詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『海の古文書』(7)

2011-06-22 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(7)(思潮社、2011年06月15日発行)

 「五章 スケルツォ 狂女の日記風に」。この章では、私は二つのことを書きたい。深津のことはどこかで緊密につながっているのだが、そのつながりをうまくことばにできそうにないので、とりえあず別々に書いてみる。

 まず、一点目。
 ここに書かれているのは、確かに「日記」なのかもしれない。日付がある。ただし、その日付は肝心の部分が伏せ字である。

二〇〇×年×月×日

 で始まり、その日付は「×+1(あるいは2)日」という具合には動いて行かない。ふつうに考えれば「×日」の次の日記は「×+1日」ということになるが、そうではないかもしれない。「×-1日」があってはいけないということはないだろう。

 私が考えたのは、こういうことである。
 私たちが「過去」を語る時、その「過去」とはほんとうの「過去」ではなく「いま/ここ」から呼び出した「過去」である。当然、その「過去」に関することばには、「過去→いま」という時間のなかでおきたことが反映している。どんな「過去」でも「いま/ここ」で書く「過去」は、あくまで「いま」から見た「過去」である。
 「いま」を書く時はどうだろうか。「いま」を書く時も、やはり「過去」は影響してくる。「いま」は単独で「いま」があるのではなく、「過去」からつづいているもの、「過去」から断絶したものがあって「いま」である。その連続と断絶を具体的に書こうとすれば、どうしても「過去」についても書かなければならない。
 「日記」は「その日」の出来事、その日の思いを書くものであるけれど、どうしてもそこには「過去」が影響している。「その日」というものはない。だから「×月×日」に書いたとしても、それが「×日」だけのこととは限らないし、次の日に書いたことがそのまま次の日のことであるとは限らない。
 人間の時間は、「物理」の時間とは違って、何か別のものを引きずっている。

 でも、その別のものって、何?

 北川は「それ故に……。」とすべての「日記」の書き出しをはじめているが、人間が引きずっているものは、たぶん、その「それ故」なのだ。
 「それ故」って何? 「それ」は何を指している?
 あ、これは面倒くさいね。説明ができないね。うまく「過去」(それに「先行する」何か)を、ことばにできないこともある。何かことばにならないまま、「過去」を引きずる--そういうことの方が多いのだ。あるいは、あらゆることが「それ故」になりうるといった方がいいかもしれない。
 「×月×日」というのは、「きょう」であっても、「過去」を引きずってしまっているのだ。

 それ故に……。それ故さんたちが、不意にこの貧しいマンションのワンルームに押し寄せてきた。それ故さんの代表のそれ故氏は、素っ裸のまま、直立不動の姿勢で敬礼した。(略)……それ故氏は、空中に突き出した、かちかちのダダダダウンコにすがりつき、掻き毟り、興奮のあまり、黒い毛を逆立てて震わせて、遂にその場に倒れてしまった。その衝撃で、毛の生えた埴輪のようなそれ故氏の身体には、無数の罅が入り、欠けて歪んで一層複雑に単純化した穴から、ぼろぼろと干からびたミミズや丸虫、小石や使い古されたことばの破片が、ごちゃまぜになって、こぼれ落ちたのだった。それ故に、それ故氏は、この上もなく痛ましかった。それ故に、もっと痛ましかったのは、それ故氏の背後に詰めかけていたそれ故軍団が、それ故氏をたすけ、介護するどころか、代表を見捨てて、一斉に逃散してしまったことだ。それ故に、死語のゴミと化したそれ故氏を、早く片づけるように、これからわたしは管理人に伝えに行かなければならないのだ。

 「使い古されたことば」「死語のゴミ」。「それ故氏」(あるいは、それ故、という表現がもたらすもの)を特徴づけるのは、「古い」「死」であるだろう。「過去」は「古い」であり、「死」なのだ。それは、いつでも「いま」を追いかけてくる。

 次の「×月×日」の日記。

 それ故に……。わたしにその予感があった。それ故に……。それ故氏とその一党が押し寄せてくる前に、あの擂鉢状の地勢の中に造成された団地から、ひそかに脱出し、このワンルームマンションに移ったのだった。あいつらが、それ故に……を連発し、私の正体を暴きたてないではいられないからだ。

 「過去」があるから、過去を振り切るために引っ越した。「過去」のことを「ゆれ故軍団」は「正体」と定義している。「正体」と定義する、つまり「過去」こそが「真実」であるという主張のもとに「過去」はいつでも、「いま」を追いかけてくる。「いま」を突き破って「過去」を噴出させようとする。生き返らせようとする。過去はけっして遠ざからない。そして、過去が接近することで、逆に「未来」が「いま」から遠ざかるということが起きてしまう。「いま」が「未来」へ向かう運動が邪魔されてしまう。
 矛盾が起きてしまう。
 「いま」は「未来」へ向かっているはずなのに、接近してくるのは「過去」である。そして、その「接近」の方法が「それ故」なのだ。「理由」(論理)なのだ。その論理、その論理のことばは、古い、もはや死語であるけれど、追いかけることをやめない。
 
 息絶え絶えになるまで、わたしの逃亡の責任を追及しまくるやつら。でも、わたしは、何時だって、わたしからもっとも遠い誰かだから、おまえは過激なカラスだっただろう、と言われても、わたしは単なる狂った巻尺だったのかも知れないし、底の破れた郵便受けだったのかも知れない。じっさい、いまもわたしは狂女の振りをして日記を書いている。

 「それ故」は「わたし」と「わたし」を結びつける。結びついた時、つまり「わたし=わたし」という関係が「ゆれ故」によって証明された時、それを「正体」と呼ぶのが「それ故軍団」の「数学」である。「ことばの論理」である。「過去」は全体に切断されないものなのである。
 最後の方の「日記」。

それ故に……。われらの王と共に戦え。それ故に……。追うから逃げるな。それ故に……。被告を仮想する無数の時間の糸に絡まれた彼らとわたし。それ故に……。降り注いでいる、真昼の冷たい月の光の下に転がされ。それ故に……。昆虫は羽根をもぎ取られた。
       (谷内注・「もぎ取る」の「もぐ」は原文は漢字。手ヘンに宛てる)

 この「日記」は、私が最初に書いたように「×日+何日」ではない。ここに書かれているのは「×日-何日」、つまり「過去」である。「それ故……」ということばを生きる時、そこでは「時間」は「過去」にならざるをえないのである。

 けれども「わたし」はいつも「わたし=わたし」という関係を生きてはいなかったのだ。この詩集の「基本論理」は「わたし」は「わたしではない」である。「ひとり」は「ひとり」ではない。「ひとり」は「ふたり」になる。「ふたり」は「ひとり」になる。
 イコール(わたし=わたしである)を否定しながら、わたしではなく「なる」。その運動が、この詩集のことばの登場人物たちの「基本」である。

 この「ではない」を利用して、何かに「なる」というのが「詩」なのだ。「それ故に」という「因果関係」を断ち切って、自由に運動していくのが「詩」である--というのは、唐突な定義であるけれど、このことと、私がもうひとつ書きたいことがあると冒頭に書いたこととが関係がある。

 で、もうひとつのこと。
 この「海の古文書」は「現代詩手帖」で連載されたものである。連載詩を書く時、詩人はどんな構想を持っているのだろうか。北川は12回(?)の全体の構造を最初から設計図として持っていたのだろうか。
 「設計図」(つまり、到達すべき世界ともいうべきもの)を持っていても、持っていなくても、まあ、ことばは動かしていけると思う。それは散文の場合も、詩の場合も同じだと思う。私の大好きな森鴎外の「渋江抽斎」は「設計図」なしに書かれた散文の大傑作である。その「渋江抽斎」と比較しながら「散文」と「詩」のことを考えてみると……。
 「散文」の場合、最初に書いたことを「事実」と踏まえて、次の章のことばが動いていく。「それ故」ということばで「事実」を踏まえるかどうかは別にして、「事実」を積み上げることで、ことばの世界を広げていく。
 ところが「詩」はそうではなく、「事実」から、あるいは事実の積み上げる「ストーリー」から逸脱していく。ことばが「事実」から離脱して、別の次元へいってしまう。そこから「事実」を逆照射するというのが「詩」である。
 「散文」と「詩」は、ことばの運動がまったく逆なのだ。
 「詩」は「過去」を(先に書いたことを)踏まえないわけではないが、尊重しない--いや、それから「自由」になろうとする。そういうことばの運動が「連載」の形で動かすというのは、まあ、一首の「矛盾」である。「連載」できないのが「詩」なのだと思う。けれど、北川は「連載」で詩を書く。
 このとき--ちょっとおもしろいことが起きる。
 「五章」の「狂女日記」は「四章」にでできた魯迅の「狂人日記」を踏まえている。引き継いでいる。
 前に書いた「事実」を踏まえるという「散文」の「痕跡」が「それ故」ということばのなかに、残っている。「連載」の形式をとると、どこかで、それは「散文」を引き寄せてしまう。--といっても、これは私の印象にすぎないのだが……。
 この「五章」では、北川は「散文」と「詩」のせめぎ合いのなかで書いているという感じがする。そして、そのせめぎ合いは「連載詩」という形式を選んだために、より強くなっているように思える。

 (「渋江抽斎」のことを書いてしまったので、追加。この作品が不思議なのは、評伝であるにもかかわらず、主役の渋江抽斎が死んでからも作品が延々とつづくことである。死ぬまでが全体の三分の一、残り三分の二には生きた渋江抽斎は出てこない。前に書いた「事実」を踏まえながら進むのが「散文」のことばという定義をあてはめると、とても変な作品ということになる。渋江抽斎が死んでしまったあと、この評伝は散文であることを超越してしまう。散文であるけれど、散文ではない。森鴎外にしか書けなかった「詩」になっている、と私は思っている。--ほんとうは、この森鴎外の「詩」と、北川の書いている「詩」のなかにあらわれる「散文」との対比みたいなことを書きたいのだが、まとまりきらない。)

続・北川透詩集 (現代詩文庫)
北川 透
思潮社



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ダニー・ボイル監督「127時間」(★★★★)

2011-06-22 19:54:04 | 映画
監督 ダニー・ボイル 出演 ジェームズ・フランコ、岩・・・よりも水

 予告編を見た時から「ストーリー」が分かる映画であるが・・・。
 あ、ストーリーは、まあ、予想どおりなのだが、その前がおもしろいねえ。アウトドアのための準備がてきぱきと進む。カメラの切り替えがリズミカルである。留守電の母親の声や、クローゼットの棚の上で手が届かなかった折りたたみナイフ、歩きまわる主人公の足の動き・・・。
 特に美しいと感じたのは、水をポットに満たすシーン。
 蛇口の下にポットを置き、蛇口を開くだけなのだが、そうか、水がポットにいっぱいになる時間で準備ができてしまうのか。実際にはそう言うことは無理で、ポットから水があふれているのだが、そのあふれる水を見ても、いま、あふれたばかりなのだな、と感じさせる新鮮さ(?)がある。部屋の中、水道の水なのに、湧き水みたいだ。ポットの底から湧いてくるみたい。
 このあとも、水の描写がとてもすばらしい。
 岩の割れ目から水に飛び込むシーンのブルーの美しさは当然なのだが、チューブで飲む水(栄養ドリンク?)のチューブから肉体へ流れこむ感じ。流動感。水が重要なポイントになる、ということが暗示されている。
 ポットのなかで少なくなっていく水。袋にため込む尿。それを飲む時の液体の流れ。雨。鉄砲水(の幻・・・)。あるいは、コンタクトを洗浄する工夫。
 映画の大半は、狭い場所で、映し出される素材は限られているのだが、そのなかで水だけが激しく変容する。少なくなればなるほど、その表情(?)というか、少ない水に対して強まってゆく主人公の思いがひしひしと伝わってくる。
 その変化の大きさが、狭い空間を限りなく広げてゆく。その広さは、ポットから喉、体内という動きだけでなく、尿を水がわりに飲む場面に象徴的に表れているのだが、「感覚(味)」にまで踏み込んでゆく。どんな極限状態にあっても、人間の感覚は「もの」に反応する。その瞬間、その狭い空間が一瞬消える。「肉体」が抱え込んでいる「宇宙」の広さというか、そうか、人間はこんなふうに「内部」が大きいのかと驚く。極限に閉じ込められながら、「肉体」そのものを探検し始めるのだ。
 それは、たとえばビデオに残っている女性の胸元を見ながら、オナニーをしようか、「いや、だめだ、やめておけ」と苦悩するシーンにもつながっていく。死ぬかもしれない。そういうときも、こんな無駄(?)なことをしようか、しまいか、悩む。変だけれど、人間の複雑さがいいねえ。狭い所に閉じ込められている――ということを忘れてしまう。
 細部へ細部へと視線が向かうほど、人間の「宇宙」が広がる。
 クライマックスの腕を切断するシーンも同じ。岩に閉じ込められていることを忘れる。神経を切断する瞬間の「痛み」。指で触って「痛い」。ナイフでちょっと触れて「痛い」。どうするんだろうなあ。「気絶するなよ」と言い聞かせながら切ってゆくのだけれど、「壮絶」というのとは違うなあ。何か、誰も知らない「人間」の「いのち」の広がりを獲得してゆく感じがする。「狭い」空間を、人間の「いのち」の巨大さが飲み込み、消化してゆく感じだ。
 で、無事(?)脱出したあとも、水の描写があるね。泥水をごくごく飲む。出会った人にもらった水を飲んで飲んで飲んで飲みほす。それからプールのなかを潜って全身で泳いでゆくシーン。ああ、なんて優しくて、なんて気持ちのいい水なんだろう。

