詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「川」

2011-04-15 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「川」(「明日の友」2011年春号)

 池井昌樹は最近ひらがなばかりの詩をたくさん書いている。「川」もタイトル以外はひらがなである。この詩にあわせる形で谷川俊太郎が、

ひらがなばかりで書かれいてると、表意文字の漢字と比べて意味が取りにくくなるので、自然にゆっくり繰り返して読むようになる、おかげで言葉の意味だけでなく、肌触りが感じられるようになります。文字にひそむ声が、日本語に内在する音楽が聞こえてくるのです。

 と書いている。
 谷川の書いていることと重なるが、重なりを承知で感想を書いてみる。まず、全行引用する。

そぼをなくしたよるのこと
ちちははとかわのじになり
ちちははのおもいがおもわれ
ぼくはこどもにもどっており
ぼくらのしたではおじさんや
おばさんたちがやすんでおり
そのひとたちもいなくなり
いつしかちちもいなくなり
いつでもそばにいてくれた
だれひとりもういなくなり
よるはすったりふけまさり
けれどこどもにもどったまんま
まだねむれないこのぼくは
おててつないでともいえず
おしっこゆきたいともいえず
しらないかわのどこかしら
なにをなくしたかもしらず

 2行目に出てくる「かわのじ」というのは「川の字」、比喩だね。わかりきったことだけれど、そう書かずにいられないのは、最後から2行目の「しらないかわのどこかしら」の「かわ」が「川の字」というときの「かわ」とは違っているからだ。ほんとうに、どこかの「かわ」なのだ。それは「川の字」の「川」にはなれない存在である。「川の字」の「川」はあくまで親子3人の並んで寝ている様子であり、そこには「水」など流れていない。でも最後から2行目の「かわ」には水が流れている。「川の字」、その「川」という比喩が、比喩ではない「かわ」になっている。
 いつ、どこで、どうして、なぜ?
 これは、わからない。

 1行目「そぼをなくしたよるのこと」から6行目「おばさんたちがやすんでおり」というのは、過去の1日のことである。親類が家に集まってきている。池井と両親は2階に寝ていて、親類は1階に寝ている。
 そのあと、時間が一気に飛躍する。7行目「そのひとたちもいなくなり」から10行目「だれひとりもういなくなり」は、祖母を夜から以後の日々のことである。「過去」の日から「いま」という日までの時間の経過と、その時間のなかで起きたことが書かれている。
 6行目と7行目には「断絶」がある。
 11行目「よるはすっかりふけまさり」から15行目までは「いま」が書かれている。そしてその「いま」から祖母が亡くなった日、その「過去」を思っている。過去には父と母がいて、「川の字」になって、池井といっしょに寝ている。そのことを池井ははっきり思い出すことができる。「いま」と「記憶の一瞬」がぴったり重なる。
  6行目と7行目のあいだにあった「断絶」、そして7行目から10行目までの「中間的過去」も消え去り、「いま」と祖母の亡くなった「よる」がぴったりかさなる。
 その重なりのなかで「川の字」になれない「かわ」そのものがなまなましくよみがえる。「川の字」になって池井は両親と寝たのではないのだ。「かわ」そのものになって、両親といっしょにいたのだ。
 「川の字」(漢字)ではなく「かわ」そのものになって、そこにいたのだ。
 でも、「かわ」って何? 「川」ではあらわせない「かわ」って何? 水がどこからともなくながれてきて--いや、どこからともではなく、遠いところから着実に流れつづけている。その流れの「いま」に池井はいる。いつでも「流れ」の「いま」にいる。
 その「かわ」が「どこ」にあるか、池井は知らない。どことは特定できない。「いま」、その「かわ」があるということはわかるが、それが「どこ」かわからない。どこかわからないというのは、別な言い方をすると「どこ」と特定しなくても、いつでも「ここ」であるからだ。それは「ここ」とは切り離せない「どこ」である。だから「どこ」とはいえないのだ。「ここ」としかいえないのだが、その「ここ」にある「かわ」は、池井以外の人間には見えない。「川なんて、ないじゃないか。布団があるだけの部屋じゃないか」とひとはいうだろう。客観的にはたしかにそうなのだが、池井の「主観」の「いま」「ここ」に「かわ」はあるのだ。「かわ」と呼ぶとき、「かわ」と声にするときに「肉体」にふれてくるすべてものがあるのだ。でも、それを客観的にいうことはできない。「意味」にして語ることはできない。
 ひとはいつでも、そういう「矛盾」に陥るものである。

 最終行。

なにをなくしたかもしらず

 ここにも語ることのできない「矛盾」がある。何をなくしたか、池井は知らないのではない。知っている。反語なのである。「君恋し」という歌のなかに「乱るるこころに/浮かぶは誰が影」という行があるが、「誰の影」であるか「わたし」にはわかりきっている。「君」以外のだれでもない。わかりきっているから、それを言わない。言うと悲しくて苦しくなるからである。それと似ている。何をなくしたか知っている。わかりきっている。「こころ」がではなく、「肉体」が知っている。それはことばにまだなっていないけれど、ことばにしなくても知っている。ことば--ことばであることを超越して、知っている。
 あえて言ってしまえば「かわ」をなくしたことを知っている。そして、「いま」「ここ」で池井は「かわ」を見つめている。なくしたけれど、あるもの。あるけれどもなくしたもの。それが「かわ」である。そこにはちちはは、そぼとつながる「かわ」を超越したものがある。そういうものに「かわ」という「音」をとおして池井はつながる。「川」という「漢字」ではなく「かわ」という「音」で。池井は、その「かわ」の「音」を聞いている。



池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
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シルヴァン・ショメ監督「イリュージョニスト」(★★)

2011-04-15 22:13:04 | 映画
監督 シルヴァン・ショメ 脚本 シルヴァン・ショメ、ジャック・タチ

 アニメと映画は違う--という当たり前のことをこのアニメは端的に教えてくれる。シンプルな映画は美しいが、シンプルなアニメは美しいとはかぎらない。
 ジャック・タチの映画のおもしろさは、シンプルさにつきる。ジャック・タチの表情はシンプルだし、肉体の動きもシンプルである。シンプルだけれど、そこにノイズが入る。ジャック・タチは、音楽の面から言った方がいいのかもしれないけれど、映画の中にノイズを巧みに取り入れている。日常のありふれたノイズを音楽にまで高めて取り入れているが、肉体の演技のなかでも、肉体のノイズを有効につかっている。この肉体のノイズはアニメでは不可能である。アニメは最初から何かが省略されている。ノイズが省略されている。役者が必然的に持っている「過去」というものを持っていない。いい意味でも悪い意味でも、アニメのキャラクターは抽象であり、創作物なのである。人間は(役者は)あくまで具体であり、拭っても拭っても拭いきれない「過去」の人生を持っている。アニメはどんなに精巧に描いても、この人間の持っているノイズを持ちきれない。どんなにがんばってみても人間の持っているノイズには追いつけない。
 これがたとえば人間ではなくロボットであったならノイズは有効である。たとえばピクシーの大傑作「ウォーリー」。最初の方にコウロギ(?)がウォーリーの体をはいまわるシーンがある。ウォーリーがくすぐったくて笑う。ロボットだからくすぐったいはずはないのだが、そのくすぐられて笑うということが人間の肉体の感覚とつながり、急にウォーリーが人間に見えてくる。くすぐられて笑うという「肉体」のどうしようもない生理反応のノイズが巧みに取り入れられている。先割れスプーンをフォークに分類すべきか、スプーンに分類すべきか悩んで、中間にあたらしい項目をつくるところなども、人間の頭脳のノイズをあらわしたものといえる。そういう「論理化されていない」何か、一種の反応としてのノイズの力というものが、この「イリュージョニスト」には欠落している。
 脱線ついでに書いておけば、シルヴァン・ショメの前作「ベルヴィル・ランデヴー」(★★★★★)にはいろいろなノイズがあった。たとえば少年の飼っている犬。おもちゃの列車に尻尾をひかれたことがトラウマになっていて、アパートのそばを列車が通るたびにほえる。たとえばニューヨークのカエルたち。3人しまいが爆弾をもってカエル取りにやってくると、大急ぎで逃げる。そんなところに「人間的ノイズ」があった。
 今回の映画には、そういう「人間的ノイズ」がない。「人間」が主役だからノイズを持ち込むことが難しい--というか、どうしても本物の人間のノイズには負けるので、持ち込めないのである。
 ノイズが持ち込めないかわりにだろうか、「音楽」が大量に持ち込まれる。これが、またまた、とてもつまらない。ジャック・タチの「音楽」はシンプルでノイズそのものが音楽だった。ボールペンをノックするカチッカチッという音、ジッパーをあけるときのジーッという音、車のホイールが道路にころがる音……。
 この映画でも、たとえばおんぼろアパートの水道のノイズが音楽のようにつかわれている。意味のわからない英語(主人公はフランス人という設定)の音がノイズの美しさとして表現されているが、そのノイズをかき消すようにして「音楽」(いわゆるバックグラウンドミュージック)が鳴り響くので、ノイズの美しい「つぶつぶ」の感じ、手触りが見えなくなってしまう。
 アニメではなく実写でつくりなおしてほしい。切実にそう思う。そうしないと、ジャック・タチに申し訳ない。主人公の体つきや顔をジャック・タチに似させればいいというものではない。

 (ついでに書いておくと。「わたしを離さないで」はアニメにした方が小説を超えたかもしれない。アニメの人物のもっているノイズのなさというものが、小説の描く抽象的な人間の苦悩に迫るだけではなく、それを超えることができたかもしれない。人間が演じてしまうと、役者自身の「過去(存在感)」が抽象性を奪ってしまう。人間(役者)のもっているノイズについて、「わたしを離さないで」の監督と、「イルージョニスト」の監督は、同じ勘違いをしているといえる。)

 文句ばっかり書いたので……。
 少しほめておくと、アニメの絵そのものはとてもすばらしい。私がこの映画をみた福岡のソラリア1はスクリーンが暗く(また音響も非常に悪く、ノイズが紛れ込む)、本来の色が出ているとは思えないが……。「ベルヴィル・ランデヴー」に通じるセピア色っぽい色彩計画がしっかりしている。街の風景や、カメラがぐるっとまわるような動きに思わず息をとめてしまう瞬間がある。人間造形よりも、時代がかわっていく瞬間の「街の風景(街の顔)」の方にアニメの力を注ぎすぎたのかもしれない。
                     (2011年04月15日、ソラリアシネマ1)


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誰も書かなかった西脇順三郎(208 )

2011-04-15 11:48:23 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「神々の黄昏」。
 西脇は、一般には漢字で書かれる固有名詞をカタカナで書く。知っているけれど、それに出会うと私は驚く。

