詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小笠原真『初めての扁桃腺摘出手術』

2012-08-16 10:10:07 | 詩集
小笠原真『初めての扁桃腺摘出手術』(ふらんす堂、2011年11月11日発行)

 私は自分の書いたことをすぐ忘れてしまう。きのう日吉千咲『掌インフェクション』の感想を書いた。わかる、わからない、というようなことを書いたのだが、その感想に対して「フェイスブック」の方にコメントが寄せられた。
 そのコメントを読みながら、えっ、私はそんなことを書いたっけ?とびっくりした。
 で、きのうの感想も、フェイスブックへのコメントも忘れたことにして(きちんと向き合っても、きっとすれ違っているだろうから)、わかる、わからない、についてもう少し書いてみたい。
 小笠原真『初めての扁桃腺摘出手術』は耳鼻科の医師の詩集である。その「身体髪膚」。

私の家族は妻と息子二人の三人である
この三人に私は職業柄とは言え
メスを用いたことがある
長男には急性中耳炎で鼓膜切開術を
次男には上唇小帯短縮症で離断術を
愛妻には慢性扁桃腺炎で扁桃腺摘出術を
施したわけである

 ここに書かれていることは、私にはわからない。わからないけれど、ぜんぜん気にならない。わからないまま、わかった気持ちになれる。いや、気持ちにはなれない。気持ちというものが動かない。動かないから、わかりもしないのに「わかった」と平気で言える。小笠原は耳鼻科の医師で、手術もする。家族の手術をした。三人に、それぞれ違った手術をした。もっと詳しく、どういう手術をしたのかというと……。面倒だから書かないけれど、私は、「正確に」報告することができる。(「妻」と言わずに「愛妻」というのか、というところで、少し「あ、こういうひとか」とは思うけれど、まあ、関係ないね。)世間一般では、あることがらを「正確に」報告できると、その人は何かを知っている、何かをわかっているということになるのかもしれないけれど、私はそうは思わない。
 私は耳鼻科の医師でもないし、手術のときにどんな問題がおきるのかも知らない。小笠原の書いていることを読み、その「ことば」というか「文字」、まあ、単なる記号だな、を転写することはできる。声に出して読むこともできる。(読み違えるかもしれないけれど--というのは、ワープロで、こう読むのだろうと思って入力しても、その通りの漢字が出てこないところがあったから、きっと私の読み方は違っているのだろう。)でも、これは小笠原の詩がわかるというとことは無関係なのだ。
 というか、こういう部分に詩はない。詩はどこにもない。
 ところが、詩の後半に、こういう部分がある。

妻は扁桃腺摘出手術の症例が私の三倍以上はあり
たしかにこの手術に関しては私より上手だと思う
その妻に手術中「うまいわね」と言われた
心温まるものを感じてしまった
逆説的に言えば妻は他人であり
息子たちは自分の分身であることに
初めて気づいたのである

 へえ、扁桃腺の手術を受けているときに、患者はしゃべれるんだ。(それとも、これはだれかの手術をしているとき、そばで見ていた妻が言ったことば?)
 で、

その妻に手術中「うまいわね」と言われた
心温まるものを感じてしまった

 この「心温まるものを感じてしまった」に私はびっくりしてしまった。まったくわからない。想像できない。だから、ここが「わかる」。この「わかる」は「正解」ではなく「誤読」である。他人の気持ちなんか、わかるわけがない。わかるわけがないからこそ、勝手に想像し、そうだ、そうなのか、と納得する。だれだって、何か難しいことをやっている最中に、「うまいわね」と感想を言われたらうれしくなる。自信が出てくる。よし、やるぞ、という気持ちになる。そうか、医者は手術中に、こういう感想を聴くことを希望しているのか……。全身麻酔だと、そういう反応は患者からは返って来ない。でも、まわりからならそういう反応(無言の信頼?)のようなものがつたわってくるのかも。そういうとき、手術医の「こころ」は「温まる」のか。
 小笠原は「心温まる」と書いているけれど、私は「こころ」ではなく、そのときの小笠原の顔だとか手つきだとかをかってに思い描いた。ちょっと自慢げに目が笑った感じとかね。手術中だから、笑いはしない、というかもしれない--つまり、私の感想は「誤読」ということになるのだが、この「誤読」が「わかる」ということ。
 「誤読」できる部分だけが、「かわる」。その他の「正しく」報告できる部分--それは「わかった」でも「知っている」でもない。単なる勘違い。私の肉体とは無関係なところで動いていることばにすぎない。
 
 「初めての扁桃腺摘出手術」にも、それに似た「わかる」部分が少しだけある。

うまく切れない
たった二センチばかりの粘膜が思うように切れないのだ
皮膚の切開とは全く違うのだ
粘膜がメス先に絡みつくだけで切れてこないのだ
うまく切るためにはメス先に
独特の方向性と力加減が必要なのだ
そんなことは手術書には書いていない

 このときの小笠原の実感(困っている感じ)は、私にはわからない。なぜなら、私は手術などしないから。そういう立場には絶対に絶たないから、わからない。わかる必要もないから、想像してみたこともない。
 だけれど、わからないからこそ、「わかる」。
 私は扁桃腺を切ったことなどないから、扁桃腺を切るということはわかりようがないのだけれど、たとえば、包丁でトマトを切る。すぱっと切れない。包丁が悪いのだ。刃先があまくなったいいるのだ。ぐしゅっと潰れる。種が出る。そうか、トマトひとつ切るにも大根を切るときとは違うこつがいる。--というようなことを、私の肉体は思い出す。そうて、その全く違うことをしているのだけれど「切る」という動詞でつながった部分で、「わかる」と感じる。
 この私の「わかる」は「誤読」。
 でも、この「わかる」を通ってしか、小笠原には近づいて行くことができない。
 人間は「誤読」を通ってしか、他人に接近できない、と私は思っている。



 ちょっと脇道に。
 河邉由紀恵に『桃の湯』という詩集がある。そのなかに、「ねっとり」とか「ざらっ」とかいろいろな「感触」をあらわすことばが出てくる。その詩を「現代詩講座」で読んだとき、私は受講生に質問した。
 「ねっとり」を自分のことばで言いなおすとどうなる?
 だれも言いなおせない。「ねっとり」ということばがそれぞれの肉体にしっかりからみついていて、説明する必要がない。「ねっとり」は「ねっとり」じゃないか。言い換える必要がない、と受講生は感じている。
 でもね、普通、何かが「わかる」ということは、それを別のことばで言い換えることができるということでもある。自分のことばで言い換えて、それでもなおかつ「意味」が共通するなら、それは「わかる」ということ。--これが、まあ、科学的(?)な解釈の仕方なのだと思う。
 「ねっとり」は、それができない。
 できないとわかって、そこから河邉の「ねっとり」ではなく、自分自身の「ねっとり」について考えはじめる。自分にとって一番「ねっとり」しているものは何かな? 納豆? 湯垢? セックス相手の汗? それをひとつずつ河邉のことばに結びつけ、あ、これだと「誤読」する。河邉はなんとも書いていないからこそ、このねっとりはあの男の汗だ--と「誤読」する。
 そのとき「誤読」した肉体と、河邉の「肉体」が重なる。「誤読」を通して、読者は河邉を生きることができる。
 河邉は、そういう感想を聞いて、「それ、違う」と思うかもしれない。あるいは、「あ、ほんとうはそれを書きたかった」と思うかもしれない。「それ、違う」と思われるのは、まあ、本人ではないのだから、それで当然。でも「それが書きたかった」と河邉が思うとしたら、おもしろくない? 河邉を通って、河邉を通り抜けてことばを生きたことになる。
 そういうことを楽しむのが、きっと詩。

 わからない--わからないことを「誤読」して、強引に「わかる」。それが楽しい。その「誤読」に筆者(詩人)をまきこむことができたら、さらに楽しくなると思う。
 08月22日、「現代詩講座」を福岡市中央区薬院の「リードカフェ」で開きます。来てみてください。
 
 
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日吉千咲『掌インフェクション』

2012-08-15 11:48:54 | 詩集
日吉千咲『掌インフェクション』(ふらんす堂、2012年07月20日発行)

 ときどき、どうにも「肉体」が見えない詩に出合う。日吉千咲『掌インフェクション』も、その一冊。巻頭の「絶て」の1連目。

生まれて来い
ただ一歩 運命は住まないで欲しい
蛇口は固く閉ざされ
ひとりが喜んで無口になる
万感に嘘をついたら
つまらぬ巨人に呼ばれていたのだ
断念を迫られて

 私は「音読」をするわけではないが、これは「黙読」の場合でも、私はのどが窮屈で疲れてしまう。水が飲みたくなる。しかし、どっちなのだろう。コーヒーでいいのかな? それともジュース? ミネラルウォーター? 私の肉体は反応しない。ただ、のどがからからなのはよくわかる。
 そうして、目がかすんでくる。わたしはもともと目が悪いから、姿が見えないために肉体が苦しくなり、水が飲みたくなったのかな?
 どっちが先かわからないが、ともかく私はつらくなる。

 「恐慌」の次の部分は、まあ、わかるかなあ。肉体がついて行ける。

自在とはいかない手を
無理やりこの手に合わせたら
同じ汗のにおいが
私の手にうつっている
ことに気づき
何度も嗅いで警告してやるのだ

 「同じ汗のにおいが/私の手にうつっている」を別のことばで言い換えると……。(というようなことを、私は詩の講座でしょっちゅうやるのだが)
 どうなるだろう。

質問「無理やりこの手に合わせたら/同じ汗のにおいが/私の手にうつっている」を自分のことばで言いなおす、自分のことばを補いながら言いなおすとどうなりますか?

 みんな、ええっ、という顔をする。そして悩む。で、そういうとき、「同じ」って何?と質問を言いなおす。そうすると、

「だれかの手のにおい、それが手をあわせたために、自分の手にうつってくる。移動してくる」
「夏だと、汗でべたべた、気持ち悪い」
 という具合になるだろうか。

質問「何度も嗅いで警告してやるのだ」は、どう? どんな具合になる? 「警告」を自分のことばでいいなおすと、どうなる?
「くさい、とは言わないけれど、自分の手をくんくん嗅いで、顔をしかめてみせる」
質問「そうすると警告は?」
「顔の反応。変なにおいがこびりついているよ、とことばではなく態度でしめす」
質問「警告」はことばじゃないんだ。「くさいから気をつけろ」と注意するわけではないんだ。
「そうだと思う。くさいって注意できるのは、よっぽど親しい人かなあ」

 まあ、こんなような会話が、詩のまわりで動く。
 そして、動きながら、自分で言い換えたことばがどうも「最適」ではないという感じがするというか--言い換えてみたけれど、それは「同じ」ではない、ということに気がつく。
 自分の手のにおいを嗅いで、くさいなあ、としかめっつらをするというのは、自分の反応。それが絶対的に「警告」とはならない。相手が「すごくくさいだろう?」と喜んだらどうする? 困らせるために、そうしたのかもしれない。
 まあ、そんなことはないのだろうけれど、
 「そうか、こういうとき、警告っていうのか」
 というようなことに気がつく。
 「警告」は「警告」でしかない。ほかのことばに言い換えられない。--そして、それが、詩。
 言い換えて、自分にわかる「意味」、あるいはほかの誰かにもわかる「意味」にしてしまったら、何かが違ってくる。
 その違いを発見しながら、もう一度、最初の「何度も嗅いで警告してやるのだ」に戻る。そうすると、「警告」が、肉体にぴったりなことばになってくる。そういうことばに変化しているのに気がつく。
 「警告」のつかい方を覚える、という感じかな?

