詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む/番外19(情報の読み方)

2016-09-13 10:43:41 | 自民党憲法改正草案を読む
 7月13日のNHKニュース「天皇の生前退位」を、私は安倍が籾井NHKをつかって仕組んだものと、いまでも疑っている。
 どういうことか。
 2016年09月13日読売新聞朝刊(西部版・14版)4面に「論点 生前退位」の5回目が参考になる。その最後の部分。少し長いが引用する。(段落の頭の数字は私がつけたもの。一部、肩書を補足した。)

 (1)今回、天皇陛下が生前退位の意向を持たれていることが表面化したのは、7月13日夜のNHKニュースだった。写真週刊誌「フライデー」が「『天皇の意向』を受け止めた秋篠宮」として、NHKの報道には皇室の意向があると報道すると、風岡(典之宮内庁)長官は記者会見で自らこの報道に言及し、「このような事実は一切ない」と強く否定した。陛下の意向を皇室側から問題提起したことはないと強調したとみられる。
 (2)お言葉から1か月たった9月8日。安倍首相は訪問先のラオス・ビエンチャンで記者団に今後の議論の進め方について初めて言及した。
 (3)「天皇陛下が国民に向けてご発言された。それに対して国民から、この問題に対応すべきだというご意見が多数ある中で、我々も検討しなければならないと考えている」
 (4)陛下のお言葉があったから検討するのではなく、国民が何らかの対応を取れと言っているので、政府が検討を進める--というわけだ。
 (5)「国民の反応」というワンクッションをはさむことで、天皇には「国政に関する権能」がないとする憲法との整合性を保つ。政府側も発言の一つ一つに苦心の跡が見える。

 (1)で風岡長官は「陛下の意向を皇室側から問題提起したことはないと強調した」と書いてある。この部分は、秋篠宮の「天皇定年制」発言を念頭においてのものだとも読めるが、「天皇の生前退位」そのものが、皇室側から(宮内庁から)提起したものではないという意味にも受け取れる。(読売新聞が、どう言おうとしているか、ここからははっきりとは判断できない)。
 そのあとの部分で気になるところをピックアップすると。
 (2)では、安倍が、なぜビエンチャンで記者団に語ったかということ。ビエンチャンに同行する「記者団」は、いわば安倍のスポークスマンである。安倍の言うことは、そのまま正確につたえるだろうが、安倍に対して「いじわる」な質問はしないだろう。批判的な質問はしないだろう。それを前提にして、安倍は「安心して」発言している。
 記者から質問(批判)がある可能性があるときは、どうするか。
 8月8日の天皇のビデオ放送のあとの反応と比較してみると、よくわかる。

 「天皇陛下が国民に向けてご発言されたことを重く受け止めております。ご心労に思いをいたし、どのようなことができるかをしっかり考えていかなければいけないと思っています」
 首相は用意された原稿を読み上げると、足早に立ち去った。

 ビデオ放送の内容は、事前に「検閲」している。それなのに、そっけないことしか安倍は言っていない。しかも原稿を読み上げている。何よりも「足早に立ち去った」が安倍の姿勢を物語っている。質問を拒絶しているのだ。質問されては困るから、質疑応答を避けたのだ。
 (3)は、質問されない(批判されない)という「安心」というか、気の弛みが、たっぷりと出ている。
 (4)で、安倍のことばを読売新聞が言いなおして説明しているが、今回の問題は「政府が主導しているのではなく、国民の声があるから、そうしている」という「イメージ」をつくろうとしている。これは、逆に言えば、政府は「天皇の生前退位」を推し進めたいのだが、政府が主導しては国民から反発が来る。それを回避するために、策を練っているということを意味するだろう。
 政府の考える「生前退位」とは「摂政の設置」と同義語である。官邸は、天皇側に対して何度も「摂政ではダメなのか」と水面下で交渉したことが報道されているし、天皇のことばのなかにもそれを「暗示」する部分がある。このことについては、すでに書いた。こんなことが明確になれば、多くの国民は安倍批判を展開するだろう。
 そうならないようにするには、どうするか。国民が「天皇は高齢で大変だ。負担を軽くしてやりたい。生前退位がいいのではないか」と思わせることである。国民の「意見」を動かすにはNHKを利用するのが一番である。これは参院選で証明された。
 NHKは参院選の報道を控えた。そうすることで「少数意見」を封じた。少数意見があることを、無視した。そればかりか参院選があることを隠そうとした。週間予定を知らせるコーナーでは「参院選投票日」をつげなかった。7月9日のニュースでは、「あす7月10日は参院選投票日」というかわりに「あす7月10日はナナとトウで納豆の日」と言っている。投票率をさげることで、安倍に加担している。
 (5)は「憲法との整合性を保つため」というよりは、

 「国民の反応」というワンクッションをはさむことで、政府側の意向「天皇の生前退位→摂政の設置」(天皇を「お飾り」にして、「摂政」を操り人形のようにつかうという「自民党憲法改正草案の狙い)を、どうやって「隠す」かということに苦心しているということだろう。
 今回の読売新聞の連載には「憲法との整合性に腐心/政府「世論受けて」対応」という見出しがついている。これは、

政府「世論を利用して」対応

 を、安倍寄りに言いなおしたものである。安倍は「世論」を利用している。そして「世論」を利用するためにNHKを動かしている。
 籾井の動向が最近、ニュースにならないが、あの報道以来、籾井は何をしているか、今回の報道について籾井は何と言っているか、ぜひ、知りたい。

 きょうの読売新聞の一面には、また世論調査が載っている。それによると、天皇の生前退位について、いまの天皇だけではなく、今後すべての天皇について生前退位を認めるという意見が67%を占めた。
 そういう「事実」を書いたあとに、つぎのくだりがある。

 政府は、皇室典範を改正して生前退位を制度化するのではなく、現在の天皇陛下の退位だけを可能にする皇室典範の特別措置法を制定することを軸に検討している。しかし、調査では、今後のすべての天皇陛下について生前退位を容認すべきだとする意見が多く、今後の制度改正での課題の一つになりそうだ。

 政府が「特別措置法」にこだわるのは、皇室典範そのものを改正するには時間がかかるからだろう。なんとしても「早く」、いまの天皇を天皇からひきずりおろしたいのだろう。
 
 天皇のことばから、こういう安倍と天皇との軋轢、天皇が安倍に利用されようとしていることへの、天皇の「苦悩(悲鳴)」を読み取ることもできる。

天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,私が個人として,これまでに考えて来たことを話したいと思います。

憲法の下もと,天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で,(略)ここに私の気持ちをお話しいたしました。

 最初と最後の方で、二度にわたって「憲法と天皇」の関係について語っている。天皇は「国政に関する機能を有しない」、政治的行為を禁止されていると語っている。一度言えばすむことを、わざわざ「二度」言っているのは「意味」がある。
 政治的行為を禁止されている天皇が、政治として利用されている。そのことを天皇は、必死になって語っているのである。
 同じことを「二度」表現した部分は、もうひとつある。

私も80を越え,体力の面などから様々な制約を覚えることもあり

既に80を越え,幸いに健康であるとは申せ

 天皇が80歳を超えていること、国民周知の事実である。それを「一回」ではなく「二回」言っている。これは、安倍が、「天皇は80歳を超えている=高齢である」ということを「生前退位(摂政の設置)」に利用しているということを語っていないか。
 きっと天皇が80歳を超えているということを国民に強く訴え、つまり国民の高齢の天皇に対する「思い」を利用しようとしているということを、天皇が苦心してつたえようとしているのではないか。

 私は天皇のことばを丁寧に聞いたことも読んだこともないが、8月8日のことばは、他のことばと比べて「文体」に異常なところがある。なぜ、こういう表現になるのかわからないところがある。
 今回の天皇の動きを、憲法改正へ突き進む安倍への抵抗と見る意見もあるが、私は、かなり疑問に思っている。もし憲法改正への抵抗ならば、それが国会で議題になる直前、あるいは議題になってからの方が、よりインパクトが強いだろう。聡明な天皇なら、それくらいのことは考えるだろう。
 そうではなくて、憲法改正への「じゃまもの」、リベラルな天皇を、いまのうちに「世論」を利用して蚊帳の外に追い出してしまおうというのが狙いだろう。何でもできるんだぞ、ということを皇室全体に知らせるために、安倍は動いているだと思う。





*

『詩人が読み解く自民憲法案の大事なポイント』(ポエムピース)発売中。
このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E4%BA%BA%E3%81%8C%E8%AA%AD%E3%81%BF%E8%A7%A3%E3%81%8F%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E6%86%B2%E6%B3%95%E6%A1%88%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E3%81%AA%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95-%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E6%86%B2%E6%B3%95%E6%94%B9%E6%AD%A3%E6%A1%88-%E5%85%A8%E6%96%87%E6%8E%B2%E8%BC%89-%E8%B0%B7%E5%86%85%E4%BF%AE%E4%B8%89/dp/4908827044/ref=aag_m_pw_dp?ie=UTF8&m=A1JPV7VWIJAPVZ
https://www.amazon.co.jp/gp/aag/main/ref=olp_merch_name_1?ie=UTF8&asin=4908827044&isAmazonFulfilled=1&seller=A1JPV7VWIJAPVZ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水木ユヤ「網戸」、山本純子「電池」

2016-09-13 09:01:39 | 詩(雑誌・同人誌)
水木ユヤ「網戸」、山本純子「電池」(「ヘロとトパ」、2016年09月20日発行)

 水木ユヤ「網戸」、山本純子「電池」を読みながら、詩のはじまり、詩の終わりということについて考えた。
 水木ユヤ「網戸」。

星がない
風がない
空がない
網戸の向こう側には
何もない
LEDの体温を見誤った
虫たちが
網戸にぴたりと
貼りついている
関節がきしむ扇風機の風に
透きとおった羽を
規則正しくゆらされている
虫たちは
何もないところから
姿をあらわし
何もないところへ
消えてゆく

 「何もない」が、ぐいと迫ってくる。これは「星がない/風がない/空がない」を言いなおしたもの。「ない」が、そこに「ある」という感じ。「無」から姿をあらわし、「無」へ消えていく。
 とても清潔だ。
 この清潔感は、たぶん人間の暮らしに「ある」ものとの対比から生まれる。「網戸」「LED」「扇風機」。それは「星」や「風」や「空」に比べると、なんとなく、うるさい。ちまちま、ごちゃごちゃしている。「無」の方がさっぱりしていて、開放的で、気持ちがいい。この感じが清潔感だな。
 で、詩は、ここで終わってもいいと私は思うのだが、水木は、次の5行を付け加えて終わる。