 こういう極限を体験した後、人間はどう変わるだろう。もう、アウトドアの楽しみはやめて、インドア派になる? 主人公は逆だ。自分の「肉体」の内部の広がりの中へ、自然の全部を取り込んでしまうかのように、さらに活動的になってゆく。
 いいなあ。そうなんだろうなあ、と納得させられる。
 ダニー・ボイル作品の中では、「スラムドッグ$ミリオネア」よりはるかにおもしろい。「トレインスポッティング」とどっちがいいか――ちょっと判断が難しい。しかし、傑作であることは間違いない。そういえば、「トレインスポッティング」でも、水が美しかったねえ。世界一汚い水洗トイレにドラッグを落とし、それを拾いに水洗トイレに飛び込む――潜水するシーンの美しさ――やっぱり「トレインスポッティング」の方が好きかな、私は。



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角川映画
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林嗣夫「花」「星座」

2011-06-22 12:34:51 | 詩(雑誌・同人誌)
林嗣夫「花」「星座」(「兆」150 、2011年05月10日発行)

 ことばにならないことをことばにしようとする。その矛盾と一緒に詩は生まれる。そして、矛盾の「書き方」にはいくつかある。きのう読んだ河邉由紀恵は「ふわふわの黒いふぁー」という、とてもあいまいなことばをつかっていた。「頭」では絶対にわからないことばである。林嗣夫は、そういうことばはつかわない。あくまで「頭」でもわかることばを追いつづける。
 「花」。

花が倒れた、
といううわさが
いつのまにか広まった

今まで
花のことは忘れていたから
これは小さなニュースである

きっと
深い空のほうに向かって
音もなく倒れこんでいったのだろう

なぜ倒れたのか
倒れることで何が起こったのか

花のなかを流れる時間が
希薄になったためだ、
という人もいれば

花が
花になりすぎたためだ、
という人もいる

いずれにしても
花が倒れることで
世界は一瞬 見通しがよくなったのではないか

しかし
やがて
花が倒れることで空は空の色を失い

風は風ではなくなっていくだろう

 わからないことばはひとつもない。けれど、わからないことはたくさんある。まず、「花」。これは何だろうか。バラ? 菊? 百合? ひまわり? わからない。抽象的である。
 林のことばは簡単なようであって、簡単ではない。直接「頭」に働きかけてきて、「頭」の運動を「抽象」で洗う。「抽象」の世界へと整えていく。
 3連目が特徴的である。
 「深い空のほうに向かって/音もなく倒れこんでいったのだろう」。ここに、「矛盾」が出てくる。「倒れる」というのは立っているものが地に倒れるのである。「空のほうに」倒れるとは「流通言語」ではいわない。「空のほうに」草花はのびる。(木々はのびる。)空のほうに「倒れる」ことはできない。
 できないこと、不可能なことが書かれているので、「頭」は刺激される。どういうことだろう、と考えはじめる。
 「倒れる」には「立っているものが(垂直の状態にあるものが)、地面にその体(?)を横たえること(水平になること)」以外の意味もあるのではないか。
 たとえば「倒れる」には「死ぬ」ということばが含まれていないか。「倒れる」が「死ぬ」なら、死んだ人が「空(天)」へのぼるという言い方をするから、「深い空」へと「倒れる」と「比喩的」に言うことは可能なのではないのか。
 「花」はもしかすると「比喩」かもしれない。バラ、菊、百合、ひまわりというような具体的な「花」の名前を省略したことばではなく、「比喩」である。それは、「誰か」なのかもしれない。花は「比喩」であり、「象徴」なのかもしれない。
 そう思うと「空のほうに」というのもわかる。また2連目の「小さなニュース」というのもわかる。誰それのことを話題にすることはなくなっていた。忘れていた。その人が「死んだ」という知らせとともに、思い出されているのだ。ひとしきり話題になるのだ。
 「比喩」「象徴」とは、ことばの「言い換え」でもある。「頭」で「現実」の存在を思い浮かべながら、それを「別のことば」で言い表す。そのとき、ことばはとても「抽象的」になる。

花のなかを流れる時間が
希薄になったためだ、
という人もいれば

 「花の中を流れる時間」「時間が/希薄にな」る。この「時間」のことを、具体的(?)なことばで言い換えることはむずかしい。林が、花の中にある「何」を「時間」と言い換えたのか、これを言い当てることはとてもむずかしい。
 むずかしいのであるが。
 なんとなくわかったような気もする。なぜか。それは私たちが、「時間が流れる」という表現を知っているからだ。そしてまた「時間」というのは「時計」で計測するものだけをさすことばではないということを知っているからだ。「充実した時間を過ごした」というとき、その「時間」は何分、何時間ではない。時計で測るものとは別の「身体的感覚・感情的印象・精神的印象」を含んでいる。
 「時間」というだれもが知っていることばのなかに、「さまざまな」時間がある。そういうことばのつかい方の「記憶」が、きちんとは意識されないまま動いている。きちんと説明できないまま、動いている。
 「ふわふわの黒いふぁー」は「肉体的」な感覚だったが、「時間」は「頭脳的(抽象的)」な何かなのである。「頭」のなかにあることばも、そういう不透明(?)な動きをする。

花が
花になりすぎたためだ、
という人もいる

 この「花になりすぎた」も、いろいろなことばを動かす。「頂点を過ぎた」という「意味」かもしれないが、「頂点を過ぎる」だけではない。「度を越す」という表現もある。「頂点を過ぎる」と「度を越す」はちょっと違う。かなり違う。違うけれど、どこかで似たところもある。「頭」のなかにある「意味」のいくつかが連絡を取り合って、なんとなく「意味」がわかったような気分になる。
 林のことばは、あくまで「頭」のなかで動くのだ。「頭」のなかにある無意識の「連絡網」を揺り動かして、いままでとは違う「意味」を感じさせるのだ。
 この運動を、「花」だけにとじこめるのではなく、「花」を取り囲むものにまでひろげる。

やがて
花が倒れることで空は空の色を失い

風は風ではなくなっていくだろう

 自然に(野原や花壇で)自然に咲いている「花」のことが書かれているのなら、それは自然の「空」や「風」のことである。けれど「花」が自然の花ではなく、「比喩」「象徴」だとしたら、「空」「風」も「比喩」「象徴」になる。「比喩」「象徴」が重なり合って、それは単に自然のことを書いているだけではなく、私たちが生きるときの人との関係をも書いているのだということがわかる。--「頭」でわかる。

 この「頭」でわかった瞬間に「抒情」が完結する。--この断定は、まあ、性急すぎるかもしれないけれど、私はそんなふうに感じている。

 「頭」のなかにあることばが、いくつかの「意味」を渡り歩きながら、「比喩」(象徴)をくぐりぬけ、「抽象」に耐えられる強度になったとき、そしてそれが林の書いているような自然の美しいもの(たとえば花)と重なったとき、「抒情」は誕生する。美しく、繊細になる。
 林のことばの美しさに気がつく--というのは、実は、自分のなかの美しさに気づくということでもある。私も林のように、こんなふうに美しくなれる可能性がある、と思い、美しくなることをひそかに願うとき、「抒情」は完成する。



 林はもう一篇「星座」という散文詩を書いている。「ことば」の不思議を文学学校で語っている。

言葉がなければ、この世のすべての存在は姿を隠してしまう。「桜」という言葉があるからこそ、桜は意味や価値をまとった「桜」として立ち現われ、そして楽しむことができる。星座の言葉があるからこそ、あの無窮の夜空に水瓶やサソリが姿を現わす。

 「意味や価値」と「立ち現われ」る--ということばが、林の考え方をとてもよくあらわしている。「もの」は「意味や価値」を「まとって」(身につけて)いなければ、人間には「もの」として見えてこない。(姿を隠してしまう。)「もの」が見えるのは、そこに「意味や価値」を見出すからである。そして、その「意味や価値」を「立ち現わ」させるのがことばなのである。
 そして、「意味や価値」が「もの」のなかから「立ち現われる」ものであるとして、「意味や価値」がもし「もの」のなかで「ひとつ」ではないとしたら、どうなるだろう。いくつもの「意味」、いくつもの「価値」がある。そのうちの何かをことばがひっぱりだしてくる。そうして、別のことば(もの)と結びつける。
 このとき、林の考えている「詩」が動く。「花」のように……。

 「星座」では、「もの」から「意味」「価値」を引き出し、「別のもの」と結びつけて、ことばによって「別のもの」を突き動かすという瞬間が書かれている。
 散文詩--と私は先に書いたのだが、短編小説、いや、短いけれど、これは「長篇小説」の世界である。一瞬の感覚(感慨)ではなく、林の言語哲学を語るために考案された言語装置である。

 「花」ではなく、「星座」の方こそ、もっと丁寧に感想を書かなければいけない作品であるということはわかっているのだが、私のことばでは、追いついていけない。傑作である。多くの人に「兆」で読んでもらいたい。





風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス



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北川透『海の古文書』(6)

2011-06-21 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(6)(思潮社、2011年06月15日発行)

 「四章 トランスミッション」。
 この章には「第三の男」が突然Hになって登場する。MとOは登場しない。「語り手」が誰であるか、よくわからない。
 「わからない」ことには、気になることと気にならないことがある。
 「四章」の「語り手」(主役、主語?)が誰なのかという問題は、わからないけれど、私には気にならない。すでにこの作品のなかで登場人物が次々に入れ替わるのを見てきた殻かもしれない。その登場人物の「特性(?)」のひとつに、「ひとり」は「ふたり」であり、「ふたり」は「複数」であり、「複数」は「ひとり」であるという運動があることを見てきたからかもしれない。
 しかし、それ以上に重要なものがあると思う。「ひとり」は「複数」、「複数」は「ひとり」というような「一元論」の「思想」よりも重要なものがあると思う。「文体」である。
 北川の文体。
 北川の文体--と書いたあと、どう説明していいかわからなくなるのだが、登場人物(その章の「主役・語り手」)がどんなふうに変わろうとも、北川の文体には一貫したリズムと音がある。このリズムと音の「一貫性」が、複数の人物を支えている。そのリズム、音を通って「ひとり」は「ふたり」になり、「ふたり」は「ひとり」になる。
 あ、これでは、なんの説明にもならないねえ。

手がこんなに細くなって
関節やボルトがばらばら外れてしまった
次におれは何に変えられるのだろう
黒く裂けた石畳に聞いても
昔の車輪の響きがするだけだ
(忘れられたルー・シュンは、「狂人日記」を書きつづけている。)

聖書や悲劇を失ったアルミニウムの手は
それでも自分を探している
海底に沈んだ危ない歴史の七曲がりの街道に
サーチライトを向けて
(赤い皇帝に回収されても、ルー・シュンはなお「狂人日記」を書く。)
野草が記憶の喉の奥まではびこっているが……

 ことばのリズムと音--その一貫性というのは、ほんとうにむずかしい。音楽の場合、あ、これは誰それのメロディーだなあ、誰それのリズムだなあ、誰それの声(楽器の音)だなあということが感覚的にわかるが、それと同じことが「詩のことば」でも起きる。何らかの「癖」のようなものである。
 で、北川の文体。
 「手がこんなに細くなって/関節やボルトがばらばらに外れてしまった」というときの「ボルト」の突然の闖入。あるいは「聖書や悲劇を失ったアルミニウムの手は」という一行の「聖書」と「悲劇」の出会い、「失った」ということばがそれを結びつける構造、さらに、先の「ボルト」のように突然闖入する「アルミニウム」という「無意味な音」。そういうことろに、北川の「何か」を感じる。
 そして、そういう予想外の存在(もの)を結びつけることばの運動の奥に……。

黒く裂けた石畳に聞いても
昔の車輪の響きがするだけだ

 何といえばいいのだろう。この二行のなかの「聞いても」がもっているような「鍛えられたことばの脈絡」があり、それこそが北川の「文体」なのだと感じる。
 「黒く裂けた石畳に聞いても/昔の車輪の響きがするだけだ」は「流通言語」に置き換えると、「聞いても」が「邪魔」(独特すぎる)ということがわかる。石畳を車輪が通りすぎていく。そのとき音がする。音が響く。--この二行は、石畳を見ていると、昔、そこを馬車か何かが通り、車輪の音が聞こえた(響いた)ことを思い出す、そういうことしか思い出せないというような「意味合い」を表現しているのだと思う。
 「見て-思い出す」という一続きの運動が「聞いても-響きを思い出す」という「動詞」に知らずにかわっている。「見る」が「聞く」にかわっている。「視覚」と「聴覚」が融合し、ひとつの「感覚」と「記憶」になっている。まるで「ひとり」が「ふたり」に、「ふたり」が「ひとり」にかわるように、ある次元で融合し、そこからまた分離してきて動くように。
 あ、少し、急いで書きすぎたみたいだ。
 「聞いても」は実際は、いま、そこにある(そこに見える)「石畳」に対して「次におれは何に変えられるのだろう」という質問をする、訊ねる、聞いてみるということなのだが、「聞く」ということばをつかった瞬間、かえってくる「答え」(声、音)を「肉体」が受け止めようとして動く。「聞く」が自然に「響き」を「文脈」として組み込んでしまう。
 このときの、なんとも説明しにくい肉体、目(視覚)、耳(聴覚)の「連絡」の仕方--そこに「鍛えられた文体」を感じるのだ。「肉体」とことばをきちんと向き合わせて、どの感覚(肉体の器官)とどの感覚が融合し、入れ替わるのかを、書きつづけながら確かめてきた「歴史」のようなものを感じるのである。

 トランスミッションということばを北川がどういう「意味」をこめてつかっているのかわからないが、「黒く裂けた石畳に聞いても/昔の車輪の響きがするだけだ」という二行のなかにある、視覚-聴覚の自然な移行の感じは「伝導・変速(これを変化、と言い換えたい)」を「トランスミッション」と呼びたい感じがする。