 こういう瞬間の「肉体」の感じが、私は好きだけれど、ほかの行が、どうにも読みづらい。ことばのリズムも私の日本語のリズムにはあわない。音が耳から逃げていく。



掌インフェクション―日吉千咲詩集
日吉 千咲
ふらんす堂
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三井喬子「つうかまち駅」

2012-08-14 09:18:00 | 
三井喬子「つうかまち駅」ほか(「かねこと」3、2012年08月10日発行)

 三井喬子「つうかまち駅」に触れる前に。「かねこと」3には金井雄二「詩の本の話を3 『山村暮鳥全集』」というエッセイが載っている。そこに

詩の本についてなら、何でも語れると思っていたけれど、文章にすることと語ることとは違う。

 と、書かれている。ええっ。どうして? 私はつかいわけることができない。語るのと同じ感じで書いてしまう。書くのと同じ感じて話してしまう。何かしら気がかりなことがあって、つまりことばにしてみないと、なんだかよく分からないことがあって、書きはじめる。語りはじめる。そしてそのまま、なにか結論(?)があるというわけではなく、ことばが動いていくところまでいってみる。
 このブログの場合だと、原稿用紙にしてだいたい8枚。時間にして約40分くらい。私のことばはだいたいそれくらい動いたら、動くのが面倒くさくなるみたいで止まってしまう。話す場合は、相手が何を言ってくるかわからないから、さらにいい加減というか、そのときそのときでことばが変化していくが、これは相手次第だね。どうなるかわからない。そしてこのことは、実は書いている時もほんとうは同じ。このブログの場合、詩を引用する。つまり、そこに他人のことばが入ってくる。そうすると、書こうとしていたことが、引用している内にかわってきて、最初にちらっと思ったことがまったく別なものになることもある。
 まあ、そういう具合で、私はいい加減。
 語る(話す)ことと書くことが違うとは思ったことがない。
 思いつくまま、思いがつきるところまで。

 で、三井喬子「つうかまち駅」。

「つうかまち」、
一日日本電車が着きます
黄色い線から下がってお待ち下さい

日がな一日待ち暮らし
うっとり眠ってしまったこともあって
もしもし もしもし
蝶々がとまっても目を覚まさない…
もしもし
もし もし!
プラットホームはまだ目を覚まさない

電車はぷんとして出発する
ふん、こんな小さな駅に
止まってなんかやるものか

たまたまいっぱい顔が乗ってくることもある
といっても 三十人くらいですけれど
いえ、例外的には千人の時も
一万人のこともありますが

 「主語」というのかどうかわからないけれど、ことばを発している「主体」が少しずつずれていく。そのずれ方がのどかで、田舎の春のようで楽しい。
 「黄色い線から」は駅の案内。でも、この駅にそんな案内があるとは思えないから、まあ、のんびりした夢だね。
 で、その夢に蝶々が出てくる。「もしもし」と呼びかけられているのは「私(三井)」かなあ、と思ったら、プラットホーム。そうか、プラットホームも眠るのか。で、このとき主語は? 蝶々?
 いいんだけれど、そういうことは、どうでも。
 その次の3行は、「主語」は電車だね。電車が「つうかまち」駅をバカにしている。止まってやるものかと言いながら止まっているのは、それが通過待ち(すれ違い待ち)のために止まらざるを得ないから何だろうなあ。
 おもしろいのは、その次だ。(実は、それが書きたくて書いているのだが、どうなるかわからない。)
 「たまたま……」から始まるのは、誰のことば? 電車のことば。でもさあ、そういう駅で乗客が三十人でも多いなあ。それが千人、一万人なんて、だいたいそんなに電車に乗れる? 乗れないねえ。じゃあ、なぜ、そんなことをこの電車は言ったんだろう。嘘とだれにでもわかることを言っているのだろう。
 簡単に言えば、言いたかったんですね。
 三十人くらい乗ることもあるんです。これは、ほんとうというか、まあ、欲望というか。三十人くらいは乗せたいよね。ひとの乗せるのが仕事なんだから。できれば千人なんていいだろうなあ。あ、でも、だれも聞いていない。一万人くらいのこともありますよ。大ぼらを吹いてみる。
 ちぇっ、気付よ。嘘つくな、嘘は「そこまで」くらい、だれか言えよ。
 話し相手がいないので、電車は電車にそう言ってみる。

 こういう感じっていいなあ。

 こういう詩を書くとき、三橋はどこにいるのかな? つまり、三橋は「黄色い線から……」という人? 聴く人? さらにプラットホームを見る人? プラットホームそのものになっている? 電車になっている? そうやって、代弁している?
 こういうことって、どうでもいいよね。そんなことをいちいち区別しないで、うっとりするようなあたたかさ、眠くなるようなのどかさ、そのなかでなにからちらっちらっと動く。まるで、うたたねしながら、ときどきはっ、あ、眠っていた、と気づくような感じ。それだけで十分だ。で、そこには夢もまじってきて、眠っていることをいいことに、夢が暴走する。
 三十人、千人、一万人……。
 どうでもいいことなのだけれど、この「図に乗った夢の暴走」、その「図に乗り方」が楽しい。
 三井って、こんな楽しいことばを書いていたっけ?

 で。(またしても、で、なのだが。)
 この詩と、金井雄二の書いていたこととなにか関係がある? ないですねえ。ただ、「枕」に引用してみただけなのかもしれない。
 でも強いていえば。
 私の引用した三井の詩、実は「全行」ではありません。前と後ろを叩ききっている。余分だなあ、と思った。前と後ろが、詩を小さくしている。「意味」をつくり、「抒情」をつくっている。「意味」と「抒情」がひとつになっていて、それがうるさい。
 きっと、三井は金井と同じように話すときと書くときは違うと思っているのだと思う。話すとき(語るとき)はだれかが同じ場所にいる。そのとき、どんなことばを語ろうと(話そうと)相手には三井が見える。肉体が見える。そうすると、人は自然にその肉体を通して、その人間の「過去」を思う。話すことばの奥から、そのひとの「過去」が見えてくる。話す人も聞いているひとの「過去」を感じながら話すので、いろいろなものを省略して、その省略を「肉体」から感じている。
 電車の三十人、千人、一万人に話をもどすと、話しているときだったら、相手が、「おいおい、千人、一万人なんて、そんなに乗れないじゃないか」は「つっこみ」が飛んでくる。そうして、そこから「現実」に戻ることができる。
 でも、書くというのは、そういう「つっこみ」のないところで行われるので、自分で全体を収拾(?)しなくてはならない。
 で、「抒情」だとか「意味」を引き寄せてしまう。つまらなくなる。

 話している部分だけ、書いてね。書くときに、余分なことを付け足すのはやめてね。そうすると、「頭」ではなく「肉体」そのものが見えてくるから、読んでいて楽しいよ、と私は言いたいんだと思う。--と、ひとごとのように書いてみました。(これで、ちょうど40分。タイマーが時間を教えてくれました。で、きょうの「日記」はここまでです。)



三井喬子詩集―日本海に向って風が吹くよ (北陸現代詩人シリーズ)
三井 喬子
能登印刷・出版部
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鹿島田真希『冥土めぐり』

2012-08-13 09:28:40 | その他(音楽、小説etc)
鹿島田真希『冥土めぐり』(「文藝春秋」2012年09月号)

 鹿島田真希『冥土めぐり』の前半は読むのが苦しい。主人公(奈津子)の、母親と弟にまったく共感が持てないからである。ふたりに生活をずたずたにされながら生きている主人公にも、共感が持てない。どんなに嫌いでも縁を断ち切れないのが「肉親」というものなのかもしれないけれど。

 奈津子は不思議に思う。自分はあんなに嫌悪していた母親の思い出話を今、こんなふうに、他人のことのように思い描ける。(416 ページ)

 この文章は、ちょっと複雑である。「他人のことのように」というのは自分が経験してきたことを他人の経験のように、という意味だろう。「自分」が「他人」になってしまっている。それは、その「自分」を「自分のまま」、自分で引き受けることができなくなっている、ということだろう。「他人になってしまっている」ではなく、ようやく「他人にできた」のだろう。肉親を断ち切るのと同じように、自分を断ち切るのもむずかしい。自分を断ち切る方がもっとむずかしい。「、こんなふうに、」という具合に、「こんなふうに」が文章の中で独立しているところに、この主人公の「真実」がある。
 で、そこでちょっと一安心した後。
 海の部分がすばらしい。海には障害物がなく、水平線が見えるものである。広々としている。その感じが伝わってくる。海を見て、主人公のこころが広がっていく。

普通の人なら考える。もうたくさんだ、うんざりだ。この不公平は、と。だけど太一は考えない。太一の世界の中には、不公平があるのは当たり前で、太一の世界は、不公平を呑み込んでしまう。( 420ページ)

 「不公平を呑み込む」。海がすべてを呑み込むように。すべてを呑み込んでも、まっ平らな海であるように。--そこに、主人公が「共感」しはじめる。その「共感」に読者(私)も誘われる。
 他人に感心するというのは、とても大切なことなのだ。

 --海のことなら、小さい頃から知ってるよ。満ち引きがあるんだ。潮だよ。
                                (420 ページ)

 この海の定義もいいなあ。「満ち引き」を呑み込んで、海がある。動いていないように見えても海は動いている。そのことを主人公の夫、太一は知っている。
 そして、そのあと。一段落まるごとを、私は傍線を引く変わりに枠で囲んで、○印しまでつけてしまった。感動した。

 この人は特別な人なんだ。奈津子は太一を見て思った。いままで見ることのなかった、生まれて初めて見た、特別な人間。だけどそれは不思議な特別さだった。奈津子はそんな太一の傍にいても、なんの嫉妬も覚えない。そして一方、特別な人間の妻であるという優越感も覚えない。ただとても大切なものを拾ったことだけはわかる。それは一時のあずかりものであり、時がくればまた返すものなのだ。( 420ページ)

 変な文章と言えば変な文章と言えるのだけれど。「嫉妬」も「優越感」も、普通は、こんなふうにはつかわない。「拾った」というのも、「ものじゃないのになあ」という具合に言いはじめると、まあ、あっちこっち、ケチがつけられる。ケチだらけになるのだけれど……。
 こういうのは、しかし、「批判」であって。
 うーん、「批判」とか「批評」というものは、そうしてみると、とってもうさんくさいというか、自分で何かを定義しておいて、その定義に酔って、どれだけ暴言を勇ましく吐くかというようなところで成り立つものであって……。
 は、余分なことを書いてしまうのだが。
 うーん。
 あらゆる「批判」を吹っ飛ばして、「共感」してしまう。
 ほんとうに、奈津子は太一に出合うことで、大事な何かを見つけ出したのだ、ということに共感できるのである。奈津子は太一がいなかったら生きていけないなあ、ということがよくわかる。そして、この貴重な時間が「あずかりもの」であるということも、不思議に、納得してしまう。
 この場合、たとえば太一を神からのあずかりものであり、時がくればそれを神に返すべきなのだ--と奈津子は感じているのだとして。
 その「返す」がまた、微妙ですね。
 神に返すと仮定して、それでは実際に、太一が死んだら神に返すのかというと、そういうことではないと思う。「特別な人間」という意識を持たずに一緒に暮らすこと、なんでもないことのように生きるということなんだと思う。
 母親のことを書いていた最初に引用した文章に重ね合わせると、こんな具合になる。

