詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス拾遺(中井久夫訳)(3)

2014-04-23 10:02:46 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス拾遺(中井久夫訳)(3)(作品は「現代ギリシャ詩選」から)

「カヴァフィスにささげる十二詩」

一 詩人の部屋

浮き彫りにした飾り付きの黒い書き机。銀の燭台が二つ。愛用の赤いパイプ。いつも窓を背に安楽椅子に座る詩人はほとんど目にとまらぬ。部屋のまん中のまばゆい光の中にいて語る相手を眼鏡越しに凝視する。巨きな、だがつつましい詩人の眼鏡。おのれのひととなりを、言葉の陰に、おのれのさまざまの仮面の陰に隠す。遠い距離にいる、きずつかぬ詩人。部屋にいる者どもの視線をまんまとおのれの指のサファイアの絹ごしのきらめきに釘づけにして、通人の舌で彼らの語る言葉の味利きをする。嘴の黄色い若者が詩人をほれぼれと眺めて唇を舌で湿す時だ。詩人は海千山千。悪食。貪食。血の滴る肉を厭わぬ。罪に濡れぬ大人物。肯定と否定のあいだ、欲望と悔悛とのあいだを、神の手にある秤のごとく一つの極から他の極まで揺れる。揺れる、そのあいだ、背後の窓から光が射して、詩人の頭に許しと神聖の冠を置く。「詩が許しであればよし、なければ、われわれはいっさいの恩寵を望まない」と詩人はつぶやく。

 リッツォスはカヴァフィスに会ったことがあるのだろうか。詩を読み、噂を聞いてつくられたカヴァフィスのイメージだろう。「部屋にいる者どもの視線をまんまとおのれの指のサファイアの絹ごしのきらめきに釘づけにして、通人の舌で彼らの語る言葉の味利きをする。」が生き生きしている。他人の視線をサファイアに引きつけ、その一方で他人のことばを吟味する。「舌」「味利き」という表現、ことばを「食べ物」として味わっているカヴァフィス。そうか、カヴァフィスは、すべてを食べていたのだ。しかも、冷徹に。欲望にふけるというよりも、欲望を確かめるように。
 ここには何か不思議な矛盾のようなものがある。夢中にならない何か、「味利き」の「利き」がそういうことを感じさせる。「悪食」「貪食」が、矛盾という概念を刺戟する。美食ではない。悪食。だからこそ、食べて吟味する。その欲望の貪欲さが、そこにあるものを「うまく」してしまう。「うまい」ものにかえてしまう。
 語られることば、語られたことば--それは、カヴァフィスに食べられること、咀嚼されること、その結果として詩に書かれることで、どんなに「悪食」であっても、「美食」にかわる。それが「許し」であり「恩寵」だ。リッツォスは、そのカヴァフィスの魔法を見ている。
 「否定と肯定」「欲望と改悛」「一つの極から他の極まで」という反対のものが、カヴァフィスに食べられ、咀嚼されることで、カヴァフィスの「肉体」になってしまう。カヴァフィスの「ことばの肉体」になってしまう。カヴァフィスはどんなことばでも、自分の「ことばの肉体」の一部にしてしまう。
 そんな姿を見ているのかもしれない。その姿は、人間というより、半神半獣のような、人間離れした強靱な何かを感じさせる。「罪に濡れぬ」というのは、人間の基準では罰せられないということかもしれない。カヴァフィスのことばをリッツォスは、そう受け取っていたのだろう。
 それは野蛮な強靱さというものかもしれないが、カヴァフィスは野蛮だけではない。「秤」ということばが出てくるが、同時に「知」なのだ。野蛮と知性の結合--というのも何か矛盾を感じさせるが、矛盾が詩人のすべてであるとリッツォスはカヴァフィスを評価しているのだと思う。



二 詩人のランプ

そのランプは従順に仕える。詩人の明かりはこのランプでなくてはかなわぬ。その時時のあるべきように合わせて変わるランプ。詩人のこころの、永遠につきない、そしていつも思いがけない希みに合わせて変わるランプ。いつも灯油の匂いがただよっている。詩人が深夜ひとり帰宅するとき、匂いはやさしく、ひっそりと分をわきまえていつもある。疲労を五体ににじませ、むなしさを上着の織り目、ポケットの縫い目にしみとおらせて、ついには、あらゆるものの動きが我慢ならない、うわべかぎりのものと思ってしまう、その時、ランプは詩人にいくばくかの救いである。今日も芯にマッチを近づける。ぼっと炎がゆらぐ。(影が壁に机に寝台に揺れる)。いや何よりも鏡だ。すき透った脆い鏡。最初の一瞬に映る無邪気な、ありふれた、人めいたしぐさが、きみを保ち、ひとを支える。そんな鏡に映る姿を作り出す炎の力。

 リッツォスがカヴァフィスどうとらえていたのか--そう考えるとき、私は、ときどきもどかくし感じてしまう。
 リッツォスはカヴァフィスを視覚でとらえすぎる。この詩には「匂い」ということばが出てくるが、匂いは嗅覚を刺戟するよりも、視覚へと変化して行ってしまう。それがリッツォスの特徴なのかもしれない。
 「いつも灯油の匂いがただよっている」と書くが、リッツォスは「匂い」の世界、嗅覚の世界へとは入っていかない。「ただよう」は「炎がゆらぐ」の「ゆらぐ」へ、さらにはと「揺れる」へと変化していく。リッツォスは「匂い」さえも「ただよう」もの、「ただよい」(揺れ)として見ている。「影が壁に机に寝台に揺れる」の「影」ということばがでてきてしまうところが象徴的だが、輪郭を描くことが難しい光ではなく、目に見える形にたどりついてことばを動かさないとリッツォスは落ち着かないのだろう。「匂い」には形がないが、形のないままでは、リッツォスは、その存在を把握できないタイプの詩人である。その点でカヴァフィスと完全に異なっている。カヴァフィスは視覚を必要としない。視覚にたよらずに対象を把握してしまうところがある。たとえば、この詩に出てくる「匂い」で対象を把握してしまう。ところがカヴァフィスは「匂い」と書きながら、匂いではカヴァフィスをとらえきれずに、「形」のあるもに頼ってしまう。
 「鏡」「姿」とリッツォスは書いているが、カヴァフィスは自分の存在を確かめるのに「鏡」を必要としなかった詩人である。目に頼らず、たとえば「詩人の部屋」で描かれていたように、「舌」で自画像を描ける。ことばを聞き、その味を知ることで自画像を描ける。声で、耳で、他人を理解すると同時に自分をとらえる詩人だ。
 この詩を読むと、リッツオスとカヴァフィスの違いばかりが印象に残る。
 リッツォスのことばを読んでいると、カヴァフィスのことを書いているというよりも、リッツォスがカヴァフィスを把握するとき、リッツォスの肉体のどの部分、感覚のどの部分をつかっていたかということの方を強く感じる。つまりリッツォスの自画像の方が目立ってしまう。



三 夜明けの詩人とランプ

あ、今宵もようこそ。またしてもふたりが向かいあう。詩人とそのランプだ。詩人はランプを愛している。気にもとめていないような冷淡さはうわべだけだ。ランプへの愛は、ただ仕えてくれるからではない。何よりも、いつくしみ手塩にかける値打ちがある。古代ギリシャの生き残りの繊細なランプだ。ランプのまわりには光の敏感な夜の虫とかずかずの記憶とが群がる。ランプは老いたる者の皺を消し、そのひたいを広く見せ、若い身体の影を気高くし、その穏やかな灯は、まだ書かれていないページの白さのうえに拡がり、詩にひそむ深い血の紅を掩い隠す。明け方になり、ランプの光が弱まって、昼の光の薔薇色にとけこむ時、商店街の鉄のシャッターの開く音に、手押し車の、果物売りの音にとけこむ時、ランプは詩人の「不眠」そのものが凝り固まったひとつの物だ。それはまた、ガラスの架け橋でもある。詩人の眼鏡のガラスからランプのほやのガラスへ、ほやから窓のガラスへ、そして戸外へ、さらに外へ、向うへと続くガラスの架け橋。ガラスの橋は、詩人を彼の市アレクサンドリアの上空へと運ぶ。市井のまん中に詩人を据える。そして、詩人の意志で夜と昼とをひとつにつなぐ。

 またランプが出てくる。「ランプのまわりには光の敏感な夜の虫とかずかずの記憶とが群がる。」の「虫」「群がる」ということばは、カヴァフィスのもっている野蛮な力を感じさせるけれど、生々しさはない。すぐに「老いたる者のしわを消し、そのひたいを広く見せ、若い身体の影を気高くし」というような明るいイメージがとってかわる。暗く、淫らで、野蛮な力は、リッツォスのことばでは掬い取ることができない。
 おもしろいのは音に関する描写だ。カヴァフィスの描く音はもっぱらひとの声、口調であるのに対し、リッツォスは物理的な「物音」を書いている。リッツォスには「声」さえも「音」である。「果物売りの音」とリッツォスが書いているものをカヴァフィスなら「果物売りの声」と書くかもしれない。いや、「声」とは書かずに、売り口上をそのまま口語で書くのではないのか。
 「ガラスの架け橋」ということばが出てくるが、そういう繊細な表現は、何かカヴァフィスの強さには似合わない。リッツォスの孤独には似合うけれど……。


