詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(25)

2014-04-16 06:00:00 | カヴァフィスを読む

 「三月十五日」はカエサルが暗殺された日。アルテミドロスが危険を察知して進言したが、カエサルは無視した、という史実が踏まえられている。

わが魂よ、用心だ、栄耀栄華にゃな。
野心を押さえこめないなら
せめて慎重に ためつすがめつ進んでくれ。
上にゆくほど
よっく調べて気をつけにゃあ。

 この詩でも口語(俗語)が効果的だ。口語によって、この詩の主人公がどんな状況を生きてきたかがわかる。周囲にいる人間がわかる。格式張った人間だけではなく、もっと欲望がむきだしのままぶつかりあう場で生きてきたことがわかる。
 しかも、彼は単に俗語だけを生きているわけではなく「栄耀栄華」という熟語を知っている。そういう知識もある。
 ことばには、そのひとのすべてがあらわれるが、詩の主人公は振幅の大きい場で生きていることが、俗語と熟語(文語)によって浮き彫りになる。
 「にゃな」「にゃあ」の使い分けは中井久夫の工夫だが、この声の変化はとてもおもしろい。中井は、単に俗語を詩に取り込むだけではなく、それを「声」そのものとして再現している。「声」とは「肉体」そのものである。「にゃな」と自分自身に念を押したときの肉体のこわばった感じ、「にゃあ」と声をのばしたときの肉体の少し緊張のゆるんだ感じ--そのひとの姿まで見えるようだ。
 実際、中井は、「声」によって「肉体」の描写をし、カヴァフィする詩を補強しているのだと思う。

もしアルテミドロスのたぐいが
書簡をたずさえ群衆から歩みでて
早口で「今すぐお読みを、閣下、
閣下にかかわる重大事項で--」と言ったならば、
絶対やめろ、延期しろ、
演説も業務も。追い払え、みんな。

 後半、「にゃ」というような口語は消える。厳しい口調に変わっていくが、この口調の変化が、とてもおもしろい。
 前半の俗語の口調は主人公の過去(来歴)を感じさせるという意味でドラマだが、前半部分から後半への変化の激しさもまたドラマである。「絶対にやめろ、(略)みんな。」の倒置法も、ドラマの「急」を象徴する。
 ドラマは複数の人物で演じられるものだが、カヴァフィスはひとりの人間のなかで、「声」を変えることよってドラマを作り上げている。
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藤井優子『たがいちがいの空』

2014-04-15 11:58:21 | 詩集
藤井優子『たがいちがいの空』(思潮社、2014年03月31日発行)

 藤井優子『たがいちがいの空』にはいくつかの声があって、どの声がいちばん藤井らしいのか、私にはまだわからない。三つの部分にわかれている。そのうちの「Ⅱ」は「物語」の一シーンという印象がある。
 で、「物語」というのは「現実」とは違うということに特徴がある。現実を描いているのだが、現実そのものではない。この「違い」をあらわすことばを何と言えばいいのかなあと考えていたら……。「はなのあだし」。そうか、「あだし」か。
 私は自分では「あだし」ということばをつかわないので、私の理解している「意味」はいいかげんかもしれないが。「あだし」ということばから受ける印象は、なんとなく、「実がない」というか、嘘っぽいというか、むこうが透けて見えるというか、やくざっぽい感じ。「実がない」ので「実をつくる」。そうやってつくられた「実」が「物語」。
 これは私の「感覚の意見」であって、藤井が「あだし」にこめた気持ちは、私の感じているものとは違うかもしれない。
 私の言い訳を先に書いても仕方がないのだが……。

うつむいているようでした
いえ うなだれていたというか
--そうでしょうか 見事だったのに

 詩は、突然、会話から始まる。そしてその会話には「意見の相違」がある。最初の2行を「私(藤井)」の意見とすれば、3行目は相手の意見。二人の意見に「相違」があるだけではなく、「私」の意見にも「相違」がある。一つに固まっていない。固まっていないとはいっても「うつむいている」と「うなだれている」というのはどこかに共通するものがあって、完全に違っているわけではない。「私」は、なんとなく揺らいでいる。
 この「揺らいでいる」部分へ、相手がぐいと入ってくる。何かがぐいと入ってくる。そして、その揺らぎを突き動かす。もともと揺らいでいるのだから、ぐいと割り込まれたら、それを押し返すこともできずに、動かされてしまう。そうして「私」が「私」でなくなる。それが「物語」になるのだが、もともとしっかりしたものがあって動いていくわけではないので、そこに何かしら「あだし」っぽいものがまじる。
 でも、その「あだし」が、「現実」を越える「現実」かもしれない。だから、ことばは、それをつかみとってしまう。ことばでしかつかみ取れないもののために、「物語」を受け入れる。「あだし」が現実を動かして物語にする--という相互作用がここから始まる。
 「現実」「物語」「あだ」が三位一体(?)になって動く瞬間--そのことばの運動に詩がある、と感じて藤井はことばを動かしているのかもしれない。

 こんな抽象的なことばを並べてもしようがないので、詩にもどろう。

 「うつむいている」のは花。「見事」なのは花。その花を中心に「物語」は動いていく。植物園の暗いところに花が咲いている。

はいったら出てこれないんじゃないかって
そう思って怖かったのに
あの方 平気でかぶさってくるから
目の端で空が切れて
あの花が息を吸ったみたいにふくらんで
まるで女にのぞかれているような気がしました
--咲いた花の傍ですもの 無事にはすみませんよ

 セックスしながら、花を見る。その花はふくらんで大きくなる。「まるで女にのぞかれている」と書いているが、そのとき「私」は花になって自分自身を見ているのだろう。男は「無事にはすみませんよ」は言うのだが、それは「無事にはすまない」ことを「私」が最初から望んでいたからである。うつむいて咲きながら、だれかに「見事だ」と見つめられ、そのこことばが肉体のなかへ入ってくるのを待っていたのだ。

ええ それでわかったんです
花は闇を吐きながら咲いているって
でも だんだん吐ききれなくなってきて
自分の闇に侵されて死ぬんだって

 花は欲望を吐き出しながら咲く。咲くことは欲望を形にすること。このとき「花」は「私(藤井)」そのものである。私(花)は欲望(闇)を吐きながら体を開く(咲く)。欲望は吐いても、肉体は吐ききれない。肉体のなかから欲望を誘い出しつづける。欲望が自分を越えて育っていく。男に犯されて(?)欲望が死ぬのではなく、男と交わり、そこから始まる欲望のために、欲望に侵されて死ぬ。エクスタシー。しかし、その「死ぬ」はことばを換えれば完全な開花である。誰の手も届かない開花。自分にさえも手の届かない開花(エクスタシー)。それこそ「見事」ということばで、そこに「ある」ものとして存在させるしかないものになる。
 これは、もちろん「ことば」でしか存在させることのできない「あだ」であるけれど、それが「ある」ということが「わかった」。「わかる」ために、植物園の花を見て、その花の傍らで、男とセックスをし、男によってさらに花開く女になる。花開きながら、この自分を越えてしまう花によって死ぬ--エクスタシー。それがあるここと、自己を越える何か、自己を死にいたらしめることで生まれる何かがあることをつかみ取る。
 こういう「詩」は「物語」を基盤にしないと花開かないものなのかどうかわからないが、藤井は「物語」を利用しながら、花開かせている。「あだし」にかけている。
月の実を喰む―詩集
藤井優子
花神社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(24)

2014-04-15 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(24)          

 「総督領」には「きみ」という人物が登場する。「きみ」は「総督領」の長官に任命される。それに対して詩人は「それでいいのかい? きみはそれで満足なのかい?」と問う。総督領の長官はだれにでも手に入れることのできる地位ではないのだけれど……。

あんまりだ。
きみは偉大な 高貴な行為のために
造られた人間じゃないか。

 「偉大な 高貴な行為」を「詩人(芸術家)」あるいは「学者」と考えると、カヴァフィスの書いていることがわかる。政治は偉大な仕事、高貴な仕事ではない。これは間接的にカヴァフィスが、自分の仕事は偉大、高貴な行為であるということになるのだが。
 こういうことを正面切っていうのではなく、仲間うちの口語で語るところがカヴァフィスの特徴である。仲間うちの口調であることによって、「政治の高官は偉大な仕事ではない」という認識が仲間のあいだで共有されていることがわかる。カヴァフィスには仲間がいる。カヴァフィスは、一対一の関係のなかでことばを動かしているのではなく、常に他人を含めた関係のなかでことばを動かしている。ことばに自分以外の、他者の認識(過去)を反映させている。そのために、そこで動くことばがドラマチックになる。「いま」を語っているのに、その「いま」に複数の「過去」が噴出してくる。

きみの魂が焦がれ泣くのは別のもの。
地区民とソフィストの称賛だ。
こりゃあ得難い極み。金で測れない値打ちの願いさ。
アゴラ、劇場、月桂樹のかんむり--、
どれもアルタクセルクセスからは得られない。
どもも総督領にゃない。
それなしでどんな人生を送る気だい?

