詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』

2011-04-22 23:59:59 | 詩集
 永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』の最初の詩は「左岸」である。そして、その1行目は、

七月のあなたを待っていました昔からこのサガンのなかで

 である。私は、この1行目が好きである。この1行を読んだ瞬間から永島の詩について書きたいと思った。
 何が書きたいのか。わからないけれど、書きたいのである。
 この1行目で私がわかること。それは、この1行が2行であるということ。ここには2行がある。「七月のあなたを待っていました」という行と、「昔からこのサガンのなかで」という行と。いや、これは倒置法であり、「昔からこのサガンのなかで七月のあなたを待っていました」という1行であるというひとがいるかもしれない。学校教科書的にはたしかにそうなのだと理解できるけれど、私は、そういう読み方に違和感を感じるのである。

七月のあなたを待っていました
昔からこのサガンのなかで

 普通なら(倒置法なら?)、こんなふうに改行を挟んで書くと思う。けれど、永島はそんなふうには書かず1行にしてしまう。
 そして、これから私が書くことは矛盾以外の何者でもないのだが、それが1行だからこそ、私は2行だと感じるのである。1行のなかに2行が離れがたく結びついている。切り離せないで、そこにある。
 倒置法なら、

七月のあなたを待っていました。昔からこのサガンのなかで、

 と「呼吸」(息継ぎ)が動くと思う。けれど、永島の1行のなかには「呼吸」(息継ぎがない)。「待っていました」と「昔から」のあいだに「間」はないのである。倒置法ならあるべきはずの「間」がない。息継ぎ、呼吸がない。
 この不思議な密着感のなかに、私は永島の「肉体」を感じる。二つのことを「ひとつ」にしてしまう「肉体」を強く感じる。「頭」はこの1行を「二つ」にわけて、そして「倒置法」ということばで整理し直して「意味」を明確にするだろう。
 だが、そんなふうにして「意味」を明確にした瞬間、何かが消える。
 「呼吸」「息継ぎの間」が「ない」ということが消える。「ない」が消えてしまうと、不思議なことに、そこに「ある」が生まれてしまう。「息継ぎ」「呼吸」が生まれてしまう。
 だが、それは違うのだ。「呼吸」「息継ぎ」は永島の「肉体」ではないのだ。それは、読者の「頭」にすぎないのだ。「倒置法」という考えは、永島のことばの運動とはまったく違うものだと思う。
 「七月のあなたを待っていました」とことばが動いた瞬間、そのことばを追いかけて「昔からこのサガンのなかで」という別のことばが動く。そして、それは「七月のあなたを待っていました」を突き破ってしまう。「七月のあなたを待っていました」ということばを破壊するために「昔からこのサガンのなかで」ということばが突っ走る。
 2行目。

あなたが川の水を求めてみえることは知っていましたよ

 こう永島が書くとき、この「知っていましたよ」の「話者」は「あなたを待っていました」を完全に遠くへ突き放している。「話者」は「あなた」を待ってなどいない。「あなたが川の水を求めてみえることは知って」いるだけなのである。
 そして、この行のなかにも、実は二つの文がある。しかし、それは「あなたが川の水を求めてみえる」と、「話者」がその「ことを知っていました」ではない。「あなたが川の水を求めてみえることは知っていました」と「よ」である。ここに隠された「呼吸」(息継ぎ)がある。分離できない「間」がある。

 「よ」は何か。
 「よ」は、それ以前のことばが、「話者」が「あなた」に伝えたいことである、と告げるためのことばである。「よ」によって、「よ」以前を告げるのである。告げる「内容」を念おしするのである。つまり、この1行には「あなたが川の水を求めてみえることは知っていました」という事実と、それを念おしする「話者」の「気持ち」がぴったりくっついているのである。
 「事実」と「気持ち」。それが「呼吸」(息継ぎ)の「間」を消すことで結びついて動いていく--その「事実」と「気持ち」を結びつける「肉体」が永島のことばなのだ。「思想」なのだ。

 1行目に戻る。

七月のあなたを待っていました昔からこのサガンのなかで

 このことばの「七月のあなたを待っていました」と「昔からこのサガンのなかで」のどちらが「事実」で、どちらが「気持ち」か。
 考えると、わからない。わからないけれど、たしかにここには「事実」と「気持ち」があるのだ。そして、それは「七月のあなたを待っていました昔からこのサガンのなかで」という1行そのままに「間」を持たない。
 「事実」と「気持ち」に「間」はないのである。
 だから、この1行を「倒置法」として「理解」し、「頭」のなかで反芻してはいけないのだ。わからないまま1行を一気に読み、そして、同時にその1行のなかに「ふたつ」の「もの」(二つの文、ひとつの「事実」と別のひとつの「気持ち」)があると、自分自身の「肉体」で感じるしかないのだ。

 私はまたまた変なことを書いてしまうが……。

 この1行は、二つのものが結びついて一つになっていると私は書いたのだが、それは実は、一つのものが1行のなかで二つのものとしてあらわれるということの言い直しなのである。
 それは「往復」なのである。「同時」なのである。「呼吸」(息継ぎ)の「間」の不在により、それは「頭」では整理できない何かになる。もう、そのことばをただ自分の肉体でくりかえしてなぞってみるしかないものになる。
 ここにあるのは、「声」。ここにあるのは「音」と「リズム」なのである。「意味」ではないのだ。私は「意味」ではなく、「音」と「リズム」が私のなかで「声」になるのを感じる。その瞬間が好きなのだ。

 変だなあ。どうもうまく書けない。
 書けないけれど、それが私の感じていることなのだ。

 この詩には不思議な行がある。

捨てられてゆくものを許してしまう今日は不思議な暦ですね

 これは、どこで区切ればいい? どこで「呼吸」(息継ぎ)をすればいい? わからないでしょ? そのまま「音」にして「リズム」に乗って、「声」にするしかないでしょ?

昔の哀しい物語を詰めこんだ傷ついた道具や布袋が
路地に山積みにされあなたを此処からお通しすることができません

 「昔の哀しい物語を詰めこんだ」、そして物語を詰め込むことで「傷ついた道具や布袋が」「路地に山積みにされ」ているので、そのために道が塞がれているので「あなたを此処からお通しすることができません」と読めば「意味」が通るかもしれない。
 けれど、永島が書きたいのはそういう「意味」ではないと私は感じる。
 ここに書かれているままの「音」と「リズム」、ことばとことばの粘着力のある結びつき、そしてその粘着力がそのまま他のものを引きこんでしまう「声」のあり方--そいううものこと、永島は書きたいのだと思う。

 いや、私は正直に、私は永島の書いていることがわからない。わからないけれど、そのことばに触れると、自分の「呼吸」(ことばを読むときのリズム、音、声など)が、自分のものではなく、永島の「肉体」に吸い寄せられて、そこで動くような感じがして、不思議にうれしくなる、と言うべきなのか。永島のことばの「肉体」、「肉体」のことばに、私が反応して、魅せられてしまう--と書くと、なんだか変にエロチックなことを書いているような、「私は男色ではないぞ」と永島に叱られそうな感じもするのだが、どうしようもない。私が感じるのは「意味」ではない。そこに書かれていることばの「音」と「リズム」なのだから。

ほらっ庭を横切ろうとしているカゲロウはあなたのお母さんです
目を閉じてごらんなさい水の木を裂く音が聞こえてくるでしょう
目を開けてみてください使われてしまった水が逆流してきましたよ
泡の襞を作る小魚たちがあなたの耳を愛撫しようとしています
あなたは水中でタバコをくわえ浮いたり沈んだりしているのですね
水が首に巻きつきあなたを見失いそうになります

 あ、この「水が首にまきつきあなたを見失いそうになります」の「主語」はだれ? 「話者」が「あなたを見失いそうにな」るのか。それとも「水が首にまきつ」いたために、「あなた」が「あなたを見失いそうにな」るのか。
 わからないまま、私のなかで「あなた」と「話者」がひとりになる。
 1行目について書いたことをくりかえすと(?)、「あなた」と「話者」の「間」が消えてしまって、ふたりがひとりになる。そして、そのふたりがひとりになるということばの運動のなかに、読者である私ものみこまれてしまって、区別がなくなる。
 あ、この1行かっこいい。盗んでしまいたい。自分のものとして、どこかに書き記したい。そんな思いにかられる。

 盗んでしまいたい。自分のものとして、どこかに書き記したい--そういう思いを呼び起こすことば、それこそが私にとって詩である。
 私はそのとき、きっと、まだ私の知らない何か、ことばにらならないもの、未生のことばと出会っている。



永島卓詩集 (1973年)
永島 卓
国文社
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西岡寿美子「2010リポート(三)」

2011-04-21 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
西岡寿美子「2010リポート(三)」(「二人」290 、2011年04月05日発行)