四 ランプを消す

いよいよ大いなる消耗の時。ぎらつく朝。裏切って秘密をばらす朝だ。詩人の夜がまたしても一つ終わる。朝は、磨きあげた鏡よりも残酷に打ちのめす。にくさげに眼と唇のまわりの皺をいちいちあばきだす。こうなっては、ランプの思いやりも詮ない。カーテンを引いてもはじまらない。夏の夜の熱い吐息がゆっくりと冷えていった、あのシーツの端の硬い感触--。しかし、残ったのは小さな輪のいくつか。わかい巻き髪からはらりと落ちた巻き毛。ちぎれた鎖だ。あの同じ鎖だ。誰が鍛えた鎖か。いや、思い出は救いにはならぬ。詩もだ。しかし、眠ろうとして火を吹き消そうとしたランプのほやにかがみこみ、炎が消えようとする、いまわのひとときに、詩人ははっとさとるのだ、詩人は、永遠のガラスの耳に、ひとつの不死なる言葉を直に吹き込んでいるのだと。不死なることば、--あまさずおのれのものなる言葉、まことのおのれの息だ、物質のつく溜息だ。ところで、吹き消したランプの匂いが夜明けの部屋にただようのはいいものだね。

 カヴァフィスの男色の一面を描いている。詩の最後に「ランプの匂い」が出てくるが、これはリッツォスの感覚からすると「付け足し」のような印象がある。カヴァフィスは「匂い」に敏感だったかもしれないが、リッツォスは嗅覚は鋭くはない。リッツォスは視覚の詩人である。それは、「残ったのは小さな輪のいくつか。わかい巻き髪からはらりと落ちた巻き毛。ちぎれた鎖だ。」という部分にくっきりと見てとれる。ベッドに残っている巻き毛を「鎖」という別の形の比喩にする感覚に視覚を生きているリッツッスがあらわれている。眼で見たものが、別の眼で見えるものを呼び寄せ、そこに「意味」を見出す。リッツォスのことばは、そんなふうに動いていく。
 朝の光が老人・カヴァフィスの皺という秘密をあばく。夜見えなかったものが、あるいはランプの明かりではやわらかな陰影に隠れていたものが、朝の強い光で明確に見える。リッツォスは明確を好む。硬質なものを好む。
 それは「夏の夜の熱い吐息がゆっくりと冷えていった、あのシーツの端の硬い感触」ということばにあらわれている。熱い吐息の輪郭のない広がりよりも、汗が冷えて固くなっていくシーツの感触の、その「硬い感覚」。角があるもの、エッジがあるものにことばが動いていく。孤独を感じさせるもの、「炎が消えようとする」という感じのことに近づいていく。明確であり、そして孤立するものとリッツォスのことばは親和力がある。
 カヴァフィスのことばは逆だ。リッツォスが書いていることばを借りて言えば「熱い吐息」のようにうごめくものと親和力がある。「残酷」「にくさげ」というなまなましいものとも親和力がある。そういうものと親和する力があるとわかっているから、リッツォスも、そういう表現を詩に取り込むのだが、だんだん自分の好みにしたがってことばが変わっていく。
 ことばは書いている人を裏切ることはないのだ。どんなにカヴァフィスを描いても、リッツォスのことばはリッツォスをあらわしてしまう。
 ただ「ひとつの不死なる言葉を直に吹き込んでいる」の「直に」はカヴァフィスをがっしりとつかんでいるように思える。カヴァフィスは対象に「直に」息を吹き込み、対象のもっている「声」にしてしまう。カヴァフィスの「ことば」が対象の「声」になる。肉体が「直に」ふれあって、本能がうごめくように、がまんしきれず「声」になる。ことばは「意味」を越えて、本能を「直に」露呈する「声」になる。


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中井久夫訳カヴァフィスを読む(32) 

2014-04-23 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(32)          

 「瀬戸際政策」。コンスタンス帝とコンテタンティウス帝の時代の学生、ミルティアスが言ったことばをそのまま書き写す(引用する)というスタイルの詩である。ミルティアスという学生がほんとうにいたのか、彼がほんとうにそういうことを言ったのか、わからない。言いそうなことをカヴァフィスが書いてみた、ということだと思う。ここにも、独特の声がある。ミルティアスというのはシリア人で、アレクサンドリアでは身分的に少し落ち着かない状態である。半分異教徒という感じ。

「思索と瞑想がおれを強くして
情熱を臆病者みたいにおそれなくなれば、
おれさまのからだを快楽にゆだねよう。

 淫蕩に踏み出す前の「思い」が声になっているが、この声は複雑だ。「思索」「瞑想」「情熱」「臆病」「快楽」という熟語。いわば、これは教養のことばである。学生のことばであって、庶民の日常のことばではない。それに「おれ」という庶民の口語がまざる。頭で動く「ことば」と肉声がまざる。知識と肉体の声がぶつかる。
 さらに、そこに「思索(教養)」独特の「論理」がからんでくる。
 ひとは欲望のままに動いてみたい。快楽を思う存分味わってみたい。けれど、なかなかそれができない。欲望のままに動いてしまえば自分の生活がどうなるかわからない。不安である。不安が人間を欲望のままに行動することを抑制している。
 このことをカヴァフィスは「情熱」と「臆病者」ということばと、「おそれる」という動詞の中で、独自の論理に仕立て上げている。庶民(教養のないふつうの人間)は、放蕩し快楽におぼれてみたいという欲望(情熱)を、自分を壊してしまうかもしれない激情と感じ、おそれている。自分の情熱をおそれている。
 そのおそれを克服するものはなにか。思索と瞑想。淫蕩の中でおきている「こと」を「思索」のことばのように、明確で強靱なことばで把握できるようになれば、それは自己を維持していることになる。放蕩の快楽くらいでは自己はこわれない。

かねて夢みたあまたのよろこびに、
最高の大胆なエロス的欲望に、
わが血のうずく放蕩の衝動に、
何一つ恐れずにだ。--思索と瞑想で強化されて
意志力がそなわっているはずゆえに、

 エロス、肉体の悦びは、思索、瞑想という「漢字熟語」の音(声)とは対極にあるものだ。「強化」とか「意志力」とは無関係なものだ。エロスから遠い声でエロスを語る。そこに独特の音楽が生まれる。「異質」な欲望。異質なエロス。男色か。あるいは、サド・マゾのような行為か。カヴァフィスが書くと、どうしても男色を想像するけれど。
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リッツォス拾遺(中井久夫訳)(2)

2014-04-22 10:56:11 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス拾遺(中井久夫訳)(2)(作品は「現代ギリシャ詩選」から)

三幅対

一、たそがれ

彼は彼女の手を取った。無言だった。
彼は遠くに聞いた、海の豊かな脈動を--、
自分の内部に聞いたのかも。
海も松も丘もみんなきみの手だよ--、
そうとでも言わなければ、どうして彼女の手を握れよう?

ふたりは無言のまま。たそがれが深まる。木々の下には彫像が一つ。
それも左右の手が取れて--。

 「三幅対」「一、たそがれ」「二、女性」「三、どうしてぼくらがわるいのか?」の作品で構成されている。三幅の対、対になったものが三つという意味だろう。ひとつの作品が二連(対)で構成されている。「対」を一つずつ読んでいく。
 この作品はギリシャの古い彫像を見て思いついたのだろうか。ミロのビーナスには両手がないが、そういう彫像を見て、どうして手がないのだろうと想像したとき、この詩が生まれたのかもしれない。男と女が「対」であると同時に、男と女の関係と、両手の取れた彫像が「対」になっている。向き合っている。向き合って、互いを補っている。
 男(彼)が女(彼女)の手を取って、そのとき手のなかを流れる血潮の音を聞いた。それは女の手のなかの音なのか、それとも男自身の手のなかの音なのか、わからない。一つになっている。その音は男には「海の音」に聞こえる。松も、丘も、やはり手に触れれば「脈動」を感じる。それは松の脈動か、丘の脈動か、あるいは自分自身の脈動かわからない。
 あるいは、こう言うべきなのか。
 自分以外のものに触れて「脈動」を感じることができるのは、自分のなかに「脈動」がある人間だけである。自分の脈動が相手の「からだ(肉体)」のなかへはいり込み、誘い水のように、その肉体から脈動を引き出す。
 その二つは融合して区別がつかない。
 それは見方をかえれば、「手」がどこにあるかわからないということでもある。「手」がないということでもある。「手」は海や松や丘にあって、男の(女の)肉体には属してはいない。(だから二連目に手のない彫像が愛の象徴としてあらわれる。)四行目の「海も松も丘もみんなきみの手だよ--、」はそういうことを先取りして言ってしまっている。
 詩は論文ではないので、ことばが順序立てて動くわけではない。突然、答え(結論)があらわれて、そのあとで原因や理由を探すということが起きる。いや、その原因や理由も結論に遅れてやってくるというわけでもない。あらゆることが、ことばになった瞬間に、結論になったり、原因になったりする。そこには時間の「前後関係」がない。
 木々の下に両手のない彫像がある。それが「ある」瞬間と、男が女の手をとって「脈動」を聞く瞬間、手は海であり松であり丘であると感じる瞬間、手は海であり松であり丘なのだから手はないのだと感じる瞬間、それは「同時」に起きる。
 ことばは書いていくと(あるいは声に出して話すと)、そこにはどうしても「前後関係」が生まれてしまう。「前後」は「時間」と勘違いされるが、詩のことばには「あと・さき」という「前後」がない。それは、瞬間的に「同時」に起きている。
 結論と原因が「同時」に起きるというのは「矛盾」かもしれないが、そうだとしたら、その「矛盾」が詩なのである。「矛盾」しているから、「論理的」には説明できない。「論理」を捨てて、そこに起きている「わけのわからない驚き」を受け入れるしかない。詩を楽しむというのは、そういう「わけのわからなさ」を引き受けるということだ。
 「矛盾」というのは「矛」と「盾」が「対」になったものだが、「対」になることで互いを強調する。互いを存在させる。それは、つまり、互いを受け入れるということである。そういう「対」が詩なのである。