わたくしは
網戸のこちら側の
何かあるはずの場所にいて
何かをしている
はずである

 これは「網戸」「LED」「扇風機」の「ある」暮らしを言いなおしたものだが、なんとなく、「理屈」っぽい。
 言わないと落ち着かない気持ちもわかるけれど、言わなかった方が、読者がかってに考えることになるので、おもしろいかもしれない。
 「清潔」だったものが、急に「濁ってくる」感じを覚えた。この「濁ってくる感じ」を「いきるかなしみ」ととらえ、ここがいいという人もいるだろうけれど。



 山本純子「電池」。

電池には
プラス極とマイナス極があって
たのしい気分とこわい気分が
発生している

それで 夜
かいちゅう電灯をにぎると
たのしいような
こわいような気分が
手のひらから
からだ中にひろがっていく

 これは、一連目から書いたのかなあ。
 書いたのは一連目からかもしれない。けれど、「こころ」の方は二連目から動いている感じがする。
 懐中電灯を手にした子ども。まわりは真っ暗。楽しくて、怖い。この楽しくて怖いを、別なことばで言いなおせないだろうか。ちょっと考える。すこし変わったことを言って、友達や両親を驚かせてみたい。「表現の欲望」(ことばの欲望)が動く。
 で、一生懸命考える。学校で習ったことを、動かしてみる。
 「電池には/プラス極とマイナス極」がある。プラスとマイナスは反対。楽しいと怖いは反対。反対のものがぶつかると、何かが起きる。何かが「発生」する。
 ことばにすると、それが、「実感」にかわる。
 この「実感」が、

手のひらから
からだ中にひろがっていく

 と言いなおされる。
 一連目と二連目が、そのことばが往復しながら、強くなっていく。「肉体」として見えてくる。

 水木の、網戸を挟んだ虫と人間も、ことばになって往復していたのだが、往復しすぎたのかもしれない。往復しすぎると、そこに「道」がくっきりとできすぎる。アスファルト舗装された道、いや高速道路になってしまう。つまり「肉体」ではなく、論理、思考(頭)になってしまう。
 詩は、あ、ここに「道」があるのかなあ。だれかが歩いた跡がある。踏みしめた草が倒れているというくらいの感じがいいのかもしれない。あ、この「肉体」の感覚、わかるなあ、というくらいがいいのかもしれない。
 「何もないところから/姿をあらわし/何もないところへ/消えてゆく」というのは「哲学的」であるけれど、日本語の「肉体」のなかには「無常観」が動いていて、それは知らず知らずに聞いていることばとつながっているから、「理屈」っぽくはないね。

 どこから書き始め、どこで終わるか、むずかしい。

ふふふ ジュニアポエム
山本 純子
銀の鈴社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

國井克彦『國井克彦詩集』

2016-09-12 09:10:49 | 詩集
國井克彦『國井克彦詩集』(現代詩文庫226)(思潮社、2016年07月25日発行)

 國井克彦『國井克彦詩集』の最後の方に「未刊詩集」があり、そこに「わが台湾三峡」という作品がある。読みながら、あ、これは読んだことがあると思い出した。
 ブログを探してみたら、感想を書いていた。それを引用してみる。

 國井克彦「わが台湾三峡」(初出「ゆすりか」102 、2014年10月)。終戦後、台湾の三峡から日本へ引き上げてくる。八歳のときの体験を書いている。

大人たちはトラックの前方を見ていた
去り行く三峡の街を見ていたのは自分だけだ
なぜ愛しい三峡の街を山を河を
大人は振り返らないのか
わが人生でこのことは常に思い出された

 あ、美しいなあ。思わず声がでそうになった。
 私は台湾へ行ったことがない。三峡がどこにあるかも知らないし、どんな街、どんな山、どんな河なのかも知らない。知らないなら、調べろ、という人がいるが、私は調べない。ネットで調べて、写真を見ても、それは自分の体験とは無関係である。それがどんなに美しい街、風景であろうと、それ見ることで國井の気持ちが「わかる」わけではないと考えるからだ。
 では、何が美しいのか。

去り行く三峡の街を見ていたのは自分だけだ

 この一行。そこにある「時制」がカギだ。その前の行では「見ていた」(過去形)がもう一度「見ていた」(過去形)で繰り返され、そのあと「だけだ」と「現在形」になる。「自分だけだった」と過去形になっていない。
 「自分だけだ」という断定が「現在」であるために、「いま/ここ」で國井がかつて見た風景を見ているという感じが強く伝わってくる。「見ていた」のは過去のことなのに、「いま」それを「見ている」。「過去」が「現在」として、「いま/ここ」にある。その生々しい動きが凝縮している。主観が躍動する。
 「大人は振り返らないのか」という現在形の疑問(「大人は振り返らなかったのか」という過去形ではない)にも強い主観を感じる。
 そして、この感覚は、次の行、

わが人生でこのことは常に思い出された

 この「常に」に言いなおされている。「常に思い出された」と過去形で書かれ、ここでは國井はちょっと「客観」に戻っているのだが、この「過去形」は方便だ。「常に」だから「いま」、そして「これから」もという時間がそこにはある。かわらない。時間の影響を受けない。言いかえると、この「常に」は「永遠」なのである。

 なぜ、自分の書いたものを引用したかというと。
 この感想を書いたのは2015年01月23日、1年半以上も前のことである。私は、「結論」を決めて書き始めることがない。だから、書く度に(読むたびにと言い換えてもいい)感想が変わってしまう。前に書いたことを忘れてしまって、まったく違ったことを書くこともある。何を書くかは、その日の気分次第なのである。
 それなのに、今回、あ、この詩は後半部分だけを引用し「自分だけだ」について書いたぞ、とはっきり思い出してしまったのだ。
 これは、変な言い方になるが、不気味なできごとである。私にとっては、不気味である。なぜ、そんなことが起きたのか。
 國井の詩には、何か「不変」のものがあるのか。「不変」は「普遍」かもしれないが……。その「不変/普遍」が、私に影響してきているのか。

 1年半前に書いた感想に何をつけくわえることができるだろうか。1年半の間に、私は、何を見つけられるようになっているだろうか。かなり真剣になって、私は詩を読み返し、ほとんど無理やりという形で、何かつけくわえられると思った。
 それは、こういうこと。
 先に引用した「わが人生でこのことは常に思い出された」のあとに、さらにことばがある。

見えないものを見る
やがて見えなくなるものを見る
見えないものを見ているわが人生

 同じことばの繰り返しは國井の作品に特徴的なことである。ことばを繰り返しながら、そこに何か「不変」を探しているのだろう。普通は、同じことばを繰り返しながら違うものになっていくのだが、國井は違うものを結びつけながら「同じ」のなかへ帰っていく。「不変/普遍」になる。
 「見えないものを見る」というのは、目には「見えない」のだけれど、目ではない何かが「見る」もののことだろう。「見えない」ものは「ない」のではなく、「ある」。「見えない」のは「見えなくなった(過去形)」からである。しかし、個人が体験する時間を超えて「ある(現在形)」。國井は「三峡」から遠ざかったために目には見えないが、それは存在している。そして、その存在は「意識/記憶」には見える。その「見える」は「知っている」、あるいは「覚えている」ということでもある。この「いま/ここ」には「ない」が、「いま/ここ」を超えて「ある」ものを、國井は「不変/普遍」として見ている。この「不変/普遍」を見るというのが國井の人生、生き方なのである。
 ただ、その「見える/知っている/覚えている」は、ほんとうに「意識」か、というと私は少し違うと思う。ことばとして「矛盾」したことを書くが、「見える/知っている/覚えている」のは「肉眼」なのだと思う。「意識」などという都合のいいものは「方便」である。存在するのは「肉眼(肉体)」だけである、と國井の作品を読んで、私は、思ったのである。そう付け加えたくなったのである。
 これは、今回、この一篇だけを読んだのではなく、他の作品を読んだことが影響している。
 巻頭に「詩」がある。とても印象的な作品だ。

おまえはふりむくな
ぼくが騒々しい連中をみているから
黙つて眠れ
夕やけのようなぼくの背中よ

 ここに書かれている「おまえ」とは「ぼくの背中」である。「背中」には「目」はないから、それが「振り向いて何かを見る」ということはできない。けれど、あたかも目があるかのように「ふりむくな」と國井は書く。ここに最初の「矛盾」がある。
 「背中」は目とは裏表の関係にある。それが「ふりむく」とは目が見ているものを見ることになる。「前」を向くことになる。これは、第二の「矛盾」である。
 けれど、この詩を読むとき、そういう「矛盾」とは違ったものを感じてしまう。
 背中にも「目」はある。それは「背中」が感じる「力」である。「肉体」を統一する「力」、いのちそのものが、そこに書かれているのだ。「肉体の目/いのちの目/まだ目になる前のいのち」が、後ろで騒いでいるものを感じ取っている。その「肉体の感じる力/目に分節されるまえのいのちの力」に対して「ふりむくな」(後ろを見るな)と言っている。
 分節されて「目」なっている「肉体」にあわせて、前を見ろと言っている。
 「後ろの騒々しい連中」は「ぼく(意識)」が見る。これは、「ぼく(ぼく)」はそいつらのことを「知っている」。そいつらは、どんなふうに「分節」されて社会にいるか知っている。そんな「分節された存在」を気にせずに、「未分節のまま、いのちの力のまま、背中であり続けよ」と言っているのである。
 国井は、「未分節」の「いのち/エネルギー」のようなものを「不変/普遍」としてつかみ取っている。それが詩を書き始めたときからつづいているのだ。
 そういうことを感じた。
 「詩」の二連目には、こういう行がある。

おまえはふと考える
ぼくとこうしてとなりあっていることを
遠い国でみてきた樹のことを

 これは、こう言いなおすことができる。

「肉体」はふと考える
「意識」とこうしてとなりあっていることを
遠い国でみてきた樹のことを

 そして「三峡」の最期の二行はこうである。

樹の中にいつも見ている愚かな人生
それは八歳のかの日から始まった気がする

 「遠い国の樹」は「三峡」の、國井が最後に見た「樹」である。その「樹」は「樹」であって「樹」ではない。國井の「肉体」そのものである。國井の「肉体」は、その「樹」とつながっている。「未分節」なのである。しかし「樹」に「分節」された「樹」をみつめるとき、「樹」は國井の「肉体」である。
 自分だけの「肉体」を越えて、「未分節」の世界から何かが生まれてくる(樹として生まれてくる力)のようなものと國井はつながっていて、それが「不変/普遍」という感じになって、「いま/ここ」にあらわれてきているのだ。
 「分節」されながら、「未分節」へ帰ろうとする運動がどこかにあって、それが「矛盾」というかたちで表現されてしまうのだ。「分節/未分節」の同時におきる運動は「矛盾」でしかいいあらわせないものなのだ。ここに「不変/普遍=真実/永遠」がある。國井の「抒情」は、そういうものに触れている。