 西岡寿美子「2010リポート(三)」に、ちょっと不思議なことばが出てくる。

わたしら子供は
学校の行き戻りにノビル、ワラビを摘み
榎実(えのみ)を齧りケンポナシを拾い
アケビの笑み割れで秋の深まりを知った

道中では狐つきの姉様に呪いをかけられたり
集落の爺様(じさま)にいかがわしい性教育を授けられたり
肺患の娘に通ういい男ぶりの人とも知り合い
戦場帰りのセキやんは
脳天ファイラーだかメイファラーだかとばぶれ
わたしらはろくでなしの耳年増に育ち上がった

 「脳天ファイラーだかメイファラーだかとばぶれ」の最後の方。あれっ、これ、何? ちょっと困る。「ばぶれ」? どきっとする。どきどきする。
 アケビの「笑み割れ」とか、耳年増に「育ち上がった」とか、少しかわった表現もある。きっと西岡の「育ち上がった」土地独特の言い方なのだと思う。意味は、もちろん、すぐにわかる。アケビは熟れてくると、ぱっかりと皮が割れる。それを「笑ったように」西岡の育った土地では言うのだろう。育ち上がったは、成長した、である。
 「ばぶれ」は、そういう具合には、「わかる」ことができない。
 けれど、わからないがゆえに「笑み割れ」「育ち上がった」よりも強く「わかる」。「肉体」の奥へ手をぐいと突っ込まれたように「わかる」。
 私が西岡の方へ(西岡のことばの方へ)近付いて行って「理解」するのではなく、西岡のことばが、私の「肉体」のなかの何かをひっぱりだそうとしている。私の「肉体」のなかの何かが、西岡のことばによってひっぱりだされるのを、何か待ち望んでいる感じなのだ。
 セキやんは、きっと戦場で何か衝撃的なことを体験し、正常ではなくなったのだろう。そして「おれは、どうせ脳天ファイラーだ」(脳天メイファラーだ)というような、西岡にははっきりとはわからないことを、暴力的な声で叫びながら暴れている。その、標準語(?)では、うまく伝えられない暴力・乱暴が「ばぶれ」という「音」のなかにあって、読んだ瞬間、私の「肉体」は不思議な共感を覚え、ぞくっとするのである。
 私は実際に、戦場帰りの誰それの、正常ではなくなった意識・肉体に出会ったことはないのだが、どこかでそういうことを聞き、無意識的にそういうものと対面したいと望んでいるのかもしれない。自分の「肉体」(意識)を超える暴力的なもの、「肉体」を突き破っていく何かを見てみたいという欲望があるのかもしれない。その欲望と、「ばぶれ」という「音」、それが「意味するもの」が、共感したがっている--そういうべきなのかもしれない。
 「ばぶれ」が何かわからないまま、私は、そんなことを感じたのである。

 詩を最後まで読んでいくと「ばぶれる=暴れる・自棄を言う」という注釈がついている。私の「わかる」と感じたこととぴったり重なるというわけではないが、なんとなく重なる部分がある。
 「音」には、何か、そういう力がある。正確ではないが、それらしい「意味」を想像させる力がある。
 ことばは、そういう「音」の力をうちに抱えたまま動いている--そういうことを、私はいつも感じている。

 そして。
 こういう「音」の力が「音の力」そのものとして働くためには、ちょっと矛盾したことを書いてしまうけれど、そこに国語の「肉体」がないといけない。西岡のことばは、方言を含みながら(ばぶれる、は方言だろう)、他方で国語の「文法」を「肉体」として持っている。ただし私が言う「文法」というのは、「文法」の教科書に書いてあることとはかなり違う。私が言う「文法」とは、「ことばの蓄積」(ことばがどんなふうに他のことばと脈絡をもつかという蓄積)のことである。粒来哲蔵の詩に触れて「国語の肉体」と呼んだものに通い合うもののことである。
 具体的に言うと。
 「ばぶれ(る)」という表現の前に、「狐つきの姉様に呪いをかけられたり」「爺様にいかがわしい性教育を授けられたり」「肺患の娘に通ういい男ぶりの人」「戦場帰り」「脳天」ということばがある。そのことばは、どれも何かしら「正常」とは違った印象を呼び覚ます。そして(たぶん精神が、理性が)「正常」ではないのだが、それを忘れさせるくらい「肉体」の「本能」(欲望)の方は正常なのである。超越的に輝いているのである。その、精神と肉体(本能、欲望)の対比(?)のさせ方、向かい合わせ方--この「構文」に「国語の肉体」がある。西岡は、そういう「肉体」を利用しながらことばを動かしている。
 そのことばの「運動」、「ことばの肉体の運動」から、粒来のことばを借りていえば、「ひとりでに」、「ばぶれ(る)」ということばが動きだす。「ばぶれ(る)」の「意味」は「ひとりでに」決まってしまうのである。
 また、「脳天ファイラーだかメイファラーだかとばぶれ」の「だか……だかと+動詞」という構文(これこそ「学校教科書」の構文だけれど)も重要である。「だか……だかと」が一種の常套句であるから、つぎの「ばぶれ(る)」が「動詞」であることが「ひとりでに」決まるのである。
 西岡は「日本語の肉体」をしっかりと身につけている詩人である。「肉体」がしっかりしているからことばが「ひとりでに」動いていけるのだ。

北地-わが養いの乳
西岡 寿美子
西岡寿美子


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ナボコフ『賜物』(44)

2011-04-21 10:30:43 | ナボコフ・賜物

 森の中に深く入っていった。小道に敷かれた黒い板は、ぬるぬるして滑りやすく、赤みを帯びた花弁の連なりやへばりついた木の葉に覆われていた。いったい誰がこのベニタケを落としていったんだろう、笠が破れ、扇のような白い裏側を見せている。その疑問に答えるように、呼びかわす声が聞こえてきた。女の子たちがキノコやコケモモを採りに来ていたのだ。それにしてもあのコケモモ、木になっているときよりも、バスケットに入れられたときのほうがよっぽど黒く見える!
                                (125 ページ)

 ナボコフの表現には「色」がたくさん出てくる。うるさいくらいである。黒、赤、白とつづいて出てくるこの文章では、しかし、その直接でてきた色よりも、最後の「よっぽど黒く見える!」が印象的である。同じコケモモでも色が変わる。その変化に、目が引きつけられていく。
 だが、この文章でそれが印象的なのは、そこに色の運動(変化)があるからだけではない。そこに繊細な感覚があるからだけではない。
 途中に「呼びかわす声が聞こえてきた。女の子たちがキノコやコケモモを採りに来ていたのだ。」という「色」以外のものが挿入されているからである。黒、赤、白という「色」が少女たちの「声」によっていったん洗い流される。そのあと、新しい目で「黒」だけを見つめるから、黒の変化がくっきり見えるのだ。
 女の子の「声」が挿入されなかったら、黒の変化は、赤と白に邪魔されて、よく分からないものになったに違いない。

ナボコフ伝 ロシア時代(下)
B・ボイド
みすず書房
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粒来哲蔵「鳰(にお)」

2011-04-20 23:59:59 | 詩集
粒来哲蔵「鳰(にお)」(「二人」290 、2011年04月05日発行)

 粒来哲蔵「鳰(にお)」は徘徊僧浄因を描いている。--と書いて、いいかげんなことを言うようだけれど、その僧が実際にいたひとかどうか私は知らない。そして、実際にいたとしても、粒来の書いている僧が、僧の実際を書いているのかどうかは、あまり関係がない。書くことで、僧を超えて、ことばとして存在してしまうのだ。現実に生きた僧ではなく、ことばの運動として昇華した僧をみる。いや、僧が、現実を超越して、ことばに昇華し、結晶する、その過程が強く印象に残る。

 徘徊僧浄因は、身辺を嗅ぎ回る犬の形で自らも地を嗅ぎ、腐肉を掘
り、骨を齧って産土を周回することから始め、やがて鼻先を他者に向
けてその思惑を先読みし、他所のはぐれ女に偽りを仕掛けてその夢を
喰らい、すがりつく手を払い足を蹴って迷走するうち、身はひとりで
に疥癬の痕も消え、両の手はひとりでに季節の風を祈る仕種をとるよ
うになった。彼はにわかに破れ衣の裾をつくろい、にわかおぼえの経
文を口ずさむふりをした。