二、女性

あの夜。近寄れない夜。彼女は誰にも接吻しない。
誰も接吻してくれないかも知れない恐れの中で独り。

五本の星の指で彼女は一房の白髪を隠す。
美しい人。だが、いちばん美しい自らを拒んだ美しさ。

 彼女は接吻しないのか、接吻してもらえないのか。--これは判断が難しい。接吻する、接吻されるという具合にことばは「能動」「受動」の二つの形をとるけれど、これは文法の問題に過ぎない。実際の接吻は、する、されるという「気持ち」を別にすれば、二つの肉体が出会ってはじめて成り立つことなので、別々に考えてもしようがない。
 「一、たそがれまで」で、彼女の手に触れて脈動を感じるとき、それは彼女の手の脈動なのか、自分の手の脈動なのか、わからない。同じように接吻するとき、そこでふれあってる唇や絡み合っている舌は、誰のものと言っても意味がない。ふれあい、絡み合うことが接吻だからである。「する」「される」という意識とは別な「こと」が「接吻」という行為のなかにある。
 「白髪を隠す」という行為も、何か不思議なものがある。女は白髪を欠点と思って隠すのだが……その白髪こそが彼女のいちばんの美しさだった、とリッツォスの詩は言っているのか。そうではない、と私は思う。そんな単純な「論理」をリッツォスが書いているとは思えない。
 いちばん美しいのは、自分の欠点(白髪)を意識し、それを隠すときのこころの動きである。恥ずかしいと思う、女の気持ちである。もっと美しくなりたいと思う、女のその気持ちである。でも、その気持ちは実際に白髪を隠してしまえば誰にもわからない。白髪を隠すという「動詞」の現在のなかにだけしか存在しない。動詞が完結してしまえば、それは気持ちの美しさを見えなくしてしまう。美しさを拒絶してしまうことになる。
 「いちばん美しい自らを拒んだ美しさ」の「拒んだ」は「隠してしまう/遠ざけてしまう」くらいの意味である。
 --それはおかしい、その読み方は文法的に正しくない、という批判が聞こえてきそうである。その声は、実は私の内部からも聞こえてくる。何か、変な説明だぞ、と私のなかのだれかが抗議している。
 それでも、私は先に書いたようにことばを読みたい。
 どこかに「まちがい」があるのだけれど、「まちがう」ことでしかつかみえない何かに出会っていると思う。
 詩は「矛盾」であるから、それを味わうときは、どこかで「矛盾」を引き受けないといけない。「まちがい」がどうかは重要ではなく、こんなふうに読みたいという欲望に正直になることの方が大切なのだと思う。


三、どうしてぼくがわるいのか?

きみの舌の裏にはカレイの稚魚がいる。
ブドウの種がある。桃の繊維がある。
きみの睫毛の投げかける影には
暖かい南国がある。ぼくはねそべって
休息する。いうこともなし--と彼は言った。

どういう意味なの、「もっと行って」って?
どうしてきみがいけないの、無邪気に葉っぱの間に隠れているのが?
美しい葉、単純な葉、きみの情熱の金色の恰好をした葉なのに?
どうしてぼくがいけないのか、先に立って夜を行くのが?
自分の自由に囚われた捕虜、罰せられた者が罰するのが?

 この詩の「対」は、男の高揚した気持ちと落ち込んでいる気持ちである。前半は高揚して、女(きみ)を描写している。「きみの舌の裏にはカレイの稚魚がいる。/ブドウの種がある。桃の繊維がある。」はなんと楽しいイメージの飛躍だろう。カレイの稚魚やブドウの種、桃の繊維になってきみの舌の裏にまではいり込みたい。そういうキスがしたいという欲望の喜びがあふれている。
 一方、後半には欲望が形になるときの喜びはない。欲望が達成できない、さえぎられる--その精神の苦痛、感情の苦悩がある。
 この二連目は耳で読むと非常に混乱する。「行って」「いけない(よくない/悪い/禁止)」が「行ける(可能)」「行けない(不可能)」に聞こえるし、「行って」は「言って」にも聞こえる。音が混じりあって、意味が溶けだしてしまう。文字で確認しないといけない。また文字で確認したところで意味がわかるわけではない。
 無邪気に無花果の葉っぱの影に隠れていることはいけないのか(わるいのか)、隠れていないで「行くべき」なのか。どうしてきみを夜に導き出すことがいけないのか(悪いのか)、恋して、恋に囚われて、恋に苦しんでいる(罰せられている)ぼくが、きみを誘い出して恋を遂げたいとすることが、どうしていけないのか?
 そんな意味かもしれないけれど、わかりにくい。
 一連目との関係(対)を考えるならば、恋をするとことばが比喩になって先走る。そこにないものを出現させる。ことばがもっともっと先へ行ってしまえば、比喩は炸裂して、ことばは吹っ飛び、そこに「生身」の肉体が、裸の肉体があらわれるだろう。そう夢みてことばに拍車をかけてみても、詩人は恋に裏切られる。精神(ことば)が恋に捕らわれてしまい、肉体はことばの影に隠れてしまう。恋は肉体を求めているのに、肉体はどんどん遠くなる。
 こころ(ことば)と肉体は対になって矛盾している--それが恋であると、この詩は言っているのか。



幼年時代--回復期

ちょっと眼を閉じて。
聞こえるね、台所で皿を洗うお母さん。
聞こえるね、ナイフとフォークを引き出しにしまう音。
聞こえるね、廊下を歩く母さんの衣ずれ、
そしてイコン立ての中に漂う聖母の微笑。

明日はもう治る。病人じゃなくなる。体温計を見よう。
腋から抜いたばかりで温かい。
天国のお父さんが幼い従妹にそっと言うだろう。
明日行っておやり、って。
従妹が来たらいっしょに散歩するんだ、鹿と肩を並べて--。

杏の実の新しいのを集めて従妹にやろう。
青い鹿が来るよね、
とうさん、ぼく、
眠れそう、
青い--
青い鹿なの、
とうさん、
天国
なの


 これもリッツォスには珍しい部類の詩である。病気で死んでいく幼いこども。それが死ぬ直前に感じる安らかな世界。
 一連目。「目を閉じて」いる少年。目を閉じているので何も見えない。しかし、音は「聞こえる」。不思議なのは、その「音」を聞いているのに、「わかる」のは音だけではない。その音といっしょに動いているお母さんが見える。目を閉じているのに、見える。
 肉体が見ている。肉体というふうに何か「いのち」のかたまりとして存在するものが見ている。この見ているは「おぼえていること」を思い出して、見えるというふうに感じるということ。
 音を聞く(聴覚)と、ものを見る「視覚」が、「いのちの肉体」のなかで融合して動いている。音を聞きながら、「見る」というところへことばが動いていくのは、リッツォスが視覚優先の詩人だからだろう。
 2連目の「腋から抜いたばかりで温かい。」という一行が切ない。「腋」という「肉体」を具体的に指し示すことばが、少年の肉体をはっきりと浮かび上がらせる。少年は肉体を病んでいるのだということを強く感じさせる。病気の少年の、汗ばんだ腋の色が見える感じがする。
 その少年が、安らぎの中で夢想する。鹿と従妹と散歩する。そのときの「青い鹿」。青い鹿はいない。いないけれど、やってくるのは「青い」鹿。そこに少年も気づく。そして、ここは生きている世界ではなく、死んでしまったあとの世界、天国だと気づく。その「気づき」のきっかけが「青い」という視覚に作用するものであるのもリッツォスが視覚の詩人であることを証明するだろう。
 詩の中で、ほんとうは一つであるのことば、表現が統一されていなければいけないことばが変化するところがある。「お母さん」が「母さん」、「お父さん」が「とうさん」にかわる。「お」が取れる。ことばが短くなる。ことばを短くしなければならないほどの「急なできごと」が起きている。その「急」の激しさを「お」を省略するということばの動きで表現する中井の訳はすばらしい。声の呼吸を聞きとっている。
 呼吸を正確に聞きとっているから、最後の連の行が少しずつ短くなっている。
 悲しい詩なのに、不思議な安らぎがあるのは、中井が少年の呼吸にあわせてことばをそろえているからだろう。少年を見守るあたたかい視線が、ここにある。



忘れられていた優しさ

お祖母さんはいいひとだった。静かだった。眼の周りには
沢山小皺が寄って、丹念に刺繍してあるお茶用のナプキンの皺みたいだった。
かろやかな心の持主だった。
心は軽くて、綿でいっぱいの小さな袋みたいだった。

お祖母さんは逝った。多分、巨大な夜の、暖炉の隅で
綿を糸につむぎに行ったのでしょう。
でもどうしてお祖母さんは外に出られたのかしら?
雨なのに羊毛の肩掛けも着ないで。

幼いねえやが玄関の間の椅子で泣く。
雨がエルコメノス教会の石段で泣く。
いちばん下の孫は泣かない。
あの小さなお祖母さんは今目に見えない糸をつむいでいる。
そのために雨が、石段が、椅子が、幼いねえやが、みんな泣いている、
美しく泣いているなあ、と眺めていた。

 お祖母さんが死んで雨が降っている。雨はお祖母さんのつぐむ糸(綿からつむぐ糸)のように静かに長く降っている。雨の糸。その雨の糸の涙になって、みんなの涙が流れる。雨に濡れるものはみんな泣いている。石段も、椅子も、幼いねえやも。
 最後の「美しく泣いているなあ、と眺めていた。」の「主語」は何だろうか。誰が眺めていたのか。詩人リッツォスだろうか、死んでしまったお祖母さんだろうか。
 私は、詩人でも、お祖母さんでもないと思う。雨、石段、椅子、幼いねえやの「みんな」が眺めているのだと思う。眺めているということに気づかずに「泣く」という行為の中で「ひとつ」になっている。そして、その「ひとつ」のなかには死んでしまったお祖母さんも含まれるし、お祖母さんのつむぐ糸もふくまれる。お祖母さんの皺や、お茶用のナプキンもふくまれる。区別ができない。
 すべてを(みんなを)区別せずに「ひとつ」にしてしまう何か、あるいは「こと」。それが「忘れられていた優しさ」という「こと」なのかもしれない。「忘れられていた」ければ「おぼえている」。おぼえていることのすべてが、思い出されて、思い出になってあらわれてきて、「みんな」が互いを眺めて(互いの存在を認め合って)、泣いている。
 中井は「主語」を日本語に訳出していない。訳出しないことによって、リッツォスが書こうとした「ひとつ」と「みんな」を感じ取れるようにしている。最後の一行をとても深く、強いものにしている。