國井克彦詩集 (現代詩文庫)
國井 克彦
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案を読む/番外18(情報の読み方)

2016-09-11 16:53:02 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む/番外18(情報の読み方)

 2016年09月11日読売新聞朝刊(西部版・14版)4面に「論点 生前退位」の4回目が掲載されている。「制度度設計 政府に難題/皇室会議 活用案も」という見出しがついている。
 皇室会議は、1993年(平成5年)1月19日、皇太子が小和田雅子と結婚することについて議決したのが直近のもの。それ以来開かれていないのだが、

 この皇室会議の存在が今、にわかに注目を集めている。天皇陛下が「生前退位」の意向を示唆されたことを踏まえ、退位の可否を判断する機関として活用してはどうかという案が出ている。

 えっ、どういうことなのかなあ、と思って記事を読むと「現在の皇室会議の議員と議題となるテーマ」という「一覧表」が「メンバーの写真(一部肩書)」と一緒に載っている。
 議題となるテーマは

皇位継承順位の変更
摂政の設置・廃止
皇族男子の結婚
皇籍の離脱

 となっている。1993年の「議題」はもちろん「皇族男子の結婚(皇太子の結婚)」である。
 「天皇の生前退位」は「テーマ」には含まれていない。素人の目には「皇位継承順位の変更/摂政の設置・廃止」が関係してくるのかなあ、と思うけれど、よくわからない。
 メンバーは安倍首相(議長)を中心に、左に皇族議員(秋篠宮さま、常陸宮妃華子さま)、右に大島衆院議長、伊達参院議長、さらに時計回りで衆院副議長、参院副議長、宮内庁長官、最高裁判事、最高裁長官と書かれている。(最高裁長官と判事の順序は図で見ると長官の方が上)。

 まったく知らない世界のことなので、ここに書いてあることは、その通りなのだと思うけれど、もしかしたら違うかもしれないと疑り深い私は気になって「宮内庁」のホームページを調べてみた。
 何を疑っているかというと、今回の「生前退位」の一連の報道が、天皇を退位させ、摂政を置くことで、天皇を「元首(自民党憲法改正草案では、「象徴」のまえに「元首」という定義が出てくる)」としてお飾りにし、実際は安倍が「摂政」を操り人形としてつかうために仕組んだもの(籾井NHKをつかって、情報捜査しようとしているもの)という疑いである。
 で、調べてみると、議題となるテーマは、

1 皇位継承の順序変更(皇室典範第3 条)
2 立后と皇族男子のご婚姻(同第10条)
3 皇族の身分の離脱(同第11条・第13条・第14条)
4 摂政の設置・廃止(同第16条・第20条)
5 摂政の順序の変更(同第18条)

 とある。皇室典範の条項の順序で紹介されている。読売新聞の一覧表とは順序が違う。読売新聞は番号を振っていないが、こういうときは読者は一般に上から(1)(2)(3)と読み、それが重要な順序なのだろうと思い込む。そういう「読者心理」を利用しているのだろうけれど、4番目の「摂政の設置・廃止」を2番目に持ってきている。あるいは、これは安倍の「意図」を汲んだものかもしれない。
 やっぱりなあ、と思う。
 「皇位の継承」と「摂政」を関連づけてしまおうとしているのだ。あこだね、安倍の意図は、と思ってしまう。
 さらにメンバーを見ると、ちょっと驚かされる。
 宮内庁は、次のように紹介している。

文仁親王殿下
正仁親王妃華子殿下
衆議院議長 大島理森
衆議院副議長 川端達夫
参議院議長 伊達忠一
参議院副議長 郡司 彰
内閣総理大臣 安倍晋三
宮内庁長官 風岡典之
最高裁判所長官 寺田逸郎
同判事 櫻井龍子

 安倍が議長(議事進行)をつとめるのかもしれないが、読売新聞の一覧図のように「中心」にいるわけではない。衆参副議長の「下」に位置する。現行憲法の定義でもそうだが、衆院議長、参院議長の方が首相よりも「上」なのである。首相は「行政府」の長であるかもしれないが、どんな行政も「法」のもとにおこなわれるから「立法府」の方が「上」である。
 このわかりきったことを、「ずらして」読売新聞は紹介している。ここには、安倍の「意向」が組み込まれていると見ていいと思う。あるいは、安倍の意図がわかるように図解していると言えばいいのか。「皇室会議」では、安倍が主役ではないのに、安倍がター田ーシップをとって柿木を動かしていく、そうするのが「当然」という感じの印象をつくりだそうとしている。
 もし、「天皇の生前退位」をめぐって皇室会議が開かれるとしたら、その会議には何よりも安倍の「意向」が強く反映される。安倍が中心になって会議をリードしていくということがうかがえる。
 そして、それはどんな具合に展開されるか。

 秋篠宮さまは2011年11月、46歳の誕生日に先立ち開かれた記者会見で、一定の年齢に達した時に天皇が退位する「定年制」について「必要になってくると思う」と理解を示された。年齢を基準にすれば、本人の意思とは無関係に基準が設定されることから、「退位の強制」などが生じることもない。

 つまり、これは秋篠宮の発言を「利用」である。皇室会議のメンバーである秋篠宮は「天皇の定年制」について理解を示している。それを議論の出発点にしようとしている。天皇が「生前退位」の意向を語り、秋篠宮が「理解」を示しているから、それでは「生前退位」を認めることにしよう、というのである。しかし、秋篠宮は、天皇が「生前退位」の意向を発表する以前のものである。さらにいえば、天皇の発言は「生前退位」をめぐるものではなく、あくまで「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」というタイトルが示すように、「象徴としてのつとめ」について語ったものである。
 「生前退位」について語ることが、天皇の政治的行為を禁止した憲法にふれるというのなら、「象徴」について自分の思いを語ることもやはり政治的行為だろう。「象徴」がどういうものであるか、それを決定するのは天皇ではなく、あくまで「憲法(国民の総意)」である。
 「象徴」について語ることは許されて、「生前退位」について語ることは許されないというのは、私から見ると、とても奇妙である。天皇のことばを読む限りでは、「生前退位/摂政の設置」はどうしても結びつかない。天皇ははっきりとそれを否定している。ただ、官邸が「摂政ではだめなのか」と言い続けた。あの「おことば」からわかるのは、その「しつこい」くらいのやりとりの経過である。
 ここに、どうしても「疑念」が残る。なぜ、天皇がそんな経過をわざわざ語ったのかという問題が残る。経過を語ることで、天皇は、安倍のやろうとしていることを明るみに出そうとしているのではないか、と私は思っている。

 さらに、読売新聞が書いている次の部分。これも、気になる。

 政府は現在、皇室典範を改正して生前退位を制度化するのではなく、いまの天皇陛下の退位だけを可能とする特例法の制定を軸に検討を始めている。「陛下のご年齢や今の負担を考えると、時間をかけるわけにはいかない」(政府高官)からだ。すでに退位の意向を示唆されている陛下には「退位の強制」が生じる懸念はなく、今回限りであれば具体的な退位の基準を作ることも避けられる。

 今回の天皇の退位だけを可能にする「特例法」。「年齢への配慮」というと、聞こえはいいが、もし「80歳定年制」というのような皇室典範ができてしまえば、次の天皇が80歳になるまでは「退位」を求める(退位させる)ことはできなくなる。「摂政」をおいて、操り人形としてつかうことができなくなる。「特例法」ならば、つぎの天皇の場合も「特例法」を制定すれば「生前退位」をさせることができる。「具体的な基準」をつくってしまえば、それができなくなる。そう考えて「特例法」の制定を検討している。天皇のための特例法ではなく、安倍のための特例法である。
 そう読むことができる。

 もう一度、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」の、奇妙な部分を引用しておく。

 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

 「思われます」「考えられます」という動詞のつかい方は、あきらかに不自然である。すべての「天皇のことば」を読み直したわけではないが、「東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば」や「パラオ国主催晩餐会における天皇陛下のご答辞(ガラマヨン文化センター)」などを読んでみても、そんな「ひとごと」みたいな表現はない。天皇はいつも「思っています」「願っています」というように、天皇自身を主語にして、こころの動きを直接語っている。
 「思われます」「考えられます」という「婉曲表現」には、「思う/考える」という動詞を主語とする天皇以外の人間が隠れていると、私は思う。
 天皇も人間だから、身内では、身体の衰えとか不安とか、いろいろ語るだろう。そのふともらしたことばを、むりやり「生前退位」ということばに仕立てられ、「意向を表明させられた」のではないか、と私は思ってしまう。
 参院選で、憲法改正に必要な三分の二の議席を確保した。今のうちに、何もかも自分の思い通りにしたい。してしまいたい。緊急の狙い(欲望)が、そこに動いていると私は考えてしまう。
 皇室典範の改正ではなく、特例法で状況を打開しようとする性急な動きを見ると、よけいにそういうことを考えてしまう。憲法の「第一章」にかかげている「天皇」の問題を「特例法」というような、一時しのぎで処理しようとするのは、どんなにいいつくろってみても不自然である。天皇は、昭和天皇のときのように、病床に倒れているわけでもない。特例法が必要なほど緊急性はない。



*

『詩人が読み解く自民憲法案の大事なポイント』(ポエムピース)発売中。
このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E4%BA%BA%E3%81%8C%E8%AA%AD%E3%81%BF%E8%A7%A3%E3%81%8F%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E6%86%B2%E6%B3%95%E6%A1%88%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E3%81%AA%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95-%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E6%86%B2%E6%B3%95%E6%94%B9%E6%AD%A3%E6%A1%88-%E5%85%A8%E6%96%87%E6%8E%B2%E8%BC%89-%E8%B0%B7%E5%86%85%E4%BF%AE%E4%B8%89/dp/4908827044/ref=aag_m_pw_dp?ie=UTF8&m=A1JPV7VWIJAPVZ
https://www.amazon.co.jp/gp/aag/main/ref=olp_merch_name_1?ie=UTF8&asin=4908827044&isAmazonFulfilled=1&seller=A1JPV7VWIJAPVZ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ターセム・シン監督「セルフレス 覚醒した記憶」(★)

2016-09-11 09:45:05 | 映画
ターセム・シン監督「セルフレス 覚醒した記憶」(★)