 僧よりもことばが印象に残るのは、粒来の文体が強靱だからである。最初の文章は、僧が「犬」から「僧」への変化を描いているが、粘着力があり、持続力がある。その粘着・持続がことばをがっしりしたものに変えるのである。僧も姿を変えるが、ことばもことば自身の骨格を変えて強靱になっていく。
 粘着力、持続力を具体的に指摘すると……。
 まず「犬」が登場するが、その犬は「嗅ぎ回る」形をとる。嗅ぎ回るとき、犬は何をつかうか。「鼻」である。その「鼻」は「地を嗅ぐ」ことから、「他者の思惑」を読むことへと動いていく。このとき「嗅ぐ」は「読む」ということばに変わっている。「思惑を嗅ぐ」「思惑を読む」。それはどちらも常套句としてつかうが、国語のなかにある常套句にひそむものを掘り起こしながら、ことばは「自然」な形をとる。地を嗅ぎ回ることから、人間の思惑を読むという変化が、国語の常套句を潜り抜けることで、自然な変化として成立する。(ここに粒来自身のことばの力の根拠があるのだが、省略。)
 そして「嗅ぐ」(犬)から「読む」(人間)、「地」(犬)から「思惑」(人間)とことばそのものは一種の昇華というか洗練というか、人間的なものになるのだが、そこでの「肉体」の行為はそれとは逆向きに「人間」から「犬」へと引き返す。つまり、女を地を掘り起こすように掘り起こして、その内に秘めた「夢を喰ら」う。それは犬が地を掘って腐肉をあさる姿に似ている。
 ここには上昇(昇華)する運動と、逆に降下(沈下)する運動が硬く結びついている。その結びつきのなかに粘着と持続が同居する。ことばは先へ先へと進むが、それは「過去」を別の形で引き継ぎながら、「過去」を掘り進むようにして動くのである。
 ほしいものを喰うだけ喰ってしまうと、ことばは(僧は、と言い換えると僧の「伝記」「評伝」になる)、その「いま」であり、「過去」であるものを捨てて、別なものに変身しようとする。
 この過程に「ひとりでに」ということばが2回つかわれている。これは、とてもおもしろい。
 粒来は、このことばの運動(僧の運動と言ってもいいのだが)を「ひとりでに」動いているものとしてとらえている。ことばや「肉体」(人間)は「ひとりでに」動くものなのである。「いのち」は「ひとりでに」動くものなのである。
 この「ひとりでに」が粒来の「思想」(肉体)である。キーワードである。キーワードというのは普通はことばになってあらわれない。隠れている。そして、ある瞬間、ことばの運動が「飛躍」する瞬間、瞬発力が足りないと感じたとき、「肉体」の奥から知らないうちに(無意識に)飛び出してくるものなのである。「ひとりでに」が無意識であるというのは、粒来が続けて2回つかっていることからもわかる。粒来は2回書くつもりはなかっただろう。しかし、書いてしまったのだ。
 キーワードは普通は書かれない。そして、この詩の最初の部分にも、その書かれない「ひとりでに」がある。たとえば「犬」(地を嗅ぐ)から「人間」(思惑を読む)への変化の瞬間、粒来は「やがて」ということばをつかっているが、それは時間がたつうちに「ひとりでに」と同じである。「やがて」とぼんやりした時間とてし書いてしまうのは、その変化が「無意識」でおこなわれたこと、どの瞬間とはっきりいえないこと、それが「ひとりでに」そうなってしまったことをあらわしている。
 そしてこの「ひとりでに」のなかには、ことばに限っていえば、先に書いたことの繰り返しになるが、「思惑を嗅ぐ」(思いを嗅ぐ)「思惑を読む」という国語がもっている「いのち」がある。国語が動きながら自然につかみとった「肉体」がある。それが「ひとりでに」動いて、粒来のことばとなっている。これは主語を国語ではなく粒来にすると、粒来の「肉体」のなかにある国語を粒来が「ひとりでに」(無意識に)動かしているということである。

 無意識に動かせる国語をどれだけ豊かにもっているか--たぶん、そのことが詩人や作家の豊かさ(力量)につながっていくのだと思うが、粒来はそういう「無意識の国語」、「ひとりでに動く国語」を「肉体」のなかに抱え込んでいる。「ひとりでに動く国語」が「肉体」として存在している。「ひとりでに」のなかに、粘着力と持続力があるのだ。粒来のことばは「ひとりでに」、過去を引きずり、過去を掘り返し、未来へと暴走する。

 詩は、簡単に(寓話的に)要約すると、僧が観音像と出会い、その観音像に母を見出し、犬を真似たように母の形を真似ているうちに、正面から向き合うことになり、性交してしまう。性交しながら、鳰が卵を見守っている幻をみる。その鳰は母である。そうであるなら、卵は僧自身である。--その幻の瞬間、僧は自身の生涯を知り、射精し、果てる。そしてその瞬間観音像のある堂は火事になる。焼け跡には僧の白骨と観音像の焼杭が残される。
 「ひとりでに」過去を引きずり、過去を掘り返し、未来へと進むという形が、この詩の寓話そのものとなって結晶している。
 この寓話の構造ささえているのは、粒来の精神であるけれど、それは粒来の精神であって、粒来の精神ではない。粒来が獲得した国語の肉体でもある。粒来のことばの肉体が「ひとりでに」動いて、そういう寓話に結晶するのである。「ひとりでに」動いていくことば--それをもった詩人の強靱な「肉体」をまざまざと感じる文体である。




粒来 哲蔵
書肆山田
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ナボコフ『賜物』(43)

2011-04-20 12:01:55 | ナボコフ・賜物

 水たまりに藁が一本浮いていて、二匹の糞虫が互いに邪魔し合いながらしがみついていた。彼はその水たまりを飛び越え、道端に靴底の跡を刻み込んだ。なんとうい意味ありげな足跡だろう、いつまでも上を向いたまま、消え去った人間の姿をいつまでも見ようとしている。
                                (124 ページ)

 この部分が原文どおりであるかどうか、私は知らないが、ナボコフの文章がにぎやかなのは、ここにみられるような「主語」の交代が頻繁にあるからかもしれない。
 特に印象的なのは、「足跡」が主語になった部分である。足跡が、「いつまでも上を向いたまま、消え去った人間の姿をいつまでも見ようとしている。」とまるで意思をもった存在であるかのように書かれている。
 「……しているように見える」と書けば、「彼には……見える」になるのだが、この構文では風景の印象が弱くなる。それは単に彼にそう見えただけのものになる。「彼に」を省略ではなく、拒絶し、「足跡」そのものを「主語」にするから風景が動きだすのだ。


ナボコフ伝 ロシア時代(上)
B・ボイド
みすず書房
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宇宿一成『賑やかな眠り』

2011-04-19 23:59:59 | 詩集
宇宿一成『賑やかな眠り』(土曜美術出版販売、2011年04月01日発行)

 宇宿一成『賑やかな眠り』にはさまざまな詩が収められている。「意味」がときどき強くなる。詩集の帯にも引用されている「記憶受胎」。

いまここに生きているということは
日々のたくらみを
言葉によってなぞりなおし
遠い祖先たちの記憶と交配し
受胎する脳髄の川のほとりに
かすかな希望を
ナズナの花のように
咲かせているということだ

 たしかに生きているということは、遠い祖先の記憶と交配し、脳髄が受胎することかもしれない。そして、それは「ことば」の運動である。「脳髄」は「ことば」と言い換えるとき、この詩がかたろうとしているものを明確な「意味」として結晶化させる。
 祖先の行為を「ことば」でなぞりなおすとき(くりかえすとき)、私たちのことばは遠い祖先の記憶と交配する(セックスする)。そして、その結果、私たちの「ことば」は祖先の「血」(思想)を引き継ぐ。受胎する。そして、新しい「ことば」として生み出す。これは、すべて「脳(脳髄)」のなかにおける運動であり、現象である。
 --でも、こういう「意味」は、私にはあまり興味がない。「意味」でありすぎる。「意味」は誰にでも共有される。簡単に要約できてしまう。だから「思想」ではない、と私は思うのである。「思想」は共有されるべきものだが、絶対に共有できないもの(要約できないもの)が「思想」なのである。それは「肉体」と呼ぶべき「もの」なのである。
 「肉体」ではない「思想」は、「意味」にしかすぎない。
 と、批判的なことを書きながら、この詩を引用したのは……。
 「意味」でありながら、「意味」ではない部分がある。そこに、私は詩を感じ、また「思想」を読む。

受胎する脳髄の川のほとりに

 「受胎する脳髄」から「川のほとり」へとことばがつながっていく部分。その接続のためのことば「の」。ここに、宇宿の「肉体」(思想)がある。
 なぜ、「脳髄の川のほとり」?
 わからない。きっと、宇宿にもわからないと思う。それは、突然、やってきたことばにちがいない。理由がない。説明できない。
 あえて、この詩のなかに書かれていることばを強引に動かして、その「説明」をしてみると……。
 あることがらを「ことば」でなぞる(語りなおす)ということは、「こと」に「ことば」を結びつけることである。なぞる、語る、とは「ことば」を接着させる、密着させる、連続させるということである。そういう接着、密着、連続、粘着--なんでもいいのだが、結びつけるときの働きが「の」のなかにある。

脳髄「の」川「の」ほとり

 結びつけるということは、区別がなくなることでもある。どこまでが「脳髄」なのか。どこまでが「川」なのか。どこからが「ほとり」なのか。それは単独では違ったものになってしまう。「の」によって二つが結びつき、どちらがどちらに従属(?)しているかわからなくなったとき、そこに初めて「出現」する。
 「の」によって結びつけられた「もの」(こと)は対等なのである。

