詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩集「改行」へ向けての、推敲(3)

2016-07-17 22:44:25 | 詩集『改行』草稿/推敲
詩集「改行」へ向けての、推敲(3)

(11)あの部屋の、

本のなかの男に電話をかけたことがある。
呼び出し音がつづくばかりだった。
本のなかの、あの部屋は空っぽで足跡の形で床がところどころ光っている。
光っていなところは乾いたほこりだ。
たったひとつ残されている所有物、電話の音は
「テーブルや使い慣れた食器があったときよりも大きく鳴り響いた」

電話を切ると耳のなかが暗くなる。
本のなかの、あの部屋は夏になる前の光の頼もしさに満ちているのに。











(12)私は黙って聞いている、

私は黙って聞いている、あなたの沈黙を。
本のページをめくり、行をたどる指がとまる。
前のページにもどり首を少し傾ける。
ほほがかすかに色づいてふくらみ、
瞳の明るい色が反射する。
あなたの体のなかの、息を吸い息を吐く音楽。
私がそれを聞いたことをあなたは知らない。
私は黙っている。











(13)消えた

テーブルが消えた
部屋は、一辺の長さが正確になった

あざみの野を越えて
真っ直ぐなひかりが窓から入ってきて
鏡のあった場所のやわらかさにとまどった

舞い上がろうとするほこりの粒粒
ひとの形になろうとするのか

夕方になれば、
星がふたつみっつ散らばって消える











(14)背徳と倦怠

背徳と倦怠がよりそって
ひらがなに満ちた感情をくすぶらせている小説を読んでいたら
ことばが逃げ出した
足裏のしろいくぼみを強調する形で親指が内側にまげられ
無感覚になるかかとと脱力するふくらはぎのあいだ
女の足首のカーブを描写していたことばが

いったい足首のどこに懸想していたのか
どんな意味を内部に隠していたのか今となってはわからない
取り残されたことばたちは
逃亡の夢を嫉妬のように育てはじめる

それにしても逃走したことばの残した断面の、なんと乱反射することよ
磨き上げられた鏡か、神話の中に咲く花のよう。
あやしくつややかな それが怠惰だと
逃げ出したことば以外のことばは気づいていなかった










(15)忘れてしまった

隠し通すためにさらに話さなければならないと思ってドアを開けたのだが、
隠さなければならないという気持ちだけが残っていて、
ほかはすべて忘れてしまった。
女が椅子とテーブルを動かして鏡に映らないようにしているのが見えた。
そんなことはもちろん言ってはいけない。

何かに気がついてしまったということを悟られることと、
気がつくということが伝染してしまう。
ので、後ろ手で閉めたドアの隙間から私は私を逃がす。
のだが、逃げていく私は逃げる寸前に私の背中を見る癖があり、
そのときの目を私は鏡のなかに見る。
そういうことはしばしば起きたので、
鏡のなかでは何もかもがわかってしまっているかもしれない。

わかったからといって得になるものじゃない、と
のどの奥でかすれた声が動いている、
頸動脈をとおって耳の内部をくすぐっている、

私がことばを逃がしてしまって、
私がことばにつかまるのだ。










(16)思い出すだろうか、

自転車が逆方向を向いているのは、
ふたりが別れるからだろうか、
いまここへきて出会ったのだろうか。
ことばはどちらにも加担できる。

しかし、
そこがスズカケの葉が落ちている急な坂道であっても、
と書くのは抒情的すぎる。

二人の横をだれかが本をかかえて通りすぎる。
その人は誰か。
ひとりが顔をそむけると、
突然過去がやってくる。

本をかかえた人が振り向いてみつめのは、
どちらを確かめるためだったのだろう。
ことばはいつか思い出すだろうか。
あるいは、忘れてしまったと嘘をつくだろうか。










(17)破棄された注釈

「積み重ねられた本のあいだに挟まった手紙」ということばはあとからやって来たのに芝居の主人公のようにスポットライトを要求した。

「鍵を壊された引き出し」を傍線で消して、「倒れた椅子の形を残して薄くひろがるほこり」ということばに書き換えようとするこころみがあったような気がした。
「女が、別の女に似てくると感じた」ということばは書かれなかったが存在した。

「タンスの内側の鏡」は「見る角度によって空っぽの闇を映した」ということばになったが、推敲しあぐね、丸められた紙といっしょに捨てられることを欲した。











(18)彼、

彼はいつも二本の鉛筆を同時につかう。
濃くやわらかい鉛筆と薄く硬い鉛筆を重ねて動かす。
二本の線は、はみ出していく輪郭と隠れる影になる。
頬骨顔にひそんでいた欲望は、ある瞬間ははじき出され、別の瞬間はおびえる。
耳は甘い舌のように乱れ、拒絶をなめる唇のように誘う。
眼は他人のような嘘とあからさまな真実を受け入れている。
それは自画像なのか、恋人の肖像なのか。











(19)詩のことば

女が歩いてくる。服が揺れる。
しなやかに光る布が、女の体の動きを少し遅れて反復する。
女の欲望がめざめて
表にあらわれてくるようだ。

詩のことばも、そんなふうだったらいい。

読んだ人のまわりで
ことばが揺れる。
意味をほどかれたことばが
人のおぼえていることを
少し遅れて反復する。
言いたかったことが











(20)二度目の手紙

手紙を書き直すとき、あの部屋を思い出した。あの部屋の、シェードのかかったスタンド。その下にたまっている黄色い色。バニラアイスクリームの縁がやわらかくなるときの感じに似ていた。それは目がもっていた記憶か、手がもっていた記憶か。

三度目の手紙を書き直すとき、黒い男があらわれた。影のように半透明。「夢のなかで牛乳をこぼした、ということばを傍線で消して、夢のなかで沈黙をこぼした、と書き換えなさい」。もうひとりの私だろうか。伝言が消えるとき、哀しみという耳鳴りになった。

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山田由紀乃「窓の外は夜」

2016-07-17 14:05:01 | 現代詩講座
山田由紀乃「窓の外は夜」(現代詩講座、2016年07月14日)

 詩にひかれるとき、全体にひかれるというよりもある一行にひかれ、それだけでその作品が好きになるというものがある。山田由紀乃「窓の外は夜」は、私とにっては、そういう作品だ。

窓の外は夜     山田由紀乃

花屋の店先から溢ふれながら
濡れた舗道を照らしている
ゆりの白ミモザの黄色カーネーションのピンク

鬱蒼とした街路樹をつたい
小雨をよけて歩いた
夕暮れの街角
パーマ屋の二階の画廊はもうそこ

狭い部屋に大きなテーブルがあったり
段差があったり 集まった人が静かに
没後二十年武満徹についての講演を聞いている

肩を寄せ合って座る空間に
陰影深くひっそりとその人が居る

ギターリストによる演奏があった
ビートルズのヘイ・ジュウド武満徹編曲だ

狭い部屋は熱気が立ちこめ
窓を開けて外気を入れた
窓の外は夜 小雨を飛ばして車が走る
ヘイ・ジュウドは佳境にある

ふいに音が近づきわたしを抱きしめた
濃い密度 音は息を吐いたのか止めたのか
長いこと忘れていた抱擁 ひとを愛すること
赤ん坊を抱いた子どもを抱いた友を抱いた
恋人を抱いた母を抱いた

そしてわたしも抱きしめられた
窓の外の夜の音もこの部屋に流れている

 私が好きになった行は七連目の「濃い密度 音は息を吐いたのか止めたのか」。特に「音は息を吐いたのか止めたのか」がとてもすばらしい。音が何かに驚いている瞬間が描かれている。音が自分の音に驚いたのか。音楽を聴いているひとの「呼吸」に驚いたのか。どちらなのかわからないが、音と音楽を聴くものが「一体」になっている。その感じがとてもいい。あ、そうか。音も音楽を聴いているひとの「呼吸」を、感情の動きを聞いているのか。聞きながら変化しているか。そして、その行の強さが、その後のことばの展開を切り開く。(先の行を別のことばで言い直す。)そのときのゆるぎなさが、とてもいい。

 この作品を受講者は、どう読んだだろうか。

<受講者1>「ヘイ・ジュード」なのにジャズが流れている。
      いま/ここにいながら、心がいろんなところに行く感じ。
      音に強いひと、敏感なひとだと感じた。
      「音は息を吐いたのか止めたのか」がいい。
      こんなふうに感じたことがない。
      音への感じが新鮮。
<受講者2>後半がいい。音が聞こえてくる。音楽を聴いている感じになる。
      ただ、前半と分裂している感じがする。
<受講者3>音楽が聞こえてくる。静かだ。
      音楽が山田さんを抱きしめる。いいなあ。
      小さな部屋全体が音楽の空気に満ちている。
      最初の二連があって、夜がある。
      「小雨をよけて歩いた」がとてもいい。
      情景を描くことで、後半への期待感が生まれる。期待感がある。
      説明のようだけれど、「情景」になっている。
<受講者4>幸福感があって、きれい。
      七連目の「抱擁」「抱く」がいい。特に「母を抱いた」がいい。
<受講者3>いいよねえ。
<受講者4>最終連がいい。
      特に最終行「窓の外の夜の音もこの部屋に流れている」が音楽。
      気になったのが「パーマ屋」ということば。
      いま、こういうかなあ。
<受講者3>パーマ屋を書くことで、時間を超える感じ。

 全員が後半に感動している。
 前半は、私も、ひとりの受講者が言ったように、気に食わないのだが、別の受講者が言った「情景」という指摘はすばらしいと思う。
 夜を歩いていく。小さなコンサートに向かう。そのときの「期待感」が、いつもの街をちがったふうに見せる。気持ちが、いつもと違った街を見つけ出す。何気なく素通りしてしまう花屋の花も、一本一本があざやかに見えてくる。それが「肉体」にはねかえってきて「小雨をよけて歩いた」という動きになる。
 あ、美しい。
 他人と一緒に詩を読むと、見落としていたものが見えてくるからうれしくなる。
 ただ、私は「鬱蒼とした」という表現が気になった。「鬱蒼とした」ということばに頼って、街路樹を見ていない。書かれている「意味」はわかるが、何が書かれているのか「具体的なこと」がわからない。
 一連目の「ゆり」の一行と比較すると、その違いがわかる。「ゆり」の行では「具体的な花の色」がわかる。見える。でも、その「意味」はわからない。いや、「意味」は書かれていないが、書かれていないがゆえに「わかる」。美しい、華やか、いきいき……いろいろな感じが花の色の描写から「わかる」。もし、ここに「華麗な色彩のハーモニー」と書いてあれば「意味」はもっと簡単に「わかる」けれど、なんだか「意味」を押しつけられたような感じで、きっと引いてしまう。「意味」を書かないことによって、「わかる」が深まる。読者が、「わかる」という方向へ加担していく。「わかりたい」とのめりこんで行くのだと思う。「鬱蒼とした」では「鬱蒼とした」以外の意味が動かない。のめりこめない。
 同じことは六連目の「ヘイ・ジュウドは佳境にある」の「佳境」についても言える。「意味」が簡単に特定されてしまっている。そこでは作者のことばではなく、「流通言語」が動いている。「説明」が動いている。
 私が感動した「音は息を吐いたのか止めたのか」は、「わかる」けれど、「説明」はできない。私は音楽と聴衆の呼吸が一体になると言ってしまったが、それは私の「誤読/思い入れ/作者の感じていることへの加担」であって、正しいかどうかわからない。「鬱蒼」や「佳境」のように、辞書で引いて、それで「わかる」ということがらではない。
 この「わからない呼吸」のようなものが、そのあとで「抱擁/抱いた/抱きしめられた」と言い直されているのも、とても美しい。「音は息を吐いたのか止めたのか」と書くことで、「説明」にならない何か、だれも語らなかった「真実」が、強く動きはじめる。
 「抱擁/抱いた/抱きしめられた」そのとき、ひとは「息を吐くのか止めるのか」。たとえば、母を抱いたとき、母は息を吐いたのか、止めたのか。山田自身は息を吐いたのか、止めたのか。どちらも一瞬。深い深い、一瞬だ。そのとき、ひとは、音楽を聴くのかもしれない。音が聞こえるのかもしれない。それは、やはり簡単にはことばにできない「音」だろう。
 そういう「音/音楽」が「ヘイ・ジュード」「ギター」「武満徹」を超えて静かに聞こえてくる。
 最終連/行も、とても気持ちがいい。
 楽器が奏でる音、ひとがつくったメロディーだけが音楽なのではない。街にあふれる「ノイズ」もまた音楽である。それはひとがつくった「音楽」を抱きしめるのか、あるいはひとが「音楽」をつくり「ノイズ」を抱きしめるのか。どう語っても同じところにたどりつくかもしれない。すべては「抱擁」する。「抱擁」のなかに、世界が「生まれる」。
 詩を書くとは、何かを「生み出す」ことなのだ。詩からは何かが「生まれる」。 

(次回は8月3日水曜日、18時から、福岡市中央区薬院、リードカフェ、地下鉄「南薬院」そば)    

