詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

加藤幸子「鶇(つぐみ)」ほか

2011-06-15 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
加藤幸子「鶇(つぐみ)」ほか(「鶺鴒通信」Λ春号、2011年04月08日発行)

 加藤幸子「鶇(つぐみ)」は庭にやってくる一羽のつぐみのことを描いている。一羽でやってくるのはペアリングの相手を探しているのである。(ペアリングは大陸へ帰ってからで、いまは体力づくりのために庭の林檎を食べている、という具合にも読めるが、私はつぐみの習性を知らないので、適当に書いておく。)

孤独が好きなわけではないだろう
あの<大陸>からこの<島>に渡ってく
るときには 隣りの羽音が聞こえるほど
密集していたはず
集合と分散 そういうかたち
わたしだって生きるあいだ複数のかたち
を選択している

 ふいに登場する「わたし」にびっくりしてしまう。つぐみをみながら加藤はそれが「わたし」だと感じているのだ。
 ここで書かれている「複数のかたち」とは海を越えて日本へやってくる時の「集団」のかたち、ペアリングの相手を探すための「単独」行動というかたち。
 この、一義的には「集団」か「単独」かという「かたち」が、しかし、「人間」か「鳥(つぐみ)」か、に私には感じられてしたかがないのである。つぐみへの同化(?)の仕方がとても自然なので、あ、そうか、人間というのはいろんな「かたち」を生きることができるのだなあと思う。
 そして、このとき、「いろんなかたち」を生きるためにつかうのが「ことば」なのだ。「ことば」をつかって動く想像力というものなのだ。
 こんなことはわざわざ書かなくてもいいのかもしれないが、そういうとても自然なことばと人間の関係が美しく結晶している。

ポピリョン ポピリョン
まだ会わぬ相手のために歌の練習をする

 これは庭のつぐみの様子を描いているだけなのだが、あ、もし私がつぐみになって加藤の庭に行って「ポピリョン ポピリョン」と鳴いて求愛したら、加藤はつぐみになってそれに答えてくれるかなあ、というような想像をしてしまうのだ。
 「ポピリョン ポピリョン」。加藤の周りで、つぐみが無邪気にさえずりながら、しかし熱心に求愛したら、加藤はそのままつぐみになってしまうに違いない--そんなことを思わせる。

 どうしてこんなことを思ったのかなあ。
 詩を読み返してみた。

孤独が好きなわけではないだろう

 一羽のつぐみ。そこから「孤独」ということばを引き出している。そして「好きではないだろう」と書いている。私は加藤のことを個人的には何も知らないが、ひとりで暮らしているのかもしれない。ひとりで暮らしているけれど「孤独が好きではない」。「孤独が好きではないだろう」と書いた瞬間から、加藤にはつぐみと加藤の区別がなくなっている。「いのち」がつながっているのだ。
 そして、この「いのち」のつながりが「複数のかたち」へと自然につながっていく。「いのち」はあるときは「つぐみ」のかたちをとる。あるときは「人間」のかたちをとる。加藤がいま「人間」なのは、たまたまなのだ。
 たまたま「人間」のかたちをとっているだけだから、つぐみの長い渡りの旅も、相手を探すために歌の練習をすることも、それからまた大陸へ帰っていく「夢」も、自分自身のこととして書くことができるのである。
 加藤には何かしら「複数のかたち」を自在に行き来することができる「いのち」の不思議なかたち、「いのち」がそれぞれのかたちになる前の「記憶」のようなものがあるのかもしれない。
 「記憶」という作品とつづけて読むと、そのことがいっそう強く感じられる。

一億二五〇〇万年前
前肢に羽根をつけた竜がいた
獲物を取るためにより速く
         走りたいとか
彼女に見せたいとか
崖を駆けあがるのに楽したいとか
いろんな理由があったにせよ
突然からだが空に浮かんだときの
竜の驚きははかり知れない
異次元の世界に連れて行かれた
初めて味わう軽やかさ

一億二五〇〇万年後
わたしに竜の感触が伝わってくる
そしてある日 両腕を翼に
         つけ変えてみた

 この詩でも「わたし」が突然出てくる。「わたし」は「獲物を取るために……」以後のことばを動かした人間なのだが、ことばを動かすことで「竜」の気持ちになり、突然、あ、私は「竜」ではなかったのだと気づいた感じで「わたし」ということばがとびだしてくる。
 変な言い方になるが。
 「竜」のことをまるで自分のことのように思う。そして実際、ことばのなかで「竜」そのものになるのだが、そのときの「一体感」が逆に加藤に「人間であることの記憶」を呼び覚ますという感じである。
 --ここに書いてあることと逆じゃないか、という声が聞こえてきそうなのだけれど。そして、確かに、そんなふうに読むとここに書いてあることと逆のことを語ることになってしまうのだが、私には、加藤がいったん「竜」になるからこそ「人間(わたし)」であることを強く意識するというふうに感じられるのだ。「竜」という「いのちのかたち」を実感した後、「人間」という「いのちのかたち」にかえる。そして、そこにはただ「いのちのかたち」というものがあるだけで、「竜」であろうが「人間」であろうが、いっしょなのだという「決意」のようなもの、「思想」が感じられる。
 これは「鶇」の詩の場合も同じだ。大陸から日本に渡ってくるときの様子を想像し、それをことばにしてみた瞬間、加藤は「つぐみ」というかたちを生きていた。そして、「つぐみ」であることに気がついた瞬間、あわてて(?)「人間」というかたちにもどって「わたしだって」と「わたし」ということばを発したのだ。

 加藤の「わたし」は、ふつうの「わたし」とは違うのだ。
 「わたし以外のいのちのかたち」を潜り抜けることで、「わたし」というもののありかたを再認識する。「わたし」は「人間」である。けれど「人間といういのちのかたち」はたまたまなのであって、それは「つぐみといういのちのかたち」、「竜といういのちのかたち」と「複数のかたち」を自在に生きるものなのだ。
 そして、この「複数のかたち」をいきる「いのち」にとっては一億二五〇〇万年前も一億二五〇〇万年後も関係がない。「もの」の「かたち」を超越するように、どんな「時間」も超越する。いや、超越ではなく、融合させる。「ことば」以前の「いのち」の「場」へ帰っていく。そこから一気に、どこへでも噴出してゆく。
 「ことば以前」へ帰り、そこから「ことば」を超越していくという特権的運動をするために「ことば」がある。「わたし」が存在しなければならない。 




自然連祷―加藤幸子短篇集
加藤 幸子
未知谷



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財部鳥子「葱嶺まで」ほか

2011-06-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
財部鳥子「葱嶺まで」ほか(「鶺鴒通信」Λ春号、2011年04月08日発行)

 東日本大震災後、どうも私自身のことばへの「好み」がかわってきたように思う。うまく言えないが、いままでと同じようにことばが動いていかない。他人のことばを読んでも、自分でことばを書いても。
 そんな感じで、感想を書こう書こうと思いながら、そのままになっている作品がいくつかある。
 財部鳥子「葱嶺まで」。気にかかったところ、傍線を引いたところがある。

葱嶺にあこがれていたころのわたしは若く
その嶺を黄金が領ずるところとゆめみていた
キルギス人たちは探検記の奥深く陥没し
探検の馬たちは不幸なクサビ形をしていた

それは砂漠の花のかたち 無音に消えるかたち
ふたたび出会わないかたちだ
今日 読んだ先達の詩集のには「私のなかを寂寥が吹きすぎ」
とありその言葉は空想の嶺をはるかに吹いて去った

 ことばの奥に「漢語」のリズムがある。「領ずるところ」というような表現に「漢語」のリズムを感じる。漢語、といっても私は中国語を知らないし、漢文もわかりはしないのだが、簡単にいうと漢字の力(凝縮と解放)を借りてすばやく動く運動、そのリズムをうちに秘めたことば--そういうものを感じるということである。
 「探検の馬たち」という表現にも、同じものを感じる。書いていることはわかる、けれど、そういうことばを「日常」ではつかわない。それは「日常」を超えた(あるいは結晶させた)、「日常」とは別の次元--なんといえばいいのかなあ、一種、非情の世界のことばである。「非情」というのは「情けがない」という意味ではなく、情けを気にしないで動く「自然」(宇宙)のことば、ということになる。
 非情のことば--それはいつでも美しい。美しすぎて、ちょっと困る。その「困る」という感覚が、大震災後、私のこころの奥に揺れている。
 でも、まあ、書いてみるかなあ。どんなふうに私のことばが動くか、それはいままでと同じなのか、ほんとうに違っているのか--それも確かめたいし……。

 この作品のなかで、私が傍線を引いたのは「無音に消えるかたち」という部分である。とても印象に残ったのだ。読んだ瞬間、私は何かを感じたのだ。でも、その感じたことを私はメモしていない。(いつも読んだ瞬間に余白に私は何かを書き込むのだけれど、何も書いていない。)
 これから書くことは、最初に読んだ時の感想とは違っているかもしれない。同じかもしれない。わからない。いま、感じるのは。

無音

 そのことば--そこに、ことばには反して「音」があるという感じだ。「音」がないのではない。「音」は「消えていく音」なのだ。消えていくというのは、そこに存在していた音そのものが消えるというのではなく、この世界から「音」を奪っていくということだ。そして、聞こえてくるのは、その「音」が奪われる時の「悲鳴」のようなものである。
 聞こえないけれど、聞こえる音。--それが無音。
 鼓膜をふるわせる音ではないけれど、鼓膜を通過して(通り越して、超越して?)こころに直接届く音。--それが、無音。
 それは、想像する時にだけ、人間が聞くことができる音、ということかもしれない。
 何か、この想像する時だけ、そこに存在するものがある--という感じが「非情」と通い合うのである。
 「非情」というのは、もしかすると「情けを配慮しない」ではなく、あまりにも「情け」と密着しているために、逆に違ったもの、反対のものに感じられるものなのかもしれない。
 それは「そこにある対象」には存在しない。けれど、それについて何かを思うときの人間のこころのなかに「ある」。その「こころのなか」と完全に一体になっているために、そこにあるかどうか判断する必要のないもの。それが「非情」の「情」である。
 あ、何を書いているか、わからないね。私のことばはこんなふうに暴走する。だから、もとにもどる。考え直す。

無音に消える

 そのとき、「無音」の「音」というのは、そこには存在しない。対象のうちには存在しない。けれど、何かが消えるということを見つめる時、そしてその消えるものを想像する時、それに呼応するようにして「こころ」が聞き取ってしまう「音」にならない「音」、「音以前の音」の--それこそ、「かたち」(姿)、つまり「耳」ではなく「目」で見てしまう何か。
 あ、ますます混乱してくる。

