詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『池井昌樹詩集』

2016-07-09 07:24:01 | 詩集
池井昌樹『池井昌樹詩集』(ハルキ文庫、2016年06月18日発行)

 池井昌樹の詩については何度も書いてきている。『池井昌樹詩集』(ハルキ文庫)は新作の詩集ではないので、特に書かなければ、と思うこともないのだが。
 でも、こういう「文庫」の形で多くの人に読まれるのはいいことだ。多くの人に読んでもらいたいので、少し書いてみる。
 「手から、手へ」は、「意味」の強い詩である。

やさしいちちと
やさしいははとのあいだにうまれた
おえまたちは
やさしい子だから
おまえたちは
不幸な生をあゆむだろう
やさしいちちと
やさしいははから
やさしさだけをてわたされ
とまどいながら
石ころだらけな
けわしい道をあゆむだろう

 「やさしい」と「けわしい」が対比されている。「やさしい」と「けわしい」では、たぶん「けわしい」の方が「強い」。だから、その生は「不幸」になるだろう。
 そして、その生が「不幸」であっても「なにひとつ/たすけてやれない」と書いたあと、

やさしい子らよ
おぼえておおき
やさしさは
このちちよりも
このははよりもとおくから
受け継がれてきた
ちまみれなばとんなのだから
てわたすときがくるまでは
けっしててばなしてはならぬ

 「やさしさ」を「ばとん」という「比喩」で言い直している。それは「受け継ぐ」という「動詞」と一緒に存在する。「ばとん」とは「受け継ぐ」ものなのだ。でも、「受け継ぐ」というのは、単に「ばとん」を受け取り、だれか別の人に手渡すということではない。「ばとん」を渡すかどうかは問題ではない、というと言い過ぎだが、「ばとん」という「比喩」を通ることで、「テーマ」は「ばとん」ではなく、「受け継ぐ」という「動詞」にかわる。「受け継ぐ」という「動詞」そのものがつながっていく。
 池井は父として息子に「やさしさ」の「ばとん」を渡すとき、それを渡してくれた池井の父/母とだけつながるのではなく、それ以前の「いのち」のつながりそのものとつながる。「いのち」がつながる。

 ここまでは、まあ、「意味」だな。「倫理」の教科書にもなるかもしれないなあ。そういう「道徳的なこと」を語るのは、私は、あまり好きではない。
 どちらかというと、嫌いだ。
 「正しい」が強すぎて「窮屈」な感じがする。
 「やさしさ」ではなく、「乱暴/いじわる」ということだって、人間の「いのち」のひとつの形。そういうものだって「受け継ぐ」必要があるんじゃないか。そういうものがないと、もしかしたら人間は生きていけないんじゃないか、というようなことを言ってみたくなるのである。
 でも、

やさしい子らよ
おぼえておおき
やさしさを捨てたくなったり
どこかへ置いて行きたくなったり
またそうしなければあゆめないほど
そのやさしさがおもたくなったら
そのやさしさがくるしくなったら
そんなときには
ひかりのほうをむいていよ
いないいないばあ
おまえたちを
こころゆくまでえがおでいさせた
ひかりのほうをむいていよ

 ここで「いないいないばあ」が出てくるところが、あ、好きだなあ。
 「いないいないばあ」というのは、こどもがむずがったり、泣いたりしているときに、こどもを「あやす」ときにするしぐさだね。
 「いないないないばあ」を「動詞」できちんと説明するのは難しい。「いないいない」は両手で顔を隠す。つまり顔が「いない」ということなのだけれど、そのあとの「ばあ」が「動詞」にならない。顔を覆っていた手を開いて、顔が見えるようにする、ということだけれど、「いないいない」の反対なら「いる(ある)」でもいいのに、そう言わずに「ばあ」と言う。
 それは、なぜ?
 あ、言えないなあ。説明できないなあ。
 でも、これこそが「ばとん」なんだね。
 「いないいないばあ」が「受け継がれ」ていく。「受け継いでゆく」。そのときだれかを「あやす」ということだけではなく、「いないないばあ」をされて「笑う」ということも「受け継がれていく」。
 「やさしくされた」ということだけではなく、「やさしくされて笑った」「やさしくしたら笑った」ということも受け継がれていく。だれかを笑わせたということよりも、だれかによって笑わされた、笑ったということの方が、きっと大事なのだと思う。
 「いないいないばあ」の「ばあ」のなかには、何か、融合のようなものがある。慰める人と、慰められる人が「ひとつ」になってはじける。それは「受け継ぐ」という意識もなく肉体にしまいこまれる。
 「ばあ」は「ばとん」が受け継がれるときの、その瞬間の「永遠」なんだなあ、と感じる。
 これはほかのことばでは言い換えが聞かないし、「やさしさ」のように「意味」にもならない。
 だから、すごい。
 これにまた「ひかりのほう」ということばが言い添えられる。

このちちよりも
このははよりもとおくから
射し込んでくる
一条の
ひかりから眼をそむけずにいよ

 「いないいないばあ」の「ばあ」は「ひかり」なのだ。そう「ほう(方)」を向いて、眼をそらすな。そのとき、「ばとん」は短い棒ではなく、「一条の(長い)ひかり」だとわかる。「ひかり」は名詞だが、その方向を向くとき、人は「ひかる」という動詞にもなるのだ。


池井昌樹詩集 (ハルキ文庫 い 22-1)
池井昌樹
角川春樹事務所
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渋谷美代子「朝から詩集を」

2016-07-08 10:56:18 | 詩(雑誌・同人誌)
渋谷美代子「朝から詩集を」(「YOCOROCO」7、2016年06月18日発行)

 渋谷美代子「朝から詩集を」は「紐しおり」が本につくりだす凹凸のことを書いている。最初は何かわからずに、その紙面に刻まれた曲線を「指でなぞりながら」ページをめくっているのだが、

半ばまできて ハハア
栞の紐が途中でくるん、とまるまっているのだ
ナルホドねえ、しばし眺めて紐をのばすと
いと愛らしき小ナスがふたつ
ここだけはくっきりと
紐の幅で刻印された両側のくぼみ
指先でそっとしごいてみても
厚さなどほとんどわからないあみ紐だ
こんなものがアトを残すのか

 何でもないことが淡々と書かれている。
 ようだけれど、
 「ハハア」「くるん」「ナルホドねえ」。渋谷が渋谷と「対話」している。その呼吸がいい。対話し、対話することで納得しながらことばが進んで行く。「くるん」という「口語的」「感覚的」なことばが、

       しばし眺めて紐をのばすと
いと愛らしき小ナスがふたつ

 あ、「文語調」をまじえて、「小ナス」という具体的なものにかわる。「しばし」もいいし、「のばす」という「動詞」もいいなあ。時間と「動詞」を書くことで、「感覚」だけではなく「肉体」全部が動いている。
 それから「指でしごいてみ」るという「動詞」へとつながって、

ここから先は
右のページはかすかにふくらみ
左のページはかすかにくぼんで

 「かすか」という「感覚」を媒介に「ふくらむ」「くぼむ」が動き、起伏する。どうしたって、指はそれをたどってしまうねえ。
 あえて途中を省略して(意味がわからないようにして)引用するのだが、

のであるが 人指指のはらでそろそろそろそろそろ
朝からアイラシイ曲線をなぞれば(こみ上げる
うふふ

 省略してあるからわからないはずなのに、何かが「わかる」。省略してある部分をぶっとばして「わかる」。
 これって、何だろう。
 渋谷の「肉体」が動いているだけなのに、ことばに誘われて、読んでいる私の「肉体」が動きはじめている。指の腹に、「かすかにふくらみ/かすかにくぼんで」動くものが行きはじめる。
 「いと愛らしき」と書かれていたことばが「アイラシイ」と、わざとカタカナに書き直される。イヤラシクなる。「わかるでしょ?」という感じで迫ってくる。
 「ハハア」「ナルホド」とカタカナで書かれていた「口語」が「うふふ」とひらがなに変わるのもいいなあ。
 文字までが交錯し、交差し、交わる。いろっぽくなる。
 と、書くと、書きすぎ?




暗い五月―渋谷美代子第二詩集 (1967年)
渋谷 美代子
思潮社
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自民党憲法改正草案を読む(9)

2016-07-08 09:39:20 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む(9)(2016年07月08日)

 詩を読むのと同じ方法で「憲法」と「自民党憲法改正草案」読む。「動詞」と「主語」の関係をつきつめて読む、ということをしているのだが、これはどういうこと? とさっぱりわからない部分もある。

(現行憲法)
第十八条
何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
(自民党憲法改正草案)
第十八条
何人も、その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。
2 何人も、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

 現行憲法の「その意」は「罪を犯して服役しているひとの意思」であると思う。「苦役」が何を指すかはわからないが、「強制された労働」と読み替えてみる。服役している人は、その仕事がいやでも、その仕事をしなければならない、という意味だと思う。
 しかし、改正草案第一項の「何人も、その意に反すると否とにかかわらず、」の「その意」の「その」はどうだろう。「その人の」という意味だろうか。その場合「その意に反する」は「わかる」のだが、「否とにかかわらず」がまったく理解できない。「その意に反していない」なら、そういうときは「身体的拘束」を感じる?
 現行憲法も改正草案も、犯罪者に対しては「服役」を求めている。
 なぜ、現行憲法の「いかなる奴隷的拘束も受けない。」を、改正草案では「その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。」と言い直したのか。「奴隷」というものが現在は存在しないから、それを「社会的又は経済的関係において身体を拘束」と言い直しているのだとしても、「その意に反すると否とにかかわらず」の「否とにかかわらず」が、わからない。
 「奴隷」の反対の概念(ことば)は「自由」である。
 だから現行憲法は、「何人も自由である。ただし、犯罪者はその自由を奪われ、自由ではなくなるときがある」と言っているように思える。
 改正案は、「奴隷的拘束」を言い直すとき「身体を拘束されない」と言い直している。ここも、何とも、奇妙な感じがする。
 「奴隷」って「身体」だけの問題?
 「精神的奴隷」という言い方があるなあ。
 現行憲法は、「身体」だけではなく、「精神的奴隷」のことも「視野」に入れているのではないか、と私は思う。
 逆に言うと、改正草案は、「身体を拘束されない」と書くことで、「精神」は別問題と考えているのかもしれない、という「疑念」が浮かぶ。身体は拘束しない。しかし、精神は拘束することもあるといいたいのではないか、と疑念が生じる。
 何を隠しているのだろう。
 私の「読み方」では、何ともわからない。

