詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「下り坂」

2014-02-21 09:47:00 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「下り坂」(「ポエメール」2014年02月14日発行)

 谷川俊太郎がメールで詩を配信している。谷川俊太郎公式ホームページ『谷川俊太郎.com』http://www.tanikawashuntaro.com/から申し込むことができる。毎週、金曜日に配信される。「下り坂」は先週14日のもの。
 その1連目の途中までの3行。

ものを取り落とす
鋏を 瓶の蓋を 書物を 暦を
みな郷愁に駆られているのか

 いろいろ不思議なことがある。わからないこと、と言い換えてもいい。あるいは、そのことばに刺戟されて思うこと、と言い換えてもいい。読んだ瞬間に、申し訳ないが、谷川俊太郎を忘れてしまう。谷川を忘れて、そこに書かれてあることばに引きつけられてしまう。ことばが引きつけるのは谷川の「日常(体験)」ではなく、読んでいる私自身の「体験(おぼえていること)」である。
 1行目「ものを取り落とす」。この1行の主語は書かれていない。一般的にこういうとき、「私」を主語として補って読むと思う。「私」は「谷川」である。谷川はものを落としたんだなあ、と思って読む。ただし「谷川は」と書いてないので、その補った「私」に読者(私/谷内)が自然に重なる。ものを落としたときのことを思い出す。
 2行目。「鋏を 瓶の蓋を 書物を 暦を」。ここで、私はちょっと立ち止まってしまう。ちょっとではないかもしれない。うーん、と考え込んでしまう。鋏を落としたことはある。瓶の蓋も落としたことがあるし、書物(本)を落としたこともある。でも、暦は、ないなあ。この暦って、どんな暦? 壁にかかっているもの? 上半分に絵や写真があって下に数字がならんだもの? それとも卓上式のもの? あるいは占い(?)につかうナントカ暦? わからないのである。もちろん「書物」だって、どんな本なのかわからないし、瓶の蓋だってどの瓶の蓋なのか見当はつかないが、どんな本、どんな瓶の蓋であっても気にならない。特に瓶の蓋を落とすなんて、あまりにも日常的なことだから、何の瓶の蓋なんて気にしない。開けようとして、開いた弾みに落とすことはしょっちゅうあるし、ときには「落とす」ではなく「捨てる」ということもある。暦は、そういう具合にはいかない。どんな暦を、どんな具合に落とすかがわからない。瓶の蓋がしっかりわかるのに対して、暦は何も思い出せない。
 考え込んでいてもしようがないね。
 3行目。「みな郷愁に駆られているのか」。えええっ、と私は声がでてしまう。「みな」って何? 鋏、瓶の蓋、書物、暦のこと? 鋏、瓶の蓋、書物、暦に郷愁を感じる「こころ」ってあるのかなあ。

 で、ここで、私は突然1行目にもどる。「ものを取り落とす」。このときの主語を「私(谷川)」と思って読んだ。その主語は、2行目に引き継がれている。「(私は)鋏を 瓶の蓋を 書物を 暦を(落とす)」とことばを補って読んでいる。ことばを補って読みながら、「暦」につまずいている。
 その「つまずき」を利用して(?)、3行目へ移るとき、主語が代わっている。「私(谷川)」ではなく、もの(鋏、瓶の蓋、書物、暦)になっている。
 いや、これは正しくないね。主語は後退したのではなく、とけあって、ひとつになっている。落ちていくもの(鋏、瓶の蓋、書物、暦)は郷愁に駆られている。そして、落とす人(私/谷川)も郷愁にかられている。--ただし、断定しない。駆られている「のか」と疑問形になっている。疑問形といっても、もちろん、疑問なんかではなくて、疑問を装って、その方向に意識を集中させている、動かしているのだけれど。
 このときの主語の変化(変遷)、主語の融合の仕方、作為的にかきまぜているという感じにならないことばのスピード(実際、谷川の場合「わざと」ではなく、自然にそうなってしまうのだろうと思うけれど)、それがとてもおもしろい。

 詩は、このあと「落とす」「拾う」/「落ちる(とは書いていないのだけれど)」「下り坂」という組み合わせ、「落ちる」「衰える(下る)」ということばの重なり合い、さらにそれを押し進めて「晩秋(落ち葉--は書かれていないが)」「死者」を呼び込む。詩は、いわば、最初の3行を説明する形で動いていく。(「ポエメール」で確認してください。)
 その展開は、詩のことばの一種の「定型」かもしれない。
 で、それはそれで美しいのだけれど、私はその運動よりも、最初の「暦」がでてきたときの、わけのわからなさに感動してしまう。わけのわからない「暦」が「時間」そのものを浮かび上がらせる詩の展開をどこかで支えていると感じる。わけのわからない「現実(もの/事実)」があるから、それを出発点としてはじまることばの運動を信じることができる。
 あ、ほんとうにこのとき谷川は暦を落としたんだ、と思う。その暦がどんなものかわからないのに、わからないまま、暦を落とした谷川を見ている気持ちになる。落とした暦と向き合って、ことばを動かしている、ことばを動かしながら「いま/ここ」をととのえているその姿を見ている気持ちになる。
 「もの」を落とし、落としたと気づくことで「落とされたもの」になり、落としたままにしておくと「自分そのもの」をも落とした状態に置き去りにすることになると思い、拾いあげる。「拾うひと」になり、「落とす」と「拾う」という向き合った動詞のなかで「肉体」を動かす。
 そうか、落としたものを拾うこと、そういう往復(?)運動を書くことが詩を書くことなのか--と感じている谷川が見えてくる。落としたら拾う、そのありふれた行為を自分の肉体でしっかり確かめる。そうしたら、そこに詩があらわれてくる。その詩を書いて見ませんか、と読者に誘いかけているようにも見える。



 付録。
 「ポエメール」には谷川が朗読している動画もついている。また質問コーナーやプレゼントもある。なんとかしてひとりでも多くの(ひとりでも新しい)読者に近づいていこうとする谷川の姿勢がいきいきと動いている。
 詩は「下り坂」という「晩年(晩秋)」を書いているが、谷川の実際の行動はとても若い。早春、という感じだ。
 ひとは一般的に年を重ねるとともに老いていくのだけれど、谷川の精神はどんどん若く、華やいでゆく。これは、まねしたい。
自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店
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西脇順三郎の一行(96)

2014-02-21 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(96)

「ロクモン」

二階でセザンヌ的二人の農夫が

 これは、とてもきざったらしい行である。見方によっては「ハイカラ」といえるかもしれないけれど、油絵(西洋画)と日本の農夫を結びつけるところが、なんとも「いやらしい」感じがする。
 でも、この「いやらしさ」がなんともいえず、ひきつけられる。何か言いたいという気持ちにさせられる。この行から西脇のある特徴(本質?)に触れることができるような気がする。
 ただし、それには補足が必要。「一行」しか取り上げないのが、この「日記」の原則なのだが、「反則」をしてみる。その前後の行を引用してみる。

やがて茶色のウドンをたべて
二階でセザンヌ的二人の農夫が
やせこけた指でヒシャー

 食堂でウドンを食べて、二階で将棋を指す(「ヒシャー」は「飛車」だろう)。そういう日本的な情景を両側に置くことで、セザンヌがセザンヌではなくなる。いや、さらにセザンヌになるのかもしれない。そうか、「西脇の見たセザンヌ」は、こういうものなのか、ということが「わかる」。
 この「わかる」は、あ、「西脇の見たセザンヌ」は「私の見たセザンヌ」とは違うと感じ、ふたつがぶつかると、そこから「……を見たセザンヌ」が消えて、「西脇」という人間がうかひあがるような感じがする。そうか、これが西脇の肉眼なのか、と一瞬感じる。ほんとうは何も見えないのだけれど。


西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店
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石毛拓郎「熟柿(ずくし)をたなごころで喰う」

2014-02-20 10:24:42 | 詩(雑誌・同人誌)
石毛拓郎「熟柿(ずくし)をたなごころで喰う」(「飛脚」6、2014年02月10日発行)

 石毛拓郎「熟柿(ずくし)をたなごころで喰う」が書いていることは、私がこれからかくことよりももっと思想的な(?)ことを書いているのだけれど、そういうことはちょっと無視して感想を書く。前半に、その「思想」につながる大事なことが書いてあるのだが、そこを無視して、後半。