 奈津子は不思議に思う。自分はあんなに特別な人間として大事に感じた太一(夫)の思い出話を今、こんなふうに、そんなことってあったのかしら、となつかしい自分の夢のことのように思い描ける。

 このとき、奈津子は、母と弟の思い出を呑み込んでしまっている。太一が、その「海」をゆっくり満ち引きしている。満ち引きは、まあ、じっと見ていてもわからものではあるけれど、それは満ち引きがあると思ってみるからであって、普通は、海はどこまでも広く変化がないように見える。平穏に見える。
 それは、「私(奈津子)」が平穏を生きているということである。平穏は美しいと思う。平穏を発見するのは偉大なことだとも思う。




冥土めぐり
鹿島田 真希
河出書房新社
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田中郁子「七月」

2012-08-12 11:10:03 | 詩(雑誌・同人誌)
田中郁子「七月」(「すてむ」53、2012年08月10日発行)

 田中郁子「七月」は少し面倒くさい文体である。

山峡の夜の満月が静かな天に上るのは 何代も続いた屋根
に寄り添った柿の木の上である

 これは書き出しなのだが、場所は山峡のどこか。時刻は夜。満月が出ている。その月はある家の柿の木の上にある。--という情景である。情景がわかるのだから「面倒くさい」という感想はよくないのかもしれないが、いやあ、面倒くさい。
 「山峡の夜の満月が」と「夜」はなぜ必要? 夜以外に満月は上る? 昼の満月というのもあるが、これは太陽の光によって輝く月ではなく、地球の反射が月に跳ね返って見えるもの。そういうときは「昼の月」というけれど、ふつうは「夜」でしょ? だから、「夜」を省略して「山峡の満月」で十分わかる。次の「静かな天に上るのは」も月が天に上るのはあたりまえだから、何かわずらわしい感じがする。そのわずらわしさを感じながら読み進むということが面倒くさい。
 次の「何代も続いた屋根に寄り添った柿」というのもうるさい。わずらわしいというか、まあ、私の感覚の意見では面倒くさい。ある家がある。その家は何代もつづいている。ようするに、田中の描いている山峡の、古い家である。「古い」といわずに「何代も続いた」と書くことで、「古さ」を「時間の経過」として説明しているところが、なんともうるさく、面倒くさい。その庭には柿の木がある。庭というより山峡の家なのだから、畑かもしれない。庭を畑のように、畑を庭のようにつかわないと山峡には耕す土地が少ない。で、そういう情景を描くのに「屋根に寄り添った」ということばをつかう。屋根の近く、家(建物)のすぐ近くに柿の木がある。
 さらに、ここまで読むと、月が単に天にあるのではなく、その真下(?)には柿の木があるというのだけれど--わかるけれど、「天に上る」「柿の木の上である」は、どうも何かうるさい。「二重」にことばがひしめているかんじがする。それが面倒くさい。
 つづきを読むと、もっと面倒くさい。

山峡の夜の満月が静かな天に上るのは 何代も続いた屋根
に寄り添った柿の木の上である その時 柿の木はたくさ
んの葉を茂らせ たくさんの実を結んでいなければならな
い 満月に愛される柿の木は どの柿の木よりも豊かに実
を結ばなければならない 歓喜に満ちた実は もえでる色
彩と 若葉のかおりを吸い込み 葉裏にわきあがる大気が
やわらかく漂うと 稲の花が咲くことを知っている

 柿の木の描写が、どうにも「素直」ではない。折り重なっている。「二重」になっている。「愛される」とか「歓喜に満ちた」という「精神的なもの」が柿の木にまとわりついてくるのがうるさい。さらに「結ばなければならない」の「ならない」が窮屈である。これは、柿の木ではなく、柿の木に「対する」描写--つまり、田中の「思い」である。
 対象を描写するとき、対象と「私(田中)」を切り離し、いわゆる客観的に描写をするというのではなく、田中はあくまでも「主観的」に描写をしようとする。そこで描かれているのは、柿の木ではなく、田中の気持ちなのである。この気持ちが動いている領域が「対する」という領域。
 なぜ、こんな面倒くさいことを書いているかというと、その面倒くささのなか、つまり「対する」という思いというか、その領域をくぐりぬけているからこそ、そこに「対象」と「対する」という「二重性」が見えてきて、それが見えないと、実は、この詩のつづきがおかしくなるとまではいわないけれど、不条理がわからなくなるからである。

やがて ひとりの老婆が心地よい枝葉に住みつくことも知
っている 老婆の中にはいつもひとりの少女が住んでいた
少女は世の荒波を越えてきた老婆のしなやかな「老い」に
あこがれていた 生きることの希望や死への不安にとらえ
られはじめ はかない夕雲のたわむれに微笑みながら突然
の風の冷気に恐れを感じていた 老婆はどのように打ち克
ってきたのだろう

 老婆と少女。それは「ふたり」なのだが、少女は老婆のなかに住みついているのだから、外見的には「ひとり」である。老婆と少女が「二重」になり、「ひとり」のように見える。そして、そのときの「老婆のなか」の「なか」というのが、まあ「対する」というときの気持ちの動く「場」だね。少女が「対する」の主語なのか、老婆が「対する」の主語なのか、わからないね。どちらかを主語として仮定して、もっと丁寧に読めば、それなりにどちらかを主語として特定できないこともないのかもしれないけれど、まあ、そんなことはしなくていい。どっちでもいいのである。「二重」であること、そして「対する」という精神の動きが、その「二重」を生み出しているということさえ、「納得」できればいい。わからないけれど納得できるということは世の中にはたくさんある。--それは、まあ、「肉体」が知らず知らずに覚えてしまったあれこれで、そういうことはいちいち「頭」で整理すると面倒くさい「哲学」になってしまうので、省略すればいい。肉体がわかっていることは、本能に近いものなので、間違いはない。間違っていても、たいしたことではない。つまり誰の迷惑にもかからない--と私は「誤読」を強引に押し進めるのである。
 で、ね。詩に戻ると。

生きることの希望や死への不安

 ほら、これって少女のもの? あるいは老婆のもの? 少女がいま感じていること? 老婆が思い出している少女の記憶? 少女が老婆のなかにいると感じたときに老婆が感じたこと? わからないでしょ? どっちでもいいでしょ?
 どっちでもいいというと書いた田中に申し訳ないけれど、つまり田中はそのことばを書いたとき、そのひとつひとつを「どっちである」とわかって書いていたと思うけれど、そういうことは必ずしも読者(あ、私のことだけれどね)に伝わるとはかぎらない。
 それを理解しないことには「感想」、あるいは「批評」にならないというひともいるかもしれないけれど、--そういうことが「うるさい」「面倒くさい」。
 いいんです、そういうことは。
 田中は自分が「老婆」であることを自覚している。(会ったことはないけれど、きっと若くはない。)そしてその老婆の中には、依然として少女の田中がいきいきと動いている。少女が生きているから、田中は老婆でいることができる。
 これは、次の部分で田中自身によって語られる。

葉群れの中で 何があろうと二人は二人であったが また
限りなくひとりでなければならなかった

 あとは、もういいですね。引用しません。
 そういう世界です。
 田中の文体は面倒くさい。でも、その面倒くささには理由がある。田中は面倒くさいことを丁寧に書きたい詩人なのだ。それは、まあ老婆と少女の関係の中で以後書かれていくのだけれど、それは実は書き出しの「山峡の夜の満月が……」という部分できちんと用意(準備?)されていることなのである。こういう用意(準備)を整えてから田中のことばは動きだす。
 いいなあ。この丁寧さ。
 こういう丁寧さは、若い人にはない。しっかり肉体に身についた(しみこんだ?)丁寧さである。
 で、田中はきっと「お年寄り」だなあ、と私は思うのである。(間違っていたらごめんなさい。)そして、そういうお年寄りの丁寧さは、まあ、私のような若い人間(ほんとうは若くはないけれど、田中と比較してみれば、相対的にみれば若い人間)には、面倒くさいものなのだが--私は意外とこの手の面倒くささについていくのが好きなんだなあ。
 矛盾しているけれど、面倒くさいものの方が簡単なものより面倒くさくない。わくわくする感じがあるからだと思う。わくわくさえあれば、なんでもほんとうは面倒くさくないものなのだ。



ナナカマドの歌
田中 郁子
思潮社
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山本和子『水門』

2012-08-11 09:59:10 | 詩集
山本和子『水門』(ふらんす堂、2012年07月24日発行)

 ひとはときどき思いもかけないことばを言うものである。そんな表現はない、思うのだが、聞いてしまうと、ああ、そうだなあ、こういう言い方が正しいのだ、というしかないことば。
 「一生懸命諦めます」は父の死と、葬儀のときの母のことを描いている。

方丈さんのお経は
太鼓を打った音のようにビンビン心に響く
お経をあげ終えると
お茶をすする方丈さんは
戸川のおじいちゃんは
もう 生まれる準備をしておられます
人間は郷な者で休むときはありません
背筋を伸ばして話される
母は救われた思いの声で
そうですか
涙も見せず口元が小さく動いた
うす暗い八畳の部屋には
ローソクの光と線香の煙と共に
母の空気が
父をすっぽり包んでいる
早いか 遅いか人間はいずれ亡くなります
方丈さんは汗で湯気の立つ丸坊主の頭を
袂から出した手ぬぐいでふきながら話される
一生懸命諦めます
母は強く言い切った
五十三年間 苦楽を共にさせてもらいました
涙声が震えだした痩せた母

 お坊さんのことばは非情である。「戸川のおじいちゃんは/もう 生まれる準備をしておられます/人間は郷な者で休むときはありません」「早いか 遅いか人間はいずれ亡くなります」--こういう断定は、生きているひとの未練を断ち切るための「方便」なのか、それとも「哲学」なのか、ちょっと判断に困るが、ああ、さすがに多くの死に向き合ってきたのだなあという「手応え」のようなものがある。ふつうのひとはこんなふうには言えないが、お坊さんにはこんなふうに言う特権があるのだと思った。
 そういう職業的特権としての声、ことばは、最初はどうしても「ああ、冷たいことばだ」と思うものだが、だんだん、ああ、そうかもしれないとも思う。ふつうのひとには思いつかないことを言うのは、それだけふつうのひととは違った体験をしているからこそ言えるのだと思い、納得する。
 で。
 その納得のことば、これがまた、ああそういう言い方があるのか、と驚く。