 ただし……。

(現行憲法)
第十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 を読むと、第十八条の「奴隷的拘束」の「奴隷」に「精神的奴隷」が含まれているのではないか、という私の「予感」が「正しい」もののように思えてくる。
 どんなことがらでも、一回で言い切ることはできない。大事なことは「ことば」を変えて、何度でも言い直す。「奴隷的拘束」だけでは言えなかったことを、現行憲法は、ここで言い直している。「奴隷」には「身体的奴隷」と「精神的奴隷」がある。「身体的奴隷」はもちろん許されないが、「精神的奴隷」も許されない。その「精神」というものを、「思想及び良心」の「自由」と言い直している。これを「国」は侵してはならない。
 第十八条の「その意に反する」とは「その人の精神、思想に反する」という意味である。服役している犯人が「爆弾テロリスト」である場合、毎日椅子をつくるのは彼の精神、思想に反するだろう。でも、こういうことを書いていいのかどうかわからないが、爆弾テロリストは椅子をつくりながらも「服役がすんだら、今度こそ爆弾テロを成功させて、社会を改革する」と思いつづけることはできる。「思想」は侵せない。
 現行憲法は「思想及び良心の自由は、(国は)これを侵してはならない。」と国に「禁止」を申し渡しているのだが、それは国がしようとしてもできないことでもある。
 これを改正案では、

第十九条
思想及び良心の自由は、保証する。

 と「改正」している。「侵してはならない」と「保証する」の違いについては、すでに書いてきたので簡略に書くが、「保証する」というとき、そこには「国が理想とする思想及び良心」があり、その「理想」が一致するかぎり、その「自由」を「保証する」と言っているように思う。
 爆弾テロの例は極端すぎるが(いい例が思いつかないが)、改正草案はそういう「思想」を「国」は「保証はしない」と、間接的に言っている。つまり、「思想」を「国」は「管理する」と言っている。
 (ある国の政府、ある組織の権力ならば、「爆弾テロ」の「思想」を推奨する。つまり、それこそが「正しい思想」だと後押しするだろう。)
 改正草案は、「思想及び良心」を選別し、それを「保証する」。この「保証する」は、別な言い方をすると、「理想とする思想及び良心」というものを提示し、それによって国民の「精神を拘束する」ということになるかもしれない。

 私の書き方は「極端」すぎて誤解を与えるかもしれないが。

 「思想及び良心の自由」というのは、「奴隷的拘束」があいまいだったように、とても「定義」としてあいまい。だから、その「典型」として現行憲法は「信教(宗教)」取り上げて、そのことを言い直している。あるいは補足している。

(現行憲法)
第二十条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

 「信教(宗教)」は「自由」。仏教だろうがキリスト教だろうがイスラム教だろうが、何を信じても、それを「侵さない」。そのかわり、どの宗教団体も「国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」これは、言い換えると国はどの宗教も「保証しない」という意味である。
 現行憲法は、「精神の自由」は「侵さない」と同時に「保証もしない」と言っているのである。
 ここで「保証する」にもどると。
 「保証する」とは、あるものに「特権を与える」ということでもある。「ある思想、ある良心」にしたがって行動するなら、その人の「権利」を「保証する」ということ。
 改正憲法は、「思想」によって国民を選別しようとしている。それは別な言い方をすると、ある「思想」によって国民を拘束し、その「思想」に従うものを「優遇する」ということでもある。
 そう読むと、改正草案が第十八条で「奴隷」を「身体(的拘束)」と限定した意図がわかる。

(現行憲法)
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
(改正草案)
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

 現行憲法にはない「第二項」を追加している。そしてそこに「公益及び公の秩序」ということばが出てくる。これは第十三条に出てきたことばである。現行憲法第十三条の「公共の福祉」を改正草案は「公益及び公の秩序」と言い換えた。言い換えるとき、そこに「国の」という意味を含ませた。「国の福祉」とは言えないが、「国の利益、国の秩序」と言い換えることはできる。改正草案が「公」ということばをつかうとき、それは現行憲法の「みんなの」という意味ではなく「国の」である。

(現行憲法)
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
(改正草案)
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。

 これについては、すでに書いたが、現行憲法の「検閲は」は「主語」ではなく「テーマ」。「主語」は書かれていないが「国は」である。「検閲については、国はこれをしてはならない。」
 憲法は国と国民との関係を取り決めたもの。国は何をすべきか、何をしてはならないか、国民は何をしてもいいかを決めたもの。犯罪は「公共(みんな)の福祉」に反するからしてはならない。すれば「服役」しなければならない。しかし「みんなの福祉」に反しないなら国民は「自由」。
 でも「国」は「自由」ではないのだ。

 「検閲は、これをしてはならない。」(現行憲法)の「これを」について、思いついたことを補足しておく。私は「これを」を「検閲は」という「テーマ」を再提示したものと読んでいる。「検閲については(テーマ)、国は検閲をしてはならない」という「意味」にとっている。「国は」という「書かれていない主語」をそこに補って読む。
 「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」(現行憲法)も同じ。「表現の自由は」というのは「テーマ」、これを「保障する」。このとき、やはり「国は/保障する」と読むのだが。
 これは「国は」ではなく、「憲法は」と読んだ方がいいかもしれない。
 「憲法」は「国民」と「国」との関係を定めたもの。「国」に対して「……してはいけない」という「禁止」を明示したもの。「保障する」は「禁止」ではない。だから、それは「国」と読むよりも「憲法」と読んだ方が、憲法のあり方が明確になる。
 憲法は「保障する」。それは、言い換えると「国に……してはならない」という禁止事項をあてはめること、と読み直すと、憲法の全体が「整合性」がとれるというか、「文体の経済学」が成り立つように思う。
 いままで私は「国は/保障する」と読んできたが、「憲法は/保障する」、そのために「国に/……を禁じる」と言っているのだと思う。「保障する」ということは、「守る」ということだが、その「守り方」として、「だれそれに、これこれを禁じる」という方法をとる。それ以外に「保障」の仕方はないかもしれない。

 で、少しもどるが、

(改正草案)
第十九条の二
何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。

 この改正草案は、国民に対し「してはならない」と禁じているが、「国は」とは書いていない。これが大問題だ。
 国民には禁止しておいて、国は「個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用して」もいいと言っているのだ。個人情報を不当に取得し、個人の「思想及び良心」を勝手に「判定」し、差別する。そういうことができる(そういうことをするぞ)と言っているのである。
 現行憲法は、国に対して「……してはならない」と「禁止」を命じているが、改正草案では国民に対して「……してはならない」と「禁止」している。「禁止」を命じる相手がまったく逆である。 

 こういうとき、何が、あるいはどういうものが自民党改正草案の「理想とする思想」か。
 第二十四条に、それが明確に書かれている。

(現行憲法)
第二十四条
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、
相互の協力により、維持されなければならない。
(改正草案)
第二十四条
家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
2 婚姻は、両性の合意に基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

 現行憲法は「個人」を尊重している。「個人の権利/思想・良心の自由」を尊重している。婚姻は「個人」と「個人」の関係。「両性の合意のみ」と「のみ」をつけくわえることで、それを強調している。
 改正草案は、「のみ」を削除し、さらにその前に「家族」を持ち出している。「家族」とは「個人」ではない。「集団」である。「集団」が先にあって、「個人」は消されている。これは「家父長制」、父親の支配権を絶対とする昔の「家族」を想像させる。たぶん「家父長制」の相似形としての「国家」を自民党は理想としている。その理想にあう「思想」を国民に強いているのである。
 別項をみると、さらに驚く。

(現行憲法)
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
(改正草案)
3 家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 現行憲法が「個人」の尊重からスタートしているから、まず「配偶者の選択(結婚)」からはじまり、その後「離婚並びに婚姻及び家族」と「出産/こども=家族」という形で世界がとらえられている。離婚しても「個人」と「個人」のときもあれば、そこに「家族」(こども)がいるときもあるから、それに配慮しているのだが。
 改正草案は、まず「家族、扶養、後見」という「個人」の「まわり」をふくめた人間関係がテーマになる。最初の「家族」とは「個人」の「父親/母親」のことだろう。「家族」とは「父親」がいて「母親」がいて「こども」がいる。その「こども」が結婚して、そこから「親族」へと広がっていく。
 「家族」だけではまだ不満で「親族」をふくめて「個人」を拘束しようとする姿勢がここに見える。
 「国家」を「家族/親族」のようにして支配しようとする自民党の「思想」が見える。そこには「個人」の「自由」などない。

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黒沢清監督「クリーピー 偽りの隣人」(★★★★)

2016-07-07 08:16:18 | 映画
監督 黒沢清 脚本 黒沢清、池田千尋 出演 西島秀俊、竹内結子、香川照之

 小説が原作らしい。その原作はどうなっているのか知らないが、脚本がすばらしい。
 ふとしたことがきっかけで、過去の「家族失踪事件」を調べはじめた元刑事(西島秀俊)。それを調べているうちに、その事件の起きた現場と、自分の家の「配置」が似ていることに気づく。
 で、過去の「事件」のなかで、ひとり取り残された少女(すでに大人)から「記憶」を聞き出しているうちに、それに「類似」したできごとが、自分の家の、すぐ隣で起きはじめる。これが平行して描かれる。
 過去の事件は「失踪事件」ではなく「殺人事件」だったのだが、そうすると近所でも必然的に「殺人事件」が起きることになる。「過去」が「現在」に反復されているのか、それとも「現在」が「過去」をととのえているのか。
 これって、「推理映画」というか「殺人事件捜査映画」のようであって、実は、そうではない。この映画で起きていることは、「事実」ではなく「空想」かもしれないのである。「事実/事件」として描かれているのだけれど、、つじつまが合いすぎるでしょ? こんなにつじつまがあってしまうのは、「嘘」ということ。