六月も半ばをすぎると残忍なものだ
もろもろの神と英雄の影をつたつて
グンマの山の奥で一夜
すごさなければならない

 「グンマ」という表記は、ことばを「音」そのものに還してしまう。関東に住んでいるひとはそんなことはないだろうが、私のように関東から離れて住んでいると、埼玉、群馬、栃木のような内陸のごちゃごちゃとかたまった県はどこがどこかよくわからない。そのせいもあり、「グンマ」という表記は、ただ「音」だけをあらわす。どんな「図(地図)」とも重ならない。「視覚」とはまったく無縁のものとして、そこに浮かび上がってくる。もちろん「グンマ」が「群馬」であり、土地の場所をあらわしていることを知っているが、知っているからこそ、その「グンマ」という音が動くとき、いっそう、「場」(視覚)が消し去られたような印象を持つ。
 それは、そして1行目の、何やら「荒れ地」(エリオット)を思い起こさせることば--そして、ことばの「意味」を消し去る。あらゆることばに「意味」はあるだろうけれど、その意味を破壊して、ただ「音」がそこにある。その「破壊」のよろこびが、「グンマ」のなかにある。
 この「音」による「意味」の破壊は、

ノムーラはアリストテレスの修辞学の
講義を思い起し中途で消えた
クサーノは巴里かどこかへ旅立つた
イトーはサガミガワの上流へ
ロケに出てしまつた

 ひとの名前がただ「音」としてカタカナで書かれるとき、固有名詞は「過去」を失ってしまう。何かが動く--その「破壊」が、ことばの運動を軽くする。
 「意味」は常に破壊されなければならない。「意味」が破壊されるとき、そこに詩が生まれる。つまり、意味以前の、純粋、が噴き出してくる。

でもわれわれが人間の寂しきことを
嘆く瞬間が来た瞬間の連続は
永遠につづくが瞬間は女神にすぎない
太陽が亡びても時間と空間は残る
時間と空間という意識も死と共に
亡びるポポイーだがザマーミヤガレ

 この「ザマーミヤガレ」は、私には「音」そのものにはなりきれていない感じがする。(音楽、を感じることができない。)それでも、なんとか「意味」を破壊したいという西脇の欲望を感じる。
 そして。
 ちょっと不思議なことも思うのである。「ザマーミヤガレ」が単に乱暴の導入というよりも、前に出てくる「サガミガワ」と重なって聞こえる。
 そのせいもあって、「瞬間」とか「永遠」とか、いわば哲学的なことばの連続から、次のように急にことばが方向転換しても、違和感がない。妙になつかしい感じさえしてくるのである。

夢の中でウグイスがないている

 その夢の中は「イトー」が向かった「サガミガワの上流」と重なる。「ザマーミヤガレ」という「音」の力で。
 そこに西脇のことばの「音」のおもしろさがある。




詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)
新倉 俊一
みすず書房
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斎藤充江「重力探査」

2011-04-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤充江「重力探査」(「幻竜」13、2011年03月20日発行)

 斎藤充江「重力探査」は、二重の意味でおもしろい。
 ひとつは、何も書いていない。何も書いていないというと、語弊があるかもしれないが、何かが書いてあるという印象がない。そして、そこがおもしろい。

重たくて仕方が無い と
ずるずるとひきずって歩いている
この荷物は何だ
気がつくと わたしは久しい間
この荷物の虜になっている
いや
そんなことは無い ただ少し重いだけだ
だが
この頃は足も悪くなって平衡感覚も悪く
荷物の重さで景色が歪んで見える
少しの勾配にも疲れる
音も無く風が渡っている時間
薄い闇に取り囲まれて横たわっている刻
荷物はどっしりと
わたしの上に圧し掛かって 息苦しい

 ひとは、ここには重い荷物を引きずっている「わたし」が書かれている、というかもしれない。まあ、そうかもしれない。でも、その荷物って何? どんな形? どんな色? 何もわからない。だから、私は「何も書かれていない」と言うのである。
 では、それでもそれがおもしろい、というのは?
 4行目。「気がつくと」。これが私にはおもしろかった。重い荷物は存在しないのである。だから、書きようがない。どんな形? どんな色?と私は書いたが、そんな形や色などない。大きさもない。「気がつく」ということが「荷物」であり、それが「重い」のである。
 ここには「気がつく」ということが丁寧に書き直されている。気がつくということはどういうことかが、書かれている。

この頃は足も悪くなって平衡感覚も悪く
荷物の重さで景色が歪んで見える

 この2行が楽しい。楽しいというと、斎藤は困るかもしれないけれど。「気がつく」がどんどん「肉体」のなかで広がっていく。「気づく」は一か所(?)というか、ひとつのことでは終わらない。
 「重い荷物」はいっさい説明されないが、「足が悪くなって平衡感覚も悪く」という事情が説明される。斎藤が書いていることは「重さ」の説明ではないね。しかし、その重さが、たとえば 100キロと言われるよりも、不思議なことに「重さ」がつたわってくるねえ。「荷物の重さで景色が歪んで見える」へとことばが動いていくと、その「重さ」が何キロというのは関係がなくなる。1キロでも 100キロでも同じである。重さを感じること、重さに「気がつく」ことが、「肉体」へと広がり、そのとき「肉体」が感じることが「視覚」にはねかえってくる。
 ここがおもしろいし、こういうことが書かれているから、何も書かれていないのに、それがおもしろい。
 --言いなおすと。
 ここには「わたし」が引きずっている「荷物」の形も、重さも書かれていない。けれど、その「重い荷物」をもったときの感覚が書かれている。肉体の様子が書かれている。そして、その「重さ」を受け止めている「肉体」によって、視覚までもが影響を受けているということが書かれている。
 それが、わかる。だから、おもしろい。
 その荷物が 100キロか1キロか、50キロか。そんなことは、知りたくはないの。私は、知りたくはない。 100キロを重いと感じるひともいれば、軽いと感じるひともいる。おもしろいのは、その「感じ」なのである。
 感じというのは、ひとそれぞれによって違う。だから、それを書いたものは何であってもおもしろいのだ、きっと。
 斎藤の手柄(?)は「気がつくと」ということばを発見したことである。それを詩のなかに取り込んだことである。「気がつくと」は、ふつうは書かないかもしれない。けれども斎藤は書かずにはいられない。書いても書かなくても、詩の「意味・内容」(ここでいうと、「わたし」が「重い荷物」を引きずっているということ)がかわるわけではない。こういう無駄(?)なことばに、ひとの「思想」はあらわれる。

 「気づく」は2連目では、「気が付かない」という形出てくる。そして、ここに実は大きな問題が生まれる。

荷物は
変幻自在に大きさを変化させる
片手で下げて少し無様だが
自分で気が付かない時はよいのだが
突然
身動きが取れない重さになり
大きさになり見る間に
岩石のようになって
私の前に立ちはだかる

 このことばは1連目に比べると、私にはまったくおもしろくない。「肉体」がまったく出てく来ないからだと思う。「片手で下げて」と手は出てくるが、その片手への影響というか片手が感じることが書かれていない。
 なぜ、急にことばがこんなに変わってしまったのか。
 「気がつく」(1連目)と「気が付かない」(2連目)の違いが影響している。「気が付かない」をことばが通った瞬間、「気」と離れてしまったのだ。
 そして思うのだが、(ここの部分、ちょっと私のことばの運動の中で「飛躍」があるね。うまく書けない……)、このとき「気」とは「肉体」と同じものであると私は気がつく。
 「気が付かない」というとき、ことばは「気」といっしょにないだけではなく、「肉体」ともいっしょに存在しない。
 強引にことばを動かして書くと……。
 気が「ことばに」つかないとき、つまり、気が「ことば」の動かないところをさまよっているとき、肉体もまた「ことば」とは無関係なところを動いている。気が「ことばに」つかないというのと、肉体が「ことば」につかないというのは同じなのである。それは、ことばが「気に」つかない、ことばが「肉体」につかないというのとも同じである。
 こういうとき、ことばはでは「何に」ついているのか。私のいつものことばでいえば「頭に」ついている。「気が付かない」を通ったために、ことばが抽象的になり、おもしろくなくなるのだ。
 1連目と2連目の違いは、「気がつく」「気が付かない」だけではない。
 1連目は「少し重い」と書かれていた「荷物」が、2連目では「大きさ」に変わっている。「重さ」と大きさは違ったものである。同じ大きさでも重さが違うということはある。大きさが違ったからといって「重さ」が変わるということはない。もし大きさと「重さ」が比例するのなら、それは「荷物」の「質量」が同じ場合である。しかし、1連目で書いているのは「荷物」の「質量」そのものが変わるということだと思う。そしてその「質量」というのはあくまで「気」がとらえるものであって、科学的なものではない。「気がついた」ときに、「質量」が「重さ」となって「肉体」に影響を与えるのである。
 「大きさ」ももちろん「気」しだいで大きく見えたり小さく見えたりしないわけではないが、この2連目の「大きさ」と「重さ」を比例させる数学は、「肉体」ではなくあくまで「頭」の問題である。

 ことばは、「肉体」ではなく「頭」を通ると「思想」ではなくなる。

 ことばは、「肉体」ではなく「頭」を通ると、抽象的になり、「正確」になる。そして、私の考えでは「正確」というのは「思想」ではない。「思想」というのはいつでも「間違い」を含んでいる。間違えてしまうのが「思想」である。だからこそ、幾種類もあるのだ。さまざまなことばとなって動いているのだ。「比例」は絶対に入り込まないのだ。

 3連目。

たかが 一抱えの荷物ではないか
自在に大きさを変えたり
重さを変えたりするので
憂鬱にはなるが

 斎藤は大急ぎで「大きさ」と「重さ」を並列させているが、この軌道修正も「頭」による修正だ。そして、この軌道修正のとき、斎藤は「気」そのものを捨ててしまっている。「荷物」と「わたし」との間に「気」以外のものが入ってきて「気」を捨てるしかなくなっている。
 3連目の書き出し。

この荷物 押しつけられて持っているのか
誰かに頼まれて 預けられたまま
持たされているのか
荷物に何か魅力を感じて自からすすんで持ったのか
わすれてしまった

 「気(気持ち、と同じであるかどうか、ちょっと微妙だが)」もどこかへ去っていく--それを「わすれる」という動詞であらわせるかどうか、難しい問題だが、一般的には「気」が「わすれる」とは言わないように思う。「わすれる」のはあくまで「頭」である。そして、その「頭」に「誰か(他人)」が入ってきてしまうと、もう「荷物(の重さ)」は「わたし」だけの問題ではなくなる。
 だから、この詩は、とても変な感じで終わってしまう。

だれに頼まれて持たされたわけでもない荷物
だれにも拾われない荷物
拾った奴が たぶん困る荷物

 1連目。困っていたのは「わたし」。それがいつのまにか「拾った奴」(他人)が「困る」というふうにすり変わってしまう。
 「気が付かない」ということばを通ってしまったたために、ことばは、ここまで変わってしまう。
 ことばは、とても正直だと思う。正直に動くしかないのが、ことばの本質なのだと思う。
 なんだか、斎藤の作品に対する「感想」とは違うものを書いてしまったような気がするが。