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中井久夫訳カヴァフィスを読む(31)

2014-04-22 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(31)          

 「イタカ」はオデュッセウスの故郷。トロヤ戦争から帰るときの苦労を題材にしている。ただし、この詩の主人公はオデュッセウスではない。英雄ではなく、彼のまわりにいるふつうの兵士である。そしてそれはコーラスのように英雄(悲劇の主人公)の欲望を受け止め、育て、駆り立てるわけでもない。
 まったくの「平民」の声を発するだけである。

イタカに向けて船出するなら
祈れ、長い旅でありますように、
冒険がうんとありますように、
新しいことにたくさん出会いますように、と。

 この「冒険」や「新しいこと」ということばは、まるでこどもに読んで聞かせる絵本のことばのように「軽い」。欲望がない。ほんとうは何もなく、短い旅の方がいいのだ。でも、それはきっとむりだ。だから、逆のことを言っている。逆のことは、ほんとうになってほしくない。何かあっても、それは「絵本」のなかの世界のできごとだ、という具合に自分に言い聞かせている感じだ。この「軽く」「弱い」ことばの響き具合--それが平民的だ。庶民的だ。

何年も続くのがいい旅だ。
途中でもうけて金持ちになって
年をとってからイタカの島に錨をおろすさ。

 このことばの庶民性は、たとえば「プトマイオス家の栄光」の「おれはラギデス。王。富と力で/快楽の技を完全にマスター。」と比較すれば、その「弱さ」がわかる。句点までのことばが長い、ことばの量が多い。短く言い切ってしまう強さがない。ことばを明確にするためには多くのことばが必要なのだ。それだけひとつひとつのことばが弱い。
 これが庶民、平民の声だ。

きみは経験をうんと仕込んで
旅の終わりには賢者になるだろう。
その時にはイタカの意味がわかる。
おのおのにとってのイタカの意味がな。

 「イタカ」は土地の固有名詞というよりも「故郷」の総称である。「おのおのにとって」ということばがあるように、それは各自のもの、各自別の土地。「団結」はなく、ばらばら。それが庶民。それぞれが、どうしようもない「体験」、仕方なく体験してしまったことを背負って、故郷にもどる。自分だけにしか通じない「意味」を抱えて、もどる。それを受け入れてくれるのが庶民の「故郷」というものでもある。
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リッツォス拾遺(中井久夫訳)(1)

2014-04-21 10:10:58 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス拾遺(中井久夫訳)(1)(作品は「現代ギリシャ詩選」からの)

仕事を果たす

今は色に乏しい。でもいい。そう言う彼。
野のほんの僅かな緑。おれにはこれで充分だ。
歳とともに何もかもが小さくなる。
ものが寄り集まって溶け合って行くんじゃないか。
木の葉が一枚。その微かなそよぎ。もうそこからおれは入れる。
おれは廊下に入る。向こうの端に向かって歩く。
窓と彫像が両側に並ぶ間を。
窓は白。彫像は赤。
これはフクロウ。これはヘビ。これはシカ。きちんと見分けがつく。

 「彼」は誰なのか。リッツォスはいつものようにどんな情報も提供しない。季節は秋の終わりなのか、あるいは春のはじまりなのか、それもわからない。「木の葉が一枚」というのは秋の終わりを感じさせる。「彼」も人生の晩年にいるのだろうか。
 「木の葉が一枚。その微かなそよぎ。もうそこからおれは入れる。」は俳句を思わせる。「おれ」は、どこに「入れる」のか。つづく行を読むと「廊下」になるが、私は「世界」というもののなかに「入る」ことを想像した。
 一枚の葉っぱと自分が一体になる。一枚の葉っぱの「そよぎ」となって、世界を見つめる。どんな存在も、それぞれに個として世界に向き合っている。その向き合い方に同化したとき、「彼」は新しい世界に入る。
 その世界は「ものが寄り集まって溶け合って」っている。溶け合いながら、瞬間瞬間に、必要な「もの」になる。次々に生まれ変わる。「これはフクロウ。これはヘビ。これはシカ。きちんと見分けがつく。」というのは、その生まれ変わる姿のように感じられる。



単純性の意味

私が単純な事物の背後に隠れるのは、きみが私をみつけるようにです。
私を見つけなくとも、ものを見つけてくれるでしょう。
私の手が触れたものに触れて下さるでしょう。
私たちの指紋が重なって一つになるでしょう。

八月の月が錫のポットのように台所できらめいています。
(きみに語るためにこういう言い方になるのです)
月が人の住まない家に灯をともします。家にはじっと膝まずいている静けさが。
静けさとは、いつも膝まずいているものです。

一語一語が入り口、
出会いへの入り口です。でも出会いはよく邪魔されます。
ことばが信実な時です。ことばが信実な時とは出会いを求める時ですが--。

 ここにはリッツォスの「詩の理想」が描かれている。単純な「事物」として、出会いたい。「仕事を果たす」の「木の葉」、あるいは「そよぎ」は、「単純な事物」のひとつである。
 人のものの見方(世界の見方)は様々である。だからことばも複雑になるのだけれど、その複雑なものにこだわると、なかなかひとは出会えない。違いばかりが目立ってしまう。違いが気になって、共通のものが見えなくなる。
 「私を見つけなくとも、ものを見つけてくれるでしょう。」は美しいことばだ。リッツォスを見つけられなくても、リッツォスが見たものを見つける。その「事物」をとおして、一瞬、リッツォスと読者が重なる。
 どんなことば(どの一語)からでも、私たちはリッツォスに出会える。どのことばを通ってリッツォスに出会うか、それは読者に任されている。出会いは、リッツォスだけの仕事ではない。読者の仕事でもある。読者が自分のことばを「真実」のものとして動かすとき、リッツォスのことばの「真実」に出会える。
 リッツォスはそういうことを夢みている。





明るく澄んだ顔。沈黙してまったく独り。
まったき孤独のごとく、あるいは孤独の完全なる克服のごとく。
あの顔がきみを見つめる、静かな水の二本の柱の間から。

そして、きみは知らない。どちらの水がきみの心をいちばん動かそうとしているのかを。

 「二本の柱」とは涙だろう。両目からこぼれる涙の二本の線。最終行は、少し不思議である。二本の柱が涙だとして、その涙に違いはあるのか。涙が流れるとき、右のひとみから流れる涙と左のひとみから流れる涙は種類が違うのか。
 「どちらの水」というは、右目左目の違いではないのだろう。
 一行目にもどってみよう。「明るく澄んだ顔」。これは泣き終わったあとのさっぱりした顔ともとれるが、うれしい顔かもしれない。ひとはうれしいときにも涙を流す。そして孤独でさびしいときも(悲しいときも)、もちろん涙を流す。
 きみは、どちらに感動するだろうか。うれし涙だろうか。悲しい涙だろうか。
 答えをだす必要はない。どちらの涙にも寄り添うのが愛であるのだから。





四つの窓は韻を踏んだ四行詩。
海と空が韻を踏んで部屋の中に吊るされている。
ヒナゲシは夏の手首にはまった腕時計。
正午を告げる時計だ。
太陽はきみを追って髪をつかみ、
きみを光と風の中に宙吊りにする。

 リッツォスにはめずらしく明るく孤独のにおいがしない詩。真夏の明るい陽射しのなかでののびやかな恋が輝いている。
 「海と空が韻を踏んで部屋の中に吊るされている。」と書かれているが、部屋の中という感じがしない。壁がとりはらわれている。世界中が安心できる部屋になっているということだろうか。
 「正午を告げる時計だ。」も、完全ということの象徴かもしれない。
 中井久夫の訳のすばらしさは、この「正午を告げる時計だ。」の「だ」にあらわれている。直前の「腕時計」には「だ」がなく、「時計」には「だ」がある。「だ」があってもなくても「意味」は同じだが、受ける印象が違う。ことばの「強さ」がちがってくる。「だ」がある方が強い。そして、このとき「だ」は「である」ではだめだ。間延びする。
 短い「だ」という音の中に、喜びが炸裂する。短いからこそ、そこに集まってくる喜びがぶつかりあい炸裂する。



いつの日か、おそらく

きみに見せたい、あの深夜のバラ色の雲。
だが、きみは見ない。夜ですもの、どうして見える?