監督 ターセム・シン 出演 ライアン・レイノルズ、ベン・キングズレー、マシュー・グード

 荒唐無稽の映画は細部が大事である。ベン・キングズレーが登場していたシーンは、現実(?)のせいか、細部が丁寧に描かれていた。ように、思う。ように、思うというのは、あんな豪華な家を私は知らないからである。知らないけれど、ニューヨークの金持ちはこんなに豪華に暮らしていると、わかる。
 家に帰って来て、鍵を、バスケットボールで背中越しにパスする容量で椅子の上に放り投げるシーン(これは、あとの伏線になっている)とか、レストランでピーナツのアレルギーの話をするところなんかも丁寧。最後のコーヒーを飲む前に、スプーンで一回すくってみるところなんかも、「心理描写」としておもしろい。
 でも、それ以後がテキトー。「脳の転移(?)」後が、あまりにもストーリー中心的。
 バスケットをするシーンだけ、あ、ベン・キングズレーだと思わせるのだけれど、ほかはライアン・レイノルズの「肉体」がベン・キングズレーを引っ張りまわしている。海兵隊員(?)の「肉体」がかってに動いてしまう。それなのに、思考はベン・キングズレーとライアン・レイノルズがきちんと分類されていて、混乱というものがいっさい起きない。ベン・キングズレーは、自分になぜ、そういう行動ができるか、ということを疑問に思わない。鍵を背中越しに投げるような、「癖」が「思考」として描かれない。
 それなのに、ライアン・レイノルズの「思考」の癖を気にする。幻覚に出てきた幼い少女は誰? まあ、監督、脚本家は、「娘との時間」になんとか、そういうものを重ねているつもりなんだろうけれど、切実さがない。ストーリーの「説明」にすぎない。
 ベン・キングズレー(の思考/頭脳?)が、助けを求めに行った友人(会社のパートナー)の家で、すべての鏡にカーテンがしてあるのに気づき、そこから「異変」を感じ取るというのは、よくできているようにみえるかもしれないが、それだってご都合主義。どこかの映画でもあったかもしれないなあ。
 しかし、なんといっても問題なのは、「脳の転移」の「細部」。あんなMRTの簡易装置みたいなもので、「脳の転移」ができるとは思わないし、その「病院」の安全管理がずさん。セットがあまりにも安直。ビニールのカーテンの印象しか残らない。(これも、どこかの映画であったぞ。)こんなところで、こんなことができるはずがない。まあ、どうでもいいんだろうなあ。「脳の転移」手術の副作用を抑える「薬」の分析が簡単にできてしまっているというのも、まるで笑い話。(これは、どの映画にもないぞ。)
 で。
 一番のクライマックス。マジックミラー越しに火炎放射器(?)でライアン・レイノルズとマシュー・グードが向き合い、対決するシーン。ここだけが嘘の話の中で「リアル」。マシュー・グードが鏡のなかの自分の姿が歪むので、幻覚がはじまったと思い薬を飲む。だが、それは幻覚ではなく、火炎放射器で鏡が焼かれているために、鏡が歪んでいた、というのだが……。
 これって、ロベール・アンリコ監督の「追想」(フィリップ・ノワレ主演)のラストシーンじゃないか。妻と娘を殺された男が自宅の迷路というか、熟知している自宅の構造を利用して戦うシーンと同じ。戦争(闘い)は、侵略者が負ける。その「場」を熟知しているものが、必ず勝つ。これはアメリカのベトナム戦争での「証明」した事実、アメリカが敗北することで「証明」された戦争の事実。
 これが「応用」されているのだけれど。
 もし、こういうシーンを「応用」するのなら、それはその病院のことを熟知しているマシュー・グードでなければいけない。ライアン・レイノルズが「応用」するのなら、それは彼が住んでいた家でなければならない。その家での銃撃戦のとき、ライアン・レイノルズは床下にもぐりこんで、風通しの格子越しに銃を撃った。ライアン・レイノルズがどこに隠れているか、家の構造を知らない男たちは、そのために負ける。
 ほら、戦いを有利に奨めることができる(勝つことができる)のは、その「場」を熟知した人間である(侵略者は負ける)という「証明された事実」が、そこでくりかえされているでしょ?
 でも、その「戦争の本質」が無視されている。このあたりが、とてもずさん。
 あっちこっちの映画をつまみ食いしながらつくった映画だからだね。私はロベール・アンリコ監督「追想」(★★★★★)が大好きなので、よけいに、そんなふうに感じるのかもしれないが。
               (天神東宝ソラリアスクリーン9、2016年09月10日)


「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
追想(続・死ぬまでにこれは観ろ!) [DVD]
クリエーター情報なし
キングレコード
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坂多塋子『こんなもん』

2016-09-10 11:21:28 | 詩集
坂多塋子『こんなもん』(生き事書店、2016年09月30日発行)

 坂多塋子『こんなもん』は、詩集の「作り方」がかわっている。かわっているといっても、きのう読んだ神尾和寿『アオキ』ほどではない。いや、一見したところ、かわっているようには見えないかもしれない。しかし、同人誌で坂多の作品を読んできた私には、とてもかわった詩集に見えた。読んだことがあるはずの詩なのに、まったく新しく見えた。
 どうしてだろう。
 たぶん、一ページ(あるいは見開き二ページ)の行数が少ないせいである。数えてみたら一ページに十一行。詩集を開いたときに見える「文字量(ことばの情報量)」が少ないのである。
 詩を読むとき、一行一行読んでいるようで、実は、そうではないのだ。意識しないが、自然に全体を目で読んでしまっている。それから一行一行、他の行とのバランスの中で読んで、読みながら感想をととのえている。
 瞬間的に「見える」情報量が少ないと、そこに引きずり込まれてしまう。妙に、密着して、ことばが濃厚に見えてくる。というか、坂多のことばの濃厚さにあらためて気づかされるのである。
 詩集の「判形」も影響しているかもしれない。文字の大きさも影響しているかもしれない。小ぶりの詩集で、余白がきゅっとしまって見える。
 あ、これでは、感想にならないかなあ。
 ブログで書いても、詩集を読んだときの感じはつたわらないかもしれない。
 でも、やってみよう。
 「魚の家」という巻頭の詩。
  一ページ目。

魚の家




砂場で
砂を
掘っていた 掘っていたら
砂は
海の匂いをさせて
海の底だった

 同じことばが何度も出てくる。「掘っていた 掘っていたら」という行など、「意味」としては「掘っていたら」だけでも通じる。これがもし「散文」の作品で、たとえば小学校の作文の宿題だったりして、四百字詰め原稿用紙一枚に収まらない、五字ほどオーバーするとわかったら、「掘っていた」を削るだろうなあ。
 そういう感じの、ことばの動き方。言い換えると、「合理的な作文」から見ると、無駄があるのだけれど、その無駄の繰り返しのなかに、妙に引きずり込まれる。
 「砂を掘っていた」、そしてそれが繰り返され「掘る」という動作が「肉体」になじんでしまうと、「掘る」ということを忘れる。「掘る」という「肉体」の動きのどこからか、(動いている「肉体」のどこからか)、違う「肉体」が目覚めてくる。「におい」を感じる「肉体」が動き始める。あ、「海の匂い」。そう感じると、「砂場」は「海の底」に変わってしまう。
 でもこれは繰り返し掘るという肉体の動きがあってはじめて動き始めたもの。そういう不思議な、しつこい、つながりがある。
 早い変化でも、遅い変化でもない。あえていえば「ていねい(しつこい)」な変化である。「ていねい」というのは、たぶん、ひとつの動作(肉体の動き)から次の動作までの「感覚」が「均一(しつこい)」ということなんだろうなあ。
 その「均一」の「ていねい」がつくりだす、不思議な「粘着力」に引き込まれてしまう。
 見開きの二ページ目(左側のページ)。

そこでは
父の
もう
とけてしまった骨の
すきまから
小さな魚が生まれている
うたうように
うめくように
それらは
ひとすじの道をつくっていく

 一ページ目の「海の底」ということばが、ここでは言いなおされている。「魚」が登場してくる。海の底だから「魚」が出てくるのは自然なのだが、それが「父の/もう/とけてしまった骨の/すきまから」というのは、不自然。不自然だけれど、それを不自然と感じる前に、あ、父が死んでしまっているのか。もう何年も前に死んでいるのか。その父を思い出しているのか。そうすると、「小さな魚」というのは父のことかなあ、というようなことを感じる。「うたうように/うめくように」というのは父の姿かもしれない。
 父は死ぬとき、「うたうように/うめくように」最後の声をもらしたのか。あるいは、父は日頃、ひとりで歌っていたのかもしれない。歌っているつもりでも、うめくように聞こえて歌とは言えないものだったかもしれない。どちらともとれるが、それは「思い出す」という「ひとすじの道」になる。すべては父につながる道になる。
 父をみつめる(みつめた)坂多の視線が「濃密」な感じでつたわってくる。

 さて、これから、どうなるのか。
 たぶん、同人誌で読んだとき(読んだかなあ、よく思い出せないが)、もっと他の行が見えていて、「何か微妙なことが書いてあるなあ」という感じはするけれど、ぱっと読みとばしていたと思う。「粘着力」にからみつかれるという感じはなかった。
 けれど、この詩集で読むと、読みとばせいない。次が見当がつかない。詩は、ここで終わっているかもしれない。終わっていても、いっこうにかまわない。砂場で遊んでいて、砂から海の匂いを感じ、それから父を思い出す。(きっと、魚と縁のある父だったのだ。漁師とか、魚屋とか、あるいは魚が大好きとか。)
 ここで詩が終わると「魚の家」というタイトルが中途半端だけれど、詩なのだから、それでもいいかなあ、とも思う。
 さて、どうなるか。
 ページを開くと、見開きでことばが並んでいる。左側のページは、終わりの方まで行が続いている。これで終わりかなあ、まだ続くのかなあ。わからないまま、読み続ける。

 三ページ目。(見開き、右側)

遊んでいた子どもたちが
帰ったあと
あちこちに
砂の家が散らばっていた
くずれかけた階段の下で
尾ひれのない
一匹の魚が空をみている

あたしは
二度も道に迷って
家に帰った

 見開きで、ことばが左のページに続いているが、そうわかっていても、ここで詩が終わってもいいかも、と前のページで思ったことをひきずりながら、私は詩を読む。
 「尾ひれのない/一匹の魚」は父かなあ。それとも父のことを思い出している坂多かなあ。どっちであるか、決めつけたりせずに、両方あり得るなあ、とぼんやりとつかみ取ればいいんだろうなあ。
 というのも。
 どっちとも決めない、父でもあるし、坂多でもある、死ぬ前の父(ぼんやり歌を歌っている思い出の父)でもあるし、子どもだった坂多でもある。そこに描かれているのは、現在の坂多でもあるし、昔の砂場遊びをする子どもだった坂多でもある。
 その、決めつけない、どちらでも、という感じが、