 「ことば」によって結びつけられた「祖先の日々のたくらみ」と、それをなぞる「いまのことば」は対等なのである。別個のものを対等の存在として結びつける力としての「の」。それが宇宿の「ことばの肉体」の力である。
 そこに「思想」がある。
 「の」によって、新しい「いのち」が生み出されている。「の」が生み出した「もの」「こと」がここにある。「の」が宇宿の「肉体」なのである。

 私の書いていることは強引すぎて「意味」にならない。こんなふうにして、強引にねじ曲げるのか、こじあけるのか、わけのわからないことばでつかみ取るしかないのが「思想」であり、これは、まあ「共有」できないなあ。私が勝手に、「こうだ」と思い込むしかないものなのである。
 私は、なんとかそれを誰かにわかってもらいたいと思い、こうやって「日記」を書いているが、わからなくても当然とも思ってもいる。書けないことを承知でことばを動かしているのだから。

 「の」が宇宿の「思想」である--と書いても、きっと何のことかわからない。
 わからないと承知で、私は、また別のことを書きたい。「の」に通じるかもしれない。まったく無関係のことかもしれない。
 それは「ひらがな」の力というものについてである。
 「夕暮れのコメディー」。

こころからふかくあいしたので病気をうつされました かなしみという病気です きせいちゅうをすまわせて いつもうえていたねこが死んで あんなにたべてばっかりだったのに ほねとかわで えいようはみんな はらのむしにすいとられていたのだと そんなことはちいさなこどもでもわかることです

 これは寄生虫のために太ることのできなかった猫のことである。「こころからふかくあいしたので病気をうつされました かなしみという病気です」というのはセンチメンタルすぎて気持ちがいいものではないが、そういう猫を見れば、まあ、人間はだれでも悲しくなる。
 このことばは、次のようにつづく。

うまれたときから むしのいきるばしょとしていき 死にゆくいのちもあるのでしょう

 むし(寄生虫)に生きる場所を提供し、猫は死んでいく、ということだろう。

ひとのいきるばしょとしていき 死んでしまうほしだってあるかもしれない

 これは、地球のこと? ひとと地球はそういう関係? ひとが寄生虫で、そのために地球は死んでいく? わからないね。
 そういうわからないことばを挟んで、詩はつづく。

そのこはうすよごれたむくろをだいて にごったかわにはいってゆき むねのあたりまでぬらしながら 死んだねこをながしました からっぽのふくろをながすようでした はらのなかでは むしたちがまだにぎやかにうごめいていました ねこのちょうがいきていてうごいたようなてざわりに そのこはぎょっとしてかおをあげました むしもながれましたが かなしみだけがながれずに そのこはおんおんおおごえをあげてなきつづけました

 死んだ猫を流す。そこに「はらのなかでは むしたちがまだにぎやかにうごめいていました ねこのちょうがいきていてうごいたようなてざわり」というびっくりするようなことばが出てくる。
 これは、しかし、不思議だなあ。
 猫を流しているのは「そのこ」。「私」(宇宿)ではない。どうして、「そのこ」の感じた「手触り」がわかった?
 そこには「祖先の体験」ではなく、宇宿の体験が接続され、区別がつかなくなっている。こういうことが「ことば」にはできるのである。
 できるのだけれど……。
 その、ちょっと強引な運動に、「ひらがな」がとても強く影響しいてると思う。
 「ひらがな」というのは、「意味」がとりにくい。「音」はわかるけれど、その「音」がもっている「意味」というのがわかりにくい。「漢字」で書けばすぐわかるのかもしれないが、「ひらがな」だとわかりにくい。(あ、これは谷川俊太郎が、池井昌樹の詩について書いていたことだね。谷川さん、借用します。)わかりにくい、というのは、何かと何かを識別しにくいということだね。そして、わかりにくいからゆっくりと読む。くりかえして読む。そうすると、そこに何か「漢字」で読んだときにはなかったような変なもの(?)がまぎれこむ。識別しにくい何かが、「ことば」のなかを行き来する。どれがどのことばの「意味」だったか、わからなくなる。
 この詩には「てざわり」ということばが出てくる。猫の腹に触っている。その手。その手が猫の腹か、腸か、あるいは寄生虫のうごめきかわからないものに触れる。そのとき、それが猫の腸か寄生虫かわからないだけではなく、うーん、人間の手を通って、なにか自分の腸のなかの寄生虫のうごめきのように感じられるねえ。区別がつかないね。
 「ひらがな」には、そんなことを引き起こす力がある。
 途中にでてきた「ひとのいきるばしょとしていき 死んでしまうほしだってあるかもしれない」をふと思い返すと、それはいったい誰の考え? という疑問も出てくる。宇宿の考えといってしまえば簡単だが、「ひらがな」で書いてあるので、まるで「そのこ(子)」の思いついたことばのようにも見えてくる。そのことばが「ひらがな」で書かれることで、生と死の、生々しい「肉体感覚」がくっついてしまう。
 漢字で書かれていれば、「ひとのいきるばしょとしていき 死んでしまうほしだってあるかもしれない」は「哲学」として、ことば全体のなかで浮き上がってしまうかもしれない。そのことばは、前後のことばをうまくつなぐことができないかもしれない。そして、その結果、「ねこのちょうがいきていてうごいたようなてざわり」ということばも生まれてこないし、「かなしみだけがながれず」という美しいことばも生まれてこないかもしれない。

 「ひとのいきるばしょとしていき 死んでしまうほしだってあるかもしれない」は、記憶受胎」で触れた「の」であったかもしれない。
 ふと、そう思うのだが、これはやはり「ひらがな」で書かれているから「の」になりうるのだとも思う。
 「ひらがな」は、「意味」の奥へおりてゆき、何か不透明なもの(こと)と知らず知らずのうちに接続してしまうのである。密着してしまうのである。連続してしまうのである。




光のしっぽ (21世紀詩人叢書・第2期)
宇宿 一成
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誰も書かなかった西脇順三郎(211 )

2011-04-19 10:30:44 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「ティモーテオスの肖像」の後半は「音楽」が少しかわる。「子供」が消えるせいかもしれない。「音」がしんみりして、おとな(?)の感じが濃厚になる。

夏のふるさとはまた

 という行から後とのことなのだが、「音」の変化の前に置かれたこの1行--その正直さに私はどきっとする。こころが震える。西脇の詩は「わざと」書かれたことばだが、その「わざと」のことばのなかにも、正直というものはどうしても出てしまう。そう気づいて、どきっとするのである。(これ以外の行が、「わざと」書かれたことばなのに、ここでは「わざと」がない。その正直さに驚くのである。)
 私の印象では、この1行のあと、詩は「転調」するのだが、その転調知らせることば--それがシャープやフラットの記号のようにくっきりしている。そこに「生理的」な正直さを感じる。この1行がないと転調できないのだろうなあ、と思う。(行分け詩の場合、連と連との区切り、1行空きを利用して転調することが多いが、西脇は1行空きのかわりに、こういう1行を書くのである。これに先立つ部分でも、「オーポポイ!」という感嘆詞があるが、感嘆詞を転調のきっかけにするのは、他の詩人でも頻繁にみられることである。)

夏のふるさとはまた
暗黒のガラスになる頃
小学校の先生とまた
シソとタデのテンプラを食べて
ルネサンスの絵の話をするだろう
都に住む友達は
どんな色のシャツを着ているだろうか
二人で考えてみるだろう
田圃の方からまた
生ぬるい幽霊のような風が
吹いてくるだろう
また生殖を急ぐ蛙の
音が暗闇から押し寄せてくる
この潮の音は星群を
曇らせるだろう

 「音」はいったん「色」をくぐる。ルネサンスと絵。そして、そこから友達のシャツの色を考えてみる。いったん「音」が消えるから、次にあらわれる「音」が静かなのかもしれない。

また生殖を急ぐ蛙の
音が暗闇から押し寄せてくる

 この「音」もふつうなら「声」かもしれない。「声」だと何かしら「意味」が感じられる。「音」になると、「意味」以前のところから聞こえてくる感じがする。洗練ではなく、野生、野蛮という感じがする。強い感じ--たたいてもこわれない感じ。
 その強さのなかで「音」が静かに響く。
 時間が夜だから、というだけではないと思う。




西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)
クリエーター情報なし
慶應義塾大学出版会
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近藤久也『夜の言の葉』

2011-04-18 23:59:59 | 詩集
近藤久也『夜の言の葉』(思潮社、2010年03月31日発行)

 近藤久也『夜の言の葉』のなかの1篇「口のついたもの」については、以前書いた。そのときは詩集を読んでいなかった。他にもおもしろい詩がある。
 「見遣る」は蚊のことを書いている。

