池井昌樹『池井昌樹詩集』(ハルキ文庫、2016年06月18日発行)
池井昌樹の詩については何度も書いてきている。『池井昌樹詩集』(ハルキ文庫)は新作の詩集ではないので、特に書かなければ、と思うこともないのだが。
でも、こういう「文庫」の形で多くの人に読まれるのはいいことだ。多くの人に読んでもらいたいので、少し書いてみる。
「手から、手へ」は、「意味」の強い詩である。
「やさしい」と「けわしい」が対比されている。「やさしい」と「けわしい」では、たぶん「けわしい」の方が「強い」。だから、その生は「不幸」になるだろう。
そして、その生が「不幸」であっても「なにひとつ/たすけてやれない」と書いたあと、
「やさしさ」を「ばとん」という「比喩」で言い直している。それは「受け継ぐ」という「動詞」と一緒に存在する。「ばとん」とは「受け継ぐ」ものなのだ。でも、「受け継ぐ」というのは、単に「ばとん」を受け取り、だれか別の人に手渡すということではない。「ばとん」を渡すかどうかは問題ではない、というと言い過ぎだが、「ばとん」という「比喩」を通ることで、「テーマ」は「ばとん」ではなく、「受け継ぐ」という「動詞」にかわる。「受け継ぐ」という「動詞」そのものがつながっていく。
池井は父として息子に「やさしさ」の「ばとん」を渡すとき、それを渡してくれた池井の父/母とだけつながるのではなく、それ以前の「いのち」のつながりそのものとつながる。「いのち」がつながる。
ここまでは、まあ、「意味」だな。「倫理」の教科書にもなるかもしれないなあ。そういう「道徳的なこと」を語るのは、私は、あまり好きではない。
どちらかというと、嫌いだ。
「正しい」が強すぎて「窮屈」な感じがする。
「やさしさ」ではなく、「乱暴/いじわる」ということだって、人間の「いのち」のひとつの形。そういうものだって「受け継ぐ」必要があるんじゃないか。そういうものがないと、もしかしたら人間は生きていけないんじゃないか、というようなことを言ってみたくなるのである。
でも、
ここで「いないいないばあ」が出てくるところが、あ、好きだなあ。
「いないいないばあ」というのは、こどもがむずがったり、泣いたりしているときに、こどもを「あやす」ときにするしぐさだね。
「いないないないばあ」を「動詞」できちんと説明するのは難しい。「いないいない」は両手で顔を隠す。つまり顔が「いない」ということなのだけれど、そのあとの「ばあ」が「動詞」にならない。顔を覆っていた手を開いて、顔が見えるようにする、ということだけれど、「いないいない」の反対なら「いる(ある)」でもいいのに、そう言わずに「ばあ」と言う。
それは、なぜ?
あ、言えないなあ。説明できないなあ。
でも、これこそが「ばとん」なんだね。
「いないいないばあ」が「受け継がれ」ていく。「受け継いでゆく」。そのときだれかを「あやす」ということだけではなく、「いないないばあ」をされて「笑う」ということも「受け継がれていく」。
「やさしくされた」ということだけではなく、「やさしくされて笑った」「やさしくしたら笑った」ということも受け継がれていく。だれかを笑わせたということよりも、だれかによって笑わされた、笑ったということの方が、きっと大事なのだと思う。
「いないいないばあ」の「ばあ」のなかには、何か、融合のようなものがある。慰める人と、慰められる人が「ひとつ」になってはじける。それは「受け継ぐ」という意識もなく肉体にしまいこまれる。
「ばあ」は「ばとん」が受け継がれるときの、その瞬間の「永遠」なんだなあ、と感じる。
これはほかのことばでは言い換えが聞かないし、「やさしさ」のように「意味」にもならない。
だから、すごい。
これにまた「ひかりのほう」ということばが言い添えられる。
「いないいないばあ」の「ばあ」は「ひかり」なのだ。そう「ほう(方)」を向いて、眼をそらすな。そのとき、「ばとん」は短い棒ではなく、「一条の(長い)ひかり」だとわかる。「ひかり」は名詞だが、その方向を向くとき、人は「ひかる」という動詞にもなるのだ。
池井昌樹の詩については何度も書いてきている。『池井昌樹詩集』(ハルキ文庫)は新作の詩集ではないので、特に書かなければ、と思うこともないのだが。
でも、こういう「文庫」の形で多くの人に読まれるのはいいことだ。多くの人に読んでもらいたいので、少し書いてみる。
「手から、手へ」は、「意味」の強い詩である。
やさしいちちと
やさしいははとのあいだにうまれた
おえまたちは
やさしい子だから
おまえたちは
不幸な生をあゆむだろう
やさしいちちと
やさしいははから