一生懸命諦めます

 ごく一般的に言えば、「一生懸命」と「諦める」は、「諦めずに一生懸命がんばります」なのだが、ここでは逆である。
 うーん。
 諦めてあげないことには、「戸川のおじいちゃん」(夫のこと、つまりこの詩に書かれている父)は「生まれ変われない」。それでは不憫。生まれ変わって、生きてもらわないことには人間の楽しみがない。愛しているなら、その生まれ変わりを喜んであげないといけない。--そんなことを思いながら、「一生懸命諦めます」と言う。
 「一生懸命」は、この場合、ぜったい必要である。意味上は「諦めます」が動詞なのだけれど、ほんとうに動いているのは、「諦めます」ではなく、「一生懸命」である。必死にならないと「諦めきれない」になってしまうのである。母がしていることは「一生懸命」だけなのである。
 「一生懸命祈りなさい」と言われれば、母は何も疑わず一生懸命祈るだろう。「一生懸命生きなさい」と言われればやはり一生懸命生きるだろう。
 でも、ひとは、絶対に「一生懸命諦めなさい」とは言わない。「つらいだろうけれど、諦めなさい」というのがふつうである。その「つらい」を母は「一生懸命」に替えて、自分自身をはげましているのである。いまできるのは「一生懸命」だけである。

 山本は、これを「じぶんのことば」として描いているのではなく、そこにいる「私ではない人間」のことばとして、きちんと描いている。お坊さんと、母のことばとしてくっきり描いている。
 これにはどんな意味がある。
 詩は、自分が発見するものではないのである。詩は、自分のことばではないのである。詩は、他人のことばなのである。自分の知らなかったことば--それが詩である。
 もし、何かに出合い(今回のように、ことばではなく、「あるもの」だとか「あること」に出合い)、そしてそのとき山本のなかに何か新しいことばが生まれたとしたら、それはやはり山本のことばではなく、山本のなかから生まれたあたらしい山本、つまり「他人」なのである。
 これを逆な視点からみると。
 山本はお坊さんのことば、母のことばを、それぞれお坊さんのことば、母のことばとして書きながら、山本自身はお坊さんに生まれ変わり、母に生まれ変わって、その瞬間を生きている。
 こういう交錯(入れ違い)を「共感」という。
 そして、こういう「共感」を作為をこめず、しっかり、そのままに把握しきっているところに、この詩の美しさがある。






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山本テオ『普通の明日』

2012-08-10 12:30:43 | 詩集
山本テオ『普通の明日』(あざみ書房、2012年07月01日発行)

 山本テオ『普通の明日』は文体が非常に読みやすい。私にとって、という注釈が必要かもしれない。そして、その読みやすいと感じることと、山本がニューヨークで仕事をしているということが関係があるかもしれない。日本語が、日本語に溺れていない。
 個人的なことを書くと……。
 私は若いころ「詩学」に投稿していた。最初はまったく入選しなかったのだが、あるとき選者が英文学関係の詩人にかわった。そのとき、あ、これからは入選するかな、と私は感じ、そして実際、その後入選するのようになった。私は英語はできないけれど、学校の授業では英語がわりと好きだった。意識的に学んだことば、というものがおもしろかった。感じていること、考えていることを、違うことばで言う、あるいは聴く(読む)。そのとき、なんといえばいいのだろう、ことばの「自由」を感じたのだ。そういう「自由」が日本語にどっぷりつかって詩を書いている詩人たちよりは、英語を暮らしの糧にしている詩人には通じるだろうと思った。
 山本の詩を読んで感じたのは、その、昔私が感じていた「自由」に通じる文体の軽さである。それが、とても読みやすい。気持ちがいい。
 「一個」という作品。

アスファルトを転がって 足元に
ぴたりと止まってから
その林檎は 私のものになった

丁寧に磨くと鏡になって
睫毛や 唇や
生えはじめた白い髪を映した

布団にもぐって林檎を抱く
同じかたちと 同じ感触
甘い香りと眠る

朝になると鏡を覗く
また少し髪が白くなっている
私がだんだん 大人になる

表皮にそっと耳をあてると
ざわめきが内側で行き交いながら
大人の私に 多くを語った

 「翻訳体」と言えるかもしれない。たとえば1連目の「主語」は「林檎」。ふつう、日本語では「林檎」のようなものを主語にはしない。「私」を主語にして「私は足元に転がってきた林檎を私のものにした」と言う。主語を省略して「足元に転がってきた林檎を私のものにした」と言うかもしれない。「林檎は 私のものになった」とは、よほどのことがないかぎり言わない。
 で、その翻訳体の文体なのだが。
 ちょっとおもしろい。いや、とてもおもしろいと思うのが、その1連目の「その林檎」の「その」である。「その」は指示代名詞。それがつかわれるということは、「その」の前に「その」にあたるものが書かれていなければならない。英語で言えば、「その」は「定冠詞」になる。「不定冠詞」つきの「林檎」がまず書かれて、それから「定冠詞(その)」つきの林檎になる。それを知ってますよ、という意味が「定冠詞」にある。その「定冠詞」の働きと同じことを「その林檎」の「その」はやっているのだが……。
 前に「林檎」そのものはでてきませんねえ。じゃあ、「その」は何?
 山本は英語の詩も同時に掲載している。

It rolled along the asphalt, to my feet and

と1行目は書かれている。「形式主語」の「it」が、あとであらわれてくる「林檎」である。また「my」ということばもあるねえ。ある意味では英語は不便だねえ、と思ったりする--日本語はそういうもんどうくさいことをしなくてすむからね。
 で、日本語の詩に戻ると、問題の「その」がとてもおもしろいのだが、そのおもしろさは、実は日本語が主語「私」を省略できるということと関係がある。
 むりやり日本語を補ってみると、1連目は

私は(林檎が)アスファルトを転がってくるのを(見た) (その林檎は私の)足元に
ぴたりと止まった
その林檎は 私のものになった(あるいは、その林檎を私は私のものにした)

 「その」がもし省略されていたら、私がそれを見た、私がそれを拾い上げた、という感じが出にくい。「その」ということばが先行する何かを指示するという機能を持っているために、私たちは「その」がどういうものか無意識に探すのだが、この無意識に何かを探すという運動が、ほら、省略された「私」を自然に感じるときの意識に似ているでしょ? 英語のように、形式主語を冒頭に掲げて文章をつくるなんて、日本人にはつらいよね。
 うまく言えないのだけれど、この日本語の無意識な省略された主語探しのような意識の運動を、山本は英語に触れることで、巧みに洗練させたのだと思う。翻訳体なのだけれど、翻訳体に感じさせない文体を作り上げたのだと思う。感じさせないといっても、少しは感じる--そして、この少しが、「ふつうとは違う」感じになる。で、こういう「ふつうとは違う」という感じが、ほら、やっぱり「詩」なんですよ。

 ちょっと説明が長くなりすぎたね。
 途中を省略して、3連目。

同じかたちと 同じ感触
甘い香りと眠る

 あ、これはおもしろいなあ。何と同じというのだろう。「その」がないね。そして、次の「甘い香り」には「同じ」がない。変だねえ。「同じ甘い香り」でないと、「意味」が通じない。(通じる,と感じるひともいるかもしれないけれど……。)
 これは、英語にすると、私の指摘していることがわかると思う。英語の部分。

the same shape, the same touch,
sleeping with its sweet scent

 「その(its )」甘い香り。「その」は文法的には「林檎」を指してはいるのだけれど、同じその甘い香り、という意味だね。
 そうすると、日本語での「同じ」はまた「甘い」にもなるね。
 甘いかたちと甘い感触--「同じ」が「甘い」なのは、実はその「同じ」が山本の知っている林檎と同じだからだね。
 拾った林檎、それは山本の知っている林檎--つまり山本になじみのある林檎、ふるさとの林檎というか、少年時代の林檎というか、まあ、そういうものと「同じ」かたち、「同じ」感触、そして「同じ」甘い香りを持っている。
 ここで「同じ」が出てくるのは、2連目の「白い髪」、4連目の「どんどん 大人になる」との対比である。私は「どんどん」かわる。けれど、林檎は「同じ」。「同じ」ものがあることによって、「私」の変化がより明確になる。
 そこで、山本は、その「同じ」と「変化」をまた別の角度から確かめようとして林檎に耳をあてて、内部のざわめきを聴く。もちろん、こういうときに聴くざわめきは林檎の内部であると同時に、山本の内部のざわめきだね。それは林檎の表面に写る白髪が、林檎の内部ではなく山本自身であるのと同じこと。

 英語を話すこともできない私が言うと、まあ、でたらめに聞こえるかもしれないけれど、英語との出合いが山本の日本語を清潔にしている。省略の仕方、ことばの接続と断絶を鍛えなおしているのだ思った。
 「夜色の友人」もとてもおもしろかった。重くならずに、軽快にことばが動く。この軽快さは、感覚の意見として言うのだけれど、日本語を山本語に翻訳することから生まれている。どんなにくどくどいってもことばは思っていることの全部をつたえられない。だったら、省略して、伝わるかなあと思える部分だけをぱっと放り出せばいい。
 ああ、とっても頭のいいひとなんだなあ。
 でも、その頭のよさが、どうだ頭がいいだろうという自慢にならずに、逆にしらんふりをしている。
 いいなあ。こういう詩集が賞を取ると楽しくなるなあ。

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たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「燃焼」

2012-08-09 16:54:12 | 詩集
たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「燃焼」(「ロシア文化通信」40、2012年07月31日発行)

 たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「燃焼」は「冬の宵。」ではじまる。その「冬」の一文字にひきつけられて読みはじめた。暑くてたまらない。冷房を入れると頭が冷えて頭痛がする。せめて、冬の気分にでも……。
 ところが大失敗でした。

冬の宵。焔に
包まれる薪は--
晴れた日の風に吹かれる
女の頭のよう。

 「冬の宵」の次は「焔」である。まあ、ロシアなので冬は暖房をしないとつらいよね。救いは「晴れた日の風に吹かれる」かなあ。冬の冷たい空気が部屋のなかに広がる--というのは無理にしても意識のなかに広がれば……。
 でもねえ。

髪の房はなんと金色になることか、
失明するぞと威嚇しつつ!
彼女の顔から寸法をつめることなかれ。
おつぎは不可能なものを好転させろ。

髪の分け目をつけるな、
櫛で分けるな。
焼きつくすことができるような
視界が開けよう。

私は焔をじっと見つめる。
焔の言語で
《触るな》と声があがるだろう
《わたしには!》とにわかに燃え上がる。

 あ、焔だらけだ。
 でも、おかしいねえ。炎なのに、なぜか熱くない。それだけ炎が冬の寒気に包まれているということだろうか。
 うーん、違う。
 そうじゃないな、この「熱さ」の欠落は。
 読んでいて、汗がぜんぜん出てこない。
 「読んで失敗だったな」というのは勘違い。「正解」とまではいかないが、なぜか、さっぱりした気分になる。
 このさっぱりは、どこから?
 簡単に言うと、汗が流れない、ということにある。
 ここから(もう、さっきから?)、私の感想は詩に対する感想なのか、「風土」に関する感想なのかわからなるのだけれど、真夏の暑い日に、冷房なしの部屋でこの詩を読んでいても実は暑苦しくならない。
 なぜかというと、ここに書かれている「熱(焔)」は日本の8月の熱さとは違った種類のものだからである。そのいちばんの違いは、

触るな

 である。ロシアの炎は接触を拒絶している。もちろん、それは炎が拒絶しているというよりも、人間の方が接触するとやけどをしてしまうという問題を含んでいるのだけれど、そういうことをいわずに、「触るな」と拒絶するその「距離感」が、日本の夏の暑さととは違う。
 日本の暑さは、「触るな」といいたいけれど、湿気、そして高温が、肌にべったりとさわってくる。そして、その接触は「触るな」というほど危険でもない。37度の空気に触れても、やけどをするわけではないからね。
 距離がとれるか(距離をとるか)、距離がとれないかが、日本の夏の暑さとロシアの冬の炎の違いである。
 で、

髪の房はなんと金色になることか、
失明するぞと威嚇しつつ!

