家の犬は、水たまりのなかで立ち止まる。ちょっと顔を上げて、「いい?」と目で聞く。泥んこ遊びを嫌いなオーナーさんがいて、「だめーっ」「汚れる」と大声を出すときがある。私は平気だけれど、そういう「他人」の声にも反応する犬なので、「ご意見うかがい」を目でするわけなんです。
 「いいよ」と返事をすると、びしゃっと腹這いになる。そこからごろごろごろ。存分に体を泥水で冷やしたあと、ぷるぷるぷるっ。
 「すんだ? 遊んだ? きょうはお風呂だね」
 風呂が大好きなので、あとはとっとっとっとっと家まで小走り。

 あ、北川の詩とは関係ないことを書いてしまいましたねえ。でも、いいじゃないですか。六日目なんだもの、少しくらい寄り道したって。どんなことであれ、他人を刺激するなら、それは、詩。私は、いまが雨シーズンでなければ、きっとこの書き出しには反応しなかった。けれど、たまたま雨が降っていた。だから、それを「入り口」にして北川のことばに反応してしまった。
 詩には、そういう要素もある。いや、そういう要素しかないかもしれない。いまの自分とまったく関係ないことばに出会っても、そんなことばについてあれこれ考えるなんて、きっとできないと思う。
 で、「雨」から、きょう詩に接近していくのだけれど、つづかないですねえ。
 「雨」を振り切って、北川のことばが動いていく。ぜんぜん関係がないところへ動いていく。話者(?)も北川(らしい、男)から、北川の妻(らしい、女)にかわって、その妻は、なにやら嫁の浮気(?)を喫茶店で覗き見している。--このスピードと、ことばの動きに余分なものがない、いや、夾雑物だらけなのだけれど、スピードが速いので、それが夾雑物という印象がないので、そのままぐいぐいひっぱられていく。
 ストーリー(?)がつづかないのに、何がどうなっているのかわからないのに、そのことばのスピードにひっぱられて、いっしょに掛けだしてしまう。
 そして、その瞬間に思うのだ。
 北川が書いているのは、そういうことだな。「内容」ではなく(と言い切ってしまうと申し訳ないが)、ことばのスピード。軽さ。そして、強さ。いろんなものを抱え込みながら、どこまでもどこまでも疾走する。
 妻のことばは、かっこ( )のなかに、さらにかっこ( )にはいっている。つまり((…………))という形で書かれているが、それはある意味では、北川のことばのなかに乱入してきた「他人」のことばであるが、そういうことばさえ、北川はかっこにくくって自分のものにしてしまう。闖入してくるものを邪魔者として取り除くのではなく、あるいは闖入を拒絶するのではなく、どんどん取り込み、それを北川のことばを押し進めるエネルギーにしてしまう。
 なんでもいいのだ。ことばでありさえすれば、そのことばには詩になる可能性がある。いや、詩を生み出すためのエネルギー、圧力になる。過去の自分の詩集のことばも、中也のことばも、ネルヴァルのことばも、どんどん取り込む。取り込みながら、いまの自分のことばとの違いを見つけ出し、その「違う」なにかに突き進んでゆく。
 闖入してくることば、あるいは意識が呼び込んでくることば(引用)は、北川を邪魔すると同時に、北川のことばが突き進み、突き破るための対象にもなるのだ。この「矛盾」。「矛盾」をものともしないというよりは、「矛盾」をみつけて大はしゃぎする北川の、そのことばのよろこびが楽しい。
 (と、書いて、私は、ふとわが家の犬、いまキーボードをたたく私のそばで眠っている犬の、あの水遊びを思い出す。楽しいよねえ。むちゃくちゃができるは、楽しいよ。良識ある誰かが、「だめーっ」と叫ぶことをするのは楽しいよ。)

これ以上は危険だ。シマヴィ、わたしに近づかないでおくれ。
いや、近づいておくれ。おまえとわたしの区別がつかないほどに。
醜いがきれい、きれいが醜い、醜いがきれい。

 いいなあ、この何もかもが区別がなくなり、融合してしまう瞬間。醜い、だからこそきれい。きれい、だからこそ醜い。矛盾したものは、矛盾しているからこそ、矛盾していないのだ。
 そういうことばのあとに、北川は、なんとも不思議な愉悦に満ちたことばを書いている。

みずみずと熟したわたしのサクランボ噛んでもいいけどやわらかに

からはじまり、

錯乱よああサフランよランボーよ 地獄の季節に サクランボ摘み

 途中に「桜桃忌」ということばもでてくるが、最後は「サフラン摘み」だね。罪だねえ。このことば遊び。そして、このことばのリズム--なんと、短歌である。短歌の抒情的(日本的感性?)を突き破りながら、リズムだけ利用して、動くことば。
 ことばは、どこへでも動いてゆけるのだ。