二度も道に迷って

 の「二度」と響きあっているなあ、とも感じる。
 こういうことは、「意味(解釈の決定)」ということからすると、まあ、「失格」になるのだろうけれど、詩を読むというのは「テスト」を受けるわけではないし、「正解」を出すということとも違うので、私は、どちらであるとは決めつけずに、そのままにしておく。そのうえで、そうか「二度か」と思い、妙に切なくなる。
 切なくなりながら、あ、この詩はまだ続いているのだった、と思い直し、さらに先を読んでいく。

 四ページ目。(見開きの左側)

台所では
母が
魚の頭を落としている
あたしは
子どものふりをして
「多々イマ」といった
卓袱台のある
へやに
父の写真が飾ってあり
頭のない魚が行儀よく並んでいた

 「父の写真」は遺影か。ここに描かれているのは、いまの「家」か。母は元気に台所仕事をしている。台所仕事を母に任せて、坂多は「子どものふり」をしてただいまといったのか。それとも、これは過去の記憶。坂多はすでに「子ども」とは言えない年齢なのだけれど、「子ども」のふりをしたのか。そのときのことを思い出しているのか。「卓袱台」ということばが、なんとなく、「過去」を想像させる。
 「魚の頭を落としている」、その「頭のない魚が」がさらに料理されて、卓袱台の上に「行儀よく並んでいる」。そう読むと、「時制」としては妙なのだけれど、母が魚の頭を落としているのを見たときと、卓袱台のある部屋に入っていったときの間に「時間」の経過があると考えれば問題はない。母が魚の頭を落としていた日と、卓袱台に魚が並んだ日を別の日と思ってもいいだろう。思い出の中では、すべての時間は自在にくっついたり、はなれたりする。砂場で遊んで帰った日は一日だけではないだろう。繰り返し繰り返し、同じように遊び、繰り返し繰り返し同じような日々がつづくのだ。母は魚の頭を落とし、魚を料理する。それが、卓袱台に並ぶ。父は、魚を食べ、少し酒も飲み、いい気持ちで歌を歌ったりする。「あれでも、歌? うめいているんじゃない?」というような軽口を坂多は母と交わしたかもしれない。そんなことはどこにも書いていないのだが、そんなことが書かれていたのを私は読み落として引用しているかもしれない。

 書いてあるか、書いていないか問題ではない、というと坂多の詩から逸脱しすぎるかもしれないが。

 この不思議な粘着力ある詩を読み、ここまで書いてきて私にわかったのは、坂多が書いていることばは「一回きり」だけれど、そこには書かれない「繰り返し」があるということ。

砂場で
砂を
掘っていた 掘っていたら

 は、

砂場で
砂を
掘っていた (繰り返し掘っていた) (繰り返し)掘っていたら

 砂が海の匂いをさせるようになった、ということ。海の匂いは、突然やってきたのではない。「繰り返し」のあとにやってきた。だから、その「海の匂い」はやはり繰り返し繰り返し、砂を掘れば匂ってくるのである。
 そして、繰り返し思い出すたびに、父は繰り返し死ぬ。繰り返し死ぬとは、変な言い方だが、逆に言いなおせば、繰り返し繰り返し生きている父を思い出すということだろう。父と生きた時間を思い出す。同じように、繰り返し繰り返し母のことも思い出す。いつも魚の頭を落としている。いつも卓袱台に魚の料理がならぶ。ほかのことも思い出すのだけれど、やっぱり繰り返し、それを思い出す。
 そうした「繰り返し」が、ことばをととのえている。丁寧にしている。

 私は、どんなことばでも読むし、それがどこに書かれているかとは関係なく、そのことばを動かしたときどういうことが起きるかを問題にして読むのだが。したがって、本の形と詩の間には関係などないと思っているのだが。
 今回は、ちょっと、その考えを改めた。
 坂多の詩は、詩集になることで、もう一度、生まれ変わった。新しくなった、と感じた。
 しかし、これは先に神尾の詩集を読んだせいかもしれない。あの、妙なタイトルと作品のつなぎ方を読んだあとなので、その影響を受けて、感じ方が変わったとも言える。読む順序が逆なら、また、それぞれ違った感想になるかとも思った。
 そういう「留保」をつけるけれど、
 うーん、
 いい詩集だ。丁寧なことばの、その「感触」が、とても気持ちがいい。
 高橋千尋の装幀もおもしろい。絵の、バックの部分が単なる塗りつぶしではなく、丁寧に丁寧に、細い線が繰り返し繰り返し重ねられている。そのタッチが、坂多のことばの「繰り返し」を経たあとでだけあらわれる「丁寧」にとても似合っている。

 あ、書き忘れた。
 「魚の家」は、四ページ目で終わり。つづきはどうなっているかなあ、思ってページをめくると「なまえ」という作品になっていた。でも、その一行目は、

夜の台所に魚がいた

 だから、タイトルを無視すれば、「魚の家」とつづいているかもしれない。タイトルが違うからといって、別な詩とはいえないかも。繰り返し読めば、まざりあい、区別がつかなくなるかもしれない。
 ことばは(詩は)、おもしろくて、どこかこわーいものなのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神尾和寿『アオキ』

2016-09-09 11:04:14 | 詩集
神尾和寿『アオキ』(編集工房ノア、2016年09月01日発行)

 神尾和寿『アオキ』は、詩集の体裁がとても変わっている。タイトルと作品が分離している。タイトルと作品が別のページにある。タイトルの次のページから作品が始まる。それだけなら、まあ、何度か見かけたことがある。神尾の詩集は、それをさらに逸脱(?)して、タイトル→次のページ(作品、見開き)→その見開きの最後の部分に、つまり左側のページの下の方にタイトルという形。まるで見開きの作品のタイトルを左ページの下の方に書いているようにも見えるが、実は、それが次のページから始まる作品のタイトル。文字で書くとややかしいが、手にとってみれば、すぐわかると思う。
 なぜ、こんな形にしたのかなあ。
 わからない。わからないけれど、その見開きの左下のタイトルが、作品のタイトルであってもいいかなあ、とも思う。作品のタイトルが、作品を読むことで変わってしまった、ということでもいいかなあ、とも思う。
 だいたい、読む、ということは読む前とは違った気持ちになるということ。だから、気持ちにあわせてタイトルも変わってもいい。書く方だって、書いてしまえば気持ちは変わる。だからタイトルが変わってもいい。
 たとえば、「すっぱだか」というタイトルの作品。

「ひんむいてすっぱだかにしてやるぞ」
と 人相の悪いおとこが
誘拐してきたOLさんに対して
凄んだ
人間をバナナなどの果実に見立てた上での
表現である
しかし それから先の意図は誰にも読めない
OLさんは
唇を ぐっと噛みしめて
さっきから震えている
スクリーンのなかの 名場面である
お金を払って
ぼくは 今ここに坐って
見ている

 これに、次の作品のタイトル「無人島なのに・ぼくがいて・まっぱだか」が添えられている。そうすると、それでもいいかなあ、という気持ちになってくる。そのとき、映画館が「無人島(観客が神尾しかいない)」にかわっている。たったひとりで、OLが裸にされる寸前(?)の映画を見ている。そのとき、まあ、ちょっとどきどき、わくわくするね。「それから先」が読めなくて、興奮する。その興奮というのは感情が「まっぱだか」状態。だれも神尾を見ていない。無人島で、神尾は、感情がまっぱだかになっている、という「比喩」として読める。
 ふーん。で、その「無人島なのに・ぼくがいて・まっぱだか」は、

真っ裸になって
猛然と走り出す
世界新記録を出していても
それを計測する者はいない
聞くに堪えない罵詈雑言も叫び放題
誰の耳も
そこに生えていないから
夜には きれいな月光が射してきて
ヤシの木の根元に おぼろげな影が
寝る
ぼくまでもすっといなくなる

 まあ、無人島だから、何をしていても、誰にもわからない。そういうことなのだが、これに「東尋坊」というタイトルがつけられる。そうすると、あっ、自殺寸前の状況に変わってしまう。誰も見ていない、断崖から落ちるときの叫び声(あるいは落ちてしまった瞬間の悲鳴)を誰も聞かない。ただ月が出ている。「ぼく」が消える。
 という具合。

 生きているということは、切断と接続の切り返しだけれど、神尾は「詩集」でそれをやっている。一篇一篇のなかにも切断と接続はあるのだが、それよりも「詩」と「詩」のあいだで切断と接続をやっている。そうすることで、切断と接続こそが「詩」なのだと言いなおしている。
 いままで、これはこういう意味だと考えていたことが、いったん切断され、別の意味にととのえられる。それはただタイトルを変えるだけで、そうなってしまう。
 なぜなんだろう。
 読んでいる私の方にも「切断と接続」への期待があるからかもしれない。
 毎日同じ生活。これを「接続」ととらえるなら、それが「切断」され、新しい生活が始まる。その新しい生活というのは、新しい「接続」のことである。
 こんなことは、とくに意識はしないけれど、なんとなく、そういう気持ちがあって、それがどこかで静かに通い合っているのかもしれない。
 読み進むに従って、次はどうなるのだろう、と考えてしまう。期待してしまう。

 読み返せば、それは一篇の詩のなかでも起きている。たとえば、「すっぱだか」。
 「ひんむいてすっぱだかにしてやるぞ」から始まる緊張した場面。それが「スクリーン(映画)」と知らされても、で、どうなる?と期待してしまうが、神尾はこれを、ぱっと切断し、それを見ている「ぼく」に切り換えてしまう。「どきどき、わくわく」という映画のストーリーが切断され、「ぼく」の「日常」に接続される。「ぼく」はたぶんOLに「ひんむいてすっぱだかにしてやるぞ」と言ったことがない。これからも言わないだろう。それはそれで「正しい」ことなのだが、なんとなく寂しい感じもする。「どきどき、わくわく」が「寂しい」に接続されて、そのとき、ふっと、そこから「生活(神尾の肉体)」というものが見えてくる。
 その「ふっと見える生活」を神尾は間接的に描いているとも言える。あることを持続して書くことで見える生活ではなく(それをやると「小説」になるのかな?)、ある瞬間を切断し、別のものに接続する、そのときに動くこころを、詩として書き留めている。変化そのもののなかに、変化の瞬間に、ぱっとあらわれ、ぱっと消えていくもの。それを独特の形式で書き留めていることになる。
 あ、いま、何が動いたのかなあ、と自分をちょっと振り返り、そうだなあ、そういうことがあるなあ、と思う。
 それでいいんだろうなあ。