 --ということから、作品にもどって……。
 「トランスミッション」は「魯迅」という実在の人物を「トランスミッション」として利用(?)しているということかもしれない。いわば「視覚-聴覚」の移行、変化のように、「魯迅」(とそのことば)を変速(変化)装置として、この詩の登場人物であるM、O、「第三の男」が行き来するということかもしれない。「魯迅とそのことば」は、いわば三人の(そしてそれ以上の)登場人物たちが出会う「場」なのだ。
 「魯迅のことば」を読む。そのとき、三人は出会う。三人以上の人間が出会う。そして、「ひとり」になったり「ふたり」になったり「三人」なったりということを繰り返す。それは「魯迅のことば」を読むことで、ひとは「魯迅」になり、また「魯迅」はだれかになり、さらに「ひとり」にもどるというこかもしれない。
 ことばは、いつでも「トランスミッション」なのだ。何かを「変える」装置なのである。そして、それは「時代」をも越える--というか、ことばのなかには、どんな時代でも呼び出すことができる。複数の時代を呼び出しながら、「いま/ここ」がより明確になる。「時代」を呼び出し、そのとき生きていた「人間・思想・ことば」を呼び出し、攪拌する。新しいことばを動かす。
 そういう作業を、北川は「頭」ではなく「肉体」としてやっている。「黒く裂けた石畳に聞いても/昔の車輪の響きがするだけだ」という二行のなかに生きている力が、そう教えてくれる。
 だから、

飢えた者の激怒とルサンチマンの糞溜めは綺麗だ……大量虐殺は美しい……

 という「流通言語」では許されないことばの結びつきも安心感がある。糞溜めは誰が見たって「綺麗」ではないし、大量虐殺が「美しい」というのは倫理的に許されない論理だが、「綺麗」「美しい」ということばでしか伝えられない「絶対的な何か」が北川の「肉体」のなかで起きているから、そう書いているのだと信じることができる。
 「頭」ではなく、私の「肉体」が北川のことばを信じてしまう。信じこませる「文体」の力が北川のことばにはある。



窯変論―アフォリズムの稽古
北川 透
思潮社
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斎藤恵子「往来」、河邉由紀恵「ガーデン」

2011-06-21 09:50:03 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤恵子「往来」、河邉由紀恵「ガーデン」(「どぅるかまら」10、2011年06月10日発行)

 斎藤恵子「往来」は、ある「声」を書いている。

路のわきに枯れた百合
褐色になったつぼみがうながれていた
わたしは黒ずむ茎を手折った
 あらあら手がよごれるよ
通りがかりのひとの声
色彩が消えてゆく

細い茎は腕の中でぬるみ
ぶちの赤い花弁をひろげた
 美しいでしょ
見捨てられたものの声
腕の中でいっそう大きくひらいた
ほばほばと光る芯のしべ
花を抱いた姿をショーウインドウに映す
じぶんのかおばかりが見え
やがて
ぼやけて花弁ばかりになり
百合はショーウインドウの飾花になっていた

 「あらあら手がよごれるよ」。これは「いま/ここ」で誰かが斎藤にかけたことばなのか。それとも斎藤が百合を手折ろうとした時「かつて/どこか」であったことを思い出したのか。よくわからない。また、実際に百合を斎藤が手折ろうとしたのかどうかも、よくわからない。
 次の連で「百合はショーウインドウの飾花になっていた」とあるが、ショーウインドウの百合を見て、昔のこと思い出したのかもしれない。子どもの時、枯れた百合を手折ろうとしたら通りかかった誰かが「あらあら手がよごれるよ」と注意(?)してくれたことを思い出したのかもしれない。
 ことばのなかで、時間が入り乱れる。「色彩が消えていく」というのは、思い出の中である部分が明るくなったりぼんやりしている描写である、と考えると、その時間の入り乱れが濃くなる。
 「美しいでしょ」は、もっといろいろな時間のなかで聞こえる。腕のなかに抱える前に斎藤がすでに聞いた声かもしれない。路端で先ながら、枯れている百合、そのうなだれたつぼみが、すばやくささやいた声かもしれない。「枯れて見えるけれど、ほんとうはそうじゃないの。美しいのよ。よく見て。ほら、美しいでしょ」という声を聞いて、斎藤は思わず百合を引き寄せ手折ったのかもしれない。そんな、あってはならない百合と少女の会話が聞こえたから、誰かが「あらあら手がよごれるよ」と言ったのかもしれない。よごれるのは「手」だけではないのだ。「手」がよごれれば、「肉体」のなかにあるものもよごれるのだ。
 そして、実際に「肉体」のなかがよごれたからこそ--百合の毒(?)に染まったからこそ、「美しいでしょ」が鮮明に聞こえる。
 百合から手(肉体)、肉体からその内部へと動く何か。それは「細い茎は腕の中でぬるみ」の「ぬるみ」ということばが、しっかりと把握している。「肉体」の温度と百合の「茎」の温度がまじりあい、浸透し合うのだ。
 何行か前に、私は「時間が入り乱れる」と書いたが、時間が浸透し合う、と書くべきだった。何かに手を触れると、その触れた「対象(たとえば百合)」と「肉体」のあいだで、「体温」の行き来がある。百合が冷たいとき、人間の「体温」が百合に移り、おなじ「ぬるさ」になるだけではなく、その「ぬるさ」を「肉体」は感じ、自分のうちにとりこんでしまう。その相互作用がある。
 それは「声」、ことばの場合も起きる。
 誰かが何かを言う。そのことばと「肉体」が触れあう。「声」を聞くということは、「ことば」が「肉体」に触れるということであり、「肉体」に触れたものは「肉体」のなかへ浸透してくる。「肉体」のなかへいったん入ってしまえば、それは誰のことば? 誰の「声」?
 その声がはっきり聞こえるとしたら、それは外から聞こえるのではなく、「肉体」の内から聞こえるのでは? 「肉体」のなかにある何かが、外にある「声」を引き寄せ、「肉体」の内で、別のことばに変えてしまうのでは?
 --そんなことは斎藤は書いていない。たしかに書いていない。けれども、私はそんなことを考えてしまうのだ。
 ショーウンドウに映っているのは「じぶんの顔」、百合はショーウインドウのなかにある。「わたし」と百合とのあいだには、ガラスがある。けれど、そのガラスは斎藤がことばを動かしているあいだ、消えていた。ガラスを超えて、「わたし」と百合が浸透し合っていた。「美しいでしょ」ということばといっしょに。何かが浸透しあい、ふっと入れ代わる。その瞬間が、すばやく書き留められている。

 この何かが浸透しあう感じ、入れ代わる感じを「夕明り」では、斎藤は次のように書いている。

小さな窓を夕明りがひらいてくる
しずかに宙がえりする白

 「宙がえり」。おもしろいねえ。宙返りって、どういうこと? 宙返りしても、その存在はもとのまま。もとの位置、もとの姿にもどるから宙返り。けれど、それが元にもどるあいだに、くるり、何かが入れ代わる時間があったのだ。
 宙返りした「白」自体も、宙返りすることで何かを見ただろうけれど、その宙返りをみた斎藤も宙返り以上の何かを見ている。それが斎藤の「肉体」に浸透してきて、もう一度外に出る時、それが詩の2行になったのだ。



 河邉由紀恵「ガーデン」も、ことばにして説明するとめんどうくさい(これはうまく書けないということをごまかしていうときの私の口癖かな……)。何か、ことばでは説明しにくいけれど「肉体」でははっきりと感じ取れるものをきちんと書いている。

春の風はしだれ桜の枝をゆらし
黄ばんだミモザの花をちらすだろう

そのため空気がうすくなったことにわたしはきづくが
そばにいるあなたはきづかない
というぐあいに ときにちいさな影をもはこんでくる

庭にいれば
わたしはしあわせなのだろうか
いや じつのことろすこしは不安ではないのか
ちどめ草をぬきながら考える

たとえばふた月まえに地獄坂の階段をおりた底のほうの店におきわすれた
ふわふわの黒いふぁーのことをわたしはわすれようとして
庭にいるのではないのか

 2連目では、「ちいさな影」が論理的にしっかりとことばにされている。それとは逆に4連目の「ふわふわの黒いふぁー」は論理的じゃないね。
 2連目は論理的ゆえに、「抒情的」にも見える。「抒情」というのは「論理」というか、「頭」でことばを整理することと、どこかでつながっている。「頭」で整理されたことばは一種の「ことばの共有ルール」をもっている。そのために人とひとをつなぎ、そのつながりのなかで、ひとはなんとなく安心する。私も同じように感じる--と安心していえるのが、たぶん「抒情」の重要な要素なのだと思う。
 それと比べてみるとわかりやすいが「ふわふわの黒いふぁー」って、変だよね。それ、わかる--でも、「わかる」とは言いたくない。こういう共感はごく親しい間柄ならいいけれど、知らないひとの前では隠しておきたいねえ。共通のことばにならないもの、「頭や「精神」で整理されたものではないことばというのは、「なんだそれは、ちゃんとした日本語(論理的な日本語?)で言えよ」と叱られそうで、人前では言えないねえ。
 でも、そういうことばが、いいなあ。
 「論理」でも「頭」でも「精神」でもなく、ただそこに「ある」としか言えないもの、「肉体」の安心感がある。「抒情」が「頭」の安心感なら、「ふわふわの黒いふぁー」は「肉体」の安心感だねえ。

 この河邉の「声」は、斎藤の「あらあら手がよごれるよ」「美しいでしょ」と、どこかでつながっている。その「どこか」と、それが「どんなふうな」つながり方をしているか--ということを、ほんとうは書かないと「批評」にならないのだけれど。
 書けない。
 ややこしくて、めんどうくさい。--ようするに、私のことばは、そこまで書けない。でも、そこのことろをほんとうは書きたいと思っていることだけは、書いておきたい。





夕区
斎藤 恵子
思潮社


桃の湯
河邉 由紀恵
思潮社



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北川透『海の古文書』(5)

2011-06-20 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(5)(思潮社、2011年06月15日発行)

 「三章 もう一つの「北東紀行」」。
 この章は「おれ」ということばから始まる。

おれはやっと一歩を踏み出した
すでに遠い過去において 境界線を越えていたのも知らずに

 「おれ」が「誰」であるか、わからない。わからないことは、私は気にしない。誰だっていいと思っている。ことばというのは、読む時、それが「誰」であれ、「私」でしかない。この作品に登場するMとかOとか第三の男とか、あるいは書いている北川とか、そういうことは私は区別をしない。それは、すべて私(谷内)である。私の書きたいこと(書こうとしてことばにならなかったこと)が、北川の書いていることばを通して、そこに「ある」というだけである。北川のことばを読みながら、私は私の書こうとして書けなかったことばを読むのである。
 だから、冒頭の「おれ」が、次に「なぜ、わたしはあなたと付き合う気になったのでしょう。」と「主語」が変わっても気にならない。「主語」というのは、変わっていくのものなのだ、と思っている。
 ということは、またあとで書くことにして(書かないかもしれないが)、冒頭の2行にもどる。

おれはやっと一歩を踏み出した
すでに遠い過去において 境界線を越えていたのも知らずに

 ここには「矛盾」がある。「やっと一歩を踏み出した」と「遠い過去において 境界線を超えていた」は「矛盾」する。「矛盾」ということばが適切ではないかもしれないけれど、「いま」が「一歩」なら、「過去」の「境界線を越え」たは何なのか。「境界線」と「越える」という動詞は何なのか。
 「知らず」に越えていた境界線を、「いま」越えたと気がついたということなのか。--少し似ている(?)が違うと思う。たぶん「過去」というのは、「いま」に噴出してくるから「過去」なのだ。「すでに遠い過去において 境界線を越えていたのも知らずに」というのは、ほんとうは、一歩踏み出してみれば「過去に、すでに境界線を越えていた」ということに気がついた。境界線を越えたという過去が、「いま」はじめて見えてきたということなのだ。「知らずに」は「いま、知った」ということなのだ。
 「一歩踏み出す」というのは「いま」から「未来」へ進むことと重なるが、その「一歩」は「未来」へ進むというよりも、「未来」へ「過去」を浮かび上がらせるということなのだ。「未来」へ進むということは「境界線を越えた」という「過去」ヘ進むことなのだ。
 ね、「矛盾」しているでしょ? 変でしょ?