無音

 そのことばとともにあるものを、私は「耳」ではなく、たとえば「目」で見ているのだ。「目」で見ているから、目は音を聞く器官ではないから「無音」と呼ぶしかないのである。けれど、その「音」は「肉体」のなか、たとえば「こころ」という領域では「耳であり目である器官」(目と耳が融合している変な器官)で感じてしまうのだ。
 「非情」に触れると、「肉体」が変化する。「耳」は「耳」のままではいられない。「目」は「目」のままではいられない。人間に対して何の配慮もしない何かに触れるとは、人間の「肉体」に対して何の配慮もしないものに触れるということである。そういう時、人間の肉体は「耳」は「耳」のままではいられない。「目」は「目」のままではいられない。そこにある「不思議」と向き合うために、「肉体」を超えるなにかになる。
 対象が「非情」であるとき人間も「非情」になる。その出会いが、いままで存在しなかった「美」を結晶させる。
 そういう「美」と財部が出会っていると感じる。そして、それは実際の「葱嶺」とは関係がない。(たぶん)。財部は実際の中国(?)の風景ではなく、そのことを書いた「ことば」に触れて、そういう「美」の世界へ旅している。--そこで結晶した「美」。それを、私は美しいと感じたから傍線を引いたのだと思う。いまも、それを私は美しいと思うけれど、いま感じている美しさが、この作品を読んだ時に最初に感じた美しさであるかどうか、わからない。



 財部は馬慶珍の「きりぎりす」を翻訳している。

彼が左右の羽根を打ち合わせてなくときには右羽根の短い箇所が左と揃うのを私は見届けた。先天的な発育不全なのだ。こんな障害を持った虫が、彼の天職を尽くして鳴きやまないのには、まったく感嘆するほかはない。

 この「天職」ということばに、私はやはり傍線を引いている。中国語でも「天職」というのかどうかわからないが、この「天」は「非情」である。「天」は「非情」の代名詞である。「天」(非情)に触れた時、人は誰でもびっくりするのである。
 たぶん、そんなことを私は感じたのだと思う。
 で、この短編のおもしろいのは、その「天職」を観察するうちに、作者の視点が変わっていくところである。

 しかし、彼が障害者の身で職務に忠実だとだけ思ってはならない。

 ということばを挟んで「天職」「職務」が、人間がかってにおしつけたもの、「想像野産物」であることが考察されていくのだが--そして、それにともない「非情」が「情」へと変わっていくのだが、まあ、これは長くなるので引用しない。「鶺鴒通信」で読んでもらうしかない。
 この変化--そこに「葱嶺まで」と同じように、「ことば」が関係していることが、私にはおもしろいと思う。「天職」も「職務」も原文にあることば、つまり馬慶珍のことばなのかもしれないが、「天職」ということばを書かなければ、きっとこの短編は違ったものになるなあと思うのだ。

 この、財部の向き合っていることばの力--それは、大震災の後も同じように動いていくものだろうか。
 書きながら、私は、少し不安なのである。
 私は財部が書いていることばが好きである。好きであるけれど、それをずっと持続したまま動かして行って、どこで大震災後のことばとうまく出会うことができるのか、よくわからない。--わからないまま、ともかく、きょうはこんなふうに書いてみた。




財部鳥子詩集 (現代詩文庫)
財部 鳥子
思潮社



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アトム・エゴヤン監督「クロエ」(★★)

2011-06-14 11:54:20 | 映画
監督 アトム・エゴヤン 出演 ジュリアン・ムーア、リーアム・ニーソン、アマンダ・サイフリッド

 ことばが「妄想」を呼ぶ、ことばから「妄想」が暴走する。まるでフランス映画のような映画だねえ。--しかし、これを、どうやって映像にするか。むずかしいなあ。
 セックスをことばは、いまはどこにでもあふれているので、それ自体は、もはやエロチックですらなくなってしまっている。たとえ、それを「清純」なアマンダ・サイフリッドが口にしても、である。ことばを超えるエロチック、しかも嘘のエロチシズムが必要なのだが、具現化されているとは思えない。アマンダ・サイフリッドの表情にそそられない。あ、これは私が男だから? アマンダ・サイフリッドが誘っているのが女だから? もし、女性から観てアマンダ・サイフリッドが魅惑的なら、この映画は成功しているということになるのだけれど。
 ジュリアン・ムーアは、どうなんだろうか。「妄想」か「現実」--ではなく、彼女にとっては「妄想」が「現実」なのだが、その「妄想」が「ことば」によって引き起こされるのか、それともアマンダ・サイフリッドの姿によって引き起こされるものなのか。ジュリアン・ムーアは、あくまで「ことば」に反応しているけれど、そう? そんなもの? あ、これはさっき書いたことと関係してくるなあ。アマンダ・サイフリッドがどう見えるかということと関係してくる。
 うーん。
 クライマックス。ジュリアン・ムーアとリーアム・ニーソンがパブ(?)で会っているところへアマンダ・サイフリッドが偶然あらわれる。彼女に対するリーアム・ニーソンの態度(表情)からジュリアン・ムーアがアマンダ・サイフリッドの嘘に気づく。--そんなふうに人間の表情に敏感なジュリアン・ムーアが、「ことば」を語るアマンダ・サイフリッドの表情に何を感じていたかが、ちょっとわからない。
 わからないように、隠していた?
 それなら名演?
 自分の容姿に自身をなくし、自分自身にいらだつ感じは、いいなあというか、うまいなあと思うのだけれど。
 ジュリアン・ムーアとアマンダ・サイフリッドの「欲望」のずれ--これは、映画ではなく「ことば」そのもの、つまり「小説」の方がくっきりと表現できたのかも。あるいは、ジュリアン・ムーア、アマンダ・サイフリッドではなく、もっとヨーロッパっぽい(フランスっぽい)役者なら、おもしろかったのかなあ。どうも、二人の「肉体」には不透明さが足りない。つまり、ことばではわからないけれど、視線や触覚、嗅覚、聴覚が引きつけられていくという感じがしない。ほら、小道具に「音楽(聴覚)」「ローション(触覚、嗅覚)」が人間の欲望の奥に動いているということを暗示するものが丁寧につかわれているのにね。脚本家の意図と監督の演出方針、俳優の人間がかみあっていないのかな? ほかの役者で観てみたいという気持ちだけが残った。
                     (2011年06月13日、ソラリアシネマ3)



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文屋順『仕舞い』

2011-06-13 23:59:59 | 詩集
文屋順『仕舞い』(思潮社、2011年06月01日発行)

 文屋順『仕舞い』は私にはよくわからない。たとえば「誰もいない」。

今こうして私自身が
この世に存在していることに
どんな意味があるのだろう
確かなことは分からないが
限りなく続いているこの空間に
何らかの法則があって
常に新しい一日が創られ
それを受け止める私が
かろうじて生きているのだろう

 「意味」ということばが3行目に出てくるが、文屋のことばは「意味」が強すぎるのかもしれない。文屋がことばに託した「意味」があって、それが「誤読」することを許してくれない。つまり、好き勝手に読むことができない。
 これは、私にはつらい。
 私はそこにあることばを、書いた人の意図(こめた意味)とは無関係に読むのが好きなのだ。こんなふうに読めるかな? こういう読み方はどうかな? そう考えるのが好きなのだ。そして、どんなふうにでも好き勝手に読ませてくれる詩が好きなのだ。私がどんなふうに「誤読」しようが、その作品自体が独自の力でいつまでも平然としている--そういう詩が好きなのだ。
 文屋のことばは、どこを叩いてみても、私の好き勝手を許してくれる何かがとびだしてこない。とても固い殻の向こう側に何かがあるのだけれど、その何かとはきっと「意味」なのだと思うのだが--うーん、私は、文屋のようには考えることができないのである。「常に新しい一日が創られ/それを受け止める私が/かろうじて生きているのだろう」という不思議な虚無感(?)、敗北感(?)のようなものは、おっ、不思議。こんなことばは知らないなあ。とことん突き動かして、ねじ曲げてみたいなあと思わないわけではないのだが、それに先だつことばが私の考えを完全に超えていて、何が書いてあるのかわからないのだ。

限りなく続いているこの空間に
何らかの法則があって
常に新しい一日が創られ

 この「空間」とは何? 「世界」なら、まだなんとなくわからないでもないけれど「空間」とは何? 空間のなかに法則があり、それが一日を創る? 空間が「一日」という「時間」を創る?
 どうも文屋の「空間」は、私の考えている「空間」とは違う。違いすぎて、何のことかわからない。--いいかえると、文屋は「空間」に私の知らない「意味」をとても強い形でとじこめていて、その強固さの前で、私は動けなくなるのである。
 「空間」を「世界」と読み替えていいのかどうか。あるいは「宇宙」? それとも「神」? 私は神の存在を信じているわけではないが、「この空間(宇宙)」のどこかに「神」がいて、それが「新しい一日を創る」という言い方なら、まあ、聞いたことがあるような気がする。でも、「空間」が「新しい一日を創る」というのは、見当がつかないのだ。
 さらに、なんとなくわかるような気持ちになれそうな「それを受け止める私が/かろうじて生きているのだろう」も、考えはじめると、「空間」の前で再びつまずくのだ。
 「新しい一日」って何? 空間が創り出すものなら、その「一日」は「空間」にならない? 「空間」が「空間」以外のものを創り出せる? もし、創り出すとしたら何を? わからないまま、そうか、文屋は「一日」を「新しい空間」と考えているのか、と思うのだが……。
 とっても、変。
 2連目は、次のように展開する。

古いものを大切にして
前衛を好まず
いつも私の周りで
次々に起きる大きな波に
すっぽり飲み込まれないように
細心の注意を払う
息切れた明日がやってきても
もう驚かなくなった

 「古いもの」「前衛」。あ、これは「空間」ではないね。むしろ「時間」。「歴史」。そして「時間の断絶」。どうも文屋は「時間」を「空間」と呼んでいるように思える。
 「時間」を「空間」と考えるのは、その「時間」が「大きな波」となって文屋を「すっぽり飲み込」むからかもしれない。「大きな」と「すっぽり」という感覚が(印象が)、「時間」を「空間」のように広がったものであると感じさせるのかもしれない。
 「時間」の「意味」は、人間を飲み込む「巨大な空間のようなもの」ということになるのかな?
 「この世」、つまり「いま」という「時間」は「空間」となって「ここ」に広がっている。そして、その広がりのなかから、いつも新しい「時間」が「空間」のように広がりをもって生まれ、私(文屋)を飲み込もうとする。その広がりの一形式に「古い」がある。また別の一形式に「前衛」がある。私(文屋)は、そのどちらにも飲み込まれないようにして、「きょう」の次の「新しい一日」、つまり「明日」を迎えるのだが、あらゆる「空間」に飲み込まれないように注意をはらっているので、それがどんな「広がり(大きさ)」であっても驚かない。
 あ、つらいなあ。こんなふうに、なんというのだろう、「肉体」とは無縁の「頭」のなかのことばを追い掛けるのは、つらいなあ。「意味」の、次から次へと押し寄せてくる攻撃に向き合っている感じがしてくる。
 ちょっと「意味」を弱めてくれない? 詩なんだから「いいかげん」に読んでもいいようにしてくれない?
 なんだか怖いのである。