段丘をくねりながら架かる 霞橋のたもとに
老婆がひとり ぺたりと座っていた
まだ 暖が 恋しいというわけでもないのに
彼女は 襟巻きで頬被りをしていた
無造作に投げ出したバックから ビニル袋を取り出した
鮮やかな茜色の かたまり
野鳥の気を引く かがやき
彼女の 手のひらで光る 一果の露の玉
いかにも愛くるしい姿に 目を奪われて 足がとまった
老婆は顔をあげ こちらを一瞥し にこと笑い
手を突き出し 「喰うか?」というような仕草をみせてから
そのたなごころに 顔をうめた
朝日は 段丘の高さに隠れ 薄く陽光を散らすばかりで頼りない
彼女の口元から 熟れた柿の果汁が ぬると垂れたのを見た

 老婆(ホームレス?)が熟柿(私は「じゅくし」と読むのだが、石毛は「ずくし」と読んでいる)を食べている。熟柿は硬くない、かぶりつくとやわらかいトマトのように内部から崩れるから手のひらでつつみ、手のひらに顔をうずめるように喰う。その姿(様子)を書いているだけなのだが、奇妙におもしろい。「喰う」という動きは「口」だけの仕事のように思っていたが、そうではないことがわかる。石毛は、手のひらで包み込むようにして(手のひらで掬うようにして、こぼさないようにして)喰うことに、ある「思想」を見ているのだが、うーん、その細部(?)にだけ思想があるのではない。--ということが、この「喰う」描写からわかる。
 「喰う」とき、老婆はぺたりと座っている。肉体を落ち着かせている。労力を余分なところにつかわない。立って、でもなく、歩きながらでもない。「ぺたり」と座る。自分を大地に固定している。そうすることで「肉体」を「口」と「手」だけにしてしまう。
 「手」は、まず「食い物」をつかむ。食い物を自分に引きつける。(「バッグ」ではなく「バック」から、と書いているのは石毛が九州の訛りを生きているからか、と私は、詩とは直接関係がない「肉体」のことをも思ったのだけれど、省略)。
 そのあと、「目」も「喰う」ためにつかう。「茜色の かたまり」以下の描写は、詩人(石毛)が見た描写のようでもあるが、老婆自身の見ている世界でもある。「見る(目)」をとおして、老婆と石毛が「一体」になっている。
 「目を奪われ 足がとまった」とき、石毛は、老婆になって「ぺたりと座っている」。その「肉体」そのものを生きている。
 で、

老婆は顔をあげ こちらを一瞥し にこと笑い
手を突き出し 「喰うか?」というような仕草をみせてから

 の「喰うか?」は実際に老婆が言ったわけではなく、「老婆と一体になった石毛」が声を出しているのである。老婆と一体になっているから「喰うか?」という声が出るのである。
 だからそのあとの描写も、それは石毛がみた老婆の姿ではなく、石毛自身の姿なのである。石毛は老婆になって、ぺたりと座り、熟柿を手のひらでつつみこみ、その真ん中に顔をうずめて、柿にくらいついている。その口元から熟れた柿を汁を垂らしている。

 なのに。

 最後に、石毛は「……を見た」と、老婆から「目」をつかって離れていく。「目」で「距離」をつくりだす。重なっていた肉体を引き剥がす。
 きのう私は、大西美千代と早矢仕典子の詩にふれて「重なる/距離」というものについて書いたけれど、石毛は、老婆と重なりながらも自分を引き剥がしている。「目」をつかって老婆を客観化する。「喰う」ということを客観化する。客観を「思想」にしようとしている。
 ここがつまらない。
 せっかく肉体の動きをていねいにひとつひとつ書くことで、老婆の肉体そのものを「思想」として取り込んでいるのに、それを客観化してしまっている。

 書いていることが前後してしまうが。
 他人の肉体を逐一ていねいにことばにする。描写する。そのとき、描写したひと(詩人/石毛)の肉体は対象と重なり、区別がつかなくなる。(たぶん、ひとは自分にできる肉体の動きしか、ほんとうの動きとして描写することができない。自分の肉体を動かせないような領域では、描写をできない。たとえばスキーのジャンプで、どの位置まで来たら腰をいったん落とす、踏み切るときの足の力はつま先に力を入れるか、膝に力をいれるか、というようなことは「想像」は勝手だが、ジャンプをしたことをのない人間にはできない。)肉体を描写することは、他人の肉体を自分で体験することであり、きちんと体験すると、それは自分自身の肉体の動きになる。そして実際に肉体を動かしてみるから、そのときいっしょに思想(感情/気持ち)も動く。
 私はこれからこれを喰う。うまそうだろう。喰うか? やるもんか。そういうときひとは「にこと笑う」。自慢げに、意地悪な感じ、人懐っこい感じに。「一瞥」というのも、いいなあ。おまえなんかには、やらない、という気持ちがたっぷりでている。ひとをうらやましがらせる気持ちがあふれている。
 そこに「喰う」ことの、整理できない「思想」がある。「喰う」のは、なんとも自己中心的な行為なのだ。「喰う」はひとりの「肉体」のなかで完結するしかないものだ。だれかの替わりに「喰う」なんてことは、「毒味」くらいのときであって、みんな自分のために喰う。
 「目を奪われて」(こころも奪われて)、そういうところにまでたどり着いているのに、そこから引き返してきては、だめなのだ。そこまで行ったら、もう「石毛」にもどってはだめ。老婆になってしまってこそ、詩なのだ。
 そうならずに「見た」という具合に石毛自身に引き返してしまっては、そこにある「思想」が老婆のものであって、石毛のものではない、「借り物」であるという「証明(証拠?)」になってしまう。それまでの石毛のことばに共感してきた読者の「共感」も、そのとき「借り物」になってしまう。

 別な言い方をすると。
 最後の「を見た」がないと、どうなる?
 老婆が熟柿を喰うのを石毛が「見た」かどうかわからなくなる? そんなことはない。「見た」がなくても、石毛はそれを「見た」ことがわかる。「見た」だけでなく、老婆の「肉体」を体験したこと、熟柿を喰うを体験をしたことが「わかる」。「肉体」がうごいたことが「わかる」。
 「見る」から「わかる」へと動いた「肉体」が、ふたたび「見る」へ引き返してしまっては、詩が詩ではなくなる。

 石毛の詩は、私は大好きだ。大好きだからこそ、こんなことをしていてはだめ、と書いておく。
 で、もうひとつ追加しておくと。
 こんなふうにだれかを切り離し対象化して、そこに「思想」があるという書き方では、「それがどうした、おれとは関係ないぞ」という気持ちを読者に(私に)引き起こしてしまう。前半に書かれている青年の「思想」はそれ自体として立派なものであっても、「立派な青年がいました」で終わってしまう。その人物と「重なる/距離がなくなる(一体になる)」覚悟がないと、どんな「思想」を書かれても、それは「絵空事」。
 ひとのためにならないようなこと、隠れてひとりだけ熟柿を喰うというとこであっても、(老婆は隠れて食っているわけではないが)、その老婆と「肉体」が重なるとき、そこに「喰う」ということの「肉体の本質(思想)」が「事実」になる。

 「目を奪われ」、老婆と一体になった石毛に感動し、「見た」と自分を引き離す石毛にがっかりした。馬鹿野郎、と石を投げつけたくなった。






石毛拓郎詩集レプリカ―屑の叙事詩 (1985年) (詩・生成〈6〉)
石毛 拓郎
思潮社
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西脇順三郎の一行(95)

2014-02-20 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(95)

「テンゲンジ物語」

ピヒョークサイ!