 

窯変論―アフォリズムの稽古
北川 透
思潮社

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小池昌代『怪訝山』

2010-05-20 23:53:57 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『怪訝山』(講談社、2010年04月26日発行)

 小池昌代『怪訝山』は何を書こうとしているのだろう。「怪訝山」の最初の部分に、小池の書きたいことが集約されていると思う。

 蛍光灯が一本切れていて、オフィスのなかはいつもよりも薄暗い。美枝子もイナモリもそれに気づいてはいるが、取替えようという意欲がわかない。誰かがやるだろう。それは明日の自分かもしれないが、いまこのときの自分ではない。

 「いまこのとき」--これが小池の向き合っているものだ。書こうとしているものだ。「いま」というのは誰にでもある。けれど、その「いま」とは何だろう。「いま」の何を知っているだろう。より正確に言えば、「いまこのときの自分」、「いま」と「自分」の関係について何を知っているだろう。あるいは「とき」と「自分」の関係について何を知っているだろう。
 もしかすると、「自分」と誰かを隔てているのは「とき」なのではないだろうか。「いまこのとき」というのは、それぞれの人間にあって、それは同じではないのではないのか。
 これは、奇妙な感じかもしれない。けれど、それぞれに「いま」(いまこのとき)というのは違うのである。

「イナモリさんが、繰り返し見るのは、どんな夢ですか」
「母親が死んだ夢。おふくろはとっくに死んでいない。でも何回も夢に見る。まだ、しんでいないみたいに。あ、そういうことなのか」
 自分で言ってイナモリはとっとした。
「おふくろは死んだが、まだ死んでいない……」

 「おふくろは死んだ」というのは「過去」である。「まだ死んでいない」は「いまこのとき」である。母を思う、「いまこのとき」、その「思う」というなかに母は生きている。
 「いまこのとき」というのは、単なる過去-現在(いま)-未来のなかの一瞬ではない。それは、いわゆる「直線的に流れる時間」の一点ではない。それは「思う」という意識に深くからみついている時間である。「おふくろは死んだ」と「思う」、その「いまこのとき」、おふくろが死んだのは「過去」であるがゆえに、「いまこのとき」それを思い出すことができる。思うことができる。
 最初の引用部分で美枝子が切れた蛍光灯を見ている、そのとき。美枝子は、それを取り替えようとは思わない(意欲がわかない)。そういうときの「いまこのとき」。その「思う」の空白の時間……。

 「いまこのとき」の「とき」は空白なのである。空白であるから、それはあるときは「過去」をも「いま」にしてしまう。そこでは時間は直線的には流れず、思うときに、その瞬間に浮かび上がって存在するのである。立ち現れてくるのである。

 そして、この「いまこのとき」を小池は「思う」と同時に「肉体」にもかえていく。「思う」自体が空白なのだから、そこを埋めるのはほんとうは「思い」ではないのだ。イナモリが死んだ母を思うのも、真剣な(?)思い、というか、いわゆる「思考」ではない。何かを一つ一つ積み重ねていく思考ではない。ぼんやりした全体--いわば、母の「肉体」のようなものである。母は生きているというとき、そこには母の肉体があるということだ。単に母の感情(たとえば「やさしさ」)、あるいは「思考」ではなく、母が肉体そのものとして思い出されているのだと思う。

 思いの空白--その空白としての「いまこのとき」。そこにあるのは、「肉体」である。蛍光灯が切れていると思っているとき、その思いなどというのはぼんやりしている。はっきりしているのは「肉体」である。なにもしようとしない「肉体」がある。
 死んだ母を思うときも、それは思いがあるというより、その「思い」を抱え込んだあいまいな「肉体」が「いまこのとき」、そこにあるということかもしれない。

 「いまこのとき」の「肉体」。イナモリとコマコのセックスに、そのときの「肉体」の感覚が書かれている。

 コマコという女は、なにかしら、すべてが巨きい。中へ入ると、ずぼずぼとおぼれ、自分がとても小さなものとなる。イナモリは、コマコの体をとして、ここではないどこか向こう側へ、運ばれていくような感覚にしびれた。達したあとの脱力のなか、身を横たえていると、ごろりと等身大の生身が戻ってきて、そのだるさも、決していやでなかった。

 「いまこのとき」、それは「等身大の生身が戻って」きたときの感じなのだ。何も思わない。「思い」は「等身大の生身」そのものとぴったり重なってしまっている。そして、それは「ここではないごとか」へ行ってきた肉体である。
 「いまこのとき」は、どこへでもつながっている。「等身大の生身」は、その「どこか」では等身大を超えているのだが、「いまこのとき」は等身大である。
 わけのわからない往復--それを身体はしてしまう。そして、その身体があるとき、それが「いまこのとき」である。