 映画では、一か所、とても変な「映像」がある。
 西島が、過去の事件の生き残りの少女(女性)から、「記憶」を聞き取る部分。大学の研究室に少女がやってきて、そこで「録音」しながら、「記憶」を思い出すということが試みられる。途中、少女が席を立って、研究室のなかを歩きまわる。そのときの照明の変化が、とても変。まるで「芝居/演劇」の「照明」のように「色」がついたり、暗くなったり、明るくなったりする。
 ここから「映画」はほんとうに動きはじめるのだけれど、それから先の「映画」は現実なのか。少女の記憶が再現されているのか、あるいは主人公が思い描く理想の(?)サイコパス犯罪の形なのか。
 「映画」で見るかぎり、それは「現実」として描かれている。リアルタイムで進行していく「事件」があり、その「事件」と「過去の事件」が「似てくる」。いや、「共通」してくる。「共通」と書いてしまうのは、「過去の事件の犯人」と「現在の事件の犯人(香川照之)」が「共通」するからである。犯人は「同一人物」なのだ。
 でも、ほんとう?
 「過去の事件」の生き残りである少女は、香川照之が過去の事件で少女が見た人物であるかどうか、明確には証言していない。少女の反応から、西島が「共通人物(ひとり)」と判断しているだけである。もし香川が犯人(同一人物)であるなら、少女は「現在」に起きた「事件」の「少女」と同じようなことをしたことになる。香川に強制されて、犯罪」を手助けしたことになる。その記憶のために、過去の少女は、記憶のすべてをよみがえらせることを拒んでいる。
 もしかすると、これは香川が引き起こした「事件」ではなく、西島が引き起こした「事件」かもしれない。犯罪者の心理を追いつづける西島が、「心理としての答え」を求めるあまりにつくり出した「事件」かもしれない。西島の「理論」によれば、異常な殺人者は殺人を繰り返す。繰り返すことで「特徴」が明らかになる。そして、「特徴」をつかむと、そこから「隠れている犯人」を浮かび上がらせることができる。いわゆる「プロファイル」というやつだね。
 もし香川が「共通の犯人」ならば、すべての事件がうまく説明できる。つまり「完璧な犯罪/完璧な犯罪者=プロファイルどおりの犯人」が、そこに生まれる。そして、それが「完璧な犯罪/完璧なプロファイル」として「説明」がついた瞬間に、ほんとうはどうだったのか、という「事実」の解明は置き去りにされる。「プロファイル」が正しければ、「事実」はそれにあわせてととのえられなおすのだ。
 「事実」は、少し脇に押しやられる。「事実/事件」は「主役」ではなく、「犯人」が「主役」になってしまう。「犯人像(プロファイル)」が「主役」になってしまう。
 この映画では。
 「犯人=香川」は西島によって銃で撃たれて死んでしまう。「死人に口なし」。「事実」を語ることができる「人間」は、どこにもいない。「証拠」もあるのか、ないのか、さっぱりわからない。主人公の西島だけが、全体を語ることができるのだ。「プロファイル」によって、「事件」を見渡す。映画を見ている観客は、どうしても主人公・西島の視点で世界を見てしまうから、これで「事件」が解決した、決着した、結論が出たと思ってしまうが、そうではないかもしれない。
 犯人が香川であると仮定し、その犯人の「心理」(あるいは行動原理)がわかった、つもりになるが、その心理が「異常」なものなら、それを「わかってしまう」というのは、もっと「異常」かもしれない。「わからない」からこそ、私たちはそれを「異常」ということばで自分から遠ざける。「わかる」ということは、それを自分に「ひきつける」ということなのだから。
 映画を振り返ると、西島が香川になって「犯行」を再現し、その再現のなかで「事実」を確認していることがわかる。そのとき「再現」しているのは「事実」というよりも、西川のつくりだした「理論」である。西島は、「香川が犯人であるという理論」を確認しているのだ。

 ね、怖いでしょ?

 香川の演技がすばらしく、「異常」としかいいようのない「落差」のをある演技をする。そして、その「異常さ」で、いま起きていることが「現実」だと錯覚させる。「現実」に起きていることよりも、というと変だけれど、香川がそこにある何でもないことを「現実/事実」にしてしまう。香川が演技をするたびに、犯人はこいつだ、こいつはなんて異常なんだと思うことで、安心してしまう(?)私。
 これって、変でしょ?

 というわけで。
 きっと多くの人はこんなふうには見ないだろうけれど、「現実の事件」と見るよりも、西島が「精神のなかでみた事件」と見る方が、こわい。西島という人間の「正常」の奥にある「狂気」(犯罪は犯罪心理学でなんでもわかるんだぞ、という認識)に、ぞっとする映画。
 ★5個つけたくなる映画なのだけれど。
 私は、この西島という俳優が好きになれない。竹内結子も、なぜか好きになれない。何を見たのか忘れたが、二人とももう一度見たいという役者ではない。それで★を1個減らした。
     (ユナイテッドシネマ・キャナルシティ・スクリーン7、2016年07月06日)





「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
CURE [DVD]
クリエーター情報なし
KADOKAWA / 角川書店
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自民党憲法改正草案を読む(8)

2016-07-06 23:44:32 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む(8)(2016年07月07日)

第三章国民の権利及び義務

 第三章は、国民と国との関係を定めている。

(現行憲法)
第十条
日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
(自民党改正案)
第十条
日本国民の要件は、法律で定める。

 大きな違いは文の後段に「これを」があるか、ないか。
 現行憲法は、「これを」ということばをつかうことで、前段が「主語」ではなく「テーマ(主題)」であることを明確にしている。
 改正草案は、多くの条文で現行憲法の「主題」を明示するという文体を破棄し、「主語」なのか「テーマ」なのか、あいまいにしている。
 「あいまいさ」を利用して、「改正案」がもくろんでいることを、分かりにくくしている。

(現行憲法)
第十一条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
(自民党改正草案)
第十一条
国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。

 「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。」の「主語」は「国民」。ただ「妨げられない」というとき、「主語」は「国民」なのだが、もう一つの「主語」がそこにある。「国」である。「国は、妨げてはならない。」が書かれていないが、はっきりと存在している。「侵すことのできない」は「国民は」であると同時に、「国は侵すことはできない」という意味だ。
 第三章は国民と国との関係を定めている。常に「国は」という「主語」を補って読まないといけない。
 改正草案では、「国民は、全ての基本的人権を享有する。」ここには、「国」を補うことができない。「国」については何も定めていない。これが、とても重要だ。改正草案は「国」については何も定めず、フリーハンドにしているのだ。
 ここから、すこし振り返る。
 現行の「第十条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」の後半は、「法律がこれを定める」と読み直すことができる。
 ところが改正草案の方は「法律が」ではなく、実は、「日本国民の要件は、国が法律で定める。」なのである。「国」という「主語」が隠されている。「国」を隠しているのである。「法律」を「国」が自在に定めて、その法律で「国」の思うがままにすると言っているに等しい。
 「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」の部分はどうか。「国民に与へられる。」は「国は/国民に与えなければならない」、言い換えると「奪ってはならない(享有を妨げてはならない)」ということである。
 改正草案の「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。」はどうか。やはり「国」を補って読むことができない。抽象的概念として基本的人権を定義しているだけである。
 「国民に与へられる。」を削除することで、「国」の責任を放棄している。これは、逆に見れば、「国は、現在及び将来の国民から、それを奪うこともある」ということだ。「国」に、国民の権利を剥奪することを禁じていない。改正憲法は、「国への禁止事項」を持っていない。
 国民と国の関係を定めるはずが、国については何も定めていない、国民への「禁止」を次々に定めているというのが「改正草案」の「ずるい特徴」である。

(現行憲法)
第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
(改正草案)
第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

 現行憲法の第十二条は「国民の義務」を定めている。「主語」は「国民」。「国民」は不断の努力によつて、これ(自由及び権利)を保持しなければならない。」「自由と権利」をもちつづけるのは「国民の義務」である。そして同時に、「国民」は「自由と権利」を「公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」福祉のために、利用しなければならない。これも「責任」ということばがつかわれているが「義務」である。「義務」と「責任」と同義なのである。
 改正草案はどうか。「保持しなければならない」を「保持されなければならない」と言い換えている。「能動」から「受動」へと文体がかわっている。このとき、現行憲法では「主語」であった「国民」は消え、改正草案では「主語」は「自由及び権利」になっている。何のために? あるいはだれのために「保持されなければならない」のか。「保持するよう」求めているのはだれか。ここに「国」が隠されている。「国のために」は、後半にくっきりと出てくる。
 改正草案の「公益及び公の秩序に反してはならない」の「公」とは「国」のことである。「国の利益」「国の秩序」に反してはならない。
 現行憲法の「公共の福祉」も「国の福祉」なのではないか、と反論があるかもしれない。しかし、これは「国民の」であって「国の」ではない。「福祉」というのは「国民」のためのもの、「国」のためのものではない、ということから、それがわかるだろう。「国の福祉」というような言い方を、私たちはしない。ことばは、それがどんなふうにつかわれているか、ことばを動かしながら「意味」を特定していかないと、「隠された罠」を見落としてしまう。
 さらに「改正草案」で問題なのは「反してはならない」という表現である。「禁止」している。だれが「禁止する」のか。「国民」か。そうではない。「国民」は他の国民に対して何かを「禁止する」ということができない。何をするか。それは「国民の自由」である。
 では、何が「反してはならない」と言っているか。「国」である。書かれていない「国」という「主語」が「国民」に対して「禁止事項」を明らかにしている。
 憲法というのは国(権力)を拘束するためのものだが、自民党は逆に「国民を拘束する」ために憲法を改正しようとしている。
 その姿勢が、ここにも見える。

(現行憲法)
第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
(改正草案)
第十三条
全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

 現行憲法で「個人」と書かれていた部分が「人」になっている。
 なぜ、現行憲法は「人」ではなく「個人」と書いているのか。それは「個人」ということばが向き合っているもの(個人ではないもの)が先に書かれているからである。第十二条の「公共の福祉」の「公共」。「公共」ということばを先に提示したので、それに向き合う「人」を「個人」と呼ぶ必要があるのだ。
 「公共」とは「多数」である。「多数の福祉」のために「自由と権利」を利用する責務を負うのだけれど、だからといって「多数」に従わなければならないというのではない。何を「福祉」と考えるかは、ひとりひとり(個人個人)違うかもしれない。そういう場合は「多数」ではなく、あくまで「個人」の「あり方」が尊重される。「多数」が「これが福祉」と言っても、それに従わなくてもいいのだ。
 「個人」の「個」はひとつ、ひとり。その対極にあるのが「多数」(公共)なのだが、「個」はまた単に「個」ではない。さまざまな「個」が存在するとき、その「個」は「多様性」の「多」に変わるものである。
 「個人として尊重される」は「多様性」として尊重されるということである。他の国民から「多様性」のうちの「個人」として尊重される。これは、国民は他の国民の「多様性」を尊重しなければならない、という意味である。
 同時に、「国」に対して「個人(多様性)」を尊重しなさい、尊重する義務があると言っているのである。
 現行憲法の第十二条は、「憲法の主役」である「国民」の「義務と責任」について定めていた。つづく第十三条は「憲法の脇役/従役」である「国」の「義務と責任」について定めている。「個人として尊重する義務、多様性を認める義務と責任がある」。それがどれくらい尊重しなければならないものかというと、「最大」の尊重を必要とする。国は、ある国民が「そんなことはしたくない、こういうことをしたい」と主張した場合、「公共の福祉(国民の福祉)」に反しないかぎり、尊重しなければならないと「国」に「義務」を負わせている。
 改正草案は「個人」を「人」と書き直すことで「多様性」を否定している。「多様性」を否定し、「国の利益」「国の秩序」に反しないかぎり(つまり、国の命令に従って国の利益になるように、そして国の秩序を守るならば)、その「人」は「国」にとって「最大限に尊重される」というのだ。国の命令に従って国の利益になるように、そして国の秩序を守る人を尊重するが、そうでなければ尊重しないぞ、と改正憲法は「本音」をここで語っている。