 「魂」が満足するのは、魂が発することばへの称賛である。詩人はそれなしでは生きられない。これは同類(詩人)からの、同類の人間に対する告白でもある。カヴァフィスは自分自身を語っている。自分と「きみ」とを区別していない。それが口調となって表現されている。中井久夫は、そういう人間関係を口調によって訳出している。
 「魂」ということばは、この詩のなかでは抽象的で、何か浮き立って見えるかもしれないが、そういうことばが浮き立つのはまったくの他人の関係のときである。何度も語り合い、親しい間柄なら、抽象的な言語に対しても共通の認識がある。
 カヴァフィスはだれとどんなことばを共有し、だれとどんなことばを共有していないかを識別してことばを動かしている。中井久夫はそれを向き合いながら、詩人のこころのなかで起きている「こと」を描いている。
 「きみ」なしでは、この市も私もさびしいよ、と間接的に語っている。
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田原「田原詩集(現代詩文庫205 )」(3)

2014-04-14 10:42:07 | 詩集
田原「田原詩集(現代詩文庫205 )」(3)(思潮社、2014年03月30日発行)

 詩集の後ろの方に「訳詩」が載っている。田原が訳した詩ではなく、田原が中国語で書いたものを日本人が訳したもの。それを読みながら、そうか、田原の日本語と日本人の日本語はこんなに違うのか、と思った。
 というのは変な書き方で……。
 財部鳥子訳の「汽車が長江を渡る」を読んだとき、私は、そこに漢詩の翻訳の音楽を感じた。財部は田原の漢詩を訳しているのだから、そこに漢詩の翻訳の音楽があると書いたのでは、何の説明にもならないかもしれないが。
 なんといえばいいのだろう。日本の漢詩翻訳の音楽が踏まえられていて、財部の訳は「現代詩」という感じから少しずれている。「古典」っぽい。出てくるものはたしかに「現代」のものが出てくるのだが、ことばとことばが通い合うときの「音楽」がいままでの漢詩翻訳の音楽に似ている。漢詩のもっている、静かな美しさを引き継いでいるように感じられる。
 それは田原の書いている日本語の「音楽」とはまったく違う。田原の音楽はもっと激しい音に満ちている。静かさとは違う音楽が貫いていると思う。
 そのために、これが田原の詩である、と私には感じられない。財部鳥子の詩そのものとして耳に聴こえてくる。

私はずっと立ったまま車窓から見ていた 東を向いて
昇る朝日が長江を赤々と照らしている
水も砂も泥も岸辺の草木も
一艘の船はあたかも陽光と霧だけを満載しているみたいだ

江の中の 重い逆流は
西へと向かい 這いずる愚かな亀のように
私を乗せた列車は轟音を鳴り響かせて橋を越えようとしている
私の未知なる風景へと向かって西へと 走って行く
船の煙突が吐き出す煙の広がりは
天を低くし大地を圧している

船の運命は太陽と同じく
いま西の空 長江の上流に沈んでゆく

 財部の日本語には「開放感」、いや、何か「ゆったりしている」感じ、「ゆるい」感じがある。
 漢詩(定型詩)には凝縮と開放のぶつかりあいがあって、それがとてもおもしろいが、財部は「開放感」を「ゆったり(広がり)」に置き換える感じで日本語にしていると思う。ここには、漢詩(古典)の日本語の印象がずいぶん反映していると思う。
 書き出しの「私はずっと立ったまま車窓から見ていた 東を向いて」の、1字あきのあとの「東を向いて」ということばのほうりだし方が特徴的だ。(もとの詩を読まずに、私は書いているのだから、私の印象はいいかげんなものだが……。)田原が最初から日本語で書いていたら、こういう「広く、ゆったりした感じ」はないだろうと思う。もっと「切断力」が強く、同時に「粘着力」がある。「東を向く」という動詞が、きびしく動く。東を向いているが東へ進むのではないという感じが強くなる。去っていく、去ることを余儀なくされるという感じが強くなると思う。
 財部の訳にはきびしい何かが書けている。中国の古典の詩人たちの「左遷」のときの「感慨」の調子で、この書き出しを訳している。「左遷」なのだけれど、そこには「文学」の夢があるというような「古典」の感じ、静かな音楽でことばを統一している。「照らす」ではなく「照らしている」、「満載する」ではなく「満載している」という、動詞を直接活用させるのではなく「している」と「状態」にして訳出することで、なんというのだろうか、「動詞(左遷する)」を弱めている。弱めることで、そこに「静か/あるいはさびしい」が入ってくるのを赦している。抒情が紛れ込むのを赦している。
 「東を向いて」も「東を向いている」という感じで財部は訳している。この動詞を状態として訳出する感じが、どうも、田原っぽくない。
 「一艘の船」の「一」に田原の強くきじしいこころ、孤独が反映していると思うのだが、財部の訳ではきびしさがつたわって来ない。「一」が行頭にあって、長いことばにのみこまれてしまうからかもしれない。「一」ではなく「満載」の「満」に意識が動いてしまう。「一」と「満」が「対」になりきれず、「満」のなかに吸収されてしまう。

私の未知なる風景へ向かって西へと 走っていく

 この「未知なる風景」が、財部の訳では何か「未知」のもののきびしさを感じさせない。古典の「左遷」では「未知」は「未知」であっても、何かしらの情報があって、それが左遷される詩人に一種の「文学の夢」を与えた。田原の「西へ向かう」とそれとは違うのではないだろうか。田原には、それはほんとうに「未知(まったくわからない)」という状態ではないのか。そのきびしい不安が、財部の訳からはつたわって来ない。

天を低くし大地を圧している

 この天と大地の向きあい方も「している」という「状態(静止)」のことばによって、なにか静かなものになってしまっている。
 うーん、違うぞ、と感じてしまう。

 これは桑山龍平の翻訳でも感じることである。「作品第一号」。

馬と私は九メートルの距離を保っている
馬は木の杭に繋がれ また
馬車につけられて遠い遠いところへ行くが
馬と私の距離はいつも九メートルである

 「保っている」「九メートルである」という動詞の「静止性」が、どうも田原の呼吸とは違うと感じる。

多くの草が枯れてしまっても
馬はまだ咀嚼しながら清い香りを発散している
その清香も私から九メートルだ

 この「発散している」も「静止」だ。この動詞がどうも、私には田原らしく感じられない。
 反対に、「清香」というのは田原のつかっている熟語(?)なのだろうと思うが、その「清香」という熟語には、私は、田原を強く感じる。「清香」ということばを私は知らないが、意味はわかる。「清い香り」(前の行に出てくる)。「清香」と熟語にしてしまうと「名詞」に見えて、静止している感じがするかもしれないが、私にはこのことばは「名詞」ではない。また、静止ではない。
 「清香」を読んで私が感じるのは、「清く香る(動詞)」か、「香りが清い(用言)」であり、それは動いている。静止していない。だから田原を感じる。
 それが「動く」ものであるからこそ、九メートルという動かない距離と「対句」になる。静止していては「対」にはならず、並んでしまう。そこが、田原のことばになりきれていない。
 最初の引用の「九メートルである」というのも「九メートル」が静止しているのではない。動くことで「九メートルを維持する」というのが田原のことばの運動だと思う。「同じ」に見えるもののなかに「動き」がある。
 それが桑山の日本語では出て来ない。

 うーん、と私は考え込んでしまう。

 しかし、私は財部の翻訳や、桑山の翻訳が間違っているとか、悪いといいたいのではない。そうではなくて、ただ、田原が書いている日本語から感じるものと、財部、桑山の翻訳から感じるものは、私の中では一致しないといいたいのである。田原のことばは、「静的」ではなく「動的」である。「動詞」に対する向き合い方が違う思う。
 これはしかし、田原の日本語を知っているから感じることであって、田原の書いている日本語を読まずに、財部や桑山の訳をはじめて読むのだったら、こいう印象にはならないかもしれない。
田原詩集 (現代詩文庫)
田 原
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(23)  