 書き出しの一行。何のことかわからない。わからないのだけれど、音がおもしろくて印象に残る。タイトルの「テンゲンジ」は「天元寺」? そういう寺があるがどうか私は知らないが、西脇が日本の地名をカタカナで書くことは知っているので、○○寺(ジ)と、そんなふうに勝手に読むのである。「光源氏」みたいに「テン」源氏かもしれないけれど、寺の方が軽くていいなあ。(どこが「軽い」のか、書きながらわからないけれど。)
 で、「ピヒョークサイ!」。何かに驚いた感じがする。それから「臭い」という感じがするので、非常に臭いことを言ったのかな、とも思う。
 私は、こういうわからないものはわからないままにしておく。あれ、なんだのなあ、と読む度に思う。それが楽しい。
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大西美千代「重ならない」、早矢仕典子「距離」

2014-02-19 11:41:26 | 詩(雑誌・同人誌)
大西美千代「重ならない」、早矢仕典子「距離」(「橄欖」98、2014年02月10日発行)

 大西美千代「重ならない」に自然に引き込まれた。

重ならない
あなた方の現実とわたくしと何の関係もなく
わたくしたちはひとりひとりの
現実を背負っているだけのことで

ことではあるけれど
現実というものは見ようによって
どのようにも変容してしまうもので
もしかすると
現実とは思い違いのことかもしれなくて
あなた方の過去にわたくしはいなくて
わたしくの過去にあなた方はいなくて

 1連目と2連目のあいだの切断と接続の仕方、飛躍の仕方が自然なのだと思う。何事かを考える。ことばを動かす。そのことばが、ある一瞬、少しだけかわる。「だけのことで(順接)」「ことであるけれど(逆接)」のなかで「こと」が共有される。「こと」をはさんで「あなた方」と「わたくし(たち)」がわかれる。その境目を1行空きという「空白」でつかみとっている。強引にことばで埋めていかない。そこに不思議な静けさと美しさがある。
 強引ではないけれど、「もしかすると」ということばを踏み台にして、

現実とは思い違いのこと

 という具合に、しっかりとことばにしている。ただし「かもしれなくて」と付け加えることで、ことばにすると同時に一歩引く。それが静けさを強くする。
 なぜ、こんなに静かなのかなあ、と考えはじめると、

こと

 ということばに気づく。「背負っているだけのこと」「ことでははあるのだけれど」「思い違いのこと」。
 大西は、「もの」ではなく、「こと」を見ている。
 いや、「現実とは思い違いのこと」の前には「どのようにも変容してしまうもの」と「もの」が出てくるという指摘があると思うけれど、その「もの」を大西はすぐに「思い違いのこと」と「こと」に言いなおしている。ほんとうは「現実というものは見ようによって/どのようにも変容してしまうこと」と言いたいのかもしれない。「現実」は「もの」ではなく「こと」。
 こういうことを書きはじめると、ちょっとめんどうになるのだが、ひとはなんとなく「もの」と「こと」をつかいわけながら、あいまいにことばを動かしている。あいまいなものがあるから、ことばは動いていけるのかもしれない。だから、めんどうなことを厳密に分析するのではなくて、私は、ぼんやりと、あ、このあたりに大西のことばの核心のようなものがあるんだろうなあ、と思いながら読み進む。
 ぼんやりしたもの、あいまいなものを、強引に「明晰」にしてしまわないところが自然に感じられていいんだろうなあ、と思う。
 で、ぼんやりと考えるともなく窓の外を見ていて、この詩は、その先で突然飛躍するところがある。「現実(いま)」から離れるところがある。

昔の話だが
蜂の巣を取ってきて
その穴のひとつを開けて
中から乳白色の蜂の子を抜き出したことがあった

あなた方から方が取れて
あなたになって
あなたの過去にわたしがいなくて
わたしの過去にあなたがいて

 あ、ここが美しい。切断と接続の断面/接点が美しい。
 「蜂の子」を抜き出したのはだれか。私は「あなた」と読む。その姿を見た瞬間に、「あなた」とひとりの人間になった。ほかのだれか(あなた方、複数)ではなく、「あなた」という個人になった。
 これは、しかし、だれの変化であろう。
 「あなた」の変化なのか。そうではなくて、あくまで「わたし」の変化である。「あなた」は同じこと(蜂の子をとる)を繰り返している。「わたし」は、しかし、蜂の子をとるという動き(肉体)を「あなた」だけと結びつけてとらえた。そのことを見て、おぼえた。「わたし」の変化が「あなた」を「あなた方」から切り離したのである。
 それは、あくまで「わたし」の変化であって、つまりその瞬間がはっきり「肉体」に残っているのは「わたし」の方であって、「あなた」の方にはそういう瞬間はない。いつもと同じように蜂の子をとったという連続した日常があるだけである。言い換えると、その瞬間を「わたし」は「過去のある一日」と断定できるが、「あなた」はその日を断定できない。「昔、蜂の子を取った日」は「わたし」にとっては特定の一日(過去の一点)であるけれど、「あなた」にとっては特定の一日ではない。「蜂の子を取る」という行為で「あなた」がその日を「特定」することはできない。
 ここに「すれ違い」がある。
 この「すれ違い」(ずれ)のようなもの、あるいは「こと」を指して、大西は

だから 重ならない

 と言う。
 「蜂の子を取る」という「あなた」はひとり。でも、その「こと」を「あなた」は知らない。その「こと」によって「ひとり」であることを知らない。なぜなら、蜂の子を取ることは「あなた」にとって「ほかのみんな」と同じ「こと」だから。彼ひとりが蜂の子をとるわけではないのだから。
 そういうことを思うと、なんとなく、さびしくなるね。人間のすれ違いが見えてきて、「重なりたい」のに「重ならない」何かが見えてきた。
 そういうさびしさを、大西は書いているのだと思う。さびしいということばをつかわずに。
 で、その部分で、大西は「わたくし」と書いていた「主語(?)」を「わたし」と書き直している。その部分だけ、「わたくし」は「わたし」になっている。「あなた方」から「あなた」が選ばれて特別な人間になったとき、「わたくし」は「わたし」になっている。「わたし」が「あなた」と密着している。接続している。それは、しかし、いまではすこし違っている。「わたくし」と「あなた」のあいだには、「あなた」を見つけ出したとき「直接性」がなくなって、微妙な「すきま」(重ならない、という感じを呼び起こすもの)がある。「重ならない」という「こと」が「いま」をつくっている。

 なんだか、はっきりしない、ぼんやりしたことばになってしまったが、そういうあいまいなことを、大西の詩を読みながら考えた。



 大西の書いた「重ならない」を早矢仕典子は「距離」ということばで書いている。(ように、私には思える。)「距離」という作品。「海がみたい」と「わたし」が言い、「そのひと」は海へ連れて行ってくれる。でも、標識があるだけで、その海はなかなか目の前にあらわれない。

目にする地名こそ「西が浦」とか「瀬の庄」などと海のにおいを纏っているのだけれど 一向に 海岸までの距離は縮まっていかない 薄くうすく夕闇が浸透したくるので どうやら海までの距離もぐずぐずと解けていってしまうようだった 山々に蓄えられた一日分の光も もうすっかり底をついてしまったようで いよいよ細く不確かな道ばかりがつづき

 この描写が美しいなあ。「山々に蓄えられた一日分の光も もうすっかり底をついてしまった」が「わたし」と「そのひと」のあいだにある何かの象徴のようにも思えてくる。その結果、

そもそもなにをもとめているのだったかさえわからなくなり--

 ということになるのだが、そのなりゆきがとても自然だ。最後に、山がひらけ、空が見え、そのむこうに海があると「そのひと」は言うのだけれど、それは最初の「海」とはきっと違っている。「そのひと」には最初の海とそのときの海が「重なって」見えるかもしれないが、「わたし(早矢仕)」には「重ならない」。そこに「距離」がある。

 大西と早矢仕は「違うこと」を書いているのだけれど、私は「重ねて」読んでしまうのだった。重ねて読みながら、ふたりは「重ならない距離」を見つめているんだなあ、と思うのだった。
 詩集ではなく、同人誌で詩を読むと、こういう不思議な「読み方」を知らず知らずにしてしまうことがある。


詩集 てのひらをあてる (21世紀詩人叢書)
大西 美千代
土曜美術社出版販売
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西脇順三郎の一行(94)

2014-02-19 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(94)