 「正直に」告白すると、1連目には斎藤の実感が書かれている。それがとてもよく書けてしまったので2連目からは「頭」でことばをつないでいって完成した--というのが、この作品だと思う。実感(気)が、「頭」にわかってしまったために、ことばがかわってしまった、というのが私の感想なのである。「気(実感)」のことばと「頭」のことばは、まったく違うものだ、というのが私の感想である。
 そして私は、2、3連目のような、「頭」で整理し直したことばの運動はおもしろくないなあと思うのである。最初から最後まで「頭」で動かすことばは、それはそれで「頭」が「肉体」になっているからいいのだが。



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ナボコフ『賜物』(41)

2011-04-14 11:02:28 | ナボコフ・賜物

 そんな風にしてひと夏をだらだら過ごし、ざっと二ダースほどの詩を生み、育て、そして永遠に見限ってから、ある晴れた涼しい日、土曜日のことだったが(晩には集まりがあることになっていた)、彼は大事な買い物に出かけた。落葉は歩道の上に敷きつめられているわけではなく、干からびて反りかえり、葉の一枚一枚の下から青い影の角が突き出ていた。キャンディでできた窓のついたお菓子の小屋から、箒を持ち、清潔なエプロンを掛けた老婆が出てきた。彼女は小さな尖った顔と、並はずれてばかでかい足をしていた。そう、秋なんだ!
                                 (99ページ)

 私は、わざと長い引用をした。私が感動したのは「葉の一枚一枚の舌から青い影の角が突き出ていた。」という部分なのだが、その部分だけではなく、あえてその周辺を含めて引用した。そうしてみると、不思議な気持ちになる。
 ナボコフは、なぜこのことばを書いたのだろう。読ませたかったのか。隠したかったのか。
 「青い影」だけでもとても美しいが、「青い影」ではなく「青い影の角」。あ、葉っぱは尖ったているのだ。丸い部分もあるかもしれないが、尖った部分を持っている。それが「一枚一枚」の下から突き出している。この繊細な感覚が(描写が)、「そう、秋なんだ!」ということばに結びついていく。「ある晴れた涼しい日」と「青い影の角」と「秋」が結晶し、きらきら輝く。
 でも、そのまわりには、その透明さとは相いれないものがひしめきあっている。矛盾したものがひしめきあっている。キャンディでできた窓のついたお菓子の小屋(公衆トイレ)、清潔なエプロン、老婆、ばかでかい足。
 そういう「もの」だけではない。

 落葉は歩道の上に敷きつめられているわけではなく、

 ロシア語の原文がどうなっているのかわからないが、ここに日本語としてやくしゅつれれていることばがすべてロシア語でも書かれていると仮定すると。
 「歩道の上に」の「上に」がとても気になる。この「上に」は「葉の一枚一枚の下から」の「下から」と対応しているのだが、「上に」って必要? 「下に」敷きつめるということなどできない。「上に」敷きつめるしか、表現としては存在しない。それなのになぜ、「上に」?
 もしかすると、ナボコフは「青い影の角」ではなく、それを一枚一枚の葉の「下に」みつけたことを書きたかったのかもしれない。「下に」ということばを書きたかったのかもしれない。「青い影の角」は、それを引き出すためのものなのだ。

 --というのは、とても変な読み方である。

 わかっているのだが、気になるのだ。「涼しい」「青い影(の角)」「秋」という結晶の美しさ。それを読むだけのために私は何度もこのページを読むのだが、そのことについて書こうとすると「下から」ということば、「上に」ということばの対比(構造)が気になって仕方がないのだ。
 ナボコフはある情景をぱっと思い浮かべ、それをていねいに書き留めるのではなく(描写しているのではなく)、どんな情景もきちんと「構造」をつくりあげながら(意識しながら)、情景を創出しているのかもしれない。
 情景があり、それをことばが追いかけるのではなく、ことばを組み合わせることで情景をつくりだしているのかもしれない。





ナボコフ伝 ロシア時代(上)
B・ボイド
みすず書房
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白井知子「ハイデ・メンデ・ギヨナ さあ 駆け落ちしよう」

2011-04-13 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
白井知子「ハイデ・メンデ・ギヨナ さあ 駆け落ちしよう」(「幻竜」13、2011年03月20日発行)

 白井知子のことばは他人とぶつかる。他人というのは「知らないひと」のことである。「知らないひと」には「知らないこと」がある。
 「ハイデ・メンデ・ギヨナ さあ 駆け落ちしよう」はトルコの土産物店で少数民族について尋ねたことから書きはじめている。「どんな人たちなのかしら」。

その日の夕刻
旅のトルコ人の通訳                       
三十代とおもわれる大柄のドプラックさんと
カッパドキアの景観を見はるかし ベンチに腰掛けるよう促された

--この国は 表向きには
  少数民族の言語が自由になったみたいだけれど
  まだ タブー視されているところあるからね
  トルコ石の店での あなたの質問 ちょっと やばかったよ
--気づかなかったわ

 それからいろいろ事実が語れる。それはみんな「気づかなかったこと」である。こういうことに出会ったとき、ことばはどうなるか。「事実」としてそこの存在しはじめる。それは白石には動かすことができない。それをそのまま認めるしかない。
 これは当たり前といえば当たり前のことなのだけれど、多くの詩人のことばはたいてい白石のようには動かない。「事実」をそのまま「事実」として存在させるというよりは、自分の「肉体」をくぐらせ、自分の「肉体」になじんだ形にしてから「ことば」にしてしまう。感情や精神で、「汚して」そこに存在させる。白石はそうではなく、剥き出しのまま「事実」を存在させる。
 知らなかった(気づかなかった)こと--「事実」の前では、ひとは、どんな存在でもない。それを受け入れることからはじめるしかないのである。
 「気づかなかったわ」というのは何でもないことばだが、その何でもないと思われることをきちんとことばにすると、それに反応するように「他人」がそのまま動きだす。「気づかなかった」とき隠れていたひとたちが動きだす。
 白石は、そういうひとたちを確実に受け止める。
 そして、そこから白石の「肉体」が新しく動いていく。「他人」となって動いていく。白石は、「気づいた」他人を描写するのだが、そのとき白石は「他人」そのものになっている。
 この詩でいえば、白石は「気づかなかった」ことに気づき、その「事実」を受け止めることで、いわば「トルコ人」、しかも彼女が「気づかなかった」少数民族のトルコ人になって、生きはじめる。

しだいに酔いがまわり
昨日 訪れたエフェソス
ギリシャ人がエーゲ海沿いにつくった植民地
多産や狩り 月の女神 アルミテス崇拝で知られた地
劇場には二万数千人が収容されるほどだったらしい
どんな出し物があたりを響動ませたのかしら
風の慟哭
わたしは つよく誘われる
長方形の布を二つに折って
肩のところでブローチでとめ
ウェストを飾り紐で結んで 襞をツケルキトンに身をつつむ
さあ エフェソスの遺跡まで歩く

劇場では 仮面をはずした人たちが
七十の少数民族の言葉で詩を暗誦しているわ
聴衆は心刺されている
堅い岩の席はまだあいている
舌をぬかれていたような人々が生き生き
押し殺されていた言葉を てらうことなく暗誦していく
氾濫する風よ
せめて 輪唱せよ これらの言葉を
かろやかに すずやかに
呪縛からとかれ

 白石はトルコの少数民族に「なる」だけではなく、「風」にもなる。それは「ことば」そのものになるということである。詩になる、ということである。
 この強いことば、あたらしいことばに、解説(というか、私のくだらない「説明」)はいらない。ただ、読めばいい。
 そして、書き出しの、

カッパドキアに近いギョレメという街
日本語のうまい店員ぞろいの
いささか いかがわしい店で すったもんだのあげく
ごく小さなトルコ石の指輪を購入した

 という部分と比較すると、白石のことばのすごさがよくわかる。最初は、とてもつまらない(失礼!)散文である。改行をやめて、ただつづければ、どこにでもある旅行の「散文」である。中学生の「作文」のようでもある。このことばが、「他人」に出会い、かわっていく。「気づかなかったわ」ということばを挟んで激変し、ついには白石自身が「トルコの少数民族」になる。

トルコには 少数民族は存在するけれど いないことになっている

 「いないことになっている」はずの「他人」が「白石」として生きはじめる--白石がいないことになっている「少数民族」になって生きはじめる。そして、その「いないことになっている少数民族」と「少数民族になった白石」が出会うとき、その「いないことになっている」という「概念」が吹き飛び「いる」が「事実」になる。

 あ、これは私のことばには手に余る。とても書き切れない。私のことばは白石のことばを追いかける力を持っていいない。追いかけようとすると、どんどん引き離されるのを感じるだけである。
 「幻竜」で全行を読んでください。




秘の陸にて
白井 知子
思潮社
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大西若人「主役を演じるのは誰?」

2011-04-13 17:14:53 | その他(音楽、小説etc)
大西若人「主役を演じるのは誰?」(「朝日新聞」2011年04月13日夕刊)

 大西若人の文章には不思議な力がある。ほとんど「大西マジック」としかいいようがない。「主役を演じるのは誰?」はレンブラントの「アトリエの画家」について書いたものである。紙面の大半を占める絵を見る。中央の、カンバスの左側の強い光、強い反射光に目が行く――と同時に、大西の書いている文章の最後の方の文字が目に飛び込んでくる。

板絵の左端を一筋に輝かせるほどに、何もない空間からは光があふれ出している。

 あ、もう絵を見ている感覚がなくなる。大西の視線にのみこまれ、大西になって絵を見てしまう。そこから離れるのは、とても難しい。

 で、いつのながらの、意地悪な疑問がわいてしまう。「主役は誰?」 大西の文章? レンブラントの絵でなくていいの?
 うーん。
 しかし、大西の文章が好きだなあ。

 欲を言うと・・・。
 今回の文章は少しだけ変だった。新聞紙面の組み方の問題だが、段落ごとの空白が少なく、ぎっしり詰まっている。それが文章全体を窮屈に見せる。漢字とひらがなのバランスが美しいのが大西の文章の特徴だが、その特徴が生かされていない。大西以外のひとの視線(国立西洋美術館の幸福輝の意見)が挿入されていることも遠因かもしれないが。



 

もっと知りたいレンブラント―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
幸福 輝
東京美術
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マーク・ロマネク監督「わたしを離さないで」(★★)

2011-04-13 08:45:23 | 映画
監督 マーク・ロマネク 出演 キャリー・マリガン、アンドリュー・ガーフィールド、キーラ・ナイトレイ、シャーロット・ランプリング