《触るな》と声があがるだろう
《わたしには!》とにわかに燃え上がる。

 というきっぱりした距離の要求に接すると、なんだか風がさーっと吹き抜けていく感じがする。いいもんだなあ、と思う。
 ブロツキイにこんなことをいうと叱られるかもしれないが、ロシアの冬にいけば、こんな寒さを体験できるんだ、やけどしてでも炎に触れたいと思うくらい寒いのに、それができない。炎はそこにあるのに、触れることができないという矛盾に出合うことができるんだなあと思うと、日本の夏が吹き飛ぶ。
 で、その炎が女なんだよねえ……。
 というのは、まあ、男の感想かもしれないけれど、それもいいなあ。触りたい。でも、触るとだめ。目の前にいるのに……。
 まあ、いいか。
 いや、よくなくて。

どんなに線描を隠し通そうとも、
かえって本質はおまえを裏切るだろう、

 この2行だけ、途中から取り出すと、ほんとうはいけないんだろうけれど、隠しても隠しても本質はあらわれて、あらわれることでおまえを裏切る--というのは、愛の未練の捨てぜりふみたいでかっこよくない?
 ロシアの冬はかっこいいんだ、と私は思う。

 ひるがえって。
 ああ、この暑さ、だれか「この暑さがかっこいいんだ」という詩を書いてくれないかなあ、と思うと、暑さが身にこたえるので、書いたけれど、読まなかったことにしてください。

こうしてシルクは裂ける、パチパチ爆ぜながら、
局部を露出しながら。
ほほが見えかくれするかと思えば、
口がめらめら燃えあがるだろう。

 ロシアの冬はエロチック。そして、こんなに書いても書き足りないくらい寒いんだ。今すぐ行きたい!



ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
たなか あきみつ
ふらんす堂
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瀬崎祐「水の時間・陰」ほか

2012-08-08 07:33:52 | 詩(雑誌・同人誌)
瀬崎祐「水の時間・陰」ほか(「風都市」24、2012年夏発行)

 瀬崎祐「水の時間・陰」に「水」は出てこない。
 
物売りの声を背にして岬をまわり
戻ってきた家は静かだった
風が旅程をかるくしている

おとずれる人も遠くなる
いくつもの部屋をぬけて妻の部屋にはいると
文机のうえには
青い書きおきが残されている

さきにかえります さようなら

窓という窓は開けはなたれ
みどりの葉に日射しがすきとおる

わたしのかえる場所がなつかしい
部屋の片隅に
まだつかわれていない薄ものの寝具が
きちんとたたまれている

 「水」は書かれていないが「岬をまわり」ということばが「海」を呼び寄せる。その海は、全体をつつんでいる。--瀬崎の「いま/ここ」が島のように孤立して感じられる。孤立した島で、孤立している瀬崎。
 「海」を感じるのは、「青い書きおき」の「青い」があるからかもしれない。「青い書きおき」は青い紙に書かれた書き置きだろうか。そうではなくて、白い紙に書かれているのだが、遠い(遠くもないか、島だから)海の色が映っている。紙にまで海の感じが広がってきている。それくらい「障害物」のない島なのだ。開け放たれた島なのだ。

窓という窓は開けはなたれ
みどりの葉に日射しがすきとおる

 この広がりと、透明感。それが、この詩をつつんでいる。
 あ、でもねえ。「水の時間・陰」。このタイトルにある「陰」はどこに?
 「水」は「岬」ということばの周辺にひたひたと波のように押し寄せてくるけれど、「陰」は? 光は透明。部屋は(窓は)開け放たれ、風はいくつもの部屋を通り抜けて吹いているだろう。
 このどこに陰が?
 「さきにかえります さようなら」という「書きおき」だろうか。妻が用事ができて先に帰るとき、まあ、「さようなら」とまでは書かないなあ。何かしら、そこには寂しいものがある。「書きおき」の「青い」も海の色とはいいながら、まぶしい青ではないだろう。「さようなら」が、そう感じさせるのか。

わたしのかえる場所がなつかしい

 この1行も、不思議に寂しい。そして「青い」色が漂っている。透明な青。しかし、薄い青、水色っぽいね。「薄ものの寝具」の「薄」という文字が響いてきているのかもしれない。
 この不思議な寂しさは、「かえる場所」が具体的ではないということに原因があるかもしれない。「かえる場所」って、どこ? 先に帰った妻がまっている家? そうではなくて、いま/ここの「妻の部屋」?
 あるいは「薄ものの寝具」? 
 「水」の不在、「陰」の不在、そしてセックスの不在。畳まれた寝具。きちんとたたまれた寝具--その薄ものの、軽い感じ……。

 ああ、ここでは何もかもが「不在」なのだ。こんなに明るい光が満ちている旅の部屋。でも、あるのは「不在」だけ。
 「書きおき」の「さよなら」は「永遠の不在」のあいさつである。たとえ一緒に、そばにいても、「不在」なのだ。
 それを、しかしこの詩のなかの「わたし(とりあえず、瀬崎ということにしておく)は「なつかしい」のだ。
 不在がなつかしい--というのは、一種の「矛盾」かもしれない。
 だけれど、矛盾しているから、そこに詩がある。
 そして、それはタイトルの「水の時間・陰」からはじまっている。

 もう一篇「夜の気息」という作品がある。これは「水の時間・陰」と「対」のようになっている。

あなたの顔を蒼くそめて
夜がゆっくりと降りてくる
蠢く空気は粘りついて
走るあなたをひきとめようとする
いま 無人峠を越えたところで
うちつけられていた右足親指の爪が
黒くなって死んだ
ふー はっ

 「青」は「蒼く」に変わっている。青のなかには透明な光があるが、「蒼」には翳りがある。タイトルを「夜の気息・陰」としたいくらいである。暗いものが、そこにはある。そして、その暗いものは「蠢く」「粘りついてくる」。「水の時間・陰」の開放感とはまったく逆である。
 「無人峠」は「岬」と通い合うが、同じように人がいなくても、「無人」と「ひとを書かないこと」とは違う。「無人」のなかには「無」があるのだが、同時に「人」がある。「人」を強く意識するから「無人」なのである。「無人」というとき、意識のなかには「人」がつよく存在する。
 「水の時間・陰」では、あらゆるものが「不在」だったが、ここでは「無人」さえ「存在する」のである。
 濃密な空気がある。
 だから

ふー はっ

 この息が、暑苦しい。ぐいとっ迫ってくる。ああ、いやだなあ。苦しいなあ。

紅い魚を肩にかついで水からあがってきた男に 会った
ことがある 男はあなたの顔を見ておおきなため息をつ
いたのだった あなたは 声を封じ込めた気息をすばや
く魚の口から押しこめたのだった 水から寄せてくるも
のをいくらつつみこんでみたところで 走ることが安寧
につながることはなったわけである

 これは、「ふー はっ」を言いなおしたものだろう。何か(誰か)得たいの知れないものの存在--それは存在なのだけれど、存在を超えて「気配」として存在する。ふつうは気配の奥に存在がある。何かあるなあというのが気配なのだけれど、
 「水の時間・陰」は、「不在」を描くことで「気配」をただよわせているのだが、
 ここでは、その「気配」が存在(紅い魚を肩にかついで水からあがってきた男)そのものを、存在のままにはしておかない。存在をこえるものにしている。そういう「気配」がここにはあって、それが

男はあなたの顔を見ておおきなため息をついた

 と、突然の「あなた」をひっぱりだす。
 男に会ったのは「あなた」なのか。そうではなく、文法上は、省略されている「わたし(とりあえず、瀬崎ということにしておく)」だろう。ため息を受け止めたのは「わたし」である。けれど、それを瀬崎は「あなた」と書く。
 「瀬崎」を「わたし」と書いてしまうにはと、それが重すぎる。その「存在」を超える「気配」の固まりが重すぎる。で、「あなた」と対象化(客観化)する、自分から切り離してしまうことで、ようやくバランスをたもつという感じである。
 で、というか、だから、というか……。
 1連目の「あなたの顔を蒼くそめて」の「あなた」というのも「あなた」ではなく「わたし」なのである。「わたし」の顔を「わたし」が直接見ることはできないから、「蒼くそめて」はほんとうは見たものではなく、意識がとらえた「わたし」である。「意識化されたわたし」が「あなた」である。
 「意識化されたわたしであるあなた」と「それを意識するわたし」。ああ、めんどうくさい--と私(谷内)は思うけれど、この「めんどうくさい」は私の感覚の意見であって、瀬崎はもちろんそれと向き合っている人間なので、めんどうくさいではすまされない。でも、どうすることができるか、

ふー はっ

 息を吐くしかない。その息から「夜」がはじまる。その夜は「なつかしい」ものであるかどうかは別問題として、瀬崎にからみついている。「不在」ではなく「存在」することが、ここでは問題になっている。

 こういう作品の書き方は、今回のような同人誌での一篇一篇(対になった二篇)という形ではなく、詩集になったときに、もっと明確に見えてくるものかもしれない。瀬崎は「詩集派」の詩人なのだと思った。




窓都市、水の在りか
瀬崎 祐
思潮社
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秋亜綺羅「ドリーム・オン」(再び)

2012-08-07 11:00:05 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「ドリーム・オン」(再び)(「ココア共和国」10、2012年07月07日発行)

 きのうは、途中からいいかげんになりすぎたみたいなので、ちょっと補足。
 秋亜綺羅が「ドリーム・オン」でやっているのは、つきつめていえば、ことばと肉体の関係の洗いなおしである。

鏡を覗いたってぼくしかいなくなってしまった
すこしは大人になって禿げあがって
ひたいのしわだって運命線のように深い

 ひとが年を取り、肉体が変化する。少年は大人になり、髪も薄くなり、禿げあがり、その変化の奥にある苦労が額の皺に刻まれる。まあ、それは「運命」である。そうやって生きるのが「運命」、ということを書いている、というのではない。
 それだったら「意味」になってしまうね。
 そうではなくて、そういう「意味」を引き受けたふりをしながら(これが、想像力の想定内、ということになる)、書いたことを振り捨てていく。
 秋亜綺羅はことばを積み重ねて、その結果としてある世界を描くのではなく、ことばを書き捨てることで、ことばではなく、ことばのリズムと肉体を、詩の「先に」取り残すのである。詩の「先に」放り出すのである、と言えばいいのかも。

 あ、きのう書いたこととまったく違うことを書いている?
 まあ、そうかもしれない。
 同じことを考えつづけることはできないから。考えなんて、一瞬先にはかわってましうものだから。「過去(のことば)は過ぎ去り未来(のことば)は未だ来ない」。思いつくまま、あるいは思いつかないことを思いついたふりをしながら、私のことばは動く。
 そのとき次第である。