 この等身大の生身--そのものから「いまこのとき」を見つめなおすとどうなるだろう。コマコからのセックス、コマコが見たセックスは次のように描かれる。

「あたしはもう妊娠しないよ。ヘーケイしたから。ヘーケイすると、女は山になるんだよ。深い野山さ。だからもう、遠慮はいらないよ。わけいって、わけいって、深く入っておいで。さあさあ、おいでよ、どんどんなかへ。もうあたしは産まない。突き当たりさ。突き当たったところの、山の入り口さ」

 どんどん入っていくと、突き当たると、そこが「入り口」。
 この矛盾。
 この矛盾こそが、「いまこのとき」なのだ。それはどこにでも通じている。だから、どこにも通じていない。過去にも未来にも通じていない。通じているのは、身体がかかえる「思い」、その「思い」が動いていく「時間」なのである。過去でも未来でもないから過去でも未来でもある。
 何もかもを融合させて、つないでしまう。つなぐことで切り離してしまう。その矛盾した「至福」。それが「いまこのとき」なのだ。



怪訝山
小池 昌代
講談社

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北川透『わがブーメラン乱帰線』(5)

2010-05-20 00:00:00 | 詩集
北川透『わがブーメラン乱帰線』(5)(思潮社、2010年04月01日発行)

 ことばは、なぜ書かれると、そこにことばとして存在するのだろう。

昨夜は眠れなかった。
まだ、一行も詩が書けていないのに、五日目の夜がきた。
さすがに眠気が襲ってきて、うつらうつら夢を見る。
ベッドの上に裸の女が寝ている。
女は一人苦しんで赤ん坊を産んでいた。
最初に産まれて来たのは鯰の顔をした烏賊だった。

 1行目から5行目までは、なぜ、そこにことばが存在するのか、わかる。そういう事実があり、それを伝えるためにことばがある。--と、考えることができる。北川の書いていることがうそかほんとうか、私には判断できないのに、それを現実と判断し、その現実を描写するためにことばがある、と考えることができる。
 ことばとは事実なのだ。
 だが、次の瞬間、この定義がわからなくなる。
 ことばが事実であるというのは、ほんとうか。

最初に産まれて来たのは鯰の顔をした烏賊だった。

 女は(人間の女だと思うが)、烏賊を産むことができるか。烏賊が鯰の顔をもっているということはありうるか。「流通言語」では、そういうことは「ありえない」。それは、つまり「事実」に符合していない。
 それでも、ここに書かれているものは、ことばと言えるのか。
 ほんとうは、この問題を真剣に考えなければいけないのかもしれない。
 でも、そういうことを考える暇も与えず、次の行。

気持ち悪い、と言って女はそいつを壁にぶっつけた。

 この行の力がすごい。「気持ち悪い」ということばが、すごい。「鯰の顔をした烏賊」なんて、ほんとうに「気持ち悪い」と思う。でも、「鯰の顔をした烏賊」って、「事実」? 「烏賊」の顔って、だいたいどこにある? 耳はわかるなあ。目は? 口は? どこからどこまでが顔? その部分が鯰って、絵に描ける? 私は即座には書けないなあ。けれど、不思議なことに「鯰の顔をした烏賊」は即座に書ける。まるで自分でしっかり体験した「事実」のように書ける。書けるけれど、そんなものがほんとうに産まれてくるとは私は信じていない。信じていないけれど、でもねえ、「気持ち悪い」がわかってしまう。変でしょ? あるかないかわからないもの。はっきりと想像したこともないものが「気持ち悪い」と、私はなぜわかってしまうのだろう。しっかり想像したら、もしかしたら「気持ちいい」かもしれないのに、何も具体的には想像しないで、いきなり「気持ち悪い」だけを信じてしまう。

 何かが変、である。

 そして、この「変」のなかに、きっと「思想」があり、詩があるのだ。
 ことばは、想像できるものと、想像できないものを、まったく区別もなくことばにしてしまう。そして、その何かわからないものを「気持ち悪い」とか「気持ちいい」とか、実感(?)に結びつけてしまうこともできる。
 「気持ち悪い」とか「気持ちいい」とかは、「気持ち」とは関係なのだ。「気持ち悪い」と書いてしまえば「気持ち悪い」になる。「気持ちいい」と書いてしまうエバ「気持ちいい」になる。それがほんとうかどうかなど、「鯰の顔をした烏賊」とおなじくらいわかりはしない。
 そういうわかりもしないことを、ことばは、ことばの運動として、そこに確立することができる。

