詩集「改行」へ向けての、推敲(3)
(11)あの部屋の、
本のなかの男に電話をかけたことがある。
呼び出し音がつづくばかりだった。
本のなかの、あの部屋は空っぽで足跡の形で床がところどころ光っている。
光っていなところは乾いたほこりだ。
たったひとつ残されている所有物、電話の音は
「テーブルや使い慣れた食器があったときよりも大きく鳴り響いた」
電話を切ると耳のなかが暗くなる。
本のなかの、あの部屋は夏になる前の光の頼もしさに満ちているのに。
(12)私は黙って聞いている、
私は黙って聞いている、あなたの沈黙を。
本のページをめくり、行をたどる指がとまる。
前のページにもどり首を少し傾ける。
ほほがかすかに色づいてふくらみ、
瞳の明るい色が反射する。
あなたの体のなかの、息を吸い息を吐く音楽。
私がそれを聞いたことをあなたは知らない。
私は黙っている。
(13)消えた
テーブルが消えた
部屋は、一辺の長さが正確になった
あざみの野を越えて
真っ直ぐなひかりが窓から入ってきて
鏡のあった場所のやわらかさにとまどった
舞い上がろうとするほこりの粒粒
ひとの形になろうとするのか
夕方になれば、
星がふたつみっつ散らばって消える
(14)背徳と倦怠
背徳と倦怠がよりそって
ひらがなに満ちた感情をくすぶらせている小説を読んでいたら
ことばが逃げ出した
足裏のしろいくぼみを強調する形で親指が内側にまげられ
無感覚になるかかとと脱力するふくらはぎのあいだ
女の足首のカーブを描写していたことばが
いったい足首のどこに懸想していたのか
どんな意味を内部に隠していたのか今となってはわからない
取り残されたことばたちは
逃亡の夢を嫉妬のように育てはじめる
それにしても逃走したことばの残した断面の、なんと乱反射することよ
磨き上げられた鏡か、神話の中に咲く花のよう。
あやしくつややかな それが怠惰だと
逃げ出したことば以外のことばは気づいていなかった
(15)忘れてしまった
隠し通すためにさらに話さなければならないと思ってドアを開けたのだが、
隠さなければならないという気持ちだけが残っていて、
ほかはすべて忘れてしまった。
女が椅子とテーブルを動かして鏡に映らないようにしているのが見えた。
そんなことはもちろん言ってはいけない。
何かに気がついてしまったということを悟られることと、
気がつくということが伝染してしまう。
ので、後ろ手で閉めたドアの隙間から私は私を逃がす。
のだが、逃げていく私は逃げる寸前に私の背中を見る癖があり、
そのときの目を私は鏡のなかに見る。
そういうことはしばしば起きたので、
鏡のなかでは何もかもがわかってしまっているかもしれない。
わかったからといって得になるものじゃない、と
のどの奥でかすれた声が動いている、
頸動脈をとおって耳の内部をくすぐっている、
私がことばを逃がしてしまって、
私がことばにつかまるのだ。
(16)思い出すだろうか、
自転車が逆方向を向いているのは、
ふたりが別れるからだろうか、
いまここへきて出会ったのだろうか。
ことばはどちらにも加担できる。
しかし、
そこがスズカケの葉が落ちている急な坂道であっても、
と書くのは抒情的すぎる。
二人の横をだれかが本をかかえて通りすぎる。
その人は誰か。
ひとりが顔をそむけると、
突然過去がやってくる。
本をかかえた人が振り向いてみつめのは、
どちらを確かめるためだったのだろう。
ことばはいつか思い出すだろうか。
あるいは、忘れてしまったと嘘をつくだろうか。
(17)破棄された注釈
「積み重ねられた本のあいだに挟まった手紙」ということばはあとからやって来たのに芝居の主人公のようにスポットライトを要求した。
「鍵を壊された引き出し」を傍線で消して、「倒れた椅子の形を残して薄くひろがるほこり」ということばに書き換えようとするこころみがあったような気がした。
「女が、別の女に似てくると感じた」ということばは書かれなかったが存在した。
「タンスの内側の鏡」は「見る角度によって空っぽの闇を映した」ということばになったが、推敲しあぐね、丸められた紙といっしょに捨てられることを欲した。
(18)彼、
彼はいつも二本の鉛筆を同時につかう。
濃くやわらかい鉛筆と薄く硬い鉛筆を重ねて動かす。
二本の線は、はみ出していく輪郭と隠れる影になる。
頬骨顔にひそんでいた欲望は、ある瞬間ははじき出され、別の瞬間はおびえる。
耳は甘い舌のように乱れ、拒絶をなめる唇のように誘う。
眼は他人のような嘘とあからさまな真実を受け入れている。
それは自画像なのか、恋人の肖像なのか。
(19)詩のことば
女が歩いてくる。服が揺れる。
しなやかに光る布が、女の体の動きを少し遅れて反復する。
女の欲望がめざめて
表にあらわれてくるようだ。
詩のことばも、そんなふうだったらいい。
読んだ人のまわりで
ことばが揺れる。
意味をほどかれたことばが
人のおぼえていることを
少し遅れて反復する。
言いたかったことが
(20)二度目の手紙
手紙を書き直すとき、あの部屋を思い出した。あの部屋の、シェードのかかったスタンド。その下にたまっている黄色い色。バニラアイスクリームの縁がやわらかくなるときの感じに似ていた。それは目がもっていた記憶か、手がもっていた記憶か。
三度目の手紙を書き直すとき、黒い男があらわれた。影のように半透明。「夢のなかで牛乳をこぼした、ということばを傍線で消して、夢のなかで沈黙をこぼした、と書き換えなさい」。もうひとりの私だろうか。伝言が消えるとき、哀しみという耳鳴りになった。