「海の薔薇」

ロクロはまだ壷の悲しみつくるのだ

 この1行は日本語としておかしい。ロクロは陶器をつくるための道具。実際に壷をつくるのは人間(陶工)であって、ロクロではない。また、陶工がつくるのは壷であって
悲しみではない。
 --というようなことを言ってもはじまらない。
 詩なのだから。
 で、この「おかしい日本語」がなぜか美しく感じる。なぜ美しく感じるかといえば、それが「おかいし」(不自然)だからである。不自然なものに触れると、無意識的に、その不自然を補って動くものがある。
 私のなかに。あるいは、ことばのなかに、かもしれない。
 壷をつくりつづける。同じ形の壷をつくりつづける。そこには「楽しい」とは違った感情も動く。それが「悲しい」かどうか、はっきりしないが、「悲しい」といわれれば「悲しい」が浮かびあがってくる。壷をつくっているのか、「悲しい」をつくっているのか、わからなくなる。また、「悲しい」をつくっているのは陶工なのか、それとも壷なのかもわからなくなる。さらに、もしかしたらロクロなのかもしれない、という気持ちがしてくる。(手びねりの壷なら、また別の「悲しみ」をつくる、ということがありうる。)そして、それは「わからない」まま融合して、「ひとつ」になってしまっている。
 その「ひとつ」が、なんとなく、言い換えると直感的にわかる。
 直感的にわかる、直感的にしかわからない。--だから、それはことばでは説明し直すことができないのだけれど、こういう説明できない何かに出会ったとき、私はそれを詩と呼んでいる。1行のなかで、なんでもかんでも、思ってしまうのだ。1行のなかで迷子になって出て来れなくなる。
 そういうことが詩を読みことだと思う。
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倉橋健一『唐辛子になった赤ん坊』(3)

2014-02-18 11:19:43 | 詩集
倉橋健一『唐辛子になった赤ん坊』(3)(思潮社、2014年02月25日発行)

 この詩集の帯に、こう書いてある。

暗鬱な夢はいつでも還ってくる--。深い闇に立ち尽くす苛烈な現実凝視。生の固有値と時代の亀裂を異刻のうちに剥き出しにする、渾身の仮構詩集。

 わかったような、わからないような……。いちばんわかりやすいことばは、最後の「仮構詩集」。これまでの感想で私は「寓話」とか「寓意」というようなことばをつかってきたが、その言い換えだろうなあ。現実ではなく、嘘。虚構。
 倉橋の書いていることが「現実」そのままではないということは、たとえば「這い這い」を読むとよくわかる。

朝早く行方をくらませたひとりの赤ちゃんがこの地域にまぎれこんだかも知れないと噂があって
夜半ぼくらは集会所にあつまった
誘拐、略取、置き捨て……、ありとあらゆるケースを想定したが
事件に巻き込まれた形跡がないことから
家出人にしたとお巡りさんが説明した

 赤ちゃんの家出などありえない。だから、この詩は嘘を書いているということがすぐにわかる。すぐに嘘とわかるのに、その嘘を読みつづけてしまうのはなぜだろう。
 詩集とわかっているから?
 まあ、そうなんだろうけれど、文学は現実ではないとわかっているから、それが嘘だって読んでしまうというのは、いちばん簡単な説明なのだろうけれど。
 私は少し違うことを感じる。
 「行方をくらませる」「噂がある(噂する)」「集まる」「想定する」というような動詞が「わかる」からである。赤ちゃんが家出するということはわからないけれど、誰かの行方がわからなくなったとき、ひとがあれこれ噂し、またあれこれ想像する(想定する)ということが「わかる」。そこで動いている「動詞」のあり方がわかるからである。書かれている「動詞」にあわせて、読者の(私の)、「動詞」の記憶がゆさぶられる。「動詞」のなかに吸い込まれて、自分が参加している気持ちになる。
 で、

それにしても
やっと這い這いをはじめたばかりの赤ちゃんが
どうして家出などしたのだろう

 ほら、読者が疑問に思うことがすぐにことばになって、そこにある。ことばが読者を引き込む。
 このときの「それにしても」がいいなあ。
 これが倉橋の思想(肉体)である、というと、私の感想は一気に強引なものになるのだけれど、思想はいつでも、こういう何気ないことばのなかにある。いつもつかうことば、いつでもつかえることばのなかにある。
 「それにしても」というのは一方に「事実(知らされていること)」がある。それに対して、何か違うことをいうときにつかう。「それにしても」は「それに対して」と似ている。「対して」というような「論理的(?)」な響きがないというのが特徴。「論理的」という感じがしないから、「頭」で考える前に、ずるっと引き込まれていく。最初に取り上げた詩の「ずるずる」と似たところがある。
 変な感じを抱きながら、ふたつの世界を行ったり来たりする。越境する--と書くと、「寓話」(寓意)、それから、この帯に書いてあった「異刻」と何か通い合うね。
 で、「越境」するのだけれど、越境にはルールがある。そこに、あらわれてくるルールがおもしろい。

どうせお腹もぺこぺこだろうから
おいしいものをあちこちに仕掛けて誘(おび)き出そう
などと意見が出て
なによりも赤ちゃんを怯えさせないためには
われわれも図体を小さくして目線を低くしなければの配慮から
全員四つん這いで行動することも決定した

 越境するとは、自分を捨てて「他人」に「なる」ことである。「他人になる」とは「他人」の「動詞」を「生きる」ことである。それが越境のルール。この詩を読みはじめたとき、そこに書かれている「動詞」に自分を重ねたように、赤ちゃんといっしょにある「動詞」に自分を重ねてみる。それがルール。
 「赤ちゃん」になるとお腹がぺこぺこになったら食べ物につられる。そうだね。図体の大きいものはこわい。小さなものは大きなものをこわがる。そうだね。
 そうかな?
 逆かもしれない。小さいということを自覚したら大きいものに頼るかもしれない。赤ん坊がおかあさんをこわがらないのはおかあさんが大きいからじゃない?
 というようなことは、倉橋は書かずに、ぐいぐいぐいと「動詞」を一方的に操作する。「仮構」とは「動詞」を操作することである。「赤ちゃんの家出」というふうがわりなこと(ありえないこと)も、「動詞」さえ現実的に動かせば「ありうる」にかわる。そう知っていて、倉橋は「動詞」を動かす。
 「動詞」のなかで、私たちは「現実」をつかんでいるのである。どんな変なことでも、そこに書かれている「動詞」を私たちが再現できるとき、それは「現実」にかわる。--というのは、私の「ことば」について考えていること。
 あ、少し脱線したかな?
 この「動詞」のあり方を倉橋の書いていることばで言いなおすと……。次の部分に、その「言い直し」のことばが出てくる。

一晩ぼくらのほうもほーいほーいと這いずりまわるのだ
それにしても赤ちゃんはひとりで外の空気を吸ううちに
外界にもすっかり馴染んでしまって
擬態(ミミクリー)の方法なども身につけてしまっているかもしれない
とすれば見えなくなることなんかわけない
などちょいと赤ちゃんの身になってみると
好奇心いっぱいのみんなとは裏腹に
この事件解決のめどなどまるでたたないようにも思えてくる

 「赤ちゃんの身になって」。「誰かの身になる」とは「動詞」を共有すること。「身」とは「肉体」。「肉体(身)」は「動詞」の主語である。「肉体」があって、はじめて「動詞」が可能になる。
 で、ここから私は一気に飛躍して、「感覚の意見」を主張する。
 ひとはだれでも「動詞」をとおして「他人の身になる」。他人になってしまう。そういう錯覚(誤読)を引き起こすのが「文学」である。詩である。そこでは、

この事件解決のめどなどまるでたたないようにも思えてくる

 というような、思ってはいけないことも、思いとしてわき起こってくる。これがおもしろいのだ。想像してはいけないこと、それをことばのなかで肉体が先取りして体験してしまう。もっともっと体験したい。実際には体験できないからこそ、他人の「動詞」のなかで「他人」になってしまいたい。
 でも、

たまらなくなって
赤ちゃんはもうここには居ないかもと裏声で叫ぶと
じれるなとすかさず
耳朶でつぶやく者が居た

 暴走してはいけないんだって。「じれるな」だって。
 意地悪だなあ。
 意地悪な、ことばの閉じ方だなあ。
 別な言い方をすると、うまいなあ。
 「他人の動詞」をさっさと移動しながら、つまずかない。文体が乱れない。



唐辛子になった赤ん坊
クリエーター情報なし
思潮社
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西脇順三郎の一行(93)

2014-02-18 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(93)