 で、そういう私からみると、秋亜綺羅は「意味」を書こうとはしていない。「意味」を読者に感じさせながら、さっと捨てていく。「論理」をどこかに感じさせながら、ことばでたどることのできる、あるいは、ことばで誘導できる「意味」を、そんなものは捨ててしまえ、というのである。
 年をとって、額に皺が増えて、それが「運命線」のように深い--と紋黄蝶は無関係。紋黄蝶と関係があるのは、レモン・スカッシュの黄色い色。でも、レモン・スカッシュってほんとうに黄色い? 違うよね。ただ、そういうふうに「連想」をひっぱることができる、そうしてその連想の中で、ちょっと美しいイメージができる。紋黄蝶がレモン・スカッシュのなかを飛び、そして溺れるという透明なイメージが。きれいでしょ? だからといって、「意味」はない。「意味」があるとしたら、そのイメージが美しいということ。で、そう思った瞬間、額の運命線のような皺なんて、どこかに消えているでしょ?
 この振り捨て方。
 ことば、「意味」は捨てるためにある。
 「書を捨てよ、街に出よう」ではなく「意味」を捨てよう、というのが秋亜綺羅のことばの運動かもしれない。そして「意味」を捨てるためには、ことばのなかに「意味」が感じられないといけない。額の皺の「運命線」のように。「過去は過ぎ去り未来は未だ来ない」という「熟語」の「説明」も捨てないといけない。「説明」は、そういう「説明」を必要としたひとがつくりだすためのものであって、それは私(秋亜綺羅)とは関係がない、と秋亜綺羅はいう。
 そういうことができか。たぶん、できない。できないから、まあ、つづけるのである。できてしまえば、それでおしまい。できないから、繰り返す。

 こんなふうな感想の書き方ではなく、もっと違った書き方の方がいいのかもしれない。たとえば、

死ぬふりをするということは
死んだ恋人と一緒に生きてみることである
住民票なんか確かめてみても楽になれない

若くなかったもしくは死ねなかった、た、た、た
自己催眠による自殺を試みて数を数える
気づいた時にはもう遅い夢中だった

 この「若くなかったもしくは死ねなかった、た、た、た」の「た、た、た、た」が、私は大好きである。
 こう書きはじめればよかったかもしれない。
 「た、た、た、た」って何? どういう「意味」?
 「意味」なんてありません。あったって、私は気にしません。「意味」なんて、私がこれから書くことと同じで、どうとでも「つける」ことができる。
 「た、た、た、た」は、つぎに何を書いていいかわからず、とりあえず「た、た、た、た」とことばにする(声に出す)ことで、自分のなかから何かが生まれてくるのを待っているだけなのです。
 ふつうは、そういうことばを書かない。
 きちんと「意味」を整理し、ことばを整える。それが「文学」。
 そうかもしれないけれど、そういうものは嘘っぱちかもしれない。
 ことばは、そんな簡単には出てこない。肉体のなかになにかが動いているけれど、それはまだ明確な形にならない。だいたい「明確な形」そのものがまちがっているかもしれない。で、とりあえず「た、た、た、た」。
 これは、

人生はやり直しがきかないので 波
文字の書けなくなる暗さまで待って 波
ひと芝居打って打ち返してみたらいい 波

 の「波」と同じ。さらには、他の作品にも繰り返される「ドリーム・オン」ということばも同じ。繰り返し、声に出しながら、その声に誘われて、肉体のなかからことばが飛び出してくるのを待っているだけである。
 肉体があって、ことばのリズムがある。
 それにのって、いままで語られなかったことば、ことばの連結がはじまる。それを次々に放り出す。そうすると、放り出したことばがつぎつぎに「無意味」になって消えていく。どこまで無意味になれるか。無意味の果てに残されるのは何か。
 肉体とリズム。ことばを、「しゃべる」リズム。しゃべらさなければならない、しゃべることを必要としている肉体--それが残される。
 それはしゃべることを否定する何か、自由なことばを拒絶する何かと闘うことである--とまで言ってしまうと、また「意味」という嘘になってしまうが……。


季刊 ココア共和国vol.10
秋 亜綺羅,池井 昌樹,一倉 宏,雨女 薬,石井 萌葉,望月 苑巳
あきは書館
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秋亜綺羅「ドリーム・オン」

2012-08-06 11:57:32 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「ドリーム・オン」(「ココア共和国」10、2012年07月07日発行)

 秋亜綺羅の詩は、印象でいうだけなのだが、「高3コース」に投稿していたときとまったくかわっていない。特徴はふつうの想像力を裏切らないというか、ふつうの想像力の範囲内のことばで詩が書かれるということだ。でも、ふつうなら誰でも書けそうだけれど……。そうなんだなあ。誰でも書けそうでいて、少し違う。その「少し」の説明は、しかし、ほんとうにむずかしい。
 「ドリーム・オン」という作品が三つ書かれている。引用がいちばん簡単(?)な三つ目の作品の1連目。

鏡を覗いたってぼくしかいなくなってしまった
すこしは大人になって禿げあがって
ひたいのしわだって運命線のように深い

 鏡を覗いて「ぼくしかいない」というナルシズム。「しか」ということばが、青っぽい。それから「すこしは大人になって」という自覚と「禿げあがって」という自虐。「大人(年をとる)」と「禿げ(る)」の、絵に描いたような連想の結びつき。これが「白髪になって(白髪がまじって)」だと、「自虐」とはすこし違ってくる(ように思える)。これは、私たちが白髪よりも禿を気にする大人の方が多いということを知っているからだ。秋亜綺羅は、こういう、私たちの意識の奥で共有されている感覚を軽くつかまえてくるのが得意である。それは3行目の「運命線」ということばの選択にとくにあらわれている。「運命線」というのは手相の「運命線」である。手相の、運命線が感情線、頭脳線(で、よかったかな?)と比べて特別深いわけではないだろう。それはひとによって違うだろう。なぜ、感情線や頭脳線ではなく、「運命線」ということばが選ばれたか。よく考えれば、子どもから大人になるまでのあいだに味わってきた「感情」の起伏こそ、肉体に皺となって刻印されていてもよさそうなのに、そういう起伏を克明に描きはじめるとめいどうくさくなる。「あれもこれも運命さ」というようなあきらめ(?)、「運まかせ」みたいな雰囲気の方が「現実」を受け入れやすい。ふつうは、ね。
 こんなことを詩を読みながら、ふつうはいちいちことばにしないのだけれど、ことばにしてみるとそういうことになる。そして、そこに秋亜綺羅の想像力のというか、ことばの動きの特徴を感じる。
 こんな言い方がいいかどうかわからないけれど、「現代詩」を苦悩の世界だとすると、秋亜綺羅の世界はそれを軽くした雰囲気がある。「現代詩」に対して「ポップス」。まあ、こんな言い方はポップスから反論が来そうだけれど。
 「重さ」ではなく「軽さ」が重視されている。そして、その軽さは、想像力が「想定内」であることによって生まれている。
 「軽さ」のために、「鏡を覗いたって」というような「口語」もつかわれる。「鏡を覗いても」ではなく「覗いたって」。あるいは「皺だって」の「だって」。「皺も」と比較すると、その「軽さ」がわかる。「口語」的なのだ。
 これは最初に書いた想定内の想像力とも関係している。「口語」(おしゃべり)の場合、ことばが相手にすぐに理解されないといけない。読みながら、立ち止まり、この字なんて読む?と辞書を引き、意味を調べていては、おしゃべりにならない。わかることば、知っていることばでないと、おしゃべりはつづかない。だから、そこにつかわれることばは、あくまでも私たちがよく知っていることばであり、なおかつ、想像力の想定内--そして、その想定の範囲内の、ちょうどぎりぎりくらいのところというのが大切になる。
 感情線、頭脳線ではなく、「運命線」というのは、そういうちょうどぎりぎりのところを駆け抜けていく。駆け抜けながら、さっと私たちのこころを照らしだす。「運命」ということばとともに何かをいうときの「諦め」というか、自分ではどうすることもできない何かを人間は知っているということなどを、ね。
 ちょっとややこしい(?)ことをいうときは、何度も繰り返す。

過去は過ぎ去り未来は未だ来ない

 という具合に、漢字を利用しながら、「意味」を説明するようなことばも、そうした繰り返しのひとつだけれど、ここでも「過去」「未来」という誰でもが知っている漢字、この詩が朗読されても思い浮かぶような(つまり想像力の想定内の)、ことばがつかわれる。ことばが選ばれる。
 で、ほんとうの繰り返し。あるいは言い直し。

夢見たことが現実になってしまう
ある日死んだ夢を見るだろう
夢から醒めない方法を誰に尋ねたらいい

現実をもういちど夢に見てしまう
ある日ほんとうに死ぬだろう
夢をもう覗かないですむ方法をその時ぼくは醒めて知る

 これも想像力の想定内だけれど、でも、少し「論理力」がいるね。ことばを「論理」てきに追って、そうすることでわかる小さなずれ。感情線、頭脳線ではなく「運命線」を額の皺に見るような、少しの飛躍。
 こういうことも、秋亜綺羅は大好きだね。

紋黄蝶がレモン・スカッシュに溺れて透けながら
全身が黄色いストロボで麻痺する呪文を空覚えすると
ぼくには魂をキリキリ舞わせる儀式しかない

静かで安全な部屋でうるさい夢を見る
静かで安全な場所でピストルをみがきなおす
夢の中でいいのならぼくは裸の紋黄蝶とファックした

 「論理」が「映像」に転化しながら動いていく。「おしゃべり」がとまらない感じ。で、そこに「夢の中でいいのならぼくは裸の紋黄蝶とファックした」というような、不思議な「時制」が登場する。ふつうは、「夢の中でいいのならぼくは裸の紋黄蝶とファックする」という「未来形」になる。「夢の中でいいなら」というのは仮定だから、ふつうは未経験なことばを呼び寄せるのだが、秋亜綺羅はファック「した」と過去形にする。
 そうすると、リズムが、洗いなおされる感じがするねえ。

人生はやり直しがきかないので 波
文字の書けなくなる暗さまで待って 波
ひと芝居打って打ち返してみたらいい 波

 「波」の繰り返しで、何かしら、そこに「統一されたもの」があるかのようにことばが動く。でも、きっとあるのは「意味」ではなく「波」という音の繰り返し。意味がなくてもことばは動くという「軽さ」。
 それから「ひと芝居打って打ち返してみたらいい」の「打って」と「打ち返して」ということばの対立というか、応酬。

 秋亜綺羅は「意味」を書いていない。ことばは想像力の想定内から出発して、そこでつかんだ軽さのまま疾走する。ことばが「意味」になりそうになると、音楽で洗い流しながら、「意味」を捨てる。
 このとき、何が残るか。
 ていねいに説明すると面倒なので、省略して書いてしまうが(きょうは、頭が痛いので……)、「おしゃべり」をした「肉体」が残る。ことばを疾走させた「肉体」が残る。「音」といっしょに。--それを思い出させるために、秋亜綺羅は詩を書いている。

 (省略しすぎたね。また、別の機会に。--ほんとうに、頭が痛い。中断。強制終了、という感じ……。)