2014-04-14 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(23)          

 「市」は、カヴァフィスの男色の詩である。ここでもカヴァフィスは人間の感情を口語をつかって書きあらわしている。中井久夫は口語を巧みにつかって、こころのなかで起きている「こと」を「動き」として描き出している。

言っていたな「ほかの土地にゆきたい。別の海がいい。
いつか おれはゆくんだ」と。

 書き出しの「言っていたな」の「な」。「な」はなくても意味はかわらない。「な」によって、ことばを思い出しているときのこころの「距離」が浮かび上がる。少し落ち着いてきている。そこに距離があるから、「と」ということばも離れたところにある。倒置法のおもしろさが生きる。恋人が言ったことばよりも、いまそれを思い出しているという「こと」の方に詩の力点が置かれている。書かれているのは、恋人のことばというより、そのことばを思い出すという行為である。
 この詩は、その「思い出す」という行為とともに、去っていった恋人と詩人の違いをことばの調子によって書き分けている。恋人は「おれ」ということばをつかい、

過ごした歳月は無駄だった。パアになった」

 というような俗語をつかう。それに対して詩人は次のように言う。

きみにゃ新しい土地はみつかるまい。

 というような口調だ。「きみには」ではなく「きみにゃ」という砕けた感じ。距離ができたので、少し見下してもいる。

この市はずっとついてまわる。
同じ通りに住んで
同じ界隈をほっつき歩き、
この同じ家で白髪になるだろう。

 「この同じ家」に注目すれば、それは去っていった恋人ではなく、自分自身に向けたことばかもしれない。「ほっつき歩く」という俗語で自分を冷徹にながめている。他人から言われるではなく、自分自身に言い聞かせている。

この市のこの片隅できみの人生が廃墟になったからには
きみの人生は全世界で廃墟になったさ。

 最後の「さ」ということばの、不思議な静かさ。中井のことばの選択の巧みさ。
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田原「田原詩集(現代詩文庫205 )」(2)

2014-04-13 11:08:32 | 詩集
田原「田原詩集(現代詩文庫205 )」(2)(思潮社、2014年03月30日発行)

 きのう、「夢のなかの木」を読みながら、私は「夢の中で 私は」という行を後半の連の真ん中にはさみ、前後を向き合わせて「対句」を強調した。「私」を中心にして前半の2行と後半の2行が向き合う。前半の2行と後半の2行は真ん中の「私」の「夢の中」で出会う。そういう構造がふっと思い浮かんだ。
 「対句」でない場合でも、その構造(精神の運動の形式)は同じなのではないか。
 「春」という作品。

乳房に輪郭を描かせ
風を緑に染め
少女の細い腰をくねらせ
屋根の上の煙突を沈黙させ
替え刃のように木の葉に陽射しを切り裂かせ
一匹の昆虫を私の左目で溺死させ
井戸に映った雲を女に汲ませ
雪だるまが溶ける野原の草を茂らせ
森に自らの木の香が漂う音楽を奏でさせ
年輪に樹木の生長を忘れさせ

 「何かに……させ」という行がつづく。途中に「……し」ということばがあり、最後は「人間が芝生の衣裳を纏うようにする」と「……する」で終わるのだけれど、基本形は「……させ」である。使役の文であるから「主語」が必要だ。「春は」ということばが冒頭に省略されている。隠されている。
 そして、このときの「春は」は世界の中心にある。春は「乳房に輪郭を描かせ」たあと、いったん、最初にいた春の位置にもどる。そしてそこから風の方向に向かい、風を緑に染める。それがおわるとまた最初の位置にもどり、少女の細い腰をくねらせにゆく。
 「春」を円の中心と考えてみると、田原の世界がよくわかる。中心から乳房へ、いったん戻って中心から風へ、また戻って次は少女の腰へ。乳房、風、腰に関連はあるかもしれないが、そこにストーリーを考えるよりも、ストーリーを破壊して、いったん中心に戻って出直すという運動の方が田原の自在なイメージにあっている。
 円の中心に戻って、そこで爆発する。円の円周にまでいって、そこで掴んだものを中心に持ち帰り、そこで爆発させる。そうすると乳房が風になる。風の緑が少女の細い腰になる。そういう運動がある。
 円は平面であることをやめて、立体に、つまり球になり、世界が完成するのかもしれない。
 そして、それが完成したとき、この詩の「対句」は中心の「春」を置くことですべての行に「対句」であるということになる。1行目2行目が「対句」であると当然として、1行目と3行目、あるいは1行目と7行目、1行目と13行目も「対句」なのだ。

 「アンダンテ・カンタビーレ」は数行の連で構成されている。

あなたの顔が浮かんだ朝は 太陽が昇ってくると
消えてゆく 目に輝いていた曙は黄ばむ
門前の樹木は一晩のうちに家の高さを超え
千里の外の川は水嵩を増して帆影と船歌を水浸しにする

朝 見えない年輪は音盤のように
樹の芯で鳴り響く 鷲は人骨を銜えて
太陽へと火葬しにいく 木の股に作られた鳥の巣は
失火する 室内のほら貝の標本から
大きな波音がしぶきを上げる

 「対句」に見えないけれど、「対句」である。1連目と2連目で「朝」ということばが向き合い、「樹(樹木)」ということばが向き合い、「曙」と「太陽」が向き合い、「水」と「しぶき」が向き合う。
 その「中心」にあるのは何だろう。1連目と2連目では「朝」ということばを仮の主語にすることができるかもしれない。しかし、そのあとを読んでいくと「朝」を主語としつづけることは少し難しい。
 「私(田原)」を「主語(円・球の中心)」と考えると、イメージの展開、イメージの「対句」がすばやくおこなわれる。楽しくなる。「私」という中心へ戻ってはまた円(球)のいちばん遠いところまでことばを爆発させる。

満潮になった
私の指はあなたの生命の香りに濡れ
私の夜はあなたの丘の間に沈む
鳥の声が山の脊骨を曲げ あなたを囁かせ
二つの季節にわたって栄えてきた草を枯死させる

 この3連目は性愛(セックス)を連想させる。1、2連目の「朝」から「夜」への時間が逆戻りしているような、奇妙な錯覚に襲われるが(セックスの後に朝が来たのに、朝からセックスをした夜へと時間が逆戻りしているように感じられるが、これは「時間」を過去から未来へ流れるものととらえる「流通概念」に私がしばられているせいだろう。
 田原は朝が来たから朝を描写し、夜を思い出したから夜を描写する。「私」を中心にして、そのとき「朝」と「夜」は「対句」になる。それは「物語」にはならない。「時間」を必要としない。物語の中では「こと」は時間にそって動き、その動きがまた「時間」になるのだが、詩では「時間」は「線」を描かない。円・球になって、すべてをそのなかに取り込む。「時間」は動かず、「時間」の内部で「こと」が向き合いながら濃密になってゆく。

私はあなたの黎明で夜を懐かしむ
露の玉とうすい霧が陽射しに拾われたまま黄昏へ抛られるように
夜であるあなたは私の黎明に到着するのを渇望する
星々と漁火が暗闇を燃やし尽くそうとするように

 これは、この詩の何連目か。何連目であってもいい。「対句」なのだから。すべては中心につながり、その瞬間瞬間、別々の方向に解き放たれることばなのだから。この4行自体のなかにも「対句」が動いている。
 私とあなた、朝(曙)と夜、星(天)と漁火(海/地上)が向き合っているが、この「対」の中心に「私」がいる。
 で、そうすると「私とあなた」という「対」は、正確には「私-中心の私-あなた」という具合になるのだが、これは田原にとっては、書かれてしまった「私」というのはイメージであるということを意味する。私はあなたとセックスをする。私の指があなたの性器に触れる。そうするとあなたの性器が潤う(満潮のように濡れてくる)という「ことば」が「中心の私」から出てきて、円周の「あなた」と向き合う(対になる)「私(ことばとしての私)」になる。