 そして、この文屋のことばの運動が、まったくどうなっているのかわからないのは、いままで読んできた2連に対して、次のことばが続くからである。

しばらく無音が続いた後
長い間閉ざされていた心の反射板に
甲高い鳥の声が響いてきて
急に賑やかになる
いつの間にか無口な私が
お喋りに夢中になっている

誰もやって来ない
誰もいない
客の少ないローカル線の無人駅で
紅葉の映える山をしみじみ眺める
田んぼには冷たい空気のなかで
置き去りにされたまま
じっと耐えている案山子がいた

 「しばらく無音が続いた後」というのは「時間」だねえ。「長い間」というのも「時間」だねえ。
 「時間」は「空間」だったはずなのに、「時間」にもどっている。
 そうすると、「空間」は?
 「空間」にもどる。「限りなく続いているこの空間」というのは、誰もいない(つまり、空間を邪魔する人間がいない、「古い」とか「前衛」とか、「いま」とは違う「時間」を持ち込む人がいない)空間--田舎の、無人駅の、「空気」にあふれた「空間」。
 そこで文屋は文屋を「置き去りにされた/案山子」と思う。案山子を自己同一視する。そして、1行目へもどるのだ。「今こうして私自身が」案山子のように、置き去りにされてこの「空間」に存在していることにどんな意味があるのか、と問いかけてみるのだ。

 何か、よくわからない。
 この私の読み方はきっと「誤読」なのだろうけれど、この「誤読」にはちっとも楽しみがない。こんなに間違えることができるという喜びがない。ことばを読んで、遊ぶ喜びがない。--いや、これは、私が単に文屋のことばで遊ぶことができないというだけのことなのだが……。
 わからない、ではなく、「怖い」といった方がいいのかもしれない。
 「鬼の歌は歌えない」の1連目。

じわじわ追い詰められる毎日の
何気ない言葉の先端に
ふと立ち現われる醜い動きが
私の心を少しずつ毀していく
まだ何も見ていない
未知の人間性の彼方に
埋もれている貴重な原石を掘り起こして
輝き始めるまで丹念に磨いている

 「まだ何も見ていない/未知の人間性の彼方に/埋もれている貴重な原石」。これが、怖い。いろんなものを見てきた人の、その肉体のなかに沈んでいる原石なら想像できるが、まだ何も見ていない--つまり、「この世」に汚染されていない「未知の人間性」というような、純粋抽象的な「意味」が、あらゆる「誤読」を拒絶しているようで、私は立ちすくんでしまうのである。
 この「意味」だらけのことばの塊は、いったい何だろう。



仕舞い
文屋 順
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郡宏暢「夏」、ブリングル「そしてお重をあけてみました」

2011-06-12 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
郡宏暢「夏」、ブリングル「そしてお重をあけてみました」(「詩誌酒乱」5、2011年04月28日発行)

 郡宏暢「夏」は、「意味」が生まれそうで、生まれない。ことばが完結せずに動いていく。そのくせ、別な場所で「抒情」という「完結」を差し出す。作品のなかにも「別の場所」ということばが出てくるが、「いま/ここ」と「いまではない/ここではない」ものが同時に見つめられている。その「差異」が「抒情」を結晶化させる。

予感
から崩れ始める夏の
刻まれた影をつなぎ合わせれば
ここではない別の場所
夏から逃れ 通り過ぎた場所の
踵の散らばった路地や
陽の差さないベッド
私たちはよごれた足先だけを丹念に洗って
短い眠りにつく

 ことばが完結せずに動いていく--というのは「つなぎ合わせれば」、それがどうなるか(どうなったか)が、「動詞」として表現されないということを指して書いたことばである。「つなぎ合わせれば」「別の場所」がどうするのというのだろう。浮かび上がってくる。思い出される、ということかもしれない。その「動詞」を郡は郡自身のなかに隠し、読者の想像にまかせる。
 これは一種の罠である。
 省かれた動詞、隠された動詞--それを想像するということは、郡の想像力に加担し、その世界へ入っていくということである。
 この詩の場合、「別の場所」の「場所」そのものは、結局わからない。「場所」ではなく、その「場所」でしたこと、歩き回ったこと、そして「足先だけを丹念に洗って」眠ったこと--断片的な「肉体」の記憶が書かれるだけである。その「肉体」の記憶を追い掛けながら、読者は(私は)、自分の「肉体」の記憶をたどる。
 自分の「肉体」しかことばを確認する手立てがない時、どうしたって、それは「抒情」になる。自分にとじこもる。「丹念」とか「短い」とか、そういうことばとともにある肉体と精神の「ある状態」。
 青春というと変かもしれないが、まあ、青春だな。人間というのは、だれでも「いま/ここ」より少し前なら、それは「若かった」と感じ、何歳であろうとそれを「青春」と思いたがるものである。そういうこころの動き--これを、私はおおざっぱに「抒情」と呼んでしまう。
 その「状態」のなかで、「肉体」がしようとしてできなかったことを、「哀しみ」でみつめなおす--それを「抒情」というべきか。
 あれっ、ついさっき書いたことと、ちょっと違う。
 どっちの「抒情」の定義が正しい? もう少し、整理して書けないか……。と自分で自分に問いかけてみるが、
 まあ、どっちでもいいのだ。ことばは、その周辺をうろついている。いいかげんにしておいてかまわないだろう。詩、なのだから。
 ともかく、ああ、抒情だねえ。抒情詩だねえ、と思いながら、私は郡のことばを追っていく。

裂け目から
手を差し入れ
柔らかい何かを引きずり出す
そのまま夜が破れてしまうのだとしたら

 ここが、美しい。何が書いてあるか「意味」はわからない。だから美しい。何の裂け目か問わない。ただ「裂け目」という「破綻」に誘われ、手を差し入れる。なかに何があるか。何もない--と詩は「抒情」ではなくなる。柔らかい--つまり、輪郭のはっきりしない不透明なものを引きずり出す。そのときの、不思議な「期待」というか、こころの動きがここに書かれているのだが、その次の

そのまま夜が破れてしまうのだとしたら

 この1行が、あいまいで、とてもいい。「夜」って何? 「裂け目」って「夜の裂け目」だったのか? その「裂け目」が、ひっぱりだしたものによって、「裂け目」ではいられなくなって、完全に破れてしまう。開ききってしまう?
 何か、突然、具体的な「肉体」の動き、肉体の(手の)感触から、「形而上学」にかわってしまう。「精神」にかわってしまう。
 あ、「抒情」とは「肉体」の不透明さを「精神」のうそっぱち(はったり)で「透明」にしてみせることなんだなあ、透明にできなくても、透明を感じさせる一瞬を浮かび上がらせることなんだなあ、と思う。
 「夜が破れる」--この、「比喩」でしか語れない何か、そこに「抒情」が結晶する。でも、その結晶って何?
 あ、これは問い詰めてはいけないことがらなのである。詩なのだから、いいかげんにしておけばいいのである。
 でもね。
 郡は説明してしまう。
 詩は(詩のことばは)、以後、「抒情」に塗れて、ちょっと苦しい。

わずかばかりのまどろみは
懐かしい隔たりに満ちたものになっているはずなのに

 「夜が破れる」は「まどろみ」(1連目では「短い眠り」と書かれていた)が破れるということ--と郡は説明してしまう。「裂け目から/手を差し入れ/柔らかい何かを引きずり出す」というのは「眠りの裂け目から」夢へと「手を差し入れ、柔らかい何か(夢で見ようとした何か)を引きずり出すということであり、夢から夢の何かが引きずり出された結果、夢は破綻し、眠りも覚める。それが「夜が破れる」ということ。
 あ、これでは、なんだかうるさいねえ。説明が(意味が)強すぎてしまう。

かつてこの街を満たしていた暴力のにおいも
いまは立ち去り
色の無い風の通り道となった街路で
誰のものでもない踵を拾い集める夢を見ながら
私も
お前も
暗いニュースが舞い降りるのを待っているのだ

 どこで、郡のことばはおかしくなったのだろうか。「短い眠り」を「まどろみ」と言い換えたときかもしれない。「短い眠り」が「夜」の間は、まだ、想像力を刺激し、読者に(私に)勝手なことを思いを許してくれたが、「まどろみ」で想像力の枠が限定されたのがつまずきかもしれない。「まどろみ」は奇妙に「文語」的なのである。「文学」的なのである。「古い」のである。
 で、その「古さ」にひっぱられて、「かつて」という「過去」へとことばが動いてゆく。1連目の「別の場所」は「いまではない/ここではない」だった。「いまではない」は「将来」でもありえるはずだった。けれど、その「いまではない」を2連目で「かつて」(過去)に限定してしまった。
 記憶を抱えて、人間は、同時に知らない世界(未来)へと歩いていけるものだが、郡は、記憶を抱えて「かつて」(過去)へ歩いてゆく。そうすると、せっかく、1連目で「完結」を拒んでいたものが、一気に「完結」してしまう。時間は「過去-いま」という「枠」のなかでおさまってしまう。「枠」のなかでおさまってしまうから、せめてもの「暴力」として「抒情」がその枠のなかで暴れる。
 「暗いニュース」の「暗い」の、抒情まみれの--なんとも気持ち悪くなる感じ。抒情の念押しがつらいなあ。
 この念押しで作品が完成するといえるはいえるけれど--うーん、私は、違う方向へ動いていくことばが読みたかったなあ。「完成」への意識が、ことばをしばりつけすぎているのかもしれない。



 別な形で、いま書いたことを補足すると……。
 ブリングル「そしてお重をあけてみました」。

メデューサの蛇さん
憂鬱なうどん
咲きそうで咲かない白木蓮
ばかり
くす玉だよー
めでたいよー
どんがすかどんがすかどんどんどん
こだまをよける
入射角と反射角
計算なんてできないから
感覚的によける
わたしの内側で
乱反射する価値観
よけたりぶつかったり
定まらないけど
プラス思考で
ファンファーレを鳴らす

 「計算できないから/感覚的によける」。いいかげんでしょ? 「計算」でしばらないのだ。「計算」(つじつまあわせ)が始まると、せっかく開いた想像力が閉じてしまう。もちろん想像力を硬く閉ざして凝縮し、結晶化してしまえばそれはそれでいいのだけれど、その結晶を「どこで」(いまではない/ここではない、どの別の場所で)ことばにするかが、とてもむずかしい。
 ブリングルは、郡のように「完結」をめざさない。ただ、ことばを開いてゆく。そうして、とんでもないところへ出てしまう。

うねる価値観
ぱっくり
傷口がひらく
嘘つきの舌先がちろり
重い口をあけ
ひねり
身をよじらせて
尾っぽを
ぱくんちょと
くわえる

のみこんで
輪をつくる
メビウスの蛇さん

 あれっ、メデューサとメビウスって同じ? 間違っていない? でも、いいか。ことばは、間違えるためにある。正解にたどりつくためではなく、正解を叩き壊し、間違いへと突き進むためにある。
 ブリングルの書いていることは間違っている。だからこそ、その間違いのなかにある可能性がおもしろいのだ。人間は間違えることができる。それは、そして「間違い」を反省し、正しいことをするために間違えるのではなく、ただ、もっともっと間違えることができるということを知るためにこそ間違えるのである。