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。

なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

支払方法は、発送の際お知らせします。


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詩集「改行」へ向けての、推敲(2)

2016-07-16 23:22:28 | 詩集『改行』草稿/推敲
詩集「改行」へ向けての、推敲(2)

(6)そんなはずはない、

くちびる--ということばに出会ったとき、くちびるは指でなぞられていた。窓の外には雨の音がしていた。くちびるの端から中央へ、ガラスをつたう雨のように、指はくちびるを離れまいとしていた。机の上には読みかけの本があった。コーヒーカップがあった。雨に濡れた窓のまだらな光と影がページに落ちていた。そのページをめくるように、指の腹がくちびるを押しながら動くと、声にならない息がもれた。体温に染まった湿り気が、ことばに見られているのを意識しながら、指に絡みついた。指も、見られていると気づいたのか、少しもどろうとする。くちびるの奥からは舌先があらわれて指紋に触れる。
 本のページが、はやく、と指を誘う。
 そんなはずはない。
 指はくちびるの上をすべる。あふれてくる唾液。
 そんなはずがない。
 コーヒーカップの縁を指でなぞりながら、ことばは目をそらす。窓の桟にたまった雨がカーテンを重くしている。まだ五時だ。











(7)窓の下を通りながら、

窓の下を通りながら思い出す部屋にはガラスの花瓶があった。
テーブルの上に半透明な灰色の影があった。
影は明るくなる光とや沈んでいく陰影との諧調をつくるので
私たちはそれを鉛筆でスケッチして過ごした。
(私はやわらかな鉛筆で、あなたは硬い鉛筆で、
あるときは器に水が注がれ
曲面にとおい編み籠の模様が規則正しく映っている、
と言ったのはあなただったか私だったか、
私のなかのあなただったか、あなたのなかの私の知らない誰かだったか。











(8)あの

あのときのあの場所と、あのときのあの場所。
いっしょに書いてしまおう。
あの花をあそこに咲かせ、あのテーブルはなくして。
あの部屋はテーブルを取り除くと
一辺の長さが正確になる。
あの板張りの床に伸びたあの影のかわりに
コップのふちにきらめいたあの光に
あのことを語らせる。
あれは不似合いだし、象徴や比喩にはならないが、
だからこそ事実が濃密になる。
あの手紙の引用の順序もかえてしまおう。
三日前のあの気持ちと二年前のあの気持ちはまじり、
あの私にたどりつける。











(9)ことばは夏の公園を、

ことばは夏の公園を持ち去ってしまった。
きみにあてた手紙のなかでは小さな砂場が白く焼けていた、あの公園を。
図書館の本を盗むような手早さで。
残された場所に沈黙が降った。

ことばはたばこを吸ってみた(と書いてみた。
肺のなかに広がってくる不定形の熱い感触は孤独が泣いているようだ(と書くために。
遠い本棚にある虚構という文字にはすべて傍線が引いてある、
と消しゴムで書き直すために。

ことばは隣の部屋でなっている電話の音をどう描写すべきか考えた。
きみはけたたましさと静寂が戦うのを受話器越しに見ている。
この三連目は詩集に組み込まれるとき消される(消さなければならない、
そう分かっていたけれど。




(9-2)こことばはたばこを、

ことばはたばこを吸ってみた(と書いてみた。
肺のなかに広がってくる不定形の熱い感触は孤独が泣いているようだ(と書くために。
遠い本棚にある虚構という文字にはすべて傍線が引いてある、
と消しゴムで書き直すために。











(10)屈辱を投げつけてやりたいと、

屈辱を投げつけてやりたい、
何時間かかってもいい、
屈辱におとしいれてやりたいと、

棒で打ちのめされる犬を見ているもう一匹の犬。
逃げるところを失ない金網に尻を押しつけて
すべての時間をついやしている。

男は夢中になる。
夢中になる必要がある。
この知らない感情のために。


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廿楽順治『怪獣』

2016-07-16 09:17:47 | 詩集
廿楽順治『怪獣』(改行屋書店、2016年05月20日発行)

 廿楽順治『怪獣』は行端が下の方にそろっている。書き出しがでこぼこの山になっている。形を変えて引用すると、印象が違ってしまうかもしれない。私は目が悪いので、行末をそろえる処理が疲れる。頭をそろえる形で引用する。原文は詩集で確認してください。
 廿楽の作品は、その口調に特徴がある。文体と書かずに口調と書いたのは、「口語」の響きが濃いからである。
 「妖星伊勢屋」を読んでみる。

あの
おでん屋のおやじが
べつの星から来たことは知っていた
毎日引いてくる屋台のなかで
ぐつぐつ煮込まれている
あれら
死の姿をした怪物たち
カレーボールが
なにしろ尋常ではないうまさだ
きみたちは知っておるかな
近所の寝たきり博士は警鐘ならした
われわれの地球も
いずれはあんな風に
ガス星雲の
おつまみにされてしまうのだよ

 「口語」とは「口調」でもある。「なにしろ尋常ではないうまさだ」「きみたちは知っておるかな」「おつまみにされてしまうのだよ」。「文章語」は、こんなふうには書かないねえ。
 でも、その「口調」だけで「口語」というのかなあ。
 まあ、そうかもしれないけれど、私は少し違うことも考えた。
 「文章」というのは、たぶん「事実」を積み重ねて「世界」を描いてみせるもの。「事実」というのは「もの」と「運動」によってできている。「叙事」が世界であり、文章とは一般に「叙事」のことである。
 詩に即して言えば、「おでん屋のおやじ(主語)」が「屋台」という「もの」を「引いてくる(動詞)」という構造でできている。「主語」と「動詞」で「世界」がつくられる。
 「ぐつぐつ煮込まれている」というのは「おでんの具(主語)」が「煮込まれている(動詞)」ということであり、それは「おやじ(主語)」がおでんの具を「煮込んでいる(動詞)」と言い換えることができる。私たちは、変化していく「文章」のなかで「主語」を一貫させながら「世界」の「全体」をととのえていく。
 「もの」に「運動」を語らせ、そうやってできる「世界」を「事実」として眺めている。「おやじ」がいる。「屋台を引いている」「おでんをつくっている」「おでんは、ぐつぐつ煮えている」。これが「もの」が語る「世界」。
 つづらのことばを追っていくと、自然にそういう「世界」が見える。
 で。
 廿楽は、こうした「文章」の基本を踏まえながら、同時に「文章」をはみ出していく。「主語+動詞」という世界の構造を基本にしながら、そこに違うものを書き込んで行く。
 何を書き込むか。
 「感想」を、あるいは「意見」を書き込むことで、「世界」を「事実」とは違うものにしてしまう。
 あ、これは方便で書いている「解説」なので、実際は逆に言うべきなのだが。
 つまり、廿楽は「事実」を書く、「叙事」を述べるというよりも、「感想」や「意見」を世界を描写するのである。
 「なにしろ尋常ではないうまさだ」というのは「事実」とは言えない。つまり「客観的」ではない。「客観的」な「証拠」のようなものを、廿楽は何も書いていない。だしの秘密とか、煮込み方の秘密とか、そういう「レシピ」は書かずに「うまい」と「感想/意見」を書き、その「意見」にあわせて「死の姿をした怪物」ということばがつかわれる。
 「死の姿をした怪物」というのは、厚揚げか、がんもどきか、何かしらないが具体的なものではなく、「比喩」である。「比喩」とは、その「もの」をどう見るかという、感想であり、意見である。感想や意見が「比喩」を支えている。
 「おつまみにされてしまうのだよ」というのは、「事実」でも何でもない。あからさまに言ってしまえば「嘘」である。この「嘘」もまた「比喩」と同様に、感想であり、意見である。

 感想や意見というもののなかには、「頭」で考え抜き、ととのえるもの(鍛え上げるもの)もあるが(一般に「思想/理念」と呼ばれるものだが……)、単なる「肉体」の反応のときもある。「頭」で考え、整理すると「死の姿をした怪物」なんてものはいないのだが、その瞬間の「印象/おもいつき」なら、そういうことはありうる。
 この「ことばにならない」奇妙な印象は、「論理的なことば」を超えて、何か直接「肉体」に触れてくる。わからないまま、納得してしまう。
 これが積みかさなると……。
 「世界」ではなく、そのことばを語った「ひと」の方が見えてくる。
 おでん屋のおやじではなく、そのおやじを見ている廿楽が見えてくる。あるいはおやじを見ている他の人も見えてくる。他人の「意見/感想」も聞こえてくる。ひとの蠢き、よお腹のざわめきが見えてくると言い直してもいい。
 ここから、廿楽は「感想/意見」を「もの」としてあつかっていると言うことができる。つまり、「感想/意見」の動き、衝突を「叙事」にしていると言い換えることができる。
 廿楽は「もの/事実」を書くことで「世界」を見せているのではなく、「感想/意見」を書くことで、廿楽そのものを見せている。
 この「世界」を見せているのではなく、廿楽そのもの、生きているひと(人事?)を見せるというのも、「口語/口調」の特徴だ。
 私たちは(私だけかもしれないが)、だれかと話しているとき、その話のテーマ(内容)よりも、論理よりも、話しているその人そのものに魅力を感じる。ひかれる。話されたことはさっぱりわからなくても、あるいは忘れてしまっても、それを話したひとのことは忘れない。
 「口語/口調」などというものは「論理」ではないから、説明したってしようがない。そして、その説明したってしようがないものが、どうも「世界」のどこかを動かしている。それを、「論理」にしないまま、「口語」のまま「口調」のまま、廿楽は「ことば」にしている。
 そこに「詩」がある。

 そして、この「詩」を、私は「肉体/思想」と呼ぶのである。
 「思想」とは、むずかしいことばで語られる抽象的な論理のなかにだけあるのではない。ことばにできない「口調/口語」のなかに、叩いてもこわれない形で生きている。ひとの肉体そのもの、生きているという「事実」こそ、人間にとって最大の、もっとも重要な「思想」なのだ。

 余分なことを書きすぎたかもしれない。
 廿楽は「感想/意見」から「世界」をあぶりだしている、というだけで充分だったのだろうと思う。「感想/意見」を「叙事」にするという新しいスタイルをつくり出しているというだけで充分だったのかもしれない。
 でも、書いてしまったから、まあ、しょうがない。
 「南海の大決闘」に、とてもいいことばがある。

南海へ
わたしたちは
あのけだものどもの争いをながめにいった
まだ三男が生まれていなかったころ
家族で世界のおそろしさを
おがみにいこうよ
こうふんして見物にいったのだ
世界はばかみたいに
あらそっている
わたしたちはそのばかものどもを
ほんとにばかだなあ、とおがんんでいた
(だって南海だもの)
あったかいいんだもの

 何回も出てくる「ばか」。この「ばか」というのは「論理ではない」(論理的ではない)ということ、なんて、断定してしまうと、また違ったものになるが、ようするにわたしたちが「ばか」ということばで引き受けているどうでもいいこと。「ばか」という瞬間、「論理」を忘れている。「論理」を忘れるだけではなく、「論理」を超えている。そして、一種の「和解」のなかにある。そして、その「ばか」を「事実」にしてしまうのではなく「ばかみたい」という「感想/意見」にすることで、それが「叙事」となって動くのだ。

旅館では

みんな夢中で
じまんの寝技をかけあった
まったくばかみたい
このことは
子孫たちにもそれとなく伝えておこうかな

 「ばかみたい」。そう「感想/意見」をもらしたとき、強い力で結びついてしまう何か。それが、いろんなところに隠れている。いや、あらわれている。「世界」って、そういうものだなあ、と廿楽の詩を読みながら思う。

詩集 人名
クリエーター情報なし
株式会社思潮社
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詩集「改行」へ向けての、推敲(1)

2016-07-15 23:37:32 | 詩集『改行』草稿/推敲
 次に出す詩集のタイトルを『改行』と決めた。作品はまだそろっていない。『注釈』を出版したあと、「戦争法」と参議院選挙行方が気になり、なんとなく詩から遠ざかっていた。そのためだろうか、あまり詩を書いて来なかった。古い作品を含めて、推敲しながら詩集を編むことにした。
 その「過程」を公開します。
 気に入った作品がありましたら、教えてください。「ブログ」のコメント、「フェイスブック」の「いいね」ボタンでの反応を期待しています。
 推敲は、「順不同」で進めていきます。


(1)あの部屋を出て行くと、

あの部屋を出て行くと決めたとき、
四角い窓から背の高い雑草が、遠い遠いところに揺れている雑草が見えた。
背後に何かが光って、横に広がっている。
川だ。
(私は、場所を間違えている
あの部屋から川など見えない。
崖の上に立つコンクリートの家と、目隠しの常緑樹。
朝の一瞬だけ入ってくる光。
川などどこにもない。

あの部屋を出て行くと決めたとき、
最後に思い出したのは冷蔵庫の中のペットボトル。
水が半分、飲みかけのまま残っている。
扉を開けたとき、まわりの壁といっしょに黄色い光に染まるまで、
きっとくらい色をためこんで静かに眠る。
そのせいだろうか、
私の知っている川の水は、どこかで飲み残しの水と出会っていて、