 田原の詩を読んでいると、ときどきイメージが多すぎるという感じがしてしまうが、これは、この「中心の私」と「円周の私(イメージの私)」という二つの私が交錯するからかもしれない。--これは私の「感覚の意見」であって、明確に語ろうとすると難しくて言えない。まあ、メモみたいなものだが……。
 ここで「俳句」の感覚を持ち出すと、「ずるい」ごまかしになるだが……。
 俳句では、「中心の私」「円周の私」ということばの向き合い方はない。「中心の私」は同時に「円周の私」である。ただし、そのとき俳句は「円周」とはいうものの、そこには周辺はない。かわりに「遠心」というものがある。「中心の私」は「求心」という。「遠心・求心」は二つが合体することで存在し、別個には存在しない。「対句」のようにものが向き合うのではなく、俳句では世界が「融合」してしまう。自他の区別はなくなり、溶け合って、「無」になってしまう。
 私は俳句を勉強したことはないが、たぶん俳句の感覚というのは日本のあちこちに根付いていて、その感覚からみると、田原の「対句」はイメージとしてにぎやかすぎるという感じになるのだろう。



石の記憶
田 原
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(22)

2014-04-13 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(22)          

 カヴァフィスの詩には歴史(裏話、逸話)を知らないと何が書いてあるのかわからないものがある。「おっ あの男」もそのひとつ。ルキアノスという詩人が出てくる。「詩八十三篇」を「書いた」ということばがあるので彼が詩人であることはわかる。書きすぎて「詩人は擦り切れ」たということもわかる。けれど、

落ち込む詩人をにわかに救う
一つの閃き。「おっ あの男」
かつてルキアノスが夢で聞いたやつ。

 これが、わからない。中井久夫は注で、「海外いかなる地に行きても人皆汝を指さして『おっ あの男』と言うべく特別の印を汝に付けおきたり」と夢で聞いたために、ルキアノスは文芸の道に進んだ、と書いている。したがってこの作品でカヴァフィスは、ルキアノスは詩を書きすぎて精神が擦り切れているのだが、いま、かつての夢のお告げを思い出し、少し元気になっていると書いていることになる。文学史のエピソードをなぞっている。ギリシャの文学に通じている人ならだれでも知っていることを、語り伝えられるままにことばにしていることになる。それが詩? 
 歴を書いているだけなのに、それが詩になっているのはなぜ?
 詩は「意味/内容」ではないからだ。詩が「意味/内容」ならカヴァフィスは何も新しいことを言っていない。読む必要はない。
 どこが、詩か。
 「かつてルキアススが夢で聞いたやつ。」の「やつ」ということば。口調。それが詩である。口語、それも非常に乱暴なことばである。聞いた「ことば」、聞いた「もの」、聞いた「こと」という意味だが、「やつ」という口調によって詩人が浮かび上がる。性格だけでなく、詩人が暮らしてきた「場」がわかる。どんな人間と交わってきたが「やつ」というひとことでくっきりする。「人間」がわかる。
 カヴァフィスは「事実」を書いているのではなく、その「事実」といっしょにいる「人間」を書いている。中井久夫はそれを読み取り、日本語にしている。

 この詩はルキアノスの「伝説」を描いているという読み方以外の読み方もできる。
 詩を書きすぎて精神がかさかさになってしまった詩人が、街で「あっ、あの男」と思う男にであった。インスピレーションを与えられた。詩の神、恋人を見つけた、その瞬間を描いているとも受け取れる。このとき「やつ」ということばを通って、ルキアノスはカヴァフィスにかわる。カヴァフィスはルキアノスを生きることになる。恋が芽生え、動く瞬間、そこでは詩人は俗語を話し、乱暴に感情をぶつけあっている。
 この場合でも、カヴァフィスは「事実」を描くというより、その「場」の感情の動き、感情があらわれた瞬間を書いていることになる。「意味」ではなく、むき出しになる感情を、「こと」として書いている。「おっ あの男」という口語となって動くこころを描いている。
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田原「田原詩集(現代詩文庫205 )」

2014-04-12 12:50:32 | 詩集
田原「田原詩集(現代詩文庫205 )」(思潮社、2014年03月30日発行)

 田原「田原詩集(現代詩文庫205 )」は、一冊(全作品)を読み終わってから感想を書こうと思っていた。ところが、最初の一篇でつまずいてしまった。全部読み通してからではなく、この一篇にこだわりたくなった。「夢のなかの木」。

その百年の大木は
私の夢の中に生えた
緑色の歯である
深夜 それは風に
容赦なく根こそぎにされた

 3行目の「緑色の歯」。「葉」ではなく「歯」。ここに、つまずく。つまり、私の「流通言語」が否定される。拒絶される。拒絶されながら、瞬間的に、それで「いい」、「歯でいい」と思う。
 歯のイメージが、私の肉体をひっかきまわす。歯のイメージが、私の肉体が何をおぼえているかを問いつめてくる。私の肉体がおぼえているのは……。
 こどもの歯が生えてきて、生え揃うその口を思う。歯が生えてきて、舌が歯にぶつかる。そのころから、こどもの「ことば」は動きはじめる。歯がないと、声はことばにならない。歯という障害物(?)が口の大きさを限定し、そこからことばが生まれてくる--というわけではないかもしれないが、ふと「歯」と「ことば」の関係を思った。「肉体」が「歯」と「ことば」の出合いのなかに引き戻される感じがした。
 歯としての大木。木としての歯。それは何を噛むのか。何に噛み付き、何を食べるのか。空を食べる。風を食べる。風を食べて枝を四方に広げ、空を食べて枝を天にのばす。木は大きな口となり、宇宙を食べる。そうやって、ことばになっていく木。
 動物的な木。
 歯によって、木は植物から動物にかわる。獣に変わる。ことばによって、木は植物から、獣にかわり、人間にかわる。
 私は木が動物だと思ったことはなかった。私のふるさとには大きなケヤキの木があり、私はその木だ大好きだ。それこそ百年の大木なのだが、その木を動物のように見たことはなかった。けれど、動物であるかもしれない。だから、あんなにあたたかい。木に触れると、獣のようにあたたかい--というようなことも、ふと思った。
 それが、夢のなかで、深夜、風にさらわれる。空にさらわれる。しかし、それはほんとうにさらわれたのか。

風は狂った獅子のように
木を掴んで空を飛んでゆく
夢の中で 私は
強引に移植されようとする木の運命を
推測できない

 「強引に移植されようとする木の運命」ということばには「受け身」があり、木はさらわれたのだという印象があるが、「風は狂った獅子のように/木を掴んで空を飛んでゆく」からは、私は「受け身」を感じない。「風」が主語であり、「獅子のように」の「獅子」は風の比喩なのだが、私には木が獅子になり、風のように飛んでゆくと感じに見えてしまう。木と風は「獅子」のなかで一体になり、空を飛んでゆく。そのとき「獅子」は私のイメージでは「ライオン」ではなく「龍」である。「龍」ということばなどどこにも書いてないのだが、私は「龍」を思ってしまう。田原が中国人だからだろうか。
 「強引に移植されようとする木の運命を/推測できない」と田原は書いているが、これは龍になって飛んでゆく木が、どこまで飛んでゆくのか、どこに降り立って暴れるつもりなのかわからないということを、別の形で書いたのではないのか。

 1連目。最初の2行で木が(大地に)生えた、と書く。しかし、その連の終わりの2行では木は根こそぎにされたと書く。ひとつの連のなかで反対の動きが同居している。この反対の動きを「物語」のなかに入れてしまうと、生えている木が根こそぎにされたということになるが、どうも、そんな単純な「時間(物語)」におさまりきれないものがある。「歯」という強烈な比喩が「物語(時間)」を拒絶している。
 反対のものをつなぐ何かが田原の中にある。反対のものがひとつになることで田原をつくっている。
 2連目も、風にさらわれる木がどこに移植されるのかという「受け身」の「物語」にしてまうと落ち着いてしまうが、空を飛ぶと大地に植えられるとでは反対の動きなのだから、それを「物語の経済学」に納めてしまっては、詩を読んだことにならないのではないかと思う。
 「夢の中で 私は」という行を中心に、前半の2行と後半の2行は激しくぶつかりあっている。その激突を「物語」に納めてしまうと、詩が詩ではなくなる。激しいぶつかりあい、そのなかでイメージが叩き壊され、同時にその破壊のなかで何かが誕生する。その誕生を見逃してしまう。
 「夢の中で 私は」というのは何気ないことばだが、これが、この詩のキーワード(キーセンテンス)である。夢の中で田原は、激しい矛盾にもまれ、まったく新しい命を感じている。
 この詩のなかには「夢の中で 私は」が次々と描かれている。これから書く詩の後半は1連が4行で書かれているが、ほんとうは5行である。中央に「夢の中で 私は」が省略されている。そして1連目、「緑色の歯である」も実は、