「風景」

ツクシとホトケノザをなげこんだ

 ここから、詩集『鹿門』の作品群。
 きのう読んだ「クソニンジン」のような強烈な笑いはないが、自然のもっている不思議な力が聞こえてくる。
 西脇のことばは一方で教養の中を動き、他方で自然とぶつかる。人間の思いを拒絶した存在。ツクシやホトケノザには「非情」というものを感じにくいかもしれないが、やはり非情なのだ。人間の思いとは何の関係もない。
 その力と向き合うとき、人間の肉体も「自然」に対抗して、乱暴になる。乱暴の美しさを生きることになる。「投げ込む」。飾るでも、添えるでも、彩るでもない。ただ「投げ込む」。
 ことば自体の音楽ではなく、「肉体」の運動の「音楽」が自然と向き合う。
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ダニス・タノビッチ監督「鉄くず拾いの物語」(★★★★)

2014-02-17 09:59:40 | 映画
監督 ダニス・タノビッチ 出演 セナダ・アリマノビッチ、ナジフ・ムジチ


 このシーンが好き、というと、どうして?と聞かれると思うが、このシーンが好き。どのシーンかというと、主人公の男が車を動かす前にフロントガラスやバックミラーなどの雪をこそげ落とすシーンである。冷たい雪がガラスにはりついている。なかなか取れない。表面の白い雪はとれるがガラスに食い込むように凍り付いた氷が取れない。ふつうは水や湯で溶かすのだが、そういうものをつかわない。へらのようなもので、ごしごしとこそげ落とす。水や湯は、また氷になってはりつくから--という理由よりも、水や湯をむだにしたくないから? そうかもしれないが、なんとなくそれ以上の何かを感じる。
 薪がなくなって、山へ木を伐りにいくシーンもいいなあ。一本だけ切り倒す。小枝をきちんと切りおとし、必要な幹だけを持って帰る。むだな木を伐らない。木といっしょに生活している。この「いっしょ」には、不思議な密着感がある。
 車のガラスから雪をこそげ落とすシーンも、こういう言い方が適切かどうかわからないが、雪といっしょに生きているという感じがするのかもしれない。水や湯をかけて雪を消してしまうのではなくて、雪は雪のままにしておいて、車からはがしてしまう。そこにも何か密着感がある。雪をこそげ落とすときの、雪とガラスの両方に、主人公の肉体が「密着」していく感じがある。雪から手につたわってくる冷たさ、それといっしょに生きている感じがある。雪が溶けてガラスに凍ってはりつく--ということのなかにさえ、何か密着感がある。
 うーん、変かなあ。変だろうなあ、こういう感覚は。
 私は雪国生まれて雪が好きだから、雪に思い入れがあってそんなことを思うのかもしれないけれど……。
 でも。
 何かといっしょに生きている、密着して生きている。それが楽しい--という感覚は、この映画に満ちあふれている。密着していないかぎり生きていることにならないという感じがこの映画にあふれている。
 妻が流産し、手術しないといのちが危ない。でも健康保険証がないので治療費が高額。どうすることもできない--という映画に、この「いっしょに生きている」という感覚が楽しいという感想はにつかわしくない。そうなんだけれど、でも、いっしょに生きている、ただそれだけが楽しいというのが、この映画の「思想」なのだと思う。
 たとえば、義理の妹の保険証を借りて、妹になりすまして手術を受けるとき。病院の廊下ではこどもふたりが遊んでいる。椅子に座って手術が終わるのを待っているという具合にいかない。そのふたりに対して、父親は少し注意はするけれど、怒ったりはしない。ふつうは神経が昂っているから、こういうときって、人間は怒鳴り散らす。でも、この主人公は違うんだね。こども二人の様子をそのまま受け入れる。いっしょに生きているのだから、そういう「楽しみ」を壊すようなことはしてはいけない。そんな感じがする。
 だいたい小さなこどもが病院で何時間も待ちきれるはずがないから、こういうときこどもは誰かにあずけていく、というのが一般的に考えられることだけれど、主人公たちはそんなことをしない。いっしょに連れていく。そして、そばで待っている。ここにも「密着感」がある。いっしょにくっついている。そうすると生きている感じがする。
 映画のなかをふいに横切っていく犬の歩き方、そんなところにさえいっしょに生きている。密着している。そして、そのことが安心というか、こころの安らぎになる。そういう感じに満ちあふれている。声高に主張しているわけではないのだが。
 いっしょに生きる--それだけを「守る」ために生きている。余分な軋轢を避けて「楽しく」いっしょに生きていく。それだけを願っている、そんな感じがする。
 健康保険証がないから手術費は高額になる。払えるか。払えないなら手術はできない、と病院から言われても、主人公たちは怒らない。なんとかならないかと頼みはするが、医者がそんな非人道的なことをしていいのか、というような怒ったりはしない。福祉事務所に訴えたときも、説明を聞いて引き下がる。理不尽な社会に対して怒るということはしない。「正義」を主張することはしない。まるで、怒ると密着感が消えるから、怒らない--そういう感じかなあ。いやあ、不思議だなあ。
 こんなに怒りを欠落させたまま、生きていけるのか。
 生きていけるのである。
 たとえば高い治療費を請求し手術を拒むという理不尽な「正義」に対しては、他人の保険証を借りて、他人になりすまして治療を受ける。「不正」といえば「不正」だが、助け合いといえば助け合いである。「密着」した関係にある人間が、その「密着」をつかって「不正」を内部に隠す。「いま/ここ」にあるもので、「いま/ここ」を生きる。
 手術のあとは、薬代がいる。お金はない。さて、どうする? 主人公は廃車をみつけては解体し、それを鉄屑屋に売って生計を立てている。廃車はどこにでも落ちているというわけではない。で、最後に、自分の車を解体し、鉄屑を売って金を稼ぐ。自分が知っていること(自分に密着していること)を、そのまま実行する。
 この不思議な「いっしょ(密着)」に、知らず知らずに引き込まれていくなあ。映画を見ているというより、実際に、その人にあって、その人に触れている感じがしてくる。映画のなかでは雪が降っているのに、とてもあたたかい。フロントガラスの雪をこそげ落としたあと、手に息をかけて、手をあたためる。そのときの、「はあああ」という息のあたたかさをそのまま手に感じるくらいにあたたかい。

 そういうこととは少し離れるのだが。
 この映画にはかなりおもしろいシーンがある。主人公が車で移動するときの風景がかわっている。影像がかわっている。駒落としみたいに、影像の数が少ない。フィルムをゆっくりまわしてふつうのスピードで再生したような、荒い影像である。じっくりと撮った方が、この映画のドキュメンタリータッチにあうのだけれど、そうしていない。どうしてかな? 節約だね。いかに安く映画を仕上げるか。無駄なく一本を作り上げるか。その工夫が、また影像そのものの密着感を強めている。リハーサルもなんにもなしに、いきなり撮影をはじめたような不思議な違和感がある。最初の方のこどものカメラ目線というか、あ、カメラが自分たちを映しているという感じの表情も、見終わったあとでは楽しい。撮影クルーと出演者が密着して、そこにある「空気」そのものをフィルムに定着させている。
                    (2014年02月16日、KBCシネマ2)




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西脇順三郎の一行(92)

2014-02-17 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(92)

「壌歌 Ⅱ」

土手の下のクソニンジンの繁みの中に               (104 ページ)

 「クソニンジン」が野卑で野蛮で、その教養にそまっていなところ、雅語からはるかに遠いところが清潔で美しい。
 ひとが暮らしている現場で動くことばには偶然と必然が固く結びついている。その強固さにはどんな雅語もかなわない。雅語というのは嘘だからである。教養というのもきっと嘘なんだろうなあと感じる。
 教養のひとが、こういうことばをつかうところに、また「笑い」がある。健康なコッケイがある。
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倉橋健一『唐辛子になった赤ん坊』(2)

2014-02-16 10:01:03 | 詩集
倉橋健一『唐辛子になった赤ん坊』(2)(思潮社、2014年02月25日発行)

 詩は不思議なもので、なぜその詩が好きなのかわからない。いや、好きなところはわかっているのだが、そこが好きと言って、他人にわかってもらえるかどうかわからない。書いた詩人に対しても、ここが好きというと変な顔をするだろうなあ、と思うことがある。たとえば「足裏に汗が」。