あの部屋を出て行くと決めたとき、
目的地のように誘いに来たのだろうか。











(2)川に沿って歩くとき、

川に沿って歩くとき、
道に迷わないのはなぜだろう。

川に沿って歩くとき、
空が広いのはなぜだろう。

川に沿って歩くとき、
向こう岸が離れて見えるのはなぜだろう。

川に沿って歩くとき、
橋の白い横腹はたまらなく孤独に見えるのに
なつかしいのはなぜだろう。











(3)ゲドヴァンゲン

ボスの駅前では、
「ゲドヴァンゲンへ行きますか?」
バスに乗る人がひとりひとり運転手に尋ねる。
76クローネを握り締めたまま。
「行くよ」ひとりひとりに運転手が答え、
バスの中には知らないことばの数が増えて行く。

ゲドヴァンゲンについてみると、時間だけがあった。
フィヨルド・クルーズのフェリーがつくまですることがない。
滝の音。旗の音。旗のロープがポールを叩く金属音。
滝は、どの滝の音かわからない。
幾筋もの滝の音は澄んだ空気の中にぶつかるが、
反射するものがなくて、光のなかへ消えて行く。

一緒にバスに乗ってきたはずの娘も青年も消えて、
私はカモメにパンの切れ端を投げてやる。
店の人に頼んで写真をとってもらう。
「ありがとう」と覚えたばかりのことばで言ったはずだが、
もう思い出せない。

覚えているのは、午後三時、風が冷たくなってきた。
名前のわからない木の若葉から降りてくる風には雪の匂いがする。
私の知っている雪とはまったく違う匂いだが、
雪の匂いだとわかるのは不思議だ。











(4)いつ決まったのか、

いつ決まったのか、説明してもらえなかったが、たいしたことではない。
自己主張することもないので、黙ってついて行った。
三軒目は新聞販売店で、トラックが夕刊を下ろしていた。
夕刊は印刷されてしまっているがまだ配られていないので、
あとしばらくはニュースらしいニュースもない。
西日が格子戸の引き戸に格子の影をつくっていた。
それが前の男の眼鏡のレンズのなかで小さく結晶している。
他人が見ているものを見してしまったというはずかしさが、
ふいにことばを驚かすのであった。










 (5)再び

私は再び待っている、
ここに座っている。
雨の降る日は、
背のウィンドウを雨がたたく。

後ろから来るひとは
雨粒の向こうに、
私の影を見る。
傷のように開いた黒い影を。

私は待って、
コーヒーを飲んで
声を待って、ここに座って。

私は待っていると
大声であなたを思って、
静かに座っている。
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恵矢『DANCE AGAIN』

2016-07-15 09:00:25 | 詩集
恵矢『DANCE AGAIN』(土曜美術社出版販売、2016年07月21日発行)

 恵矢『DANCE AGAIN』の帯に、新延拳が「公認言語造形家・恵矢が放つ言葉の石蹴り 待望の第一詩集」と書いている。私は「帯」とか「解説」は読まないのだが、「公認言語造形家」という「ことば/文字のつらなり」ははじめて見たので、それが目に飛び込んできた。日本語の文字のなかに、突然「外国語の文字」が入っていると、それが目に飛び込んでくるような感じだな。「意味」は、わからない。
 で、「公認言語造形家」って、何だろう、と思って詩集を読み通してしまったが、何もわからなかった。「造形」というからには形のおもしろさがあるのかと期待したが、「形」はどこにも見つからなかった。私は目が悪いので、もう形が見えなくなっているのかもしれないが。
 かわりに「意味」ばかりが見つかったが、これは見つかったというより、すでに見たものをもう一度見ているという感じ。まあ、「発見」というのは「言語矛盾」のようなもので、すでにそこにあるから見つけることができる、存在しないものは見つけることができないのだから、すでに見たものであってもいいのかもしれないが。

 と、書いたら、もう何も書くことがない。
 こういうとき、私は、どうするか。
 作者の「意図」がどこにあるのかわからないが、そこにあることばを勝手に動かしてみる。
 「たぶん」という詩。

目をつぶると
見えるもの
それしか信じられない

人と話したあと
胸に残るもの
それしか数えられない

生きたあとに
残るもの
それしか見えない

 一連目は聞き慣れた「哲学」。「目をつぶると/見えない」ではなく、「目をつぶると/見える」という「矛盾」に詩がある。
 で、その「詩」というのは……。
 「目をつぶると」とは「目をつぶっても」ということだろう。「つぶっても」というのは「ことば」として長い。その「長いもの/長さ」を気持ちが追い越していく。突き破っていく。早く言いたい。思ってることを、早くことばにしたい、という欲望がそこにある。この、ことばのスピードのなかにある欲望の強さが「詩」ということになる。
 二連目は、一連目の言い直し。「起承転結」でいえば「承」。同じことを違うことばで言い直すと、その「ずれ」のなかに「意味」が生まれてくる。
 「目をつぶっても/見える」。それだけ印象的なもの。「人と話したあと/胸に残るもの」。それだけ印象的なもの。一連目の「見える」は頭のなかに、意識のなかに、つまり「胸のなかに」見えるもの。
 「印象的」は「残る」ということば(意味)となって生きている。
 この「残る」が三連目でも繰り返される。
 どこの残るのか。やはり「胸」だろう。意識だろう。だれかが「生きて/つまり死んだあと」何かが「残る」。「この世」になのかもしれないが、「この世」というのは、生きているひとの「胸(思い/意識)」だろう。
 三連目は「起承転結」の「転」ではなく、「承」をまた繰り返した感じ。「起承承」とことばが動いている感じで、おもしろくない。一連目を動かしていたことばのスピードもない。詩を書こうとする意識だけが「ねばねば」している。重たくなっている。

 このあと、ことばの展開の仕方がかわる。「起承転結」の「転」である。

言葉へのこだわりはないが
言葉になる前のものが
蹂躪されるのなら
わたしはたぶん
狂ってしまう

 「言葉になる前のもの」とは何か。
 この作品では「目をつぶると/見えるもの」「人と話したあと/胸に残るもの」「生きたあとに/残るもの」ということになる。
 「目をつぶると/見える」というのは「矛盾」。「矛盾」というのは、ことば(意味/論理)にならないということ。だから「言葉になる前のもの」と言い直されているのだが、こんな「抽象的」なことは、「意味」になりすぎていて、「詩」ではない。言い換えると「肉体」を刺戟してこない。
 「目をつぶると/見えるもの」ではなく、実際にその「もの」を書かないと、その「論理」は頭のなかで動くだけ。「算数」になってしまう。抽象化せずに、「目をつぶると/見える」何か、美女でも、風でも、闇でもいいが、それを「視覚」以外のものであらわさないと、書かれていることが「肉体」にならない。
 「言葉になる前のもの」を「未生のことば」と言い変え、それをさらに「未分節(無分節、と一般的には言うのだが)」の世界と言い換えると、ここに書かれていることは、いまはやりの「言語哲学」に通じていくのだが。

蹂躪されたなら

 あ、そう書く詩人が、その「言葉になる前のもの」を「蹂躪」している。踏み潰している。踏み潰して「意味」を「抽出」している。
 なぜ、「蹂躪」しているか。
 「言葉になる前のもの」というのは、「目をつぶると/見えるもの」「人と話したあと/胸に残るもの」「生きたあとに/残るもの」ではないからだ。
 「残るもの」はいつでも「分節」されたもの。「ことばにされたもの」(分節されたもの)である。言語化/分節化されることで「印象」が強くなり、その「印象」が「肉体」に刻まれて、傷となって「残る」のである。その「傷」が詩なのである。
 「分節」の仕方によって、「傷」が違ってくる。つまり、そこにあらわれる「詩」が違ってくる。
 「言葉になる前のもの」は「残る」のではなく、いつでも、そこに「ある」ものだ。
 先に、「抽象的すぎて意味になりすぎている」と書いたが、あれは、正確ではない。「抽象的すぎて、作者の頭のなかで簡単に意味になって完結してしまっている」ということ。作者の頭のなかでの「完結」は、作者にとっては「完璧」だが、読者にとっては「意味を成さない」ということもある。

わたしはたぶん
狂ってしまう

 の「狂う」という動詞は否定的な意味でつかわれていると思うが、作者の頭のなかの「完璧な完結」よりも、作者が「狂う/狂い」と呼んでいるものの方が、「真実」ではないのか。「言葉になる前の真実」、「言葉になろうとする真実」ではないだろうか。

 この詩の「起承転結」の「結」の二行。

なんて
ばからしい

 読みながら、あ、これこそ私の感想と思った。「なんて、ばからしい」。
 私は「公認言語造形家」ではないから、私の読み方は間違っている(非公認)のものということになるのだろうが、私はもともと「公認」なんかされたくないから、関係がない。詩は「公認」されるようなものではないだろう。だれにも認められいな何か、はじめてことばになって生まれてくるものが詩であり、「公認」されたら、それは詩ではなく「知識」になってしまう。
 もしこの作品に「詩」(「言葉になる前のもの」が「ことば」として「生まれてくる」力)があるとしたら、最初の「目をつぶると/見えるもの」ということばのスピードだけである。でも、それはすでに多くの人が書いて「抽象的真実」になってしまっている。

DANCE AGAIN
恵矢
土曜美術社出版販売
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廿楽順治『ハンバーグ研究』

2016-07-14 10:13:45 | 詩集
廿楽順治『ハンバーグ研究』(改行屋書店、2016年06月30日発行)
 
 廿楽順治『ハンバーグ研究』は『怪獣』と同時刊行。どちらを先に読むか迷った。『ハンバーグ研究』の印刷字体が「視覚」を刺戟してきたので、こちらを選んだのだが……。
 この詩集の印刷字体は、古い本で見かけた字体。ざらざらの紙に印刷された文字。インクがかすれている。インクが活字の角にたまって滲んでいるところもある。そういう字体。
 私はどんな詩でも、そこに書かれている「ことば」を動かして読むので、動かしにくい形で書かれていると、そこでつまずいてしまう。
 この詩集のことばは、動かしにくいのである。インクのにじみ(角からのあふれ)とかすれが、矛盾していて、それが「肉体」のなかを通ると、とても粘っこい感じ、粘着力を発揮し、それにひっぱられる。つまずくだけではなく、前へ進めない、後ろへひっぱられるという感じかなあ。感じたことを書こうとすると、ことばが「へろへろ」になってしまう。
 つまずくこと、大地に触れて、一瞬歩行から逆戻りする感じ、その瞬間に「詩」はあるのだと思うが、どうも、うーん。動かしにくい。
 紙のざらざらと、活字そのものの古くなった感じ、エッジが欠落している甘さ、インクの粘るしつこさが、どうもつらい。重い。「肉体」の内部が重くなる感じがする。

 長い前置きになったが。以下は、その「へろへろ」の実況中継ということになるかな?

 「重い」という感想で前置きが終わったので、「重い荷物」を引用してみる。(原文は「正字」で書かれているが、ワープロの都合で、「常用漢字体」にした。原文は詩集で確かめてください。)

重いにもつをもつて。
わたしはずつとやつてきた。
そこはみんな読みとばされてしまうだろうな。
桜木町から、
居留地の駅まで。
その間もそれはずつと重かつたが、
どうせ隠れてしまう。
重いにもつは、人生の事件だということで。
駅の自動販売機を開けて、
ジュースを交換していた労働者。削除。
向うからやつて来る中年。削除。
わたしもやつてきた。削除。
重さは確実に運ばれている。
まつたくにもつさ。

 「荷物」を「にもつ」と書いた瞬間から、「荷物」が「固形物」ではなく「不定形の、あいまいな輪郭」になる。それが、「肉体」にのかししってくる。「点」ではなく「面」としてへばりついてくる。
 このへばりつく感じ、「肉体」が「面」になった「にもつ」の「面」に触れる感じというのは、どうもよくない。それが「ずつと」なら、もっといやだ。
 「持って」「ずっと」「やってきた」ではなく「持つて」「ずつと」「やつて」と「つ」の文字が大きいと、その接触面まで大きくなってはりつくようで、重たくて、気持ちが悪いなあ。
 それは「にもつ」をもっているひとには深刻な問題だが、荷物を運ぶ必要のない人間(読者)には関係がない。三行目の「読みとばす」とは、そんな感じかなあ。読者にとって、問題なのは「荷物」の行方(結論?)であって、それを運んでいるひとの「肉体的感覚」と、たいてい読みとばされる。
 でも、私はどちらかというと「荷物」ではなく、「にもつ」を運んでいるときの「肉体的感覚」にこそ、思想(詩)があると考える。他人の「結論/荷物の行方」、どうでもいい。みんな(私だけかもしれないが)、自分のこと「結論」で手一杯だから。(私は私の結論については考えるが、他人の結論の面倒までみたくない。)
 「読み飛ばしたい」のだが「読み飛ばす」ということばにつまずいて、私は、そんなことを考えながら読んだ。私は「読み飛ばしたくない」というか、「読み飛ばして」と言われる部分にこだわってしまうのである。
 で、こだわってみると……。
 この「読み飛ばされる」は、「隠れてしまう」と言い直されているように思う。「読みとばす」のは「読者(私)」。その結果、読者が「読み飛ばしたもの」は、筆者の「読みとばされたもの」になるのだけれど、「読み飛ばされたもの」は、どこかに忘れられてしまう。これを「隠れる」という「動詞」で言い直しているところがおもしろい。どこに隠れているかというは、「にもつを運んだひとの肉体のなか」、同時にそのことばを読んだ読者の「肉体のなか」ということになる。「肉体のなか」だから、見えない。「見えない」から「隠れている」ということができる。
 「隠れて」、いつかまたあらわれることを思ってるだろうか。「隠れる」がねばっこい、しつこい感じを刺戟する。いつかよみがえってやるぞ、と言っているように思える。繰り返される「ずつと」よりも、ずっとしつこいとも思った。
 「肉体の奥に隠れる」思想だ。