方角は決まっている おれが知らない間に跨いだ境界は
灰と巻貝ではない 爆弾と糞でもない アリンコとモスクワでもない
扇風機と敗北でもない 沈黙と電流でもない 驢馬と裏切りでもない
乱痴気騒ぎの蜘蛛の巣を引き裂いて
まっすぐに線路を東北へ
ひとつの大きな時辰儀に触れる
最果ての地方へ……

 「跨いだ境界」、「越えた境界線」とは何か。ここでは「ない」という否定のことばで語られるだけである。否定と否定の繰り返し。何ひとつ「肯定」されない。そこでは実際に「何を境界線として越えた」のか書かれていない。
 書かれていないのに、書かれていると感じる。書かれていないからこと、書かれていると感じてしまう。否定されているにもかかわらず、灰も巻貝も、爆弾も糞も、アリンコもモスクワも、扇風機も敗北も、沈黙も電流も、驢馬も裏切りも「越えた」のは間違いないのだ。「越えた」からこそ、それは「ことば」として書くことができる。「越えていない」何かは、ことばにはならない。知っていることか、ひとは書くことができない。知っていることしか、ひとは読むことができない。知らないことが書かれている場合は--たとえば、この北川のように、私の体験したことではないことが書かれている場合は、私はそのことばのなかに私の知っていることを探しながら読むのであって、知らないことはいくら探しても見つからない。
 灰、巻貝、爆弾、糞、アリンコ、モスクワ、扇風機、敗北、沈黙、電流、驢馬、裏切り--そういうことばと一緒に生きている「過去」を、「おれ」は「越えた」のである。
 それにしても、この不思議なことばの連結はなんだろう。どこにどんな脈絡があるのか。それは、まあ、北川の個人的な「歴史」に詳しい文献学者が調べてくれることだろう。私は、個人的な歴史を読むということには関心がない。先に書いたように読むのは北川のことばかもしれないが、それは表面的なことであって、実際は私の過去を読んでいる、読むことしかできない。そして、こうした一種の「でたらめ」なことばの動き、脈絡がわからないままに登場してくる「名詞」を読むと、一種の「酩酊」に誘われる。そして、わけがわからないまま、陶酔してしまう。何に?
 前後するのだが、北川は、こう書いている。

幾つものことばなき車輪が飛び交い 巨大なヘルメットの
黒い列車が 襲撃や衝突を繰り返していたのではないか
連結したり 分離したり 横転したりしていたではないか
その度に硬直したり ゆるんだり 引きちぎれたりする韻律の
快楽と怖れに陶酔していたではないか

 「列車」が何を「象徴」しているか--それは、書かない。おもしろいと感じるのは、「列車」が何を語るのであれ、また「衝突」や「連結」「分離」が何を語るのであれ、そのとき、「ことば」はその度に「硬直したり ゆるんだり」する。そして「引きちぎれ」もする。それは、「意味」が破壊され、「無意味」になるということかもしれないが、そういう時にも「ことば」には「韻律の/快楽」がある。「快楽」というのは「恐怖」と表裏一体であり、(つまり、私の愛用していることばで言えば「快楽」と「恐怖」は「矛盾」のなかで固く結びついたもので、分離できないものであり)、その瞬間、ことばは「意味」ではなく「韻律」に酔っているのだ。陶酔しているのだ。「ことば」にはそういう不思議な力がある。「無意味」な「陶酔」を引き出す力が。そして、それはきっと「本能」の結びついているのだと思う。「陶酔」のなかで選び取ることば--それは、本能を裏切らない何か。「過去」よりももっと遠くから人間を動かしている力なのだと思う。

 で、何が言いたいのかというと……。

 灰、巻貝、爆弾、糞、アリンコ、モスクワ、扇風機、敗北、沈黙、電流、驢馬、裏切り--そういうことばをなぜ北川は選んできて書いているか。それは「韻律」の「陶酔」によって選んでいるのである。そのことばに「意味」があるというよりも、そのことばが気持ちいいから書いているのである。「……ではない」「……ではない」と否定を繰り返すだけで、何ひとつ「境界線」そのものを特定することばを書かないのは、「境界線」を特定するものがあったとしてもそれが「韻律」として快感ではないからだ。快感に従って、北川はことばを動かしている。それだけである。
 それだけであるけれど、それ以上でもある。陶酔を引き起こす韻律--そのことばを書く時、無意識に北川は「過去」を掘り起こしている。何が北川の肉体に刻印されたのかを書いてしまう。不愉快なものではなく、何らかの快感のなかで、何かしらの「幻」を見せてくれたことばを書いているのである。「灰」ということばで夢見た何か、「巻貝」ということばとともに夢見た何か……そういう「幻」の「混合体」として「過去」がある。そこには「敗北」「沈黙」「裏切り」というような、ちょっとセンチメンタルを刺激することばもある。

 こうしたことばを引き継いで、「主役」は「おれ」から「わたし」へと突然変化する。「おれ」が選びとることばではなく「わたし」が選び取ることばの「韻律」が動いていくのである。
 そこには「意味」もあれば「無意味」もあるが、私が私を読みとるのは、次のような部分である。私が私の「誤読」を押し付けるのは、次のような部分である。

不思議でした。あなたのことは何も知らないのに、最初から、わたしはあなたの、あなたはわたしの分身でした。一人でありながら、二人の旅。しかも、二人はそれぞれの分身と共にあり、二人は一人でありながら四人、四人は八人、八人は……無数の分身を生み出し、それでも、わたしはあなたの、あなたはわたしの分身だったのです。

 ここでも「ある」は「なる」なのだ。一人は二人に「なる」、二人は一人に「なる」。変化する。「無数の分身を生み出し」ということばがあるが、その「なる」は「生み出す」ということでもある。
 誰かと出会い、ことばをかわす。そのとき、ことばは他人のことばの影響を受けて変わると同時に、その人自身の「過去」から気がつかなかったことばを「いま」「ここ」へ噴出させる。それが「生み出す」ということ。そのことばは、一義的にはそれを発したひとのが生み出したものかもしれないが、他者の刺激がなければ生み出されなかったことばであるから、他者こそがそのことばを生み出した(生み出させた)ということになる。こういうことは、ある出会いが「必然」であればあるほど、強烈に起きる。

一昨夜のわたしたちは姉妹でした。あなたはわたしの可愛い妹。でも、わたしたちは一晩詠み明かした相聞歌の中で、絶えず入れ替わっていました。

 主・客の入れ替わり。主・客を超えた入れ替わり。そういう時も、「ことば」を「主役」にしてみると、そこには「韻律の快楽」が一貫している--と私は感じている。
 北川の書いている詩の「意味」(内容)を私は理解していない。勝手に「誤読」するだけであるが、そのとき、私のなかで起きているのは「韻律の快楽」である。読んでいて、気持ちがいい。「韻律」に「肉体」が反応するのである。「肉体」が勝手に反応して、自分勝手に陶酔し、陶酔も通り越し、「エクスタシー」へと行ってしまう。「自分」ではなくなる。わけがわからないまま、詩集のことばに傍線を引いたりするのである。

麻薬常習者のささくれた表層の文体に変わり、句読点も匂いも失った、

 この部分も、「ことば」というか、他者との出会いとことばの変化、文体の変化のことを書いているのだが。
 うーん。
 「句読点」と「匂い」の突然の出会い。そして「失った」という動詞。
 この「無意味」な美しさ--無意味というのは、単に私には脈絡がわからないというだけのことなのだが--に、私は何度も何度も何度も何度も、そこを読み返してしまう。何もかわらない。何も起きない。でも、大好きなのだ。その部分が。





溶ける、目覚まし時計
北川 透
思潮社



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坂多瑩子「赤い屋根の家」

2011-06-20 11:29:42 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「赤い屋根の家」(「ぶらんこのり」11、2011年06月25日発行)

 坂多瑩子「赤い屋根の家」は、わからないのことろもあるのだけれど、わからないところはわからなくていい--というのが私の読み方なので、わかるところ(勝手に共感するところと言った方かいいのかな)だけ、書くことにする。

年老いた犬がやってきて
私はお前だよというから
違う
おまえは
茶色の毛はすりきれてるし
きたなくて
後ろ足は棒みたいにつっぱっている
あたしじゃないよ
それでも懐かしそうな目をするから
連れてかえってやった
するとたしかにあたしだ
あたしは
あたしが好きでないから
捨ててやろうとおもった
それである日
赤い屋根の家ごと
みんな
井戸にすてた

 「するとたしかにあたしだ/あたしは/あたしが好きでないから/捨ててやろうとおもった」という部分がとても気に入った。
 人間には誰だって「好きな部分」と「好きではない部分」がある。--と、書いて、私は実は、違うと思う。「好きではない部分」というのは、実は、ない。「好きではない」と思っている部分こそ、どうにも捨てられない。ちょうど、この詩の前半に書かれている「年老いた犬」のようなものである。「あたしじゃない」といいたいのだが「懐かしそうな目」で見つめ返してくる。
 この「懐かしい」がいいなあ。
 「懐かしい」とは何だろう。どういう感覚だろう。「よく知っている」ということかもしれない。「よく知っている」を通り越して、自分が知らないことまで知っているということかもしれない。無意識のほんとう、本能のほんとう--とでもいうべきものかもしれない。
 そして、よくよく正直に考えてみると「あたしじゃない」と否定したものこそ、「たしかにあたしだ」なのだ。「なつかしい・あたし」なのだ。それは、「たしか」なことである。
 だから(?)という接続詞でいいのかどうか、まあ、よくわからないが、「懐かしい」と「たしかに」というのは、どこかでつながっている。強引に言ってしまえば、私がさっき書いた「ほんとう」とつながっている。「ほんとう」だから「たしか」なのだ。そしてそれは「ほんとう」だから「懐かしい」。
 それは、ちょっと視点をずらして考えると--あ、「いま/ここ」が嘘である、ということにならない?
 「いま/ここ」が「好き」なふりをしているが、同時に「むり」をしている。「いま/ここ」は「懐かしく」ない。「ほんとう」に思えない。「ほんとう」であり、「たしか」なのは、あの「懐かしい」何かなのだ。
 でも、そんなことは認めるわけには行かない。「いま/ここ」を生きているのだから。「懐かしく」「たしか」なもの、「あたしの・ほんとう」を振り切って「いま/ここ」を生きているのだから。
 だから、そういう「思い」を引き起こすものは、「捨ててやる」しか、ほかに方法がないのだ。

 でも、これって、こういうことって、矛盾だよねえ。どこかが変な具合にもつれあっていて、変じゃない?としか言えない何かだ。

 でも(と私は繰り返すのだ)、だからこそ「ほんとう」なのだと思う。何かを自分のことばで言いなおすと、どうしてもわけのわからないことにぶつかってしまう。どっちが「ほんとう」なのか、わからなくなる。茶色の毛のすりきれて、きたない犬が「あたし」なのか、それともそれをきたないと思っているのが「あたし」なのか。「あたし」が犬ではないという証拠はどこにあるのか。
 もしかしたら、「犬」が「この犬はきたない」と思っている「坂多瑩子」のことを詩に書いているのかもしれない。「ほんとうは犬のおれが詩を書いてやっているのに、自分で書いているつもりになっている。人間って世話の焼けるやつだね」と思っているのかもしれない。--というのは、私のことばの暴走だけれど。

 でも(と、また繰り返してみる)、こうした「矛盾」を正直に書いたことばのなかに、やはり人間はいるのだと思う。矛盾していると感じながら、その矛盾をなんとか潜り抜けようともがく。そこに、詩があるのだと思う。「ほんとう」に触れる一瞬があるのだと思う。


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北川透『海の古文書』(4)

2011-06-19 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(4)(思潮社、2011年06月15日発行)

 「二章 一九七二年の幽霊船」。
 この章では「語り手」が交代している。「第三の男」が「語り手」としてことばを動かしている。この男は海岸で二度、「船の幻影」を見る。最初に見た時の描写。

なぜか明かりの洩れる窓の奥には、彼が失踪する前に親しかった人たちが、声を殺して潜んでいるような気がした。そのほとんどが死者であるが、彼らの名前を呼んだら、一斉に大海を揺るがすような爆笑が湧き起こるだろう。その期待に胸をいっぱいにしながら、彼がしたことは、誰にも届かない小声で、一人の女の名前を呼ぶことだった。その呟きが唇から洩れた時、不意に辺りは真っ暗になり、客船の幻影も消えた。

 ここには不思議な「矛盾」がある。「親しかった人たち」への思いが「矛盾」している。
 「親しかった人たち」はほんとうに「死者」なのか、その「死者」は「比喩」なのか。「比喩」であるとしたら、何をあらわす「比喩」なのか。「第三の男」にとって死んでいるということか。あるいは、「親しい人たち」から見れば男の方が死んでいるのかもしれない。(少なくとも、男は失踪して存在が消えている。その存在の消えたことを「死」と言えるかもしれない。--という論理の進め方は、飛躍を含んでいるのだが……)。
 その「親しかった人たち」の「名前を呼ぶ」とはどういうことだろうか。それは「私はここにいる」ということの裏返しである。失踪した人間が、失踪したということを「放棄」して、名乗りを上げるというのに等しい。「爆笑」は、失踪した男の、そういう「矛盾」に気づいての嘲笑かもしれない。あるいは、やっと現われたことに対する喜びかもしれない。どのようにでも「誤読」することができる。
 「期待に胸をいっぱいにしながら」というのは、一義的には、「爆笑」が起きるだろうという「期待」である。でも、なぜ、それが期待? 「爆笑」されることが「期待」であるということは、ちょっとおかしい。「矛盾」である。誰も他人から「爆笑」されたくはないだろう。
 「期待」と「爆笑」ということばの組み合わせ--そこには、不思議な「矛盾」があるのだ。
 それから、そういう「期待」を抱きながら、実際は、そういうことが起きないことを男とはしてしまう。親しかった人たちの名前をではなく、一人の女の名前を呼ぶ。これも「矛盾」である。自分で自分を裏切っている。
 この自分を自分で裏切るという行為のために、「客船」が消える。
 そして、その客船は、消えることによって、さらに強い印象を残す。だから、その後、

 もう、あの客船が訪れることはないのだろうか。彼は毎夜、浜辺に佇みながら待ち続けた。

 ということをしてしまう。これもまた「矛盾」である。そして、それが「矛盾」だから、一瞬の幻影、客船の明かり、親しい人たちが声を殺して潜んでいるという印象が強くなる。鮮やかになる。
 北川のことばを読んでいると、北川の書いている「男」と「親しかった人たち」の関係を超えて、私は私の「親しかった人たち」が身を隠している豪華な船を思い浮かべてしまう。そこに書かれていることが私の体験ではないにもかかわらず、私にもそういう体験をする「夢」があるように思えてくる。
 こういう感じに誘われるのは、そこに「矛盾」があるからだ。
 「矛盾」を抱え込んでいる人間の「思い」、それを正確に書き表すことばは、「矛盾」しているがゆえに、まっすぐに届くのである。--変な言い方になるが、私は、そう感じる。