 書きたいことはいろいろあるが、ちょっと省略して、

(現行憲法)
第十五条
公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
(改正草案)
第十五条
公務員を選定し、及びこれを罷免することは、主権の存する国民の権利である。

 「国民固有の権利」が「主権の存する国民の権利」と「改正」されている。「国民主権」(国民に主権がある)のだから「主権の存する」は必要のないことば(意味上、重複することば)である。それをわざわざ「挿入」したのはなぜか。
 「主権の存しない(主権を持たないもたない)国民」というものを、自民党の改正草案は念頭に描いているのだ。「公益及び公共の秩序/国の利益及び国の秩序」に反する国民には「主権はない」(主権を与えない)という意識がここに隠れている。
 「国民固有」の「固有」を削除したのも、その証拠である。「国民主権」は「国」が「国民」を与えるもの、「国」が「国民」を選別して、ある人間には「主権」を与え、ある人間には「主権」を与えないというのだ。
 「多様性」を認めない、という考えは、こういうところで「補強」されている。



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川上明日夫『灰家』

2016-07-06 12:22:24 | 詩集
川上明日夫『灰家』(思潮社、2016年05月31日発行)

 川上明日夫『灰家』は、私にはとても読みづらいものがある。たとえば、「灰墓」。

お墓だって減っていったんだ
肩ひじ張って生きてきたから
角がとれ
はじめて
きがつき
そんなにつっ張らなくてもと
そう なんどおもったことか
雨が降って
風が吹いて
刻がたって
さらされてあるものの哀しみ
命あるものの喜びや怒りがさ
くりかえされ
いつのまにか

 リズムが、「肉体」になじまない。「文字数」が視覚の上でパターンをつくり、それがリズムになるかといえば、私には、リズムとは感じられない。
 絵画の場合、線や色にリズムを感じるが、ことばの場合、リズムは「音」。目で見て、リズムを感じることが私にはできない。
 声に出して確かめれば、長い行と短い行でリズムの変化があるのかもしれないが、黙読しかしない私には、「視覚」がリズムを聞こえなくさせてしまう。形がじゃまになって、リズムが「肉体」に伝わってこない。目と耳が重なり合わない。分裂してしまう。

 ことばの分裂のなかに、詩がある。

 たぶん、そう言うことなのだろうが、これは私が「頭」で考えたことであって、「肉体」が感じることではない。「頭」のいいひとには、こういう「頭」で考えたことが「論理」どおりに動いていく作品というのは「快感」なのだろうけれど、私は「快感」にたどりつけずに、めんどうくさいと感じてしまう。
 もっと簡単に、ミーハーっぽく、「これ、かっこいい」と感じたい。ランボーの腹が減って石だって食らいつきたい、という詩は「意味」としてはむちゃくちゃだが、つまり「頭」で考えれば、そんなことしたって腹は膨れない。食べる前に、歯ががたがたになる。だが、そのむちゃくちゃなところに、ことばを発するときの「喜び」がある。ミーハーになれる。
 川上の詩では、そういうことが、起きない。私の場合は。
 「肩ひじ張って」「角」「つっ張らなくても」という「意味の繰り返し」のなかには「肉体」の動きが反芻されていて、それが「なんど」という「意味」にととのえられていく部分は、我慢して読めばリズムにならないことはないのだが、「哀しみ」「喜び」「怒り」という「抽象」が、何と言えばいいのか、べったりしていていやな感じなのである。
 これも、リズムの抑制、あるいは抑制されたリズムと「頭」で整理すれば、「静かな快感」になるのかなあ。
 でも、

命あるものの喜びや怒りがさ

 この末尾の「さ」は、どう?
 「口語」によるリズムの破壊、書きことばと口語の「分裂」と読めばいいのかもしれないが、うーん、昔むかしの(と言っても1970年代の)抒情詩の「技法」みたいで、いやだなあ、と私は感じる。

 しかし、「灰売り」は、書き出しが楽しかった。

灰はいらんかね

身を粉にして魂になったよ
骨身をけずって灰になった
生と死のはざま
かるがると
雲も流れていた
灰はいらんかね

地上では
この世の
生の芽が咲くころだったな
死の芽が咲くころだったな

 この作品でも、不思議な「行ぞろえ」が作品の、「視覚のリズム」をつくる力になっているのだが、

雲も流れていた
灰はいらんかね

 この二行は、「形」は「対」だが、べったりくっついている感じがしない。「意味」が離れている。飛躍している。どこかに、「意味」の連続があるのかもしれないけれど、前半に出てくる「身を粉にして/骨身をけずって」「魂/灰」、後半に出てくる「地上(天上ではない)/この世」、「生の芽/死の芽」のような「類似/類似」、「正/反」という「連絡」がない。逆に言うと「断絶」がある。この「断絶」がリズムをつくっている、ここにほんとうのリズムがある、と私は感じてしまう。
 一行目の「灰はいらんかね」が繰り返され、それが詩のことばを凝縮させる。そこに詩がある。「ことばの分裂が詩である」、川上の詩はそういうものをめざしているのだろうと指摘したことと矛盾するようだが、ここにある「破壊による凝縮」は、俳句でいう「遠心/求心」のような関係だ。破壊があるから凝縮がある。それは一瞬のうちに起きる相反するエネルギーの活性化した状態なのだ。
 で、もう一回「灰はいらんかね」と繰り返されたあと、最後の方、

死に眼が からっぽなのさ
空で
ひっそり 蠢いているよ
いらんかね 灰

 ことばの順序が入れ替わる。この瞬間、「意味」ではなく、「肉体」がぱっと反応する。私の場合。いままで言っていたことばを逆にするだけなのだが、「肉体」が攪拌される感じになる。舌やのどや口のなかが、洗いなおされる感じ。
 こういう「断絶」がもっとあれば、私にも読みやすく感じられるだろうなあ、と思った。

灰家
川上 明日夫
思潮社
コメント (1)
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7月10日は参院選の投票日だと、人に語りかけよう。(番外/2)

2016-07-05 10:09:12 | 自民党憲法改正草案を読む
7月4日(月曜日)NHKのニュースが伝える「今週の予定」。
http://健康法.jp/archives/18874
私はテレビを見ないので、直接確認したわけではないのだが、これはあまりにも「偏向」した報道である。
「世界遺産委員会」や「大相撲」がニュースではないとは言わないが、7月10日は参院選投票日である。
これが「今週のニュース」に入らないのはどういうわけだろうか。

みんなが知っているから?

しかし、みんなが知っていても知らせるのが「報道機関」の仕事である。

NHKが安倍政権よりの報道しかしなくなったことは、すでに語られて久しい。
熊本地震のときは、川内原発のある鹿児島でも震度を観測しているにもかかわらず、地震観測地点を示す地図から鹿児島県を除外していた。
熊本県の南は鹿児島県に隣接しているにもかかわらず、鹿児島での震度を地図に載せていない。
これは原発差再稼働に反対する動きを抑えるためのものだろう。地震が起きると原発の安全性に対して疑問の声が高まる。そういう声を起こさせないために、あたかも鹿児島では地震が観測されなかったかのようにしている。
もちろん画面表示できる「スペース」には限りがあって省略せざるを得ないときもあるだろうが、ほんの少し地図を小さくすれば鹿児島は掲載できる。
そういう工夫をしないところが、すでに情報操作なのである。
九州電力のダムが壊れ、水が流出した。それが原因で崖崩れが起きたと推測される記事が新聞などで報道されると、NHKは水が流出している現場の録画を放送した。そういう現場を撮影していながら、他の報道機関が問題にするまで、情報を隠していた。
(すでに放送されていたかもしれないが、私がその映像を見たのは、ダム崩壊が崖崩れを引き起こしたのではないか、という報道が新聞でおこなわれたあとのことである。それまでは、見ていていない。また、水があふれている写真を新聞で見たこともない。)
本来なら、撮影直後に放送すべきだろう。他の報道機関が把握していない事実なら「特ダネ」だろう。
しかし、それを放送すれば九州電力に悪影響を及ぼすと判断したのだろう。
被害を受ける住民のことは、どうでもいいのである。
NHKは放送する時間がなかった、と言い訳をするかもしれない。

今回の「今週のニュース」も「スペースが足りなくて、省略した」と言い訳をするかもしれない。
しかし、スペースくらい工夫で広げられる。
一項目増やすと文字が読めなくなるくらい小さくなるというわけではない。

なぜ、「参院選投票」という項目を外したか。
18歳選挙権が認められ、18歳、19歳の投票率が話題になっている。
アベノミクスの経済政策と同時に、与党が参院で三分の二の議席を獲得し、憲法改正へ向けて動きを加速するかどうかが注目されている。
はじめて投票する18歳、19歳の投票行動は「判断材料(予測材料)」がない。
多くのひとが投票し、そのために野党の議席が増える、与党の議席が減るということがあっては、困るという思惑(安倍政権の思惑)が反映されている。
そう考えるしかない。

選挙は、選挙報道が少なくなれば少なくなるほど、与党に有利である。
候補者に関する報道は、立候補受け付け順に報道される。政党に関する報道は、国会における勢力順に報道される。
こういうとき、報道の割合(放送なら放送時間、新聞なら報道行数)をなるべく「そろえる」のが普通である。各候補、各政党の主張を公平に報道しないと、選挙妨害にもなりかねない。
これは「少数意見」に配慮した「民主主義」の鉄則のようなものである。「公正/公平」が守られないと、「少数意見」は報道されないことになる。

NHKは、「報道しない」という「公平」を貫くことで、「民主主義」を否定している。
「少数意見」の権利を奪っている。
「少数意見」があるということを報道しないことで、すでに存在が知られている「与党/多数意見」だけを優遇している。
NHKは、「報道しない」という基準を「少数意見」にだけあてはめたのではなく、大多数の与党にもあてはめている。
だから「公平/公正」だと主張するかもしれない。
だが、そういう「論理」が、すでに差別的で間違っている。
何もしないことは、「公平/公正」ではない。
「少数」に配慮しないことは、「多数」の優先なのである。

ただ単に「あるがまま」が「公平/公正」なのではない。
不利な立場のひとに配慮し、「対等」であるようにするのが「公平/公正」である。
バリアフリーの思想は、そういうところから生まれ、ようやく根付き始めている。
言論においてもバリアフリーは重要な問題である。
NHKのような、「公共放送」が、「バリア」をつくる報道をするのは許せない。

こんなことでは、もう二度と、自由、公正な選挙は実現しないだろう。
今回の参院選の結果、与党が議席の三分の二を占めることになれば、もう二度と「自由な選挙」はおこなわれないだろう。