夢の中で 私は緑色の歯である

 なのである。1連目に「夢の中で 私は」が省略されているのは、直前に「私の夢の中に」があるからだ。夢の中に百年の大木が生えた。それは緑色の歯である、ではなく、そのとき「夢の中で 私は 百年の大木の形をした緑色の歯」であるというのだ。
 木になって、ことばを発する。ことばで宇宙に噛みつく。そして咀嚼し、育っていく大木としての歯。口。ことば。それは、いま、空を飛ぶ龍になって別の土地をめざしている。あたらしい食べ物をめざしている。そういう姿が思い浮かぶ。
 そうすると、これは田原の自画像かもしれない。中国で生まれ、日本へやってきた(やってくる)田原。中国語で育った田原が日本語を食べながら、さらに大きな木になる。巨大な龍になる。どんな龍になれるか、夢想しているのである。夢想はどんな巨大なものでも、同時に不安をともなう。その不安が「受け身」という形にことばを動かしてしまうので、たぶん、誤読する。しかし、ここにある「受け身」は仮の姿だ。ほんとうは激しい「能動」が隠されている。

木がないと
私の空は崩れ始める
木がないと
私の世界は空っぽになる

 この対句は「夢の中で 私は」を必要としていないように見える。しかし、これは「現実」のことではなく「想像」のことである。木と空、木と世界の関係を、心象として語っている。心象は「夢」のようにもの、「現実」そのものではない。

木がないと
「夢の中の」私の空は崩れ始める
「夢の中で 私は」
木がないと
「夢の中の」私の世界は空っぽになる

 夢の中に木がないと、私は崩れはじめ、私は空っぽになる、と田原は言っているのである。詩の経済学が「夢の中で 私は」の重複を拒むのだが、それを未整理な状態にもどすと、私が書きなおしたような形になると思う。
 以下は、このイメージを別な形で言いなおしたものである。

木は私の夢路にある暖かい宿場だ
その梢で囀る鳥の鳴き声を私は聞き慣れている
その木陰で涼んだり雨宿りする人々 そして
葉が迎える黎明に私は馴染んでいる

木が夢の中で消えた後
ケシの花は毒素を吐き出し
木が夢の中で消えた後
馬車も泥濘(ぬかるみ)にはまった

木がないと私は
鳥の囀りに残る濃緑を追憶するしかない
木がないと
私は 木が遠方で育つのを祈るほかない

 最後の連についてだけ書いておこう。もし私(田原)が新しい土地(日本)で百年の大木になれないなら、私は鳥のさえずりを聞きながら中国にある大木(中国での田原自身)を追憶するしかない。もし私が新しい土地で百年の大木になれないなら、もっと違う遠方の土地へ再び「獅子」になって飛んでゆき、そこで育つことを考えなければならない--夢の中で私(田原)はそう思った。そして、このときの木(大木)というのは、比喩であって、それが指し示しているのは「ことば」である。「ことば」は世界に噛み付く歯であり、世界をかみ砕き、のみこむ力である。田原は強靱な歯をもったことばの大木を夢みている。
 田原は「ことば」になりいたいのだ。どこの土地であろうと、「ことば」になろうと考えている。ことばの「百年の大木」になろうと夢みている。
 これは「自己宣言」のような作品でもある。



 歯は中国語ではどんなイメージを持っているのだろうか。ふいに気になって漢和辞典(大修館書店「新漢語林」)を引いてみた。いわゆる口のなかの歯のほかに、齢(よわい)、数、さいころ、たぐい、という意味のほかに、なんと「しるす(記す)。記録する」という意味がある。私は無意識に「ことば」という表現をつかったが、田原が「歯」と書くとき、このイメージが影響しているかもしれない。で、その「記す、記録する」の例だと思うのだが「歯録」ということばがあるもの知った。「集めしるす。書きおさめる。」
 あ、中国人なのだ、と思った。
 こんなところまでふつうはことばが動いていかない。無教養な私は、感想を書き終わって辞書を引いて、そうか、と思ってしまった。(教養のある人なら、「歯」につまずかずに、すぐに「ことば」を連想したかもしれないが。)
 感想を書く前に、「つまずいた」と感じた瞬間に漢和辞典で「歯」を調べれば、もっとちがった感想が書けたかもしれない。きょうの「日記」は書き直した方が読みやすくなるかもしれない。けれど、私は、そのとき感じたことは間違いを含んでいても、間違いをしてしまうだけの何かほんとうのものがあってのことだと思うので、書きなおさない。書き直してしまうと、そのとき感じたことに対して何か嘘をついているように思うので。





田原詩集 (現代詩文庫)
田 原
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(21)

2014-04-12 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(21)          

 「足音」はローマ皇帝ネロと復讐の神フリエスを描いている。前半はネロの描写。

珊瑚でできた鷲が
黒檀の寝台で拝んでいる。
その上のネロは
静穏、幸福、平和なまどろみ。
肉体の盛りのきわみ、
若さの晴れやかな力。

 短いことばが「盛り」を端的に表現する。充実したものに多くのことばは必要としない。「盛りのきわみ」がどんな状態か描写は必要がない。それを見たことがない、見て感じたことがない人間にはいくらことばをつかって描写してみてもわからない。わかる人間にはわかる。それは、男色家が若い男の姿を引きつけられるときの感じだ。ネロをカヴァフィスはそういう視線で見つめている。その肉体の盛りがやがて終わるとわかっているからこそ、その晴れやかさにみとれている。
 この前半に対し、カヴァフィスはおもしろい試みをしている。フリエスを直接登場させない。ネロとフリエスが直接ぶつかれば、力と力のぶつかりあいになってしまう。それでは、ふつうの人間がはいり込む余地がない。感情移入できない。カブァフィスはフリエスを「足音」として登場させるだけで、あとはネロの家を護る神々を描写する。

小さな神々はおののいて
小さな身体を隠そうとする。
神々には聞こえる、恐ろしい音が。
破滅の音が昇ってくる。一段一段近づく。
鉄の足音に階段が上から下まで一つに振動する。
怖れに気もそぞろな家の神たちは
あわてて神棚のうしろに隠れて
押し合い、よろめき、

 ネロの平穏とは対照的である。そして、家を護る神々の恐怖が描かれれば、あとは読者の想像に任せてしまう。
 ネロの平穏が短いことばによって描写されるのに対し、神々の恐怖の描写は長い。この対比もおもしろい。恐怖はこころのなかで起きる。こころは細部へ細部へと迷い込んで行く。自分自身で迷路をつくり、そこから逃れられなくなる。「鉄の足音に階段が上から下まで一つに振動する。」という行は、想像力(ものを歪めてみてしまう力)の姿をはっきりとつたえる。「階段」そのものが振動するというよりも、フリエスが昇ってくると思うと、階段が振動して見える。階段は部屋の外にあるのではない。階段は神々の「こころ」のなかにある。カブァフィスはこころのなかの「こと」を描写する。

カヴァフィス全詩集
クリエーター情報なし
みすず書房
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瀬戸口宣司「呼ぶ声」

2014-04-11 10:32:28 | 詩(雑誌・同人誌)
瀬戸口宣司「呼ぶ声」(「感情」6、2014年03月01日発行)