次曲がります (現代詩の新鋭)
ブリングル御田
土曜美術社出版販売



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六月博多座大歌舞伎(夜の部)

2011-06-12 22:52:05 | その他(音楽、小説etc)
六月博多座大歌舞伎(夜の部)(2011年06月12日、博多座)

 「仮名手本忠臣蔵 七段目 祇園一力茶屋の場」「英執着獅子」「魚屋宗五郎」。
 「仮名手本」の幸四郎はひどかった。芝居のおもしろさは「肉体」のおもしろさである。人間の「肉体」は似ているようで似ていない。動く瞬間、動く限界の位置がそれぞれ違う。歌舞伎というのは肉体の誇張である。ふつうは人間の肉体はそんなふうには動かないのだが、動きを拡大することで、肉体のなかにあることばにならないものを見せるということに特徴があると私は思っているのだが、幸四郎の芝居は「肉体」が動かない。「台詞」だけが動く。台詞でストーリーを説明するだけである。極端に言うと、台詞を言ってしまってから、肉体の動きがそれを追いかけている。これでは小学生の「学芸会」である。緊張して台詞を忘れてしまいそう、忘れないうちにちゃんといわなくっちゃ……と焦っている小学生の学芸会である。
 魁春が、梅玉から、夫は殺された--と知らされ、ことばをなくす場面と比較するとわかりやすい。人間のことばというのは、いつでも肉体から遅れて動く。肉体が先に動いて、それからことばがやってくる。この動きを、幸四郎は先にことばを発してから肉体を動かしている。--まあ、「好意的」に言えば、幸四郎の役は「酔っぱらったふり」をしている、つまり芝居をしている役所なのだから、芝居そのものを演じているということを演じて見せた演技といえるかもしれないけれど。ねえ、そんなばかな、である。
 藤十郎の「英執着獅子」は前半の恋する姫の部分はよかった。手、指先の動きなど、まるで少女である。(口がぱくぱく動いてしまうのは、息がつづかないからなのだろう。まあ、みなかったことにする。)しかし、後半の獅子の踊りはつらいねえ。特に、獅子のたてがみをふりまわすところなど、一生懸命はわかるけれど、それがそのまま動きにでてしまう。たてがみがまわりきらない。腰を中心に上半身がまわらないのだ。芝居というのは役者が苦しい姿勢をしたときに美しく見えるというが、それはあくまで苦しみを隠しているとき。たとえば、姫を演じたときの、腰を落としたままの動き。けれど獅子のように、苦しみが見えてしまうと、なんだかはらはらしてしまう。
 「魚屋宗五郎」は特別すばらしいわけではないと思うけれど、幸四郎と藤十郎がつらかっただけに、菊五郎がかっこよかった。酔っぱらいの感じも幸四郎の酔っぱらいとは大違い。華がある。酔って乱れる。片肌脱いで、裾も乱れて、褌までちらりと見せる。そのとき舞台が活気づくのである。芝居小屋の空気が生き生きしてくるのである。芝居というのは、芝居を見るんじゃない。役者の肉体を見るのだ、ということがその瞬間わかる。よっ払いというのは現実ではみっともないが、それは現実の「人間」が不格好だからである。菊五郎のように色男なら、乱れたところが華となって輝くのである。菊五郎の芝居は、それをみて「人間性」の本質を感じる(人間はこういう存在なのだ、と実感する)ということはないのだが、やっぱりいい男だなあ、色男だなあ、持てるだろうなあと人をうらやましがらせるところがある。役者の「特権」を持っている。と、あらためて思った。



 博多座の観客のマナーは相変わらず悪い。お喋りが耐えない。台詞が始まるまで芝居ではないと思っているのかもしれない。だから「英執着獅子」のように、役者がしゃべらないとき、踊りのときがひどい。ひそひそ声がうぉーんという感じで歌舞伎座全体に広がる。全方向からノイズが聞こえてくる。まいる。


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誰も書かなかった西脇順三郎(224 )

2011-06-12 09:18:12 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。「Ⅱ」の部分。

生存競争は自然の法則で
この生物のたたりは
ある朝ヒルガオの咲く時刻に
十字架につけられなければならない

 書き出しの4行。2行目の「たたり」がおもしろい。「法則」は科学的なことばだが「たたり」は宗教的というか、人間的なことばだ。ふたつのことばが出会うと、そこに違いと同時に何らかの共通性が浮かび上がってくる。この問題をことばをつくして書いていけば「哲学」になるかもしれない。西脇はそういう領域へは足を踏み込まない。実際はいろいろ考察しているかもしれないが、ことばのうえではさらりと駆け抜ける。この軽さがとても美しい。人は--まあ、私がそのいちばんの例かもしれないが、自分が気づいたとも思うことは延々と書きたがる。西脇は考えたいやつは考えればいい、という感じで「ヒント」だけ書くと、さっさと先へ進んでしまう。そこに軽さがある。
 それにしても、この「たたり」はいいなあ。「音」に深みがある。「法則」よりも「肉体」に迫ってくる。「法則」が「頭」に響いてくるのに対し、「たたり」は「肉体」に響いてくる。「法則」が「高尚/聖/純」に対し「たたり」は「低/俗/濁」である。まあ、こんな「分類」は、ようするに「流通言語」の問題にすぎないが……。

太陽は自然現象の一部に
すぎないがいまのところその領域で
人間の存在をたすけている
そういうことは昔セタで
アワモチとショウチュウを飲もうとする
瞬間に微風のようにうららかに
背中をかすつて行つた

 前半の「哲学的(?)」なことばの動きと後半の俗な感じのぶつかりあいが気持ちがいい。「高尚」なのものは窮屈である。「頭」に働きかけてくるからである。この窮屈を西脇は「俗」で叩きこわし、解放する。
 私の読み落としか--私が、無意識的にそうしているのかもしれないが、この逆はない。「俗」を「聖」がたたきこわすという楽しみ(?)は西脇のことばの運動にはない。必ず「聖」を「俗」がたたきこわし、窮屈なことばの運動をたのしい「音楽」に変えてしまう。

 「俗」を「聖」たたきこわす--は、「俗」を「聖」に高める、というのが一般的な言い方かもしれない。--もし、そうだとすると、私が「聖」を「俗」がたたきこわすと書いたことは、ほんとうは「聖」を「俗」に高めると言っていいかもしれない。
 実際、西脇の書いている「俗」は、私の知らない「俗」である。「俗」ととりええず私は書いているのだが、それは書かれた瞬間から「美」、それも「新しい美」になっている。「俗」が「美」に高められている。--この「高める」ということばを西脇が好むかどうかはわからないが、「俗」と思われていたものが、「俗」の範疇から超越して、新しい力を獲得しているのを感じる。
 誰も気がつかなかったその「新しさ」--そこに、西脇の詩がある。

 「セタ」というのは日本の地名である。瀬田か勢多か、もっとほかの文字か、私は東京(たぶん)の地名には詳しくないのでわからないが、西脇の住んでいた地名だろう。それをカタカナで書くことで、いったん「俗(現実、形而下)」から切り離して、ことばを軽くする。そのあと「アワモチとショウチュウを飲もうとする」という突然の飛躍がある。「俗」そのものの噴出がある。
 しかし、それよりもおもしろいのは、

瞬間に微風のようにうららかに

 この行の「うららか」だ。それは冒頭の「たたり」と同じように、「肉体」につよく働きかけてくる。「音」そのものがひとつの世界を持っている。
 その「うららか」の「か」の音の響きを引き継いで、せな「か」を「か」すつていつた、と音が動いていく。
 「太陽は……」のことばは、いわば「哲学」。つまりそれは「頭」のことば。もしそのことばが「肉体」をかすっていくとしたら、それは「頭」をかすっていくはずである。実際、「頭をかすめた」という表現があるくらいだ。ところが、「あたま」では「うららか」の「か」がない。だから、西脇は「あたま」ではなく「せなか」を選んでいるのだが、この「頭」から「背中」への移行が、不思議だねえ。「頭をかすつて行つた」だったらがっかりするくらいつまらないのに、「背中をかすつて行つた」だと途端にたのしくなる。そうか、「頭」も「背中」も同じ「肉体」なのか、「肉体」であることおいて同じなんだという当たり前のことにふっと気がつき、何かしら安心するのである。



西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店
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岡崎よしゆき「睡眠の岸」ほか

2011-06-11 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岡崎よしゆき「睡眠の岸」ほか(「詩誌酒乱」5、2011年04月28日発行)

 岡崎よしゆきのことばは「いま」を呼吸しているかどうかわからない。というのは、いいかげんな言い方になるが、「現代詩」でいう「いま」とは違う気がするということである。けれど、「現代詩」と違う「いま」が「いま」ではないかといえば、そんなことはない。ひとそれぞれの「今」がある。だから、これでいいのだ。
 岡崎の「いま」が「現代詩」の「いま」と違って見えるのは、岡崎のことばが、「ひらがな」の動詞に傾くからかもしれない。漢字で書かない。そのとき、漢字で把握していたなにかが解体していく。そして、新しく何かが動きはじめる。
 「睡眠の岸」の冒頭。

半島のはずれ、湿地のむらのいりぐちになびく帆のうちがわで
少年はいたみをみどりにおさめている

   なつくさはながれて 川岸をくゆらし とおくに藍ひかってゆく水
   流がいたいたしいのはゆめのはがれ なのかと風は平行に呼応して、
   みずはみずにとざされてゆく

 「呼応して」という「漢字熟語」も出てくるは出てくるのだが、全体のことばを印象づけるのはひらがなの動詞である。特に印象的なのは「みどりにおさめている」の「おさめる」、「ゆめのはがれ」の「はがれ」である。
 順序は逆になるのだが、「はがれ」から、私の感じたことを書いてみる。
 「はがれ」自体は名詞だが、「はがれる」という動詞派生の名詞なので、読んでいると「はがれ」たままのある「状態」ではなく、はがれるという動きにのみこまれてしまう。 「水流がいたいたしいのはゆめのはがれ」と岡崎は書くが、私は読んでいて、無意識のうちに「水流はいたいたしい。水流から(水から水の)ゆめがはがれる」、(そして光っている)と感じるのである。水から水の夢がはがれながら光り、それが流れていくというのは「大事件」である。そうわかっていて、岡崎はそれを隠す。「動詞」を「名詞」にかえることで、動きをおさえ、さらにことばをかぶせて行く。