NHKの「今週のニュース(今週の予定?)」は「少数意見への弾圧」には見えないかもしれない。
それは「見えない」ように巧みに仕組まれているからである。
「書き漏らしただけ」「スペースが足りないから省略したのであって、少数意見を弾圧したわけではない」と、NHKは言い張るだろう。
公共施設にバリアフリーのスロープがない、車椅子で使用できるトイレがない(入り口が狭くて車椅子が入れない)、点字ブロックの案内がないとき、それつくったひとは「身体障害者を排除しているわけではない」と言うだろう。
しかし、「排除する意志」がなくても、「配慮する意志」がないなら、それは結果として「排除」なのだ。

18歳、19歳の投票率は、低いだろうと予測されている。
福岡県うきは市長選は、全国で最初に18歳、19歳が選挙権を行使した選挙である。
投票率は38%ときわめて低かった。
参院選もそうなるのかもしれない。
しかし、低くなることを「利用」して選挙戦を戦う、低くなるようにしむけて選挙結果を誘導するというは、完全に間違っている。
ひとりでも多くの人間が、ひとつでも多くの「主張」にふれて、「選択する」。
そういう機会をつくるのが報道の使命だろう。

選挙に行こう、投票しよう。
7月10日は参院選の投票日だと、人に語りかけよう。
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三井喬子「オフィーリア、オフィーリア、と三度唱えよ」

2016-07-05 08:47:38 | 詩(雑誌・同人誌)
三井喬子「オフィーリア、オフィーリア、と三度唱えよ」(「イリプスⅡ」19、2016年07月01日)

 三井喬子「オフィーリア、オフィーリア、と三度唱えよ」も、「どんな表現も感覚の歓びを伴わなくては詩にならない。」(北川透)ということを証明している。というか、三井の詩を読むと、「意味」ではなく、ことばを発するときの「感覚の歓び」が動いている。(私の言い方で言い直せば、「ことばの肉体」が動いている。ことばが「意味」に縛られず「自発的」に動いている。)
 タイトルの「オフィーリア、オフィーリア、と三度唱えよ」からして、もう、そこに「歓び」がある。「オフィーリア、オフィーリア、」は「二度」。「三度」ではない。しかし、「三度唱えよ」ということばがつづくとき、「ことば」の内側では「オフィーリア」が「三度」動いている。書かれているのは「二度」なのに。「オフィーリア、と三度唱えよ」では、「音」が聞こえない。「オフィーリア、オフィーリア、オフィーリア、と三度唱えよ」では「三度」が聞こえなくなる。そこに「三度」と書かれているのに、それが「三度」に聞こえない。うるさいことばになってしまう。一回省略されている反復(リズム)だからこそ、そこに「三度」が自発的に動いていく。ことばの肉体が歓んで動いていくのだ。「隙間」というか、「二度」なのに「三度」と「飛躍」していくところに、思わず「ことばの肉体」が誘い出されて動き出す秘密がある。
 このタイトルを受けて、書き出しも楽しい。

構成された言葉の隙間に水が満ち
オフィーリア あなたは
花々の下に暗い根茎のはびこりを許すのだ
抱きしめられるとき
それも精神への暴力だと知りながら
オフィーリア
束縛を求める悲しさ 寒さ

 「構成された」という抽象的なことば。「花々の下に暗い根茎」という具体的なことば。具体的とは言っても、「花々の下」は土のなかなので「暗い根茎」が直接見えるわけではないから、それも抽象的と言ってもいいかもしれない。しかし、花々が根を持っていることは、知っていること(花を抜いたときに見たことがある)ので具体的とも言える。「構成された」は逆に抽象的ではあるけれど「言葉」と「言葉」のつながりは耳(音)や目(文字)で確かめることができるので具体的であるとも言える。
 抽象と具体が、ここでは交錯して動いている。
 その「交錯」した感じ、抽象と具象が入れ替わる感じ、どちらがどちらとも言えない感じ、両方の感じが……。

抱きしめられるとき
それも精神への暴力だと知りながら

 この「抱きしめる」(抱擁/愛)と「精神への暴力」(愛ではないもの)という「交錯」を輝かせる。しかも、それは「知りながら」と書かれているように、「知っている」ことなのだ。「知っている」とは「肉体」で「おぼえている」ということ、「肉体」で「思い出すことができる」ということなのだが、そういうことを書きはじめると、私がいつも書いていることの繰り返しになってしまうので、今回は省略。
 それが「暴力」と「知りながら」、それを「求める悲しさ 寒さ」。このとき「暴力」は「束縛」と言い直されているのだが、言い直すことで「暴力」が「肉体的」なのものであるのに、「悲しさ」という「感情」に、さらには「寒さ」という「感覚」に変化していく。
 ここにも具象と抽象の交錯があり、それが精神を活性化させる。この活性化を「歓び」という。「ことばの肉体の自発的な動き」(自律的な変化)があり、その動き/変化が、ことばを「語る」ときの「歓び」そのもとなって伝わってくる。
 「花々の根がはびこる」を「はびこりを許すのだ」と、「主語」を「花々」から「オフィーリア」へと変化させる(文章的には最初から「主語」は「オフィーリア」だけれど……)ときの、「ねじれ」のようなものにも「官能」がある。次に書かれる「暴力」に「束縛」されることを「許し」、さらにそれを「求める」という「矛盾」が「歓び」となって輝く。
 こういう不思議な「錯乱」を「オフィーリア」ということばの繰り返しが支えるというか、その繰り返しのリズムが「錯乱」のスピードを後押しする。

 でも、これを

パズルのように一言を入れ替えると
「愛」が愛として成り立つのよ
と あなたは言った
透明な
早春の光の中で

 とつないで行くと、うーん、「歓び」が消えてしまう。最初に書かれていた抽象と具象の拮抗、肉体と精神の衝突のようなリズムがなくなる。
 書き出しはあんなにおもしろかったのに、とだんだん残念になる。

オフィーリア、
オフィーリア、
オフィーリア、
三度唱えて肌を重ねて
素早くあなたに入るとき
これは葡萄のお酒よ花の蜜よ
と囁いた

 あ、ほんとうに「三度」、「オフィーリア」を声にしてしまっては、もう「飛躍」はない。「美しさ」を装って「比喩」が逆に「卑俗」そのものになる。

紅の小箱
三井 喬子
思潮社
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藤井貞和「オルタナティヴ」ほか

2016-07-04 08:47:57 | 詩(雑誌・同人誌)
藤井貞和「オルタナティヴ」ほか(「イリプスⅡ」19、2016年07月01日)

 藤井貞和「オルタナティヴ」。タイトルの「オルタナティヴ」ということばは時々読む。私はカタカナ難読症なので、正確には「読む」ではなく、「見る」。で、「見る」だけなので「意味」はわからない。「文体」に関係しているらしいということだけは想像がつくがそれ以上はわからない。
 わからないまま、正確には、わかろうともしないまま、いや、わかりたくないまま、私は藤井の詩を読む。

意味不明の突出した描写は
焼跡から イエスを
無頼派(戯作の)文体が
描かれている なおそのうえで
兵隊服の男が朝鮮人男性とは言えるかしら
と煩悶し おいらはたしかに
内向きに収斂する

 読んだ瞬間に石川淳の「焼跡のイエス」を思い出す。「意味内容」ではなく、藤井の書いていることばを借用すれば、「意味不明」の「突出した描写」ということばが、石川淳を思い出させる。
 「突出した描写」とは「文体」のことである。「文体」と言い直されている。と、私は勝手に解釈する。
 石川淳は、私の大好きな作家だが、なぜ好きかといえば「文体」に特徴があるからだ。真似したくなる。とても真似できないが、読んでいるときは、世界にはこの「文体」しか存在しえないという感じで迫ってくる。
 「意味不明」とは言わないが、そうか「意味不明」と言った方が正確なのかとも思う。
 ストーリーなど気にしないで、「意味」など気にしないで、そこにあることばを読んでいるからである。「不明」と言ってしまった方が、「文体」に酔っている感じを正確にあらわすと思う。
 この「酔う」は「煩悶」と言い直してもいいかもしれないなあ。
 何かに強引にひっぱられ、それが苦しくて、なおかつうれしい。うれしくて、なおかつ苦しい。もだえる。
 で、それが

内向きに収斂する

 あ、この「内向き」が「オルタナティヴ」? 「意味」の「内側」にあって、「不明」な何か、エネルギーをそのまま突き動かしていく力が「オルタナティヴ」か、と勝手に思うのである。
 「文体」だから、「文体」そのものは、「意味」を外に押し出しているのだと思うのだが、「意味」をことばの外側に押し出さないと「文体」にはならないとおものうだが。
 そう思いながら、その「意味」ではなく、何と言えばいいのか「押し出す力」に触れて、「私」が押し出されるのではなく、押し出してくる力を逆にたどるようにして、その力の「内部」に入り込む。言い換えになるかどうかわからないが、その「内部」に「収斂」していく。
 そんなことを「肉体」が感じてしまう。石川淳の「文体」に触れると、そんな感じになる。

 そういうことを藤井は書いているのだ。

 と、私は勝手に思う。
 こういうことを感じさせる/考えさせることばの力そのものを「オルタナティヴ」というのだろう、と私は勝手に思う。

 私の「解釈」が「正しい」かどうか、私は気にしない。「誤読」かどうか、気にしない。「正しい/間違っている」ということは、読むときに何の関係もない。「読む」ときに重要なのは、ことばをつかって「考えているか/感じているか」ということ。その「感じ/考え」が間違っているとしたら、それはそれで、なんらかの「間違える」という理由があるのだ。私には、それが何かわからないけれど、「間違える」ことでしかあらわせない「正直」がそこにあるのだと、私は勝手に思っている。

 あ、こんなでたらめを書いては、藤井の詩の「鑑賞」をじゃますることになるかな。
 そうかもしれない。
 けれど、そう書かずにはいられない。
 そういうことを書かせる「力」が藤井の、この一連目にある。
 これは何かなあ、何と言えばいいのかなあ、と思いながら、「イリプスⅡ」のほかのことばを読み進む。そうすると北川透の「言語表現と権力意志」という「講演記録」が載っている。吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』以後の五十年について触れたもの。そのなかに、吉本から少し脇道に入った形で鈴村和成のランボーの訳詩が紹介されている。「空腹」という作品。「くだいた石ころを食え、/教会の古びた石とか、/古い洪水が残した砂利を、/灰色の谷間に撒いたパンを食え!」という部分を紹介したあと、こんなことを北川は言う。

意味としては飢えの文脈しかないのに、メタファーによる印象的なイメージ、命令形の連発、同種表現の繰り返しによる音楽性、誇張表現、卑俗で親しみのもてる語り口などの表現性においては、感覚の歓びが溢れています。腹が減って、もう、なんか石ころでも食べたい、という否定的なことが、詩の表現レベルでは感覚の歓びに変じている。これは一体どういうことなのか。どんな表現も感覚の歓びを伴わなくては詩にならない。