 で、この「重いにもつ」が最後で「重さ」に変わっているね。
 これは廿楽がテーマとしているのが「荷物」ではなく、「にもつ」を「もつ」ときの「肉体」の感覚であることを語っていると思う。
 読者が「読み飛ばし」てしまう「にもつを運ぶひとの肉体感覚」。それこそが詩なのだと最後に言い直しているのだが、明確な論理にせず(?)、

まつたくにもつさ。

 と、口語で終わるのがいいなあ。口語は論理の径路をふっとばして、「本質」をつかみとる。「リズム」のなかで「本質/思想」になるといえばいいのかもしれない。


化車
廿楽 順治
思潮社
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永方佑樹『√3 』

2016-07-13 12:51:29 | 詩集
永方佑樹『√3 』(思潮社、2016年06月20日発行)

 永方佑樹『√3 』の「√3」は「ルート3」。「√」のなかに「3」を入れたまま表記できないので、こういう表記になった。
 日本語の表記文字は「ひらがな」「漢字」「カタカナ」と三つある。その組み合わせ方に配慮して書かれた詩、ということになっている。サイン、コサイン、タンジェント、その総合というような「数式」で組み合わせ方が書かれているが、そんなことを言われても、わからない。「√3」というのは直角三角形(直角以外のふたつの角が30度、60度)の長い方の直線(30度と90度を結ぶ線)だったかなあ、ピタゴラスの定理だったかなあ、と記憶を振り返るが、それ以上はわからない。わからないことは、わかったふりをしないで感想を書く。つまり、永方の意図は無視して、私は私の読みたいままに読む。
 「ひらがな」の詩が、古典的(?)でおもしろい。ほんとうのタイトル(?)ではなく、詩の末尾のタイトルで引用すると、26ページの「はるけぶり」の書き出し。(ところどころ「漢字」のルビがあるのだが、表記できないので省略。詩集で確認してください。)

ひと も こと もよいどれ、ゆめ もろともまどろむあけがた、
くすんだかぜ鳴りはあわく ぬくもり、うすまる

 音がゆらぐ。ゆらぐことで、次の音を引き出している。「意味」はよくわからないというか、「意味」を考える気持ちにはなれない。あ、この音のつらなりかたは気持ちがいいぞと「肉体」が反応する。
 強引に「理屈」をつけると一行目は「も」の音がとぎれとぎれにでてくる。「もよいどれ」は「も よいどれ」の方が読みやすいのかもしれないが、「もよいどれ」とつづけることで逆に「も」があるんだぞ、と教えてくれる。「もよい」じゃないんだぞ、と「肉体」がひっかきまわされる。で、ひっかきまわされた「肉体」が「ま行」を探し出す。
 「ま行」がみつかると、「ろ」も見つかる。
 つづいて「た行」も見つかる。
 この「見つかる音」の「見つかり方/見つけ方」というのはひとによって違うだろうけれど、私の場合は「も」「ま」「ろ」「と」という感じ。
 で、このあと「ろ」と「と」、「ら行」と「た行」が、なんとも言えず気持ちよくなる。
 私は富山の生まれで、小さいときは「富山弁」。
 ひとによって違うのだが、友人に「た行」と「ら行」が似かよったひとがいた。「じてんしゃ」を「じりんしゃ」と言う。彼は「え」と「い」も似かよっている。(「いろえんぴつ」を「えろいんぴつ」と言う田中角栄みたいな感じ)。「ら行」を「R」ではなく「L」で発音するからだ。親類に「新潟県人」がいるのかなあ。
 私は巻き舌の「R行派」なので、「L行派」の音が気になったのかもしれない。
 で、その「た行」「ら行」がつづくときなのだが、「よいどれ」「まどろむ」の場合、私はどうしても「R」の音になる。「じりんしゃ」の友人は、どうかなあ、とちょっと思ったのである。特に「まどろむ」は、私は「L」で発音するのは、かなり意識しないとできない。「R」だと気持ちがいい。
 そういう「どうでもいいこと」が「肉体」のなかで、動き回る。「音読派」ではなく「黙読派」なので実際には口を動かさないのだが、無意識に舌やのどが動いていて、ここの部分、気持ちがいいと感じる。
 母音の動きも、内にこもった感じが、おもしろいなあ。「あけがた」という「あ」の響きが強い開放的な音もあるけれど、一行目は「お」が手をつなぎあっている。二行目は「う」の音がつながっている。「音」が「意味」よりも優先して、かってに(?)動いていく感じが、とても気持ちがいい。
 この「音」はおぼえているぞ。読んだことがある、聞いたことがあるぞ、という安心感といえばいいのだろうか。

 漢字が主体の「南無妙法蓮」の32-33ページ。

                        上野公園の目盛は濛々、
汗と糞尿の匂いが忽ち、下水の臭気と立籠め駆込み、蓮見茶屋で雨止みを待つ。

 ここで、私は「漢字」ではなく、つまり「表象文字」ではなく「音」に反応してしまう。「たちまち」「たちこめ」「かけこみ」、「あめやみ」「まつ」。一種の「しりとり」がある。「韻」がある、と言えばいいのかな?
 眼が悪くて引用を省略してしまうのだが「胡座を斜めに崩して伸ばす脹脛(ふくらはぎ)の丸みは汗を絡み。」の「あぐら」「くずす」「のばす」「ふくらはぎ」の濁音のつながり、「まるみ」「からみ」の脚韻の呼応も、「肉体」を刺戟してくる。
 この「音」を聞いたことがあるぞ、と「肉体」が言うのである。
 もちろんどのことばも「日本語」だから知っている。聞いている。しかし、それでも「聞いたことがあるぞ」と感じるのは、言い直すと、あ、これを「声」にしてみたいという欲望が私の「肉体」のなかで動いているということである。
 知っている曲ではなくても、はじめて聞く曲でも、聞いてすぐにハミングで追いかけたくなるような音楽がある。それに似た感じと言えばいいだろうか。
 永方は「音」でことばを書くひとなんだ、と思った。

 カタカナ。あ、私はカタカナ難読症。読めないのだが、「トウキョウ・デコラティブ」の書き出し56ページ。

ガンマ、ゼータ、デルタ の
ロゴスとロジックでデフォルトされた
ポストモダンコンクリートを
キャラメリゼされたコハクのプリズムが
スラッシュのスペクトルで照らしている

 「ロゴス」「ロジック」、「キャラメリゼ」「プリズム」、「スラッシュ」「スペクトク」という「音」の響きあいとは別に、「ひらがな」に気づいて、私は、はっとする。いや、椅子から転び落ちそうになるくらいに驚いた。
 「ひらがな」はまず「助詞」の「の」としてあらわれる。あ、そうか「助詞」は「カタカナ」にならないのか。「漢字」にならないのか。「助詞」は「日本語」特有のことばだと思うが(いや、助詞をもっている外国語はあるだろうけれど、私は知らないというだけなのだろうけれど)、その部分が「ひらがな」なのは、そうすると「ひらがな」こそが「日本語」の音とリズムをつくる基本なのかな、とふと感じたのだ。いや、「発見した」と思って、びっくりした。自分に驚いたのか、永方に驚いたのか、詩に驚いたのか、よくわからないが。
 さらに「照らしている」この漢字まじりのことばの「ひらがな」。このひらがなというのは「活用」している部分だねえ。語幹は漢字、でも活用は「ひらがな」。ここにもきっと「日本語」の特有の何かがあるぞ。
 「助詞」で文体に「粘着力」をつけ、「活用」でそれをひきずって動く。「ひらがな」の部分で日本語は日本語らしくなる。「ひらがな」は「音」そのもの。「表音文字」。
 この感想の最初に、

「ひらがな」の詩が、古典的(?)でおもしろい。

 と書いたのだが、これは「ひらがな」の動きが「日本語」の「伝統」そのものをあらわしている。日本の伝統につながっている、と感じたということかもしれない。その日本語の伝統が、漢字を主体にした詩、カタカナを主体にした詩にもあらわれている。
 へええっと、思ったのである。
 最後の略歴をみると永方パリに留学していたよう。フランス語に触れることで日本語の「音」そのものに詩を発見したということなのかなあ。「音」が楽しい詩集だ。


√3
永方 佑樹
株式会社思潮社
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自民党憲法改正草案を読む(番外/1)

2016-07-13 10:54:19 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む(番外/1)

 参院選挙が与党が大勝して終わった。その後、急に「改憲論議」がわき上がった。選挙中は「改憲」はほとんど語られなかったのに。読売新聞7月13日(水曜日)西部版・14版の一面には「改憲論議に期待70%/内閣支持 上昇53%」という世論調査が載っている。選挙前は、どうだったのかな? 選挙前の世論調査で「改憲論議は必要か、否か」という設問があったのかどうか、記憶にないが、もしなかったのだとしたら、今回の質問は唐突なものではないだろうか。多くの読者は「改憲」について考えつづけてきて、そのうえで「改憲論議に期待」と言っているのだろうか、という疑問がわいた。そのとき、また、「改憲」をメディアはどんなふうに伝えていくのか、ということも気になった。どんなふうに「改憲」は「世の中」で語られていくのか、それが気になった。そういうことを「番外」という形で、少し追ってみることにする。

 読売新聞での「憲法/改憲」についての質問はふたつあった。
 「憲法改正を国民に提案するには、衆議院と参議院で、それぞれ3分の2以上の賛成が必要です。参議院選挙の結果、憲法改正に前向きな勢力が、参議院でも3分の2を超えたことを、よかったと思いますか、よくなかったと思いますか。」
 よかった48% よくなかった41% 答えない11%
 「あなたは、今後、国会で憲法改正に向けた議論が活発に行われることを、期待しますか、期待しませんか。」
 期待する 70% 期待しない25% 答えない5%

 これを読みながら、私が感じたいちばんの疑問は、答えたひとたちが「自民党憲法改正草案」を読んだことがあるのかどうか、である。「憲法」は、私の場合、中学校で習った記憶がある。いまも同じような教育がつづいているなら、中学校で最初に読むことになると思う。だから、国民は現行の憲法は読んでいると思うが、「改正草案」はどうか。自民党は2012年に「改正草案」を発表している。ネットなどで読むことはできるが、何人が読んでいるか、疑問に思う。私は政治的意識が低いので、やっとこの春になって読んだ。(読んだときの感想、考えたことは、このブログで書いてきた。)
 私を「基準」にしてもしようがないのかもしれないが、私はどうしても「私を基準にしてしまう」わがままな人間、自己中心的な人間なので、そこから「疑問」も生まれる。どうして読売新聞の世論調査は、

 「あなたは、自民党の憲法改正草案を読んだことがありますか、ありませんか。」

 という質問をしなかったのだろう。もし、最初にそう質問していたら、読者はどう答えただろうか。
 さらに「憲法改正論議は自民党の憲法改正草案(2012年発表)を基本に進むことが予想されますが、改正草案で疑問に感じた点はありましたか、ありませんでしたか。」と質問していたら、どうなるだろう。
 「国会で憲法改正に向けた議論が活発に行われることを、期待しますか、期待しませんか。」では、質問があいまいすぎると思う。
 「議論が活発化する」ということについて言えば、いくつかのことが考えられる。
 (1)自民党の改正草案は時代が求めている憲法のあり方を示しているので賛成だ。賛成の方向へ議論を集約する。
 (2)自民党の改正草案は問題が多すぎるので、その問題点を議論を通じて明らかにし、反対の方向へ向けて議論を集約する。
 (3)どういう改正の仕方がいいのかは、さまざまな議論を闘わせないと明らかにならない。まず議論は充分にすべきである。
 いずれの場合も「議論を活発に行う」ということは重要であり、「議論の活発化」自体を否定することは、なかなかしにくいのである。「議論の活発化」を否定すると、民主主義ではなくなる。
 だから、突然、「議論が活発に行われることを、期待しますか、期待しませんか。」と問われて、「期待しない」と答えるのは難しい。どうしても「期待します」の方が自然に多くなると思う。
 世論調査では長々しい質問は難しいので、どうしても「簡単に答えられる質問」になってしまうのだと思うが、せめて、「自民党の憲法改正草案を読みましたか」は問いかけはしてほしかった。