 幻の船は、二度目は「幽霊船」となって「第三の男」の前に現われる。豪華な客船とは対照的な描写がつづく。

どの船窓にも明かり一つなく、いかなる機械音も聞こえず、そこに生者の影も死者の気配も感じられなかった。何という恐ろしい空虚。老人はその無言の磁力に引き込まれるように、砂浜から冷たい海に入る。急に静まり返った海は、不思議な浮力を湛えていた。老人は波の上をダンスするように軽快な足どりで渡り、幽霊船に乗り移ることができた。

 ここには「心情」の「矛盾」がない。最初に明かりのあふれる客船を見た時、男(老人)をとらえたのは「感情」の「矛盾」であった。「親しい人たち」に会ってみたい--名前を呼び、自分の存在を告げたい、しかし、反面、まだまだ隠れていたい。ただ、一人の女を忘れることはできない。その女をそっと自分のこころのなかにだけ呼び出してみる--そういう「矛盾」した思いが交錯していた。そして、「矛盾」が交錯するから、そこに書かれていることが鮮やかに浮かび上がった。
 けれど、この「幽霊船」には「矛盾」がない。
 この「矛盾」のない状態が「空虚」である。
 「矛盾」がないから、そこでは何でも起きる。現実ではありえないことも、ことばの運動のまま、起きてしまう。「老人は波の上をダンスするように軽快な足どりで渡り、幽霊船に乗り移ることができた。」と書けば、それがそのまま「現実」になってしまう。
 (あ、私の書いていることは、書かれていることがらと、ことばを混同している? そうかもしれないけれど、まあ、このまま書いていく。)
 でも、この「矛盾」のなさ、「空虚」というのは--うーん。不思議だ。
 次の部分に、私は、飛び上がってしまった。「えっ」と叫んでしまった。そうか、「空虚」というのは、こんなふうに「感情」(感覚)を消し去ってしまうものなのか、と思ってしまった。

その途端に幽霊船は一変し、船内をベルが鳴り渡り、幾つもの黒い影が身を起こすのが感じられた。影たちは時に穏やかに、時には罵声に近い議論をしている風だった。

 「感じられた」「風だった」--このことばに私は心底驚いた。ふつうは、こうは書かない。ふつうは、

その途端に幽霊船は一変し、船内をベルが鳴り渡り、幾つもの黒い影が身を起した。影たちは時に穏やかに、時には罵声に近い議論をしていた。

 と書く。「事実」として書く。それがたとえ「幻影」であろうと。あるいは「幻影」であるればあるほど「事実」として書く。つまり、それが「実感」だからである。
 「実感」を書く時、ことばは「感じた」ということばを省略してしまう。
 ところが、北川はこの幽霊船に乗り移った男の見たものを「感じられた」と「感じ」のなかにとじこめる形で書いている。
 「感じ」を書くと「感じ」が消える--というのは「矛盾」になるが、私は、ここにびっくりしたのである。
 「空虚」とは「実感」がない状態である。「空虚」とは実際にあること(実感できること)を、「感じられた」とわざわざ「感じ」ということばをつかって「定着」させるしかない状態のことなのである。

 私はなんだかとても面倒くさいことを書いているが……。
 この「二章」に書かれていることば--ことがらは、「現実」と「実感」、「空虚」と「むりやり動かす感じ」のことを考えさせる。そういうことを、私は考えてしまう。ことばは「現実」にであったとき、どんなふうに動くか。感情は、どんなふうに充実するか。充実しすぎて、それが「感じ」であるか忘れてしまうか。それに反して「空虚」にであったとき、どうやってことばは動くか。「ある」ものさえ「感じ」ということばのなかにとじこめないことには存在しえない--この不思議……。

 「実感」と「空虚」のせめぎあい。--それは、何だろう。北川は、こう書いている。(詩のことばは、次のようにつづいている。)

細い幾筋もの光線や、金属を擦り合わせた時のようなノイズが走り、天井から何枚も垂れ下がっている記憶の撒くが切り裂かれていった……。そこにぼんやりと、しかも、黒々と浮かび上がってきたのは、いんちきくさい偽の法廷だった。

 ここでは「感じられた」「風だった」ということばは退けられて「……」がつかわれている。北川のことば(老人のことば)は、ここで瞬間的に、ちょっと変化しているのだが、このことを書いていくと、複雑になりすぎるので省略。
 「実感」と「空虚」のせめぎあい--それは「いんちきくさい偽の法廷」である。
 「第三の男(老人)」は、その「いんちきくさい偽の法廷」から「失踪」したのだというのが、北川の思いなのだろう。





萩原朔太郎 「言語革命」論
北川 透
筑摩書房



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ティム・バートン監督「シザーハンズ」(★★)

2011-06-19 23:06:24 | 午前十時の映画祭
監督 ティム・バートン 出演 ジョニー・デップ、ウィノナ・ライダー

 ティム・バートンの「色」が鮮明に出ている映画である。特色を超えて、色そのもの。黒と青と白。混ざり合って、冷たい金属の「青」になるのだが、この青の行き着く先は透明。ただし、氷の透明である。「シザーハンズ」の中にも「氷像」が出てくるが、これがティム・バートンの「理想の人間」なのだな、と改めて思った。
 「透明な人間」というのは、別のことばでいえば「肉体」を持たない人間。精神、純粋感情としての人間。ティム・バートンの描く恋愛は、あくまで「ピュア」な世界。肉体の交わりを必要としない世界である。
 この映画では、反対にある「肉体の愛」がカリカチュアされている。欲求不満の「主婦」たち。髪をカットしてもらうだけでエクスタシーを感じる女たち。主人公「シザーハンズ」のジョニー・デップは、そういうものを求めていない。ウィノナ・ライダーも、精神の愛を発見する。キスはするけれど、それを超えるセックスはしない。けれど、こころはしっかり結びついている。
 「ビートル・ジュース」にしろ「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」にしろ、そこに登場するのは「死者」というより、「生きた肉体」を拒否し、純粋に「精神(感情)」になった人間なのだ。死ぬこと、あるいは幽霊であること(?)は、ティム・バートンにとって、「肉体」を超越し、純粋になることなのだ。
 その「純粋」が「氷」というのは、まあ、ちょっと変な感じがするが、そこがティム・バートンなのだ。「透明」であっても、それは「手触り」がないとだめ。空気や水のように抵抗感がない存在ではなく、抵抗感はしっかりある。そういうものを求めているんだなあと思う。そして、またまたちょっと変ないい方になるが、白塗りの化粧、どぎついアイシャドウは、生身の人間を求める観客の欲望を拒絶するティム・バートン流の「抵抗」なのだと思う。

 で、少し映画にもどると、ウィノナ・ライダーは金髪が似合わないねえ。ジョニー・デップの黒、白、青の色と明確に区別するため(生身の人間であることを明確にするため)、金髪にしているんだろうけれど。でも、ダンスシーンの手の動きはよかったなあ。「ブラックスワン」のナタリー・ポートマンの手よりしなやかだ。「ブラックスワン」でも踊りを見たかったな。
     (「午前十時の映画祭」青シリーズ19本目、2011年06月19日、天神東宝3)


シザーハンズ [Blu-ray]
クリエーター情報なし
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一色真理『ES』(3)

2011-06-19 12:38:21 | 詩集
一色真理『ES』(3)(土曜美術出版販売、2011年06月20日発行)

 一色真理『ES』は「14 鏡」という作品を境にして、反転して行く。番号が鏡文字になる。「80 イド(id)」は「08」を鏡に映した状態である。「80」ではなく「08」。一色のなかでは区別がついているのかもしれないが、私にはこの鏡文字の番号は区別がつかない。同様に、「14」を境にしている詩集の構造もよくわからない。詩集のページをめくるたびに(作品を読み進むたびに)ことばにこめた「意味」の度合いがだんだん重くなってきているのが感じられるが、そのことが気になって「14」とそれ以後の区別がよくわからない。わからないことは、無視して……。
 「80 イド(id)」の前半。

エスの町では地面に穴を掘ると、必ず水が湧き出す。けれど、誰も
そこに井戸を掘ろうとする者はいない。出てくるのは赤い水ばかり
だからだ。それに、一度できた傷口から流れ出す血は、けっして止
まることがない。

言い忘れたが、ぼくの家の裏庭には、エスでただひとつの井戸がある。
底なしの井戸だ。ぼくが生まれた朝、父はここにぼくを投げ込んだ
という。血まみれの赤ん坊はしかし、死にはしなかったのだよ。

ぼくを追って、母が井戸に飛び込んだ。そして、ぼくは井戸の中で
母親の血首を吸って、大きくなった。ぼくと母は今でもそこにいる。
地の底。それとも血の底にというべきだろうか。

 「地の底」「血の底」。どちらか区別がつかないと一色は書いているが、もちろん「血の底」と書きたいのだ。「乳首」ではなく「血首」と書いた時から--いや、そういうことばを書くはるか前から、一色は「血」の「奥」にひそむものを「神話」のなかにとりこみたいと願っている。血なまぐさい「神話」。そして、そのなかで浄化される精神(こころ、魂)というものを願っている。
 「血の底」と書くことで、実際に、「血の底」を生きるのではなく、「血の底」を浄化したいのである。「血」ではないものにしたいのである。「血」であっても、その血をよごれた血ではなく、清らかなものにしたいのである。
 「地の底」「血の底」、そしてその「血」にさまざまな「血」がある。父の血があり、母の血があり、「ぼく」の血がある。それは「ぼく」のなかでは混じり合っている。そのことが「ぼく」の苦悩なのだが……。
 何と言えばいいのだろう。
 「意味」が強すぎる。「意味」が過剰すぎて、楽しくない。一色が過剰な苦悩を抱えていることは推測できるが、そういうものは私は推測したくない。(他の読者はどうかしらないが、推測したくない)。では、そういうものを私が拒んでいるのかというと、そうではない。私は推測はしたくないが、実感したい。「推測する」ということを通り越して、そのままを見たい。整理されずにある「生」の形を見たい。「血」などということばをつかわずに、あ、血だ、と感じたい。「血」という「文字」を見たいわけではないのだ。一色の書いている「血」は「文字」であり、「ほんもの」ではない。「文字」を読みながら「ほんもの」を推測するというのは、とてもつまらない。

 ニセモノであっても、本物が見たい--あ、いい間違えたなあ。こういえばいいのだろうか。間違っていても、「ほんもの」が見たい。「血」というこことば(文字)があてはまらなくてもいいから、「ほんもの」の血が見たいのだ。
 「血」と書けば間違いはないのだが、その間違いはないということによって「ほんもの」がどこか遠くに置き去りにされている。そう感じるのだ。「ほんもの」ではなく、「概念」を読まされている--そういう気持ちになるのだ。「概念」--その「間違いのない」ことばの運動など、おもしろくない。

 「概念」が「間違いのないことば」ということを補足すると……。
 この詩には「エス」ということばが出てくる。それからイド(id)が出てくる。このことばを一色は詩の注釈の形で説明している。「イドはフロイトの精神分析用語。ほぼ「無意識」に近い。エスはそのドイツ語。」
 一色は「エス」(イド)ということば、「無意識」ということばをフロイトから借りている。そして、その借り物を「井戸」をつかって「物語」に仕立てている。「井戸」の記憶がいつまでも「意識の底」を残っていて、それが「無意識」となって「ぼく」を支配している。
 こういうとき、私にはよくわからないのだが、ほんとうに一色のことばは動いているのか。そこで動いていることばはほんとうに一色のものなのか。私には、そうは感じられないのである。そこにあるのはフロイトのことば、あるいはフロイトとして「流通」していることばである。これでは、おもしろくないなあ。これでは一色が語っているのではなく、フロイトが一色の「無意識」を語ることになる。そこに書かれていることが「間違い」だろうが「正解」だろうが、それはフロイトの「間違い」「正解」であって、そこには一色はなんの関係もない。「材料」としてあるだけであって、「ことば」としてあるのではない。これでは詩ではない。
 フロイトの言っていることを、一色自身のことばで言いなおすことが必要なのだ。どんなことでもそうだが、まだ起きていないことは何もない。語られていないことは何もない。人間は生まれてきて、誰かと出会い、恋愛し(恋愛の対象は異性であったり、同性であったり、音楽であったり、数学であったり、といろいろだが)、恋愛することで自分自身が変り、死んでいく(死ぬことで何かのなかで生き続ける)--それだけである。それ以外のことはできない。みんな同じことをしている。同じことをしているけれど、その同じことをその人自身のことば(絵画なら、色・形、音楽なら音、数学・物理なら数式)で書き直すのである。自分のことばで書き直したとき、それは「芸術」になる。ひとを感動させるものになる。
 私の大好きなソクラテス先生(プラトン先生?)は、あらゆることを自分のことば言いなおそうとした。「流通している言語」ではなく、自分のことばで言いなおそうとした。そして、「わからない」という結論にしか到達できなかった。自分では「わからない」というところにたどりついたことばだけが、真のことばなのだ。他人のことばを借りて言ってしまうと「わからない」がなくなってしまう。
 誰だってわからない。そして「わからない」ものがそこにあるから、勝手にその「わからない」を「誤読」する。つまり、自分のことばで言いなおす--その瞬間、よくわからないが「わかった」という気持ちになる。何かを「実感」する。
 「80」「08」、イド、井戸、地の底、血の底ということばは、そういう世界からもっとも遠いところにある。
 こういう作品は、私は嫌いである。



 


詩集 元型
一色 真理
土曜美術社出版販売



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北川透『海の古文書』(3)

2011-06-18 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(3)(思潮社、2011年06月15日発行)

 「一章 第三の男へ」。この「章」は少し不思議である。最初の「主役」は「ことば」である。ことばがことばのことを語っている。それが途中から「主役」が「第三の男」にかわる。そのことは、あとで感想を書くとして……。