 それでいいって、何が、という具合に問い詰められると困るけれど。

 で、こういう作品だから、神尾のことばは、とても日常的。辞書をつかわずに、ただ、そのままぱっぱと読むことができる。(私はわからないことがあっても、辞書を引かない人間なので、こんなことを書くと変だが……。)
 の、はずだが。
 たとえば、

人間をバナナなどの果実に見立てた上での
表現である

 私は、えっ、そうなのか? と驚いてしまう。書いてあることは、すぐに理解できる。でも「ひんむいてすっぱだかにしてやるぞ」が、OLをバナナに見立てて(比喩として)いるとは思ったことがなかった。なんだか、とても「静かな」比喩である。
 私などは、卵を産めなくなった鶏を絞めて、羽をひきむしり、皮を引き剥がしてというような、剥がそうとしても剥がせない、「肉体」にしっかり密着したものを想像してしまうが、あ、違うんだと、ここでかなり驚いたのである。
 しかし、神尾のつかったバナナ(果実)の比喩は、何といえばいいのか、最後の三行の「ぼく」の静かさと通じているなあ、とも思う。
 もし、あそこで鶏の皮を引き剥がすというような「説明」をしてしまったら、最後は違ったものになる。
 そういう「微妙」なことばの動きがある。それが詩集を統一している。
 「無人島なのに・ぼくがいて・まっぱだか」で言えば、

世界記録を出していても
それを計測する者はいない

 この「計測する」という動詞も、それに似ている。「計測する」は「記録」という「名詞」を言いなおしたもので、本当は「記録する」(残す)ということ。「東尋坊」と続けて読めば、それは「記憶する」にもなるね。だれかのなかで、静かに残っていく、だれかの記憶/思い出。だれかを思い出す、つらさ。
 なんとなく、不思議な「間接的」とでも言いたいような「静かさ」がある。

 ほんとうは、この「静かな間接性/寂しさ」から詩集をとらえ直した方がいいのかもしれないが、こういうことは書きながら見つけ出す感想なので、そこからはじめようとするとまた違った感想になるかもしれない。(これは、結論を想定せずに書き始める私自身への、一種の言い訳的メモ。機会があれば、静かな間接性/寂しさを中心に神尾の作品について書いてみたいとも思う。)

神尾和寿詩集 (現代詩人文庫)
神尾 和寿
砂子屋書房
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案を読む/番外17(情報の読み方)

2016-09-08 11:02:56 | 自民党憲法改正草案を読む
 2016年09月08日読売新聞朝刊(西部版・14版)の「福岡版」に気になる記事があった。

 春日市教委は今年度、私立の全小中学校(18校)の通知表に、地域社会との関わり、ルールやマナーを守る規範意識などを評価する「市民性」の項目を加えた。地域の結びつきの希薄化、デジタル化の進展といった変化の中で成長する子どもたちの市民性を、学力と同じように重視。大切な通知表の中で評価することによって、地域社会を担う「自立した市民」としての意識を高め、その力を養う狙いがある。
 市教委は、山本直俊教育長の発案に基づき、公共心、郷土愛、地域情報への関心の三つを「市民性」の尺度に定義。(略)「地域の人へのあいさつをしている」「午後10時-午前6時はスマートフォンを使っていない」「地域の行事に参加している」などの評価項目のサンプルを作り、4月に各校に示した。

 これは、「道徳の採点化」とどう違うのだろう。「道徳」ということばはつかっていないが、つかっていなだけに、よけいにいやらしさを感じる。
 だいたい子どもに「地域社会を担う「自立した市民」としての意識」を求めてどうするのだろう。「地域社会」なんか、子どもは担わなくてもいい。生まれ育ったところを捨てて、どこへでも羽ばたいていけばいい。どこででも生きて行ける力を育てることが大切であって、いま住んでいるところにしばりつけるのは、親のわがまま。親の欲望。
 と書いてきて、思い出すのが自民党の憲法改正草案。
 その前文に、こう書いてある。

日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。

 「公共心」「郷土愛」とは書いていないが、「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って」、「郷土を誇りと気概を持って自ら守り」は「公共心」「郷土愛」と同じだろう。そして、それが「国家を形成する」と「国家」につながっていく。
 これだけでは、何も「悪い」ことを書いているようには見えないが、これは逆に見れば「国家」に都合のいい人間を育てるということだろう。
 「国家」あるいは「社会」に対して批判し、よりよいものをめざすという運動を抑制し、「国家」の言うがままに、「国家」を守る、ということにつながる。

 この前文のくだりは、現行憲法にはない。
 また、現行憲法にはない「文言」としては、次のものもある。

第二十四条
家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わ
なければならない。

 あたりまえのことを書いているようだが、ゆっくり読むと、とても怖い。家族は助け合うのが普通だが、ときにはけんかする。そして、ときにはその結果、別れてしまうこともある。日常的に、そういうことが起きている。
 自民党の憲法改正草案は、そういうことに目をつぶっている。そして「家族は、互いに助け合わなければならない」という。個人よりも「家族」が重視されているのである。
 「家族」は「公共」のはじまり。「社会」のはじまり。「国家」のはじまり、ともいえる。自民党の改正草案では、「国家→社会→家族」という具合に「決まり」をおしつけてくる。そこでは「個人」は尊重されない。
 「国家」があっての「個人」、「社会(公共)」あっての個人、「家族(親族)」あっての個人。
 これを、こどものときからたたき込むのである。教育現場で、それを強制的におこなうのである。
 「市民性」という「新しいことば」で、押し付けを隠すのである。
 新しいことばが出てきたときは、その裏には、かならずそのことばをつかった人の「思惑」がある。

 教育について、自民党憲法改正案は、こんな条項をつけくわえている。

第二十六条
3 国は、教育が国の未来を切り拓ひらく上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない。 

 この「教育環境」とは、たとえば大学教育の無料化とか、奨学金の返済免除ということではない。「国」に忠実な人間を産みだす「環境」の整備である。「国」にとっての「理想的な人間」を生み出すために、環境をととのえる責任がある(つとめなければならない)と言っているのである。
 春日市は、安倍の意向に沿って「憲法改正草案」を先取りしているのである。安倍にこびて、忠実な国民であることをアピールしようとしているのである。
 だが教育の目的は、忠実な人間を育てることだけではない。批判力を持った人間を育てること、ものごとを批判する力を育てることも重要である。批判がないままでは、前進がない。批判が歴史を動かしてきた。国家の形を変更してきた。
 春日市のやろうとしていることは、こういう人間本来の生き方を否定するものである。

 もう「自民党憲法改正草案」は「案」ではなく、施行されている。その案を具体化することで、安倍にこびる人間が生まれてきている。安倍の意向に沿って、子どもたちを「国家の道具」にしようとしている。

 読売新聞の記事は、最後に、こう書いている。

 市教委の広修治・指導主幹は「社会と自分との関わりを考えながら主体的に生きられる市民を育てたい。子どもたちが積極的に社会にかかわれば、地域の活性化という効果も期待できる」と話している。

 しかし、この記事には、そういう動きを批判する側のコメントがない。市教委の言うことを、そのまま垂れ流している。
 「道徳の採点化」が問題になっているとき、そうしたことへの批判を掲載しないのは、どういうものか。








*

『詩人が読み解く自民憲法案の大事なポイント』(ポエムピース)発売中。
このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E4%BA%BA%E3%81%8C%E8%AA%AD%E3%81%BF%E8%A7%A3%E3%81%8F%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E6%86%B2%E6%B3%95%E6%A1%88%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E3%81%AA%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95-%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E6%86%B2%E6%B3%95%E6%94%B9%E6%AD%A3%E6%A1%88-%E5%85%A8%E6%96%87%E6%8E%B2%E8%BC%89-%E8%B0%B7%E5%86%85%E4%BF%AE%E4%B8%89/dp/4908827044/ref=aag_m_pw_dp?ie=UTF8&m=A1JPV7VWIJAPVZ
https://www.amazon.co.jp/gp/aag/main/ref=olp_merch_name_1?ie=UTF8&asin=4908827044&isAmazonFulfilled=1&seller=A1JPV7VWIJAPVZ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新井啓子「うたかたうた」、長嶋南子「こんなこと」

2016-09-08 08:23:37 | 詩(雑誌・同人誌)
新井啓子「うたかたうた」、長嶋南子「こんなこと」(「Zero」5、2016年09月05日発行)

 新井啓子「うたかたうた」は「かた」という音がたくさん出てくる詩である。

一斉メールが来る
お盆には還暦の同窓会をしましょう
かたびらつけて厄落しのお祓いもしましょう
(喪中だから お祓いは ちょっと)
この前の やかたぶね船上同窓会にはいけなかったから
後ろ髪を引かれる
生まれた町で初盆のその暮れかた 何をしているか
洗い物かたづけながら家族にかたる

 冗談のようにして書かれていた「かたびらつけて厄落しのお祓いもしましょう」の「かたびら」の「かた」に刺戟されて思いついたのかもしれない。「やかたぶね」の、いきなりずらした「音」から始まり、いけな「かった」という乱れを越えて、「暮れかた」「かたづけ」「かたる」の「暮れかた」が美しく響く。「頭」ではなく「尻」にでてきて、あ、「かた」だと気づくせいかなあ。「くれ」という暗い音からはじまり、「かた」と明るくおわるところが、夏っぽいのかなあ。「……ながら家族にかたる」の「か(が)」の繰り返しも、特に変わっているわけではないが、「かたる」が妙に楽しい。
 二連目のはじまりは、こうなっている。

小学校では あのこに
かきかた鉛筆の持ちかたが違うと言われ
中指にタコができるまで練習したのよ
(かたこと かたこい かたやき煎餅)

 「かきかた」鉛筆がいいなあ。鉛筆でも「意味(注意されたこと)」は同じなのに「かきかた」と「かた」をつけくわえている。「持ちかた」に「かた」があるのだけれど、この「持ちかた」の「もち」は「かたやき煎餅」の「餅」になって反逆(?)してくる。こんなところもおもしろい。
 そのあとも「ゆかた」とか「あとかた」「かたぎ」「かたぼう」「かたたがえ」という具合に続くのだが、しつこくなる寸前で終わっている。「もの足りない」という人もいるかもしれないが、こういう作品は「もの足りない」くらいが気楽かなあ、と思う。



 長島南子「こんなこと」は「どんなこと」なのか、よくわからない。

こんなことになるとは
思ってもみませんでした
こんなことは
予告なしにやってきました
気づかないでまいにち
ノーテンキにお弁当を食べていたのです
占い師は転換期がきたというのです
こんなことになってから
お弁当は上の空
なにを食べているのやら