田舎の夕暮れ
誰も居ない部屋
蚊遣りくすべ
ぼおとしていると
ちいさいものが頬に突進して
はらりと落ちる
畳の上にあお向き
じたばたと手足が空をつかむ
時を巡る

 「はらりと落ちる」は、はたして蚊が落ちるときの描写にふさわしいかどうか、「過去の文脈」を探し出せない。そこが、きのう読んだ岩木誠一郎の詩のことばの動きとは完全に違う。ちょっと考え込んでしまうのである。「はらり」のほかに、ことばはないかなあ。ぽとり? 違うなあ。蚊は軽いからなあ……。ふわり、というのは浮かぶとの文脈は持っているけれど、落ちるは違うなあ。「じたばたと手足が空をつかむ」は、まあ、みなれた「文脈」だね。だから、よけいに「はらり」が気になる。
 どこから来たのかな? どこへ動いていくのかな?
 で、「時を巡る」。
 何、これ? 何のこと?
 それは2連目で明らかにされる。

それは
ぼうふらの時のこと
水から出た時のこと
皮膚を刺した時のこと
そうしてうっすらと
世界から遠ざかっていくのがわかるのか
それとも
じたばたと
もいちど一瞬をつかむか

 ははは。わっはっはっははは。ははは。あー、苦しい。
 蚊が、自分の一生を思い返している。死ぬとき、人間は「走馬灯のように過去を思い出す」というけれど、近藤の蚊も「走馬灯のように過去を思い出している。」あ、私は、わざと「常套句」をつかってみたのだけれど、おかしいねえ、近藤の書いていることは。「常套句」とは相いれない。どこかに私たちがことばを動かすときの「常套句」と重なるものがあるのだけれど、人間と蚊との差というか、断絶が、その常套句的運動に割り込んできて、思いもかけないことばが動く。
 けっさくだねえ。
 ことばはこんなふうに動くことができるんだねえ。

 蚊が、はたして蚊自身の人生(蚊生?)を走馬灯のように思い出すかどうかわからない。走馬灯のかわりに、蚊ならば「蚊とり線香の渦のように」なのかなあ。まあ、そんなことはどうでもいいのだが、蚊がどう思おうが関係ない。人間は、いや近藤はというべきなのか、蚊のかわりに、ことばを動かすことができる。そして、そこで動いてしまうことばは、なぜか、わかってしまう。
 蚊の人生を考えるなんて、ばかげている。そんなことを考える人間は近藤くらいしかいないだろう。そんなばかげたことばを、私はわかる必要はない。誰も、わかる必要はない。わからなくても誰も困らない。
 けれど、わかってしまう。それがおかしい。
 人間には、どうしてもわからなければならないことばというものがある。わからなければならないのに、わからない、わかってもらえない、ということがしょっちゅうある。そういうことは大問題なのだが、なんということだろう。わからなくていいこと、わかったからといって何の役にも立たないことが、わかってしまう。
 この近藤のことばは、岩木のことばのように、こころをしんみり(?)整理するようなものではない。しみじみと美しい何かを思い起こさせるものではない。何かとつながるわけではない。
 逆だね。
 何かとつながる--そういう「意識」を笑いでたたき切ってしまう。そして、笑ったあと、どんなにたたき切っても、つながるものがあるということを、遠いところから知らされる。

否、
そうじゃ、ないだろ
突然
前も後ろも行きどまり
まっくら
音もきこえず
ぶっきらぼうに
体が
止まる

 岩木があくまで「文学」の「文脈」を生きて、そこでことばをよみがえらせているのに対して、近藤は「ことば」の「底」をぶち破る。「底抜け」にする。
 「夜の果物」。その2連目の途中から。

空気の流れないちいさな部屋で
その濃密な匂いにひたっているのが好きだ
朦朧と
食べたのか否かも判然としない
仄暗くなつかしい
とおいとおい
わたしの住処から
夜の果物めざし
得体のしれないけだものや鳥たちが
あとからあとからやってくるからだ

 「得体のしれないけだもの」と「鳥」がおなじものとしてとらえられている。「鳥」がたとえば「文学の文脈」だとすれば、「得体のしれないけだもの」は「文学の文脈から逸脱したことば」かもしれない。
 この逸脱、とおいとおい「いのち」につながる何かが、近藤のことばを豊かにしている。


夜の言の葉
近藤 久也
思潮社


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ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン監督「シリアスマン」(★★★★)

2011-04-18 20:11:54 | 映画
監督 ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン 出演 マイケル・スタールバーグ、リチャード・カインド、アダム・アーキン

 この映画の魅力を語るのはとても難しい。
 たいていの映画にはストーリーがあり、クライマックスがあり、カタルシスがある。この映画にはストーリーと呼べるものはない。もちろん時間の流れというかスクリーンの展開にそって何が起きたかを語ることはできるが、それは映画を見ていないひとには何のことかわからないだろう。だから、ストーリーの展開に則して、どこに感動したかというようなことを書けないのである。だれのどの演技が人間の真実をとらえていたかというようなことが書けないのである。
 どうやって、この映画の感動を書くべきか。どう書けば感動が伝わるか……。まあ、こんなことは考えていると面倒なので、とりあえずどこに感動したかということから書きはじめる。

 主人公が屋根のアンテナを直すために屋根に上がっていく。梯子をかけ、屋根にのぼる。屋根の傾斜がぶつかり、谷になる部分がある。その谷の両側を右足と左足で押さえるようにしてのぼっていく。このときの映像がとても美しい。はっとする。あ、こういう構図があったのか--と、びっくりする。屋根の角度、屋根の傾斜がぶつかりあい、谷をつくるところなど、どこにでもあるだろう。どこにでもあるはずなのに、コーエン兄弟のような、こんなふうに静かな構図、静かな質感で屋根を描いた映像を見るのは初めてという気がする。(急な傾斜で、人間が落ちそう。落ちそうになりながら屋根の上をゆくという映像なら何度も映画になっているけれど。)ぼんやり見ていて、気がついたときにはシーンが変わっているので、あ、どんな色だっけ、と思い出そうとするが思い出せない。それでもバランスがとてもよかった記憶がある。空の色、空気の色(光の色)が調和していて、初めての「構図」のなかですべてが落ち着いておさまっている。
 主人公が初めてナビを訪問するとき。テーブルがあって、その向こうにドアがあって、という部屋の描き方がある。そのテーブルのつくる水平線と、向こう側のドア(柱?)がつくる垂直線。そのときの構図も美しい。色のバランスも美しい。現実を見ている気がしない。「芸術作品」(絵画でも、写真でもいいが……)を見ている気がするのである。
 他のどのシーンでもいい。すべて構図がしっかりしている。安定している。マリフアナを吸って、世界が揺れ動いているときの映像さえ、映像が安定して傾いている。変な言い方になるが、不安定さがない。傾いたまま、傾いてあることが、落ち着いている。
 ストーリーは、どこへ動いていくのか見当がつかないくらい、とぎれとぎれで、強引で(主人公が内気で、その強引さに対抗しきれないのだけの話なのだが)、支離滅裂なのに、映像は支離滅裂ではないのだ。絶対的な安定構図、色のバランスの中で、静かに存在している。
 カメラのとらえる一瞬一瞬が(スクリーンに映し出される一瞬一瞬が)、とても美しい。ゆるぎのない構図でできている。ストーリーはどう説明していいかわからない、いわば不条理な展開をするのだが、その不条理を映像の完璧な美しさが統一してしまう。

 この映像の完璧な構図、安定感と関係があるのかないのか……。役者たちが、おもしろい。ふつう役者というのは演技をする。ストーリーに役者の肉体(役者の過去)を絡ませる形で、人間の感情を再現する。この映画では、感情を再現しない。肉体の形がスクリーンのなかで構図になるだけである。
 主人公の感情にも、妻の感情にも、妻の不倫相手の感情にも、何人かのラビ、弁護士、それから他の登場人物のだれに対しても「感情移入」できないでしょ? 「感情移入」できないように演技しているのである。主人公が泣くときでさえ、観客は「もらい泣き」などしない。泣く男がそこにいて、それが「一枚の絵」になっている、ということを見るだけなのである。
 主人公の上司(?)、学長(?)が主人公と話すときの姿勢が、「構図」ということを説明するのに役立ってくれるかもしれない。彼は少し猫背である。(最初のラビも猫背であった。)その猫背は、胸の内を隠して(胸を小さくして)、感情をあらわさないようにして語るという人間のあり方の「構図」なのである。同じように、主人公と話すとき、妻の姿勢、子供たちの姿勢、ラビや弁護士たちの姿勢、距離のとり方--そういうものがすべて「構図」であり、それがスクリーンの映像を安定させているのである。