 あ、これが「オルタナティヴ」の「定義」かも、と私の「直観」は叫ぶ。
 「これは一体どういうことなのか」と思わずにはいられない何か。「意味」(腹が減っている)なら、そのことに肉体が集中しているはずなのに、ことばはまるで腹が減っていないように輝かしく動き回る。こんなことは、実際に腹が減っていては許されることではないのに、詩では(文学では)、許される。いや、それがないと詩にならない。文学にならない。
 「意味」から「突出した描写」。それなのに、感じるのはことばの「内側」にある力。「描出/描写」の根源でことばを押し出す力。それに向かって、読んでいるときの興奮は「収斂」していく。

 というような、テキトウなことを、私は考えたのである。感じたのである。
 「オルタナティヴ」には対になったカタカナ語があったが、カタカナ難読症の私には、それが思い出せない。書けない。
 もしかしたら、私の書いたことは、その書けない方のカタカナ語の方のことかもしれないが、それがどっちにしろ、そんなものははなしているあいだに混じりあってしまうものだろうから、私は気にしないのである。





文法的詩学その動態
藤井 貞和
笠間書院
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ジョン・クローリー監督「ブルックリン」(★★★★)

2016-07-03 09:08:12 | 映画
監督 ジョン・クローリー 出演 シアーシャ・ローナン、エモリー・コーエン、ドーナル・グリーソン

 どんな映画にも「国民性」があらわれる。それが見える瞬間がとてもおもしろい。
 この映画はアイルランドからブルックリンへ「移民」として移り住んだ女性の、成長を描いている。アイルランドの街で「地味」な暮らしをしていた少女。新しい仕事を求めてブルックリンへ行く。そこで成長する。その幸福のさなかに、「故郷」のアイルランドで姉が死ぬ。母親がひとりになる。慰めに帰ると、成長した少女をみた故郷のひとは、彼女をアメリカに帰したがらない……。
 これに女性の「恋愛」が絡んでくるのだが。
 私がいちばんびっくりしたのは、ラストシーン直前の、かつて働いていた食品店(?)の女主人との対話のシーンである。
 女性はブルックリンで結婚したことをだれにも言っていない。けれど女主人は親類の娘(男だったかな?)からの手紙で、彼女が結婚していることを知っている。そして、その知っていることを利用して、彼女を支配しようとする。簿記の能力を身につけた主人公を自分の店で働かせようと画策する。(と、までは描かれていないのだが、そんな感じだろう。)
 この瞬間、主人公は、アイルランドの故郷の本質を知る。だれもが親密である。けれど、一方で、だれもがだれかを見張っている。すべてを見つめ、一首の「調和」を保とうとしている。「調和」が破壊されることを拒んでいる。
 それは、たとえば、少女が食料店で働いていたころは、ラグビーに明け暮れる裕福な若い男は彼女に目もくれない。しかし、アメリカで洗練され、事務的な能力も身につけていると知ると自分の側へ引きつけようとする。「有能」な人間は「有能」な人間と結びつくことで「調和」を保とうとする。一方、かつて彼女を雇っていた女主人は女主人で、主人公を自分の側に引き寄せ、自分の暮らしを少しでも豊かな形に整えなおそうとする。「よりよい調和」を手に入れようとする。
 このときに、動く力、人間を動かそうとする力のあり方が、とてもおもしろい。アイルランド的なのだ。(もちろん、これは私が見るアイルランドであって、アイルランド人は違うと言うかもしれないのだが。)
 アイルランドでは、「私は、あなたの秘密を知っている。それをみんなに知られたくなかったら、私の言うことを聞きなさい」という具合に、力が働く。一種の「監視社会」かもしれない。あるいは「秘密」を「共有」する「結社社会」かもしれない。
 この「秘密」に対する態度は、イギリス個人主義とはまったく違う。イギリスでは、どんなに「他人」に知れ渡っていようと、その「秘密」を持っているひとが自分のことばで語らないかぎり「秘密」は「事実」にならない。だから、それが本人から語られないなら、だれもそれを批判したりはしない。そのひとが自分のことばで語ってこそ、それが「事実」になる、という厳密な「きまり」のようなものがある。
 で、この不思議な「監視社会」が、アメリカに渡ると「警察組織」になる。アメリカではアイリッシュの警官が多いが、これは「社会(共同体)」を見まわし、その「調和」を維持しようとするアイルランド人気質を反映したものだろう。女は、噂話で、他者を監視し、しばる。(噂になるような行動をしばる。)男は噂話のかわりに、「調和」から逸脱していく人間を取り締まる、ということだろう。
 ブルックリンの恋人の家に招待されたとき、その家の末っ子が、兄は警官に殴られた。アイルランド人だ。警官はみんなアイルランド人だ。全員が団結して襲いかかってくる。(嫌いだ。)みたいなことを言うが、ここに、イタリア人とアイルランド人の違いが、くっきり出ている。イタリア人も「結社」をつくるが、それはマフィア。アイルランドの警官結社とはまったく逆の存在である。
 「調和」は「規律」と言い換えることもできる。
 アイルランド人は「調和/規律」を好むのだ。指向するのだ。主人公が下宿する家でも「規律」がはっきりしている。夕食のとき、全員がそろう。会話しながら食事する。これは、この映画が描いている60年代の習慣かもしれないが、それだけではないだろう。そのときの「テーブルマナー」というか「時間」のあり方を女主人がしっかり支配している。話題が逸脱していくと、叱り、食卓にふさわしい話題へと引き戻す。
 さらに。主人公はデパートの店員をしているだが、大学の夜学に通い、簿記を学び、会計士を目指す。この「簿記を学ぶ」というのが、また、何ともアイルランドらしいではないか。簿記のことはよくわからないのだが、収支を一覧表にして、金の動きを整え、監視する。「調和」に乱れがないかを点検する。そういうことができる「能力」をアイルランド人はとても尊重するのである。「調和の実務」と呼ぶべきものが「簿記」である。
 おそらく、というのは、私の勝手な推測だが。
 主人公がブルックリンで「簿記」ではなく、たとえば「建築士」とか「調理師」というような「資格」を獲得して、アイルランドにもどったのだとしたら、この映画に描かれているような「ひっぱりあい」は起きなかっただろう。「簿記」は金の流れの「調和」を監視するものだ。「裏で調和を整える」という「簿記」の仕事だったからこそ、それが「必要」なのものとして、裕福な男からも、小さな店の女主人からも、ひっぱられることになったのだ。
 その「ひっぱりあい」に引き込まれて、主人公は、アイルランドの限界を知ったとも言える。ここには「自由」はない。「監視」と「調和」がある。それは静かで、ある意味では「美しい」かもしれないが、息苦しい。「安定」しているかもしれないが、何かが違う。みんな、ただただ「ひきとめよう」としている。「固定」をめざしている。その「固定」は、別の視点からみると、「成長していく人間」を許さない、「成長していく人間」を自分の下におくことで自分が上にのぼっていく、ということをめざす社会にも見える。
 主人公は、こういう社会に見切りをつけ、新天地「アメリカ」へと帰っていく。

 「管理/調和/結社」は、この映画で描かれるスポーツをとおしても感じられる。アイルランドのスポーツはラグビーとゴルフ。ラグビーはあきらかに上流社会(紳士)のするもの。庶民は、しない。ラグビーのチームメイトは日常でもそろいのブレザー、ポマードで固めた髪形で「結社」を強調する。ラグビーが男のスポーツであるのに対し、もうひとつのスポーツであるゴルフは男女が一緒にできる。肉体のぶつかりあいがないから。女性は、このゴルフを通じて上流社会の「秘密」のなかへ入っていく。
 一方のアメリカのスポーツは何か。野球だ。それは紳士のスポーツではない。庶民のスポーツであり、選手にしろファンにしろ、日常でそろいのブレザーを着るようなことはない。外側を固めていない。
 そういう「社会」の違い、生き方の違いも、この映画から強く感じられる。

 私の感想では、主人公の「恋愛」がかすんでしまうが、二人の男のあいだで揺れる恋愛を描きながら、その背後でアイルランド人とアメリカ人の違いを見つめている点がとてもおもしろかった。
 シアーシャ・ローナンは姿勢がとても美しく、二人の男のあいだで揺れながらも、崩れていくという感じがしないのがよかった。「芯」が真っ直ぐな感じが、この映画を支えていると思った。



 映画とは離れてしまうのだが、ジョイスの「ダブリナーズ(ダブリン市民)」も、「簿記感覚」の小説なのかもしれない。人間の「感情の収支」が、実在の場所を舞台に、克明に描かれている。どんな小さなことも見落とさずに、記録し、それがそのまま「収支報告」になっている。突然、「ダブリナーズ」を読み返したい衝動に襲われた。
 この映画が「ダブリナーズ」のジョイスの文体のように、静かで正確なのも、そういうことを感じさせるのかもしれない。人間の対立は「小さなこと」で「一瞬」のうちに起きる。そこからどんな「爆発」があったかは、それぞれの読者(観客)が自分の体験をさぐりなおすことでわかるので、「爆発」はさらりと描写してしまう。
 で。
 映画にもどると、主人公がアメリカへ帰ると言ったときの、母親の態度がすごい。見送ることもしない。寝室へひきあげる前に(夜の八時前に)、「これが最後のさよならだ」みたいなことを娘に言う。「家族」という「結社」から出て行くのなら、出て行け、私は知らないという激情が、ぐいと抑えられたまま描かれている。「爆発」が結晶している。 なんだか、こわい映画でもあるのだ。
           (天神東宝・ソラリアシネマスクリーン8、2016年07月01日)




補記

 アイルランド気質=簿記精神は主人公の姉がやっているゴルフにも反映されている。単に何打でホールアウトするかということだけではなく、いつも「パー」を問題にしている。それぞれのホールに「基準」があり、それを上回ったか、下回ったかが問われる。最終的に「総合打数」と相関するのだけれど、つまり「総合打数」が少ない人が優勝するのだけれど、そのとき必ず「何アンダー」かが言及される。「収支基準(?)」があって、それをどれだけ上回るかが重要なのだ。「収支基準」を重視するのは「簿記精神」だろう。
 主人公がブルックリンの男と、アイルランドの故郷の男のあいだで揺れ動く。これも一種の「簿記感覚」である。どちらが「収支基準」にあうか。男を天秤にかけているような感じがするかもしれないが、「収支」を見極めるというのは重要なことであり、アイルランド気質が、ここにも濃厚に出ていると言える。




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自民党憲法改正草案を読む(7/番外編)

2016-07-03 08:00:09 | 自民党憲法改正草案を読む
憲法の読み方、安倍の論理の欠陥

https://www.facebook.com/gomizeromirai/videos/1213620158678119/
 上記のURL のビデオで安倍が「憲法」を批判している。2012年12月の発言であり、いまとは違うというかもしれないが、非常に疑問に思ったことがある。
 そのことを書いておく。