 あ、でもねえ、そうやって書かれたことばを「わけがわからん」と言ってしまうこともできる。上品に(?)、「難解である」とおだてることもできる。そうすると懐かしい懐かしい「現代詩」という「枠」におさまって、あっと言う間に古びた化石になってしまう。--あ、ことばは、こわないなあ。
 書くことは、何かを決定してしまうことなのだ。

 で、その決定が、たとえば「鯰の顔をした烏賊」ということばは「変である」ということなら、まあ、それは「流通言語」にのってしまうだろうなあ。そして、そういうものが「気持ち悪い」ということばも、「流通言語」になってしまうだろうなあ。
 あ、また、ここで、何かがごちゃごちゃになる。
 わけがわからないことなのに、何か、そのことばのもっているものに押し切られて、いままで存在しなかった何かが生まれてしまう。
 ことばを追いかけるようにして、「事実」がやってきてしまう。
 「鯰の顔をした烏賊」は「変」である。けれど、その「変」を「気持ち悪い」と書いた瞬間、その「気持ち悪い」が「事実」として、そこにたちあがってくる。それまでのことばを蹴散らして、「気持ち悪い」がすべてを統一してしまう。

次に産まれて来たのは猫の顔をした土瓶だった。
化け物め、と言って、女はそいつを床にたたきつけた。
三番目に青蛙が続けてピョコピョンピコピョン五匹産まれた。
五匹目の蛙は目覚まし時計のようにリーンリリンリンと鳴いた。
四番目に産まれたのは、狐の顔をしたパソコンだった。
女は臍と繋がっているコードがなかなか切れずに苦しんだ。
五番目に白い紙が次から次へと女の股から排出してくる。
女は故障したプリンター。止めてくれぇ。
ヘルプ! ヘルプ!
やたらはボタンを押すが止まらない。

 「気持ち悪い」がことばを統一してしまうと、「でたらめ」というか「流通言語」ではありえない言語の運動も、繰り返しによって、何か「統一」されてしまう。「二番目」(詩では、「次に」ということばがつかわれているが)、「三番目」「四番目」「五番目」と順を追って繰り返されると、そこで起きていることが「でたらめ」であっても、何かしら「意味」があるように見えてくる。「論理」なんてないはずなのに、そこに「論理」(正確には、疑似論理?)が生まれてきてしまう。
 そうすると、ややこしい。
 なにやら、北川は「でたらめ」を書いているという感じがしなくなる。これはきっと、いままでのことばでは言えない「論理」を浮かび上がらせるための、いままでのことばでは言えない「論理」を掬い取るための、北川の独自の方法なのだ、という気がしてくる。そして、その「でたらめ」に見えたものが、
 あ、これはもしかしたら、あのこと?
 なんて、思ったりもしてしまうのだ。つまり、ここに書かれていることは、全体が「比喩」なのだ。現実社会の、一種の「比喩」なのだ、という感じがしてきてしまう。
 「パソコン」が出てくるあたりから、急に「現代」が見えてくるでしょ? パソコンで困ったことがあったでしょ? 印刷されないまま紙がどんどん出てくるとか。終了するにはコードを引っこ抜いて電源を落としてしまうしかなくなったとか……。そうすると、ねえ、「鯰の顔した烏賊」って「あれ」のこと? いやそうじゃないでしょう、「なに」のことですよ。
 なんてね……。

 ことばが、どんどん、現実に浸食してくる。北川のことばが、現実を、「見える」ものにしてしまう。北川のことばを通して、現実が別の姿になっていく。
 それは、まあ、政治の世界ではないから、現実といっても「有効」なものではないなあ。むしろ、けっして「有効」ではないものに。
 ちょっとはしょっていうと(ごめんなさいね、私は目が悪いので一回に書ける量が限定されているので、こういう省略をしてしまう)、いま、現実をとらえている「流通言語」は無効であるという宣言でもある。そういう宣言をしたくて、北川は詩を書いているのだと思う。ことばを暴走させているのだと思う。



わがブーメラン乱帰線
北川 透
思潮社

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北川透『わがブーメラン乱帰線』(4)

2010-05-19 00:00:00 | 詩集
北川透『わがブーメラン乱帰線』(4)(思潮社、2010年04月01日発行)

 人間のことばは自由なようであって自由ではない。自由をめざして動く北川のことばも同じである。

無為の日を重ねて四日目。
眠れぬ夜のために、また、神様のことを考えちゃった。

 これは三日目のヒルティの『眠られぬ夜のために』の「神」と関係している。北川は、このあと西洋の「神」とは違った日本の「神様」へとことばを向かわせる。日本の神様は一神教の神に比べるとずいぶん違う。
 日本の神様は、