でも、きみの眼でみてもらうより仕方ない--と彼は言った。
きみと私とが孤独から救われるために--。
私の指さすあそこほんとうは何もないのだけれど。

夜に集まるのは星ばかり。疲れた星たちは
遠出から帰るトラックのようだ。
落胆と空腹と。歌もなく、
汗ばんだ掌にしおれた花を握った人々。

でも、これからもきみを見たい、きみに見せたい--と彼は言った。
きみが見なければ、私が見なかったと同じだもの。
せめてあなたは眼で見ないで、と私は言いたいの。
そうすれば、私たちはいつか会えるでしょう、それも思いがけない方角で。

 「現代ギリシャ詩選」に収録されているリッツォスの作品は愛の詩が多い。この詩では男と女がうまくかみあわない。けれど、うまくかみあっているよりも深く愛を感じているのがわかる。愛しあっているのに、うまく関係が結べない。その切ない愛。
 男(彼)は深夜のバラ色の雲を女(きみ)に見せたい。それはもちろん存在しない。けれど眼で見て、それが「見える」と言ってもらいたい。これは「こころの眼で見て」ということである。
 「きみが見なければ、私が見なかったのと同じだもの。」同じものを見ることによって、「ひとつ」に「なる」。そういうことを男は感じている。「こころの眼」が同じひとつのものを見るとき、こころは「一つ」に「なる」。男と女のこころは別なものだが、それが「見る」ことを通して「一つ」に「なる」。二つのこころが「一つ」になるとき、「孤独から救われる」。孤独ではなくなる。これが男の願いだ。
 一方、女は「あなたは眼で見ないで」と訴える。これも「こころの眼」で「見ないで」ということ。女は男がこころを優先させていると感じている。「こころの眼」とは、「ことば」のことかもしれない。「ことば」で何かを見ないで、ことばで、そこにないものをあるかのように語らないで。そこにないものを、ことばで出現させないで。そういうことをすれば、ことばに邪魔されて出会えなくなる。ことばをつかわず、「こころの眼」をつかわず、「肉眼」で世界を見つめて。そうすれば私たちは出会える。
 これは表現を変えて言えば、「ありのままの私(女)」を見てという訴えだ。ことばをつかわずに、つまりことばで美化せずに、いま/ここにいる私をそのまま受け入れて、あなたの感性にあう女にしようとしないで、と訴えている。
 これは詩人には、かなり厳しい要求かもしれない。ことばなしで、どうやって世界と向き合えるのか、詩人は知らない。



ミニチュア

女は卓子の前に立つ。寂しい手が
レモンを薄く切る。お茶のためだ。
レモンの薄い切れは黄色い車輪。
おとぎ話の小さな馬車のもの。
若い将校は卓子越しに向かい合う。
女の顔を見ず、古い肘掛け椅子に身を沈め、
煙草に火を点ける。マッチの手が震える。
マッチはそのやさしいオトガイを照らし、紅茶茶碗の把手を照らす。
一瞬、時計が止まる。だが見送られた。何を? 何かを。
瞬間は去った。今は遅い。お茶をご一緒に、ね。
こんな小さな場所に死が乗ってくるってこと、あるの?
みんな行ってしまい、去ってしまって、この小さな馬車だけが残るってこと、あるの?
残って、来る年来る年ランプを消して脇道に駐車してるってこと、あるの?
小さなレモンの黄色い車輪を付けて--?
それからひとしきりの歌、僅かな霧、そして何もなくなるの?

 女の思い出。昔、若い将校に紅茶を出した。レモンの薄切りをそえて。それは馬車の車輪のように見えた。それは最後の別れになった。最後の別れになること、戦争で死んでしまうことがわかっていたから、若い将校は女を見つめようとはしなかった。
 それは一瞬のことだけれど。
 その一瞬が、女は忘れられない。思い出している。あのレモンがいけなかったのだろうか。レモンを馬車の車輪と思い、その馬車に乗って将校がやってきたと、おとぎ話の出会いのように思ったのがいけなかったのか。馬車は人を連れてくると同時に、人を連れ去る。ひとは馬車に乗って去って行ってしまう。帰られない人になってしまう。
 いまはもう何もない。レモンの思い出だけが残っている。
 そう思って読むと、最初の二行は現実で、三行目からは記憶になる。一行目の「寂しい」は、いまの孤独をあらわしていることになる。過去を思いながら、寂しくひとりで紅茶を飲む。
 記憶のなか(こころのなか)では、時制の区別がない。遠い過去も一秒前を思い出すのと同じように、隔たりがないままにやってくる。一秒前よりももっと接近してあらわれてしまう過去というものもある。そういう時間の入り乱れ、入り乱れる時間のなまなましさが「一瞬、時計が止まる。」からはじまる。実際、思い出のなかで時間は止まる。思い出のなかでは、いつでも「いま」なのだ。
 それにしてもレモンの薄切りの車輪は美しい。目にとてもあざやかだ。その繊細な目がとらえるマッチの明かり、マッチが照らすオトガイ、それらから「紅茶茶碗の把手」。この「把手」をつかみ取る視線がリアルだ。リッツォスは視覚の鋭い詩人だ。


現代ギリシャ詩選
クリエーター情報なし
みすず書房
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(30)

2014-04-21 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(30)          2014年04月20日(月曜日)

 「プトレマイオス家の栄光」も「声」を描いている。

おれはラギデス。王。富と力で
快楽の技を完全にマスター。
マケドニア人でも野蛮人でもおれに敵う者はない。

 王が大衆にとってあこがれの的であるのは「富と権力」ゆえである、と言ってしまうと何かが違う。ひとはたぶん「富と権力」だけにあこがれるのではない。それを「ことば」にして言ってしまえることの方にあこがれる。だから、ひとは、王について語り、王の芝居を見る。(芝居をする。)それは「ことば」をとおして王になってみるということだ。
 王は、いったい、どんな「声」をしているのか。カヴァフィスの描いている声はラギデス本人の声であるかどうかわからないが、大衆が言ってみたい「声」である。「おれはラギデス。王。」ここには「動詞」が省略されている。「である」ということばが、英語で言うbe動詞が省略されている。「動詞」を言う必要がない。「王」そのものが「動詞」なのだ。ラギデスが「おれは王」と叫べば、大衆は「である」ということばを補って、そのことばを補強する。絶対のものにする。
 2行目の「マスター」ということばは、ほんらいは「マスターした」という「動詞」である。しかし、王は「動詞」を語らない。「……する(した)」とは言わない。「……である」と言う。ただし「である」は自分では言わずに、大衆に言わせる。
 ギリシャ語の詩がどうなっているか私は知らないのだが、この「マスター」と体言止めにした中井久夫の訳は、王と大衆の関係をしっかりと押さえている。「声」のあり方として押さえている。
 「王」は「動詞」であり、すべての「動詞」の頂点にあって、すべての「動詞」を支配する。大衆は「王」の「動詞」となって動く。「敵う者はない」とは、そういう意味である。絶対者にとっては、「動詞」は支配するという形でしか動かないのだ。「快楽」さえも、王が「快楽」を楽しんでいるとしたら、そのとき、その肉体で起きていることが快楽である。

おれに迫る者はない。セレウコスの息子の
安っぽい放蕩など、笑い草。

 この「比較」のことばもおもしろい。大衆にとってはセレウコスの息子の放蕩はけっして「安っぽい」ものではない。けれど、王が「安っぽい」と断定したとき、そしてそれを大衆が聞いたとき、それは大衆の「声」になる。大衆は「安っぽい」という声にあわせて合唱する。合唱することで王になった気分になる。
 そういう意味では、この詩の「声」は「王の声」というよりも、「大衆の声」である。「大衆」のなかでうごめいている欲望である。
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木村恭子「フォーク」ほか

2014-04-20 11:32:54 | 詩(雑誌・同人誌)
木村恭子「フォーク」ほか(「くり屋」61、2014年04月25日発行)

 木村恭子「フォーク」はさびれていく商店街のなかの洋食器店でフォークを買ったときのことを描いている。「私(木村)」はナイフが一本欲しくて閉店セールをやっている店に入ったのだが、店の白髪の老婦人が「フォークもご一緒に」と勧めるので困ってしまう。必要のないものを買いたくないので、ナイフの代金だけをおいて店を出ると、老婦人が「忘れ物でございます」と言いながら追いかけてくる。仕方なく踵を返すと……。

私にフォークを手渡して 深い一例をその人はしまし
た お代金はよろしゅうございます

時々 引出しからそのフォークを取り出して ぼんや
り眺める事があります いつもそれは祈る人の手に似
ていて あさくつぼめた白く長い指と指との透き間か
ら なにか大切な寂しいことが くれる冬の底に静か
に零れ落ちてゆきます フォークというものを 私は
美しい小説のように思います

 老婦人を描写していたことばが、突然、フォークそのものの描写に変わる瞬間がとてもいい。フォークのカーブした形は「祈る人の手に似ている」。「あさくつぼめた白く長い指」の形をしている--そう描写された瞬間、あ、木村にフォークを手渡した老婦人の手だ、と思ってしまう。店の老婦人は祈っている。木村が大切にフォークをつかってくれることを。フォークがいつまでもナイフと一組でつかわれることを。それは、誰のための祈りでもない。何の見返りも求めない、純粋な祈りだ。
 木村の描写は「祈り」で終わらずに、きちんと指の形まで描写しているのがいい。「祈り」と指の形はとても密接な関係にある。人は懸命に祈るとき掌をぴったりあわせる。日本の初期の仏像がそうである。掌がぴったりしっかりあわさっている。日光菩薩、月光菩薩のころから掌を合わせるというより指先を合わせる形に変わってきている。信仰の情熱がすこし薄らいできている。信仰が常識化してきていることが、その手の形、肉体の、どこに力を入れるかという具体的な変化となってあらわれている。
 老婦人の祈りは、祈りは祈りであるけれど、たとえば韓国で沈没した船からどうぞ自分のこどもが助かりますようにという祈りのように真剣で強いものではない。そんな強い気持ちでフォークがいつまでもつかわれますようにと祈られたのでは、それは祈りではなく怨念のようになってしまう。深くお辞儀はしても、あくまで、そっと寄り添う形の祈りである。そういうことをきちんととらえている木村のことばの動きは美しい。
 祈りが、そういうだれかに寄り添うような、いわばはかないかんじのものだからこそ、それにつづいて「指と指との透き間から なにか大切な寂しいことが」「静かに零れ落ちてゆきます」ということばにつながる。大切なことがこぼれ落ちるのは寂しいけれど、もし、何もこぼこない強い祈りだったら、先に書いた怨念になってしまって、やっぱり困る。こぼれていくかもしれないなあ、と思いながら、こぼれていくものを見ている。今は、あの老婦人のように、ナイフとフォークは一組のもの、失われないように大事にしてくださいというような気持ちはどこかへ「こぼれ落ちても」平気な時代になっている。だからこそ、「こぼれ落ちないようにしてください」と祈った老婦人の姿がなつかしく思い出される。
 老婦人を思い出す姿が、とても静かに書かれている。とても気持ちがいい。