安倍の発言の要約。
********************************
 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの生存と安全を保持しようと決意した」と書いてあるんですね。
 つまり、自分たちの安全を世界に任せますよ、と言っている。そして「専制と隷従、圧迫と偏狭をこの地上から永遠に除去しようと務めている国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う。」
 自分たちが専制や隷従、圧迫と偏狭をなくそうと考えているんじゃないんですよ。
 国際社会がそう思っているから助けてもらおうと。いじましいんですね。
 みっともない憲法ですよ、はっきり言って。
***********************************
 安倍の発言のすべてがビデオでわかるわけではないのだが、私には、安倍は憲法の前文を故意に省略しているように思える。
 前文の第一段落に、
 「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
と明記している。
 戦争は「政府(国家権力)」が引き起こしたもの。引き起こすもの。「国民」が起こすものではない。
 日本国民は、政府(権力)によって、そういう事態が起こらないようにするために、「主権は国民にある」と宣言し、政府(権力)の暴走を拘束するために、この「憲法」をつくる。
 「主語」は国民。
 「憲法は権力を拘束するもの」ということを、まず明確にしている。「国民」が「憲法によって、政府を暴走させない」、「政府が憲法を守るかどうか厳しく見つめる」と言っている。
 これは、「私たちは、日本の政府(権力)の暴走を縛るために努力する」ということである。
 「自分たちの安全を世界に任せます」とはひとことも言っていない。
 逆である。
 「世界の安全のために、日本の政府が戦争を引き起こさないように監視する、憲法を守らせる」と宣言している。
 ここには第二次大戦が日本政府によって引き起こされ、その結果が世界に及んだという反省がこめられている。

 さらに、第二段落で呼びかけているのは、「諸国」に対してではない。
 「諸国民」と明確に書いてある。
 「主権者」である「日本国民」が、やはり「主権者」である「諸国民」に呼びかけている。
 「主語/主役」の「日本国民」が、やりは「諸国」の「主語/主役」である「諸国民」に呼びかけている。「国民」こそが「主語/主役」であるという認識で、憲法が書かれている。「国」というのは「国民」があってはじめて生まれるのであって、「国」が「国民」を支配するという考え方は、どこにも書かれていない。
 「戦争は、政府(権力)が引き起こすもの」。だから「平和を愛するなら、あなたがた諸国民もあなたの政府(権力)が戦争を起こすことのないように、権力の暴走を防いでほしい」と呼びかけているのである。これは繰り返しになるが、「私たち日本国民は、日本の政府が戦争を引き起こさないよう監視する」という意味である。
 諸国の「政府」ではなく、諸国の「諸国民」を「信頼する」。
 この思想の背景には、
「国民は戦争を起こさない(起こせない)、戦争を起こすのは政府である(政府が戦争を布告する)」という考えがある。
 この「思想」を安倍は、わざと省いている。
 これは逆にいえば、安倍が「主権」が国民にあると考えていないということでもある。「主権」は政府にある、と考えているということでもある。
 「専制と隷従、圧迫と偏狭をこの地上から永遠に除去しようと務めている国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う。というのも、「国(政府/権力)」が「国際社会」で「名誉ある地位を占めたいと思う」と言っているのではない。「国(日本)」を「主語」にして発言してはいない。
 前文の「主語」は一貫して「日本国民」である。「主権者」である。安倍は、このことをまったく理解していない。ほんとうに憲法を読んだのかどうか、疑問を感じてしまう。
 現行憲法の前文は、
 「主権者=国民」は、他国の「主権者=国民」と連携する、
 と宣言している。
 言い換えると、「主権者(国民)」は、「戦争を起こしたことのある政府」などは信頼しない、と言っているのである。信頼していないから、憲法をつくり、「政府」を縛りつけると言っている。
 それくらいの強い気持ちを「前文」に込めている。
 「政府を拘束するぞ」と言っている。
 なぜ、政府を拘束するかと言えば、政府こそが戦争を引き起こすものだからである。
 前文の「主語」が一貫して、国民であることは、最後の段落、
 「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」
 からもわかる。
 「われら」とは「国(政府)」ではない。「日本国民」である。
 安倍が言うように、「自分たちが専制や隷従、圧迫と偏狭をなくそうと考えているんじゃないんですよ。」と言うことではない。
 逆である。日本国民は、「日本の国から専制や隷従、圧迫と偏狭をなくそう」と努力する。 自分たちで、「日本の国から専制や隷従、圧迫と偏狭をなくそう」と言っている。
 「政府(露骨に言えば、安倍のような人間)」は「専制や隷従、圧迫と偏狭」を日本人に押しつけてくることがあるかもしれない。いま、まさに、そういうことが起きようとしている。それに対して憲法前文は「闘う」と宣言している。「専制や隷従、圧迫と偏狭ををなくそうと考えている」と言っているのだ。
 「諸国民」に対し、「日本政府(安倍)」の暴走を止めてくれ、と依頼しているわけではない。あくまで、日本国民は、「政府が暴走する国」をつくらない、「政府の暴走を許し、政府が戦争を引き起こすというようなことがないようにする」、そういう「国家をつくる」ことを誓うと言っているのだ。
 どこにも「助けてもらおう」という気持ちはない。

 安倍は、「いじましいんですね。みっともない憲法ですよ、はっきり言って。」と言っているが、これは「安倍にとってはみっともない憲法である」という意味に過ぎない。つまり、この憲法のもとでは、「最高権力者」として日本国民を支配できない、これでは「最高権力者=安倍」がみっともない。「最高権力者=安倍」が国民より下なのは「みっともない」と感じているということだ。「最高権力者=安倍」が国民の考えていることにしたがわなければならないなんて、「みっともない」と考えているのだ。
 国民の「理想」を実現するために努力することを「ほこり」とはいわずに、「みっともない」と考えることこそ、私から見れば「みっともない」。あくまで「最高権力者=安倍」は国民を支配しないことには「最高権力者」になれない、と思うことこそ「いじましい」。
 安倍の発言は「国民」のことを考えない思想だ。国の「主役/主語」が「国民」であることを忘れた発言である。
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虫武一俊『羽虫群』

2016-07-02 10:44:00 | 詩集
虫武一俊『羽虫群』(書肆侃侃房、2016年06月20日発行)

 虫武一俊『羽虫群』は「新鋭短歌シリーズ」の一冊なのだが。
 これが短歌なのか、と驚いてしまう。

少しずつ月を喰らって逃げている獣のように生きるしかない

 巻頭の一首。たしかに「五・七・五・七・七」という「音律」は「短歌」のものなのだが、どうもおかしい。「歌」になっていない。「声」がことばの向う側から、こちら側に響いてこない。

生きかたが洟かむように恥ずかしく花の影にも背を向けている

 これは二首目。これも「五・七・五・七・七」ではあるのだが、それは「数えてみて」はじめてわかること。「歌」のリズムではない、と私は感じる。少なくとも、私の「耳」には「歌」として聞こえてこない。
 あ、逆かもしれない。
 虫武のことばを読むとき、私の「肉体」から「声」が出て行かない。
 これは、きのう読んだ高塚謙太郎『Sound & color』の印象とは正反対である。高塚の作品を少し引いてみる。

雨のうかんだうたのあと
てのひらにおちた風は
はなれゆくものの
ごらん
ひとつのきれいさだった                  (「春にははるの」)

 これは「短歌」ではない。けれど、「歌」として聞こえる。「声」が解放されている。「肉体」から解き放たれて、「音」として響いている。「音」のなかに、高塚が見える。そして、それを読むとき、その「音」に、私の「肉体」は思わず同調してしまう。
 何かの「音楽」を聞いたとき、思わず、その「音」に声をあわせたくなるような響きがある。
 こういうことは「知らない曲」にも起きる。
 ベートーベンの「運命」。あれは、はじめて聞いた瞬間から、すぐに「ダダダダーン」と言いたくなる。
 「音楽」とは、そういうものだと思う。はじめて聞くものであっても、何か「肉体」がおぼえているものをひっぱり出してきて、一緒に「響く」。知らないはずなのに、つい、それにあわせてしまう。
 「運命」の、最初の「ダダダダーン」に驚くと、すぐにそのあと繰り返される「ダダダダーン」はもうはじめて聞く音ではなく、自分の「肉体」のなかから完全に引き出され、一緒に動く音だ。
 たぶん、何かが、繰り返されているのだ。
 高塚の詩では、一行目の「うかんだ」が二行目の「おちた」と「意味」の上での「対」をつくり、そこに「対」ならではの「繰り返し」がある。「落ちる」という動詞は瞬時のうちに「浮かぶ」という動詞を反芻し、反芻することで「意味」のなかを鮮明に動いていく。
 それがさらに三行目の「はなれゆく」へと飛躍する。「落ちる」ものは「離れる」もの。「離れる」ものは「行く」もの、「私(書かれていないが……)」から「離れる」もの。「肉体」がおぼえている動きが、自然に整えられ、動き出す。
 で、これを「きれいさ」と呼ぶとき、まあ、青春の抒情だけれど、書かれていない「私」の何かが「きれい」になる。「きれい」に「私」が重なる。
 こういうことばの「動き」というのは、たぶん「習得」するものではない。「学んで」身につけるものではない。自然に、どこかから聞こえてくる「音楽」に耳を澄ませて、知らず知らずに、それに「同調」することで生まれてくるものである。
 これを「伝統」と呼ぶことができるかもしれないけれど。

 で、虫武の「短歌」にもどるのだが、虫武の「音」には「同調」を誘う響きがない。そういう点から見れば、まったく新しい短歌、「非伝統的な短歌」なのかもしれない。
 「新鋭短歌シリーズ」のすべてを読んでいるわけではないし、読んだものもの、読むというよりは目をすべらせる、これが現代の短歌の流行かと、単に「知識」としてなぞっておくという感じなのだが……。「新鋭短歌シリーズ」の「短歌」は私の印象では「平成の古今集/新古今集」という感じ。「感覚」を「音楽的な音」に変えて、抒情の新鮮さを「演出」している、という印象。
 そこから聞こえてくる「音」に「同調」するとき、私のなかで「一九七〇年代の現代詩/抒情の現代詩」の「音」が「古今集/新古今集」のリズムに整えられて動いている印象がある。「万葉集」の「力一杯響かせる音」とは違って、そばにいるひとにだけ聞こえればいい、という感じかな? 「万葉集」というのは、恋の歌さえ、まるで野原で遠くにいるひとに大声でつたえる叫びのような感じ。そんなことをしたらほかのひとにも聞こえるのだけれど、むしろ、ほかのひとに「私はこのひとが好き、だから手を出すな」と宣言しているような、わがままで、美しい強さがある。「古今集/新古今集」は違うよね。まあ、これは私の「感覚の意見」なのだけれど。
 あ、また脱線したかな?
 虫武の「短歌」には、そういう「響き」がない。

 いや、違うぞ。

 「響きがない」と書いたが、虫武の「短歌」にも「響き」はある。ただし、その「響き」は「短歌」の響きではないのだ。「短歌」の伝統的な、あるいは流行の「音の解放の仕方」とは違うのだ。(伝統的、とはむかし流行した、という意味にもなるかな。)
 何が、異質なのかな?