ことばの本性を知らないの? むろん、それは限りなく淫蕩ということ。わたしは老いさらばえているけれど、誰とでも寝るもんね。ことばは女の振りをしようが、男の振りをしようが、両性具有に決まっています。

 私は、この「ことば」の「定義」が大好きである。「寝る」は「セックスをする」と同じような意味でつかわれている。そしてそれは「淫蕩」ということばでも書かれている。色にふけって淫らな行為をする。--うーん、この「ふける」が、たぶん、私をとらえてはなさない。「淫らな行為」はそれはそれでいいんだけれど、それよりも「ふける」が私には関心がある。それも「限りなく」ふける。
 北川が力点を置いているのはどこなのか、私にはよくわからないし、わかろうとする気持ちも私にはないかもしれない。私は北川の書いていることばを土台にして、そこから「誤読」を拡大していきたい。「誤読」にふけりたいのだ。
 「ふける」というのは、私の感覚では、自制心をなくすことである。自分を制御することをやめることである。そして、それは自分でなくなることに賭けるということでもある。セックスをする。誰かと寝る。それは、自分ではなくなるということだ。で、誰になる? そんなことはわからない。わかるのは、自分ではなくなるということだけ。そのためには、男であるとか、女であるとか、両性であるとか--そういうことにすらこだわらない。だいたい自分でなくなり、自分でなくなりながらも、セックスに「ふける」わけだから、男が男でなくなり、その結果誕生したものをたとえば女だと仮定して、その女がまた女でなくなるのだから、到達点を「仮定する(仮想する)」ということが意味を持たない。到達点がない--というのが「ふける」の極致である。到達できない、というのが「ふける」の極致である。
 到達できない--ということは、最初から「矛盾」を抱え込んで、動いているということでもある。それが「ことば」なのだ。それがことばの「本性」なのだ。

 そして、この「矛盾」が、北川が書く「第三の男」に「なる」。「ことば」が「第三の男」になる。--これは、またまた、あとで書くことになるのだが……。
 最初の主役である「ことば」は、ことばを動かしていく。

 わたしからみると、ほんとうに狂ってしまったのは失踪した男、第三の男でした。この男には狂死したMのような、若者を惹きつける輝かしくも脆い王冠の戦歴もなければ、ナルシスの白熱した炎に溶解し、さまざまに変形しながら、世界を全否定する鉄の行為もありません。中毒死したOが、陽も差さない野の陰に這うドクダミ、ゲンノショウコ、ヨモギの根強い活力や陽光を背にしながら誰にも気づかれないで、垣根の隙間に生えているシソ、ハッカ、ヒルガオの深い吐息などに養われながら、創りあげた彼岸の世界もありません。

 この部分がとてもおもしろいのは、MとOを書きながら、それが「第三の男」につながっていくことである。Mはこういう人間だった。そして、それと同じものを「第三の男」は持たなかった。Oはこういう人間だった。そして「第三の男」はそういう人間では絶対にありえなかった。--こう書く時、不思議なことに、「第三の男」がMとOとセックスし、そのセックスに「ふけっている」感じがしてくるのだ。言い換えると、「第三の男」にはMとOと出会い、接することが、自分ではなくなる可能性の一瞬だったのだ。Mとセックスすれば、そのとき「第三の男」はMに「なる」。Oとセックスすれば、そのとき「第三の男」はOに「なる」。このときのセックスというのは、まあ、「比喩」であるけれど、「比喩」でなくたってかまわない。強烈に相手に惹きつけられ、自分が自分でなくなる。セックスしている相手が「自分」になる。「自分」になって、自分を犯していく--その錯覚のなかで、さらにMになり、Oになるという錯覚に酔いしれてしまう。
 そういう不思議な恍惚と歓喜があふれている。
 ね、MとOの生き生きとした描写が、まるでセックスの最中に見る誰かの輝かしい裸に見えて来ない? 
 MとOは、そういう「第三の男」--なんといえばいいのだろうか、自分を受け止め、同時に輝かせてくれる「第三の男」を必要としたのだ。「第三の男」が描写してくれる「自画像」を必要としたのだ。「第三の男」は、それ自身はなんの取り柄もない男として描かれているが、その男は強靱な「鏡」なのだ。
 「ことば」は強靱な「鏡」なのだ。--と、私は突然、「主語」を「第三の男」から「ことば」にかえてしまうのだが、M、Oを映し出す「ことば」があるからこそ、MとOは存在しえる。そしてまた、「ことば」は映し出すべきMとOがいるから動いていくことができる。

この三人、いやそれぞれが複数の存在ですから、十人、いや、百人、もっと、数えきれないほど多くの三人でした。この複数の存在は、また、一人といってもよかったのです。彼らは多面体の複数でありながら、必然的に仮面体の単数でもあったのね。彼らはお互いに愛したり、憎んだり、軽蔑したり、仲間褒めしながら、入れ替わり、立ち替わり、くっついたり、弾け飛んだりしていました。対立者のことばで語るかと思えば、睦み合い、癒着して、凸凹で穴だらけの糸瓜のようでもありました。

 三人は複数の存在であり、また一人であるといってもよかった、というのは、三人は複数の存在に「なり」、また一人にも「なる」と言い換えることができる。
 「多面体の複数でありながら、必然的に仮面体の単数でもあった」は、多面体の複数に「なり」ながら、必然的に仮面体の単数にも「なった」である。
 存在「ある」が、動いて最初の存在ではなく、別の存在に「なる」。そういうことが、ことばのなかで起きる。ことばは、そういう運動を引き起こすのである。そして、そういう「なる」がいちばん顕在化(?)するのが、MとかOとか、いわばエキセントリックな人間(そういう人間のことば)においてではなく、そういう人間から蔑まれる目立たない「第三の男」(第三のことば)なのである。

 「第三の男」「第三のことば」そこで起きているのは何なのか。起きたことは何だったのか。「第三の男」は……。

執拗に泣き喚き、ぶつぶつ同じことをしゃべりながら、遂に天界と地獄の境目を彷徨し始め、やがて小さな尾を引いて行方不明になってしまったのです。それを追いかけてわたしが、この地図にもない海峡の街にやってきたのです。

 「第三の男」を追いかける「ことば=わたし」。そのとき、「ことば」は「第三の男」に「なる」のである。
 MやOの「ことば」(行為)は、さまざまな「美しい」形として記憶されている。それは、すでに北川の作品のなかに書かれている。しかし、そういうことばのほかに、「ことば」にならななかったことば、ことばになろうとして「行方不明」になってしまったことばがあるはずなのだ。「第三の男」としての「ことば」があるはずなのだ。
 北川は、この詩集のなかで、北川のことばを捨てて、「第三の男」の「ことば」になろうとしている--そういう祈り、欲望のようなものを感じる。いままで書いて来なかったことば、書こうとして書けなかったことば。そのことば(鏡)が映し出す「ある時代」を「いま/ここ」に存在させようとしている。北川のことばが「第三の男」の「ことば」に「なる」とき、そこに北川の生きてきた「時代」が「ある」ということが起きるのだ。
 それは「いま/ここ」が「かつて/どこか」に「なる」のか、それとも「かつて/どこか」が「いま/ここ」に「なる」のか。--わからないねえ。やってみないと、わからないねえ。わからないから、私は、北川のことばを追いかけてみる。北川のことばのなかで、しばらく「淫蕩」にふけることにしようと思う。
 「淫蕩」なのだから、何度も何度も果てながら、「消尽」してしまえればおもしろいだろうなあ。
 私が? 北川のことばが?
 それは、これからのお楽しみだ。
 (私は目が悪くて、短時間しか読み書きできないので、少しずつ--というのは、言い訳ではなくて「予告編」です。「予告」することで、ちょっと自分を励ましている。いまは。)


萩原朔太郎 「言語革命」論
北川 透
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北川透『海の古文書』(2)

2011-06-17 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(2)(思潮社、2011年06月15日発行)

 「序章 時の彼方」のつづき。
 毎日一章ずつ感想を書いていけるかなあと思っていたのだが、すでに破綻。「ことば」と「ずれ」について、もう少し書いておきたい。感想なのか、私の考えなのか、そしてそれはほんとうに私の考えたことなのか、それとも北川のことばが私のなかで暴走しているのを私が追いかけているだけなのか、区別がつかないけれど、この区別がつかないということが「読む」ことの愉悦である。だから、私はことばに酔ったまま、酔っぱらいの妄想を暴走させる。酔っぱらった時だけ見えるものもあるのだ、と私は思っているのだ。

《一行書く度に一人を殺す》という、Oの詩のことばと行為の埋めようもない落差を、Mはいつも疑っていました。Mにとって人を殺すといえば文字通り行為を意味します。Oはその疑い深い目に耐えられず、酔っていなければならなかったのでした。彼にとっては行為とことばのずれ、レトリックのなかにこそ、世界を遠くまで幻視する根拠があったにもかかわらず……。

 「ことば」と「行為」の「落差」、あるいは「ずれ」。「ずれ」てしまう「こと」。これを北川は「レトリック」と言いなおしている。「レトリック」は一般的に「修辞学」(美辞学)と呼ばれているが、その「修辞(美辞)」とは「ほんもの」から「ずれ」ているということだろう。「ほんとう」は美しくはない。けれど、それを美しく「する」。美しいものならば、より美しく「する」。それは、ことばのなかで「もの」がより美しく「なる」ということだろう。「ある」から「なる」への運動。そこには「変化」がある。そして「変化」があるということは、もとの「もの」とことばによって書かれた「もの」の間には「落差」「ずれ」があるということだ。
 「ずれ」「落差」は、しかし、あってはいけないのか。「科学」なら、あってはいけないだろう。けれど「暮らし」のなかにあって、「ずれ」があってはいけないのか。--これは、ちょっとややこしい。むずかしい。
 で。
 私は少し視点をずらして考えてみる。
 なぜ人間は「ずれ」を許してしまうのか。「ことば」を、「レトリック」を許してしまうのか。たとえば、「殺す」という表現。
 映画「十二人の怒れる男」のなかに、こんなシーンがある。容疑者の少年は「殺してやる」と叫んでいた。だから殺意があった。少年が犯人だ、と主張していた男が、議論の過程で興奮して、ヘンリー・フォンダをののしるとき、思わず「殺してやる」と言ってしまう。その「殺してやる」には、ほんとうに「殺意」があるか。ない。ただ、興奮して言っただけのことばである。殺意はない。しかし、それでは男が「嘘」を言ったのかといえば、そうではない。その「ことば」は「ほんもの」ではない。しかし、「ほんとう」が含まれている。その「ほんとう」は、「怒り」の気持ちである。容疑者がいる。彼が犯人である。彼は有罪である、と評決してしまえば自分たちはここから解放され自由になれる。はやく自由になりたい。評決の議論なんて、もう、これで十分、あれこれくだくだと疑問点を並べるな、という「ほんとう」が含まれている。
 「ほんとう」はそのまま「ことば」になることかあるかもしれないが、ならないこともある。「ことば」は「ほんとう」ではないが、ことばは「ほんとう」を含む。その「ほんとう」はことばどおりではない。ことばにすることによって、一瞬「ほんとう」に近づく。
 いま私が書いたことは、あまり、いい例ではない。(書く前は、違うことが見えていたのだが、実際にことばを動かしてみたら、思ったようにことばは動いていかなかった。どこかで、つまずいてしまった。--こういうことは、つまりうまく書けなかったことは消してしまえばいいのかもしれないが、そのまま残しておくのが私の癖である。)
 誰かを「殺す」と書く。(言う)。そのとき、一瞬、自分の望んでいる「世界」が見える。それは「幻視」である。それは「幻視」、つまりまぼろし、つまり嘘。けれど、その嘘とともにある「思い」は「ほんとう」の思いである。「殺す」ということばそのものとつながっているわけではない。「ほんとう」は「殺したい」のではなく、「議論から逃れ、自由になりたい」なのだが、そういうことは評議員なのでいえない。無責任になってしまう。だから「こんな議論をやめて、自由になろうじゃないか」と言うかわりに「殺してやる」と言ってしまうのだが、言った瞬間にことばが違っていることに気がつき、「十二人の怒れる男」の男はうろたえる。
 けれど、詩は、うろたえなくていい。「現実」ではないのだから。それはあくまで「表現」であることを、だれもが知っている。だから「殺す」と詩人は書く。書いてしまう。そして「書く」ことによって、「ほんとう」を見る。確認する。
 それは「読む」人間もおなじである。書かれていることば、それは思っている「こと」の「断片(端)」である。「ことば」は「こと・端」。その「端」に「ほんとう」の「断片」がある。一分がある。ことばは、その一部を定着させ、さらに拡大することができる。そういう力がある。「端」っこに「ある」ものは「全体」ではない。けれど、それは「ほんとう」である可能性があるものなのだ。そこから「全体」をつくっていくことが、もしかすると可能かもしれない……。
 「レトリック」こそ「ほんとう」なのだ。「レトリック」を含まないものは「ほんもの」ではあっても「ほんとう」ではない--というと言いすぎるのだが、「ほんとう」は「レトリック」の「ずれ」のなかにあるのだ。
 「殺す」は極端すぎて、いい例とはいえなかったが、ごく単純な「比喩」、たとえばきみのほほえみはバラだというときの「レトリック」、ほほえみをバラという「比喩」で表現する時、その嘘のなかには、きみのほほえみを自分がいちばん美しいと思っているという「ほんとう」がある。そして、それは「バラ」ということばをつかったとき、言った当人のこころのなかで「ほんとう」になる。ほかの人の目には「気障な嘘」にすぎないが、言った当人にとっては「ほんとう」。それが「ほんとう」の気持ち。