(11)あの部屋の、
本のなかの男に電話をかけたことがある。
呼び出し音がつづくばかりだった。
本のなかの、あの部屋は空っぽで足跡の形で床がところどころ光っている。
光っていなところは乾いたほこりだ。
たったひとつ残されている所有物、電話の音は
「テーブルや使い慣れた食器があったときよりも大きく鳴り響いた」
電話を切ると耳のなかが暗くなる。
本のなかの、あの部屋は夏になる前の光の頼もしさに満ちているのに。
(12)私は黙って聞いている、
私は黙って聞いている、あなたの沈黙を。
本のページをめくり、行をたどる指がとまる。
前のページにもどり首を少し傾ける。
ほほがかすかに色づいてふくらみ、
瞳の明るい色が反射する。
あなたの体のなかの、息を吸い息を吐く音楽。
私がそれを聞いたことをあなたは知らない。
私は黙っている。
(13)消えた
テーブルが消えた
部屋は、一辺の長さが正確になった
あざみの野を越えて
真っ直ぐなひかりが窓から入ってきて
鏡のあった場所のやわらかさにとまどった
舞い上がろうとするほこりの粒粒
ひとの形になろうとするのか
夕方になれば、
星がふたつみっつ散らばって消える
(14)背徳と倦怠
背徳と倦怠がよりそって
ひらがなに満ちた感情をくすぶらせている小説を読んでいたら
ことばが逃げ出した
足裏のしろいくぼみを強調する形で親指が内側にまげられ
無感覚になるかかとと脱力するふくらはぎのあいだ
女の足首のカーブを描写していたことばが
いったい足首のどこに懸想していたのか
どんな意味を内部に隠していたのか今となってはわからない
取り残されたことばたちは
逃亡の夢を嫉妬のように育てはじめる
それにしても逃走したことばの残した断面の、なんと乱反射することよ
磨き上げられた鏡か、神話の中に咲く花のよう。
あやしくつややかな それが怠惰だと
逃げ出したことば以外のことばは気づいていなかった
(15)忘れてしまった
隠し通すためにさらに話さなければならないと思ってドアを開けたのだが、
隠さなければならないという気持ちだけが残っていて、
ほかはすべて忘れてしまった。
女が椅子とテーブルを動かして鏡に映らないようにしているのが見えた。
そんなことはもちろん言ってはいけない。
何かに気がついてしまったということを悟られることと、
気がつくということが伝染してしまう。
ので、後ろ手で閉めたドアの隙間から私は私を逃がす。
のだが、逃げていく私は逃げる寸前に私の背中を見る癖があり、
そのときの目を私は鏡のなかに見る。
そういうことはしばしば起きたので、
鏡のなかでは何もかもがわかってしまっているかもしれない。
わかったからといって得になるものじゃない、と
のどの奥でかすれた声が動いている、
頸動脈をとおって耳の内部をくすぐっている、
私がことばを逃がしてしまって、
私がことばにつかまるのだ。
(16)思い出すだろうか、
自転車が逆方向を向いているのは、
ふたりが別れるからだろうか、
いまここへきて出会ったのだろうか。
ことばはどちらにも加担できる。
しかし、
そこがスズカケの葉が落ちている急な坂道であっても、
と書くのは抒情的すぎる。
二人の横をだれかが本をかかえて通りすぎる。
その人は誰か。
ひとりが顔をそむけると、
突然過去がやってくる。
本をかかえた人が振り向いてみつめのは、
どちらを確かめるためだったのだろう。
ことばはいつか思い出すだろうか。
あるいは、忘れてしまったと嘘をつくだろうか。
(17)破棄された注釈
「積み重ねられた本のあいだに挟まった手紙」ということばはあとからやって来たのに芝居の主人公のようにスポットライトを要求した。
「鍵を壊された引き出し」を傍線で消して、「倒れた椅子の形を残して薄くひろがるほこり」ということばに書き換えようとするこころみがあったような気がした。
「女が、別の女に似てくると感じた」ということばは書かれなかったが存在した。
「タンスの内側の鏡」は「見る角度によって空っぽの闇を映した」ということばになったが、推敲しあぐね、丸められた紙といっしょに捨てられることを欲した。
(18)彼、
彼はいつも二本の鉛筆を同時につかう。
濃くやわらかい鉛筆と薄く硬い鉛筆を重ねて動かす。
二本の線は、はみ出していく輪郭と隠れる影になる。
頬骨顔にひそんでいた欲望は、ある瞬間ははじき出され、別の瞬間はおびえる。
耳は甘い舌のように乱れ、拒絶をなめる唇のように誘う。
眼は他人のような嘘とあからさまな真実を受け入れている。
それは自画像なのか、恋人の肖像なのか。
(19)詩のことば
女が歩いてくる。服が揺れる。
しなやかに光る布が、女の体の動きを少し遅れて反復する。
女の欲望がめざめて
表にあらわれてくるようだ。
詩のことばも、そんなふうだったらいい。
読んだ人のまわりで
ことばが揺れる。
意味をほどかれたことばが
人のおぼえていることを
少し遅れて反復する。
言いたかったことが
(20)二度目の手紙
手紙を書き直すとき、あの部屋を思い出した。あの部屋の、シェードのかかったスタンド。その下にたまっている黄色い色。バニラアイスクリームの縁がやわらかくなるときの感じに似ていた。それは目がもっていた記憶か、手がもっていた記憶か。
三度目の手紙を書き直すとき、黒い男があらわれた。影のように半透明。「夢のなかで牛乳をこぼした、ということばを傍線で消して、夢のなかで沈黙をこぼした、と書き換えなさい」。もうひとりの私だろうか。伝言が消えるとき、哀しみという耳鳴りになった。