 瀬戸口宣司「呼ぶ声」も「現代詩」と呼ばないと思う。「歌」という範疇に入るかもしれない。「声」に酔うためのことば。

ぼくを呼ぶ声がする
聞き覚えのある声
あるとき遠い風のなかに
消えていった歳月
その声はぼくの耳をふるわせ
鳥のつばさのように光って
あたたかい存在の唇を教えた

 「遠い風」と言われても何のことかわからない。でも、一瞬、知らない場所(忘れてしまった場所=「あるとき」という漠然としたことばが「遠い」過去を感じさせる)を風が吹き抜ける感じがする。その風のなかでは「歳月」は「消えてい」くしかないなあ。これは「意味」ではなく、一種の「流通イメージ」である。「流通イメージ」を組み合わせたものがきっと「歌」なのだ。「ふるえる」も「鳥のつばさ」も「流通イメージ」であり、そこに登場する「肉体」が「唇」というのも「歌」だからである。「現代詩」なら、「唇」ではなく、もっと「見えない肉体」をぶつける。ことばにすることによってはじめて見える肉体--それがないと、詩にはならない。
 瀬戸口も、それは自覚しているのかもしれない。「存在」という異質なことばをそこに挿入している。「存在」というのはだれもがつかうことばだが、私はここで少しつまずく。「あたたかい存在の唇」というのは、「あたたかい存在」イコール「あたたかい唇」ということだと思う。つまり「存在」ということばはなくても「意味」は同じ。
 いや、違う。
 「意味」は同じに見えるが、何かが違う。何が違うかというと、「あたたかい唇」では、それが「存在している」という意識が少し薄れる。瀬戸口は「存在している」ということを書きたいのだ。力点は「唇」というよりも、「存在」の方に置かれている。「存在している」は「存在していた」という具合に時制が変化する。「遠い風(遠い過去)」には、それは「存在していた」という思いがあるから「存在」ということばがここで動くのである。
 「歌」に隠して、詩を少しのぞかせている。
 「教えた」にも「流通言語」とは少しずれたイメージがある。「教える」という動詞は「だれが(何が)」「だれに」「何を」というひとつづきの運動である。この詩では簡単に言うと「声」が「耳(ぼく)」に「唇の存在」を教えた、ということになる。
 「声が耳に唇を教える」。--こういう文体は、いまでは日常的に読んだり聞いたりするが、かなり変な日本語である。「教える」は基本的に「だれ(人間)」が主語である。ふつうは、こういうとき「ぼくは声と耳をとおして、唇を知った」という具合にいう。「教える」ではなく「知る」。「知る」の主語は「ぼく」。
 瀬戸口は「ぼく」を主語にしないことよって、唇の持ち主である「だれか」を感じさせる。主語を隠して、その主語の方に意識を引っぱっていく。この文体(この技法)は、「歌」か「詩」か……。昔なら「詩」だったかもしれないが、技法というのはどんどん発達してあたりまえになるから(「声が耳に唇を教える」という文体がいまではあたりまえであるように)、まあ、「歌」だろうなあ。

 2連目は「真夜中にぼくは愛を眠らせる/夢のなかの天使とともに」という具合で、あまりにも安っぽい歌謡曲のようでぞっとするし、3連目は「あのときふたりの声が交差した/せわしない感触/濡れてはじけるむなしさと悦び/まわりをめぐる性に/熟れきれない叫びを発した」はスポーツ新聞のセックス描写を少年少女向きに書き換えたような文体だ。(昔スポーツ新聞を読んだ記憶で書いているのだが……。)
 書きつづけると「歌」批判ばかりになってしまいそうなのだが。
 最後の連。

ぼくを呼ぶ超えに目覚めた
あれはいくつかの履歴か
それとも信じたくない
封が切られないまま
戻ってきた幾通かの手紙の人か……
乾いた唇に気づき
ぼくは東京の青い空を齧る

 「履歴」ということばに、1連目の「存在」ということばと同じようなものを感じた。そこで、私はつまずき、つまずく瞬間に、「歌」が一瞬吹き払われ、「詩」があらわれるのを感じた。「履歴」というのは「存在」と同じように「名詞」だが、そこには「肉体」の一連の動きがある。どういう「こと」を「肉体」が経験してきたか。「経験する」という「動詞」が隠れている。そしてこの「経験する」という「動詞」の隠れ方は、1連目の「存在」「存在する」という「動詞」の隠れ方よりも複雑である。
 「存在」は「存在する」という動詞から派生した名詞なのか、「存在する」は「存在」という名詞から派生した動詞なのか、私は知らないが、それはぴったりと重なる。それに対して「履歴」は「経験する」という動詞とはすぐには重ならない。「履歴」は「履歴する」という「動詞」と重なるのかもしれないが、私は「履歴する」とは言わない(そういうことばをつかわない)。「名詞+する」とう形の「動詞」は、もともと奇妙なものだが、その奇妙さは「流通」してしまうとなかなか見えにくくなる。「科学する」ということばが登場したときはなんだか大騒ぎしたような気がするが……。
 あ、だんだん、書いていることがずれていく。
 でも、ずれたまま、さらにずれていこう。
 何かが「流通する」とき、そこには経済学が働く。合理主義といってもいいかもしれない。余分なものを省き、流通しやすくする。「履歴」ということばにも、「流通」のための経済学がある。ことばの経済学がある。
 ひとはいろいろなことを経験する。それは簡単に「経験」と言ってしまえる。ただ、経験ではそれが「単独」に見える。ところが「経験」が複数になると、それをひとは「経験たち」とか「経験経験」という重ねことばではいわなくなる。かわりに「歴(歴史)」をくっつける。「学歴」「職歴」「恋愛歴(?)」。「履歴」の「歴」はそれなのである。つまり「履歴」というのは「経験が」複数あるということを語っている。そういうことにたどりつくまでに、私は、ちょっとつまずくのである。
 瀬戸口は「いくつかの」ということばをつかっている。「履歴」の「歴」のなかに「複数」が隠れていることを知っている。「いくつか」を言いたくて「履歴」ということばを選んでいる。そこに「現代詩」がある。「わざと」がある。瀬戸口は「わざと」履歴ということばをつかい、「歌」を壊している。

 この「歌」を壊していくことばの運動がもっと交錯すると、瀬戸口のことばはおもしろくなる。でも、瀬戸口は、そういうことばの破壊、破壊の一瞬にのぞく何かよりも「歌」が好きなのだろう。
 詩の終わり方は昭和歌謡曲みたいだ。それはそれでいいのだろうけれど。



歳月―瀬戸口宣司詩集
瀬戸口 宣司
アーツアンドクラフツ
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(20)

2014-04-11 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(20)          2014年04月11日(金曜日)

 「単調」は文字通り単調な日々を書いている。

単調な日が単調な日を追う。
どこも違わぬ日。
違わぬことが来る。また来る。
違わない時間が我等を捉え、放つ。

 おもしろいのは「追う」と「来る」というふたつの動詞である。単調な日を単調な日が追いかけるだけではない。単調な日は向こうからもやって来る。何の考えもなく、そういうことを感じたことがある(いまも感じる)と思ってしまうが、時間が過去から未来へ向かって流れるものなら、「来る」という表現は逆流になるからありえない。また未来の「単調な日」というのはまだ存在しないのだから、きょうの「単調な日」がそれを追いかけるということもない。過去を振り返り、単調な過去が単調な過去を繰り返し、それが「きょう」になっている、ということだろう。「きょう」のなかに、単調な過去と単調な未来が見える、ということだろう。
 だが、「時間論」のなかにはいり込むのはやめよう。
 カヴァフィスが「追う」と「来る」という反対の動詞で「時間」をみつめているということに集中してみる。「きょう」のなかには「追う」と「来る」という反対の動きがある。カヴァフィスは何かをとらえるとき一つの「方向」でとらえない。ひとつの「意味」に向かってことばを整えない。むしろ逆だ。一つのものを複数の視点でとらえる。
 矛盾。一貫性がない--これがカヴァフィスの特徴だ。
 「捉える」「放つ」というふたつの動詞が衝突する。それが「いま」という瞬間である。
 カヴァフィスは、これを別のことばで繰り返す。

ひと月にひと月がつづく。
何が来るか ほぼ見通し済み。
昨日と同じ退屈ばかりが来て、
明日が「明日」でなくなる。

 「追う」は「つづく」と言いなおされているが、「来る」は「来る」のままである。「時間」は本質的に「来る」ものなのだろう。自分で積み上げていくよりも先に、どこからか「来る」。そのために自分でつくりだそうとした「明日」は実現されない。楽しいはずの明日は実現されず、退屈な明日が「きょう」になる。「明日」はなく、「きょう」だけがある。
 この作品は詩的興奮、生き生きと動く精神の美しさ、音楽の楽しみというものを欠いているが、その分、カヴァフィスの「思想」と真摯に向き合っている。
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河原修吾「のれん」、永島卓「ひとりひとり」

2014-04-10 12:16:36 | 詩(雑誌・同人誌)
河原修吾「のれん」ほか(「コオサテン」5、2014年04月06日発行)