なのかと風は平行に呼応して、みずはみずにとざれれてゆく

 「なのか」と疑問を持ち込む形でことばの呼吸を乱し(攪乱し、攪拌し)、「風は平行に呼応して、」とここだけ違う漢字熟語の動詞をつかってことばを迂回させ、「みずはみずにとざれれてゆく」とひらがなにもどる。「水(流)」さえもひらがなにもどる。(平行に呼応して、は考え抜かれた漢字熟語だと思う。)
 この部分は、水からはがれた夢に、風が平行して動き(川の流れに平行して風が吹き、水の流れる方向へ風が吹きくだり)、はがれる夢をそっと水面におしつける。そういうかたちで水は水の夢とともに流れ、水は水のままである。水の夢だけが、はがれてどこかへ行ってしまうわけではない。--というようなことを書こうとしているのだと思うけれど、「剥がれ」たものが、「閉ざされていく」。「剥がれ」たものが「本体(みず)」にもどって、その表面となって「水」を閉ざすというこの運動--これは、私がいま書いたように漢字まじりで書いた時では、何かが違うでしょ? 
 「ひらがな」の場合、ことばが「音」のなか解体し、意味が「ぼんやり」してくる。「はがれ」ると「とざす」がまじってしまう。どっちがどっちの運動だかわからなくなる。くべつはもちなんあるのだが、どっちがどっちでもいいような感じになる。「ひとつ」を感じてしまうのだ。夢が剥がれ、水が水に閉ざされるは、水が水であることの「ひとつ」の「ある」なのだ。
 「ひとつの、ある」というのは変な言い方であるが……。
 この「ひとつの、ある」と、「おさめている」は深い関係にある。

少年はいたみをみどりにおさめている

 これを、もし「流通言語」に書き直すとどういうことになるだろうか。少年は何らかの痛み(肉体的か、精神的か、それともその両方かよくわからないが)を抱えている。そして「みどり」を見ている。2連目との関係で言えば「みどり」は「なつくさ」かもしれない。もしかしたら、川の水の「みどり」かもしれない。どうでもいいが、ともかく少年は「みどり」を見つめ、そうすることで「痛み」をこらえている。「痛み」が「声」や肉体の動きになって出てしまうのを「肉体」のうちに押さえ込み、「おさめている(収めている、納めている)」。
 だが、岡崎は「肉体」のうちにおめめる、とは書かない。「みどりにおさめる」と書く。そのとき、「みどり」と「いたみ」が「ひとつ」になる。「肉体の内側に納めるように」、岡崎は「いたみ」を「みどり」の(内側に)「おさめる」。
 「いたみ」と「みどり」が「ひとつ」になり、「みどり」と「肉体」が「ひとつ」になる。その「ひとつ」は、わけのわからないかたちのまま、強くつながって、とけあっている。「ひとつ」として「ある」という状態になっている。
 そして、こういう「ひらがな」で書かれた動詞の運動をみていると--あらゆる動詞が「ひらがな」のなかで融合し「ひとつ」になってしまうかもしれないという不思議な印象が浮かんでくる。ことばは「音」だけであり、その「音」が、「ある」ということがら(?)をめぐって動いているという気がしてくるのである。
 「ある」--あることの「意味」。「存在論」をめぐって、岡崎はことばを動かしている。それも「漢字熟語」という「借り物」ではなく、日本語本来の、単独の「動詞」(単独のというのは漢字熟語にはつながらない、というだけの意味であるのが……)で語ろうとしているように思える。
 「いま」ではなく、「いま」を超える存在論、その哲学を岡崎は書こうとしている。

(風は困惑しつづけて)
みずおとは
みえないばしょにいつまでもおきわすれられている

 「おきわすれられている」は「おきわすられて・ある」ということである。「水音」は「いる」という動詞をとらない。「いる」という動詞とともにあるのは人間とか、動物とか、意思をもって動くことのできる存在が、ある「場」を選んで存在すること(あること)である。
 岡崎は、ひらがなによる動詞の洗い直しをしてる、そうすることで哲学をはじめているのかもしれない。「文学」ではなく「哲学」へ向かって動いていくことばで書かれている作品ということになるだろうか。

 「風の瘧」。その冒頭。

爪のなかでめざめた。静謐なうずを記帳して 雲がとまどいをかくさない冬の午後に。かたあしの少女はめまいをおぼえて 河川敷の公園でうずくまりあたまをかかえる 死を水石にとじこめていたのをおもいだして透析はゆめからはがれおちてゆく

乳白色にとじこめられたじかんに鬱積をだかして とおざかる空はおりめからしろく封書される 少女のゆびに蔦が生えてからまり (からまりすすみ)白磁をこわしながらたいおんなはなめらかにほどけてゆく

 「白磁をこわしながらたい」が何のことかわからないのだが(わからなくても、詩だから、まあ、いいのだ)、「ゆめからはがれおちてゆく」と「おんなはなめらかにほどけてゆく」の「はがれ」ると「ほどけ」るは、おなじ「ある」を目指していると私には感じられる。そして「時間」をひらがなで「じかん」と書いているところから推測すると、岡崎の「ある」から始まる(あるいは「ある」へと到達する)存在論には、「じかん」が重要な要素をもっている。「時間」を「じかん」とひらがなで語れる「場」を目指してことばを動かしているのだろう。

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スティーヴン・スピルバーグ監督「E.T.」(★★)

2011-06-11 17:37:10 | 午前十時の映画祭
監督 スティーヴン・スピルバーグ 出演 ヘンリー・トーマス

 この映画には2か所、好きなシーンがある。ETがクローゼットの縫いぐるみに紛れて隠れるところと、ETがヨーダとすれ違うところ。ETの頭でっかちの体、大きな目は確かに縫いぐるみだ。ETを見たことがないひとがみれば「おもちゃ」とおもうのはあたりまえ。この逆がヨーダ。ヨーダは映画のなかの創作。本物じゃないのにETがETの仲間(宇宙人)と思う。本物を偽物と思うのと、偽物を本物と思うこと。このすれ違いは楽しいね。(このETが何年もたって「ウォーリー」になるのだから、映画は楽しいね。)
 でも、あとはどのシーンをとってもおもしろくない。安直。「子どもだまし」。この映画の後、私はスピルバーグの映画が嫌いになった。
 「未知との遭遇」は大人(リチャード。ドレイファス)が子どものこころのまま宇宙人に夢中になる。その無邪気な感じがいい。科学者たちが夢中になるのも自分の好奇心のため。その夢中さ感じがいい。子どもが「宇宙人を助けなきゃ」と思ってはいけないわけじゃないけれど、子どもってもっと単純でしょ? 自分と違う、変だ、いじめちゃえ、殺しちゃえ――という残酷さの片鱗がないとねえ。純粋な殺意のない「いい子」では、なんだかなあ。
 まあ、私のように「いじわる」な視線で映画を見る必要はないのだけれど。
 それにしたってねえ。「未知との遭遇」で宇宙船のでんぐり返りまで映像化したスピルバーグが、あんなちっちゃな宇宙船で満足するなんて。空飛ぶ自転車も念力?みたいでおもしろくないなあ。ちゃんと科学的に作り上げないと。宇宙船への「電話」を作るくらいなんだから、空飛ぶ自転車くらいETに作らせないと・・・。
 花を蘇らせる力があるなら、植物採取?のためにETたちが地球へやってくるという設定も矛盾だねえ。
 ETに気付く科学者?や軍人たちも、「組織」を感じさせない。全然科学的に見えない。子ども向けの映画(家族向けの映画)だから、これくらいでいいと思ったのかな。
死をちらつかせて涙を誘うって、あくどくない?
映像で押しきれないパワー不足を、友情と死を絡めたストーリーでごまかすなんて、「絵本」じゃないんだからねえ。ストーリーの不完全さ(荒唐無稽)を映像で押し切るのが映画でしょうに・・・。
いったい「激突!」「ジョーズ」のパワーはどこへ消えてしまったんだろう。
それから。
最初の方の子どもたちがゲームをしている時間帯の月。月齢27日くらいなんだけれど、変じゃない? 何時頃の設定? 月齢27日の月の月の出は深夜すぎじゃないのかなあ。アメリカの月の出は日本と違う? 宇宙ものなのに、このずさんさ。許せないね。



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金子鉄夫「やわらかい骨」ほか

2011-06-10 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
金子鉄夫「やわらかい骨」ほか(「詩誌酒乱」5、2011年04月28日発行)

 金子鉄夫「やわらかい骨」にはとても気になる1行がある。たぶん、私の「誤読」なのだが、私は「誤読」したいのだ。

いつものように
へんな色のしる
を腫らした
あしたちが
(さまざまなかたちだ)
あわただしく蹴散らす
ゆうぐれる
ゆうぐれるしんじゅくのまち
きょうもいちにち耳のうらで
呼吸をして
いいわけがないわけじゃないが
うちから冷めて考えてしまうことは
やはりわたしには
いっぽんのネジ
としてあゆむ覚悟がないということ

 私が気になるのは「いいわけがないわけではないが」である。これをどう読むか。
 「いい」は「よい」だろうか。「……していい(よい)わけ(理由)がないわけ(訳=条理)じゃないが」という意味だろうか。「理由」と「条理」は逆でもいいかもしれない。「……することは悪いことなのだが、あえて、そうする。そして、それをする理由がある」という意味。
 もう一つの読み方。
 「言い訳がないわけじゃはないが」。つまり、実は「言い訳があるのだが」。
 どっちだろう。
 「漢字まじり」で書けばはっきりするのだろうが、ひらがなだけなのでわからない。
 わからないことをいいことにして、私は「言い訳がないわけじゃないが」と読むのである。あらゆることに、「わたし」は「言い訳」をもっている。「言い訳」も、まあ、「理由」かもしれないが、だれにでも共有される「理由」ではない。自分の都合。自分勝手な言い分である。
 この「自分勝手な言い分」(言い訳と言い分は似ていて違うのか、違っているが似ているのか、よくわからないところがある)のポイント(?)は「言い分/言い訳」ではなく、きっと「自分勝手」である。「自分勝手」ということばは書かれていないのだが、書かれていないだけに「肉体」にしみついている。「思想」そのものである。
 この「自分勝手」が、金子のあらゆることばにしみついている。「へんな色のしる」ということばが2行目に出てくるが、その「へんな色のしる」のようなものが、金子のことばにからみついている。「いいわけがないわけじゃないが」が、そのへんな色のしるのために、手ごわいもの--抵抗感のある魅力になっている。
 で、これから先は、私のいつものいいかげんな感想だが。(いままで書いてきたこともいいかげんな感想だが)。
 こういう抵抗感のある1行に出会うと、私はその作品が好きになるのである。いろんなことを考えて楽しくなるのである。

 夕暮れ。一日の後半。まあ、肉体は疲れているな。足はつかれて、歩くというより、何か邪魔なものを蹴散らすことを楽しみに動いている。そういう肉体を考える。
 こういうとき、呼吸はどうなる?