 少し「話題」はずれるが。
 ANNNEWS(開票速報)の一部が「木村草太氏、稲田政調会長追い詰めた」というタイトルでユーチューブにアップされていた。
 そのなかで、稲田は「国民の理解を得られる部分から憲法を改正したい」というようなことを言っている。
 「国民の理解を得られる部分」って、どこ?
 「改正」の項目がやっぱり一番の突破口になると思う。「改正」には「政策(?)」そのものは含まれていない。「手続き」の問題である。「手続き」というのは右翼とか、左翼とか「色付け」できないから、なんとなく「それでもいいんじゃない?」と思わせるところがある。それがいちばん問題と私は思っているが。
 それは別にして、憲法学者の木村は「自民党の改正草案には国民の義務が多すぎる。国民への義務条項を削除しないと、改憲論議はできないのではないか」と稲田に問いかけている。これは「憲法は権力を縛るものであって、国民を拘束するためのものではない」という「論点/基本」を閉めそうとしての質問なのだと思うが、問い方が「専門家」すぎて、これではわかりにくいだろう。
 この質問に、稲田はまっていましたとばかりに、「国民が、国民の基本的人権を侵害することもある。だから国民にも義務が必要だ」というような答えをしている。国民のだれもがなんらかの「いやな思い」を体験したことがある。自分の「基本的人権」がだれかによって侵害されたと感じたことがあると思う。だから、「そうだ、稲田の言う通りだ。国民にも他人の基本的人権を守る義務がある」と感じてしまう。
 でも、違うだろう。そんなことは「憲法」で取り締まる(義務づける)ことではないだろう。
 個人間の「人権侵害」は普通の法律で取り締まれる。
 木村も憲法学者なのだから、その部分で「突っ込んで」質問してほしいなあ。学者のプライドが「素人質問」をさせないのだろうけれど、稲田は「憲法学者」に対してではなく、テレビを見ている「学者ではない人」「ふつうの市民/素人」に対して答えている。そうであるなら、「素人」として質問しなおすことが必要なのだ。
 ひとこと、「私が、たとえば稲田さんの基本人権を侵害する。一番の基本的人権の侵害は殺人だけれど、私が稲田さんを殺害したとしたら、それは憲法違反になるのですか、憲法で取り締まることになるんですか」くらいのことを言ってもらいたい。そうすると、そういうことは「刑法」で取り締まることがわかる。「憲法」は「刑法」とはちがったことを取り締まるための「法」であることがわかる。逆に言うと、稲田は「憲法」と「刑法」の違いも認識せずに、でたらめをいっていることがわかる。個人が個人の人権侵害をしたときのことを取り締まるために「憲法」があるのではないのに、そういうことすら稲田は認識せずに答えているということがわかる。
 「想定外」の質問をどれだけ自民党に浴びせることができるか、「想定外」の質問だけが、自民党の改正草案の問題点を、国民にわかりやすく説明できる。もっと素朴な、国民が、それはどうなるの? と親身になって聞いてしまう質問をしてほしい。「想定内」の質問では、「しっかりと議論をすめていく」の一点張りの答えしか返って来ない。
 憲法学者のプライドが素朴な質問を封じているのかもしれないが、これでははぐらかされるだけ。稲田の方に、木村の質問には答えたという「実績」だけが残る。「もう、すでに木村さんの質問には答えました。木村さんは私の説明に納得してくれました」は稲田は宣伝するだろう。



 「改憲論議」そのものとは違うのだが。ネット上で読んだ毎日新聞2016年7 月12日 20時37分(最終更新 7 月12日 20時37分)の記事「参院選 .放送時間3割減 争点隠し影響か」にも疑問が残った。

 NHKを含む在京地上波テレビ6局の参院選関連の放送時間が、2013年の前回より3割近く減ったことが分かった。専門家からは「政府与党が争点隠しをしたため報道が盛り上がらなかった」との指摘もある。

 と書きはじめられているのだが、この指摘はおかしい。与党が争点隠しをしているのはわかっている。それを問題にするためにメディアは結局的に動かないといけない。与党が争点隠しをしているからと、その「争点隠し」に乗っかって、「争点」を探そうとしていない。これはメディアとしての責任放棄であり、同時に与党の戦略への加担にはならないか。
 与党が「憲法改正が」を争点化したくない、それを暴くようなことをすれば「電波停止」の処分を受けそうで、こわい。そうであるなら、違う問題点を掘り起こせばいい。憲法にふれなくても、アベノミクスだけで争点は十分ある。アベノミクスをさらに前進させるというのが安倍の「公約」なのだから、そこに「争点」を持っていき、そこから問題点をほりさげていけばいい。
 深夜にバイトしている若者に「生活は、どうしている? 何を食べている? 食生活は前より充実している?」と聞くだけで、いろんな問題が明らかになる。
 いつも食べているものの何が高くなったか、安くなったか。
 コンビニ弁当はいくらのを食べているか。
 デートするとき、どこで食事する? ほんとうは、どんなデーとがしたい?
 こういう質問からはじめて、「政治がどうなっているのか」を考え始めれば、アベノミクスがどうなっているか若者にも身近になるし、それが「争点」だともわかる。
 そのとき、バイトで忙しいとなかなか時間がないよね、自民党の憲法改正草案って知ってる? 読んだことある? と一言つけくわえるだけで、国民と自民党の改正草案との「乖離」がわかる。
 あるいは、東京電力福島第一原発の事故で故郷に帰ることができなくなっている人に「いま、何がいちばん困っていますか」と問うことも、政治の問題点、「争点」を浮かび上がらせる力になるはずだ。いろんなひとが、いろんな生活をして、そのなかで困っている。その「困っている」ことのひとつひとつが「争点」である。
 「大局」をつついてにらまれるのがこわいなら、「個人的な問題」にこだわって、それをいろいろな角度から語ればいい。「少数意見」がそこから見えてくる。「少数意見」のあつまりが「民主主義」なのだ、「多様性」が「民主主義」の基本なのだとわかる。
 テレビも他のメディアも何かを「争点」にしたくないのだ。ただ安倍の反感をかわないように、報道を「自粛」したのだ。その結果、「少数意見」が抹殺された。「民主主義」が消された、というべきなのではないのか。

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堀江沙オリ「とこしえの明日」

2016-07-12 10:00:43 | 詩(雑誌・同人誌)
堀江沙オリ「とこしえの明日」(「左庭」34、2016年06月25日発行)

 堀江沙オリ「とこしえの明日」はある男とその母のことを書いている。小説ふうの作品。男には仕事がない。母親は寝たきり(?)、認知症(?)。ともかく介護が必要なのだが、あまり親身には介護をしていない。排泄の世話も投げやりだ。半分、ほったらかしにしている。

おまつ代は大きい
今度やったら叱って 始末させれば懲りる
もう部屋にビニールと新聞紙敷きつめて
バケツを布団の側に置いてすぐ用足しさせて
スポーツ新聞はいくらでも拾えるし
用意だけはしとこう
孝行息子だ 俺は

 「孝行息子だ 俺は」というのは、自分のやっていることをなんとか「肯定」しないことには生きていけないからだろう。介護の難しさがにじみでている。
 でも、こういう具合だから、「ストーリー」最後は予想がつく。

お腹空いた
一言目の消えた朝
昨日の弁当の残りを食って
俺たちは 同じ営みを続ける
電話もチャイムも鳴る事のない部屋
布団切って 新聞に包んで袋に入れて
臭いを封印してコンビニに捨てた

 その、予想通りの「ストーリー」を読んだあと、私は、はっとする。

自販機でコーラを買う
新しい泡が喉に降りて
自分の呼吸を久しぶりに感じる

 母親の世話から解放される。これで、少しは楽になる、というのは死んだ人間に対しては失礼な言い方かもしれないが、「やっと死んでくれた」というのは介護をしている人からしばしば聞くことばである。ある意味での「和解」のようなものがある。「ある意味」のことを説明するのは難しいが……。
 その「難しい何か」を、この三行が語っている。
 「肉体」が「自分だけのもの」なる。「自分の呼吸」と書いているが、あ、そうなのだ。それまでは「自分の呼吸」をしていないのだ。無意識のうちに母親と一緒に呼吸している。母親と一緒の部屋にいて、母親が嗅いでいる排泄物の臭いを母親そのものとして嗅いでいる。呼吸している。排泄物は臭い。それは母親にとっても同じだ。母親の呼吸と「自分の呼吸」がどこかで混じりあっている。
 「呼吸」が「自分だけのもの」になる、「肉体」が「自分だけのもの」になる、とは「孤独」になることでもあるのだが、それが「一緒に生きる」ということを思い出させる。一緒に生きるとは、介護だけのことがらではないが、ともに「同じ空気」を呼吸することである。そのときの「呼吸」は自分のものであるけれど、自分だけのものではない。そういうことは、いちいち意識しないけれど。
 でも、やっと自分だけの呼吸ができる。「やっと死んでくれた」。一緒に呼吸しなくてすむ。それを「空気」ではなく、「新しい泡」と「喉」で感じている。この「肉体」の感覚が、すごい。「新しい泡」が「喉」を刺戟する。その「刺戟」を感じる。「泡」のなかにある「空気」が「呼吸」の感覚を思い起こさせるのか。
 何と言えばいいのか、この瞬間、「わかる」と感じる。
 コーラを飲んだときの「刺戟」を思い出し、そうか、その刺激から「肉体」を思い出し、「呼吸」を思い出すのか、と「わかる」のである。
 書かれている「男」になってしまう。「わかる」とは自分が自分でなくなり、対象と一体化してしまうことだ。

今日は大事な日だからパチンコは無し
ATMでお袋の年金をおろす
スーパーの割引弁当を買う
そして ほの暗い部屋の鍵を開ける

 そのあと、最後の母と息子の「会話」がある。

お袋さんチョコ食べんのか
ああ好きだよ
爺さんにもらったんだった
母さん チョコ食べるか

うん
お腹空いた
返事がきこえた
気がした

 「お袋」が「お袋さん」に、「お袋さん」が「母さん」にかわっていく。ずっーと、ずっーと「母さん」と言い続けられたらよかったのに。「母さん」とはじめて呼んだときの、「肉体」の記憶。「肉体」の奥から「母さん」呼んだときの、何かが「喉」にこみあげてくる。「耳(肉体)」がおかあさんの「お腹空いた」という声を聞いてしまう。
 
7/2で生きる
堀江 沙オリ
無明舎出版
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自民党憲法改正草案を読む(13/番外)

2016-07-11 12:32:26 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む(13/番外)(2016年07月11日)

 07月03日、日曜日、参院選選挙運動の真っ最中、いわゆる「選挙サンデー」と言われる日、私は会社で仕事をしていたのだが、「異様な静けさ」に気がついた。街もそうだったが、社内の静かさが尋常ではない。それ以前から、微妙に「静かな」感じを受けていたが、「異様」とまでは感じなかった。それが、03日には、確実に「異様」に感じ、同僚に「異常に静かじゃないか」と声をかけた。「でも、参院選は、もともと静かだよ」。そうなのかなあ。
 フェイスブックで、思わず「異常に静かだった」と、その日の「感想」を書いた。
 そのときは、なぜ静かなのかわからなかった。
 翌日(月曜日)、ネットで偶然、NHKがニュースの「週間予定」のボードに「10日 大相撲初日/世界遺産審議始まる」とは明示しているが「参院選投票」とは書いていないということを知った。
 あ、これなのか、と私はやっと「異常」の原因を知った。
 私は眼が悪いのでテレビは見ない。だから、どんなことがテレビで話題になっているか知らなかった。当然、「参院選が話題になっていない」ということも知らなかった。報道されていないことを知らなかった。
 国政選挙なのに、報道しない。だれが、どんな主張をしているか、争点は何か、それを報道しない。これでは「静か」になるはずである。「静かさ」はテレビによってつくり出されたものだったのだ。
 なぜ、報道しないのか。
 「日刊現代 デジタル版」で元NEWS23のキャスター岩井成格が「このままだとメディアは窒息する」というタイトルのインタビューで分析している。
 2014年衆院選で、安倍がテレビに出演したとき「街頭の声」に苦情を言った。「アベノミクスへの批判が多い」。その苦情にテレビ局が萎縮した。「街録(街頭録音? 街頭録画? いわゆる「街の声」収録か)でアベノミクスに5人が反対したら、賛成5人を集めなきゃいけない。面倒だから報道そのものが減った。」
 当事者ではなく(いまは当事者ではないのだろうけれど)、まるで傍観者の発言だ。
 アベノミクスへの賛否が5対5が「公平/公正」な報道なのか。なによりも、「5対5」という捉え方が「民主主義」の基本から離れていないか。「数字」が対等なら、それは「公平/公正」というのは、まやかしである。
 「多様性」こそが民主主義の基本。「多様性」を認めないところには「多数決」の暴力があるだけだ。
 「街録でアベノミクスに5人が反対したら、賛成5人を集めなきゃいけない。」と考えることが、すでにメディアの衰退。敗北ではなく、自分から滅んでいっている。「民主主義とは何か」という問いかけを忘れてしまっている。
 「非正規社員からの反対の声」
 「介護休職しているひとからの批判の声」
 「年金が不安のひとからの声」
 などなど、それぞれは「ひとり」の声。
 反対の声5人、賛成の声5人ではなく、「賛成/反対」でくくらずに「多様な声」を集める。「大きな声」だけを拾い集めるのではなく、「小さな声」(言いたいけれど、言えずに我慢している声)を拾い上げ、それを紹介することが大事だ。
 だいたい、街頭で聞いた声の「賛否対比」が5対5か10対0か、そんなことは「国民」がきめることでメディアが決めることではない。5対5が、すでに「情報操作」。
 「5対5」にとらわれずに、どこまで多様な声を集めることができるか、ということにメディアは力をそそがなければならない。
 岸井は、テレビキャスターやめさせられ、「被害者」なのかもしれないが、「情報操作」に消極的に加担したという意味では「加害者」でもあるだろう。現役時代に、もっと発言すべきだった。「権力から圧力を受けた。そのため報道をねじまげてしまった」と現役のとき言うのは、「自分には権力の圧力を跳ね返すだけの力がなかった」と認めることになるから、現役時代に言うのは難しいかもしれないが、現役を退いてからそんなことを言われても視聴者は困ってしまう。(私は、テレビを見ていないので視聴者ではないのだが。)
 脱線してしまった。