飯(いい)だといわれて
厨(くりや)にいったら
膳の上には砂を盛った朱塗りの椀があって
長い唐(から)箸が挿してある
ひと気がなくて
梁からは雫が落ちている
たしかにおばばが呼んでくれたはずなのに
と思いながら
辺りを見渡して
仕方がないので膳の前に正座して
うたた寝をするふりをしていたら
箸が木に成長したら風呂に入れ
と今度ははっきり背後からおばばの声がした
といって相変わらずひと気はない
ただ雫の落ちる辺りからは
いつのまにか味噌汁の匂いがする
嗅いでいると
空腹にもなり淫蕩にもなってきた

 これが詩の前半。「おばば」の出てくる詩は何か「物語」を隠しているような感じがする。死の匂いもする。で、この詩--いちばん印象的なのはどこか。私の場合、

いつのまにか

 これである。
 読みながら、あ、このことばについて感想を書きたい、と思った。あ、ここに倉橋がいると思ったのである。「おばば」が出てきて、なにやら、ありそうでなさそうな、どこか記憶をひっかきまわすような「物語」は、倉橋には申し訳ないが、一連の作品だなあという印象のなかに消えていく。私は「物語」あるいは「寓意」というものに関心をもちつづけることができないのかもしれない。ストーリーのなかで、ストーリーとは別の「現実」を考えるというのがめんどうくさいのかもしれない。
 で、「いつのまにか」。
 これはいったい何だろうなあ。いや、「意味」ならわかる。わかっているつもりである。「いつ」とはっきり自覚できないうちに、知らないうちに、ということだろう。でも、やっぱり、これは何なのだろうとつまずいてしまう。言い換えると--「いつのまにか」というのは、必要なことば? 「いつのまにか」がないと「意味」はかわる? 「寓意」はかわる?
 私には、かわらないように感じる。
 と、同時に、倉橋の書いている「いつのまにか」は、そこにだけ姿を見せているけれど、ほかにも隠れていると感じてしまう。
 たとえば、

辺りを見渡して
仕方がないので膳の前に正座して
うたた寝をするふりをしていたら「いつのまにか」
箸が木に成長したら風呂に入れ
と今度ははっきり背後からおばばの声がした

嗅いでいると「いつのまにか」
空腹にもなり「いつのまにか」淫蕩にもなってきた

 という具合。
 うたた寝をするふりをしていたら「いつのまにか」というのは「流通言語」的には不自然な表現になる。ふつうは、うたた寝をするふりをしていたら「そのとき」という感じになるのだと思う。何かをしているとき、その「とき」に重なるように別なものがあらわれて、それに気がつく--それが「いつのまにか」(知らないうちに)ということになると思う。
 で、その何か(A)をしている間に、別の何か(B)が起きていて、それが意識できないうちにAとBがいれかわる。意識しなかった「運動」があらわれて、意識をすりかえてしまう。
 この「すりかえ(?)」こそが倉橋の書きたいものなんだなあと感じるのである。
 その極端な例が「空腹になる」と「淫蕩になる」のすりかえ、あるいは移行。「空腹になる」というのと「淫蕩になる」というのは別なことである。食欲と性欲は違った名前で呼ばれるのだから違った欲望のはずであるけれど、どこかでつながっていて、それが入れ替わる。「いつ」とは言えない。「いつのまにか」としか言えない。そこに人間の「秘密」がある。「いのち」の秘密がある。
 倉橋は、そんなふうに感じているんだなあ、と私は「誤読」する。こういう瞬間、私はひとに触れたような奇妙な生々しさを感じる。「肉体」にじかに触れてしまったような、こまったなあ、という感じ。気がつかなかったふりをして去っていけばいいのかもしれないけれど、あ、ここを触りつづけるとおもしろいかも、なんて思ってしまう。人間の、へんなところに触れることができるぞ、と好奇心を駆り立てられてしまうのである。セックスをする感じ。他人の「肉体」に触れながら、自分の「肉体」を発見する。欲望を発見する感じだなあ。
 そうか。人間というのは、かならずしも意識的に生きられるわけではなく、知らないうちに何かと入れ替わる。「いつのまにか」そうなってしまう、ということがあるのだな。そして、「いつのまにか」何か違ったものになるのだけれど、それは切断されない。どこまでいっても、何かがつづいている。その何かは、まあ、「肉体」なのだけれど……。ふーん、と思ってしまうのである。

 この「いつのまにか」。ほかのことばでは何というのだろう。私は「知らないうちに」というようなことばで考え直してみたが、倉橋は、ほかのことばで言いなおしていないだろうか。

と思いながら

このぽつんと書かれた一行。それが「いつのまにか」に似ていると私には感じられる。一方で何かを「思い」、他方で別のことをする。おばばが呼んでくれたはずと思いながら、「辺りを見渡す」。そのとき、思考(思う)と見渡すという運動が「肉体」のなかで出会い、すれ違っている。そして「いつのまにか」仕方がないから正座するか、うたた寝するかと「思い」がかわっていく。「思いながら」のなかには(奥には?)、「いつのまにか」とつながるものがある。
 いや、「ながら」のなかに、「いつのまにか」があるのかな?
 「いつのまにか」は必ず「……していたら、いつのまにか」という具合の「文体」を動くものなのかな? たぶん、そうなのだと思う。
 そうだとして、倉橋の場合、その「……していたら、いつのまにか」が明確になるのは、この詩でわかるように「思いながら」である。倉橋は、「思う」ということと「肉体」のすれ違い、そこからはじまる奇妙な変化(寓話的な変化)へと動いていくんだなあ。

 で、ここから私は一気に「飛躍」するのだが。(私は眼が悪くて、パソコンに向かっている時間が40分を越えると、文字が読みづらくなり、考えることも端折ってしまうのである。休憩すると、その間に考えも変わってしまうので、中断もできないから「飛躍」するのだが。)
 倉橋の「いつのまにか」には、もうひとつ特徴がある。「いつのまにか……している」というとき、ふつうは、その「いつ」というのは「過去」なのだが、倉橋の場合は「過去」に時間が限定されない。「未来」を含んでいる。「未来」への持続を含んでいる。まあ、考えてみれば、どういうことでも持続の先に「未来」があるのだから、だれの場合でも「いつのまにか」は「未来」を含むだろうけれど、倉橋の「いつのまにか」は、「いつのまにか……している」、だからそれをやめてもとに戻る、ということをしない。「いつのまにか……している」。そして、その「……している」をさらにつづけて、また「いつのまにか……する」とつながっていく。けっして、新たにはじめたことをやめて「過去へ戻る」ということはしない。
 その結果(?)、とても奇妙なことが起きる。
 「いつのまにか」が「一瞬」ではなく、「永遠」になる。言い換えると「いつのまにか」という運動だけが「いま」として居すわる。拡大し、何もかもをのみこむ。そういう運動をする。「いつのまにか」のなかで、俳句でいう遠心・求心が出会い、無限になる、という感じだ。
 「足裏に汗が」は詩の半分しか引用しなかったが、そこに起きていることは「過去」なのか「いま」なのか「未来」なのかわからない--時制が消え、そこに時制のない時空間が、つまり「永遠」があらわれる。「時制のなさ」が本質なのに、それでは形が定まらないので、倉橋は「寓話」という形式を借りているのだろう。

 そして、と急に追加しておくと。
 きのう書いた「ずるずる」というのは、きょう書いた「いつのまにか」の区切りのなさと、どとかつながっている。「延長」、区切りなくのびてゆき、その「のびる」(拡大する?)「こと」のなかに、倉橋の書いている「世界」があるのだと思う。

 (また、駆け足の、しり切れとんぼのような感想になってしまった。)

詩が円熟するとき―詩的60年代環流
倉橋 健一
思潮社
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西脇順三郎の一行(91)

2014-02-16 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(91)

「壌歌 Ⅱ」

「絶対的コッケイ性」                      (103 ページ)