それはお太鼓叩いて、笛吹いて、
陽気に舞ったり踊ったり酔い潰れたりするカミサマで、
脅かしたり、罪を咎めたりする、いかめしい神ではなかった。
わたしはヒルティさんのように、
戒律を強い、命令する怖い神と向き合ったことがない。

 北川のことばは、ヒルティの神に反応して、日本の神様へと動いていく。そこで自由に動きはじめる。

セクシーな弁財天のストリップショーに笑い転げる大黒さんや
でっかい腹をもてあましながらトランペットを吹く布袋ちゃん。

 自由に動くことばは、何かを否定すること、何かを拒絶することと、どこかでつながっている。ヒルティの神を否定する、拒絶する。そして、自分の知っている神様を描写しはじめる。そのとき、否定、批判、拒絶の意識が、その描写を突き動かすひとつのエネルギーになっている。
 そして、いったん動きだすと、その動きそのものから加速度をもらって、ことばは暴走する。

七福神はみんな大きなふくよかな耳。
あの大きな耳の中でしか、蜂蜜の養殖はできなかった。
野や山や村々に溢れている福耳のカミ、
ホットケやゾウのピンクのミミは、
イナゴやキリギリスの佃煮のように摘まんで食べるもの。
不味ければ吐き出せばよかった。
世間から後指さされる悪戯を、
底なし沼が埋まるほど繰り返していた餓鬼どもを、
眺めては謡い、手拍子を取って舞う、
七福神が笑っていた。

 この暴走を、北川のことばはどこまでつづけられる。北川は、どこまでつづけることができるか。
 まあ、一生懸命(?)北川はつづけるのだが、そこに、ときどきとてもおもしろいことばがまぎれこむ。「思想」がまぎれこむ。

額に怖ろしい角が生えてきたり、
お尻に可愛いシッポガ生えてきたりする秘密を、
どうしてそんな気味のわるいほど楽しいことを、
頭痛や吐き気がするほど気持ちのいいことを、愛してもいない神、
あのチイチイモモンガァなどに告白できようか。

 「気味のわるいほど楽しいことを、/頭痛や吐き気がするほど気持ちのいいこと」。このことばは「流通言語」の「意味」からすると、とてもおかしい。「気味のわるいこと」は「楽しい」とは言われない。「頭痛や吐き気」は「気持ち悪い」ことではあっても「気持ちのいいこと」ではない。それが「流通言語」の「意味」である。けれど、北川は、そういうことを逆に「楽しい」「気持ちいい」と書く。
 「流通言語」からすれば「矛盾」である。
 そこに、北川の「肉体」と「思想」がある。「流通言語」ではたどりつけない何かをことばとして書きたい--その欲望が北川の「肉体」であり、「思想」なのだ。

 こういう「なま」の思想は、ほんとうは書かない方がいいのかもしれない。けれど、書かずにはいられない。--これも、まあ、矛盾といえば矛盾だけれど。
 でも、なぜ、書くのか。
 そんなふうに「なま」のことばで向き合うしかないほど、実は「流通言語」は手ごわいのである。矛盾をあえて書かないことには、矛盾の存在がのみこまれてしまうのである。それと抗うためには、どうしてもそう書くしかない。

 しかし、書くというのは不思議だ。ことばというのは不思議だ。
 たとえば、

どうしてそんな気味のわるいほど楽しいことを、
頭痛や吐き気がするほど気持ちのいいことを

 なぜ、ここで「楽しい」とか「気持ちのいい」ということばをつかわなければいけないのか。なぜ、そこにまったく新しいことばが書かれないのか。
 「流通言語」を拒絶し、それを超絶してしうのが狙いなら、もっと違うことばでもよさそうである。
 けれど、もしそういうことばがあったとしたら、では、どうなるのだろう。
 私たち(少なくとも私)は、そこに「矛盾」があるということに気がつかない。「矛盾」が「矛盾」であるということを知るためには、「流通言語」の一定の法則(?)を知らないといけないのである。「流通言語」にとっていったい何が「矛盾」になるのか、ということを知らないと、「矛盾」は書けない。

 「流通言語」を否定したいのに、そのとき、否定や矛盾を指摘するためには、「流通言語」のなかに存在する根強いことばの「流通意味」を使うしかない。
 このまだるっこしさ。
 「流通言語」を知っているものだけが、「流通言語」を否定し、拒絶し、それを乗り越えていくことができる。
 これを裏返せば、「流通言語」を知らない限り、ほんとうは詩を書けない、ということになる。

 神を否定するには神を語ることばを知らなければならない。ヒルティを否定するにはヒルティのことばを知らなければならない。
 そして、北川は、それを知っている。
 北川は「流通言語」を知っている。