 「耳のうらで/呼吸をして」

 ここが、ほんとうはいちばん好きなのだ。この不思議なことばが好きなので、「言い訳がないわけじゃないが」と私は読むのである。
 耳の裏で呼吸をする--変でしょ? ちょっと、空気中の「エラ呼吸」みたいな感覚。一日の終わりの空気におぼれそう。で、それを耳の裏で濾過(?)しながら、呼吸する。耳はエラだ。
 「変身」してしまっているのだ。
 そして、そのことに対して「言い訳」がある。
 その「言い訳」というのが、「わたしには/いっぽんのネジ」になる「覚悟」がないということだ。「ネジ」になれない。しかも、歩くネジである。そんなものにはなれない。そして、そのことに対しては「言い訳=言い分」がある。
 何かが、肉体の「うちから冷めて」しまうのだ。そして、「考え」が動いてしまうのだ。「考える」ということ、「言い訳」(言い分)を探すというのは、考えるということ。そして、それは「冷める」ことでもある。興奮からはるかに遠い。きょうの、真昼の興奮ではなく--そこから遠ざかり、疲れた感じ。
 うまく説明できないが、そういう感覚が、なぜか私を誘うのである。

 「しんじゅく」。そこに書かれている「ひらがな」の感覚かもしれないなあ。
 「新宿」と書いてしまえば何かイメージがはっきりするが(まあ、錯覚だけれど)、それが「しんじゅく」と一つ一つの「音」に解体されて、ほどかれていくと、同時に「肉体」もほどかれる。
 本来なら「鼻」や「のど」(口)で呼吸するはずなのに、「耳のうら」で呼吸するという感覚も、「しんじゅく」から始まっているのだ。

 あ、私の感想は、どうもあっちこっち前後して、整理されていないね。

 実は、私はあえて整理しないのだ--というとかっこよくて、ほんとうのことろは、私は思いつくままにキーボードを叩き、読み返しもしないから、どうしてもことばが行ったり来たりする。徘徊する。いいかげんになる。あいまいになる。でも、いいのだ、と私は思っている。金子には申し訳ないが、詩、なのだから、あらゆることが論理的に整理されるはずがないのだ。詩のことばは、どうしてもどこかで入りくんで、からみあって、わかったようでわからなくなるものなのだ。
 わかったか、わからないか、よくわからないところへ迷い込んで「あ、わかった」と自分勝手に思い込むのが詩なのだ。詩のことばは、書いた瞬間から作者のものではなく、読むもののものだから、どんなふうに読もうといいのだ。
 --私は、わがままだから、そんなふうにして読むだけである。

 で、何がいいたいか、というと。単純である。「やわらかい骨」は何が書いてあるかわからないけれど、「ゆうぐれるしんじゅくのまち」から始まる数行は何度も何度も読んでしまう。読んで、あれこれ、ああでもない、こうでもないと思うとき、そのことばが私自身の「肉体」と同化していく感じがある。
 「誤読」を承知で書くのだが、金子の数行を読むと、私自身が「しんじゅく」のゆうぐれを歩き、耳のうらで呼吸しているのを感じるのである。「しんじゅく」のゆうぐれを、耳のうらで呼吸しながら歩いてみたいと思うのである。
 そして、

そんなおまえにさえも
本籍というものがあって
砂のようにくちない勤めがある

 ということばにたどりつく前に、違うことばへと歩いてみたいと思うのである。
 (あ、「そして」から以後、何が書いてあるかわからないでしょ? わからないように書いているのである。この部分はセンチメンタルすぎて--清水鉄夫、じゃなかった、哲男みたいで、好きになれない。こういう部分が好きな人は「酒乱」を読んでくださいね。)



 ちょっと脱線。
 木葉揺「陽のあたる午後」。そのなかほど。

I am afraid of・・・
耳の後ろから別の世界がある

 金子の「耳のうらで/呼吸して」ということばがふいによみがえってきた。耳には「うら」もあれば「後ろ」もある。「うら」と「うしろ」は音も似ているが、その「場」も似ているかなあ。
 そして、それは「異界」への入り口のように感じられる。「肉体」には、まだまだ、そういう「場」があるに違いない。そういう「場」を浮かび上がらせることばが私は好きなのだ。きっと。そこから始まるのは「異界」だから--つまり、いま/ここでつかっていることばとはまったく違うことばが動くはずの場だから、そこから先に起きることは、ほんとうにどう読んでもいいのだ。あらゆる「誤読」が許される場なのだ--と、強引に私は私の感想補強するのである。
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誰も書かなかった西脇順三郎(223 )

2011-06-10 11:18:36 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。
 西脇の音楽は乱調の音楽、異質なもののぶつかる音楽である。簡単に言うと「精神世界」と「物質世界」の衝突。あるいは西洋と東洋の衝突。聖と俗の衝突。こういう異質なものがぶつかると「文体」が乱れる。混乱する--というのが一般的である。収拾がつかなくなる。けれど、西脇の場合は違う。衝突は衝突として輝く。強い光を放つ。それだけである。乱れない。混乱しない。

記憶の喪失ほど
永遠という名の夏祭りにたべる
ナスのみそ汁とそれから
タデのテンプラとユバと
シイタケを極度に思わせる
ものはないと深く考えるのだ

 「記憶の喪失」と「永遠」。ふたつのことばが並ぶと、あ、記憶を喪失することは永遠に触れることなのか、と直感的に思う。何かしら、ここには「哲学」がある。「精神世界」の「本質」に触れるものがある。
 そして、そういう「本質」の「場」は「祭り」なのである。「記憶の喪失」「永遠」「祭り」とつながれば、どうしたって「酔っぱらいの祝宴」「バッカスの永遠」というようなことを思い出すし、そこから「祭り」の「哲学」を考えてみたい気持ちに誘われるが……。
 これを、西脇は、さらに「精神的ことば」あるいは「哲学的なことば」で追いかけるというような窮屈なことをしない。「精神」が「精神」を追いかけると世界が閉じてしまって息苦しい。この息苦しさ(息が詰まる、息ができなくなる)が、精神を「死」のむこうの(息が詰まると死ぬでしょ?)、「死」の「愉悦」にまで人間を高めるのかもしれないけれど--そういう錯乱が「哲学」の魅力だよね--西脇は、ことばを閉鎖してそういう世界へ没入するのではなく、そういう動きを叩き壊す。
 「夏祭り」の「夏」の方に重心を移し、そこで「日常」(俗)で「哲学」を叩き壊す。「ナスのみそ汁」。ね、「哲学」とは関係ないでしょ? こういう関係ないものがぶつかった瞬間、そこに「無意味」というもうひとつの「新しい哲学」が誕生するともいえるけれど(この詩のⅠの後半に出てくることばを借りて言えば「本当の哲学は哲学を軽蔑することだ」)、そんなことは考えなくていいのだ。ただ、あ、「ナスのみそ汁」か、と夏の「もの」を思うだけでいいのだ。
 生姜を擦っていれるとおいしいよ、とかね。
 この瞬間、ことばの「リズム」が乱れるね。「精神」のことばを追い掛けるときの「緊張」がぱっと解放される。この差。そこに、私はいつも「音楽」を感じる。斬新すぎて、どう定義していいかわからないが、突然新しい「音」--しかも「音のない音」、「音以前の音」が入りんできた感じに驚き、笑いだしたくなるのだ。
 そして、さらにおもしろいと思うのは、

ナスのみそ汁とそれから

 この1行の「それから」。これ、何? 必要なことば?

ナスのみそ汁と
タデのテンプラとユバと
シイタケ

 この方がすっきりする。すばやくことばが動いていて気持ちがいい。「それから」なんて、変にもったりしている。
 のだけれど。
 この変にもったりしているところが、また、おもしろい。
 西脇はすぐに「タデのテンプラとユバと」ということばが出てきたわけではないのだ。考えているのである。「ナスのみそ汁」と「俗」をぶつけてみたけれど、さて、次はどうしよう。これから「音楽」をどんなふうに動かしていくか……。
 西脇の改行(行をわたることば)も、ある意味では、こうした「思考」の瞬間の揺らぎをそのまま反映している。そして、そこから独特の西脇調のリズムが生まれるのだが。
 悩んでいる。考えている。
 このときの「脳髄のリズム」、その痕跡が、私には楽しい。
 このつまずき(?)があるから、

シイタケを極度に思わせる
ものはないと深く考えるのだ

 「思わせる」「考える」という「精神のことば」の、乱れたつながりが、乱れたまま説得力(?)をもつのだ。「それから」の「ことばの呼吸」の乱れが、「精神のことば」に引き継がれ、動いていく。
 西脇のことばは、意味ではなく「リズム」(音楽)で動いていくと強く感じるのはこういう瞬間である。




西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)
クリエーター情報なし
慶應義塾大学出版会



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榎本櫻湖「無伴奏チェロのためのソナチネ」

2011-06-09 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
榎本櫻湖「無伴奏チェロのためのソナチネ」(「詩誌酒乱」5、2011年04月28日発行)

 榎本櫻湖「無伴奏チェロのためのソナチネ」には不思議な至福がある。その至福は2種類ある。

凪いだ海に横たわる涅槃像が
わたしの肝臓をとらえて放さず
かれの黄金色の左足のうえで
喰い千切られた臓物を
抱えこむようにして
眠りにつかなければならない
それはまことに心地のよい
夜のことであって
もしも鮫なり蛟なり
あるいは蛤なりの幻影が
わたしの四肢を
噛み砕くような荒んだ夜は
塵芥にまみれた幽かな
だれのものとも知られぬ
骨のかけらとともに
海底で眠らなければならない

 「涅槃」(死)と肉体の至福の交わりのようなもの、死んでいく官能を感じる。「それはまことに心地のよい/夜のことであって」という榎本らしからぬのんびりしたリズムが、ほーっと声がもれるくらい美しい。たぶん、そのあとの「もしも鮫なり蛟なり/あるいは蛤なり」という対象を限定しないいいかげんさが、のんびりしたリズムと呼応しているのを「夜のことであって」という音のなかに感じてしまうのだ。
 「夜であって」ではなく「夜のことであって」と「こと」がある分だけ、ことばの「領域」に広がりがある。余分がある。その余分が、「鮫」だけではなく「蛟」や「蛤」を遊ばせてしまうのである。「鮫」から「蛤」までの落差の大きさもおかしいねえ。そして、そこにばかばかしいような落差があることが、愉悦の気持ち悪さというか、どうしようもない気持ちよさでもある。「鮫」と「蛤」が同じ大きさになって、わたしを食べにくるとしたら--どっちに食べられる方がこわい? 考えると、ぞくっとするでしょ? 「鮫」と同じ大きさの「蛤」。あ、こわい。途中に「蛟」という変なものが出てくるが、こういう架空のものは怖くないねえ。(私は、この漢字を知らなかったので辞書で調べて書いているのだが、そんなことをしているとますますこわいなんて気持ちはなくなる。)
 「だれのものとも知られぬ」というのんびりした音の響き、「眠らなければならない」という音のもったりした感じもいいなあ。「だれのものとも知られぬ」には「ら」行の交錯と「のものとも」の母音「お」の連続が美しい。「眠らなければならない」は「ら」行と「な」の繰り返しが美しい。そして、その2行は「ら」行の交錯で重なり合った時、「「のものとも」の母音「お」、「な」の母音「あ」の距離と「いろ」を浮かび上がらせる。ふいに、そこに「音楽」が浮かび上がる。
 あ、音楽こそが「涅槃」と私は感じてしまうのだ。