 「手拭き」は病院でしりあった山田さんという人のことを書いている。「しかし あれですなあ--」というのが口癖である。「あれ」が何かはっきりしない。はっきりしないけれど、「あれ」で通じてしまう。「わからない」のに「わかる」。

一度だけ山田さんが皆を笑わせたことがある 食事の
前 お茶と手拭きが配られた時のこと たたまれた白
い手拭きを開くと 「これはあれですなあ 手品かま
じないのたぐいですなあ」 そう言って寝ている自分
の顔の上にひょいとかぶせてみせた それはほんの僅
かの間だったのだけど それから程なく様態を悪化さ
せた山田さんは 雨の夜 本当に消えてしまった

 死者の顔にかぶせる白い布。手拭きを見て、それを思い、自分の顔に書けてみた。それをぱっと取ると、手品のように自分が消えている--そういうことを山田さんは考えたのだろう。何を考えたのか書いてはないのだけれど、たぶん、そうだろうと思う。こういうことを思う時、「あれ」は共有されている。ことばにしないけれど、肉体の奥でわかっていることが共有されている。「あれ」は口にしないのが礼儀なのだ。「あれ」は言ってはいけないことなのだ。
 木村は、言う寸前で、そっと引き返している。それがいい。

六月のサーカス―木村恭子詩集 (エリア・ポエジア叢書)
木村 恭子
土曜美術社出版販売
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(29)

2014-04-20 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(29)          2014年04月20日(日曜日)

 「イオニアの」には不思議な「声」が書かれている。ギリシャ悲劇のコーラスの声をふと連想する。

われらは神々の像を破壊して
神々を神殿から追放したが、
それで神々が死んだと思ったら大まちがい。
イオニアのくによ、おお神々はなおきみを愛していなさる。

 「われわれ」はコーラス。「きみ」もコーラスの一員である。その「声」はひとりの「主観」、いわゆる主人公の「主観」とは別の、一種の「客観」である。その「場」で、いまり主人公の主観が動いている「いま」という瞬間に発せられる声ではなく、そういうことがあったあと、それを思い返して語られる声である。
 そこには一種の欲望がある。われわれは神々の像を壊したが、なお神々はわれわれを愛してくれる、神なのだから……という身勝手な欲望、ほんとうの何かがある。その身勝手が神話の主人公を育てる。主役はいつもコーラスの声をくぐりながら、あらわれては、消えていく。
 ほんとうの主役(主語)は、コーラスと主役をつなぐ「欲望」である。このあいまいな何か、固定できない何か、それは次のように書かれる。

時にエーテル的な若い姿の
さだかならぬが 迅い翼に
きみの丘々の上を天翔けりゆくではないか。

 「さだかならぬが」、定かでないものが、定かでないことが、天翔けりゆくのではない。「さだかならぬ」という「動詞」が天を翔てゆく。悲劇の主人公でも、コーラスでもなく、主人公とコーラスを結ぶことばの運動が「主語」なのだ。
 揺れ動く。特定できない。

 カヴァフィスは史実のなかの人物の「声」を独自の音楽で表現するが、その声は特定されているように見えるが、そうではない。何かを否定し、何かを肯定している。矛盾している。
 きのう読んだ「アントニウス」では否定の命令形と肯定の命令形が入り乱れていた。「いさぎよく男らしく」ということばが必要なのは、「いさぎよくなく男らしいない」からである。そういう矛盾、矛盾という形でしか存在しえない「さだかならぬ」そのものが動くので、ひとは、そこから自分の引き寄せたいものを引き寄せて考える。
 カヴァフィスは、そういう世界へ読者をつれていく。
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山田一子『あそぶこどもたち』

2014-04-19 11:13:48 | 詩集
山田一子『あそぶこどもたち』(あざみ書房、2014年03月31日発行)

 山田一子『あそぶこどもたち』は二部にわかれていて、前半の主役(主語)はこどもである。そのなかでは「泥んこ」という作品が好きだ。特に3連目。

おもわず微笑む人がいる
皮膚が思い出している
足指の股からおどり出た泥の
やわらかい つめたさ
泥が乾いてひび割れる
ごわごわした こそばゆさ

 この連は「思い出している」ということばが端的に語っているように、こどもを描くふりをして、おとな(山田)が自分の体験を書いている。書きながら、こどもにもどっている。私は、こどもを客観的に(?)、そとから描写したものよりも、こういうこどもにもどって、そのときの感覚を書いたものの方が好きだ。
 ここに書かれている泥はかなり深い泥である。私の体験で言えば田んぼの泥。田んぼに足をいれると、まさに足の指の股から泥が躍り出てくる。それは一瞬、自分の足の指の股から出てきたのではないかと思うくらいに皮膚に密着している。この感じ--気持ち悪いという人もいるが、私は好きだなあ。泥になった気持ちになる。
 泥が乾いてひび割れる「こそばゆさ」もいいなあ。かさぶたと同じように、はがすときに何か不思議なおもしろさがある。自分の肉体の奥をのぞくような感じ。自分の肉体の奥が盛り上がってはみだしてくる感じ。
 山田は「思い出している」と書いているが、私のことばでは、これは「おぼえている」。おぼえているから書けるのである。
 ほかの詩も「おぼえている」ことを書いてるのだろうけれど、その「おぼえている」が目や耳でおぼえていることなので、なんだか外から観察しているという印象がしてまう。山田の肉体のなかにこどもの肉体がよみがえっている感じがしない。
 この「泥んこ」も、後半は、こどもの「おぼえている」という感じが消える。「おぼえている」というのは「記憶」ではなく、そこにある「現実」がわかる、ということなのであり、それは「客観」とは少し違うことなのだ。

その人の耳が思い出す
帰り着いたとたん 体じゅうが凍りついた
家の人の声
今日もきっと彼らを待ち受けている

その声がもう見えて
かつての泥んこは
にやり と笑う

 泥んこを叱る母の声。厳しい声。この泥んこのこどもたちは家で叱られるぞ、と思い、その叱られる姿にかつての自分の姿がかさなり「にやり と笑う」のだが、この部分がおもしろくない。せっかく皮膚で「おぼえている」ことを思い出したのに、それを「頭」が記憶していること、泥んこは汚いという美意識(おとなの、母親の意識)で洗って整える。その、「論理」の操作が、私の感覚の意見にしたがって言ってしまえば「汚い」。せっかく泥の美しさを3連目で描き、こどもの味方をしたのに(こどもと一体になったのに)、これはないだろう、と思う。

 後半の詩では「本懐」がすばらしい。

紙ヒコーキは背中がかゆい
一直線に風切るくらいでは
かゆみはおさまらず
空中に曲線を幾度もねじり
地べたに背中をすりつけて止まる

 なんだか紙飛行機になったよう感じ。「泥んこ」のときも思ったが、山田は「皮膚感覚」が生き生きしている。触覚が生き生きしている。(この詩も、最後は嫌いなので、全部は引用しない。)
 「無秩序な古書店の蟹」というのもいい。「空中の交錯」もいい。「古書店」の方を引用する。

無秩序な古書店の棚は
どこに宝がひそんでいるかわからない
視線を上下左右に動かすうちに
私は蟹になっていく

先ほどから横に歩き始めているし
泡のような独り言さえつぶやいている
奥まった場所の店主は ことによると山椒魚
お互い素性を見抜かれぬよう
無口にこしたことはない

 おもしろいし、正確だなあと感じるのだが(正確だから、おもしろいと感じるのだが)、ことばが多すぎる。たとえばこの詩では「蟹」と「山椒魚」はいいのだが、それを共存させるための「ことによると」が論理的すぎておもしろくない。「素性」がうるさい。
 で、こんなにうるさいのはいやだなあ、こどもの詩の、ことばが少ない感じ、ことばが何かをつかもうと動いている感じの方がなつかしいなあ、と思う。


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(28)

2014-04-19 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(28)          

 「神 アントニウスを見捨てたまう」はアントニウスの自殺前夜のことを書いている。シェークスピアの劇にもなったアントニウスとクレオパトラ。その、アントニウスが「運は尽きた」と悟ったときの「声」が書かれている。
 何を思ったか、どんな思いがアントニウスのこころを駆けめぐったか。いろいろなことが思い浮かんだだろう。そのなかからカヴァフィスは次の「声」をつかみ取る。

自己欺瞞はやめろ。
これは夢だと言うな。
聞き違いだと言うな。
無駄な希望にもたれかかるな。

 ひとはどんなに絶望的なときでも、もしかしたら……と考える。これは何かの間違いである、これは夢であると思おうとする。そういう思いを「自己欺瞞」という強いことばで否定し、さらに思いのひとつひとつを否定形の命令でつぶしてゆく。
 これは「男」の声である。
 実際に「男」がそういう声を生き抜くことができるかどうかはわからないが、男はそうあるべきだと言われいる「男」のひとつの理想の姿である。

かねて覚悟の男、
いさぎよい男らしく、
一度はこのまちをさずかったおまえらしくだ。

 「男」が繰り返される。「覚悟」と「いさぎよい」が男を決定づける。
 そして、その「覚悟」「いさぎよい」を印象づけるのが短い「音」である。長い文章ではなく、切り詰めたことば、否定の命令形だ。長々と動くものを断ち切って、捨てる。そのリズム、その音楽のままに、最後に否定の命令形は肯定の命令形にかわり、炸裂する。