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秋 亜綺羅,池井 昌樹,一倉 宏,雨女 薬,石井 萌葉,望月 苑巳
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ナンニ・モレッティ監督「ローマ法王の休日」(★★★)

2012-08-05 13:36:48 | 映画
監督 ナンニ・モレッティ 出演 ミシェル・ピッコリ、イェジー・スツール、レナート・スカルパ

 役者に対する印象(固定観念?)というのは根強いと思う。--まあ、私のことなんだけれど。で、ミシェル・ピッコリはというと、わたしの場合、「すけべ親父」ですね。「すけべ」にもいろいろな段階(?)があって、ミシェル・ピッコリの場合は何がなんでも快楽を追求するというものではなくて、ちょっとそれがほしい、という感じの「すけべ」。だめ、といわれたら、まあ、我慢する。で、そのちょっと我慢したところが肉体のなかにたまっていて、それが妙に暗い。「陽気なすけべ」というよりも「根暗なすけべ」という感じかなあ。若いときの「昼顔」から、そんな感じがするなあ……ではなく、それ以来、私はずーっと、そういう感じでミシェル・ピッコリを見ていたんだろうなあ。
 だから。
 びっくりしましたねえ。予告編を見て、あれはミシェル・ピッコリみたいだなあ。ポスターを見て、あ、やっぱりミシェル・ピッコリだ。なりたくない「法王」に選ばれて、耐えられずローマの街に飛び出して……あれ? 「ローマの休日」のオードリー・ヘプバーンをミシェル・ピッコリがやるの? これはおもしろい。でも、何か違うんじゃない? どっちつかずの気持ちで映画館に入ったんだけれど。
 うーん。
 「ローマの休日」とは違いましたね。あたりまえだけれど。
 で、ミシェル・ピッコリ。これがねえ、なかなかおもしろかった。法王だから「すけべ」な感じは抑えているのだけれど、「すけべ」の対象(?)を女ではなく、「日常」にしてみると、これが私の知っているミシェル・ピッコリそのまま。知っているといっても、映画で知っているだけだけれどね。つまり、私の固定観念のままだけれどね。
 欲望の対象への迫り方が、単刀直入じゃない。単刀直入のつもりかもしれないけれど、ちょっと口ごもる。「○○がしたい」とははっきり言わない。でも、やってしまう。じわじわっと対象に迫って行って、「合体」する。あ、「カモメ」の芝居のことを言ってるんですよ、私は。「妹が役者で、練習を聞いている内に台詞を覚えてしまった」って、うーん、そういうことはあるかもしれないけれど、それを忘れていないというのが「根暗」でしょ? そうして、その「根暗」の記憶を活かして(異化して?)、「いま/ここ」という現実に入って行ってしまう。この辺の、人間のリズムがなかなかねえ。
 「すけべ」であることの、人間の強さみたいなものがありますねえ。
 この変なというか、不思議な人間のリズムが、ミシェル・ピッコリだけではなく、この映画全体を、なんとなくつつんでいる。「やりたいこと」と「やれること」のあいだで、うごめきながら、自分を守っている。つまり、「生きている」。つまり、自分を守るふりをして(受動的であるふりをして)、これなら大丈夫という部分へ自分を押し出していく。
 法王になれなかった人たちが、バレーボールをするシーンがあるが、そのシーン自体もおもしろいが、そのチーム編成をすすめるセラピストのこだわりなんかが、とてもおかしい。そのセラピストには別居(離婚?)した妻がいて、その妻もセラピスト。さらには新しい恋人もセラピストというばかばかしい関係が、法王選びの選挙の関係に似ているし、最初のセラピストでは解決できず、法王か妻の方へセカンドオピニオンを求めに行くというのも、なんとういのだろう、やっぱり「受動」を超えて「能動」として動いていく何かがあるね。まあ、こんなめんどうくさいことは、どうでもいいのだけれど。
 私が書きたいのは。(最初から、これだけを書けばよかったかな?)
 ミシェル・ピッコリはとても法王には見えない。そして、その法王には見えない部分を、この映画はていねいにていねいに描いている。チェホフの芝居をやる部分に、それがとてもよくでている。「役者になりたかった」というのがミシェル・ピッコリの言い分だけれど、もしほんとうに役者になりたいのなら「法王」という役を現実で演じればいいのだけれど、それはできない。あくまで「これは芝居ですよ」ということが見ているひとに受け止めてもらえる場で何かを演じたい。あらかじめ、観客の「了解」がほしいのがミシェル・ピッコリのいう「役者」だ。
 「すけべ」というのは相手の思いは関係なく「すけべ」というのもあるが、ミシェル・ピッコリの「すけべ」は相手の了解を得た上での「すけべ」をめざして(?)いる。で、あらかじめ「了解」が得られないなら……。
 これは書かなくてもいいよね。

 まあ、これはミシェル・ピッコリの不思議な存在感と、ゆるぎない映像の美しさを楽しむ映画だね。映像は、ほんとうにほんとうにほんとうにていねいに撮られている。ストーリーがどうなるんだろうと気になると見落としてしまうかもしれないけれど。いや、そういう気持ちがあっても、お、美しいと感じる。そういうすばらしい落ち着きもある。
                      (2012年08月03日、KBCシネマ1)




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和田まさ子「水すまし」

2012-08-04 10:24:49 | 詩(雑誌・同人誌)
和田まさ子「水すまし」(「地上十センチ」創刊号、2012年07月31日発行)

 和田まさ子のことばは、論理的なのか非論理的なのかわからない。書いてある通りに読むことができる。書いてある通りの情景が浮かんでくる。でも、それが変である。そして変であるけれど、気持ちがいい。
 「水すまし」の前半。

大雨が降ったので
公園の地面が鏡のようになり
ふつうの水すましの百倍はある大水すましがすいーっすいーっと
リズミカルに泳いでいる

「いいですなあ 美しい眺めです」
マスダさんは感服したように首を縦に振りながらいうので
わたしも同じようにうなずいた
ときどき地面がぴかりと光るのは
スケーターワルツの音楽のようでもある

 「大雨が降ったので/公園の地面が鏡のようになり」というのは、ありうるね。ほんとうのことだ。けれど「ふつうの水すましの百倍はある大水すまし」はありえない。嘘である。詩に嘘を書いてはいけないという決まりなどあるわけではないから、これはこれでいいのだと思う。--ということは、どうでもよくて。
 あ、この水すましはほんものではないなあ、という意識が頭を少し横切るとき、「公園の地面が鏡のようになり」も、どこかに少し嘘を含んでいるんだなあと思う。ほんものを見ているというより、つまり、鏡のようになった地面を見ているというより、鏡ということば、鏡を思いついた意識の方へとことばが動いて行っていると気がつく。
 「公園の地面が鏡のようになり」という文の「主語」はあくまで「地面」であるけれど、「意識の主語(?)」は「鏡」である。もう、和田は「地面」など見ていない。
 地面ではなく、鏡-大きな水鏡を見ているからこそ、そこに水すましがあらわれてくる。鏡がほんものではないのだから、水すましだってほんものではない。つまり、大きさはどれだけあってもいいのである。
 このとき和田はもう鏡も見ていない。和田が見ているのは水すましである。しかもふつうの水すましではなく、百倍もある水すましである。それがすいーっすいーっと泳ぐ。で、このとき和田が見ているのは、水すましの大きさではない。水すましでもない。すいーっすいーっと泳ぐその泳ぎそのもの、リズミカルな運動の気持ちのよさである。
 それから状況(?)はさらにかわる。2連目。和田が見ているのは、「美しい眺め」を通り越して、「感服」というこころのありようである。ひとは「風景」を見るのではなく、風景を見るそのひとの「こころのありよう」を見るのである。
 (私も、大きな水たまり、水鏡と水すましを見ると同時に、和田のこころの動きをみている。)
 もちろん、「こころのありよう」などというものは、ひとそれぞれであり、水たまりを見て「美しい眺め」と思わないひともいるだろう。でも、そう思うひとがいる。そして、そのときの「気持ち(感服)」に共感するひとがいる。和田は、だいたい他人の「感服」というか、深くこころの底からあふれてくる何事かにそのまま「共感」する人間であり、そこがおもしろい。(私は和田の詩をそんなに多く読んでいるわけではないので、私が思い出しているのは「壺」とか「金魚」になってしまったひとに共感して、和田自身もその気になる詩のことである。)
 この「共感」に、なんともいえない「人間性」があふれている。「距離のとり方」があふれている。ちょっと、とぼけている。

わたしたちは水すましを見るために来ている人をめあての屋台の店で
あんず飴を買い なめながらそれを見ていた

マスダさんはわたしの小学校の先生で
いまでは年の離れた友だちのようになっていた
少し古風な物言いをするので恋人とちがう
話していると恋人よりも気があう
こんな大水すましを観賞するのは
やはり恋人よりマスダさんだろう

 恋人ではなく年の離れた友だち。それにふさわしい何事か。--それが恋人とではなぜだめなのか、というのは、まあ、面倒くさいことがらだね。だから、書かない。そういうことは、わからなければわからないでかまわないのだ。ひとなんて、どっちにしろわからない。わからないところがあって、わかると安心して言えるのだ。
 「感服」「少し古風な物言い」。そのとき、和田の「こころのありよう」は、なんというのだろう、あ、このひとは私とは違うということを、発見し、納得し、受け入れている。そして、そのときの「距離」を保っている。一瞬近づくのだけれど、そのひとの内部にまで入り込むのではない。ちらり、とそれを見る。開いたこころの扉から、その奥を見て、なるほどと思う感じに似ている。
 この踏み込まない「距離のとり方」、あるいは「受け入れ方」が、和田らしいなあ、と私は勝手に思うのである。「距離の変化」というものに、とても敏感なひとなのだと思う。で、そういうひとは、やはり「距離のとり方」の上手なひとを引き寄せるんだろうなあ。

あんず飴があと少しになったとき
大水すましの体が小さくなった
ぽっきんぽっきんと音をさせながら縮まっていく
公園の地面ももう鏡ではなく
薄汚れたまだらの泥の水たまりになった
屋台が店じまいをしている
気がつくと
横にいたマスダさんがいない
あんず飴の棒が一本ちりがみの上にのっていた

 最後の1行が「マスダさん」を浮かび上がらせる。どういうひとかを浮き彫りにする。そんなことをするくらいなら、ちりがみでつつんで持って行って、どこかのごみ箱に自分で捨てればいいのだろうけれど、まあ、それは余分なこと。
 「ティッシュ」ではなく、「ちりがみ」というのがいいなあ。ほんとうはてぃっしゅかもしれないけれど、「ちりがみ」になってしまう感じ、それこそ「少し古風」な感じでひとがふれあう楽しみ、よろこびが、和田のことばのなかにある。




わたしの好きな日
和田 まさ子
思潮社
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南川隆雄「ほたるの夜」

2012-08-03 12:01:05 | 詩(雑誌・同人誌)
南川隆雄「ほたるの夜」(「現代詩手帖」2012年08月号)