 もっとも、榎本はこういう「音楽」には関心はないかもしれない。タイトルは音楽に関係しているが、榎本のことばの運動の基本は音楽からも、音そのものからも遠いところにあるように思える。
 後半の「散文」部分。

いくつもの鋭い閃光が走り、その軌跡をたどるようにして右手を動かし始めるのならば、それはたしかに漲るような緊張への憧れとして錯綜する空間を模倣していることになる。ただし刻印されたそれぞれの光度によってたちまち眩しげに目を細めてしまっては、幾度目かの闇への回帰をふたたびくりかえすことになり、また始めに立ち返り、火花の飛び交うさまを想像し、それを具象化せざるを得ない。

 最後の「それを具象化せざるを得ない」の「それ」がわかりにくい。「火花のさま」(舞える部分に出てくる「鋭い閃光」)だろうか。「具象化」とは「模倣」であるかもしれない。--榎本は、つまりチェロを弾く手の動きを描いていることになる。
 そう了解しても(誤読しても)、「それ」はあいまいすぎる。
 「それ」など、榎本にとってはどうでもいいのである。榎本がここで書きたいのは「想像」(つまり具体的には存在しないもの、頭の中に存在するもの)と「具象」の対比なのである。「想像」ということばを書いたから「具象」ということばが呼び出されてきて、それを書いているだけなのだ。「それ」は、いわば「想像」と「具象」の「接着剤」である。
 榎本のことばを動かしているのは、あることばが別のことばを呼び寄せる力である。ことばとことばの、意識されない「接着剤」である。「漲るような緊張」というときの「漲る」の安直さは「錯綜する」によって強化され、「憧れ」は「模倣」ということばによって「意味」を深める。そのとき、書かれていることばをつらぬく「接着剤」が、繰り返し出てくる「その(軌跡)」「それ(は)」「それぞれ」「それ(を)」であり、その「錯綜」によってつくりあげられる「複文」という構造である。そして、そのとき榎本の無意識を動かしているのは「音」ではなく漢字熟語の字面であるように私には感じられる。榎本は漢字を「視力」でとらえて、その熟語のなかの「接着剤」にひかれているように思える。「漢字熟語」の「接着剤」を、和語(?)のなかに「引用する」ための「比喩」が「その」(それ)などの指示代名詞なのだ。
 (あ、なんだか、ことばが走りすぎているね。)
 言い換えると(言い換えられるかなあ……)、漢字熟語は漢字が密着することで単独では存在しえない強い力を持つようになる。単独の漢字よりも熟語の方がなんとなくパワフルに感じる。たとえば「想う」よりも「想像」の方がシャキッとしているような印象がある。これはたぶん、「想う」(思という漢字をあてるのではなく想という漢字をあてることにも一種の文字の力が働いているが)ということばは小さい子どもでもつかうが(ただし、子どもの場合は想の字は頭の中に思い浮かばないだろう)、「想像」となると少し学習したあとでないとつかえない。「頭」がことばに参加することによって漢字熟語は動いている。「頭」がいわば「接着剤」として動いていることになる。この「接着剤」の力は、きちんと分析して説明しようとすると、まあ、よくわからないものだけれど。
 この漢字熟語に働いている「接着剤」力、効用を、「日本語」というか「和語」にどうやって組み込むか。想像を「像を想う」という形にしてもピンとこない。「頭」を何かに向けて強く支配する感じにはならない。
 けれど。
 「その」像を想う--これはどうだろう。「像」の前にある「その」、その「その」が指しているのは何? 「頭」はどうしてもことばをさかのぼって何かを探さないといけない。何かを探してきて、「その」に結びつけないといけない。この「結びつけ」が「接着剤」だね。この「接着剤」としての効用をもつ「その」を榎本は少し強引につかう。「その」をひきずりまわして酷使する。そこに榎本の「文体」と「思想」がある。
 この強引な「文体」そのもののなかに、榎本自身の「至福」がある。強引さ、そういうことができる力に酔っている、陶酔している、恍惚となっている感じが、あふれている。ひとが恍惚としている様子を見るのは、私は、けっこう好きである。少なくとも悪い気はしない。楽しくなる。


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石峰意佐雄「いま という」、池田順子「わたし」

2011-06-08 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
石峰意佐雄「いま という」、池田順子「わたし」(「解纜」147 、2011年03月30日発行)

 石峰意佐雄「いま という」は不思議な詩である。私には悪い癖があって、こういう不思議な詩に出会うと、作者が何を考えたか、どう感じたかを無視して自分の考えを追ってしまう。「誤読」に拍車がかかってしまう。「誤読」が暴走してしまう。

いま というものに圧倒される
いま という これは
時間であるのか むしろ
空間であるのか
いま は いま
としかいうことができない

 「いま」は「時間であるのか」。「時間」でしょう。「空間であるのか」。えっ、空間を指して「いま」という表現をするひとはいない。「ここ」ならわかるが、なぜ、こんなことを石峰は書くのか。
 「いま は いま/としかいうことができない」と、石峰は「空間であるのか」という問いを否定してことばを収めているが、変な書き出しである。
 否定されているのだけれど「いま」は「空間ではないのか」ということばが、頭にこびりついて離れない。

悠久の時 があることは識っている
いま を生きながら そのことは
知識としても 思弁を以てしても
認識できる

 「悠久の時」。うーん。私は石峰のように簡単には考えられない。「悠久の時」ということばは知識として知っている。そういう表現があること、そういう表現をつかって言い表したいことがあることがある、ということは知っている。そのことについて考えること、そのことについて、こうやってことばを動かしてみることはできる。けれど「悠久の時」があるかどうかは、実は知らない。
 石峰の「認識できる」とは、私のことばで言いなおすと「考えることができる(考えてみることができる)」にしかならない。
 「いま」は「空間であるのか」という問いには、不思議な力があって(わけのわからない力があって)ぐいと引きつけられるのだが、そのぐいと引きつけられたものが、この連では遠くなる。わけのわからないもの、どうしてこんなふうに考えるのか、ことばが動くのか--という疑問が消え、あ、これはこういうことなんだろうなあ、と私なりに言いなおすことができる。そして、いま書いたように、私はこう考えるという具合に、私の考えを石峰のことばにつきあわせて動かし、石峰の書いていることを私なりに「批判」してみることもできる。
 そして、このときも、あれっ、あの「空間であるのか」という問いは、どこへいったのだろうと疑問に思いつづけている。
 そうすると、3連目。

いま という無限小に他ならないこのときに
他ならぬこのわたしが どうして
生きているのか 不思議だ

 ここで、私はびっくりしたのである。「いま」は確かに「無限小」かもしれない。けれど、この「小さい」を石峰はどんなふうに考えているのか。感じているのか。
 そう考えたとき、ここに「空間」がふいにもどってくるのである。
 --と書いても、ここから先は石峰の考え(感じ)なのか、私が石峰のことばを「誤読」してそう感じているのか、じつは区別がつかないのだけれど。言い換えると、私は私の考えに夢中になってしまって、石峰のことを忘れて、「いま」を「空間」と考えるとはこういうことか、と勝手に考えはじめてしまうのだ。
 石峰は「いま」を「空間」と考えている。「いま」という一瞬が「無限小」ものなら、その「空間」も「無限小」であるだろう。「時間」が小さくて「空間」が大きいというのは、思考の中で一種の混乱を引き起こす。大と小は対極にある、矛盾する「概念」だからである。だから「いま」という「空間」を「無限小」と仮定して、考えを動かしてみる。ことばを動かしてみる。
 そうすると、すぐにつまずく。
 「わたし」、この「肉体」は「無限小」ではない。ある「大きさ」をもっている。この「ある大きさ」をもった存在が、どうして「いま」という「無限小」の「空間」におさまり切れるのか。矛盾している。おかしい。不思議だ。
 石峰の「いま」は「空間であるのか」という問いは、そういう形になって、石峰の思考(思弁)に反逆してくる。「認識」の修正を迫ってくる。
 この思考の変化(思弁の変化)、あるいは認識の変化に「わたし」が「空間」的存在としてかかわってくる--そこに石峰の「思想」の特徴がある、と私は感じる。

意識したときがつねに いま
であるということは
いわば 不思議が必然されている
としかいいようがない
世界は そこでしか開けない

いま このしゅんかん このわたしを以てしてはじめて
世界がとてつもなく広がっている
と感じられる
世界とは ひろがりでしかありえない

 「空間」は「広がり」(広がる)ということばにかわっている。それは私には「意識」の運動としての広がりというよりも「肉体」の延長としての広がりのように感じられる。「世界」を開いていくのは「わたし」なのである。
 この「わたし」は石峰のことばでいえば「意識」なのだが、私がこの「意識」を「肉体」と感じてしまうのは、純粋意識(?)なら、そのとき開いていく「世界」は過去-現在-未来という「時間」の形をとってもいいはずなのに、どうも違うのである。「意識」は過去-現在-未来という広がりよりも、「いま」を起点にして「いまの世界」(いまの空間)へ広がっていくように感じられる。それは「いま」、「わたし」の「肉体」が動きうる場(空間)として「世界」をとらえているように感じられるのだ。
 石峰は「肉体」ということばをつかっていないのだが、どこかに「肉体」が深く隠れている。石峰ふうに言えば「肉体が必然されている」。その「肉体」が峰のことばを動かしている。そう「誤読」してしまう。

いま がなければ
世界は存在しない

いま とはつねに
わたしがなければ存在しない

 最後の「わたし」を「わたしの意識」ではなく、「わたしの肉体」ということばを補って私は読んでしまうのである。1連目に登場した「空間であるのか」という問いは、「わたしの肉体」が必然的にもってしまう「空間領域」が「無限小」の「枠」を突き破っていること、「わたし」が存在するとき「無限小」という概念が必然として破綻するということと深く結びついているのだ。
 矛盾、破綻を必然的に含みながらことばが動く--そこから、世界も始まれば、詩も始まる。



 池田順子「わたし」。この「わたし」は「肉体」をもたない。--というか、「手紙」のことであり、そこに書かれたことば、のことである。

たくさんある
ことばから
ゆっくり
掬うように
ひっぱりだされて
あれこれさわられて
ちがう
みたい

また
もとへとかえされ
捨てられたり
拾いだされたりして
わたしが
できた

 「掬う」という動詞は「手」を思い起こさせる。「掬う」ということばとともに「手」が動きだす。手が「ひっぱりだし」、手が「触る」。
 思考の動きを「比喩」をつかって書いているのだが、「あれこれさわられて」が、とてもいい。ことばを手で触ることはできない。でも、触るのだ。そして、そのときの「触覚」で「ちがう」と感じもするのだ。
 きっとそういうとき、手はことばではなく、「肉体」に触っているのだ。それは「ことばの肉体」なのか、「恋人の肉体」なのか、あるいは「わたしの肉体」なのか--まあ、いろいろ考えられるのけれど、そういうことはいいかげんに(適当に)考えておいて、かっこよく(?)いうと判断保留にしておいて、あ、この「あれこれさわられて」が切なくていいなあ、と思う。
 この「さわられ」る「肉体」は石峰のどこかに隠れている「肉体」とは違って、世界を広げない。むしろ逆だね。広がってしまう世界を「一点」に集める。「無限小」にする「肉体」である。
 切ない--というのは、それが「無限小」であっても、それに触ることができる、そして実感できる、そこからこころが動きはじめるということだね。こんな小さいこと--そこから、こころが動いてしまう。
 恋、だねえ。