 カズオ・イシグロの小説を読んでいないので原作との比較はできないが、この映画は映画と小説の違いを理解していない。
 私はストーリーを気にして映画を見たことはないが、この映画のストーリーを簡単に言うと臓器移植のドナーとして生まれてきたひとの短い生涯と恋愛を描いている。このドナーとして生まれてきた人間というのは小説では可能な「表現」であるが、映画では無理である。そんな人間は、この世界には存在しない。映画にはもちろんこの世界に存在しないものもたくさん登場する。「エイリアン」はその典型だが、それは「人間ではない」ということを前提としている。非・存在だが、非・人間だから、存在するとしても「抽象的存在」ではない。ところが、ドナーとして生まれてきた人間というのは、どこまでいっても「抽象的存在」である。「意味」でしかない。小説は、そういう「意味」を「ことば」として表現できる。けれど、映画は無理である。
 なぜ、無理か。
 映画は「ことば」ではなく、俳優が動くからである。俳優の「肉体」がそこにあるからである。
 映画に則していうと、この作品の中ではドナーたちの感情(魂、こころ)の有無が重要なテーマである。ドナーたちに魂はあるか。こういう抽象的なテーマは「ことば」の上でなら、どんなふうにでも動かしうる。
 ところが映画は無理である。「魂」は「肉体」ではなく、いわば抽象的なものだから、映像化されることはないのだが(映画では、芸術にあらわれるものとして表現されるけれど……)、その抽象化のまえに、私たちは役者の肉体を見てしまう。肉体にはどうしてもその「過去」があらわれてしまう。役者の「肉体」は役者の「過去」をどうしても表現してしまう。そしてそこには、どうしても「魂(感情、こころ)」があらわれてしまう。
 「魂」があるかないか、ではなく、スクリーンに映った瞬間から、そこには「魂」が存在してしまう。感情が、こころが、存在してしまう。「ことば」で何も語らなくても、「肉体」が「魂(こころ)」の叫びをあらわしてしまう。
 だいたい役者という存在が、ことばをつかわずに「過去」と「感情」を語ってしまうものなのである。ことばをつかわずに、その「人間」にリアリティーを与える役者がいい役者である。存在感のある役者である。
 映画館で観客は、ドナーという「抽象的存在」(架空の存在)がすでに魂を持っているのを見てしまう。そのあとで、ドナーたちに魂はあるのか、ドナーたちの魂は切り捨てられてしまっていいのか、という「小説のテーマ」をぶつけられても、なぜ、そんなに遅くなってからそんなことが問題になる? そんな疑問にとらわれる。ばかばかしくて、あきれかえってしまう。魂は、最初から役者によってドナーたちに与えられている。
 この映画は、映画として根本的に間違っている。映画にならないことを映画にしている。小説の場合は、どんなに具体的に描写されても、それは「ことば」のまま。その「ことば」は読者の想像力の中で初めて「肉体」をもった人間として動く。だから、「魂」の問題も読者が想像力のなかに「魂」の問題をもちこまないかぎり存在しない。その点が映画とは完全に違うのだ。
 もし「魂」あるいは「感情」を表現しない役者がいたなら、そういう役者によってこの映画はつくられるべきだ。そうすれば小説に匹敵する作品になるかもしれない。でも、そんなことは最初からできるはずがない。
 特に、キャリー・マリガンは完璧に「魂」をもった「肉体」として映画にデビューしてきている。キャリー・マリガンには存在感がある。「過去」がある。それをキャリー・マリガンの「肉体」は最初から具現している。そういう役者が、ドナーに「魂」はあるか、それはどのように救済されるべきかというテーマを演じても、それって、おかいしいでしょ? 前提が完全に間違っているでしょ?

 このテーマを「未来」のこととしてではなく、「近過去」を舞台にして描いている点(小説もそうなのかな?)、美しいイギリスの風景(映像がすばらしい)、そしてイギリス特有の「個人主義」(他人のプライバシーは、その人が語らないかぎり存在しないという感覚)、そのなかで形成されていく「肉体」の奥深さ、--おもしろい要素が完璧に描かれれば描かれるほど、こんなふうに「人生」を描かないでくれよ、といいたくなる。
 キャリー・マリガンは今回もとてもすばらしく、彼女がすばらしければすばらしいほど、あ、この映画は、でも絶対に小説のことばの美しさには追いつけないのだということがはっきりわかるのだ。
 もし幸運にも、この映画がカズオ・イシグロの小説を原作としているということ(小説がすでに存在すること)を知らずにこの映画を見たなら、それはそれで感動するかもしれない。キャリー・マリガンの哀しみに、こころを揺さぶられるかもしれない。でも、たとえその小説を読んでいなくても、小説があるということを知っていたら、そして小説のことばというものがどんなふうに動くものであるかを知っていたら、この映画はとんでもない間違いをしていることに絶対に気がつく。
 映画にはむかない小説(ことばの運動)というものがあるのだ。そういう意味では、カズオ・イシグロの小説は小説でしかありえない何事か実現しているのだから、大傑作ということになる。小説を読んではいないのだが、映画を見て、あ、この小説はすごい--と実感できる。小説のすごさを知らせるためにつくられた映画ということになるかもしれない。
                      (2011年04月12日、KBCシネマ2)


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里中智沙「被爆のマリア」「美しい夏」

2011-04-12 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
里中智沙「被爆のマリア」「美しい夏」(「獅子座」17、2011年03月20日発行)

 里中智沙「被爆のマリア」は長崎・浦上天主堂のマリア像のことである。原爆で破壊された。その痕跡が顔にくっきりと刻印されている。

わたしはもう
目は 捨てた。
ぽっかりと空いた ふたつの虚(うろ)
を こわごわと見てないで
指を入れてみなさい。
だれか
このふたつの闇に
手を突っ込んでみなさい。

 「わたし」は「被爆のマリア」である。里中自身のことではない。マリアに触れて、その衝撃で里中は一瞬、里中が里中であることを忘れてしまった。マリアに引きこまれ、マリアの「声」になってしまったのだ。
 そこから、ことばが自然に動いている。
 実際に、その失われた目のなかに指を入れたひとはいないだろう。手を入れたひとはいないだろう。
 それでも、そこに書いてあることが、瞬間的につたわってくる。
 きっと誰にでも、何があるかわからない「穴」に手をいれるときの「こわごわ」とした体験があるからだろう。見ているだけでもこわい。手を入れるのはなおこわい。そんな記憶がよみがえるからだろう。
 それはマリアの声ではなく、だれもが体験したことがある「肉体」の声なのだ。「肉体」を呼び覚ます声なのだ。
 それにしても、「指を入れてみなさい」「手を突っ込んでみなさい」とは強烈である。誰も書かなかったことばである。きっと、マリアの悲惨さに触れ、その傷ついた「肉体」の内部に触れることは、マリアの尊厳をおかすような気持ちになるからだろう。
 けれど、マリアが知ってもらいたいのは、ひとがおそれていること--恐怖で遠ざけている「苦悩」そのものなのだ。それは「見る」だけではだめなのだ。「聞く」だけではだめなのだ。「見る」も「聞く」も対象と自分とのあいだに「距離」がある。そういう「距離」を超えて、対象に触れなければならない。
 触れる。触れることが恐怖なのは、触れることで自分の「肉体」が直に影響を受けるからである。
 だが、直に影響を受けなければ、ほんとうは知ったことにはならないのだ。
 この声を経由するから、次に書かれることが切実になる。

それはひきこまれ
たちまち焼け焦げ焼け落ちるだろう
(私の右の頬のように)
そこはあの日の浦上
炎(ひ)は まだ燃えているのだよ
にんげんも 燃えているのだよ
燃えて燃えて
せいかじゅうに飛び火して
にんげんたちは
熱い闇の中を
漂っているのだよ
             (谷内注 炎を里中は「火」を三つ重ねて書いている)

 触れることで、影響を受ける。影響は、そこにとどまらない。なにかに触れた影響は、つづいていく。広がっていく。
 「肉体」の、そして「触覚」の本質を描いている。


 「美しい夏」はただひとりの、里中の「肉体」を丁寧に描いている。

しばらくおいて溶けてから食べてください
と言われて 凍ったシュークリームを買った
コーヒーを淹れ 洋梨を切り
シュークリームの袋はしだいに水滴で覆われ
でも完全に溶けてはいなかったのか
甘いつめたい塊が喉の奥に落ちていった
ふるふる震えながらゆっくりと
そのとき
わたしのからだのくらがりに立ちなずんでいた夏を
いっしゅんの花火のように照らしたのだった
つめたいものは身体を冷やすから
冷えるものはよくないからと
アイスティーもアイスコーヒーもアイスクリームも
取らなかった夏

 「肉体」の事情でつめたいものを取ることができなかった夏。それをいま、「肉体」にいれてみると、そのときの記憶が反作用のようによみがえる。「花火のように照らした」という比喩が美しい。この花火は大きな打ち上げ花火ではないだろう。手元で小さく弾ける線香花火だろう。
 マリア像の「指を入れてみなさい」と同じように、瞬間的に、ひきこまれる。
 ここにも、「触れる」ということばはないのだが「触覚」が書かれている。「甘いつめたい塊が喉の奥に落ちていった」の「つめたい」。それは「触れる」ことで知る感覚である。そのあとの「ふるふる震える」「ゆっくり」も触覚--なにかに直に触れることで感じることである。
 触れること--直に接すること。そのことが人間を目覚めさせる。





手童(たわらは)のごと
里中 智沙
ミッドナイトプレス
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 誰も書かなかった西脇順三郎(207 )

2011-04-12 11:55:50 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。さらに「哀」について。

岩かどに咲くすみれの汁は
女の旅人の日記を暗くしている
野原も見えなくなつた

 どうしてこんなことばが出てくるのかわからない。たとえば「岩かど」。普通は「岩陰」と言わないだろうか。「岩陰に咲く」というのは、必ずしも「陰」とはかぎらないだろうけれど、岩のそばである。「岩かど」「岩かげ」は1字違いなのだけれど、「かど」の方が荒々しい。「文学」から逸脱している。この場合「文学」というのは、いままでの「文学」の定型(常套句)ということだけれど。
 そうなのだ。
 西脇は、文学の「常套句」を破る。そこに乱調が生まれる。そして、乱調から「もの」が生まれる。「岩かげ」では「岩」そものもが見えて来ない。「岩かげ」というすでに「文学」になってしまった「ことば」が見えるだけである。その「こば」を破り、「もの」に返す。そういう野蛮な(?)運動が西脇のことばの基本である。
 「すみれの汁」というのは、すみれをつぶしたときに出てくる「汁」だろうけれど、これも強烈である。「汁」ということば単独ですみれと結びつけることは、ふつうはしないだろう。すみれを間違ってふんでしまったら、そこに小さな染みができた--涙のような染みができた、というのが「文学」であった。西脇は、そういう「文学」をひっくりかえすのである。「もの」によって。「もの」そのものの「音」によって。
 こういう「破壊」があるから、「女の旅人の日記を暗くしている」というセンチメンタルもの何か新しいもののように響いてくる。
 そして、唐突に、「野原も見えなくなつた」と視界の広さを変えてしまう。「センチメタル」というのは「岩陰(これは、わざと書いているのです)」とか「すみれ」とか「汁」、あるいは「日記」「暗く」というような、なんだか視界が限定されたところで動く。「狭い場」を繊細に動いて、その「狭さ」のなかに繊細な形を浮かび上がらせることが多い。
 それを「野原」という広いもので、西脇は一気に破壊する。