 西脇にとって詩は「コッケイ」なものである。その「コッケイ」とは何か。「絶対的コッケイ」とは何か。普遍になりえない普遍がコッケイであると書くと同義反復になるが。
 普遍には二種類ある。あらゆるものに共通する「普遍」。あらゆるものというのは言いすぎかもしれないが、いわば「理想」としての「普遍」。バラが美しいというとき思い浮かべる「美しい」には普遍がある。それは桜が美しい、トラが美しいというときにも共有されるものである。
 そうではなくて、一回性の存在がある。何かを突き破って噴出してくるその「勢い」のなかにあるもの--運動としての普遍といえばいいのか。突き破る、ということのエネルギー。不出しながら消えていくもの。
 そういうもののひとつに、この詩の前の部分では写楽の絵が引き合いに出されている。写楽の絵は消えてしまうのものではないが、写楽の絵がとられている人間の「線」は一回かぎりのカリカチュアである。その線は他人の顔には、肖像画としてはあらわれない。だから、コッケイなのだ。
 そこでは「あらわれる」という動詞が共有されている。
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倉橋健一『唐辛子になった赤ん坊』

2014-02-15 11:39:58 | 詩集
倉橋健一『唐辛子になった赤ん坊』(思潮社、2014年02月25日発行)

 倉橋健一『唐辛子になった赤ん坊』を読むと不思議な気持ちになる。巻頭の「おばばの美しい話」。

恐ろしいのは風下(かざしも)じゃよと
キリンになった経験をもつおばばは
耳朶を唇に吸いつけると唾をのみこみながらつぶやいた
ずるずると首がのびて
山裾まで一目瞭然じゃったが
夜ともなると見えないから始末にわるい
風下からは忍び寄る怖い奴の足音も匂いもせん
んだから賢こい肉食獣になればなるほど
そこからばかり襲うてくる
ひとったまりもない
いのちを開けっ放しにしてたのも当然じゃ
おまえの父御(ててご)もそうじゃったぞ
風下から飛んできた爪の一裂きにやられて脊髄がのうなった
おかげでおまえは父(てて)なし児じゃ

 ここには嘘がある。「おばば」がキリンなら「おまえ」もキリン、日本語が話せるわけではない。こういう嘘を「寓話」と呼ぶことができるかもしれない。で、そのとき、私たちは何を読むのか。なぜ、「嘘」を追及せずに、そのことばに耳を傾けてしまうのか。その声を聞いてしまうのか。
 語られることばが何かを象徴している。そこには「意味」がある。

 そうなのかもしれないが。

 私は、何か違うように感じてしまう。たとえば、この詩から、野生の動物の弱肉強食という「構造」を浮かび上がらせ、その「構造」と人間の社会生活を重ね合わせ、「生きる意味」を問う--というのは、どうも違うなあと思う。そういう「意味」はつけようと思えばつけられるのだろうけれど、嘘っぽい。
 もっと違う場所(?--場所と言っていいかどうか、わからない)で何かが動いている。動いているものは、「寓意」にしてしまえない何かで動いている。そんな感じがする。
 これでは抽象的で何も語ったことにならないので、逆な方向から書いてみる。
 私はこの書き出しでは、

耳朶を唇に吸いつけると唾をのみこみながらつぶやいた
ずるずると首がのびて

 この2行に引きつけられた。
 「耳朶を唇を吸いつけると」というのはとても変で、私は、耳朶「に」唇「を」吸いつけるとではないのか、助詞が入れ違っていないか、主語と補語の関係が乱れているのではないか、と思うのだが、そういう疑問は「吸いつく」「(唾を)のみこむ」「つぶやく」という「動詞」のつらなりのなかで消えてしまい、唇と口のまわりで動く、肉体が区切りなく(?)、連続して動いていく感じが、私の「肉体」のなかでも起きると感じる。私の「肉体」は、そういう唇、口の動きを覚えていて、その動きを無意識のうちに再現し、ここは奇妙にリアリティーがあるなあと感じる。動詞にリアリティーがあるから、「耳朶を唇に」か「耳朶に唇を」は気にならなくなる。--を通り越して、倉橋の書いている奇妙な日本語の方が「ほんとう」かもしれないと思ってしまう。
 そして、それに追い打ちをかけるように、「ずるずると首がのびて」。
 幽霊でもないかぎり首はのびたりはしない。でも、のびてもいいかなあ、とも思う。自分の首がのびたということを、私の「肉体」は覚えていないから、その首がのびるという動詞そのものにはリアリティーがないのだが(感じないのだが)、その前の「ずるずる」に納得してしまう。
 「吸いつけ」「飲み込み」「つぶやく」という一連の動詞のなかでは、唇の周辺の「肉体」が「ずるずる」とひきずられ、区切りのないまま動く。ひとつひとつの動詞に「主語」と「目的語(補語)」を結びつけ、明確な文章にすることもできるだろうけれど、そういう面倒なことをしなくても、この一連の「ずるずる(区切りなさ)」ははっきり「わかる」。自分の「肉体」で再現できる。「肉体」は切断するともう肉体ではなくなる。で、そうやって「ずるずる」と切断されずに動くのが「肉体」の特徴なら、「ずるずると首がのびる」も、それでいいじゃないか、と思うのである。「ずるずる」を信じているので、「首がのびる」も信じてしまうのである。

 変だねえ。変だよ、確かに。

 で、その変な感じを抱えながら、私の考えは「飛躍」する。「意味」とはまったく関係ないことを思いはじめる。考えはじめる。
 倉橋は「ずるずる」を書きたかったのだ、と。
 キリンを登場させることで弱肉強食の野生の世界と、人間の競争社会を重ね合わせ、「意味」を語るというよりも、そういうふたつの世界が「ずるずる」と重なる。その「ずるずる感」そのものを書きたかったっじゃないかなあ、と思いはじめる。
 ほんとうは重なるはずのないものが、重なる。「比喩」になる。「寓意」になる。その「比喩」と「寓意」を分析し、「意味」として語り直すことが、たとえば「批評」というものだとすると、倉橋の書いているのは逆のこと。「意味」なんて、考えていない。「意味」なんて、知らない。確かに、そのふたつは重なって見えるかもしれないけれど、それは「意味」を語ってしまうと、逆に分離してしまう。そうではなくて、「結合したまま」(分離できない何か)を書きたいのだ、と思ってしまう。
 つまり「ずるずる」こそがこの詩のなかで倉橋の書きたかったこと。

 で。

 そういう「意味」以外の何かこそが書きたかったこと--という証拠(?)は、たとえば「じゃよ」「じゃった」「んだから」というような「口調」にもあらわれている。
 「口調」というのは「寓意」の「意味」を明確にするとき、ことばから除外されてしまう。けれど、その除外されたものこそが「文体」。ことばの「からだ(肉体)」である。「じゃよ」「じゃった」「んだから」を取り除いてしまえば、そこには「生きている肉体」はなくなってしまう。「肉体」は動けなくなってしまう。
 「意味」は「思想」ではない。
 「意味」でないものこそ「思想」である。「意味」ではないものが、「いのち」が動くことを支えている。「意味」は「肉体」を切り刻んでしまう凶器である。

 などと書いてしまうと、それこそ、それがまた「意味」になって動きだしてしまうというややこしいことが起きるのだが……。まあ、そういう矛盾を抱えながらしか、ことばは動かないものなんだろうなあ、

 と、脱線したが、強引に詩に戻ろう。
 「意味」の否定を、次の部分から、強引に引き出してみよう。

おかげでおまえは父なし児じゃ

 この「おかげ」は誤用だね。「おかげ」というのは誰かの「助け」によって、というのが「意味」なのだけれど、倉橋(おばば?)は、それをねじまげてつかっている。「そのせいで」というかわりに「おかげで」と書いている。
 でも、この「誤用」は、一般に流布もしている。「流通言語」にもなっている。「おかげで、おれは大恥をかいた」とかね。「正しい意味」ではない何かが「ずるずる」と越境して、ことばをねじまげている。
 その「ずるずる」の力--そいういうものが、倉橋の詩にあるなあ。その「ずるずる」の力を、私は、この詩から読んでいるのだなあと思う。

 (あした、また、このつづきを書くかもしれない。)




唐辛子になった赤ん坊
倉橋健一
思潮社
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西脇順三郎の一行(90)

2014-02-15 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(90)

「壌歌 Ⅱ」

あのあつい皮をむくとうち側は                  ( 102ページ)