詩集 反響
石峰 意佐雄
近代文芸社
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是枝裕和監督「奇跡」(★★★★★)

2011-06-08 09:17:36 | 映画
監督 是枝裕和 出演 前田航基、前田旺志郎

 楽しいシーンがいっぱいあるのだが、一か所、涙が出るくらい笑い転げたところがある。まわりの観客に申し訳ない、と思うくらい笑ってしまった。
 兄(前田航基)が「家族4人で暮らしたい」と夢を語る。その夢を聞いた弟(前田旺志郎)が、その夜夢をみる。離婚の原因が語られる。父親がミュージシャンになる夢を捨てきれず職を転々としている。そのことに対して母親が怒鳴り散らしている。食べ物をぶつけたりする。兄の方は両親の間を取り持つのに懸命である。弟の方は食べることに夢中で自分だけ皿を持ってけんかの場所を離れる。そして、「あんなの(けんかしている家族)、絶対いやだ」という。家族が嫌いなのじゃないけれど、けんかしているのが嫌いなのだ。
 この矛盾--矛盾と言っていいのかどうかわからないけれど、生きるというのは、まあ、こういうことだろうなあ。何にでも好きと嫌いがある。嫌いを受け入れながら好きを優先しているのかもしれない。そこに「嘘」が入ってくる余地がある。--そういう面倒くさいことは、まあ、おいておいて……。と、いいたいけれど、この「嘘」が、ある意味でこの映画のテーマでもあるし、是枝監督のテーマでもあるかもしれない。家族がある。家族がいる。そのとき、そこには「嘘」が入ってくる。それは「必要」なものである。
 最後のシーンが、その「嘘」の美しさ。
 子どもたちの「家出」というか「冒険」。子どもたちは「友達の家で勉強してくる」と言っているようである。その「嘘」はばれてしまっている。兄が家に着くなり、おじいちゃん(橋爪功)に「ばれていない」と聞く。「大丈夫、ばれていない」。それが「嘘」なのだけれど、大人は子どものために「嘘」をつく。そうやって、子どもの「こころ」を守る。
 今か今かと心配で孫が帰ってくるのを待っているおばあちゃん(樹木希林)が、孫の姿に気がつくと待っていたことを隠してぱっと家のなかに引き返す。いいなあ。どこへ行っていたかも聞かない。母親も、子どもの無事を確認したいのをぐっとこらえて顔も見ずに受け答えする。この「嘘」。子どもは大人の「嘘」に守られて「ほんとう」を生きる。そのとき子ども「嘘」をついているのだけれど、その「嘘」のなかには「ほんとう」がある。
 この「嘘」と「ほんとう」の両立は、論理的には「矛盾」になるのだけれど、この「矛盾」が「思想」というものである。「思想」(暮らし)というものは、いつだって「矛盾」を含みながら動いているのである。
 あ、変なことを書いてしまったなあ。
 映画の魅力から、ちょっと遠ざかってしまった。で、映画に、引き返そう。
 是枝監督の映画では「食べる」シーンがいつもおもしろい。いきいきしている。楽しい。最初に書いた夫婦喧嘩のシーンでも食卓である。弟は、ちゃっかり(?)食べることを貫いている。たこ焼きを買って、たこだけ取り出して食べたり、自分で育てたトマトをまるかじりしたり。助けてくれた見知らぬ老夫婦の家で、出前に「馬刺し」があるか聞いたり。それから、かるかんをつくったり。--このかるかんづくりもていねいでいいなあ。ちゃんと山芋を買うところ、グラニュー糖を買うところまで映画にしている。映像化している。材料を買うところ(わざわざ原田芳雄を連れ歩かなくても材料はそろうのだけれど、連れ回すところ)など、いいでしょ? 山芋をすりおろすとき、ただすりおろすのではなく「円を描いて」なんて、ね。食べ物、その「もの」にこだわる感じが。「生きる」というのは「食べる」ことなんだなあ、と見ながら感想が脱線していく。こういう瞬間に、私は映画の至福を感じる。映画に近づいたという感じがする。子ども(子役)がすばらしいので、子どもに視線がひっぱられてしまうけれど、それを支える「背景」(地)としての映画の部分もすばらしい。「地」がしっかりしているから、子どもの表情がいきいきしてくる。
 子どもたちでは--それぞれの「夢」を語るシーンがいいなあ。「脚本」どおりなのかな? 違うだろうなあ。「脚本」もあるけれど、アドリブもある。子どものことばの調子と、顔の表情が、一瞬「演技」の枠をはみだす。映画の完成度(?)からいうと、そういう部分は「正しくない」のかもしれないが、そこが、おもしろい。子どもが「役」を演じている--というのを、見ていて忘れる。あ、「ほんとう」を語っていると思う。その「ほんとう」により近づけるために、主役の二人もアドリブで対応する。(二人には、いや、ほかの子どもたちにもまあ、基本的な展開は与えられているだろうけれど)。カメラの前で子どもが自分の夢を語る--そういう「ドキュメント」風の手触り(てれや、困惑をふくんだ正直さ)が、なかなかいい。こういう「なま」を見てしまうと、そこで展開される「嘘」(脚本の世界)が「嘘」ではなく、「ほんとう」になる。子どもたちの「ほんとう」の肉体が全体を「ほんとう」に染めてしまう。いや、内側から「ほんとう」へとひっくりかえしてしまう。そこに「映画の力」がある。
 これは「映画」なのだけれど、「映画」じゃない。「映画」を超える「映画」だ。子どもは「演技」をしているのだけれど、「演技」じゃない。「ほんとう」が自然に出てくる。樹木希林の演技とくらべるとわかる。樹木希林は「ほんとう」を演じるという「嘘」をついている。子どもたちは「嘘」のなかで「ほんとう」を隠しきれない。隠しきれない何か、抑えようとしても出てきてしまうものが、スクリーンからあふれてくる。
 「八日目の蝉」の対極にある映画だね。
                     (2011年06月07日、ソラリアシネマ2)


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清岳こう「マグニチュード9・0」

2011-06-07 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
清岳こう「マグニチュード9・0」(「現代詩手帖」2011年05月号)

 「現代詩手帖」2011年05月号には和合亮一の「詩の礫」のほかにも東日本大震災に関係した作品が多数掲載されている。清岳こうは短い作品を3篇書いている。どの作品も印象に残る。

つなみ

「娘を流しました。」と
娘が流れました。ではなく

娘とあの若い衆とのつきあいに反対しておけば
娘をあの海辺の町にとつがせなかったら

毛糸帽子を深々とかぶった小母ちゃんが呑みこんだいくつもの無念

 「娘を流しました。」は、大震災の津波に娘を流しました--ということになるのだが、こういう日本語はない。「流れました」でも不自然である。流されたがかろうじて不自然ではないかもしれない。ふつうは奪われましたと言うだろう。けれど「流されました」「奪われました」では「小母ちゃん」の気持ちがことばになってとはいえない。自分の気持ちを言おうとすると日本語をねじ曲げないと言えない。
 そういうことが、必然的に、起きたのだ。
 「小母ちゃん」は詩人ではないだろう。作家でもないだろう。そのひとが、けれど突然詩人になる。日本語を、ある特別の高みへと運んでいく。
 清岳は短い詩ばかり書いているか、これは短くしか書けないのだ。ほんとうに言いたいことはたくさんあるが、気持ちをこめることばを見つけ出すのは簡単なことではない。
 その困難さが、悲しい形で結晶している。

ころがっているのは

グローブ
ボールはどこへ飛んで行ったのか
少年野球はなかなか始まらない

一輪車
車輪はどこまでいったのか
8の字走行 ジグザグ走行の練習をやりのこしたまま

 「車輪」は「主語」であって、「主語」ではない。「車輪」は自分の意志で「練習」するわけではない。一輪車乗りを練習するのは、子どもである。主語は「子ども」。書かれていない「主語」。その理由は? だれもが知っている。その悲しみ。
 悲しみを悲しみとして、長いストーリーとして語れるようになるまでには「時間」が必要なのだ。時は悲しみをいやすという言い方があるが、悲しみはまた時間を経ないことには実感にもならない。それは、何かの直後に悲しみがないというのではないのだが、直後は悲しみが悲しみであるかどうかも、わからない。いや、わからないのではなく、わかるのだけれど、ことばにならない。短いことばでないと、何かもちきれないものがあるのだ。大きいものはもちきれない。もってしまうと、つぶされてしまう。けれど、何かをもっていたい。悲しみをもっていたい。変な言い方になるが、悲しみをそっと抱くことで、自分のなかにあるほんとうの悲しみが散らばってしまうのをそっと抑えている感じがある。悲しみを大事にするために、小さな悲しみ(小さなことば)をていねいにつつみこんでいる--その不思議な美しさ。美しさと言ってはいけないことなのかもしれないけれど、美しいと、私は感じてしまうのだ。

土台石の上にあったのは

たあいもない口げんか
南部せんべいにほうじ茶

開運祈願の青だるま
看護士になる夢

今 あるのは 湖水だけ

 いや、「湖水だけ」ではない。そこに「たあいもない口げんか」があり、「南部せんべいにほうじ茶」があったという記憶がある。日常があったという記憶がある。そして、それを語る「ことば」がある。
 出来事が遅れてやってくる--と書いたのは阪神大震災を体験した季村敏夫(『日々の、すみか』)だが、出来事のほかにもやってくるものがある。遅れてやってくるものがある。出来事の意味は、あとからわかる。それと同じように、「日常の暮らし」も、あとからわかる。あとから、あ、「日常はこうだった」「日常の暮らしのなかにはこういう幸福があった」ということは、あとからやってくる。
 衝撃をくぐりぬけた、あと、静かにやってくる。
 それはぽつりぽつりとやってくる。ひとつずつやってくる。そして、少しずつ集まり、「暮らし」の記憶そのものになるのだが、この「少しずつ」のやってき方が、ああ、せつないねえ。「日常の暮らし」はずるずるとつながっていて、きりがないはずなのに、ぽつりぽつりしか思い出せない。思い出すたびに涙が出る。

 短さのなかには短さだけの「意味」がある。短くあることの重要さがある。




風ふけば風―清岳こう詩集
清岳 こう
砂子屋書房
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