麦畑の方からいかずちのきらめきが
盃に落ちて酒はあけぼのの海となる

 書いてあることは(ことばは)みんな知っている。わからないことばはない。けれど、そのことばの組み合わせ方ひとつひとつが微妙に変である。「岩かど」のように、わかるけれど、そうはいわないのでは……でも、西脇の書いていることばの方が強烈だなあ、と思わせることばである。
 いかずち(大)→きらめき(小)→盃(小)→海(大)
 この書かれたことばのもっている「大・小」の印象の変化がおもしろいのかもしれない。大きいものが砕けて小さくなり、その小さいものが小さいものと重なって、突然大きなものになる。
 そこには、何か、うまくいうことができないが「破壊」がある。秩序の「破壊」がある。「乱調」がある。
 この乱れと、ことばそのもののの「音」の変化がとても美しい。
 私は音読をしないが、音読をしないからかもしれないのだが、西脇のことばの「音」には、破壊と乱調と、その乱調のあとの「沈黙」の透明な音楽がある。
 そして、その透明な音楽を受け止めるようにして、世界が、また一瞬のうちにかわる。
明日もまた雨がふるだろう

 この変化によって、さっきの透明な音楽が、汚れから回避される。どんなに美しいものでも、西脇は「一瞬」しか、それに時間を割かない。美しい一瞬に溺れてしまわない。溺れそうになったら、それをさらに破壊する--そうすることで、「純潔」を保つのである。いさぎよいのである。

アスガルの岡にくぼむ石の髄まで滴る
こわれた泥ベイの中で種まきの話をして
いてもきこえないポポイ
桃の花が咲いても見えないポポイ
明日もまただれか眼鏡をかけて
カメラをもつた男が君をよこぎるだろう

 「意味」はなるのか、ないのか。まあ、関係ないなあ。「音」が、もう「音」だけで動いていく。「泥塀」を「泥ベイ」と書くと「ポポイ」になぜかつながる。それはたしかギリシャ語の「感嘆符」のようなものだと思うが、それが「悲しい」感嘆であっても、「楽しい」感嘆になってしまう。「泥ベイ」の「泥」、その「俗」というか、華麗ではないもの、華奢ではないもの、むしろ荒々しく自然なものの「素朴」な力がとてもいいのだ。
 西脇は、こういう「俗」というか、地についたことばを、美しい「音」にかえる天才だと思う。西脇によって、「文学」から見捨てられたことばが、しずかな「場」を生きていたことばが、一気によみがえる。




西脇順三郎全詩引喩集成
新倉 俊一
筑摩書房



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現代詩講座1

2011-04-12 10:23:26 | 現代詩講座
(2011年04月11日の講座内容の概略です。)

 こんにちは。谷内修三です。「現代詩講座」の講師をさせていただきます。
 テーマは、詩は気障な嘘つき。
 詩というと、ほんとうのことを書きましょう、思っていることを書きましょう、ということになるのだけれど、私は逆に考えています。
 どんどん嘘をつきましょう。

 たとえば……。私は、現代詩界のジョージ・クルーニー、です。目が大きくて、髪が黒くて、背が高い。
 というのは冗談だけれど(半分本気)だけれど、嘘というのはとても難しい。
 私が嘘が難しいというのは、嘘はばれるから--という理由からではありません。嘘は、つきつづけられない。嘘はどうしてもほんとうのことを言ってしまうからです。たとえば、私は目が大きい方です。髪は、白髪まじりだけれど、黒ですね。背も高い方です。嘘をついたつもりが、どこかで「ほんとう」が出てくる。嘘は、つけないのです。
 これが、私が考えていることです。どんなに嘘をついてもほんとうのことを言ってしまうのが人間。だから、気障に嘘をついて、ほんとうのことをちょっとかっこよくしてみよう。かっこいいことばで言ってみよう。おもしろいことばで言ってみよう。書いてみよう、というのが私の講座の内容です。

 1回目なので、昨年発行された詩集のなかで、私がいちばんおもしろいと思った詩集について語らせてください。和田まさ子『わたしの好きな日』(思潮社、2010年10月25日発行)。コピーの1枚目の作品です。何年か前に「現代詩手帖」の投稿欄(新人作品蘭)にのった作品です。



あいさつに行ったのに
先生は
いなかった

出てきた女性は
「先生はいま 壺におなりです」
というのだ
「昨日は 石におなりでした」
ははあ 壺か
「お会いしたいですね せっかくですから」

わたしは地味な益子焼の壺を想像したが
見せられたのは有田焼の壺であった
先生は楽しい気分なのだろう

先生は無口だった
やはり壺だから

わたしは近況を報告した
わたしは香港に行った
わたしはマンゴーが好きになった
わたしはポトスを育てている
わたしは
とつづけていいかけると
「それまで」
と壺がいった
聞いていたらしい

「模様がきれいですね」というと
「ホッホッ」と先生が笑った
わたしは壺の横にすわった
だんだん壺になっていくようだ
わたしもきれいな模様がほしいと思った

アパートほうれん荘
二階三〇一号室に帰ると部屋に壺があった
それはわたし?

たとえばこんな一日が
わたしの好きな一日だ

 わかることろと、わからないところがあります。最初の三行は普通のことを書いているから、わかりますね。
 2連目は変ですねえ。「先生はいま 壺におなりです」。これは、嘘ですね。先生は人間であって、人間は壺になんかはなりません。和田まさ子は嘘をついています。私がジョージ・クルーニーと言ったのと同じです。
 でも、そこには、たとえばどんな「ほんとう」が書いてあるのかな?
 「壺」とわからないけれど、「昨日は 石におなりでした」はなんとなくわかるような気がしますね。不機嫌で、硬く口を閉ざしている。そんなことを「石におなりでした」と言ったのかもしれない。「石のように口を閉ざす、黙り込む」--こういう文章をどこかで読んだり、聞いたりしたことがあるでしょ? また「石頭」という言い方もありますね。何か、融通がきかない、頑固な状態。昨日は、先生は、そういう状態だったというのかもしれません。
 何か少しわかったような気持ちになりますね。
 「壺」は「石」に比べると、どうかなあ。中が空洞ですね。中に何かが入っていますね。石よりは、ましかなあ。
 それで、
 「お会いしたいですね せっかくですから」と私は(和田まさ子かな?)は女性に答える。この「お会いしたいですね せっかくですから」というのは、だれかを訪問して行ったけれど、相手の都合がよくない。けれど、「せっかくだから」と一押しする感じですね。
 訪問したひとが病気だとか、寝ているとか、そういうときも「顔だけでもみたいですね せっかくですから」というのに似ています。ここにも、何か「ほんとう」がありますね。先生は壺になった--という嘘を書いているのだけれど、「ほんとう」が紛れ込んでいる。そして、そこに和田の普通のときの「生き方」がにじんでいる。
 そのあとは、また、嘘がつづく。

わたしは地味な益子焼の壺を想像したが
見せられたのは有田焼の壺であった
先生は楽しい気分なのだろう

 そして、次に「ほんとう」がやってくる。

先生は無口だった
やはり壺だから

 これは、先生が口をきかない、すねて(?)黙っているということを言い換えたのかもしれない。比喩ですね。でも「壺だから/無口」、口をきかない、というのは「無口」ごだからというのを別にすれば「ほんとう」が含まれています。壺はしゃべりません。これは「ほんとう」です。

 訪問して言った先生が、石のようにからは少しはまともになっているけれど、やっぱりすねて(?)、黙りこくっている。
 それで、「わたし(和田)」は、せっかくだから、近況報告をする。おしゃべりをする。そのおしゃべりが、だんだん調子付いてくる。その調子付いてくる。
 そうすると、先生が、うるさいと思ったのか「それまで」と突然、声を出す。
 これ、おかしいですね。
 でも、こういうこと、よくありますね。
 たとえば、家でつれあいとけんかする。黙りこくる。「もう口をきかない」。そのひとことをいいことに、あれこれしゃべりまくる。悪口でもいいんだけれど、ばかばかしいだじゃれなんかもおもしろいかな。で、笑いだしそうになって、「口をきかない」といったはずの相手が「それまで」といったりとか……。
 そういうことってあるでしょ?
 ほら、やっぱり「ほんとう」がでてきてしまうんですねえ。

 それとは、別に、私は、

わたしはポトスを育てている

 という行がとてもおもしろいと思った。私はもともとカタカナがとても苦手で、正しく読めない。「ポトス」というのはどうも植物らしいのだけれど、私はこれを「トポス」と読んでしまった。ギリシャ語で「場」という意味です。
 気障でしょ? こういうことをいうのは。ちょっと教養があるところもみせたいなあ、と思って、私はわざとこんなことを言っているんだけれど……。
 で、さっき、調子にのってどんどん話をする、というふうにいったのだけれど、この「ポトス」が「トポス」なら、その調子付いたことがもってとわかるかな。植物なら育てられるけれど「トポス」(場)は育てられない。でも、ギリシャ哲学の「内容」を育てる--深めるということなら、できないことはない。黙っているのをいいことに、知ったかぶりをする。それに対して、先生が、
 「そこまで」という。
 あ、こういうこともよくあるでしょ。調子付いて騒いでいると「そこまで」と先生にしかられたことってありません?
 嘘はつきつづけられない。どうしてもほんとうがのぞいてしまう。
 これがおもしろいと、私は思う。

「模様がきれいですね」というと
「ホッホッ」と先生が笑った
わたしは壺の横にすわった
だんだん壺になっていくようだ
わたしもきれいな模様がほしいと思った

 ほめられて「ホッホッ」と笑う。そういう人間の反応も「ほんとう」ですね。そしてそれが「わっはっはっ」ではなく「ホッホッ」というのもリアリティがあるでしょ? 先生の説明は全然出てこないのだけれど、この「ホッホッ」だけで、あ、おかまっぽい先生なんだなあ。笑うとき、口に手を当てたりするんだろうなあ、と思ったりする。
 ここにも「ほんとう」がありますね。私たちが普通に見ている「人間」のほんとうの姿がある。
 こういうことが、とてもおもしろい。

 最後の2連は、なんだろう。「ほうれん荘」というだじゃれがあるけれど、これは嘘だろうなあ。
 わからない。
 わからないことろは、私は気にしないのです。わからなくてもいい。そのうちわかるかもしれないし、永遠にわからないかもしれない。こんなことは詩なので、いいかげんでいいのです。
 気に入ったところをみつけ、ここがおもしろい、これをいつかちょっとまねして言ってみよう。そうすると、みんなどんな顔をするかな、そういう感じで詩を読んでいけたら、とてもおもしろいと思う。 