 テレビが報道しないと、もう、どんなことも「起きていない」ことになる。「存在しない」ことになる。それは「事件」だけでなく、「意見」の場合はさらに「存在しない」ということが「極端」になってしまう。問題が「深刻化」する。
 安倍は選挙戦を通じて「憲法改正問題」を大声ではつたえなかった。そのため、その問題は「存在しない」ことになった。野党は懸命に「安倍は憲法改正問題を隠している」と指摘したが、それはテレビで放送されないので、「存在しない」ことになった。
 それに先立ち、安倍は、アベノミクスについ、安倍にとって都合のいい数字だけをあげた。野党が問題点を指摘し、同時に憲法改正問題について触れたのだが、アベノミクスの問題点を指摘する声を紹介せず、「野党は憲法を改正させないと主張している」とだけ報道すると、アベノミクスの問題点は「存在しない」ことになった。アベノミクスの、安倍が取り上げる数字を評価するか、しないか、ということだけが「争点」として存在することになった。
 さらに参院選がおこなわれているということを報道しないと、参院選そのものが「存在しない」ことになった。と、言うと言い過ぎだが。参院選に立候補している「さまざまな声」が「存在しない」ことになった。選挙は「自民党+公明党」か「民進党+共産党」のどちらを選ぶかという二者択一のものにすりかえられてしまった。「小政党」や「諸派」と呼ばれる党の声は「存在しない」ことになった。「少数意見」のなかにも「真実」があるかもしれないのに、それを報道が封じてしまうのである。
 「テレビ報道以外にも報道はある。意見の伝達方法はある」という見方もあるだろうが、これは「非現実的」な指摘だ。「少数意見」は簡単にはつたわらない。
 「5対5」が「公平/公正」というルールは、議席の数に比例させて発言機会を与えないと議席の多い党には不利益になる(「公平」ではなくなる)という「論理」に簡単にすりかえられるだろう。50議席もっている自民党の主張を放送する時間は50分、1議席の社民党は1分、議席を持っていない新しい党は0分、ということになってしまうだろ。それでは新しい党をつくって「立候補」しても、主張を訴えることができない。
 「数」というのは、民主主義においては「最終決着」(最後の手段)であって、スタートではない。いきなり「多数決」の原理(数の原理)をあてはめるのではなく、少数意見にも耳を傾ける。多様な意見のぶつかりあいのなかで、いままで気づかなかったことに気づきながら議論を深めていく、というのが「民主主義」の原則であるはずだ。理念であるはずだ。この「理念」を「現実」に変えていくために、テレビを初めとするメディアは何をすべきか。そのことが置き去りにされている。
 参院選がおこなわれている、そこではこんな議論がされているということを放送しないことで、テレビは「民主主義」を壊したのだ。「多数意見」を簡単に支持して、「少数意見」を抹殺したのだ。「議論」によって理解を深めるという生き方そのものを否定したのである。
 そうすることで、「選挙結果」を誘導したのだといえる。メディアが間接的に「選挙操作」をしてしまったのだ。

 今回の参院選では、党首の公開討論は一回しか開かれなかった。各党首のスケジュール調整ができなかったということだが、これは、とても奇妙である。
 テレビ局で勝手に「党首公開討論会」のスケジュールを決め、党首を呼べばいい。党首が来れないところは代理でだれかが出ればいい。「党首討論」ではなく「政党当討論」にしてしまえばいい。
 自民党では「発言能力」のある人間が安倍しかいないということはないだろう。もし、そうならそうで、そういう「人材不足」が大きな問題になる。そんな党に国をまかせていいのか、という大問題が起きる。
 出て来ない党は党で、テレビ局の責任ではない。すべての党に参加を呼びかけた、という「事実」があれば、それは「公平/公正」である。安倍がスケジュール上参加できないのに党首討論会を開くのは「不公平/不公正である」と主張するのは、「多数派」の暴力である。「出るな」とだれも言っていない。出て討論してほしい、本人が出れないならだれか代理を出せばいい、と言うだけのことである。
 毎日、党首討論会(政治討論会)を開いたと仮定してみよう。ある日は安倍が出られない。ある日は岡田が出られない。そういう「ばらつき」があっても、複数回の「チャンス」があれば、それは「公平/公正」だろう。少数派に主張の機会を与えないということが、「不公平/不公正」なのである。

 これから先、改憲問題がもちあがったとき、どんな問題点があるか、テレビはやはり報道しないだろう。報道しないことで、「多数意見」がそのまま「多数派」として通ってしまう。
 報道しないことは「中立」ではなく、「議論」の否定、「民主主義」の否定なのであると言い続けよう。
 だれが、この「報道しない」という作戦を指揮したのか知らないが、あまりにも巧妙な、「静かな」やりくちである。「卑怯な」やり口である。
 安倍は、自分の「主張」が正しいと言うのなら、きちんと討論、対話すべきである。
 「報道」が民主主義を否定する形で動くなら、私たちは別の形で民主主義を取り戻さなければならない。「報道」に頼らずに、意見をひとりひとりに「手渡し」する方法を考えないといけない。どこかで、粘り強く発せられている声を受けとめ、伝達していく方法をつくり出さなければいけないのだと思う。
 これから始まる「憲法改正論議」をメディアがどうつたえるか、そのことをしっかり見つめたいと思う。参院選の「争点」として報道された「アベノミクス」をどう報道していくのかも、同時に、しっかり見つめたい。「戦争法案」も「TPP」も安倍はしっかり説明すると言っていたが、どうしっかり説明したのか、テレビを初めとするメディアは伝えていない。安倍が「説明する」と言ったことさえ「事実ではない」と葬り去ろうとしている。
 私はテレビを見ないが、テレビでこういっていた、という声を聞いたことがない。とても、「静かだ」。この「静けさ」が、私にはとても異常に感じられる。

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ジョン・カーニー監督「シング・ストリート 未来へのうた」(★★★)

2016-07-11 08:25:17 | 映画
監督 ジョン・カーニー 出演 フェルディア・ウォルシュ=ピーロ、ルーシー・ボーイントン

 アイルランドの中学生の少年が、学校の近くで「美人」を見つける。こころを奪われる。なんとか近づきたい。で、「バンドをやっている。プロモーションビデオをつくるので出てほしい」と口走って、それから急いでバンドをつくる。
 その、どたばたがおもしろい。
 バンドをつくり、曲をつくりはじめる。そうすると、それにあわせて「感情」も動いていく。感情が動いて、それから音楽ができるというよりも、音楽をつくっているうちにだんだん自分の感情がはっきりしてくる。
 この変化が、最初の、つたない歌から、だんだん上手くなっていくのにあわせて、気持ちが強くなる。明確になっていくいく、という感じがなかなかいい。
 「音楽」が好きといっても、音楽狂いという感じでもない。アイルランド人は音楽好きだが、主人公の少年の音楽好きは、兄が音楽好きなので、それにひっぱられて音楽が好きという感じ。どの曲がいい、だれそれの演奏がうまい、と言うのも、実は兄の受け売り。自分自身の「実感」ではないのだが、兄が言っていたことを友達に言うと、友達が感心する。「あ、おまえ、音楽がわかっているじゃないか」。で、その友達の反応を見て、「兄の言うことは正しかったんだ」なんて納得する。
 主人公の少年は、もっぱら作詞とボーカルなのだが、その詩は、実際に体験したことの断片。それを音に乗せると、だんだん「ことば」が「実感」そのものになる。少女のひとみに光が射して、そのときひとみの色がかわる、表情がかわるということばを音に乗せると、体験が「物語」のように動き出す。自分の「物語」なのに、他人と共有する「物語」になる。他人は、最初は曲をつくってくれる友人、次に一緒に演奏する仲間、さらにそれが初恋の少女そのものへと「共有」されていく。
 音楽を聴いて少女は少年がどれくらい少女のことが好きかがわかるし、少年も自分の気持ちが少女に伝わっているらしいことが、わかる。
 でも、わからないこともある。
 少女にはボーイフレンドがいる。そのボーイフレンドと自分とを比べたとき、少女はどっちの方が好きなのか、「実感」がない。わからない。
 好きになった少女が「悲しい幸せ」と言う。これも、わからない。いや、これがいちばんわからない。少女が「悲しい幸せ」を味わっている。その瞬間に「生きている」と実感しているということが、わからない。
 「悲しい」と「幸せ」は反対の概念。そんなものが「ひとつ」になるということが、わからない。その「わからない」ことを手探りでさぐりはじめると、少年は、またひとつ成長する。
 少女がボーイフレンドと一緒にロンドンへ行ってしまった。ロンドンで捨てられ少女がダブリンにもどってくる。その、別れと出会いのなかで、少年は「バラード」をつくる。「きみを探している」という歌だ。「きみ」はそこにいる。でも、その少女が何を感じているかわからない。だから「きみを探している」は、「きみの気持ちを探している」であり、それは「自分の、どうすることもできない気持ちそのものをどうすればいいのか、探している」ということでもある。「きみを、そして自分を探している。見つからない。だから、悲しい。しかし、歌を歌っているとき、少女に会っている。きみを見つけているし、自分もここにいる。だから、幸せ」。そんな感じかな。
 みんな、バラードなんかには興味がない。演奏すれば、盛り上がったムードがしらける。わかっている。でも、歌いたい。歌わずにはいられない。そこにも「悲しい幸せ」がある。
 この歌(演奏)を少女はテープで聞きながら、演奏会へ駆けてくる。で、めでたくハッピーエンドなのだが。
 途中の、二人で島にピクニックするときのシーンが好きだなあ。はじめてキスをして、少し照れて、クッキーを食べる。照れ隠し。でも、またキスをしたくなる。少女もクッキーを食べているので(口の中にクッキーがあるので)、「待って」という。きちんとクッキーをのみ込んでから、キスをする。この、ちょっとばかばかしい手間が、初々しく、美しい。ふたりのタイミングをあわせるには、手間がいる。それが「肉体」の動きそのものとして、わかる。「共有」される。
 ほんとうのラスト、おじいさんの形見の小船でイギリスへ向かうシーンも好きだなあ。雨が降っている。よく見ない。大きな船にぶつかりそうになる。少女が「危ない」と声をかけ、少年が必死で舵を切る。船の上から客が見ている。その船を追いかけるようにして、イギリスへ向かう。あの船は、少し兄に似ている。そう感じさせるところが、なんとはなく、いい。
                     (2016年07月09日、KBCシネマ1)



「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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自民党憲法改正草案を読む(12/最終回)

2016-07-10 09:06:42 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む(12/最終回)(2016年07月10日)

 「第九章 緊急事態」については、さまざまなところで問題視されている。

(自民党憲法改正草案)
第九章緊急事態
第九十八条
内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。

第九十九条
緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。

4緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。

 この条項でいちばん問題なのは、「主語」が突然「内閣総理大臣」になることである。憲法は、常に「国民」を「主語」としてきた。

(現行憲法)
第六十七条
内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。
(改正草案)
第六十七条
内閣総理大臣は、国会議員の中から国会が指名する。

 現行憲法の「内閣総理大臣は」は「主語」ではなく「テーマ」。「テーマ」だからこそ「これを」という形で反復されている。実際の「主語」は「国会議員」。「国会議員」が「議決し」、その議決にしたがって指名される。そして「国会議員」というのは国民によって選ばれた存在であるから、そのときもほんとうの「主語」は「国民」である。国民が議員を選び、その議員が国民の「意思」をくみ取る形で総理大臣を指名する。
 内閣総理大臣は、憲法の「主語」にはなりえない存在なのである。そのことを「改正草案」は無視している。
 これにと同じことは、「改正草案」の第五十四条でも、あった。