 北川の文体は強靱である。それは彼が触れてきた「流通言語」が多いということと関係する。否定すべきもの、そして乗り越えるべきもの--その文体をどれだけ自分自身のものにするか。
 書くことは、その対象、あるときはヒルティという「流通哲学」をくぐり抜けることである。批判しながら、その批判の対象そのものの「文体」にさえなる。

 ヒルティのことは、私は知らない。北川が知っている何かについて私が知っていることはほんの少しなので、そこで描かれているものが何であれ、誰であれ、私は「知らない」ということば以外で向き合えないかもしれないが……。
 北川は、批判、あるいは乗り越えるべき対象を取り込む、というのは、たとえば次のような部分にあらわれている。

 ……わたしはわらっちゃあいないよ 脳の渚に響き渡っているのはサイレンだ 真夜中のサイレンだサイレンだ

 「サイレンだ」の繰り返しは中也である。
 もちろん、北川の書いている「サイレン」と中也の「サイレン」は同じものではないが、ことば自身は同じである。北川は、ここではおなじことば「サイレンだ」という音をかりながら、中也がそのことばを書いたときのエネルギーを受け取ろうとしている。

 北川は、たとえばヒルティでは、そのことば(神)を批判して、別なことば(日本のカミサマ)をぶつけることで、その反発力、反射してくる(跳ね返ってくる)力を借りて、いま、ここにはないことばへ動いていこうとする。他方、中也のことばと向き合うときは、そのことばのなかにあるエネルギーそのものにのってしまおうとする。--ことばの向き合わせかたには、簡便に分類してふたつあるということかもしれない。ほんとうはもっとたくさんあるだろう。
 そして、そのもっとたくさん、「無数」は、実は、書いてみないとわからない。ことばは、ことばにしてみないと、わからない。どこまで暴走するかわからない。暴走がほんとうに暴走なのか、失速なのかもわからない。
 それを知りながら、北川は、書く--あくまで、書くのである。

書く、という崖っぷちから飛び降りる
書く、という死に照らされて道化うた
書く、という淫乱な女に、手を取られ
書く、というのは誰と寝るかの、問題

 誰とでも寝る。誰とでもセックスをする。そのとき新しいことばを「妊娠」し、「出産」するのは、「誰か」であるとはかぎらない。北川かもしれない。いや、寝取った女の、「妊娠」し、「出産」する権利と喜びさえも北川は奪い取って、「わたしは女だ」と宣言してしまうかもしれない。

 男なのに、女。矛盾。矛盾? 矛盾かなあ。

 矛盾なんて、ない。もしことばで書かれたことが「矛盾」しているなら、それはそのことばが「矛盾」を叩きこわし、新しいことばになりえていないからだけのことである。
 書く--矛盾をのみこんで、書く。そのとき、そこに詩がある。
 書く--というのは、ことばでしかありえないことを「わたし」のものにしてしまうことなのだと思う。





溶ける、目覚まし時計
北川 透
思潮社

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志賀直哉(8)

2010-05-18 23:37:21 | 志賀直哉

「早春の賦」(2)(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

  140ページ、昔住んでいた家を訪ねる場面。

 私は昔から用もない品々を雑然と身辺に置く癖があり、永くさうしてゐると、つまらぬ物にも愛着を生じ、捨て難い気持になりそれらに取巻かれてゐる事で、自家(うち)といふ感じもするのだが、今、此所に来て、それらが一つもないと、最早自家の感じはなく自家とは家屋よりも寧ろさういふ品々の事かも知れないと云ふやうな事を思つた。

 これは、とても納得がいく。とても納得がいくし、あ、さすがに小説の神様はしっかりした視力をもっているなあ、とあたりまえのことに感心する。
 そして、そのぼんやりした感心に、次の文章が襲い掛かってくる。たたみかける、というのではないが、静かに書かれて、次の段落で、私はうなってしまった。

 二階の客間で昼飯の御馳走になつたが、此部屋には前から余り物を置いていなかつたためか、却つて、ゐた時の感じがあり、懐かしい気がした。戸外(そと)は山国らしく、遠く青空のみえたまま、綿雪がさかんに降つて来た。

 物を置かなかった部屋。それが、部屋そのものなので、「ゐた時の感じがあり、懐かしい気がした。」こういうことは、誰も書いていないのではないだろうか。目があらわれるような気がした。
 そして、このすばらしい文章を、志賀直哉は、「戸外(そと)」を書くことで、そっと隠している。「自家(うち)」は、このとき、まさに「内」になる。「内」の、こころの懐かしさ--それを、知らん顔でひろがっている「外」。
 余韻がある。

志賀直哉随筆集 (岩波文庫)
志賀 直哉,高橋 英夫
岩波書店

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ピエール・モレル監督「パリより愛をこめて」(★★)