 南川隆雄「ほたるの夜」は、書き出しが「記憶」に触れてくる。

ひるま踏み入れた陽光が
水底から漏れでて
新月の田の面が細かく脈うつ
あ あそこに

 「ひるま踏み入れた陽光が」というのは、太陽の光がそれ自身で田んぼに踏み込んだともとれるけれど、そうではなくて、南川(と、とりあえずしておく)が田んぼのなかに足を踏み入れ、仕事をしたとき、その南川の足を追いかけるようにして太陽の光が踏み入れたということだろう。太陽の光と南川の肉体が一体になっている。
 そこで南川の肉体と太陽が一体になっているからこそ、そのことを知っている田んぼは、夜になると水底からそっと光を放つのである。南川の肉体をなぐさめるために。
 このとき、あ、南川の肉体と一体になっていたのは太陽の光だけではない、ということがわかる。田んぼの水、田んぼの泥、そして稲もみんな一体になっていた。一体になっている。
 この一体感があるから、2連目が美しい。

田草取りを終えた稲のうえを
ふたつみっつ ひかりの綿毛が流れる
腰定まらぬ野良仕事のなぐさめに
だれが呼び寄せてくれたのか

 「だれが呼び寄せてくれたのか」を南川は知っている。知っているから、言わないのである。それが「働く」ということの「徳」というものかもしれない。

ひるま 石灰をまき 腐らせた人肥をまき 雑草をねじ込んだ泥田
ひるま 蛭に血を吸われ 切り傷を膿ませ 腹空かせてへたり込んだ泥田
触るなよ ナパーム弾の六角筒が 斜めに突き刺さる泥田

 石灰も人肥も雑草も蛭も膿も、南川と「一体」のものである。ナパーム弾は違う。だから、「触るなよ」なのである。しかし、その「触るな」を含んでいるのが「記憶」ではなく「現在」というものなのだ。
 「現在」をしかし南川は「記憶」からのみ見つめているわけではない。「一体」としての暮らしは同時に現在であり、ナパーム弾は「現在」につきささった「記憶」でもある。それはまったく異質なものなのに、異質でありながら、「記憶」と「現在」ではなく、つまり並列の対比ではなく、一種の「癒着」のようなものである。「一体」ではないのに、くっついてしまっている何かである。
 ここを、どうこじ開けていくか。
 これは、とてもむずかしい。

畔に屈み 手を草の根元に差し入れる
ぬるく濃い水
抜いた指先がうすみどりにひかり
しごいてもとれない
指紋で磨りつぶしたものは 卵か幼虫か

 そのむずかしい部分で頼りになるのは、やはり肉体である。「手」。その感触。手が記憶するもの。手が触れる現在。そこには「しごいてもとれない」という「未来」の時間も入ってくる。「とれない」は「現在」であるけれど、「とれない」はつづくのだから「未来」でもあるのだ。そして、それが「とれない」のはそこに「過去」があるからだ。
 「記憶と現在」とは簡単には言えないのだ。
 「時間」も「意識(? でいいのかな?)」も単純に「一瞬(一点)」ではない。つねに広がっている。何かと接続している。それを南川は「頭」ではなく、田んぼに踏み入れる「足(このことばは書いてはないけれど)」や「手」という肉体でしっかりつかんでいる。肉体のなかに取り込んでいる。
 こういうものだけが、たしかに「記憶」なのだ。そして、そういう「記憶」は肉体をはみだしてただよう。肉体を突き破って、「いま/ここ」にあらわれる。

いのちなくしても ひかるもの

 美しいと言ってはいけない悲しみ。怒り。美しいとは言わないからこそ美しくあるもの。その絶対的な矛盾。

小鮒の腹のなかで ひかるもの
淵をのぞむ 危ういそぞろ歩き

どこから涌いてくる
よっついつつ ひかりの綿毛が殖えてくる
ひるまも ひとに見えない光が
点滅しているのか

おむすび頭の弟がかすんでいく
ほたるの夜 たましい ひかれ
ひともまた

 「たましい ひかれ」の「ひかれ」は「引かれ(惹かれ、曳かれ)」であろうか、あるいは「光れ」であろうか。
 わからない。区別ができない。「ことば」のなかに別のことばが含まれて「一体」になっている。それが自然な感じである。それが美しい。


此岸の男
南川 隆雄
思潮社
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アウグスティ・ビリャロンガ監督「ブラック・ブレッド」(★★★★★)

2012-08-02 10:31:58 | 映画
監督 アウグスティ・ビリャロンガ 出演 フランセス・クルメ、マリナ・コマス、ノラ・ナバス

 映画がはじまってすぐに殺人事件が起きる。この殺人シーンがとてもすばらしい。とても美しい。特に馬が崖から落ちていくシーンにはぞくぞくさせるものがある。そういうシーンを私は現実で見ているわけではないのだが、あるいは見ていないからこそ引き込まれるのかもしれないし、またそういうシーンを美しいと感じてはいけないのかもしれないが、その「いけない」何かに引き込まれる感じが、ぞくぞくっとするのである。
 で、この殺人シーン。いろいろなことが隠されている。
 まず森の中で荷馬車を引いている男が、何かの気配を感じる。殺意のようなもの。これは知らない森なら、たとえばはじめていく森ならそういうことがあるかもしれないけれど、通い慣れている森の道でそんなことを感じるのは、いわば変なことである。(これは、まあ、あとからの感想なのだけれど、映画がはじまった順に書いておく。森の洞窟には「ばけもの」が住んでいるという「うわさ」が子どもたちの間で共有されているけれど、その「ばけもの」の洞窟にさえ子どもたちは入っていく--それくらい住民たちがなじんでいる森である。そんなところで「殺意」をふつうは、人は感じない。)いつもの道で、いつものように馬車を引いていて、そんなことを感じるのはその男にはそういうことを感じなければならない「理由」がある。(これは、あとで明らかになる。)
 この男は、いきなり殺されるのだが、それをその息子が荷馬車の幌のなかから見ている。しかし、何もできず(声を上げることもできず)、幌のなかに隠れつづける。子どもができることというのは、ほんとうに少ない。子どもは無力である。そして、この子どもが殺人を最後まで見る(父が死んだことを確認する)のではなく、発端を見ただけで、あとを見ていないというのも、この映画の重要なポイントである。
 少年と父親の死体を載せたまま、荷馬車は崖の上に連れて行かれる。このとき馬は目隠しされている。これもまた重要なテーマである。馬だって、導かれたからといって危険な崖の上へ黙って進んで行くものではない。目隠しされ、見えないからこそ、危険なところへ進んで行くのである。荷馬車の幌、その奥に隠れた少年と同じように、馬は見ていないのである。知らないのである。そして、突然、頭を殴られ、姿勢を崩し、そのまま崖を落下する。馬にとっては、いま起きていることがわからない。わけのわからないまま、死んで行く。
 これは不幸なことである。しかし、その不幸は、なぜかしら美しく見える。ここに人生の謎がある--というとおおげさだけれど、この映画の「隠し味」がある。何かが見えてしまう、何かがわかってしまうというのは、かならずしも「美しく」ない。
 この映画は、時代がスペインの内戦後、そして舞台が田舎ということもあり、画面の全体(特に室内)が暗いのだが、その暗さは、ようするに何かをあからさまにするというよりも、何かを隠しているということにつながる。暗さは何かを隠す。そして、隠されてあることが、一種の「平穏」を保っている。「見えてしまう」ことが、いつもいつもいいとはかぎらないのである。見えない方が、わからない方が、「いい」ということもありうるのである。見える、わかるは、かならずしも「美しく」ない。
 けれど、人間は、それが「美しくない」とわかっても、それを見ないといけないときがある。そこに起きていること、いま、自分がどういう世界を生きているかをわかり、そして歩きはじめないといけないときがある。
 主人公の少年は、私たち観客が見た「美しい馬の落下」を見たかどうか、ちょっとわからない。けれど、その後をしっかり見ている。友達が馬車とともに落ちて、崖の下で瀕死のまま洞窟に住んでいる「ばけもの」の名前を口にするのを聞いている。
 そこから、この映画の、この森の、この村の、そして少年の父や母、家族、一族が「隠している」ことがらを少しずつ知るというストーリーがはじまる。それは謎解きというよりも、自分が何をほんとうに望んでいるかを探し出すような、一種の「哲学的」な展開である。少年は、自分の「ほんとう」を知り、そして両親の「ほんとう」を知る。村の「ほんとう」を知り、内戦の「ほんとう」を知る。

 うーん。
 子どもと両親、子育て--このテーマでは、最近は「おおかみこどもの雨と雪」というすばらしい映画があったが、あれは、まあファンタジーだなあ。
 この映画にいくらか近いのは「木靴の樹」(★★★★★、エルマノ・オルミ監督)があるが、あの映画には「ミネク、幸せになるんだよ」という明るい祈りがある。(あの映画のラストシーンで、映画なのに、私は真剣に「ミネク、がんばれ、幸せになれ」といのってしまった。)「ブラック・ブレッド」でも、何か同じように「幸せになれよ」とこころが動くのだが、「木靴の樹」のように真剣にはなれない。
 重たい悲しみが残るのである。--この重たさは、最初の殺人の美しさに、何か通じるものがある。「真実」なんて知らなければよかったかもしれない、という悲しみである。それは、これもまた変な感想だと思いながら書くのだけれど、この映画に出てくる内戦で手首から先を失った少女の悲しい美しさに何か通じるものがある。少女は片手がないという不幸と、それでも生きているというよろこび、さらに自分が美人であり男の感心を引いてしまうという「事実」を知っている。自分の生きる「場」がそれでいいとは思わないけれど、そこから脱出したいと思うけれど、そういう思いとは別に、そういう「生きる場」のあることを知って、わかって、そして覚えてしまった悲しみのようでもある。



 この映画の「ブラック・ブレッド」は、しかし、変なタイトルである。「黒パン」という意味なのだが、私は「ブラック・ブレッド」を「ブラック・ブラッド」と読み違えていて、いったいどんな「黒い血」が出てくるのかと期待していた。いきなり美しい殺人シーンではじまったので、よけいにそう思ってしまった。途中で、少年が「白いパン」を食べようとしたら、その家のメイド(?)から「お前は黒パンだ」と言われてしまう。で、あ、映画のタイトルはもしかしたら「ブラッド」ではなく「ブレッド」?と気がついた。「黒パン」は貧しさの象徴なのである。
 しかしなあ、スペイン映画なのだから「ブレッド」はないだろう。「汚れなき悪戯」のスペイン語のタイトルは「パン・イ・ビノ」。「パン」なんて日本人の知っていることばじゃないか。わざわざ英語にするなよ。
 「黒いパン」というタイトルの方が、すばやくスペインへ入って行ける。スペイン人の気質にも近づける。
 私はスペイン人を知っているわけではないけれど(ある家族と以前交流があったくらいだけれど)、映画を見ながら、あ、これはスペイン人でしかありえないなあと思うシーンがいくつかある。そのいちばん美しいシーンは、少年と病気の青年の交流である。最後に少年が青年に会いに行く(別れに行く?)シーンは、こういう友情(?)に重きをおいた生き方はスペイン人じゃないと自然に出てこないなあと思った。
 映画館で見てください。

 (長い感想だけれど、ネタバレを若干含んだ感想だけれど、映画全体のことは、この感想だけではわからないと思う。わざと、冒頭の殺人シーンだけに焦点をあてて書きました。ぜひ、映画館で見てください。)
                      (2012年08月01日、KBCシネマ2)



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