 それから追加。
 もうひとつ。さっき私は「わたしはポトスを育てている」という行から「トポス」を育てる、というふうに間違って読んだということを書いたのだけれど。
 ことばは読み間違いのほかに、解釈のまちがいというのもありますね。「ふるさと」。♪うさぎおいしかのやま、こぶなつりしかのかわ……。この「うさぎおいし」を「うさぎおいしい」と思って歌ったことはありませんか? うさぎを追いかけた--がほんとうの意味なのだけれど、それを「おいしい」ととんでもない意味に理解してしまう。思い込んでしまう。
 これは間違いなんだけれど、その間違いのなかには「ほんとう」があります。
 うさぎを食べたら、おいしいかもしれない。欲望ですね。うさぎを食べたい。これは、私たちの年代になると、とちょっと切実です。昔は食べ物がなかった。肉なんてめったにないから、肉が食べてみたい。うさぎならおいしいかもしれない。うさぎを食べたことがないのに「うさぎおいしい」と思ってしまう。
 嘘がどうしても「ほんとう」を含んでしまうのと同じように、間違いも「ほんとう」を含んでしまう。
 嘘をついたり、間違いをしたりするのは、どこかで「ほんとう」とつながることなのです。ほんとうのことや、正しいことを書くのは難しいけれど、嘘や間違いを書くと、そこから「ほんとう」があらわれてくる、と思うと、ちょっとおもしろいかなあ、と思う。

 そういうことを、この講座をとおして、みなさんといっしょに楽しみたいと思っています。



  このあと、質疑応答?(雑談、ですね。)

 そのなかで、私が非常にびっくりしたことがあった。私はこの詩の「先生」を男だと思って読んでいたが、女だと思ったひとがおよそ半分いた。私は、「出てきた女性は」という2連目の1行目で、出てこないひとは反対のひと、女ではなく男と読んだのだが……。
 谷内「なぜ女性?」
 受講生1「壺って丸くって、曲線が女のひとを思わせる」
 受講生2「地味な益子焼なら男だろうけれど、有田焼は美しいだから女性」
 受講生3「ホッホッという笑い方が女っぽい」
 受講生4「壺の隣に身を寄せて座っている。先生が男なら隣には座らない」
 受講生5「ポトスを育てているとか、身近なことを話している。男にはそんな話をしない」
 あまりにびっくりして、私と同じように「先生」を男と思った人の「理由」を聞き忘れてしまった。(聞いたけれど、忘れてしまった。)

 また、前記の「講座内容」では言わなかったことも書いてあるのだが、「ほうれん荘」のくだりについて、「ここには漫画の影響がある」という指摘があった。何人かが同じ意見だった。「まかろにほうれんそう」(?)という漫画があるらしい。
 和田まさ子のポップなことばの感じ全体にも、漫画の影響が感じられるということであった。

 「ポトス」については、「ポスト」と読み間違えた、というひともいた。(私も、以前このブログに感想を書いたとき「ポスト」と読み間違えた、と書いている。今回、「トポス」と読み間違えたと書いたのは、今回たしかにそう読み間違えたのだけれど、きっと何かかっこいいことを言わなければ、という気持ちもあって、そんなふうになったのだと思う。読む度に違っていくのが詩である、とも思った。)

(このあと、北川透の作品も2篇読み、感想を語り合ったが省略。ここでも、とても鋭い「読み」が次々にでてきて、私は「講師」というより「生徒」という感じだった。)



 よみうりFBS文化センター「現代詩講座」は次の要領で開催してます。受講生を募集中です。
テーマは、

詩は気取った嘘つきです。いつもとは違うことばを使い、だれも知らない「新しい私」になって、友達をだましてみましょう。

現代詩の実作と鑑賞をとおして講座を進めて行きます。
1回目は「鑑賞」だったので、2回目は「実作と批評(鑑賞)」。受講生の作品を読み、感想を語り合います。
交互に繰り返します。

受講日 第2、4月曜日(月2回)
    13時-14時30分(1 時間30分)
受講料 3か月全納・消費税込み
    1万1340円(1か月あたり3780円)
    維持費630円(1か月あたり 210円)
開 場 読売福岡ビル9階会議室
    (福岡市中央区赤坂1、地下鉄赤坂駅2番出口から徒歩3分)

申し込み・問い合わせ
    よみうりFBS文化センター
    (福 岡)TEL092-715-4338
         FAX092-715-6079
    (北九州)TEL093-511-6555
         FAX093-541-6556
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北川透「破魔矢的体験 六片」

2011-04-11 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「破魔矢的体験 六片」(「耳空」5、2011年03月25日発行)

 北川透「破魔矢的体験 六片」はタイトルを読んでも何のことかわからない。詩を読んでも何のことかわからない。たとえば、「ミノタウロス」。

なぜ かよわいこころは
牡牛の太い首を振るのか

むしろ人であることを捨てよ 擬態にめざめよ
さすれば ラビュリントスの檻は壊れるだろう

おまえのひずめの割れる夕陽の陶酔を恥じるな
おまえの背柱のくるう夜明けの錯乱を詫びるな

かよわいこころは なぜ
ふたつの角を生やすのか

 「ミノタウロス」。ギリシャ神話の頭が牛、体が人間の獣人。私はギリシャ神話よりもピカソの絵の方でなじんでいる。その獣人を書いていることはわかるが、それ以外の何がわかるか--そこにどんな「意味」があるか、と聞かれたら、何もわからない。
 わからないのだけれど、それではおもしろくないかと言われれば、そんなことはない。読み通してしまうし、あ、この詩について書きたいなあとも思うのである。
 北川は、ここでは「定型」をこころみている。定型(2行ずつ同じ長さ、見かけの長さの行を繰り返す)のなかで、ことばがどんなふうに動くか。
 おもしろいのは、2連目。ここには「擬態にめざめよ」という、それこそ「意味」だらけのことばがあり、「さすれば ラビュリントスの檻は壊れるだろう」という、さらに一歩進んだ(?)「意味」へと動いていき、ギリシャ神話のストーリーとも重複するのだが--私がおもしろいと思うのは、2行目。「さすれば」。「そうすれば」ではなく、「さすれば」。これは2行の長さをそろえるために「さすれば」になっているのだが、2行の長さを同じにするだけなら「そうすればラビュリントスの檻は壊れるだろう」と1字空きを省略すればいい。また「そうすれば ラビュリントスの檻は壊れるはず」でもいい。「意味」は変わらないだろう。しかし、「意味」がかわらないからといって、ことばをかえてもいいというわけではない。ことばをかえると、違ってくるものがあるのだ。ことばをつかう意識がかわってくる。
 北川の場合、激変する。
 「さすれば」。副詞。いまは、まあ、つかわないね。古語だね。
 このいまはつかわないことば--わざと、いまはつかわないことばをつかった瞬間に、ことばが加速する。それが3連目。
 何が書いてあるか、その「意味」はどうでもいいけれど(あ、北川さん、ごめんなさい。北川さんには北川さんなりの「意味」があるのかもしれないけれど)、「夕陽の陶酔を恥じるな」「夜明けの錯乱を詫びるな」。かっこいいねえ。音がかっこいいねえ。
 さらに、「夕陽の錯乱を恥じるな」「夜明けの陶酔を詫びるな」「夕陽の錯乱を詫びるな」「夜明けの陶酔を恥じるな」と、ことばを入れ換えても行の長さはかわらないから、「定型」という点からいえば、どちらも同じになるのだが、でも、北川は「夕陽の陶酔を恥じるな」「夜明けの錯乱を詫びるな」と書く。そして、私は、北川が書いていることばがいちばんよくわかる。いや、いちばんかっこよく感じられる。
 なぜ?
 きっと「夕陽の陶酔」「夜明けの錯乱」ということばには、ここには書かれていない(説明されていない)「肉体」があるのである。北川がこれまでことばを読んで、書いて、声に出すということを繰り返すなかで知らず知らずに「肉体」にしみこんだことばの脈絡がある。このことばとこのことばは相性(?)がいいけれど、このことばとこのことばは相性が悪くて、うまく動いてくれない--という感覚がある。
 ひとは、そういうものを無意識に選んでしまう。
 それが「無意識」であるから、私はそれを「思想」と呼ぶ。
 そして、こういう「無意識」を動かすものを「文体」と呼ぶ。
 さらに、「肉体」と呼ぶ。
 「思想」「肉体」「文体」というのは、違ったことばであり、それぞれにきちんと定義しないといけないのかもしれないけれど、私は何かを読み、それについて何かを語るとき、それは「ごちゃまぜ」になる。区別できない何かが、その三つを貫いている。そして、その三つを貫く何かと触れあうことばに出会ったら、それを「かっこいい」と感じ、それが好きになる。
 そのとき「音」が重要な部分を占めている--というようなことを、私は感じている。
 あ、北川の作品からどんどんずれていく。
 北川の作品に戻る。

 3連目の「かっこいい」2行。そこに飛躍する前に「さすれば」という、いつもはつかわない古語がある。古語の、いまはつかわない音、響きが、北川の肉体に作用して、北川の肉体の奥底から、かっこいいことばを噴出させるのだ。
 ふいの刺激に、北川の「肉体」(過去の、ことばの記憶--それまでに触れてきたことばの無数のうごめき)が瞬間的に反応するのだ。
 これは、私の感覚では、制御できないものである。「こんなふうに書きたい」と意識してコントロールできない。それは突然やってくる。だから、詩なのである。北川の「内部」からでてきたことばだけれど、それは制御できないがゆえに「北川以外の何ものか(他者)」でもある。その「他者」を北川はことばにすることで、もう一度「内部」へとりこんでしまう。「肉体」にしてしまう。
 この瞬間的な早業--だから、ねえ、それが「かっこいい」。かっこよく、見える。

 この3連目では、2行目の「くるう」もおもしろい。「狂う」と書いても「意味」は同じ。でも「くるう」と書く。それは行の長さをそろえるためのひとつの工夫にすぎないのかもしれないけれど、この「くるう」を読むと、「狂う」ではない「味」がある。
 「狂う」に比べると「くるう」は、音がゆっくりする。じわりと「肉体」が動く感じがする。急激な動きをではなく、ゆっくり、抑えた感じ。
 それは「夕陽の陶酔を恥じるな」「夜明けの錯乱を詫びるな」という高速のことばとは対照的である。そして、対照的であるがゆえに、そのふたつのことばが引き立つ。「狂う」と書いてしまうと、スピードが加速し、「夜明けの錯乱を詫びるな」ではちょっと物足りなくなる。
 と、私は思う。
 と、私は思う--としか書けないのだが、その「思う」のなかで、私は北川に触れるのである。
 そして、北川の「文体」の強固さ、頑丈さ、さらに自然さを感じるのである。
 どんなときでも、私は「意味」ではなく、「文体」を読んでいるのだと思う。



 「破魔矢」「誘惑」はひらがなだけで書かれた「定型詩」。「破魔矢」には「はっはっはとてとてちてた」(最終行)のように谷川俊太郎を引用したことばがある。ことばは、いつでも引用されるものなのだ。引用し、ねじまげて(「誤読」して、と強引に言ってしまおうかな)、そこから動きはじめるものなのだ。--ということは、さておいて。
 「誘惑」の方が私にはおもしろかった。