逃げている獣のように

洟をかむように

 「直喩」が出てくる。
 一首目は「獣」と「名詞」が「比喩」を背負っているが、「逃げている獣のように」は「獣が逃げるように」と読み直すことができる。そのときは「逃げる」という「動詞」が「比喩」になる。
 二首目は「(洟を)かむ」と「動詞」が最初から「比喩」になっている。
 ここに虫武の、ことばの運動の「特質」のようなものがある。
 「動詞」が「比喩」である、「比喩」に「動詞」をつかうというのは、「短歌」ではめずらしいのではないか、と思う。
 短歌の技法(?)のひとつに「体言止め」というのがある。「名詞」で断ち切って、想像力を飛躍させる。「用言(動詞)」だと、想像力のかわりに「肉体」が動く。「肉体」はなかなか想像力のように飛んでしまうことはできない。「少しずつ」(一首目の書き出し)ずるずると動くしかない。
 「名詞」に比較すると、「動詞」には「粘着力」があるのだ。
 この「動詞」の粘着力が、虫武の「音」を支配している。
 「ことば/声」は「肉体」から出て行くのではなく、「肉体」のなかへひっぱりこまれる。「肉体」が前面に出てきて、「ことば/声」は「肉体」のなかに「こもる」と言えばいいかなあ。
 で、その印象が「抒情(精神/こころ)」の動きを見ている感じではなく、「肉体」を見ている感じにさせる。「美人/美男子」なら「肉体」を見ていても楽しいが、どうもさえない、凡庸な「肉体」という印象がことばにあふれているので、なんだか、めんどうくさい感じになる。
 いやでしょ? どうみても凡庸な、つまり何かいいことが起きそうな印象をもたない男がそばにきて「友達になりませんか?」なんて声をかけてきたら。ぎょっとするよなあ。そして、その「声」のかけ方が「歌」なんだから、こりゃあ、まいるね。

走りながら飲み干す水ののみにくさ いつまでおれはおれなんだろう

情けないほうがおれだよ迷ったら強い言葉を投げてごらんよ

弟がおれをみるとき(何だろう)黒目の黒のそのねばっこさ

丁寧に電話を終えて親指は蜜柑の尻に穴をひろげる

電柱のやっぱり硬いことをただ荒れっぱなしの手に触れさせる

 しつこいねえ、ねばねばだねえ。「しっしっ、あっちへ行け」と言ってしまいそう。いや、そんなことを言うのははばかられるから、聞こえないふりをして、そっと逃げていくしかないか……。

 こういう粘っこさは、どうも「短歌」ではない。「短歌」の「短」は「短い」。ねばっこい、しつこいは「短い」とは正反対だ。
 それを「短歌」でやりとおすと、そこに新しいものが生まれてくる。まあ、そうかもしれないが。
 私は、この虫武の「文体」は「短歌」よりも「小説」だと思って読んだ。
 「小説」は、読む方も、正確がしつこく、ねばっこい。「小説/散文」を書くと、うーん、古井由吉になるかなあ。なれるかなあ。


羽虫群 (新鋭短歌シリーズ26)
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高塚謙太郎『Sound & color』

2016-07-01 08:47:03 | 詩集
高塚謙太郎『Sound & color』(七月堂、2016年07月15日発呼)

 高塚謙太郎『Sound & color』は、どう読めばいいのだろうか。私が最初に棒線を引いたのは、「愛れんゆえに」の一行目。

まるいみえかたのゆくえにそって

 その「そって」。ここだけ「音」が違う。「まるいみえかたのゆくえ」は音がくねる。息がぱっと出て行かない。それが「そって」にくるとさっと動く。
 で、これが、

まるいみえかたのゆくえにそって
きりとられていく
雨のつぶひとつふたつ
いつつむつ
うつしだされるわたしたちの愛れん

 「つ」の音が三行目と四行目で繰り返される。「みっつ、よっつ」を省略して「いつつむつ」の「むつ」がとても印象的だ。「そって」と言ったときのスピードが消えて、しっかりと止まる感じ。特に「むつ」の「つ」が重しのようにしっかりしている。「む」の音がきいているのかな?
 その「つ」が、「うつしだされる」ということばのなかに移動する。この「つ」をどう発音するか。私は黙読派だから「声」に出して詩を読むことはないのだが、「いつつむつ」の「つ」よりは「母音」が弱くなる。(標準語では「つ」に強制がくるのかもしれないが、私の場合、弱音になる。)そうすると「そって」の「っ」が、そこに忍び込んでくる。
 ただ、これは先に「そっと」を読んだからかもしれない。「そっと」がなかったら「うつくしい」の「つ」は強音として動くと思う。「そっと」の「っ」があるから弱音になる。
 こういうことが詩とどういう関係にあるのか。
 わからない。
 わからないけれど、「読むスピード」(読みやすさ)と関係しているかもしれない。私は「読みにくい」ことばよりも「読みやすい」ことばにひっぱられる。「音」の響きあいと関係しているのかもしれない。「音」が楽に聞こえると、読むのが楽なのである。
 「読みやすい」とそれだけで、その詩が「いい作品」に思えてくる。「肉体」が「これは、いい」と言うのである。
 この「いい」を、ほかのことば、「意味」で言い直すことはできない。
 私は「意味」には反応しないのかもしれない。


しずかというものがたりかたからかたむいて          (「ねむりあい」)

 この一行の「ものがたりかた」の「かた」の音の美しさは、とても気持ちがいい。「ものがたり」の「が」の濁音が効果的なのかなあ。「かた」があるために「からかた」が「意味」を越えて、響く。何度も何度も読み直してしまう。ちょっと小長谷清実の音を思い出してしまう。
 「意味」は忘れてしまって、ただ読み返したくなる。「声」を出すわけではないが、無意識に肉体が動いている。「聞く」というよりも「言う」喜びの方が強いかな。

 意味は気にしない、とはいうものの。

もういくつねると
いくつねる
いく
つねる
うたはいつだってこえだった              (「パリはもえている」)

 を読むと、私は、そこに「似ている」「似ていない」という「肉体が感じる意味」を気にしているのかもしれない。
 「いくつねる」は「幾つ/寝る」というのが最初の「意味」。それを高塚は「いく/つねる」と動かす。「行く/つねる(捩じる、という感じ? たとえば、手をつねる)」とふたつの「動詞」に分かれていくのだろうか。
 この部分を私は

いつ
くねる

 と完全に「誤読」してしまう。
 実は、引用する直前まで「いつ/くねる」と読んでいた。そして、そこから感想をつづけようとしていたのだが、あ、「いく/つねる」だとわかり、急遽、書こうとしていることを変えたのである。
 だから、きっと、何か妙な「論理」になっていると思うのだが、私は前にもどって考え直すということが苦手なので、そのまま書きつづけるのだが……。

いつ
くねる

 ではなく

いく
つねる

 そう気づいたとき、あ、いま高塚の「音楽」と私の「音楽」が交差したのだ、「和音」になったのだ、と感じた。この「和音」の感覚こそが「ことばの意味」なのだと感じた、と言えばいいのか。

 音痴の私がこんなことを書いていいのかどうかわからないが。
 古い歌の「旋律」をふいに思い出す。小坂明子の「あなた」。そのサビの部分、「あなた、あなた、あなたにいてほしい」の「あなた」ということばの繰り返しはドレミで書くと「ミシド/ミシド/ミファド」だと思う。最終的にミからドへと音が動くのだが、最初の「あなた」はまずミからシへ飛躍が大きく、そのあとシからドのあいだが半音、最後の「あなた」はミからファへ半音動いたあと、ファからドへ飛躍する。「鏡に映った対称」あるいは「反転した」メロディーと言えばいいのだろうか。
 私は、たぶん、たぶんなのだが、高塚が

いつ
くねる

 と書いてあったなら、それを

いく
つねる

 と読んだだろうと感じるのである。
 私は昔から「音の順序」を間違える癖がある。「順序」がかわっても「同じ意味」として受けとめてしまう。「ひとかたまりの音」が「意味」であって、順序は違っていても気にしないのかもしれない。
 これはワープロで書くときも起きる。私は親指シフトのキーボードをつかっているのだが、「……するところ」の「ところ」を私はしょっちゅう「ことろ」と打ってしまう。左手の方が速いということなのかもしれないが、「ことろ」と打っても「ところ」という「意味」だと思い込んでいるのかもしれない。
 で、私には、昔からおぼえられないことばがある。
 「インキチ」なのか「インチキ」なのか、何度聞いてもおぼえられないし、言われるたびに言い直すのだが、そうじゃない「イン●●」と言われる。私には最後の二音が「順番」に聞こえていないのである。何度も何度も「違う」と笑われるので、私は小学校五年か六年のときから、そのことばをつかうのをやめた。どう言っても笑われる。笑われないために、「インキチかインチキか、インキチかインチキかわかないが……」という前置きをしていたら舌が縺れるし、自分で何を言ったかわからなくなるからである。
 脱線した。
 聞こえるけれど、再現できない「音」がある。再現するとき、聞いた音とは違っているのだが、自分には「違っている」とは認識できない。この「ずれ」から「誤読」がはじまるのだが、これは、何と言えばいいのか、「肉体」が望んでいることなのだ、と私は思う。
 「意味」にならないものが、どこかで私を動かしている。その何かに動かされてことばを読むとき、私は「誤読」をするのだが、「誤読」と指摘されても、どうにもなおせない。「音/音痴」なので、どうしても「意味/音痴」になるのかもしれない。
 そんな私が、高塚の詩には「音楽」があると言ってしまうと、それは「高塚は音痴だ」というのに等しいことになるかもしれないが、私は高塚の詩からは「意味」よりも「音楽の喜び」を感じてしまう。
 「音の楽しみ」、「音を楽しむ」、あるいは「音が楽しむ」が「音楽」であり、それがことばを動かす力になっている、と感じる。そして、その高塚の音の動きの幅(音域?)、あるいは音の動きの基準(キー?)が、私には楽に聞こえる。むりがないものとして響いてくる。「声」をあわせたくなる。「いく/つねる」に「いつ/くねる」を「音」を重ね、勝手に「和音」にしてしまう。
 何が、どんな「意味」が書いてあったかと問われたら、何も感想が言えない。でも、どの部分に「音楽」を感じたか、と問われれば、いま書いたようなことを言いたくなるのである。
ハポン絹莢
高塚 謙太郎
株式会社思潮社
コメント
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