 コーエン兄弟はもともと映像が、特に構図が美しい。「ミラーズクロッシング」の森のシーン、「ノーカントリー」の首を絞めながら殺される男の足がリノリウムの床に残す引っ掻き傷の美しさを、私はすぐに思い出すことができる。また、その美しい映像(構図)と殺人という凶悪なものが出会い、融合するときの官能的な興奮も思い出すことができ。る。
 しかし、どの映画も今回の映像ほど強靱ではない。いや、これは正しくはないかもしれない。今回は、ともかく映像の強靱さ、構図の強靱な美しさが際立つ。それはストーリーが不条理であるということと関係しているからかもしれない。ストーリーはどうでもいいのだ。ストーリーを拒絶しても映像は存在しうるのだ。ストーリーから、映像を解放したのだ--というと言い過ぎになるだろうか。
 ともかく、びっくりしたのだが、こうやってストーリーからの映像の解放と書いてしまったあとで、ストーリーというものを見直してみると、私たちの「日常」というのは「ストーリー」よりも「ストーリーから逸脱した部分」の方が多い。そして、ストーリーから逸脱しても、そこには人間がいて、人間の暮らしがあって、つまり机や本や家や屋根があって、それは目に見える。いわば「映像」を持っている。そうであるなら、この映画のように不条理(ストーリーとストーリーの展開によるカタルシスを持たない)作品を統一するものが「映像の力」であってもかまわないことになる。
 コーエン兄弟は、映像そのものを生きている監督なのだ。私は「ファーゴ」も「ミラーズクロッシング」も「ノーカントリー」もみんな好きだが、この「シリアスマン」はどの作品よりも飛び抜けて傑作である。これからもコーエン兄弟は映画をつくりつづけるだろうが、この映画は彼らの代表作であることに間違いはない。大傑作である。しかし、多くの評価される映画のように共感できる「人間像」をスクリーンのなかに定着させていないので、常に評価からもれてしまうに違いない。そういう大傑作である。不幸な大傑作である。

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誰も書かなかった西脇順三郎(210 )

2011-04-18 09:27:58 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。
 西脇の書いている情景は、私には非常になつかしいときがある。子ども時代を思い出すのである。「ティモーテオスの肖像」。タイトルは私の子ども時代とは無関係だが、そこに書かれていることは昔の記憶と重なる。

イタリ人のように
大人が昼寝をしている時
やなぎの藪の中に反乱が起る
子供の近代的な笑いが始まる
どぶ川の中で泳いでいる
桑いちごときゅうりを齧りながら
永遠的な方向を指さしている
小さいフナが杏子のかんづめの
空きかんの中で死んでいる

 こういう情景は、私たちの年代はだれもが体験していることなのかもしれないが、とてもなつかしい。そして、なつかしいと同時に、ちょっと不思議な気持ちにもなる。なつかしいのだけれど、ちょっと違う。ふつうの「思い出」と何かが違う。
 たとえば3、4行目。これは子供たちがやなぎの向こうではしゃいでいるときの描写であるが、こういうとき「反乱」とか「近代的な笑い」とはふつうは言わない。そういうふつうは言わないことばをぶつけることで「情景」を批評する。
 批評が西脇にとっての詩である。抒情ではなく、批評。だから、ことばが乾いている。批評のために、あえて抒情ではつかわないことばをつかう。ことばを未整理のままつかう。それは、「反乱」「近代的な笑い」というようなことばだけでない。

小さいフナが杏子のかんづめの
空きかんの中で死んでいる

 よく読むと、「かんづめ」「空きかん」ということばが重複している。抒情派の詩人なら、この重複を整理して違う形にすると思う。しかし、西脇はしない。わざと未整理にしてほうりだす。--だけではない。その未整理を、「意味」ではなく、「音楽」にしてしまう。「音」の響きあいで遊んでしまう。
 「杏子(あんず)」「かんづめ」「空きかん」「死んでいる」。「ん」の音が響きあっている。その響きあいは、他のひとにはどう感じられるかわからないが、私の場合は「意味」を消し去る。「意味」よりも「音」の楽しさの方が前面に出てくる。「音」が気持ちよく感じられて、うれしくなる。
 この「ん」の響きあいのなかに「反乱」「近代的」までが意識されているかどうかわからないけれど、私のよろこびは、そこまでさかのぼる。批評としての「反乱」「近代的」さえ、「音」になって遊びはじめる。

トンボは百姓が忘れていつた
鎌の上にとまつて考えている

 この2行の「トンボ」「考えている」にさえ、私は「ん」の響きあいを感じる。トンボが何かを考える--というようなことは、まあ、ない。そういうないことを「わざと」書く。そして、その「わざと」書くことばが「音」で統一される。

この地獄の静けさの中で
人間は没落を夢みているのだ
どこかでまた子供が
スモモの木の中へ石を投げている
音がする--
小さい窓からザンギリのおつさんが
頭を出して怒鳴っている音がする

 「音」の対極にあるのは「静けさ」。そういうものを出してきておいて、「音」そのものにも言及する。
 「スモモの木の中へ石を投げている/音がする」は正確には(学校教科書的には)「石を投げている音」ではなく、投げた石が木にぶつかる音だろう。「怒鳴っている音がする」は怒鳴っている声がする、になるだろう。
 「音」ということばのつかい方が「学校教科書」とは微妙に違う。違うから、「音」ということば、「音」そのものが、新しい「もの」のように感じられる。この「新しさ」が詩のなのだと思う。
 そして、この部分には「ん」の響きあいが残っている。「ザンギリ」「おつさん」。「おつさん」は「男」でも「意味」はかわらないが、ニュアンスだけではなく、「音」そのものがまったく違う。
 「音」が、何かしら西脇の詩には重要なことばの推進力になっているのだ。




西脇順三郎全詩集 (1963年)
西脇 順三郎
筑摩書房



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岩木誠一郎『流れる雲の速さで』

2011-04-17 23:59:59 | 詩集
岩木誠一郎『流れる雲の速さで』(思潮社、2011年03月15日発行)

 岩木誠一郎『流れる雲の速さで』は美しい詩集である。ことばが、ことばを裏切らない。
 「夜の舟」の1連目。

月の光に濡れる夢のほとりで
くりかえし古い地図を眺める
まだ見ぬみずうみの名を
そっと口にするとき
かすかに波立つ湖面を
遠ざかろうとする舟の影がある

 書かれている「情景」が美しいというよりも、ことばとことばの呼応の仕方が美しい。そして、その美しさはことばの伝統を踏まえていることから生まれる美しさである。ここには乱調がない。
 たとえば、2行目の地図は「新しい地図」であってはならない。3行目の「みずうみの名」は何度も何度も見たことのある湖の名前であってはならない。そしてその名前を口にするとき、それは4行目のように必ず「そっと」でなくてはならないし、湖面の波は5行目のように「かすか」でなくてはならない。そのとき舟の影は6行目のように「遠ざかる」ものでなくてはならない。近付いてきてはならない。
 予定された「調和」の世界である。
 こんなに完璧な「予定調和」のことば、その静かな運動に触れるのは何年ぶりだろうか。
 2連目。

何度も見た映画のように
そこから記憶は巻き戻されて
あったことと
あったかもしれないことが
等しく語られる場所で
わたしはやがて目覚めるだろう

 「あったこと」と「なかったこと」ではなく、「あったこと」と「あったかもしれないこと」。
 このことばが象徴的だが、岩木のことばの運動には、対立はない。矛盾はない。かならず「調和」するもの、存在を受け入れてくれるものだけがある。
 そしてそれは「あったこと」「あったかもしれないこと」ということばが端的にあらわしているように、「過去」から掘り起こしてきた「時間」である。「あること」「あるかもしれないこと」ではなく、「あったこと」「あったかもしれないこと」。
 「わたし」は「過去」へ「目覚める」のである。
 「過去」だから、「矛盾」はない。「乱調」はない。完成された「時間」がそこにあるだけである。
 3連目には、そのことを語ることばが出てくる。

漂着する舟のかたちに
刳りぬかれた朝の風景を
指の先でたどっていると
ゆうべ触れた水の冷たさがよみがえる
それだけが
たしかなものとして

 「よみがえる」。よみがえるものは、必ず「過去」である。過ぎた時間である。岩木が「目覚める」のは「過去の時間」へ目覚めるのである。「過去」とは最終行にかかれているように「たしかなもの」なのである。

 岩木のことばは「過去」の時間のなかに蓄積されている「抒情」を、たしかなものとして、「いま」「ここ」に目覚めさせた形として動いている。「古い」ことばとことばの脈絡(つながりを記す地図?のなか道)をそっとたどる。そのとき、「いま」がかすかに波立つ。いや「過去」が波立つのかな? 「いま」と「過去」の間にある何かがかすかに波立つ。「いま」は「過去」ではなく、それはそっくりそのまま「くりかえし」を生きるわけにはいかないからだ。

 岩木は、このことをどれだけ自覚して書いているのだろうか。少し、わからない。
 「風の記憶」に次の行がある。

流れる雲の速さで
ふるい落とされてゆくものがある
はげしくゆれる木々も
なびく草も
届くことのない記憶の深みには
何度も舞い上がろうとする鳥の
影ばかりが刻まれ

 ほんとうに「届くことのない記憶の深み」を岩木が実感しているのか--それが、私にはよくわからない。「記憶」は「過去」(ことばの文脈の伝統)と言い換えることができると思うが、その「深み」に届くことがない--その絶望をかかえながら、それでも岩木は「完成された日本語の文脈」を正しく耕しつづけようと決意しているのかどうか。
 たぶん、岩木に対する評価は、ここで分岐する。
 私は、まだ岩木の詩を読みはじめたばかりなので、どう判断していいかわからない。