わがたまをきみにあずけて
あさやけにあかくただれた

いのちなんかおしくはないぜ
せんじょうにふたりでいれば

すべてのしいかよあけまで
かりそめのただのたまねぎ

みみからちぶさからでべそへ
こいするぶんたいもえつきて

いとしのローリエのかおり
どれいのみあしそっとかむ

 「音」が楽しい。「意味」は考えない。「かりそめのただのたまねぎ」ってなんだかわからないけれど、まんなかの「ただの」が聞いているねえ。「たまねぎ」へ楽々と動いていく。「かりそめ」は4連目の「こいする」につながり、それは5連目の「いとしのエリー」じゃなかった「ローリエ」へともつながっていのだけれど、そういうつながりを破って「でべそ」が出でくるのもいいなあ。「みみからちぶさ」へと誘っておいてさあ。こういう「意地悪」って好きだなあ。
 それから最終連。「いとしのエリー」のことを少し書いたけれど……。最終行。「どれいのみあしそっとかむ」のなにか「どれみ(ふぁ)そ(ら)し」が隠れているのがとってもうれしい。
 私はすごい音痴で歌うことはないのだけれど、ことばは「音」だと思うなあ。「思想」は「音」のなかにあるなあ、と思うなあ。


わがブーメラン乱帰線
北川 透
思潮社
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 誰も書かなかった西脇順三郎(206 )

2011-04-11 11:20:44 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。
 西脇の詩について書いていると、もう書くことはないのかもしれないという気持ちになる。それなのに、まだまだ書き足りないという気持ちにもなる。同じことを繰り返しているのだが、何度でも同じことを繰り返したくなる。別なことばで言いなおすと、書くことで「結論」へ向けて進んでいくために書いているのではなく、私はただ思っていることを書いておきたいのである。私自身のために、ではない。誰のために、というのでもない。ただ書きたい。
 「哀」について。
 これから書くことはこれまで書いてきたことの繰り返しである。繰り返しだけれど、少し違うかもしれない。

あの旅人の袖をぬらした
人類の哀史は
あおざめた手帳にぼけている

 ここに書いてあることの「意味」はなんとなくわかる。旅人がいる。旅人は泣いた(袖をぬらした)。それは人類の哀史に触れたからである。そのことは手帳に書いてある。でも、その手帳の文字は(あるいは手帳に書いてある論理は)、ぼけている(少しあいまいである)--くらいのことだと思う。
 だいたいそういうことだと思うのだが、そうはっきりとは思うわけでもない。
 なぜだろう。
 西脇のことばは「論理的」(散文的)ではなく、論理を突き破りながら動いているからである。余分なものがある。たとえば、私は先に3行の「意味」(私の理解している範囲)を書くときに、3行目の「あおざめた」ということばを省略した。この「あおざめた」を私は仮に「余分なもの」と定義したのだが……。
 「あおざめた」に意味があるかもしれない。ないかもしれない。どっちでもいい--というと西脇ファンや、西脇研究者に叱られるかもしれないのだが。
 それがたとえ重要な「意味」をになっているのものだとしても、そしてそれをだれかが説明してくれたとしても、きっと「余分なもの」と感じると思う。「あおざめた」が重要だとしたら、今度は「袖をぬらした」というようなことばがきっと「余分なもの」と感じるだろうと思う。「泣いた」と書けばいいだけのこと、「涙を流した」と書けばいいだけのことを、わざわざ「袖をぬらした」ともってまわって書いていることが「余分」に感じると思う。
 いま、私は「もってまわって」と書いたが、西脇のことばは、「余分なもの」を経巡って動く。脇道にそれながら動く。いま流の言い方をするなら「逸脱」しながら動く。そして、その「逸脱する」ことが、刺激的なのだ。
 すっきりと「論理的」ではない、ということろが刺激的なのだ。
 詩は、「論理的」とは対極的なところにあるのだろう。

 で。
 その「論理的」ではないことばというか、「逸脱する」ことば。たとえば3行目の「あおざめた」はなぜ「あおざめた」なのか。「蒼白な」でなはく、あるいは「たそがれ色の」でもなく、「涙で汚れた女の頬の」ではないのか。なぜ、西脇は「あおざめた」ということばを選んだのか。
 こいうとき、私は「音」が絡んでくると思うのだ。その「音」がどこからか響いていくる。西脇はそれを書き留める。その「音」が、私は、とても好きなのだ。
 私のまったくの個人的な「耳」の事情なのかもしれていけれど、「あおざめた」は「あの旅人の袖をぬらした」という1行目ととてもよく響きあう。「あ」で始まり「た」で終わる1行目と「あおざめた」が響きあう。もっといえば1行目は「あおざめた」ということばのなかに凝縮して再現される感じがする。
 ことばの論理の上からは「逸脱」する。けれど「音」としては「収斂」というか、「結晶」化する。
 --まあ、こんなことは、屁理屈だね。どうでもいい。

 つづく3行。

近代人の憂愁は
論理の豊満からくるのか
古代人の隔世遺伝である

 これは、近代人の憂愁は論理的でありすぎる(豊満している)ことが原因である。それは古代人からの「隔世遺伝」である。つまり、中世のひと、「暗黒の時代」のひとは、論理にしばられることがないから、「憂愁」を知らない? 詩、だから、まあ、「意味」は適当に考えておくが、ここでは、私は「隔世遺伝」ということばにとてもひかれる。
 「かくせーいでん」という「音」が気持ちがいいのである。「ゆうしゅ」の暗さを破る「ほうまん」という「音」、「ほーまん」と「かくせーいでん」。「音」をのばすことろと、最後が「ん」で終わるところが、なんともいえず気持ちがいい。
 そして、「隔世遺伝」ということば、どこかでつかってみたい、という気持ちになる。西脇のことばは、いつでも、あ、このことばつかってみたい。盗んでしまいたい、という気持ちにさせる。「好き」という気持ちにさせられる。
 ぐいっと、そんなふうに引っ張られて……。あれっ。

断崖にぶらさがるたのしみが
毎夜来る残忍な夢の恐怖になるだけだ

 「古代人の隔世遺伝である」は、もしかすると「断崖にぶらさがるたのしみ」を修飾する1行?

あの旅人の袖をぬらした
人類の哀史は
あおざめた手帳にぼけている
近代人の憂愁は
論理の豊満からくるのか
古代人の隔世遺伝である
断崖にぶらさがるたのしみが
毎夜来る残忍な夢の恐怖になるだけだ

 ここに「論理」があると仮定して--どのことばがどのことばを修飾している? どれが主語? わかる?
 私にはわからない。わからないのだけれど、じゃあ、わからないから「嫌い」かというと、そうではない。わからないけれど、なんだかおもしろい。「好き」。
 このとき、私が「好き」と思ういちばんの理由は「音」なのだ。
 「毎夜来る残忍な夢の恐怖になるだけだ」の「なるだけだ」という「音」さえ、あ、ここがいいなあ、と思ってしまうのだ。




詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)
新倉 俊一
みすず書房



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渡辺玄英「紙の星が頭上に輝いて」

2011-04-10 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
渡辺玄英「紙の星が頭上に輝いて」(「耳空」5、2011年03月25日発行)

 「文体」の問題はとても難しい。難しいけれど、簡単でもある。人がわかるのは(読者がわかるのは)、と一般化してしまうと間違いが大きくなるが、私個人に限定して言えば、とても簡単なことでもある。そこに書かれている「内容(意味)」はちんぷんかんぷんでも「文体」はわかる--というか、「わかる」部分を私は「文体」と考えるのである。--というのは抽象的過ぎて、何のことかわからないと思うので……。
 たとえば渡辺玄英「紙の星が頭上に輝いて」。

紙の星が頭上に輝いて
エンゼルさまの御光は希望を与えて(くれます
ピアニカの音色
こんにちは この世の苦しみと喜びはわたしくの手を引いて(くれます
ニセの浮力が作用して目がくらみます
くれますは悩みも発見もない道を歩いていく(のでした
まぶしいほどの歓喜の声に包まれて
春の日差しに溶ける雪な(のでした
すべてがたちどころに分かってしまうと
行き場所はどこにもない(のでした

 「(くれます」「(のでした」という変な表記がある。学校教科書の作文では、かっこはどんなものであれ、始まりと終わりがあるのだが、渡辺の表記には「終わり」がない。渡辺はこの表記にも何かしらの「内容(意味)」を込めているのだろうけれど、こういうわからないことは、私は考えない。わかることだけを考える。
 何がわかるか--「(くれます」「(のでした」を繰り返して、渡辺はリズムをつくっているということがわかる。「リズム」(音)を力にしてことばを動かしていることがわかる。声に出すかどうかは別にして、渡辺は、リズムを(ノリを--と言った方が現代的?)大切にしている。「文体」の基本にしている。
 そして、この「(くれます」「(のでした」は、他の部分に比べると「内容(意味)」がない。単なる「述語」である。「主語」を限定しない「述語」である。「主語」を限定しないから、何を書いてもいいのだ。何が起きてもいいのだ。どんなことでも引き受け動いていくのが「主語」を限定しない「述語」の強みである。

くれますは悩みも発見もない道を歩いていく(のでした

 という行が象徴的だが、「主語」を限定しない「述語」は、悩みも発見もなく、ただ先へ先へと進む。ノリノリにノッて、先へ進む。その止まることを拒んだことばのスピード、疾走感を大切にしたことばの運動--それを押し進めていく。これが渡辺の「文体」である。
 そして、それが「文体」であるなら、それは「思想」でもある。
 どこへ突き進んだってかまわない。ことばがどこへ行こうとかまわない。動いて動いて動いて行って、いままでの「文体」ではありえないことばにまでたどりつければ、それでいいのだ。
 詩は、つづく。

のでしたはどーして季節外れの蝉のように泣いているのか
木漏れ日のなかで。蝉だな、蝉。
これで行き止まり、だから
エンゼルさまが宇宙のどこかで燃えている恒星だとしますと
ちいさな衛星は塵芥のようにムスーにあって誰もかえりみない
ちきうはここでホラ行き止まり
木漏れ日のぬくもりのなかで
これ以上の進化はありえないから
(蝉は何を泣いているの(飴色の翅をふるわせて
これは希望でしょ悲しいでしょ

 「ムスー」とか「ちきう」とか、変な表記があって(変ではあるけれど、声--音にすれば、「意味」がわかるような音があって)、「ホラ行き止まり」とつながると、その「ホラ」は私には「ほら話」の「ほら」に聞こえてしまう。
 ことばなんて、詩なんて「ほら話」なのである。
 ことばが動いて、その瞬間が楽しければそれでいいのである。その動いて行った先がどうなろうと知ったことではない。どこへ行くかは「文体」だけが知っている。それについていくだけなのである。
 で、