2010-05-18 23:30:34 | 映画

監督 ピエール・モレル 出演 ジョン・トラボルタ、ジョナサン・リース・マイヤーズ、カシア・スムトゥニアク

 アクションにこだわった映画である。その撮り方は、ポール・グリーングラスとはまったく違う。ポール・グリーングラスはカメラに演技をさせるが、ピエール・モレルは役者に演技をさせる。カメラは動かない。カメラのフレームの中で役者が動く。カメラが移動するとき、手振れで画面が揺れる、なんてことはない。アクションの一部がフレームからはみだしてしまうなんてことも、もちろんない。いや、これは、映画としてはあたりまえなのだけれど、いまではなんだか古風に感じられる。とてもなつかしい感じがする。
 で、そういう映画だと、主役はやっぱり役者の肉体ということになる。
 ジョン・トラボルタとジョナサン・リース・マイヤーズは対照的な肉体をしている。くわえて、動きそのものがアメリカスタイルとフランススタイルで差があり、このキャスティングは、演技をするのは役者であってカメラではないというピエール・モレルの主張に沿ったものなのだろう。
 しかし、それではどうしたって紋切り型である。アメリカの過剰なアクション。フランスのヒューマンな(?)アクション。これに、もうひとつテロリストの非情なアクションが追加されるのだが。象徴的なのは、テロリストに銃を向けるが、ジョナサン・リース・マイヤーズは引金をひけない。テロリストがジョナサン・リース・マイヤーズの構えている銃の引金をひいて自殺するシーン、そして、その「射殺」をジョン・トラボルタが何でもないことのように評価するシーンに、3人の違いが出ている。
 まあ、それはそれでおもしろいといえばおもしろいのだけれど、これに「愛」がからんでくるのが、なんとも、なんとも、なんとも、なんともフランス的。「愛」といっても、男の純情のようなものなのだけれど、変な具合に映像がねじれていくなあ。ジョナサン・リース・マイヤーズのアクションが、どっちつかずになる。ラストシーンで、彼が恋人のテロリストを射殺するシーンなど、わかる? 彼は、女を油断させるために「愛」をことばにしたのか、それとも本心だったのか? フランス人ならわかるのかも。私には、判断がつきかねる。
 それに。
 その肝心のテロリストも、なぜテロリストになったのか、よくわからないねえ。「信義」に共感したのか、それともテロリストの男にほれたのか。二人がわかれるシーンなんか、死んで、天国で会いましょうみたいな表情になる。
 この強い「愛」に、けっきょくフランス男はどうしたのさ。

 とても中途半端な映画である。


96時間 [DVD]

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

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北川透『わがブーメラン乱帰線』(3)

2010-05-18 00:00:00 | 詩集
北川透『わがブーメラン乱帰線』(3)(思潮社、2010年04月01日発行)

 北川の「朗読しないための朗読詩」はライブ詩である。

私は眠れない。
毎日、詩を書くと決めてから、きょうで三日目。

 で、私も、それにあわせて(?)ライブ感想。きょうで三日目。三日目の部分を読む。三日目の感想を書く。

スイスの哲学者カール・ヒルティの『眠られぬ夜のために』を読む。
不眠に逆らうな、と書いてある。
不眠は精神生活を向上させる、と書いてある。
不眠は人生に最大の宝を得るための、神の賜物だ、とも書いてある。

 「……と書いてある。」そう繰り返すことで、北川のことばはリズムを獲得する。本に書かれていることの要約なら、この「書いてある」の繰り返しは、邪魔者だ。
 北川は、カール・ヒルティについても、『眠られぬ夜のために』についても、書きたいわけではない。北川の書きたいのは、詩である。ことばの暴走である。暴走させるためには、加速するための「弾み」と、加速をスムーズにするリズムが必要である。
 「……と書いてある」と繰り返すことで、北川は、そのリズムを手に入れている。

 そして、その「書いている」ということを確認するというのは、不思議な作用をする。「書きことば」は、不思議な具合に北川を動かしていく。
 その書かれたことばは、書き写した瞬間から、北川のものになる。そのことばを、次にどう展開していくかは北川の自由なのだ。『眠られぬ夜』のなかで、それがどのような「位置」を占め、どう動いていくか、ということとは無関係に、北川は北川のことばを動かすことができる。まったく自由にことばをつないでいくことができる。

ヒルティさん。あんたは唯一絶対の神を信じているからいいさ。
わたしは暗がりで目を開いても、
暗い網膜に神様など見えたことがない、不信心、不逞の輩だ。
目の中いっぱいに、ただ、広がる虚空……
夜もなければ朝もなく、ただ、寝返りを打つばかり。
黒い鼠が一匹、ちょろ。
黒い鼠が二匹、ちょろちょろ。
黒い鼠が三匹、ちょろちょろちょろ。