 河原修吾「のれん」は、どうということのない作品である。「現代詩」とは、いわないかもしれない。でも、そのどうということのないことばについて書いてみたい。

外から
かき分けて
足を踏み入れると
ぬるっとした内の
湿気が肌にまとわりつき
うどんの匂いと
鰹節の香りに

入り交る声が
天井や鴨居や
艶柱に貼りつき
つるつるつるつると
細く太く
絞まる喉を通るや
長いものが永く
重なって合わさる
無上の喜びが
空まで届くひととき

満ち足りた体から
柚子の香りが
するりと抜けるように
かき分けられたのれんは
ゆらゆらゆらゆら
揺れてそよぐ

 どうということのない作品--どころか、いろいろ不備(?)も目立つ詩であるとさえ言えるかもしれない。「無上の喜び」と簡単に言いきってしまうところなんか、それじゃあ詩にならないだろう。「無情の喜び」を「無上の喜び」ということばをつかわずに書くのが詩だろう、と叩いてやりたい気持ちにもなるのだけれど。
 いやあ、でも、これがおもしろいんだなあ。
 このうどん屋、「のれん」が語っているように高級店ではない。街角にある、ありきたりのうどん屋である。で、そういううどん屋というのは、言い方がわるいかもしれないが、おうおうにして少し汚い。
 その汚い感じが1連目の「ぬるっとした」ということばにあふれている。テーブル(カウンター?)も何かぬるっとしている。べたべたしている。まあ、湯気がたちこめるから乾いた清潔さは望めないのかもしれないけれど。そのぬるっとした感じに、うどんの匂い、鰹節の香りが混ざる。この「匂い」と「香り」の絶妙なつかいわけがいいなあ。うどんの香り、鰹節の匂いではないのだ。匂いをぱっと変えるように香りが動く。うどん屋に入った瞬間の感じがするなあ。(3連目に「柚子の香り」というのも出てくるが。)
 2連目の「貼りつき」というのも、ちょっと汚いうどん屋の感じにぴったり。「つるつるつるつる」というのはうどんをするる(のみこむ)ときの感触なのだが、その「つるつる」と店全体の「ぬるっ」が通い合うなあ。うどんだって、ほら「ぬるっ」としている。それが、喉をとおるとき、まるで店全体が喉になったような感じ。店のテーブルとか湯気とか匂いだけではなく、そこにいるひと全部が「ひとつの肉体」になってうどんを食べるという「こと」になる。--まじりあって、区別がなくなる。肉体がうどんを食べるのだけれど、なんだかうどんそのものになって肉体のなかへ入って行く感じもする。
 これが「無上の喜び」。
 無上としか、言いようがない。「空まで届く」喜びの一瞬。何も考えていない「常套句」(流通言語)なのだけれど、この何も考えていないということがいい。「無意味」がいい。うどんを食べる喜びに「意味」なんか、いらない。「意味」は別なときに考えればいい。うどんを食べて、うどんのようにあたたかくなれば、それでいい。
 この喜びは、3連目の「満ち足りた体から/柚子の香りが/するりと抜けるように」、次の瞬間には消えてしまうものかもしれないけれど、それでいいじゃないか。
 こういう詩が、あっちこっちにあふれるようになると楽しいなあ。

 こういう詩の隣では永島卓「ひとりひとり」は、かなりつらいなあ。

どうしてもここでの細長い地であった
長い間「わたし」と言ってしまい
ついに倒れていたのだ
わたしは部分だ
末節だ

 「わたし」と「わたしたち」の関係が書かれている。「わたし」と括弧でくくっているのは「わたしたち」と対比させるためなのだが、「わたし」と「わたしたち」をつくりだしてしまう何事かの「意味」をつきつめていこうとすると、どうしても「部分」「末節」という抽象的な流通言語がことばのなかに侵入してきてしまう。河原の「無上の喜び」ではないけれど、こういう言語こそ、別のことばで書かないと詩にならない。河原のように、「何も考えない」ということを逆手にとって動くことばなら、それもいいけれど……。

またひとりになって
「わたしたち」と叫んでみたはずなのに
きみやわたしは倒れたまま
部分だ未部分だ嘘だ嘘だと叫びつつ
引きもどされて……

 「未部分」が「新しい」のかもしれない。でも、それを「新しい」というには、ことばを内部で動かしている何かがよくわからない。

ふとんととうふ―詩集
河原修吾
土曜美術社出版販売
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スティーブン・フリアーズ監督「あなたを抱きしめる日まで」(★★★★★)

2014-04-10 10:46:38 | 映画
監督 スティーブン・フリアーズ 出演 ジュディ・デンチ、スティーブ・クーガン

 息子の消息を探す母親。息子はアメリカに養子として引き取られた。母親はアイルランドからアメリカまで息子を探しに行く。で、アメリカに着いたとたんに、息子はすでに死んでいるとわかる。
 あ、これではストーリーの展開のしようがない。
 と、思ったらそうでもない。まるで森鴎外の「渋江抽斎」である。「渋江抽斎」は、鴎外の評伝のなかでは、あっと言う間に死んでしまう。このあと、どう書くのか。何を書くのか。
 ほんとうのおもしろさは、ここから。
 ひとの人生は死んだらおしまいではない。死ぬまでは、視線はそのひとに集中してしまうが、死んでしまうと彼のまわりの人間に目が広がる。そして、他人のなかにいる彼が、なんといえばいいのか、非常に豊かである。ひととひととの関係において、ひとはいろいろな表情をみせる。ちがった姿をみせる。それは、そのひとだけに視線が向いているときには見落としてしまう何かである。どうしても、自分とそのひとという関係でしかみることができないからね。
 で、同時に、それはその息子を探していた母親についてもいえる。
 息子を探しているときは、息子を探す母でしかないのだが、息子が死んでしまうと、探すということが微妙にかわってくる。息子を探すというよりも、「時代」を探す、「社会」を探す--からさらに進んで、「生きる」を探すという具合に。
 ジュディ・デンチはいっしょに養子に引き取られた少女(妹)を尋ねて息子の様子を聞く。息子の恋人(ゲイ)を尋ねて息子の様子を聞く。そこで、息子がしっかり自分の幸せをつかんでいたことを知る。笑顔と誇らしげな顔、愛されている悦びの顔。さらにはアイルランドのことを忘れず、つまり母親のことを忘れずに、母親を探していたことを知る。アイルランドの修道院まで尋ねてきていたことを知る。母親が息子を愛しているように、息子はずーっと母親を愛していたということを知る。遺体(遺骨)はアイルランドに埋葬されているということも知る。
 生きているあいだは、遠かった「愛情」が、死んでからなまなましく動きはじめる。息子は死んでいないのに、こころは今を生きて動いている。で、その生きているこころのために、ジュディ・デンチは修道院の嘘を突きつめに行く。何が親子の愛情を引き裂き、その対面を邪魔したのかを問いつめる。このとき、ジュディ・デンチはひとりではない。息子といっしょに生きている。息子といっしょに行動している。
 いやあ、すごいですねえ。ジュディ・デンチの最高の演技。引き込まれていく。
 クライマックス。息子は養子に引き取られ(無理やり養子として里親のもとに引き取られ)、親子のあいだが引き裂かれた--というのではなく、なんと、養子引き取りがビジネスとして存在していた。修道院が未婚の母とこどもを世話するするとみせかけて、養子斡旋で金を稼いでいた、こどもを売っていたということがわかる。そして、それを母親には秘密にしていた。息子にも、母親の情報を与えず、秘密にしていた。そういうことがわかったあとで。
 ジュディ・デンチは、修道院の責任者(?)に対し、「私はあなたを赦す」と言う。「なぜ怒らないんだ」と問いただすジャーナリストに「許しには苦しみがともなう。(私は苦しみを背負っている。その苦しみによって相手を赦す)」と言う。これはまるで十字架を背負うキリストみたいだが--そこには苦しみと同時に不思議な安らぎのようなものがある。赦すということをとおして、ジュディ・デンチは「自由」になっている。息子との関係を引き裂かれた悲しみから解放されている。解放されていると言ってしまうと、ちょっと違うのかもしれないけれど……。
 彼女は、いま、息子といっしょにいる。死んでしまったけれど、息子はいままでよりもさらに鮮明にジュディ・デンチのなかに生きている。その「生」そのものを共有できたから、共有することで愛し合ったから、ジュディ・デンチは修道院のしたことを赦すのである。ジュディ・デンチはいっしょに息子の消息を追ってくれたジャーナリストに「書かないで」と一度は言うのだが、最後には「やっぱり書いて」と言う。ことばのなかで、もういちど母と息子の愛は生きる。生きるだけではなく、永遠に生き続ける。そう気がつくからである。その愛が生きるとき、修道院の犯した罪は死ぬ--と書くと、うーん、なんだか宗教の教科書みたいでいやだが。