こころに沁みてあの音をきけ。
しかし祈るな。臆病な嘆きを口にすな。
最後の喜びだ。あの音をきけ。
不思議な楽隊の妙なる楽器をきけ。
そしてさらばと言え。彼女に。
きみを捨てるアレクサンドリアに。

 肯定、否定、肯定とゆらぎながら、最後に肯定で終わる命令形。そのあとの命令ではないことば。その余韻の透明な美しさ。「いさぎよい覚悟」だけが手に入れることのできる余韻。
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豊原清明「はるのしかこさん」

2014-04-18 11:37:23 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「はるのしかこさん」(自主製作短編映画シナリオ)(「白黒目」46、2014年04月発行)

 豊原清明「はるのしかこさん」は「自主製作短編映画シナリオ」と書かれているが、詩として読むとおもしろい。と、書くと豊原に申し訳ないが。

○ タイトル「はるのしかこさん」

○ 3・11

 「東日本大震災の黙祷として、同じ時刻の時計を映す僕。」
声「時代がぶっ壊された時刻と同じ時刻に三年後、再び見つめる。」

○ 震災時刻の時計。
  光りが黄色い。とても黄色い。自然の色であろう。とても、黄色い。
  つぶやく僕の声。荒れた僕の声。
  強い風の唸り声。

 映画ではなく詩と感じたのは「僕」が見つめる時計の描写のなかにことばが反復されるからである。影像や音(声)は持続するものだが、ことばは持続と同時に断絶する。断絶を接続に変えるのは、ふたつある。ひとつは運動の「主語」が一貫する。このとき変化を統一するものとして「肉体」が強調され、そこに持続が生まれる。もうひとつは、反復である。何かが反復されたとき、そこに持続が生まれる。
 光りが黄色い。その黄色いが反復されるとき、黄色が持続になる。状態になる。
 ここに、この持続に豊原は「自然の色であろう。」ということばを挿入している。「自然」ということばで、いったん「黄色」を切断し、そのあとでより強力な接続(連続)に換えている。
 私は、ここで、唸った。
 うーん。
 唸った、と書いて、また唸っている。
 「自然」が「黄色」のなかに飛びこんできて、一瞬黄色を見失う。でも、その「自然」というのは何だろう。私は何を見たのだろう。
 何も見なかった。ただ「広がり」を感じた。野原にほうりだされたような感じ。それをこえて、宇宙にほうりだされたような感じ。何もない。その何もない、ということがすぐに「黄色い」に変わる。「黄色」という定まった色ではなく、「黄色い」。
 私のことばで言いなおすと、「黄色くなる」の「なる」。「黄色である」ではなく「黄色になる」の「なる」が「黄色い」の「い」なのだ。形容詞の語尾、みたい。「黄色」が活用して、用言になっている。
 これが、「自然」なのだ。「自然」というのは「静止した状態」ではなく、動いている運動だ。その動きが「黄色い」のなかに、突然、まじりこんできた。
 3・11、東日本大震災は、まだ、動いている。過去のできごとではないということが、ふいに、わかったのである。東日本大震災の現場に引き戻されるような感じがしたのである。

 このあと、もう一回、不思議なことばが出てくる。

○ 公園の森
声「僕は此処に中学時代、よく来ていた。此処には天然の自然があった。
 今は分からない。」

 「天然の自然」。ここでも、私は、衝撃を受けて唸った。「天然の自然」とは「天の自然」ということだろうか。もしそうなら、さっき引用した「自然」はどういう「自然」なのか。
 区別はない。
 ほんとうは、最初も「天然の自然の色」と書いたつもりなのだろう。そう書かなかったから、あとになって「天然の自然」と補足している。
 「自然」は豊原にとって「天」のものである。
 豊原は「天」と向き合っている。宇宙と向き合っている。ある瞬間、豊原の感覚は完全に開放されて「天」そのものになる。そのとき豊原の目の前にあるものが「自然」なのだ。
 これは私のことばでは、説明しきれない。

 この「天」の感覚は、俳句のあちこちにある。豊原の俳句は、現実をたたきこわし、その破壊の一瞬に「天」を感じさせる。「天」の直撃が現実をまっぷたつにし、その断面に一瞬、何かを感じさせる。「天」が「もの」のなかにはいり込み、内部から炸裂する感じだ。

雪達磨万年布団の上に置く

 ことばはほかに動きようがない。
 何も説明できない。説明が不要であるということだ。「天」が、ここにある。



夜の人工の木
豊原 清明
青土社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(27)

2014-04-18 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(27)          

 「テュアナの彫刻家」は4人のローマの軍人を彫っている。その4人とギリシャの関係はローマとヘレニズムを融和しようとしたのだが、それができなかった--と中井久夫は注で書いている。
 彫刻家はそういう歴史とは少し違うところにいる。彼は自分の仕事に自信をもっている。その仕事が大好きだ。その「大好き」な感じが口調のなかに出ている。

今打ちこんでいるのはポセイドン。
とりわけ海神の馬に凝っている。
ぴったりの形を捜している。
胴体も脚もかろやかじゃなきゃ。
地面を蹴るんじゃなくて
海上をギャロップで駈けるんだものな。

 彫刻家には彫る馬の形が見えている。それが楽しい。ないものが見えるということが楽しい。「じゃなきゃ」「だんもな」という親しい友達に語るような口調の中に、喜びがあふれている。
 芸術家とはいつでもそこにあらわすべき形を先に見てしまう人間のことかもしれない。その理想にあわせて自分を動かしていくことが楽しい人間なのだ。そして、その理想は逸脱していく。軍人をつくる、馬をつくる、ということを越えて、もっと別なものを見てしまう。つくりたくなる。それは自分自身ではなくなるということでもある。

けれどもお気に入りはこれだ。
いちばん気を入れ手を尽くして作った。
暑い夏の日、私の心が高まって
理想が開いて見えたのだ。
これだ。幻が訪れたのだよ、この青年のヘルメス像が--。

 頼まれてしはじめた仕事だが、仕事をしているうちに、彫刻家の技量が依頼された作品だけでは物足りなくなって、その技量が手に入れることができる最高のものを求めてしまう。
 「大好き」というのは、こういうことかもしれない。何かを好きになるとは、こんな具合に余分なことをしてしまうことを言うのだろう。
 この最後の連の「私の心が高まって」という表現は非常におもしろいと思う。こころが高揚しないことには「理想」は見えない。また「理想が開いて」というのも、非常に強いことばだ。「理想」はそこに存在するのではない。「理想」そのものが扉を開いて、その扉の向こうにあるものを見せる。「心が高まって」と自覚しているのが、また楽しい。言わずにいられないのだ。その喜びを。

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バディム・イェンドレイコ監督「ドストエフスキーと愛に生きる」(★★★)

2014-04-17 09:20:52 | 映画
監督 バディム・イェンドレイコ 出演 スベトラーナ・ガイヤー、アンナ・ゲッテ、ハンナ・ハーゲン、ユルゲン・クロット

 ドストエフスキーの翻訳をしているスベトラーナ・ガイヤーのドキュメンタリー。ロシア人だが、ナチスがロシアに侵攻したときナチスの通訳をしたことがきっかけでナチスとともにドイツに移り、そこで生きてきた。複雑な背景があるのだが、それはそれできちんと触れなければならないのだろうけれど、省略。
 翻訳する作業と同時に日常が描かれる。そのシーンが美しい。家族が集まってくる。そのとき料理を作る。孫たちといっしょに野菜を刻む。どれくらいの大きさに刻むか孫たちに教える。切り刻んだ野菜をボウルに入れて手でかき混ぜる。そこに、私はちょっと驚いた。日本だと手ではかき混ぜないかもしれない。木のへら(?)か何かをつかってかき混ぜると思う。手が汚いというのではない。手が汚れるのを嫌うのだ。彼女は手が汚れることを気にしていない。手は洗えばきれいになる。もとにもどる。手は、いつでも何にでもつかえる。彼女は「肉体」をつかっているだけではなく、「道具」をつかわないのだ。
 これは別な料理のシーンでも感じたことである。息子が事故で入院する。その病院へ料理をつくってもっていく。このとき「道具」とはできあいの食品を意味する。彼女は、そういうものを利用しない。自分の「肉体」をつかって何かをつくる。トマトをつかうときもトマトの缶詰などはつかわない。自分で皮をむくところからつくりはじめる。パンか何かも粉をこねるところからつくりはじめる。
 「肉体」でできることは「肉体」でしてしまう。
 翻訳とは関係がないようにみえて、そうではない。「ことば」は「肉体」でつかわないと、ことばにならない。
 すこし肉体ともことばとも関係ないように見えるが、途中で出てくるレースと刺繍の織物が美しい。それは彼女の母がつくったもの。手仕事である。その織物にアイロンをかけながら彼女が言う。布は洗濯をすると織っている糸の向きがばらばらになる。アイロンをかけることで、それをもとの位置にもどすのだという。織物にも肉体があり、それを整え、保てばそれはいままでも美しい。ことばも本来の位置にもどせば美しい。美しく動く、ということと織物を結びつけて語る。小説はことばの織物(テキスト)である。
 自分の「肉体」と、あらゆる「もの」の肉体を正しく向き合わせようとしている。ことばも「肉体」だから、それと人間の「肉体」を正しく向き合わせようとする。
 ことばを正しく動かすためには、肉体を正しく動かさなければならない。そう確信している。それが彼女の思想になっている。
 翻訳の実際も、とても興味深い。彼女は自分では書かない。人をやとってタイプを打たせている。声で翻訳している。相手が聞きとれずに聞き返すこともある。そのときもう一度同じことばを声にする。そして、タイプ原稿ができあがると、今度は別の人に読んでもらう。読むのは音楽家だ。耳がいい。読みながら、彼は翻訳に対して、「ここは変だ」と言う。読みにくい、あるいは聞きとりにくいということを指摘する。ことばは頭の中で意味になるだけではなく、肉体をとおして声になり、その音が耳に入ってきて、ほんとうにことばになる。
 私は音読をしない。自分の書いたものももちろん声を出して読むことはない。目と手だけでことばを書いている。これはたしかにおかしなことだ。私は、昔からカタカナが読めない。何度か聞いて、それが耳に馴染んだものなら、なんとか読むことができるが、初めて見るカタカナは読むことができない。そういう欠点があるくせに、ことばを音として確かめながら書くということをしていない。あ、いかん、と思った。読んで、音を確かめて、それではじめて他人に向けたことばにしないといけないのだと気がついた。(とはいっても、きっと声に出して読むということは、しないだろうなあ。もう声に出さないことが癖になってしまっている。)
 ことばと肉体とに関係することでは、もう一つとても印象的なシーンがある。スベトラーナ・ガイヤーがキエフを訪問する。その列車のなかで、ロシアの車掌がパスポートの点検に来る。彼女はその車掌に言う。「あなたに感謝したいことがある。あなたは私たちが話しているのを聞いて、その話が終わるまで話しかけなかった。これはとても礼儀正しいことである」云々。ことばをさえぎるのは、動いている肉体を邪魔するのと同じ。ことばの中へ別のことばで侵入するのは、他者の肉体をないがしろにすることである。私たちは、ことばが肉体であるとは気がつかない。だから、話の途中でも「ちょっといいですか」と別の用事で割り込んだりする。待てない緊急の場合でもないのに、私たちはしばしばそういうことをする。それはたとえば道を歩いている人を手で押し退けて「邪魔だ、おれを通せ」というようなことと同じだ。声、ことばが割り込むのではなく、肉体が割り込んで、そこで動いていたことばを外へ押し退けてしまう。それはたしかに礼儀違反だろう。
 スベトラーナ・ガイヤーは何度もそういうことを体験しているのだろう。だからこそ車掌の態度に感激し、それをことばにする。ことばにして感謝する。それは、ことばの握手、ことばの抱擁に似ている。とてもあたたかく、とても美しい。握手や喜びの抱擁は何度しても美しい。あたたかい。それはすればするほど、新しい喜びになる。
 同じように、ことばはしっかりと動かせば日々新しい動きをする。正しい動きをするようになる、とスベトラーナ・ガイヤーは信じている。だからドストエフスキーを翻訳しなおす。もっと正しいことばの動かし方はないか、どれがドストエフスキーの肉体を正確につたえることばなのか、と探しつづける。
 ことばに関係する人には、ぜひ見てもらいたい映画である。
                      (KBCシネマ2、2014年04月16日)

詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(26)

2014-04-17 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(26)

 「今は詮なし」は戦争で急襲にあったときの様子を描いたものだろうか。カヴァフィスの詩には固有名詞が多いが、この詩にはその固有名詞がない。ただ状況が書かれているだけである。

だがこれはしまった。前から来ない。
誤報であった。
(それとも聞かずか、聞き間違いか)

 この部分の「声」の書き分け方がおもしろい。括弧に入れずに、そのまま書いても、詩の主人公が思ったことだとわかる。突然のことで、思いが乱れ、状況判断がうまくいかずに困惑していることがわかる。
 括弧に入れたのは、「声」が幾種類もあるということを明確にしたかったためだろう。自分自身を問いただしている。「か」という疑問形の「声」をカヴァフィスは強調している。

天から降ったか地から湧いたか。
こちらに用意がないのを見抜き--暇あらせず--
われらを一掃し去った。

 この最後の部分の単柱(--)ではさんだ暇あらせずもまた別の「声」である。前半の「疑念(自省)」の声とは違い、あとから、あれはこうだったなあと思い返している声である。記号によっても、カヴァフィスは声の違いを書き分けている。
 これはカヴァフィスが書いている詩の主役が「声」であることの証拠になるかもしれない。
 カヴァフィスは美しいイメージとか、新しい思想というものを詩にしたいのではない。人間の声そのものを詩にしたい。声のなかにある人間のドラマ、声のなかで起きている「こと」を書きたいという欲望をもっている。人間のなかにあるいくつもの声が瞬間瞬間にあふれ出て、それがかさなり和音になる。声に違いがあるからこそ、斉唱ではなく、合唱になる。カヴァフィスは、そういう声のおもしろさを書いている。

 中井久夫のカヴァフィスの翻訳は、声とドラマの関係をカヴァフィスが狙っている以上にくっきりと浮かび上がらせているかもしれない。中井は精神科の臨床医だが、その臨床の体験、何人もの患者の声に耳を傾けた体験が反映しているのだろう。中井の耳は複数の声を聞き取り、再現できる耳である。
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浅井眞人『仁王と月』

2014-04-16 13:55:49 | 詩集
浅井眞人『仁王と月』(ふらんす堂、2014年04月04日発行)

 浅井眞人『仁王と月』は、

月の満ち欠けは仁王の呼吸によっている
それは交互に繰り返して
この世で一度も途切れたことがない
阿吽の像は 月の満ち欠けをあらわす
阿形が満ちる月 吽形が欠ける月

 という魅力的な詩で始まる。月と仁王の肉体の呼応、それが阿吽の像によって分かちもたれる。繰り返される「こと」のなかに宇宙がある--そういうことを想像させてくれる。
 「参」は、

仁王が 山に入り老松を抜いたとき
髷が 月にあたった
月は急停止して暗くなった しばらく止まっていたが
仁王が息を吹きかけると 熾った炭のように明度をあげて また動きだした

 「髷が 月にあたった」は一種の遠近感の「誤読」、あるいは視覚の混乱(錯覚)というものだろうが、なかなかおもしろい。「誤読」のなかに「物語」が侵入していく感じがする。しかし、動いているのは仁王だけで月は「動きだした」と書いてあるにもかかわらず、私の印象では動く感じがしない。たぶん「仁王が息を吹きかけると」という動きに対する反応としでしかないからだろう。
 月は、何かからの反応を受けて動くだけというのは、この詩の基本のようでもある。それはそれでもいいのかもしれないが、なんとなくおもしろくない。どんなことにも「反作用」のようなものがあって、何かを変化させると自分も変化してしまうということがおきるからおもしろいのに、浅井の描く仁王は絶対権力のように他者から作用を受けないというのが何かおもしろくない。月が一方的に仁王の影響を受けつづけているだけというのは物足りない。
 読み進むとだんだん違和感が強くなる。月の満ち欠けが見えず、そのまわりで動く「物語」の方がことばで「満ち欠け」と言っているだけのような印象が残る。
 それに仁王のそばにいる阿吽が、阿吽といっしょに動かないのも、どうにも納得がゆかない。
 「呼吸」が聞こえてこない。
 で、「仁王と月」の感想は中止。

 私がおもしろいと思ったのは「石」の「弐」。この石も仁王と関係がないわけではないのだが、「弐」には仁王は直接登場しない。石だけが動く。

ひとつの逃げる石と
追いかけるいくつかの石のために
庭は塀で囲んである
どこからも石が入ってこないように

庭を 石はまわっている
石は 塀のなかをぐるぐるまわり
庭は 黙考している

大きな石を 四つ目垣が囲んでいる
垣を結うことで石は鎮まり
鎮めた石の智恵が 砂の中に輪となってあらわれる
輪は 垣をくぐり 塀にあたって きえてゆく

 「石庭」を描いている。そこでは何も動いていないように見えるが、ほんとうは動いている。その「ほんとう」を浅井は書いている。石、庭、塀、垣、輪がしり取りのように互いを追いかけ、追い抜き、あらわれては消えてゆく。その激しい運動、繰り返される運動が「呼吸」である。繰り返されて「呼吸」は深まり、それが宇宙になっていく。
 私は無教養な人間なので石庭をあまり見たことがない。また、石庭を見ながら自分を見つめたことがない。つまり考えたことがない。黙考した経験がない。
 それでも、この浅井のことばに触れると、石庭を見たことを思い出す。「肉体」のなかに石庭が浮かび上がってくる。
 あ、私が見たのは、こういうことだったのか、と「わかる」。私が「わかろうとしてわからなかったこと」が浅井のことばを追いかけて「わかる」にかわる。

輪は 垣をくぐり 塀にあたって きえてゆく

 この「きえてゆく」が特に印象的だ。消えることによって、姿(形)がより深く見える。意識に刻み込まれる。肉眼に見えている「輪(波?)」はまぼろしである。塀にあたって消える「輪」は、塀のむこうに広がりつづけている。塀があるために見えないだけで、それはほんとうは消えてはいない。「こころの目(心眼)」がそれを見ている。
 この「心眼」をこそ、私は「肉眼」と呼ぶのだが、詳しく説明するとめんどうなので端折って書くと……。
 塀にあたった消えていく輪(波)の前に、あいかわらず塀にあたる輪(波)が見える。その「輪(波)」を見る肉眼の力が、塀の向こうのに永遠に広がる「輪(波)」を見る。もし、手前の「輪(波)」が見えなけれど、塀の向こう(塀が隠している)「輪(波)」は見えない。小石の(砂の)輪を正確に見る力の延長線にしか「幻」は存在しない。

 ことばに置き換えると--正確に動くことばの向こうにしか、「事実」はあらわれない。ことばが正確に動くとき、その動きそのもののなかに「事実」があらわれる。それは「固定したもの」ではなく、「動きつづけること」。
 「呼吸」のように「無意識」に動く「ほんとう(本能)」である。

 仁王と月が、この「きえてゆく」にどう関係しているのかわからないが、ここで動いている「本能」は「ほんとう」である。
 そう思う。




仁王と月―浅井眞人詩集
浅井眞人
ふらんす堂
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