(改正草案)
第五十四条
衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する。

 「国会」のことを定めている条項に、突然「主語」として「内閣総理大臣」が闖入してきている。「教育の義務」を定めた条項(国民が主語の条項)に、突然「国」が「主語」として闖入してきたのにも通じる。
 私は憲法学者でも法律家(法律の専門家)でもないが、こんなおかしな「憲法」はありえないだろう。ひとつのことがらを「定める」とき、「主語」は常にひとつでないとことがらが複雑になりすぎる。
 「ひとつの文(条項)」に「ひとつの主語」というのは、「法」の基本なのではないか、と私は感じている。

 こういう乱暴な「文体」で「憲法」をつくるから、あとは、もうでたらめである。(現行の憲法の文章を「日本語ではない」というひとがいる。安倍もそう考えているかもしれないが、私の見るかぎりでは、改正草案の日本語の方が、まるででたらめである。非論理的で、法になじまない。「主語」が乱れ、「主語」があいまいに隠されている。法は主語と述語を明示し、論理的でないと、判断の「基準」になりえない。)

 改正草案は「でたらめな文体」と「ずるい文体」をかきまぜて、「あいまい」な部分を多くつくり出している。
 「外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態」とある。「緊急事態」は「法律で定める」とあるから、まだ何が緊急事態であるかは決まっていないのだが、「外部からの武力攻撃」と「地震等による大規模な自然災害」のあいだにはさまれた「内乱等による社会秩序の混乱」というのが、ずるくて、あいまいである。
 「外部からの武力攻撃」と「地震等による大規模な自然災害」は「社会の内部」で起きることではない。だから、それを「緊急事態」と定義するのは、わりと簡単である。しかし、「内部の変化」は定義しにくい。何を「内乱」と呼ぶかはとても難しい。「内部の変化」は当然、それまでの「秩序の変化」でもある。そうすると、それまでとは違った「秩序」が生まれたとき、それは「内乱」になってしまう。
 たとえば選挙で国会議員の自民党と共産党の議席数が逆転したとき、あるいは逆転しそうなとき、それは自民党にとっては「秩序の否定/混乱」になるだろう。そういう「結果」を引き起こす「選挙運動」が展開されたとき、それは「内乱」と呼ばれるかもしれない。選挙結果が自民党の敗北を引き起こしそうとわかったとき(予測されるとき)、「内閣総理大臣」は、それを「内乱」と定義し、「緊急事態」を「宣言」することができる。
 三月に安倍内閣は「共産党は破防法の調査対象である」と閣議決定したが、こういうことが「日常的」に、内閣総理大臣の「独断」で起きることになる。これは「思想及び良心の自由」を侵害する行為である。
 「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」や「衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。」は選挙の廃止であり、国民の基本的人権を侵すものだ。

 「緊急事態条項」の創設の影で、とんでもない「改正」もおこなわれている。

(現行憲法)
第十一章最高法規
第九十七条
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
第九十八条
この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

 改正草案では「第九十七条」の全文削除されている。「憲法が基本的人権を保障する」という部分が全部削除されている。これは「基本的人権」を認めないということである。
 改正草案では「この憲法は、国の最高法規」という部分だけを踏襲している。
 「基本的人権」を認めない上に、

(改正草案)
第百二条
全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。

 国民に憲法を尊重する義務を押しつけている。憲法は国民が守る(尊重する)ものではなく、権力が守らなければならないものである。
 国民は憲法を守らなくてもいい根拠として、現行憲法の第二十二条をあげることができる。

(現行憲法)
第二十二条
何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。

 「国籍を離脱する」、つまり「日本国民でなくなる」 権利(自由)をもっており、それを「国」は「侵してはならない」。これは、憲法を守らなくていいという「証拠」である。「憲法」が気に食わない、「憲法」を遵守する気持ちがないなら、日本国籍を離脱し、自分の「理想の憲法」を持っている「国」へ行っていい、と言っているのである。

 では、憲法はだれが守るのか、尊重するのか。だれが憲法を守らなければならないのか。

(現行憲法)
第九十九条
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
(改正草案)
第百二条
全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。

 現行憲法は、憲法を遵守しなければならない人間として「天皇、大臣、議員、裁判官」などの「公務員」(天皇は公務員ではないが)をあげているが、国民をあげていない。これは憲法が「国(権力)」を縛るものだからである。憲法は国民を縛るものではないから、国民に「遵守義務」はないのである。
 改正草案は、「国民」をつけくわえ、天皇を除外している。天皇は「元首」と定義されているから、憲法を超越した存在ということか。ここがいちばん違う。
 それと同時に注目したいのは、現行憲法の「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官」という順序が、改正案では「国会議員、国務大臣、裁判官」となっていることだ。国務大臣(行政府)の方が国会議員(立法府)よりも憲法を遵守するよう求められている度合いが低い。言い換えると、内閣(行政府/大臣)は国会議員よりも遵守の度合いが低くていい(?)という感じなのだ。
 自民党の改正草案は、権力の実際の運用機関(内閣/大臣)を法で拘束する前に、国会議員を拘束する。第一項あわせて考えると、改正草案は、

 国民を拘束し(基本的人権を剥奪し)、次に国民が選挙で選んだ国会議員(国民の代表)を拘束し、内閣(行政府)が「独裁」をふるいやすいように改正しているのである。

 前後するが、「改正」の章の変更も見落としてはならない。

(現行憲法)
第九章改正
第九十六条
この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。
(改正草案)
第十章 改正
第九十六百条
この憲法の改正は、衆議院又は参議院の議員の発議により、両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で、国会が、これを議決し、国民に提案してその承認を得なければならない。この承認には、法律の定めるところにより行われる国民投票において、有効投票の過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、直ちに憲法改正を公布する。

 手順がかなり違う。現行憲法は「憲法改正」は「国会の三分の二以上の賛成」で「発議し」、国民が「承認する」。改正草案では、「発議する」ときの「条件」が明記されていない。「条件」がない。「ひとり」が「発議」してもいいことになる。それを「過半数の賛成」で「議決し」、その結果を国民が承認する。
 国会内での審議、議決が「改正草案」では簡単である。ハードルが低い。
 現行憲法では、あくまで国会は発議し、国民が承認する、過半数で「可決/承認」するのだが、改正案では国会が「議決」までしてしまう。「議決」した結果を国民が「承認」する。「承認させる」と言い直した方がいいかもしれない。「国会」が「議決」しているのに、それを否定するのは「公の秩序を乱す」ことになる。「内乱」になる。
 さらに成立の基準も、改正草案では「有効投票の過半数」と低くしている。無効票が大量にあれば、有効票が少なくなる。それだけ「過半数」の基準が低くなる。ここでも「改正」のハードルは低められている。
 公布について定めた第二項にも重大な変更がある。
 現行憲法には「国民の名で」という文言がある。これは「憲法は国民のもの」という意識があるから、そういう文言があるのだ。改正草案には、これがない。つまり、改正草案は憲法を「国民のもの」と考えていない証拠がここにもある。

 自民党は、憲法を改正するとき、まず「改正」の部分から手をつけるだろう。「戦争の放棄」や「緊急事態」に比較すると、激論になる度合いが低い。なによりも「手続き」の問題なので、国民には「自分の生活と直結する」という感じがしない。「反対」運動が起きにくい。
 しかし、ここに罠がある。
 いったん「改正」が、「衆議院又は参議院の議員の発議により」となってしまうと、先に書いたように「ひとり」の発議でも審議がはじまることになる。そして「過半数」で「議決」まで進んでしまう。「発議されたもの」を承認するというのと、「議決されたもの」承認するというのでは、国民の側の「議論/検討」にも差がでてきそうだ。「有効投票の過半数」というのも「接戦」になったとき、「過半数」の分母が小さくなるからハードルが低くなる。
 そして、いったん一部でも「改正」されると、あとは雪崩を打って、次々に「改正」がつづき、全面改正になる。

 「緊急事態条項」だけではなく、細部に罠が張り巡らされていることを、憲法学者や法律家、さらには国会議員はもっともっと「街頭」に出てアピールしてほしい。「緊急事態条項」がなくても、国民を支配するための「改正」が随所におこなわれている。しかも、「保障」を「保証」に変えたり、「個人」を「人」に変えたりと、目をこらさないと見落としてしまいそうな「小さな文言」の変更がある。「文言」自体は「小さい変更」だが、「内容」ががらりと変わるものがある。
 参院選の報道のように、テレビを初めとするマスコミは、こういうことを報道しなくなっている。安倍の代弁者になっている。
 マスコミを通じてではなく、直接、国民に訴えることが「識者」に求められていると思う。「識者」の「声」を私は「街頭」で聞きたい。直接聞きたい。「対話」のなかで、私は私が見落としているものを学びたい。


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自民党憲法改正草案を読む(11)

2016-07-10 08:17:54 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む(11)(2016年07月10日)

 第四章国会
(現行憲法)
第四十一条
国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
第四十二条
国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する。
第四十三条
両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。
(自民党憲法改正草案)
第四十一条
国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。
第四十二条
国会は、衆議院及び参議院の両議院で構成する。
第四十三条
両議院は、全国民を代表する選挙された議員で組織する。

 「改正」は字句に限られている。ここでも「これを」を改正草案は削除している。「これを」は何度も書くが、「主語」というよりも「テーマ」を明確にすることばである。改正草案は「テーマ」を意識させないように「これを」を削除している。
 現行憲法の「テーマ」性を強調して言い直すと、

第四十一条
国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である「と憲法は定める」。
第四十二条
国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する「と憲法は定める/構成されることを憲法は保障する/構成されなければ国会とは認めない」。

 ということになるだろう。そこに「国(権力)」が介入することを拒否している。
 で、この「国会」の部分の改正草案でいちばんびっくりしたのが、第五十四条である。

(現行憲法)
第五十四条
衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、衆議院議員の総選挙を行ひ、その選挙の日から三十日以内に、国会を召集しなければならない。
(改正草案)
第五十四条
衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する。
2 衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、衆議院議員の総選挙を
行い、その選挙の日から三十日以内に、特別国会が召集されなければならない。

 改正草案は「衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する。」と書いている。「解散」については、私の記憶では(中学校で憲法でならなっとき教わった記憶では)、第五章 内閣の第六十九条に定められている。

(現行憲法)
第六十九条
内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

 内閣が不信任されたときは、衆議院を解散し、選挙で信を問い直す(国民の信を確認して、不信任に対抗する)か、総辞職して内閣を他の党(他の人)に明け渡す。それはあくまで「不信任」に対抗する「手段」であると習った記憶がある。
 総理大臣が自分勝手に「解散」などしてはいけない。
 けれど、いつのまにか総理大臣が「解散権」を行使するようになった。その「根拠」は、私の読むかぎり「現行憲法」にはない。それを改正草案ではつけくわえている。つけくわえることで、いつでも総理大臣が自分の都合で「解散」できることになる。
 これは、「議院内閣制」に反しないのか。
 現行憲法「第四十一条 国会は、国権の最高機関であつて、」「第四十三条 両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」を無視することにならないのか。国民は選挙によって「国会」に意見を反映させる、「国会」は国民を意見を踏まえて「内閣」を構成するという「順序」が逆にならないか。内閣総理大臣が、恣意的に国会を操作してしまうことにならないか。
 次の改正案も、非常に気になる。

(現行憲法)
第六十三条
内閣総理大臣その他の国務大臣は、両議院の一に議席を有すると有しないとにかかはらず、何時でも議案について発言するため議院に出席することができる。又、答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない。
(改正草案)
第六十三条
内閣総理大臣及びその他の国務大臣は、議案について発言するため議院に出席することができる。
2 内閣総理大臣及びその他の国務大臣は、答弁又は説明のため議院から出席を求められたときは、出席しなければならない。ただし、職務の遂行上特に必要がある場合は、この限りでない。

 現行憲法は、答弁、説明を求められたときは総理大臣や他の大臣は「出席しなければならない。」と定めている。これに対して改正草案は「職務の遂行上特に必要がある場合は、この限りでない。」と追加している。つまり「出席しないこともある」ということ。「職務の遂行上」というのは便利なことばである。ほんとうに重大事が起きたときは、国会に出席していられない。たとえば、東日本大震災などの場合、国会に出席して答弁するよりも先に、事態に対応することの方が急務だろう。こういうときは、国会の方も理解して、議事などしないだろう。
 しかし。
 現実を見てみると、少し違う。熊本地震が起きたとき自民党が主導して国会を開き、「TPP」について審議しようとした。野党から批判を浴び、一日で審議は見送りになった。しなければならない「職務の遂行」をないがしろにした。地震で混乱している期間に、審議を強行し、批准まで持ち込もうとしたのだろう。国民よりも、「政策」を優先させたのである。
 そういう「運用」をみると「職務の遂行上」というのは、かなり恣意的に範囲を変更できる。ときには、「答弁してしまうと、職務が遂行できなくなるから、答弁しない。職務の遂行上、出席しない」ということも起きうる。
 戦争法にしろ、TPPにしろ、安倍は「丁寧に説明する」と口先では言うが、一度も説明などしていない。「秘密保護法」もある。その問題は秘密保護法の対象なので、職務の遂行上、答弁できない(出席しない)ということが、どんどん起きてしまうだろう。
 憲法は国(権力)の暴走をとめるためのものなのに、安倍は、権力を思うがままに動かす(独裁を進める)ために、憲法を改正しようとしている。 