 わからないけれど、何かが突然起きる。そして、その何かによって、いままでのことが今までどおりでは行かなくなる。「ノーテンキにお弁当を食べていたのです」が「お弁当は上の空/なにを食べているのやら」に変わる。「こんなこと」になった長嶋には申し訳ないが、私はここで笑ってしまった。「ノーテンキ」に弁当を食べているときだって、「何を食べているか」なんて、そんなに意識しないだろう。だから「ノーテンキ」というのだと思うが、「意識しない」と「意識できない」は違っている。その「違い」を、かるく、かるーく書いている。その軽さに笑ってしまった。「こんなこと」になってしまって、それが重大問題なら弁当を食べるよりもすることがあるだろうに……。
 まあ、こんなことは、大したことではない。「批評」でも「感想」でもない。単なる私の「軽口」。

夢のなかにも
こんなことがあらわれて
わたしの脳をつつくのです
頭蓋骨に穴があいてしまいました
みっともないので
かつらをつけています
まいばんつつかれるで
穴は大きくなりました
空っぽ頭になったので
こんなこととはなんだったのか
わたしは本当はなにを恐れていたのか
わからなくなりました
穴は大きくなったので
かつらはもっと大きなものに
つくりかえなければなりません

 「こんなこと」が何かわからなくなっても、「かつらはもっと大きなものに/つくりかえなければなりません」ということは、わかる。この「わからない」と「わかる」の「ずれ」がおもしろい。
 何が起きるわけでもいないのだが。ここから何かを考え始めるというわけでもないのだが、こういう奇妙な「わかりかた」というのはあるなあ、と思うのである。






水椀―新井啓子詩集
クリエーター情報なし
詩学社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案を読む/番外16(情報の読み方)

2016-09-07 17:09:49 | 自民党憲法改正草案を読む
 2016年09月07日毎日新聞朝刊「天皇の『生前退位』のおことばから一か月」の特集をやっているという。コンビニエンスストアに買いに行ったが、行った二軒とも毎日新聞が売り切れていた。ネットで読んだ。(http://mainichi.jp/articles/20160907/ddm/001/040/197000c)
 それによると、

 「生前退位ができるか検討したが、やはり難しい」。今年春ごろ、首相官邸の極秘チームで検討していた杉田和博内閣官房副長官は宮内庁にこう返答した。
 天皇陛下は昨年12月18日、82歳の誕生日にあわせた記者会見で「行事の時に間違えることもありました」と述べた。昨夏の戦没者追悼式で手順を誤ったことなどを指す発言とみられている。宮内庁は官邸に「8月15日に段取りを間違えて陛下は退位の思いを強くされた。おことばを言いたいという強い思いがある」と伝えた。「陛下は摂政には否定的だ」という条件もついていた。
 官邸は水面下で検討を始め、杉田氏のもとにチームが結成された。総務、厚生労働両省、警察庁などから数人程度が出向し、内閣官房皇室典範改正準備室の別動隊という位置付けだったが、準備室のメンバーさえ存在を知らない「闇チーム」(政府関係者)だった。

 毎日新聞も、宮内庁と官邸で「水面下」で検討、交渉が続いていたことを明らかにしている。中心メンバーも「杉田和博内閣官房副長官」と明確にしている。
 興味深いのは「準備室のメンバーさえ存在を知らない「闇チーム」」という表現である。では、誰と誰が、その「闇チーム」の存在、その構成メンバーを知っていたのか。「闇チーム」と呼んだ「政府関係者」は知っていたのだろうが、それは誰なのか。こういうことが一番重要だと思うが、「ニュースソース」の関係があるのか、マスコミはなかなか「真実」を語らない。
 だから、私は、こういう部分は、かなり疑問を抱きながら読む。何を隠している? 何のために? 天皇への敬意?
 まさか。
 というのも、

 チームの結論は、「摂政に否定的」という陛下の意向を踏まえたうえでなお、「退位ではなく摂政で対応すべきだ」だった。結論は宮内庁に伝えられ、官邸は問題はいったん落ち着いたと考えた。陛下の意向が公になった7月13日の報道も寝耳に水だった。

 「闇チーム」、さらには官邸は「陛下の意向」をそのまま、憲法や皇室典範にふれないように実現するためにはどうすればいいか、ということなど考えていない。天皇の思いとは違った形で「摂政」を考えている。
 なぜ、摂政に「闇チーム」(闇チームを支持している人間)はこだわるのか。
 このあたりが、考えなければならないところだ。

 陛下がおことばを表明する数日前、宮内庁から届いた原稿案を見た官邸関係者は、摂政に否定的な表現が入っていることに驚いた。官邸内には「摂政を落としどころにできないか」との声が依然強かった。安倍晋三首相と打ち合わせた官邸関係者は、「陛下のお気持ちと文言が強すぎる。誰も止められない」と周辺に漏らした。官邸と宮内庁で原稿案のやりとりを数回したが、摂政に否定的な表現は最後まで残った。

 「安倍晋三首相と打ち合わせた官邸関係者は、「陛下のお気持ちと文言が強すぎる。誰も止められない」と周辺に漏らした。」という部分に、私は思わず傍線を引いた。やっと安倍が出てきたのだが、「摂政」を提言したのは安倍だから、最終的に安倍と打ち合わせたということだろう。
 なぜ、安倍は「摂政」にこだわるか。
 私たちは、「いま起きていること(事件)」を理解するのに、「過去」を参照する。「動機」を「過去」に探る。「原因」があって「結果」がある。これは、とてもわかりやすいからである。
 しかし、「動機」が過去にあるとはかぎらない。あることがしたい。その実現されていないこと(未来)が「動機」になることもある。毎日一生懸命ランニングをしている。それはオリンピックでマラソンに出たいからである、という具合。
 そんなふうに考えてみると、わかることがある。
 自民党憲法改正草案の「第一章天皇 第一条」は、こうなっている。

天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

 現行憲法にはない「元首であり」という文言が追加されている。
 しかし、「元首であり」、同時に「日本国及び日本国民統合の象徴」とはどういうことか。単に「象徴」であれば、改正草案第五条の

天皇は、この憲法の定める国事に関する行為を行い、国政に関する権能を有しない。

 ということになるが、「元首」は違うかもしれない。「法律(憲法)」の「定義」は、知らないが「元首」といえば、私は「権力者」を想像する。あらゆる国事、政治に関与できる人間を想像する。
 もし天皇が「元首」ならば、内閣は何ができるだろうか。「元首」の下に内閣があり、内閣は「元首」に従わなければならない、と私などは考えてしまう。内閣ができることはかぎられてしまう。
 これでは、安倍は、気に食わないだろうなあ。
 でも「摂政」の場合は、どうか。
 現行憲法は、こう書いている。

第四条
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
2 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。
第五条
皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。

 これに対して、改正草案は、こうである。

第五条
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為を行い、国政に関する権能を有しない。
第七条
皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名で、その国事に関する行為を行う。
2 第五条及び前条第四項の規定は、摂政について準用する。

 そして、「前条第四項の規定」というのは、こうである。

4 天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う。ただし、衆議院の解散については、内閣総理大臣の進言による。

 これを組み合わせると、「摂政は天皇の名で、その国事に関する行為を行う」のだが、その「国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う」ものである。つまり、「内閣の進言」によって「摂政」は動くのである。「内閣がその責任を負う」とは言い得て妙だが、「操り人形」である。
 安倍は、そういう「摂政」を狙っていて、「摂政」にこだわるのだろう。
 念のため、現行憲法では天皇の国事行為と内閣の関係をどう定めているか、見ておこう。

第三条
天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

 「内閣の助言と承認」と書いている。「進言」ではない。「助言」はあくまで「助ける」ことば。「進言」は「進める」ことば。「進める」は「勧める/奨める」でもある。
 自民党改正草案では、ことばの「支配力」が強い。だから、私は改正草案での「摂政」は「操り人形」だと言うのである。

 いまの天皇は、現行憲法に非常に忠実である。そのために現在では「保守」ではなく「ラディカル」に見える。
 このラディカルな天皇が、安倍には邪魔なのである。
 「摂政」を導入することによって(しかも、自民党憲法改正草案に定義されている「摂政」の導入によって)、「現実」そのものを変えようとしている。
 安倍の「行動原理」は「自民党憲法改正草案」にある。安倍は、改正草案を「事実」として定着させようとしている。「現実」にあわなくなった現行憲法ではなく、「現実にあった改正草案」という形に持っていこうとしている。

 まあ、こういうことは、私の「妄想」かもしれない。
 私には宮内庁と官邸の「水面下」のことなど、知りようがない。
 だが、天皇自身が語ったことばが、その「水面下」のことを明らかにしている。
 何度も書くが、

 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

 ここに、天皇と安倍との「攻防」が明確に書かれている。突然出てくる「思われます」「考えられます」という奇妙な表現が、「思う」「考える」の主語が天皇ではないことを明確にしている。
 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと「私は思います」ではない。
 こんな例を考えるといい。
 高熱が出た。会社に電話して、欠勤を告げなければならない。こういうとき、本人なら「高熱が出て、下がりません。仕事をするのは無理だと思います。休ませてください」という言い方になるか。「思われます」とは言わない。
 もし、熱が出て苦しんでいるのが本人ではなく家族の場合は、どうなるか。「高熱が出て、下がりません。仕事をするのは無理だと思われます。○○を休ませてください」と伝言になる。そして、そのとき「思われます」がつかわれる。「仕事をする」主体が自分ではない、家族(他人)だから、想像して「思われます」になるのだ。思っているのは、本人ではなく、他人である。
 「考えられます」も同じである。
 天皇も、そう「思い、考える」かもしれない。しかし、ほんとうに天皇自身が「思う」「考える」なら、そう言う。行為の「実行」の主体と「思う/考える」主体が違うときに「思われます」「考えられます」になる。
 これは、天皇のことばのなかにもう一度あらわれる「懸念されます」という表現を見れば、いっそうはっきりする。

天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,これまでにも見られたように,社会が停滞し,国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。
 
 天皇は「懸念します」と言ってもいいのだけれど(懸念しますでも、意味は変わらないのだけれど)、「懸念されます」と言っている。なぜか。経済が停滞する、暮らしに影響が出るというときの「主体」が天皇ではなく、国民(他人)だからである。もしかすると、国民は経済を停滞させないかもしれない、暮らしに影響を受けないかもしれない。実際に行動するのは国民であるから、「懸念されます」と言うのである。
 文体(表現)の、微妙な違いに、天皇の「思想」そのものがある。それを読み取らないといけないと思う。