 北川のこんな感想(?)のために、(そういう感想を想定して?)、ヒルティは『眠れぬ夜のために』を書いたわけではないだろう。「黒い鼠が一匹、ちょろ。/黒い鼠が二匹、ちょろちょろ。」という行は、ヒルティの想像を絶する反応だろう。
 そういう無関係な感想を、ことばは書くことができるのだ。
 こんな感想は無関係であるから、無効である--と学校教科書作文なら切り捨ててしまうかもしれないけれど、そういう無関係、無効なことばが、ことば自体として動いてゆける。
 これは、とても不思議でおもしろいことだ。そして、それは「書きことば」にとっての、一種の特権でもある。
 ことばの動き自体をいうなら、同じことばを「話しことば」としても話すことはできる。けれど、その「話しことば」は話した先から消えていく。いまは、録音装置があるから、消えない、という主張もあるかもしれないが、その音を再生させるときは、話しことばの順序どおりに音が再生され、その音は同時にひとつの「音」としては存在しえない。
 「書きことば」は、そういう制約を受けない。
 「書きことば」は無関係を、並列させることができる。同時に存在させることができる。私たちの目は、かけ離れた「文字」を同時に見ることができる。
 この「同時性」、同時に違ったものが存在するということを利用して、ことばは暴走する。

 そして、書いている「いま」を、ここには存在していない「時間」と「同時」にしてしまう--というのは、
 あ、
 ちょっと変な論理だね。
 うまく書けないのだけれど、そんなことを、ふっと、私は感じた。
 「書かれたことば」(書きことば)がそこに存在する。そのことばは「無関係」であるけれど、同時に存在し、その同時に存在するときの、存在する力(能力)のようなものが、ことばを動かしている。
 リズムが、それに加担する。

黒い鼠が、黒い鼠が、ちょろりん、ちょろりんちょろちょろりん。
黒い鼠が、黒い鼠が、神の賜物だなんてとんでもない、ああ……。
黒い鼠が、黒い鼠が、白い歯を剥き出し、
黒い鼠が、黒い鼠が、わめきながら襲い掛かる。
黒い鼠が、群れを成して、わたしの身体の真上に。
黒い鼠が、わたしの耳を、鼻を、咽喉を、踵を齧る。
黒い鼠が、わたしの内臓から湧き出る、寄生虫を齧る。
黒い鼠が、わたしの踏み潰された肝っ玉、どぶ板を齧る。

 ことばは、なんでも書くことができる。書きながら、ことばは、そこにたしかに定着する。そして、そこにリズムが確立されるとき、そのリズムはリズム自体で、ひとつの存在の「理由」になる。
 リズムのなかで、実際には存在しないはずの「黒い鼠が」、ことばとして存在し、定着してしまう。「黒い鼠」を想像する(創造する?)北川を通り越して、「黒い鼠」ということば自体が存在してしまう。存在してしまうまで、北川は、ことばを書く。書きつづける。
 無意味なことばが、書かれることで、存在してしまう--その存在にかわる瞬間が、詩ときっと重なり合うのだ。
                                  (つづく)
 

わがブーメラン乱帰線
北川 透
思潮社

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ジェームズ・アイヴォリー監督「眺めのいい部屋」(★★★★)

2010-05-17 19:08:17 | 午前十時の映画祭

監督 ジェームズ・アイヴォリー 出演 ヘレナ・ボナム=カーター、デンホルム・エリオット、ジュリアン・サンズ、ダニエル・デイ・ルイス

 イギリス映画は色彩が美しい。特に緑と黒が美しい。
 この黒の美しさと、ヘレナ・ボナム=カーターの黒い目が調和して、気持ちがいい。ヘレナ・ボナム=カーターが弾くピアノも当然黒い。彼女の容貌にぴったりあっている。一方、恋人が黒い髪、黒い目のダニエル・デイ・ルイスと青い目、金髪のジュリアン・サンズと対照的なのも、この映画ではとても効果的だ。黒と黒も強靭な輝きだが(たとえばティム・バートンが好むヘレナ・ボナム=カーターとジョニー・ディップの組み合わせ)、ヘレナ・ボナム=カーターの黒は、瞬間的にぱっと輝く、その輝きが青い目、金髪の明るさに照らされるとき、さらに美しくなる。輝きが、透明に変わる。ヘレナ・ボナム=カーターが、ダニエル・デイ・ルイスではなく、最終的にジュリアン・サンズを選ぶのは必然だね。そうしないと、映像の美しさが半減してしまう。
 この映画は、色彩計画がとても綿密に立てられているのだ。
 小説では、色彩はどんなふうに描かれているのか。原作を読みたくなる映画である。



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