 私のことばでは、くだくだと同じことばの繰り返しになってしまうことを、北川は次のように美しく書いている。

彼はことばがすべてだ、という確信のなかで、疑い深いカミの目を否定できなかった。彼はMがタンポポの綿毛を武装し、ちっぽけな暴動へと組織する行為を、ただ、ことばもなく見詰めるほかなかったのです。

 ここでは北川自身が「レトリック」をつかっている。「タンポポの綿毛を武装し」。そういうとき、北川の見ている「ほんとう」がある。そういう「ほんとう」を含みながら、北川の「レトリック」はさらに続いて行く。

周りの心弱い人たちを惹きつける、Mの自己犠牲のヒロイズムに対するコンプレックス。それを消すためにこそ、彼は鉄と土石が吼え合う政治闘争の現場に赴き、背中を焼かれて一本の火炎樹になりました。

 「タンポポの綿毛」とは「心弱い人たち」である。「彼」はそういう人たちを結集し、結集しながらそれがまた「タンポポの綿毛」であることを自覚もしていた。この瞬間、北川と「彼」が重なり合う。そういう「タンポポの綿毛」しか結集できない「彼」にできることは、ヒロイズムを自覚しながら、敗北することである。敗北のなかに、「闘争した」という「痕跡」を残すことである。「痕跡」のなかには「ほんとう」がある。「政治闘争」の「夢」は敗北することで「ほんもの」にはならなかったが、そこには「ほんとう」の「夢」があった。「夢」と同時に、その「夢」でしか語れない「遠く--永遠」があったということになる。
 この「遠く--永遠」は、詩の最後に、もう一度「レトリック(比喩)」として出てくる。

わたしは身体よりも心を真っ黒焦げにした彼を、抱き抱えて介抱しましたが、あんなに弱々しく、意気地のない樹木を見たことがありません。焼け爛れた半死の幹が孕んだ胎児は無言でした。最初に三者の同盟を離脱する、寄る辺ない一本の樹木。《絶滅の王》を拒絶する無言の胎児。それを狂死したMが口を極めて罵ったことは言うまでもありません。ばらばらに断ち切られて行く錆びた鎖の上を、永遠の古代ががらんがらんと通り過ぎていきました。

 「永遠の古代」とは人間の原始の夢である。理想である。それは「レトリック」のなかでしか生き返らない。生きていけない。けれども、そうであるからこそ、ひとは「ことば」を生きる。「レトリック」を生きる。
 火炎樹、焼けただれた樹木、胎児--それは「ほんもの」ではない。けれど「ほんとう」である。そして、それは北川とともに生きた3人の男の「ほんとう」である。北川はことばを書くことで、北川であり、同時に「3人の男」に「なる」。その「なる」という瞬間に「ほんとう」が「ある」。






近代日本詩人選 15
北川 透
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一色真理『ES』(2)

2011-06-17 11:17:27 | 詩集
一色真理『ES』(2)(土曜美術出版販売、2011年06月20日発行)

 「07 喪失」という作品も,とても好きだ。

ぼくは立ち上がれない、と言って、椅子になってしまった。
もう横たわることも、眠りに落ちることもないだろう。
悲しみがすぐその背を黒く塗りつぶした。
それから窓の外は永遠の真昼だ。

高すぎる空に向かって、一度ごけ公園のサイレンが大声で叫んだ。
それでも草に埋もれた噴水は黙りこくったまま、ずっと考えている。
ここからいなくなったのは、誰だったのかと。

 「ぼく」が「椅子になる」というのは「比喩」である。「比喩」ということは、それは「現実」ではないということである。物理(生物?)の現象として「現実」ではないのだが、心情としては「現実」よりもはるかに「現実」である。人が何と言おうが、「こころ」は「椅子」になってしまったぼくしか認めない。
 「椅子」にはいろんな「意味」があるだろう。つまり、「椅子」ということばを発する時、そのことばに託した夢、願い、祈りがある。「椅子」というもののなかに、「ぼく」がなりたいと思っている何かが、つまり「意味」がある。それは、しっかりと立っているということかもしれない。誰かによりかからずに、「椅子」一個で立っているという状態かもしれない。何かを座らせている、何かを座らせるもの、という「意味」かもしれない。そして、それはもしかしたら何かを座らせたい(休ませたい)という「ぼく」の「いのり」を裏返しにして表現したものかもしれない。あるいは、いま私が書いたことのすべて、そしてそれ以上のものを含んでいるかもしれない。--何かはっきりしないが、「比喩」であるかぎり、そこには「いま/ここ」にないものが含まれている。「いま/ここ」にいる「ぼく」の状態を超えるものが託されている。
 「椅子」がたとえ自分では歩けない存在であるとしても、そういう否定的というか、マイナスの要素を含んだものだとしても、そのマイナスを超える何かが。想像されているのである。そして、マイナスを含んでいるということは、何かしらの悲しみを連想させる。悲しいこと、つらいことが「椅子」になることによって「乗り越えられる」と思うからこそ、「椅子」になるのである。
 一色は、そして、幸福ではなく、いま私が書いた「マイナス」の要素だけを書いている。「もう横たわることも、眠りに落ちることもないだろう。」これは、つまり、横たわること、眠るというやすらぎを捨ててでも「椅子」になりたい「何か」が「ぼく」にはあって、その「何か」は横たわる、眠るということを「代価」としてはらってもかまわないと思うだけの何かなのである。
 何であるか、一色は、はっきりとは書かない。はっきり書いていないから、想像力が駆り立てられる。

悲しみがすぐその背を黒く塗りつぶした。

 この1行は、いろいろな読み方ができる。「その背」をどう読むか。「椅子」の「背」であろうか。「椅子の背」とは「椅子の背もたれ」の「後ろ側」、つまり人間の背中が接しない部分のことだろうか。
 私は、少し違うふうに読んだ。「その背」を「椅子」のある部屋の壁、つまり「椅子」が背にしいてる「背景」と思った。「ぼく」が「椅子」になった瞬間、その部屋の壁は悲しみで黒く塗りつぶされた。あるいは、悲しみが壁を塗りつぶし、そのために壁が黒くなった。
 --これでは、悲しすぎるだろうか。
 たしかに悲しすぎるのだが、その悲しみの過剰が、たぶん一種の救いなのだ。悲しみが「背後」(椅子の背)となることで、もうどこにも行かない。それは、この部屋にとじこめられている。そこで完結している。「椅子」は悲しみをこの部屋で完結させるために存在するのである。言い換えると、「ぼく」は悲しみを完結させるために、あえて「椅子」になるのである。
 もしそうであるなら、「ぼく」の願い(祈り)、「比喩」に託したものは悲しみの「完結」である。それがどれだけ大きなものであってもいい。この部屋で完結する。椅子は、その悲しみを背負うのである。その上に乗せて、悲しみを休ませ、椅子自身は、その悲しみを休ませるために生きるのである。
 そのとき、部屋は悲しみで完結するがゆえに、「窓の外」(部屋の外)は明るい「永遠の真昼」である。
 「外部」の「永遠の真昼」を手に入れるために、「ぼく」はあえて「椅子」になることを選んだのである。

 ここには、どうすることもできない「矛盾」がある。いくら「外部」が「永遠の真昼」であっても、「ぼく」が「椅子」であるかぎり、外へは出て行けない。それは見えるだけで、自分自身では「体験」できない。ああ、そんなことはわかっている。わかっているが、たとえ出ていけなくても「永遠の真昼」をみたいのだ。それが「ことば」にすぎないもの、幻であっても、「ことば」にしたいのだ。ことばを口にする、声にすることでしか、自分のものにできない「夢」というものがあるのだ。

 2連目は、この矛盾をもう一度別のことばで繰り返したものである。「ここからいなくなったのは」「ぼく」であるということは明白である。1行目に「ぼくは(略)椅子になってしまった。」と書いている。「ぼく」がいなくなり「椅子」がかわりにここで生きているのである。
 わかっているけれど、「誰だったのか。」と問わずにはいられない。それは、「椅子」でありながら、やはり「ぼく」でありたいという「願い」(欲望)があるからだ。その欲望があるなら「椅子」にならなければいいじゃないか--というのは、人間が「矛盾」を生きることを知らない人間の考えることだ。
 「矛盾」なのかへ人間は飛びこんでいく。そのなかで、自分が自分でなくなり、新しく生まれ変わることを願うのが人間の唯一できることがらである。





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北川透『海の古文書』

2011-06-16 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(思潮社、2011年06月15日発行)

 北川透『海の古文書』は「現代詩手帖」に連載されていた時に感想を少し書いた。それから時間がたっているので、私の感想は変わっているかもしれない。変わらないかもしれない。変わっていても変わらないかもしれないし、変わらなくても変わっているかもしれない。--まあ、考えても始まらないので、いつものように思いつくままに書いていくしかない。
 「序章 時の行方」の書き出し。私はたいてい書き出しにこだわる。読んだ瞬間に私のなかで動くことばがあり、それについていくというのが私の読み方なので、どうしても「書き出し」が重要なのだ。

 ひとりは狂死
 もう一人はアルコール中毒死
 第三の男は行方知れず

 狂死した男Mも、中毒死した男Oも、失踪したまま生死不明の男Hも、みんなどこかで生きています。

 そんなことを言っては困ります。「狂死」「中毒死」した男には、きちんと死んでもらっていなと、書いてあることに「矛盾」が生じる。「行方不明」は「生死不明」だから生きていてもいいけれど、死んだ人間には死んでいてもらわないと、書かれていることばの何を信じていいのかわからない。北川さん、こんなことでは、困ります。
 --と、書いてみるだけで、私はぜんぜん困らない。むしろ、死んだ男が死んだままだったり、行方不明の男が死んでいて、絶対にあらわれないということの方が困る。M、O、Hとそれぞれの男を思い出す時、その男が「生きている」状態でことばにならないと、その男を動かせない。一緒に動けない。書く、というのは、その対象といっしょに動くということである。たとえ死んだ男のことを書くとしても、その書く瞬間においては、男は「いま/ここ」にことばといっしょに動いている。その「いま/ここ」が「かつて/どこか」であっても、それは「時制」の問題であって、ことばそのものの問題ではない。ことばにとっては「いま/ここ」があるだけだからである。
 「みんなどこかで生きています。」と言い切る北川のことば--それにまず私は引きつけられる。そのまま信じる。死んだ男たちは生きているというのは矛盾である。矛盾であるから、私は、それを信じることができる。ことばは、こうでなくてはいけないと思う。ことばというか、人間の「考え」(思い)、といってもいいかもしれない。矛盾にぶつかって、矛盾を抱えながら動くとと「いま/ここ」がはっきりする。
 矛盾というのは、信じた瞬間に、動きだすものなのである。その動き、動いていくということを私は信じるのだ。
 ということを、北川は、次のように言い換えている。

彼らがいつどのように生きて死んだのか、死んで生きたのか。その行方は、同時にわたしが彼らと共に、生死をかけて時代に殉じた姿を映し出しています。それを見きわめたいと思い、わたしは時空を超えた旅に出たのでした。

 あ、ごめんなさい。北川が私の感じたことを言い換えているのではなく、北川が書いていることを手がかりに、私はそんなふうに感じた、というのが「正しい」時系列だね。
 ことばを動かす。ことばで3人の男を生きる(生きなおす)。それは「わたし」を生きなおすということでもある。「時間」と「空間」を超えて、「いま/ここ」から自在に「いつか/どこか」で生きなおす。ことばによって、どんな「生」と「死」が可能だったかを確かめなおす。--それを「旅」と定義している。
 このことばに誘われて、私は、さっき書いたようなことを考えたのだ。
 でも、そんな時系列は無視して、やはり私は、「私(谷内)の考えていることを北川はこの詩でこんなふうに言い換えている」と言い張るのである。「誤読」するのである。「書かれてしまったことば」(読まれてしまったことば)は、「書いた人」のものではない。「読んだ人」のものである。そして「読む」というのは「知らないこと」を発見することではない。「知っていること」をただ確認するだけのことである。「知らないこと」はわからないままである。いろいろ読んでも、そのとき私は私の知っていることを、そのことばのなかに見つけ出すだけである。確認するだけなのである。
 それは、この詩を書いている北川も同じではないか、という思いが私にはする。ある人間のことを書くということは、ある人間の「知っていること」を確認しながら、それを動かしていくことである。「知っている」ことを積み重ねると、その結果としてどんな人間の可能性が浮かび上がってくるか--その可能性を旅するのだ。
 ひとを思い出す、ひとをことばによって書き留める--それは「時空を超える」ことである。「時空」を超えるのだから、死んでいても生きているし、生きていても死んでいる。それは、どっちでもあるのだ。そして、個人的なことを言えば、北川が書いている3人の男と北川の「旅」に私は直接関与していないが--つまり、私はそのとき北川のことも知らないし、3人の男のことも知らないのだが、「いま/ここ」で北川のことばを読んでいる時、私は北川とも、3人の男ともいっしょに生きている。もちろんそのとき北川の思っている3人の男と、私の思っている3人の男はぴったりとは重ならない。
 「ずれ」る。北川と私も「ずれ」る。そして、その「ずれ」のなかでこそ、私は北川に出会う。3人の男に出会う。それは「ほんもの」の北川でも、「ほんもの」の3人の男でもないのだが、「ほんもの」ではないことによって、「ほんとう」に私が思っている北川であり、3人の男なのだ。
 「ほんもの」と「ほんとう」は違うのである。「ほんもの」は「もの(対象)」であるのに対し、「ほんとう」とは「こと」なのである。「ほんとうのこと」。そして「ほんとうのこと」というとき、「ほんとう」はその「こと」を「する(動詞)」のなかにある。思うこと、書くこと--思った「もの」、書いた「もの」が「ほんもの」であり、思う「こと」、書く「こと」といっしょに「ほんとう」がある。「ほんもの」と「ほんとう」は重なりながら「ずれ」ている。
 この「ずれ」は、なんと言えばいいのだろうか。きのう(2011年06月15日)の夕刊各紙に載っていた「ニュートリノ」の記事にかこつけて言えば、「理論」と「発見」(事実の確認)のようなものである。「理論」と「事実」の間には「ずれ」がある。それは「ことば」と「事実」の関係に似ている。どちらかがどちらかを「説明」するとき、それはぴったり重なって見えるが、それは「説明する」という「ことばの運動」のなかで重なるのであって、「ことば」と「事実」が重なるわけではない。--それに似ている。「ずれ」があるから「重なる」という動きが可能なのだ。「ずれ」がなければ、「重なる」ということもないのだ。