 「風の記憶」は、次のようにつづく。

ついに幻のままで終わることにも
耐えなければならないだろう

 そうなのか。
 私は、岩木に完全に同意することはできない。
 
開いた窓から吹き込む風が
壁のカレンダーをわずかにめくる
一瞬だけ現れた未来のようなものを
たしかめることもなく
きょうの
はじまろうとしている地点へと
足を向ける

 「過去(よみがえりうるもの)」は「たしか」だが、「未来」は「たしか」めることはできない--という「思想」に、私は同意できないでいる。
 岩木のことばの運動は完璧に美しい。美しいとわかるけれど、それに「同意」するには、ためらいがある。


風の写真
岩木 誠一郎
ミッドナイトプレス



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誰も書かなかった西脇順三郎(209 )

2011-04-17 11:57:53 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「神々の黄昏」(2)。
 西脇の、女の描写が私は好きである。

遠くの方で女房たちは互いのへそを
みくらべてしんみり見つめて
動物の秘密の悲しみを悲しんだ
星座の涙も霧に閉ざされた

 この「へそ」は女ひとりの「肉体」ではない。人間の肉体を超え、永遠の肉体である。「動物の秘密」である。男もまた「へそ」をもってはいるが、それは「出生」とつながるだけで、女のように「出産・出生」という両方の機能(?)をもっていない。男の悲しみは「動物の秘密」にはつながらないのだ。男の悲しみは、せいぜい「脳髄」の淋しさにつながるだけである。
 女の悲しみは「脳髄」につながらないと書くと叱られるかもしれない。脳髄にもつながるだろうけれど、「肉体」にもつながっている。そして「肉体」とつながるとき、「脳髄」はどこかへ捨てられる。
 だから、

星座の涙も霧に閉ざされた

 という1行も、美しい音楽になる。男がこんなことばで悲しみを飾れば、脳髄の嘘になってしまう。
 男の「へそ」と比べるとはっきりするかもしれない。

ちょうどエダマメを枕にして
昼寝をする農夫のへそに
とんぼがとまつて考えている
のも同種の神話にあたる

 男は悲しむのではなく、考えてしまう。脳髄で考える。そして、それを自分でもちこたえずに「とんぼ」という人間以外のものに託してみたりもするのだが、完全には託しきれない。

のも同種の神話にあたる

 すぐに「ことば」にかえってしまうのである。「抽象」にかえってしまうのである。これにつづく行は、そのことをもっと悲しい音のなかで展開する。

ひるねをする流のヒゲには
みどりの蝶々がたわむれている
マティスのオダリスクの
ホメーロスのオプファロスの
悲しい歴史

 「歴史」とは「肉体」ではない。「もの」ではない。それは「脳髄」のなかに整理された抽象である。そういう抽象は、マティスだのホメロスだのの、芸術と悲しい対話をするだけなのだ。
 男の悲しみは、音楽でいえば「短調」である。悲しむように悲しむ。女の悲しみは「長調」である。それはどんなに悲しんでも、悲しみからはみだしてのびやかに動いていく。「互いのへそを/みくらべてしんみりみつめて/動物の秘密の悲しみを悲しんだ」の「しんみり」は「うっとり」と差はない。「悲しんだ」は「受け入れた」と差はない。「長調の悲しみ」というのは矛盾だが、その矛盾が女の美しさなのだ。強さなのだ。

 西脇は女を礼賛している。


ペイタリアン西脇順三郎
伊藤 勲
小沢書店
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マイク・ニコルズ監督「卒業」(★★★★)

2011-04-17 10:29:05 | 午前十時の映画祭
監督 マイク・ニコルズ 出演 アン・バンクロフト、ダスティン・ホフマン、キャサリン・ロス

 ダスティン・ホフマンがキャサリン・ロスに求婚に行くまでがともかくおもしろい。特に、アン・バンクロフトとの慣れない情事が傑作。最初に見たときは高校生で、まわりで大人がくすくす笑っているのだが、何がおかしいのかわからなかった。ベンと同様に、童貞だったからですねえ。いまは、もうおかしくてたまらない。よく真顔(?)でこんな演技ができたなあ、ダスティン・ホフマンは。
 いろいろ好きなシーンはあるが、大好きなのはミセス・ロビンソンにハンガーをとって、と言われ、クローゼットを開け、「木と針金のどっちのハンガー?」と聞くところ。ばかだねえ。木の方をとろうとして、うまくとれなくて針金の方を渡すところ。あまりにリアル過ぎて、これって隠し撮り? これを演技でやれるって、どういうこと? ダスティン・ホフマンって、このときほんとうに童貞?
 ずーっとさかのぼって。
 最初のパーティ。いろんなひとがいろんなことをいう。そのなかで、女の客二人がダスティン・ホフマンを批評して「無邪気」と言うんだけれど、そうなんだねえ、ナイーブな感じを「年上の女」は敏感にかぎつけるんだねえ--と、これは今回気がついたこと。昔見たときは、気がつかなかった。
 それから。
 いろいろあって、キャサリン・ロスが大学から帰ってくることになる。そのときのミセス・ロビンソンの変化がとてもおもしろい。ダスティン・ホフマンに対して圧倒的に優位だったはずの彼女のこころが揺らぐ。「娘と会うのは、だめ」。これって、女の嫉妬だねえ。キャサリン・ロスと比べたら負ける。わかっているから、だめ、という。
 気晴らし? からかい? 好奇心? なんだかよくわからないものからはじまったはずの情事なのだが、このときはもう、ミセス・ロビンソンはダスティン・ホフマンなしでは自分の人生を考えられなくなっている。
 この変化をアン・バンクロフトはくっきりと演じている。あ、すごいなあ。やっぱり大女優だなあ、と思う。この嫉妬のシーンがなければ、ミセス・スビンソンは若い男とのセックスを遊んでいるだけになる。この嫉妬によって、前半の「笑い話」が「笑い話」ではなく、現実になる。
 そして、実際、このミセス・ロビンソンの嫉妬から、映画が突然、現実に変わっていく。この「切り換え」が絶妙だなあ。いいなあ。ほれぼれする。もう一回、見てみようかな、と思った。(こんなことは、私はめったに思わない。)
 最初に見たときは、何がおかしいのかわからず、2回目に見たときは、ダスティン・ホフマンの童貞ぶり(?)が笑われていると気がつき、今回はミセス・ロビンソンの感情の襞がわかった。そして、この感情の襞こそが、「現実」というものなんだなあ。自分ではどうすることもできない感情。それが動いていくとき、現実が動きはじめる。あらゆることが現実になる。現実として、自分に見えてくる。
 これはラストシーンの、バスのなかの二人の顔にもあらわれている。結婚式から花嫁を奪って逃走する。「一線」を越えたあと、一瞬、何をしていいかわからなくなる。現実が、急に目の前にあらわれてきて、それを一種の茫然とした感じで見つめてしまう。
 とてもリアルだ。
 映画ではなく、現実そのものを見ている感じになる。



 あれっと思ったシーンがひとつある。私の記憶違いなのだろうか。ダスティン・ホフマンがキャサリン・ロスと大学を歩く。回廊(?)を会話しながら、歩く。カメラと二人の間に、回廊の柱が入る。二人の歩く速度にあわせてカメラが動くのだが、そうすると会話は聞こえてくるが表情は柱に隠れるという瞬間がある。そのシーンが、私は、実はとても好きだった。今回見た映画には、それがなかった。類似したシーンは、街中にあらわれた。二人が歩きながら話すのを、たぶん商店の中からカメラが追う。ときどき柱の影に二人の顔が見えなくなる。二人が別れ、キャサリン・ロスがいったん柱の影に消えて、戻ってきてキスをする--うーん、こうだったかなあ……。違う気がするなあ。
 まあ、どうでもいいシーンなのかもしれないが、記憶のシーンにこだわるのは、実は、私はこのシーンから、あ、これは文学につかえると思ったからである。何か重要なことを書く場合、それをくっきりと書くのではなく、間にわざと「ノイズ」をいれる。じゃまな存在をまぎれこませる。分かりにくくする。そうすると、読者の方は逆に、その隠されたものを想像し、書かなかったものを補って「ことば」を完成させる。あらゆる芸術は作者がつくると同時に、作者のつくらない部分を読者(鑑賞者)がかってに補って育て上げるとき完成する。そういう構造になっている--ということを、私は「卒業」の、ダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスが歩きながら会話するシーンで学んだのだ。その肝心のシーンが、記憶とは違った形でスクリーンにあらわれた。びっくりした。
 「午前十時の映画祭」のシリーズでは、ときどきこういう経験をする。私の記憶違い? それとも別バージョン? 少し気になる。



 この映画はまた、音楽のための映画という気もしないではない。サイモンとガーファンクルの歌と映像がとてもいい感じで融合している。ストーリーを忘れて、映像が、音に変わっていくのを見ている感じがする。特にダスティン・ホフマンが車を走らせてキャサリン・ロスを探す時のシーンがいい。音楽がストーリーを離れて走り、その走りだした音楽を映像がかってに追いかける。車のスピード、映像のスピードと、音楽のスピードが、ストーリーとは別の次元で疾走する。サイモンとガーファンクルの曲を鳴らしながら、アメリカ大陸を車で走ってみたくなる。とても、いい。
      (2011年04月16日「午前十時の映画祭」青シリーズ11本目、天神東宝6)