 西脇の詩の行は一行で完結した「意味」をもたない。西脇の詩の一行は「断片」である。「切断」されている。それは前の行、あるいは次の行とつながって「意味」になることが多いのだが、つなげて「意味」を追っているとき、何か間違っているという感じに襲われる。私が「西脇の一行」という無謀な感想を書きつらねているのは、その「何か間違っている」(意味にしてはいけない)何かを、なんとかつかみ取りたいからである。
 ふつう、ことばは「意味」によって補強される。「意味」がわかると、そこには何らかの「価値」が存在しているように感じてしまう。西脇の一行は、その一行自体を取り上げると説明しにくいのだが、詩をつづけて読んでいると、読む度に一行一行が独立/分離していく感じがする。「意味」をつくりながら、「意味」から離れていこうとしているように感じられる。「意味」から離れてしまうと、ことばというのは頼りなくなるはずなのに、西脇の詩の場合は違う。離れていくことで、全体を「強固」にする感じがある。ぶぶんとしてあまりにも「強さ」をもちすぎているということだろうか。

 あ、抽象的に書きすぎた。

 この行が魅力的なのは、「むく」という動詞が含まれているからである。「あのあつい皮の内側は」と書いても「意味」はかわらない。かわらないけれど、何かが違う。「むく」という動詞がはいり込むと、そこに西脇が動いて見える。皮の内側に何かがあるという「事実」は変わらないのだが、「むくと」という動詞がはいり込むと、「むく」ことによって西脇が「内側」を発見するという動きにかわる。「内側」に何かあるというのは「普遍の事実」ではなくて、「西脇の発見した事実」になる。
 一行のなかに、「肉体」が深く関係している。「肉体」が存在し、動いている。
 「動詞」が含まれないときでも、そこには西脇の「肉体」がある。「肉体」がおぼえていることがある。たとえば「教養」というものもそのひとつかもしれない。「嗜好」というものそのひとつだろう。
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長田弘「金木犀」

2014-02-14 09:49:40 | 詩(雑誌・同人誌)
長田弘「金木犀」(「文藝春秋」2014年03月号)

 うーん、と唸ってしまった。感心したのではなく、考え込んでしまった。長田弘「金木犀」に。

人をふと立ち止まらせる
甘いつよい香りを放つ
金色の小さな花々が散って
金色の雪片のように降り積もると、
静かな緑の沈黙の長くつづく
金木犀の日々がはじまる
冬から春、そして夏へ、
ひたすら緑の充実を生きる、
大きな金木犀を見るたびに考える。
行為じゃない。生の自由は存在なんだと。

 「考える」と長田も書いている。だから、私もつられて(?)考えたのだと思うのだが、うーん、詩って考えるもの?
 そうか……。
 確かに、詩を読んで考えるということはあっても、私の場合、その考えは瞬間的に動く何か。じっくりと考えるというのとはちょっと違うなあ。
 たとえば、この詩の場合、「金木犀」というタイトル、「人をふと立ち止まらせる/甘いつよい香りを放つ」という書き出しを読んで、「あれれ、三月号に金木犀か。季節外れだなあ」と思う。なぜ、いま、こんな詩を?と考える。でも、「静かな緑の沈黙の長くつづく/金木犀の日々がはじまる」まで読みすすむと、花(香り)の金木犀以外のことを書いているのだとわかる。ひとが目を向けない部分に長田はていねいに目を向けている。そうか、金木犀というのは常緑樹だったのか。私は甘い香りを放っているとき以外は金木犀があるということには気がつかない。香りの季節以外は見落としている。そういう見落としているものが私にはたくさんあるだろうなあ、と思う。考える。(思うと考えるは、このときほとんど区別がない。)
 で、そういう見落としていたものをことばで追うと(長田が見落としていたもの、というのではないのだが……)、そこから、いままで知らなかったことばが動きだす。見落としていたものにとこばを与え、見落とされていたものがことばといっしょに立ち上がってくる。

ひたすら緑の充実を生きる、

 その直前の「静かな緑の沈黙の長くつづく」は目で見たままである。木々は話さないから「沈黙」、常緑樹であるから「緑」。ふたつがあわさって、「長くつづく」。でも「ひたすら緑の充実を生きる、」は何か違う。目ではわからない。見ているだけではわからないことが書かれている。「緑の充実」は常緑樹だから「緑」は見たままということになるけれど、「充実を生きる」というのは、うーん、見えないね。
 見えないけれど、でも、わかる。瞬間的にわかる。木は生きている。花が咲いているときだけではなく、花が咲いていないときも生きている。花を咲かせるために生きている。その「生きている」が「わかる」とういのは、どういうことなのだろうか。--と、私は考えはじめる。考えはじめると、ことばが、ごちゃごちゃしてくる。
 「いきる」が「わかる」--そのとき、きっと自分の「生きる」を見直し、思い出しているのである。季節がかわるのにあわせて金木犀が花を咲かせ、散らせ、また咲かせる。その花と花の間、木はただ緑を守っているだけだ。人間も何か華々しいことと華々しいことの間は、黙って生きているのに似ているかなあ。知らずに、木に自分の人生を重ねる(自分の生きるを重ねている)。無意識的に「考えている」のである。あるいは「思っている」のである。
 見ているだけではわからないことを、ことばをつかって内部から見つめる、ことばをつかって内側から生きる--ということを考える。「考える」とは、ことばをつかって見えないものを見えるようにする(見えたと錯覚する)、見えない世界へ飛躍する、ということかもしれない。
 で、そこまで考えたとき、

ひたすら緑の充実を生きる、

 この末尾の読点「、」に気づく。おもしろいなあ。なぜ「、」なのかなあ。
 3行前の「静かな緑の沈黙の長くつづく」は「、」がない。そして、そのまま「金木犀の日々がはじまる」につながる。
 「ひたすら緑の充実を生きる、」はどうだろう。
 「ひたすら緑の充実を生きる大きな金木犀を見るたびに考える。」とつづいていかないのだろうか。「生きる木」。「生きる」は連体形ではないのか。
 あるいは、前の行とつづいて「冬から春、そして夏へ、ひたすら緑の充実を生きる。」という文として完結しないのか。

 微妙だね。
 どっちとも、ありうるね。

冬から春、そして夏へ、
ひたすら緑の充実を生きる「。その」、
大きな金木犀を見るたびに考える。

 ということかもしれない。「切断」と「接続」を交錯させて、瞬間的に別の次元へ突き進んでしまうこと、ことばが異質になってしまうこと--それを「考える」というのかもしれないなあ。ことばが異質になることを「飛躍」と言いなおすことができる。
 で、「切断/接続」のなかで「異質」が生まれると、その「異質」はさらに飛躍する。ついていけないものになる。スピードが速すぎた追いついていけない。

行為じゃない。生の自由は存在なんだと。

 長田は何か言おうとしている。その「言おうとしている」ということは「わかる」が、「何を」言いたいのか、よくわからない。長田が考えたことは、

「生(の自由)は」行為じゃない。生の自由は存在である--ということかもしれない。ことばを補うと、そういう形になるかもしれない。

 その補ったことばをたよりに、金木犀に結びつけてみる。
 金木犀の生は金木犀の花(かおり)にあるのではない。金木犀の生は花がないとき、常緑樹として緑そのものを生きているときにもある。
 では、その「生」が、わざわざ「生の自由」と言い換えられるのは?
 考えないといけない。長田は書いているのだろうけれど、さっと読んだだけでは「生の自由」とはなんなのかわからない。
 ひとは金木犀の花(香り)に注目して、甘い香りを放つという行為(動詞)を金木犀の特徴(生の特徴)と考えがちだが、それだけが金木犀の充実ではない。金木犀は香りを放って注目を集めているとき以外も生きている。緑を充実させて生きている。
 生は「充実」していないといけない。
 その「充実」と結びつける形で「自由」が考えられているのかもしれない。生の充実は行為じゃない。生の充実は存在なんだ。そこに存在しているということ、それだけで充実する生き方がある。
 そういうことだろうか。

 わからないまま、私のことばは、こんな具合に動いた。こんな具合にことばを動かすことが「考える」ということかもしれない。

奇跡 -ミラクル-
長田 弘
みすず書房
コメント
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