 あ、何か、またとんでもないところへ、それこそ「ずれ」てしまったような気がしないでもないのだが、こんなふうに「ずれ」ないことには接近できない。「誤読」するときだけ、私は読んでいるそのことばに接近している気持ちになる。(あくまで、気持ちです。私が北川に接近していると私が勝手に思っているだけで、他の人から見ればどんどん離れて言っている、勘違いも甚だしいということになるかもしれない。北川も、そう感じているかもしれない。)

 最初にもどる。

 私は、男の生死がどうであろうと、書くという瞬間において、男は「いま/ここ」に「ことば」といっしょに動いている、と書いた。
 この詩の(詩集の)テーマは、その「書くということ」と「ことば」なのだ。
 この詩のなかで「話者」は自分自身を「詐欺師で人殺しの女」と名乗っている。そして住んでいる場所を「地図にも載っていない架空の場所」と言った上で、次のようにことばを動かしていく。

 架空といえば、語り手を引き受けている、わたしの正体だって不明です。気障なことを言えば、わたしは夕暮れにしか姿を現さない五位鷺、詩のことばです。ことばにも肉体があり、性別があるなんて不思議ね。仕事もセックスもしますよ。旅行だって、人殺しだって、魚釣りだって、逆立ちだって、ことばは人間がする、あるいは人間だけはしないあらゆることをします。

 「ことばは人間がする、あるいは人間だけはしないあらゆることをします。」という文が「くせもの」である。「あるいは」が「くせもの」である。つまり、いろんなことばを誘う。どんなふうに「誤読」できるかを誘うのである。私は、こういうことばが大好きである。ここからは自分勝手に読んでいっていいのだ、と思えるからだ。
 「ことばは人間がする、あるいは人間だけはしない」って、どっち? するの? しないの? わからないから、私は私の信じるままに読むのである。「人間がする」「人間がしない」に区別はない。差はない。違うことばで書かれているが、同じ「こと」だ、と私は読んでしまう。「ニュートリノ」のときにつかったことばでいえば、それは「理論」と「事実」のようなもの。「あるい」はということばで重なってしまう「ずれ」である。「ずれ」なんて、その程度のものなのである。
 --この「説明」は、うまくいっているとは思えない。自分で書いておいて、無責任な言い方だけれど……。
 でも、瞬間的に、私はそういうことを感じたのだ。
 何かが重なり、そのとき何かが動く。その動きのなかには、あらゆるものがある。仕事もセックスも。もちろんこれは「比喩」だが、「比喩」のなかに「ほんとう」がある。「いま/ここ」と重なる「こと」がある。その「こと」を呼び出すために「比喩」があるのだ。
 そして、北川の書いていることと私の感じていることは違うかもしれないが、私もことばには「肉体」があると思う。というか、「ことば」に「肉体」を感じたときだけ、そのことばを信じることができる。「肉体」としてのことばは、書き手を離れて動いている。ことばの「肉体」のなかにある「いのち」(本能)に従って動いていく。勝手に動いて、何ものかになってしまう。
 そういうことを、北川は次のように書く。

 私が狂死した男M……と呼ぶのは、仮にそう呼ばれている者という以外の意味はないし、それに特定の誰かを指しているわけでもありません。私たちが生きた時代に、あんな男は何人もいました。また、あの男自身が複数の顔を使い分けてもいました。それはいま語っているわたしが、幾つものよこしま口を持ち、分裂し増殖する複数の眼を持っているのと同じことです。

 ほら「同じこと」と「こと」をつかって、北川は何かを言おうとしているでしょ? その言おうとしている「こと」は、私の書きたかったことです。--なんて。あ、また、まずいことを書いたかな? ほんとうは、これも、北川のことばを強引にねじ曲げて、私は先のように感じた--と書くべきことなのだが。
 北川の書いていることを、少し書き直してみる。つまり、私のことばで「誤読」し直してみる。
 Mをはじめとする3人の男は3人でありながら1人である。それを思う「わたし」である。そして、その「ことば」である。同時に「わたし・ひとり」でありながら「3人」以上でもある。「わたし」は「わたし」でありながら、何人にでも「なる」のである。複数の人間(複数の眼をもって世界を観察する人間)に「なる」のである。書くことによって。ことばによって。
 このときの「ある」と「なる」の関係がおもしろいのだ。
 ことばが動く瞬間、ことばのなかで「誰か」に「なる」。自在に変化する。その複数の「誰か」を統合する(統一)するのは誰か。「なる」を誰が「ある」にかえるのか。「わたし」か。「ことば」か。そういものは存在しない。誰も、何も、統合も統一もしない。その不定型の「エネルギー」そのものが「ことばの肉体」である。人間の「肉体」が成長し、動き回るように、「ことばの肉体」も成長し、動き回るのだ。何かが「ある」としたら、動き回る「エネルギー」という「不定型」が「ある」だけである。
 
 でも、これはとても変な「理論」(?)かなあ。でもね、その私の感じている「変」を北川は、今度は次のように書いてくれている。

 狂死したM、《絶滅の王》が誰に対しても許せなかったのは、ことばと行為の不一致でした。しかし、中毒死したOの認識は、心情を過激化させ、思考を眠り込ませる行為と、それを覚醒させることばの関係の本質は、必ずずれる、不一致にある、ということでした。

 「ずれ」「不一致」。あ、うれしいなあ。このことば。(私の書きたかったことを、北川は、こんなふうに書いてくれているのです。--と、ここでも私は強引に書いてしまうのだ。)
 すべては「ずれ」る。すべては「不一致」である--ということで、北川が何を言いたいのか--を無視して、私は考える。勝手に「誤読」を暴走させる。
 「ことばの肉体」ということば自体、何かから「ずれ」ている。一般的な「流通言語の表現」から「ずれ」ている。私のことばは、流通言語とは「不一致」である。
 しかし、「不一致」でしか語れないのだ。何か書こうとすれば、どうしても「不一致」になる。そして、その「不一致」を私のことばがこうして動いているとしたら、それはやはり、ことば自身に「肉体」があって、そこに存在していると考えた方が、私には納得ができるのである。




わがブーメラン乱帰線
北川 透
思潮社



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一色真理『ES』

2011-06-16 11:42:30 | 詩集
一色真理『ES』(土曜美術出版販売、2011年06月20日発行)

 一色真理『ES』は、巻頭の「01 バスの中で」がとてもおもしろい。

バスの中でぼくは生まれた。狛江駅から成城学園前まで行く路線バ
スの中で、父と母が愛し合ったから。父は明照院で、母は若葉町三
丁目で降りていき、ぼくはひとりで大きくならなければならなかった。

バスから降りたとき、ぼくは小学生になっていた。小田急線に乗っ
て 、新宿に着いたときには中学生で、向いの席に座っていた少女
に初めてのキスをした。高校生の間は地下鉄に乗っていたので、長
い長い暗闇だけが窓から見えた。気がつくとそこはお茶ノ水で、ぼ
くは髪の長い大学生。星の一生を研究して論文を書き、後楽園の大
観覧車で恋人と結婚した。

地上に降りたとき、妻は身籠もっていた。ぼくと妻はジャンケンを
して、どちらに歩いていくかを決めた。三人はそれから長い長い間、
坂を登ったり降ったりした。たくさんの夜が自転車に乗ってぼくら
を追いかけてきた。

信号が変わると、息子は道ばたの花になっていた。妻は夜空に陽気
な尾を引く帚星だった。ぼくはひとり深夜バスに乗り込んで、少し
だけ眠ろう。朝は空飛ぶ豚に乗って、あっという間にやってくるは
ずだから。

 ある瞬間が、乗り物(路線バス、小田急線、地下鉄、観覧車、自転車)と地名によって刻印される。そして、そのふたつに関係する「事件」がある。次から次へと起きる「事件」は、マルケスの「神話」のようである。動きが速すぎて、眩暈を感じる。
 この眩暈のなかには、ほんとうは多くのものを省略している、というべきか。書かれることがらは、実は何ひとつ書かれていない。「事件」が乗り物と地名を結びつけながら、動いていくが、そこには「感情」が省略されている。「ぼく」の感情が書かれていない。
 「神話」は、「神」の話である。「神」には「感情」はない。ただ「行動」がある。「神話」は、その「神」の行動を見ながら、人間が「神」に自分の感情を押し付ける形で、自分自身を救済するためのものである。「神」が行動する時、人間の感情は激情にまで高められ、純粋に燃焼に強烈な光を発する。その強烈な光が、世界を鮮やかすぎる光と影とに分類する。私たちは、そこに、世界の断片だけを見ることになる。--この作品に則していうと、その断片とは乗り物と地名である。そして、それに父、母、少女(恋人、妻)をつけくわえることができるかもしれない。登場人物は「人間」であるが、「神話」なので「神」の姿をとっている。つまり、「感情」はそこでは描かれない。「感情」はふりはらわれ、ただ行動がある。
 出会う。愛し合う。身籠もる。出産する(生まれる)。
 このひとつづきの行動のなかには、ひとつ不思議なことがある。どうすることもできなことがらがある。それこそ「神話」でしかありえないこと、「神」の「意思」以外では説明できないことがある。
 出産する--が、生まれる、にかわる瞬間。「主・客」が転換する瞬間。
 突然、世界が交代するのである。--この交代のために、交代を納得する(納得させる?)ためにこそ「神話」というものがある。あらゆる不思議なこと、説明できないことを受け入れる「装置」として「神話」が必要になる。
 産んだ--が、生まれるに変わる瞬間。
 生まれた人間は、世界のことを何ひとつ知らない。産んだ人間が知っていることを、生まれた人間は知らない。激しい断絶があり、その断絶を抱えたまま世界は存在している。その断絶をつなぎとめるために「神話」があり、「神話」のなかに、人は、自分の行動をたたき込む。つまり「神話」を借りて、戦う。暴力を生きる。好き勝手に、自分の思いを代弁させる。そうすることで、人は「神」になる。
 人間のことばで言えば、「世界に参加する」ということになる。自己主張をし、他人と出会いながら、世界を発見していくとうことになる。
 「神」のことば(神話の構造)で、そういうことを言いなおせば、感情のままに行動し、自分だけではなく、他人にまで勝手に動かしてしまう存在になる。

 そんなことまで一色は書いていない。--たしかに書いていない。書いていないように見える。しかし、書かれているのだ。「産んだ」を「生まれた」と「主・客」を逆転させた時から、人は「神話」を生きる運命なのだ。「バスの中でぼくは生まれた」と書き出した瞬間から、一色は「神」として生きている。「バスの中で、母はぼくを産んだ」とも「バスの中で、父と母はぼくを産んだ」とも書けたはずなのに、一色は父と母を「主語」にはしなかったのだから。
 
 一色の、最初の激情は「ぼくは生まれた」に刻印されていると同時に、「ぼくはひとりで大きくならなければならなかった」にも刻印されている。「ひとり」と「ならなかった」。感情、あるいは「ひとり」という感覚は「ぼく」だけのものであり、誰とも共有されない。共有されないことによって、一色は「神話」のなかの「神」になる。「他者」を排除する「非情」な存在になる。
 「非情」というのは、「情」がないということではない。自分の「情」は大切にする。しかし、他人の「感情(情け)」を気にしない。配慮しない、ということである。
 ここから、「神話」の清潔さが生まれる。「他人」のことを配慮しながら行動する「民主主義」では「神」の清潔さは実現できない。
 一色のこの作品における、その証拠。というと、きっと一色は驚く。(この文章を読んでいる他の読者も驚くかもしれない。)
 その証拠は。

少女に初めてのキスをした

 この「少女に」の「に」。キスというのは二人の人間がいて初めて成立する行動である。ひとり「と」ひとりがキスをする。ひとりが、ひとり「に」キスをするのではない。少女「に」キスをするとき、「ぼく(一色)」は「神」なのである。自分自身の感情にしたがい、その感情で「肉体」を動かしている。そのとき、他人(少女)の感情より、自分の感情が絶対的に優先されている。
 そういう瞬間が、誰にでもある。
 (父と)母がぼくを「産んだ」が、ぼくは「生まれた」に変わる時の、自分を絶対的に優先させる「視点」。この「絶対」の感覚が、この詩集を特徴づけるのだ。ある瞬間、「絶対者」となり、世界に対して動いていく。そして、そこに自分の「神話」を作り上げる。少女「に」キスをする。そうして、少女は自分を愛しているという「神話」を作り上げる。

 だが、「神話」だけでは書けないものがある。人間は「神」ではないから、「激情」だけを生きるわけにはゆかない。
 「神話」を人間の体温のなじむところまで引き下ろし、そこで感情を「和解」させないと生きていけない。「神話」を「物語」にまで引き下ろし、そこで「人間」同士として出会わないと、生きていけない。
 --だから、一色は、以後、そういうことを書いていく。「01 バスの中で」では書き切れない「情」を少しずつ丁寧にことばに定着させていくことになる。
 けれど、その一色の意識のなかには「神話」は息づいている。この「01 バスの中で」は一色のことば全体のプロローグなのだ。




歌を忘れたカナリヤは、うしろの山へ捨てましょか
一色 真理
NOVA出版



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