木漏れ日のぬくもりのなかで

 という屁のような1行越えて、「(蝉は何を泣いているの(飴色の翅をふるわせて」という、気持ちの悪くなるようなセンチメンタルを踏み潰して、

これは希望でしょ悲しいでしょ

 ほら(ほら話じゃないよ)、わからないものにつきあたったでしょ?
 「希望」が「悲しい」と同居するなんて、学校の教科書には出てこないねえ。希望は喜びであるのが「教科書」。でも、渡辺のことばは、無責任なノリの果てに、その矛盾にぶつかるのだが。
 その瞬間。
 あ、渡辺の書きたいのは、これなんだ、とわかる。それが--つまりわかることが、渡辺の「罠」だとしても、あ、わかった、という気持ちにさせられる。
 希望は喜びではない、希望は悲しいものである--そう思える瞬間がたしかにある。
 話が(論理が)跳びすぎるかもしれないが、今回の東北大震災。その被災者が語る「希望(あるいは、よろこび)」はとても悲しい。たとえば被災者の方々が、おにぎりや温かいみそ汁にであって「ありがとう」と語るとき、食べられること、食べることで生きる希望ができたことへ「ありがとう」と感謝のことばを語るとき、私は悲しくなる。えっ、たったそれだけのことで「ありがとう」と言わないでよ、もっともっと要求してくれよ、と祈ってしまう。私は実際におにぎりやみそ汁をとどけるわけではないのだが、私(たち)にできることって、それだけでいいの? 違うんじゃない? もっともっと、怒りを込めて助けを求めるのが人間なんじゃないだろうか--そう思い悲しくなる。
 私が書いていることは、かなり論理がごちゃまぜになっているのだが、そういう「ごちゃまぜ」のことば、「未整理のことば」でしか語れないものがいつでも、どこにでもある。矛盾したことばが、かならず、人間が生きている「場」では噴出してくる。
 渡辺の「ノリ」のいいことば、「無意味」な「音」を繰り返すことばは、疾走の果てに、そういうものをつかむ。つかむまで、そしてつかんでからも、さらに走る。そこに、私は渡辺という人間を、つまり「思想」と「肉体」を見ている。



けるけるとケータイが鳴く
渡辺 玄英
思潮社



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高塚謙太郎「日本鰐文学大全拾遺」、望月遊馬「(着ぐるみの時間)」ほか

2011-04-09 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
高塚謙太郎「日本鰐文学大全拾遺」、望月遊馬「(着ぐるみの時間)」ほか(「サクラコいずビューティフルと愉快な仲間たち」2、2011年03月20日発行)

 高塚謙太郎「日本鰐文学大全拾遺」は「鰐」を主人公にして、既成の文学を書き直している。

 吾輩は鰐である。名前はまだない。どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。なぜなら皆河から一歩も出たことがなかったのだから。死もまたひとつの誕生であった。名前はそのつど呼びなおされ、その血が名前の振りをし始めるだろう。これは予想されてもいい。鰐である。名前はまだない、という自同律の不快の真逆のごとき、或いはまた更なる真逆のごとき寂しさに、季節は緩慢に、極彩色の井戸となって暗渠の枠を越えて繰り返す、吾輩は鰐、鰐として吾輩、井戸の底からこんにちは。

 こうした作品を読むと「文体」を引き継ぐというのはなかなか難しいものだと思う。「意味」を受け継ぐのは簡単であるとは言わないけれど、まあ、なんとか引き継げるものだと思う。けれど、「文体」というのは、よほどその作家に耽溺してしまわないと身につかない。その作家の「文体」になってしまって、そこから逸脱していく--猫から鰐へと逸脱していくとき、「文体」が変わる。その濃密な「恋愛感情」のようなもの、あるいは愛憎入り乱れた感情のもつれみたいなものが出てくるとおもしろいのだけれど、こういうことは短い文章では難しい。
 映画「川の底からこんにちは」を私は見逃しているのでなんとも言えないのだが、石井裕也の映像文体(?)は、漱石と文体とどんな関係があるのだろうか。そのことを織り込まないと、猫を鰐にかえて、瓶を井戸にかえただけになってしまわないか。



 望月遊馬「(着ぐるみの時間)」の書き出し。

着ぐるみに対して無自覚になれるようなテーマパークの日常では、水としての青と独白の紙があり「親子の時間(ツユクサ)頬骨のあたりに、指をあてて、大きなからだと小さなからだが対峙していた。

 書かれている「内容(意味)」がすっとわかる部分と、これは何を言っているのかなあ、と考え込む部分がある。「頬骨のあたり」以後は、「親子」が自分の頬に指をあてるような、いかにも、あ、親子という同じ形(肉体のコピー)をして向き合っているらしい様子が浮かぶ。そうすると、その前の「水としての青と独白の紙があり」というのは、もしかすると写生のための絵の具(水彩絵の具)と画用紙のこと? テーマパークで親子写生大会が開かれている描写? まあ、全体の「内容(意味)」は詩だからいいかんげんな感じでつたわればそれでいいのであるから(勝手に「誤読」するのは読者の権利なのだから)、私は、ふーん、と思って読む。
 で、私がおもしろいと思うのは、私の「誤読」にしたがって書くのだけれど、「わかること」(分かりや丁文体)とわからないこと(わかりにくい文体--むりやり私が「誤読」によってねじ曲げて読んでしまうしかない文体)が、あらわれたり消えたりすることである。
 そして、その亀裂に、何か強烈なものが噴出してくる瞬間がある。

アサガオの葉の青と赤の色をした帽子のツバが、首のむこうのに投げだされた、瞬間の滞空時間に眼をひらいて、手をのばした景色の先で、震えている、ような瓦解した(タオルで汗をふいて眼を細める)渦の虹の七色がマフラーを編んでいく、スコップでの作業が数時間もつづいて、筋肉痛になりかけていたが、(トマトが食べたい)

 「瞬間の滞空時間に眼をひらいて、」が、その強烈な「もの」である。「ことば」なのだが「もの」のように、文章に侵入してきている。
 ふと何かを見つめ、そこに何かを発見する(美、かもしれないし、感動、かもしれない)。その視線の動きを「滞空時間」と呼んでいる。視線は「滞空時間」を「漂う」のではなく、貫いて動く。さらに「眼をひらいて」みつめるだけではなく、その「眼」から「手」が伸びていく。視線は「手」になって、「滞空時間」をつかむのである。
 こんなことは、まあ、実際の肉体はできないね。
 けれど、ことばを潜り抜けた「肉体」はそういうことができる。
 できるのだけれど、こういう無理(?)というか、過激なこと、--まだだれもしていないこと、望月が初めてしたことをしてしまうと、それまでの「文体」がくずれてしまう。いままでと同じ「文体」では世界が維持できなくなる。
 だから、

景色の先で、震えている、ような瓦解した(タオルで汗をふいて眼を細める)渦の虹の七色がマフラーを編んでいく、

 ひとつひとつのことばはわかるけれど、つなげてしまうと何のこと? わからないよ。としか、いいようのないことばがあらわれる。「震えている、ような瓦解した」の読点「、」のあいまいさ(とは言っても望月にはわかりきっていることなので、説明できないこと)、さらにかっこで補足されることばがあって、さらに「渦の虹」という、何がなんだか見当のつかないものが出てくる。
 わけがわからないのだけれど、その直前に「瞬間の滞空時間に眼をひらいて」という強烈なことばがあるので、ああ、こうなるしかないのだな、と納得できる。
 ことばが「肉体」をもってしまって(というのは、ちょっと変な言い方になってしまうが)、その「肉体」のなかに、未生のことばがあふれてくる。「文体」におさまりきれないことばが次々に動きだして「文体(肉体)」を破って動きはじめる。
 そういうことを感じる。



 榎本櫻湖「陰茎するアイデンティファイ--あらゆる文字のための一幕のパントマイム--」。タイトルに端的にあらわれているが榎本は「文字」が好きなのである。「ことば」は「音」と「文字」によってあらわすことができるが、榎本は「文字」を優先させる。

《記号と非記号のはざまで割れる柘榴、よりも》

 この書き出しの行からさえも、榎本の「文字」に対しする偏愛がうかがえる。「文字」をとおしてなら、ここに書かれていることは理解できるが、これを「音」として聞いたなら、私は何を聞いたのかきっとわからない。「ひ・きごう」というような「口語」を私はもたない。(私はそういうことばを言った記憶がない。)「記号」と「記号ではないもの」となら言えるが「非記号」では舌が回らない。聞いたことがない音は言えない。聞いたことがある音さえ再現できないのだから、聞いたことのない音は再現のしようがない。けれど、眼の力はちょっと違っていて「非」という文字を何度も見ていて覚えているので「非・記号」を瞬間的に理解してしまう。
 「柘榴」も同じである。この文脈で「ざくろ」という音を聞いて、「柘榴」を思い浮かべられるひとは何人いるだろう。いま、なんて言った? びっくりしてしまうだけである。混乱するだけである。
 けれども、眼は混乱しないのである。
 榎本は、この「眼の力」を利用して、ことばを書いている。ことばを動かして書いている。
 

……蠢動と顫動のさなかに滴る蜜月の、海洋へととめどなく流れゆく吐血による櫛水母の残骸を集め、瀕死の刺胞生物から他の刺胞生物へと伝達される、ありうべき脱臼、

 ここに書かれていることも、「音」として最初にであったなら、何のことかさっぱりわからない。「しゅんどう」「せんどう」--こんなめんどうくさいことばを区別してつかうな、と私の「耳」は言う。けれど「眼」は瞬間的に「蠢動」と「顫動」を見わけ、同時にそれが「動」ということばで統一されていることを知る。この「統一」(合体?)から「滴る蜜月」ということばが導き出されてくるのも「眼」は予感できる。「ハネムーン」ではなく「蜜月」であるというのも「眼」にはやさしい。これが「ハネムーン」だと、「蠢動」「顫動」がうまく結合しない。結合した瞬間に、分離してしまう。粘着力がなくなる。
 榎本の「文体」は粘着力を特徴としているが、その粘着力は「文字」によるものである。「音」では粘着しすぎていて、わけがわからなくなる。
 この詩(?)が「パントマイム」向けの台本というのも、「文字」偏愛と関係がある。「文字」偏愛は、「視覚」偏愛でもある。「パントマイム」は「音」をもたない。音がなく、「肉体」の動き--目で見えるものが「ことば」を語るのである。
 この詩がパントマイムで表現できるかどうかはわからないけれど、「視覚」偏愛という榎本の「肉体」から言えば、どうしてもそうなる。
 また、私のように「耳」が悪いけれど「耳」でしか理解できない人間には、この詩が朗読の形(音のある形)で表現されてもわかるはずがないから、まあ、パントマイムの方がわかりやすいかもしれないと思う。



さよならニッポン
高塚 謙太郎
思潮社

キョンシー電影大全集 -キョンシー映画作品集-
田中 克典,望月 遊馬,長田 良輔
パレード
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