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林堂一『昆虫記』

2011-04-16 23:59:59 | 詩集
林堂一『昆虫記』(編集工房ノア、2011年04月01日発行)

 林堂一『昆虫記』は少し曲者である。
 林堂一『昆虫記』は文字通り「昆虫」を題材にして書かれた詩集である--と書こうとして、そのことに気がついた。
 たとえば巻頭の「尺取虫」。シャクトリムシは、まあ、ほかの青虫と同じように蝶か蛾になるのかもしれないが、私はそれを識別できない。シャクトリムシは見た記憶があるが、それが蝶か蛾になったのは、見たことがあるかどうかわからない。つまり、見ていても気がつかない。だから、「これがシャクトリムシが蝶(蛾)になった姿です」と何かを見せられたと、それを嘘だとも言えないし、そのとおり(ほんとう)だとも言えない。
 なんだかずるい(?)ことを林は書いている。
 わかったような(?)、わからないような(?)ことばに誘われて、それを読んだあと、さて、これは嘘? ほんとう? それがわからないなあ、と思うのである。
 (あ、ほんとうはこんな感想を書くつもりはなかったのだが、なぜかこんなことを書きはじめている。)

 で、その嘘かほうとうかわからないということが、おもしろいのでもある。
 「尺取虫」に戻る。その全行。

重力に逆らって
への字に背中を持ち上げる
全身に生じた応力を前方に逃がす
それが我輩
尺取虫の一歩前進である

 「重力に逆らって」の「重力」が傑作である。ほんとうに尺取虫は重力に逆らっているのかどうか知らないが--尺取虫が「重力」というようなことを知っているはずはない。これはあくまで林の「見立て」である。
 「への字」というのも「見立て」には違いないが、「重力」とは違ってそのまま目に見える。「背中」も見える。「持ち上げる」ときの様子も見える。
 でも、次はどうだろう。

全身に生じた応力を前方に逃がす

 「応力」というのも「見立て」だねえ。わけのわからない「見立て」だねえ。それを「前方に逃がす」というのも「見立て」なのだが、実際に前の方に押し出しているように見えるからなあ。
 どうもややこしい。
 「見立て」が2種類ある。
 単なる「比喩」が一方にある。「への字」のような「ことば」がある。「背中」のように具体的にそうとしかいえない「もの」を語る「ことば」は「比喩」によりそうようにして動いている。
 もう一方に「重力」とか「応力」とか、目には見えないけれど、「真実」を考えるときに必要な「ことば」(概念)がある。(物理学者は、「重力」「応力」を概念とは言わないだろうけれど……。)
 その二つが混じり合う。支え合う。
 そのとき、あ、たしかにそういう世界がある--と思うのだ。
 「重力」も「応力」も見たことなんかないのに、それがそこに具体的に存在していると思うのだ。
 「見立て」そのものが見えるように思えるのだ。

 これって、なんだろう。
 尺取虫(幼虫)が繭を経て蝶(蛾?)になる。その見たことのない蝶(蛾)を見るのとは、まったく逆(逆でいいのかな?)の方向にあるものが見えた気持ちになる。

 これは、なんといえばいいのかなあ。
 林は「昆虫」を書いてはいないのだ。ファーブルのように「昆虫」を観察しているわけではないのだ。そうではなくて、「昆虫」を見て、「昆虫」を書くふりをして、「見る」ということ(見立てる)ということ--そういう「人間」の精神を書いているのだ。
 林が「昆虫記」を書いているのではなく、昆虫が「人間記」を書いている。「昆虫」によって書かれた「人間記」という感じのものが、林のことばのなかにある。
 「蓑虫」は、そういうことばの運動がもっとも透明な形で結晶した作品といえるかもしれない。

存在理由を言われると
よわるんだ
そんなもんあるわけないよって
開き直るのは簡単だけれど
太陽がぎらぎら
たったそれだけの理由で
踏みつぶされても
文句は言えないし

しいて、
言えば、

きみに愛されている
それだけだよ
きみがいなくなったら
ぼくもいなくなっちゃう

わたしだってそうだわ
あなたが存在理由

茶柱の鎧に身をかためた蓑虫と
スエードのコートを着た蓑虫が
二疋
シャシャンボの枝にぶらさがって
きれぎれに
そんな会話をかわしている

風がかすかに来て
揺れて
存在理由がよろけて
もひとつの存在理由にちょっと触れた

 最終連は、昆虫である蓑虫--の描写ではなく、人間の、男と女の「腐れ縁」のようなあったかさがあるねえ。
 「存在理由」などという変な「見立て」--哲学というのかな? 思想というのかな?--そういうものを昆虫が(蓑虫が)くすくす笑っている感じがする。
 これはいいなあ。

 同人誌「乾河」で読んでいたときは気がつかなかったが、林のことばは不思議な「くすくす」を含んでいる。
 「くすくす」
 「おい、笑うな。笑うなんて失礼だぞ」
 「いえ、笑っていません(後ろむいて、くすくす)」
 という感じかなあ。
 随所に、とても静かな、しかし誰にもゆずることのない頑固な「批評」がひそんでいる。さりげないが、強いことばで構築された詩集である。

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ナボコフ『賜物』(42)

2011-04-16 23:14:20 | ナボコフ・賜物
  110ページから、ことばの調子が一気に変わる。主人公を含む3人が詩の朗読の会場を脱けだし、ストゥピシンは電車の停留所に向かい、ゴドゥノフとコンチェーエフは逆の方向に歩きはじめる。そして、すぐに別れが来る。ひとりは右にひとりは左に。

 二人は別れた。いやあ、なんていう風だ……。
 「……でも、待ってください。ちょっと待って。やっぱりお送りしますよ。あなたはきっと宵っぱりでしょうから、石畳の黒い魅惑についてぼくがお教えすることもないでしょうけれど。あの哀れな朗読を聴いていなかったんでしょ?」
「最初だけね、それもいいかげんに。とはいえ、あれがそれほどひどい代物だとはまったく思いませんよ」

 ここから二人の文学談議がはじまる。そのことばの動きが、とても速いのである。直前のコンチェーエフが「石畳の黒い魅惑について」というような、脇道へ逸脱していくことばとはまったく違ってくる。いや、さまざまなロシア文学のテキストをすばやく横断するのだが、そこには「逸脱」がない。「石畳の黒い魅惑について」というような「過剰なことば」がない。詩がない。かわりに、批評がある。
 この二人の対話に、私は、とても違和感を覚えた。
 そして、その違和感が、 120ページ、会話の最後でびっくりするような形で終わる。

「でも残念ですね、あなたと交わしたいと思っていたこのすばらしい会話を、誰にも聞いてもらえなかったなんて」
「だいじょうぶ、むだにはなりません。こんな風になって、むしろ嬉しいくらいです。ぼくたちは実際には最初の角で別れ、その後ぼくが一人で自分を相手に、文学的霊感の独習書に従って架空の対話を続けてきた--だからといって何なんです、そんなこと誰もきにしやしませんよ」

 二人の会話は会話ではなかったのである。ひとりで続けた対話なのである。だからどんなに対立してもそれは会話を加速するためのものである。
 これは、「会話」だけについていえることではないのだ。
 ナボコフはあらゆる描写を「ひとり」で繰り広げる対話の形で書いているのだ。「会話」の形をとっていないが、そこに書かれていることは「対話」なのだ。ことばと対象とナボコフの間を行き来している。人間が風景について語るだけではない。風景がナボコフの投げかけたことばに対してことばを返してくる--ということをナボコフは描写の中でおこなっているのである。
 架空の二人の対話において、どちらがどちらであるかは重要ではない。いれかわってもかまわない。同じように、ナボコフの情景描写においては、それが人間の側からおこなわれたものであるか、あるいは情景の方からおこなわれたものであるかは、どうでもいい。双方で対話がある--対話しながらことばが動いていくということが基本なのだ。
 ナボコフは、ここでは、彼自身のことばの運動の構造を教えてくれているのである。二人の対話がはじまる寸前、

「ぼくがお教えすることもないでしょうけれど」

 ということばがある。それはゴドゥノフに言っているのではなく、読者に対して言っているのだ。逆説的に、あらかじめ予告しているのである。
 ナボコフのことばには、ときどきこんな「予告」がある。そして、そういう「予告」からはじまる文章は、この作品の110 ページから 120ページまでがそうだが、それが終わるまでは途中で休むことができない。ナボコフの小説は、たいてい、どこから読んでもいい。どこでやめてもいい。けれど、ときどき途中で休めない部分がある。
 その部分というのは詩ではなく、いわば評論が主体になっている。




ディフェンス
ウラジーミル ナボコフ
河出書房新社
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