 「内閣」で気になるのは、もう二点。

(現行憲法)
第六十五条
行政権は、内閣に属する。
(改正草案)
第六十五条
行政権は、この憲法に特別の定めのある場合を除き、内閣に属する。

 こちらを先に書くべきだったかもしれないが……。
 改正草案で「この憲法に特別の定めのある場合を除き、」とは何だろう。そして、この挿入は、「この憲法に特別の定めのある場合」は「内閣」以外のどこかに「行政権」が属することになるが、それは、どこ?
 国会? 裁判所(司法機関)? あるいは、警察?
 まさか。
 「内閣」というのは「ひとり」ではない。第六十六条にあるように「内閣総理大臣及びその他の国務大臣」によって組織される(現行憲法)。(改正草案は「組織」ではなく「構成」という表現をつかっている。)「内閣」とは「組織」(機関)である。そこには「複数」の人間がいる。その「複数」を「憲法に特別の定めのある場合」は「ひとり」にするということだろう。
 そして、その「憲法に特別の定めのある場合」というのが、これまでなかった「第九章 緊急事態」である。

(改正草案)
第九章緊急事態
第九十八条
内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。

 これについては、後で書きたいが、これを参考にすると、「第六十五条 行政権は、この憲法に特別の定めのある場合を除き、内閣に属する。」は、「特別の場合」、行政権は「内閣」ではなく「内閣総理大臣に属する」と読むべきなのだろう。
 行政権が「ひとり」に集中する。「独裁」である。
 「この憲法に特別の定めのある場合を除き」がなければ、「独裁」はできない。「内閣」という「集団」に「行政権」がある。「独裁」を正当化するために、そのことばが挿入されている。

 もう一点は、第六十六条の第二項。

(現行憲法)
2 内閣総理大臣のその他の国務大臣は、文民でなければならない。
(改正草案)
2 内閣総理大臣及び全ての国務大臣は、現役の軍人であってはならない。

 「文民でなければならない。」が「現役の軍人であってはならない。」と改正されている。「軍人経験者」であってもいい、ということ。軍人も大臣に起用できるということである。内閣に入る直前に「退役」すれば「軍人ではなくなる」から、入閣できる。「現役を退いて○年」というような「規定」がないから、そういうことが可能である。これでは単なる「肩書」の変更である。だれだって「軍人ではなくなる」。
 最近のニュースを見ていると、退役した自衛隊の幹部が、どうやって入手したのかわからない(自衛隊から情報提供を受けているとしか考えられない)情報で国際問題に言及している。「政治が空白になる参院選の期間を利用して、中国が日本領空へ接近している。そのために自衛隊機の緊急発進が増えている」云々というコメントが自衛隊の元幹部の立場で新聞に書かれていた。
 彼は「現役の軍人」ではない。しかし、「現役の軍人」と同様に自衛隊から情報を得ている。そして、その「思考」は、自衛隊にフィードバックされるだろう。そういうことが起きても「現役の軍人ではない」という「論理」になってしまうだろう。

 「第六章 司法」「第七章 財政」「第八章 地方自治」は自分自身の問題として考えてきたことがないので、何も書けない。
 一点気になったのが現行憲法にはない「第九十二条」

地方自治は、住民の参画を基本とし、住民に身近な行政を自主的、自立的かつ総合的に実施することを旨として行う。
2 住民は、その属する地方自治体の役務の提供を等しく受ける権利を有し、その負担を公平に分担する義務を負う。

 自治体の「提供を等しく受ける権利を有し」はいいのだけれど、「その負担を公平に分担する義務を負う。」というのは何? どういうこと? 金額的負担のこと? 税金があがるということ? それとも「身体的」に何かをしなければならないということ?
「義務」というのは、現行憲法では「教育の義務」「勤労の義務」「納税の義務」と三つだったが、「納税」はすでに明記されているから、ここ書かれている「義務」は、もっと違ったものかもしれない。
 でも、どういうものか、わからない。
 わからない、明記されていないということは、それが恣意的に運用されるということでもあるだろう。


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自民党憲法改正草案を読む(10)

2016-07-09 12:00:36 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む(10)(2016年07月09日)

 第二十六条以下は少しおもしろい。特に「教育の義務」が。人をだますとき、自民党はこんなに巧妙な手法をつかうのか、と感心してしまう。

(現行憲法)
第二十六条
すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

 自民党の憲法改正草案は、この部分では「表記」だけを変更している。「すべて」を「全て」に、「ひとしく」を「等しく」に、という具合。「これを」は、いつものように削除しているのだけれど。
 改正草案は、これに第三項を追加している。

3 国は、教育が国の未来を切り拓ひらく上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない。

 この「改正」だけは、私はすばらしいものに思えた。「教育環境」が何を指すかはよくわからないが、たとえばいま問題になっている「奨学金」などが、完全給付型になるという具合に「整備」されていくなら、これはうれしいことだ。
 「義務教育」だけではなく、その後の教育環境も「無償」になるなら、勉強をしたい人には、たいへんうれしいことだ。
 でも、ここに書いてある「教育環境の整備」とは、そういうことではないかもしれない。
 たとえば、いま書いた「完全給付型の奨学金」というようなものは、自民党ではなく野党が主張してきたものである。最近、奨学金の返済のために若者が苦しんでいるという事実がニュースになったために、自民党は2016年07月の参院選挙で、急遽「公約」につけくわえている。
 あるいは「幼児教育を充実させる、保育園、幼稚園を増やし、待機児童を減らす」というのも、「幼稚園落ちた。日本死ね」といったことばが母親から発せられたため、急遽それに対応したものである。「幼稚園落ちた。日本死ね」ということばが国会で取り上げられたとき、安倍は「匿名の発言であり、事実かどうかわからない」と言った。さらに「そういうことを言うのは共産党だ」というようなことも言いふらされた。まるで「自民党員(自民党支持者)なら、幼稚園に落ちるはずがない。思想調査をして合格者を決めている」というような言い方だが……。
 しかし、この「条項」はいま書かれたのではなく、2012年に書かれていることも考え合わせないといけない。
 そこに書かれている「教育環境の整備」は、いまの「公約」とは違ったことを指すに違いないのだ。
 安倍は、「改正草案」に書かれていることを「先取り」する形で動いている。「事実」つくってしまって、「改正草案」を「改正」ではなく「事実の追認」に変えようとしている。
 そういう視点で「教育環境の整備」を見ていくと。現実に何が起きているか、起きつつあるかということから見ていくと。
 たとえば「道徳教育の重視」「歴史教科書の見直し」という問題が見えてくる。
 「道徳教育」を「採点化」するというニュースを読んだが、これは一種の「思想教育」。「思想及び良心の自由」と関係づけて言うと、改正草案はそれを「侵してはならない」(第十四条)から「保証する」と変更していた。「保証する」は「これが理想の思想及び良心である」と定義することである。「理想の思想及び良心」のあり方を決めて、それに従う人間を、「正しい人間(国民)」として「身元を保証する」。それ以外の思想を良心に従う国民の身元は「保証しない」という意味である。
 教育とは学問。学問とは、ほんらい自由なものである。たとえば権力を批判する能力を身につけることも重要な学問の仕事である。教育の仕事である。しかし、自民党の改正案は、そういう「批判を生む/批判を育てる」教育を念頭に置いてはいない。「学問の自由」を否定し、「学問に一定の枠」をあてはめる。「理想の(従順な)人間」を育てるための「教育」をもくろんでいるのだ。
 教科書に書かれている歴史を「見直し」、日本が侵してきた戦争犯罪をなかったことにする。「南京虐殺はなかった」。そういうことを教え込む「教育環境の整備」を、自民党改正案は狙っている。
 自民党の「思想」に従う人間を育てる「教育環境の整備」なのだ。
 「美しいことば」の裏には、企みがある。「美しいことば」は「現実」にどういう形で動いているか、現実に動いている何を隠すために「美しいことば」が選ばれたのか、それを点検する必要がある。

(現行憲法)
第二十七条
すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
(現行憲法)
第三十条
国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。

 これも、改正案は「表現(字句)」の変更にとどめている。
 なぜなのかなあ。

 理由は簡単である。

 私のみるところ、「教育の義務」「勤労の義務」「納税の義務」と、ここでは「国民の義務」について書かれている。
 自民党は「国民の義務」については、そのまま現行憲法を踏襲するのである。
 さらに「義務」を手助けするように装って、国民を管理しようとしている。「教育の義務」では第一項、第二項の「主語」が「国民」であったのに対し、第三項で突然「国」にすりかわっている。「国民の義務」なのに、そこに「国の義務」を織り込み、「国の義務」を「国の権利」にすりかえ、悪用しようとしている。
 「主語」と「動詞」をしっかり押さえて、何が「改悪」されようとしているのか、点検しなければならない。

 第三十一条以降は「自由」の剥奪について書いている。「犯罪者」は「自由」を奪われる。「公共の福祉」に反するからだが、この部分の「権利」についても、微妙に「改正」している。
 たとえば、

(現行憲法)
第三十二条
何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。
(改正草案)
第三十二条
何人も、裁判所において裁判を受ける権利を有する。

 「奪われない」を「有する」と改正する。「奪われない」の場合は、「奪う」という動詞の「主語」が存在する。現行憲法は、何人も、裁判所において裁判を受ける権利を」他人に、「国に」奪はれない、と言っているのである。
 改正草案は「奪う」という「動詞」を隠すことで、「登場人物」を「国民」だけにしている。「国民」は「権利を有する」。その「権利」を「国は奪うことがあるかもしれない/奪うことを禁止しない」という意味が隠されている。何かあれば、国民の権利を「奪う」というのだ。「禁止」条項を、改正草案は外しているのだ。
 これは、第十一条の「改正」と同じ方法である。

(現行憲法)
第十一条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。
(改正草案)
第十一条
国民は、全ての基本的人権を享有する。

 同じことを言っているようだが、そこに「国」が書かれているかどうかが違う。現行憲法は「国は」と明記していないが、そこに「国は」を書いている。「国は/妨げてはいけない(禁止)」を意味している。
 憲法は国民と国との関係を定めたもの、国の権力が暴走し国民を支配することを禁じるために制定するものという意識が明確に存在するから、そういう「文体」をとるのである。
 自民党改正草案は、この憲法特有の「文体」を解体し、「国民は(権利を)有する」と書き直すことで、「国」の「禁止」を取り除いている。何かあれば、いつだって「国は国民を支配する」、「国民の権利を侵害する」ことができる、ということにしているのだ。なぜ「侵害する」ことができるか。そこに「してはならない(禁止)」が書かれていないからだ。
 信じられないくらい「巧妙」な「禁止」の削除である。

 第三十一条以降は、「逮捕」や「捜索」について定めている。重要な変更があるのかもしれないが、自分に引きつけて読むことができないので、よくわからない。私は私が「犯罪者」になる、つまり「逮捕される」ということを考えたことがなかったので、親身になって読むことができない。
 「思想犯」(「思想」が「公益及び公の秩序に反する」と認定されたとき)に、第三十一条以下がどう運用されるのか気になるが、逮捕、裁判、判決というものを身近に感じたことがないので、何も書くことができない。
 「思想犯」を想定して点検すべきなのだが、私には、どう読んでいいのかよくわからなかった。ただ「思想/良心の自由」を中心に考えると、次の変更が気になった。

(現行憲法)
第三十四条
何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。
(改正草案)
第三十四条
何人も、正当な理由がなく、若しくは理由を直ちに告げられることなく、又は直ちに弁
護人に依頼する権利を与へられることなく、抑留され、又は拘禁されない。

 改正草案では「正当な理由がなく」ということばの挿入が微妙である。現行憲法では、必ず「理由」を告げられなければならない。捜査機関(?)は必ず理由を告げる必要がある。しかし、改正案では「正当な理由があれば」、理由を告げなくても逮捕できる、と読むことができる。
 これは、どういうことか。
 たとえば「思想犯」を「思想犯」と断定する「根拠」の「理由」は告げなくていい、なぜならその「理由」は「秘密保護法の対象だから」ということができる。ある人間の「思想」のどの部分が「反社会的」か(公益及び公共の秩序に反するか)は「秘密」だから告げる必要はない。「基準/理由」を明示すれば、その「理由/基準」をかいくぐりながら「思想犯」は行動することが考えられる。だから、何をすれば「思想犯」になるかは、「秘密」にしておくのである。
 これでは、国の気に入らない人間はだれでも逮捕されてしまうことになるが、たぶん、そうしたいのだろう。
 ほかにもっと重要な「改正」が含まれているのだろけれど、よくわからない。ほかのひとの意見を聞きたい。

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