やさしさだけをてわたされ
とまどいながら
石ころだらけな
けわしい道をあゆむだろう
「やさしい」と「けわしい」が対比されている。「やさしい」と「けわしい」では、たぶん「けわしい」の方が「強い」。だから、その生は「不幸」になるだろう。
そして、その生が「不幸」であっても「なにひとつ/たすけてやれない」と書いたあと、
やさしい子らよ
おぼえておおき
やさしさは
このちちよりも
このははよりもとおくから
受け継がれてきた
ちまみれなばとんなのだから
てわたすときがくるまでは
けっしててばなしてはならぬ
「やさしさ」を「ばとん」という「比喩」で言い直している。それは「受け継ぐ」という「動詞」と一緒に存在する。「ばとん」とは「受け継ぐ」ものなのだ。でも、「受け継ぐ」というのは、単に「ばとん」を受け取り、だれか別の人に手渡すということではない。「ばとん」を渡すかどうかは問題ではない、というと言い過ぎだが、「ばとん」という「比喩」を通ることで、「テーマ」は「ばとん」ではなく、「受け継ぐ」という「動詞」にかわる。「受け継ぐ」という「動詞」そのものがつながっていく。
池井は父として息子に「やさしさ」の「ばとん」を渡すとき、それを渡してくれた池井の父/母とだけつながるのではなく、それ以前の「いのち」のつながりそのものとつながる。「いのち」がつながる。
ここまでは、まあ、「意味」だな。「倫理」の教科書にもなるかもしれないなあ。そういう「道徳的なこと」を語るのは、私は、あまり好きではない。
どちらかというと、嫌いだ。
「正しい」が強すぎて「窮屈」な感じがする。
「やさしさ」ではなく、「乱暴/いじわる」ということだって、人間の「いのち」のひとつの形。そういうものだって「受け継ぐ」必要があるんじゃないか。そういうものがないと、もしかしたら人間は生きていけないんじゃないか、というようなことを言ってみたくなるのである。
でも、
やさしい子らよ
おぼえておおき
やさしさを捨てたくなったり
どこかへ置いて行きたくなったり
またそうしなければあゆめないほど
そのやさしさがおもたくなったら
そのやさしさがくるしくなったら
そんなときには
ひかりのほうをむいていよ
いないいないばあ
おまえたちを
こころゆくまでえがおでいさせた
ひかりのほうをむいていよ
ここで「いないいないばあ」が出てくるところが、あ、好きだなあ。
「いないいないばあ」というのは、こどもがむずがったり、泣いたりしているときに、こどもを「あやす」ときにするしぐさだね。
「いないないないばあ」を「動詞」できちんと説明するのは難しい。「いないいない」は両手で顔を隠す。つまり顔が「いない」ということなのだけれど、そのあとの「ばあ」が「動詞」にならない。顔を覆っていた手を開いて、顔が見えるようにする、ということだけれど、「いないいない」の反対なら「いる(ある)」でもいいのに、そう言わずに「ばあ」と言う。
それは、なぜ?
あ、言えないなあ。説明できないなあ。
でも、これこそが「ばとん」なんだね。
「いないいないばあ」が「受け継がれ」ていく。「受け継いでゆく」。そのときだれかを「あやす」ということだけではなく、「いないないばあ」をされて「笑う」ということも「受け継がれていく」。
「やさしくされた」ということだけではなく、「やさしくされて笑った」「やさしくしたら笑った」ということも受け継がれていく。だれかを笑わせたということよりも、だれかによって笑わされた、笑ったということの方が、きっと大事なのだと思う。
「いないいないばあ」の「ばあ」のなかには、何か、融合のようなものがある。慰める人と、慰められる人が「ひとつ」になってはじける。それは「受け継ぐ」という意識もなく肉体にしまいこまれる。
「ばあ」は「ばとん」が受け継がれるときの、その瞬間の「永遠」なんだなあ、と感じる。
これはほかのことばでは言い換えが聞かないし、「やさしさ」のように「意味」にもならない。
だから、すごい。
これにまた「ひかりのほう」ということばが言い添えられる。
このちちよりも
このははよりもとおくから
射し込んでくる
一条の
ひかりから眼をそむけずにいよ
「いないいないばあ」の「ばあ」は「ひかり」なのだ。そう「ほう(方)」を向いて、眼をそらすな。そのとき、「ばとん」は短い棒ではなく、「一条の(長い)ひかり」だとわかる。「ひかり」は名詞だが、その方向を向くとき、人は「ひかる」という動詞にもなるのだ。
池井昌樹詩集 (ハルキ文庫 い 22-1) | |
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