 しかし、これは、すばらしい作品だなあ。地味だけれど2014年のベストワンと言ってしまいたいなあ。
 ジュディ・デンチの愛の赦しが声高でないように、すべての影像が実に静かだ。その静かさのなかに、すべてが隠れている。息子がアイルランドを忘れていないということをギネスのマークから探っていくところなんか、とてもいいなあ。ジャーナリストは一度その息子に会っているが、よくおぼえていなというのもいいなあ。何よりも、ジュディ・デンチをただ崇高なひとという感じで映画にするのではなく、あまり教養もないふつうのおばさん(おばあさん)として描いているのもいい。好きな小説は、恋愛大衆小説。読んだストーリーを的確に要約できる。それを楽しく語っているのもいい。さらに、そのおばさんの大衆恋愛小説好みをジャーナリストが「そんな本なんか」とばかにしているのもいい。ジュディ・デンチのことを立派な女性というふうに見ていないことが、逆にジュディ・デンチの演じた女性の美しさを引き立てている。ジュディ・デンチとは対照的なスティーブ・クーガンの演技もいい。
 何も新しいことはない。新しい影像、肉眼では見ることのできない不思議な影像はない。感覚を切り開くような音楽もない。そういう「新奇な何か」がまったくない、ということろがとてもすばらしい。新しい影像も音楽もないのだけれど、ここに描かれた愛の形はけっして古びない。そういう強さがすばらしい。この愛には力がある。
 この映画は、力を与えてくれる。力を実感させてくれるのである。

                        (中州大洋4、2014年04月09日)



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中井久夫訳カヴァフィスを読む(19)

2014-04-10 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(19)          

 「ディオニュソスの取り巻き」はダモンという石工を描いている。大理石を彫る。ディオニュソスを取り巻きを彫っている。群像には「泥酔」「酩酊」「歌」「甘さ」「楽しさ」などの名前がついている。仕事が終われば……。

三タラントン。巨額の報酬
溜まった分にこの足し前。
ゆうゆう暮らせる。マル金だ。

 「マル金」について中井久夫は「一九八〇代前記の本邦俗語。「成り金」ほど非難がましくなく、「リッチ」と同じ軽みがあるが都会らしさに劣るか」と注釈で書いている。この訳語の選択がおもしろい。
 ギリシャの古代に日本の俗語。その組み合わせ。
 中井久夫は、詩を「こと」として翻訳しているが、そこで起きている物理的な「こと」を描くだけではなく、そこに登場する人間のこころの「こと」、こころで起きている「こと」がはっきり見えるようにことばを選んでいる。
 「足し前」ということばと「マル金」ということばが、とてもよく響きあう。不足を補う金--それは、ある意味では半分あきらめていたものかもしれない。それが入ってくる。少しだが、にわかに、手持ちの金が増える。こういうときの悦びは、どうしたって俗語(口語)でなくてはならない。それも流行っている俗語でないとだめ。流行っていることばというのは、「感覚」が共有されていることばということ。共有されていることばをとおして、悦びが広がっていく。
 この金の出所が「美(芸術)」と関係しているのもおもしろい。美的なものと俗の組み合わせ、そこから陶酔が生まれてくるというのはカヴァフィスのことばの運動の特徴だが、それを中井久夫は卑俗な流行語でしっかりとつなぎとめている。

政治に手をだそう。
考えるだけで胸が鳴る。

 金と政治。それは古代のギリシャからの固い結びつきらしい。だれもが知っている「こと」なのだ。卑俗な関係である。そういうものに酔って「考えるだけで胸が鳴る」というこの常套句が、不思議にいきいきしている。
 詩人が自分の個性で磨き上げたことばではなく、そこに流通していることばを、常套句と感じさせずに、口語の奥にある「欲望」そのものをつかみ取る形で動かす。このことばの運動がおもしろい。
 またここには、間接的な政治批判がある。卑近な欲望をさらけだすことで、政治が卑近な欲望を満足させるために動いているに過ぎないという批判が。これは正面切った批判よりも生き生きとしている。カヴァフィスの姿勢があらわれている。

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中島悦子「電車と私」ほか

2014-04-09 10:25:36 | 詩(雑誌・同人誌)
中島悦子「電車と私」ほか(「Down Beat」4、2014年03月31日発行)

 中島悦子「電車と私」は「現代詩」と呼べるかどうかわからない。「現代詩」というものは「わざと」書くものだが、この詩が「わざと」かどうか、わからない。

はる なつ あき ふゆ

幼稚園の帰りにときどき 電車に遅れそうになりました
「まってえ~ まってえ~」
わたしたちは口々にさけんではしります

運転手さんと駅員さんは
にこにこ待っててくれました

はる なつ あき ふゆ

電車にはこころがあって
ほんの少しなら まっててくれました

こどもはピンクの定期です

 昔の思い出が書いてある。
 私がこの詩について何か書こうと思ったのは「電車にはこころがあって/ほんの少しなら まっててくれました」という2行があったからだ。
 なるほどね、こころ、か。
 電車には「こころ」など、ない。だから「電車にはこころがあって」というのは「わざと」書かれたものである。しかし、その「わざと」はふつうの「現代詩」とは逆の「わざと」にみえる。「いま/ここ」にないものをことばの力でつくりだしていくという「わざと」ではない。逆に、「いま/ここ」にあるのだけれど、ことばが流通することによって見えなくなっているものを、「流通言語」を拒否することで思い出させるというような感じである。
 電車にこころなどない。電車が待っているのは、運転士が動かさないからである。運転士が待っている。運転士のこころが電車を待たせている。--というのが現実なのだけれど、そんなふうにして「こころ」を人間だけのものにしてしまうのは、なんというのか、「人間」の押し売りのようにも感じられる。運転士の親切の押し売り。まあ、思いやりなんだけれどね。でも、親切にされると感謝しなければいけない、というような「義務」のようなものが生まれる。これは、ちょっと、違うなあ。中島が書いている「こころ」とは違ったものになってしまう。「流通概念」で幼稚園児の「わたし(中島)」は動いているわけではないからね。
 ちょっと脱線した。
 電車が待っている。これを運転士が出発を遅らせているではなく、電車そのものにこころがあって、電車が待っていてくれるととらえるとき、「わたし(中島)」と電車のあいだに新しい「関係」ができる。「わたし」は電車が好きであり、電車もまた中島が好きなのだ。好きだから、待っていてくれる。その「好き」を幼稚園児の「わたし(中島)」は肉体でつかみとり、ことばにしている。
 「こころ」と書いているけれど、「こころ」ではなく「電車」そのもの、その「肉体(存在)」が好きなのだ。ほんとうは「電車の肉体」と言いたいけれど、これはとうてい「流通言語」にはならない。だから「こころ」というのだ。「肉体」と「こころ」が未分化の状態で、幼稚園児の「わたし(中島)」は好きと感じている。
 正確に思い出させるかどうかわからないが、少し思い出してみるとわかる。(変な日本語だなあ。)こどものとき、誰かを好きになる。何かを好きになる。そのとき「こころ」というものがわかって好きになるのではない。そのひと、そのものの全体(肉体/身)というのもが好きなのであり、そこから「こころ」を抽出することなど、こどもにはできない。そのときの「好き」がここに書かれている。
 「こころ」と書いているが、それは「好き」という気持ちなのだ。

わたしは電車が大好きです。
電車もわたしのことが大好きです。
だから、わたしが「まってえ~」と叫ぶと待っていてくれたのでした。

 先の2行は、そんなふうに読み替えることができる。
 で、その「好き」の気持ちを「わたし(中島)」の方から「もの」として言いなおしたものが「ピンクの定期」である。「ピンクの定期」は「好き」の証明なのだ。証拠なのだ。



 徳弘康代「おとしましたよ」にも、中島の「好き」に似た感じがある。地下鉄の乗り降りの一瞬。

ドアごしに
さしだされる
かたいっぽうのてぶくろ
降りた人が
乗った人に
おとしましたよ と

さしだされた
てぶくろは
持ち主にもどって
右てぶくろと
左てぶくろは
用済みになるまで
いっしょに
いられる

 手袋を落としたひとが手袋が好きだったかどうかわからない。けれど、徳弘は右と左の手袋の組み合わせに「好き」を感じている。ふたつでひとつのものはいっしょにいるのがいい。いっしょにいると落ち着く。そこに「好き」が育つ何かがある。
 誰かが何かを落とす。それに対して「落としましたよ」と声をかけて手渡す。これも「好き」のひとつ。特定の誰かが「好き」というのではないけれど。きっと、ひととひととがふれあって生きているということが「好き」。
 この「好き」は、「いま/ここ(時代)」からだんだん少なくなってきている。中島も徳弘も、その少なくなってきている「好き」を「好き」ということばをつかわずに書いている。


マッチ売りの偽書
中島 悦子
思潮社
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