 この部分に、ついて日本文学研究者のロバート・キャンベル東大教授は、次のように語っている。

 陛下は天皇が高齢になった時の務めのあり方について、公務を減らすことには「無理があろうと思われます」と述べられている。対応する英訳は「I think it is not possible」。原文に忠実に、もう少しえん曲な表現も可能だと思うが、原文より鮮明な意思表示となっている。

 英文は「原文に忠実に、もう少しえん曲な表現も可能だと思うが、原文より鮮明な意思表示となっている」は、日本語の文は「婉曲」だということを語っている。なぜ、「婉曲」なのか、その「婉曲」のなかに何が隠されているのか。
 そのことを、ロバート・キャンベルは、まあ、語らないだろう。
 ロバート・キャンベルが語らない「婉曲」を、私たちは「想像力(妄想力)」を働かせて読まないといけない。外国人さえ「婉曲」と感じている。もっと、敏感に「婉曲」に反応しないといけないと思う。
 このロバート・キャンベルの記事には「英訳は明確 「生前退位」海外理解深めた」という見出しがついているのだが、その背後にある安倍と天皇の「攻防」、安倍の意図は英訳では伝わるのか。「婉曲」を感じ取るのなら、そういうことにも踏み込んでもらいたいと私は思った。

 毎日新聞の記事のつづき。

 陛下は2010年夏ごろから退位の意向を周辺に示されていた。12年春ごろ、陛下から意向を直接聞いた宮内庁幹部はその場で思わず「摂政ではだめですか」と聞き返した。しかし陛下は象徴天皇としてのあり方について話し、摂政には否定的な考えを示したという。
 皇室典範は退位を想定しておらず、政府はこれまで国会答弁で否定してきた。複数の官邸関係者は「宮内庁から官邸に陛下の本気度が伝わっていなかった」と証言。「だからおことばに踏み切らざるを得なかったのだろう」との見方を示す。
 政府にできたことは、表現を和らげることだけだった。首相周辺は「最初の原稿案は、より強くてストレートな表現だった」と話す。おことばは「天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら」と断り、「私が個人として」話すとしている。天皇が政治に関与できない憲法の規定を踏まえ、整合性を取ったとみられる。
 おことばには「象徴天皇の務めが安定的に続いていくことを念じ」ともあり、典範改正を望むようにも読み取れる。政府は、退位の条件などを制度化するのは議論に時間がかかるとして、特別立法を軸に検討している。【野口武則、高島博之】

 最後の、

政府は、退位の条件などを制度化するのは議論に時間がかかるとして、特別立法を軸に検討している。

 この「特別立法」は09月06日の読売新聞にも書かれていたが、何としてでも安倍の任期中に、天皇の思いなどは無視して(天皇の高齢に配慮するふりをして)憲法改正を実現しようとする強い意思を感じるのは私だけだろうか。
 毎日新聞の二人の記者は、この最後の一文をどんな思いで書いたのだろうか。政府のやろうとしていることを肯定しているのか、批判しているのか。「特別立法を軸に検討している」を客観的に証明するものは、どこにあるのだろうか。それは「事実」というよりも、「意図」(もくろみ)ではないのだろうか。「もくろみ」は、そこで終わると考えているのだろうか。とても気になる。

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
クリエーター情報なし
ポエムピース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

林嗣夫「花」

2016-09-07 09:23:20 | 詩(雑誌・同人誌)
(「兆」171 、2016年08月10日発行)

 林嗣夫「花」の全行。

さきほどから
一匹のアゲハチョウが
庭のあたりを ひらひら

小さな風に揺れるヒオウギの花に
止まろうとして 止まりそこね
やっと取りついたり

花の終わったアジサイの
あの葉 この葉を
何か探してさまよったり

と、急にふうっと飛び上がり
門の近くの垣根の茂みを向こうへ越えた
向こうに何が?

何がって
そこから先はただの道 乾いた道
しかし……

蝶が 意を決したように身を翻し
風に押し揺られながら向こうへ越えた時
その行くてに

ひとつの鮮やかな花の実在を
わたしはたしかに 見たのだが

 最終連、「実在」ということばが出てくる。「花を/見た」ではなく「(花の)実在を/見た」。
 「実在」というようなことばを、私は疑ってしまうのだが、この詩では不思議とすっと「肉体」にしみこんできた。「花を/見た」だったら、たぶん、夏の終わりのありふれたスケッチとして読んだだろう。感想を書く気持ちにならなかっただろう。
 なぜ、「実在」が「肉体」に迫ってきたのだろう。

 四連目の「向こうに何が?」の「何が?」という問いかけが、たぶん、この詩の「中心」なのだと思う。「何が?」というとき、その「何」は「わかっていない」。「わかっていない」けれど、それが「何」ということば、さらに「何が?」という「問いかけ」としてしか、いま、ここに「あらわれてこない」ものだとわかっている。「何が?」と問いかけたとき、その問いかけに答える形で「何か」が「あらわれている」。林は、すでに、このときに「何か=実在」を見ているのである。つかみ取っているのである。
 そして、この「何か」をつかみ取っているとき、林は林ではない。垣根の「向こうへ/越えた」蝶である。
 六連目「蝶が 意を決したように身を翻し」という行がある。「意(精神/こころ)」と「身(肉体)」が一体になって動いている。「意を決する」と「身を翻す」が「ひとつ」なのである。それは「身を決する(肉体をある向きに動かす、その始まり)/意を翻す(気持ちを別な花に向ける)」と言いなおすことができる。「意」とか「身」、あるいは「決する」「翻す」は、「意味」を固定化できない。つまり、相対化もできない。これが「意」であり、これが「身」である。これが「決する」ということであり、これが「翻す」ということである、と固定できない。その「両方」である。「一体」になっているものである。その「一体」になったものに、林自身がなっているのである。
 それって、いったい何?
 そういう疑問が必然的に出てくるが、このときの「何」と「向こうに何が?」の「何」が、ぴったり重なる。「なに」としかいいようのないものが「何」なのである。
 「向こうにある何か」は「意を決したように身を翻し」た蝶が見た「何か」なのである。その「何か」は、蝶を「意を決したように身を翻し」ということばで林が追いかけるときに見える「何か」であり、そのとき林は知らずに、蝶になって「意を決したように身を翻し」ているのである。
 その「何か」。
 それは「花」ではない。垣根の向こうには「ただの道 乾いた道」しかないのだから、それは「花」ではない。しかし、「花」でないことによって、「花の実在」なのである。「花」ではなく「花の実在」というものがある。
 その「花の実在」とは、それ以前に書かれたヒオウギとかアジサイ、さらには「ただの道 乾いた道」が「世界」としてあらわれるとき、その全体が結晶するときに、瞬間的に「あらわれ」、同時に、「世界」を構成するすべてのもののなかに散らばっていくものなのである。「花の実在」は、あらゆるところに「見えている」。あらゆるところに「見えている」から、それは「花」の形にはしばられない。「ヒオウギ」「アジサイ」「垣根」「道」という具合に、「世界」を「分節」しても無駄である。さらに「蝶」「私(林)」という具合に「世界」を「分節」しても無駄である。そういうことをすると消えてしまう。見えなくなってしまう。「分節」することをやめ、「何?」ととうとき、その「何」のなかに「何」としてしか言いようのないものとして「実在」が生まれてくる。あらわれてくる。
 この瞬間、林が「実在」するのである。林が「詩/実在の花」になるのである。

泉―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案を読む/番外15(情報の読み方)

2016-09-06 11:38:32 | 自民党憲法改正草案を読む
 2016年09月06日読売新聞朝刊(西部版・14版)一面。「「生前退位」に限り議論/有識者会議 「女性宮家」は先送り/政府調整」という見出しで有識者会議の動きが報道されている。

 政府は、天皇陛下が「生前退位」の意向を示唆されたことを踏まえ設置を検討している有識者会議について、生前退位と公務の負担軽減策にテーマを絞る方向で調整に入った。女性・女系天皇の容認や女性宮家創設など(略)は検討を先送りし、退位問題の決着を優先させる。

 この「前文」のあと、報道の後半部分に、次の一段落がある。

 有識者会議の議論を受け、政府は法整備に着手する。生前退位を認める場合、制度化するための皇室典範の改正ではなく、現在の天皇陛下の退位だけを可能にする皇室典範の特別措置法制定を軸に検討している。早ければ来年の通常国会に関連法案を提出する方向だ。

 あれっ、有識者会議はこれから設置するのでは? 前文には「設置を検討している」と書いてある。つまり、まだ有識者会議は開かれておらず、そこではどんな議論もおこなわれていないはずである。それなのに「有識者会議の議論を受け」というの奇妙ではないだろうか。「現在の天皇陛下の退位だけを可能にする皇室典範の特別措置法制定を軸に検討している」というのは、とても奇妙ではないだろうか。まるで有識者会議の「検討」が「現在の天皇陛下の退位だけを可能にする皇室典範の特別措置法制定」へ落ち着くとわかっているみたいではないか。きっと、そうなるよう、政府が有識者会議を「誘導」するということだろう。
 ここから思うのは、(妄想するのは)、「生前退位」がほんとうに天皇の意向なのか。それとも政府(安倍)が「生前退位」をさせたがっているのか、ということだ。なぜ「現在の天皇陛下の退位だけを可能にする」ための「特別措置法」なのか。

 天皇(あるいは宮内庁)と政府のあいだで、「生前退位」をめぐるやりとりがおこなわれていたということは、すでに読売新聞で報道されている。06日の4面に「論点 生前退位」という記事がある。そのなかにも

 陛下の意向を感じ取った首相鑑定では昨年初めから、ごく一部の関係者が宮内庁と水面下のやりとりを続けていた。生前退位の制度化に慎重だった官邸は、摂政の設置要件の緩和を念頭に置いていた。皇室典範を改正し、「加齢による身体機能の低下」を要件に加える案を検討していたが、陛下のお言葉は官邸の機先を制した格好になった。

 というくだりがある。
 この書き方では、天皇が「生前退位」の意向をもらし、それをめぐって官邸と水面下でやりとりがあったと読めるが、逆かもしれない。官邸が「加齢による身体機能の低下」を理由に、「摂政設置」を持ちかけた。それに対して、天皇が「摂政」ではだめだ、「天皇は象徴であり、天皇が生きている限り、それはかわらない」と反論し、「もし退位するなら、摂政をおかずに、生前退位しかない」と反論したのかもしれない。

 このことに、こだわるのは、この「生前退位」報道が籾井NHKによってスクープされたことと、08月08日の「天皇のお言葉」の一部に不自然さを感じるからだ。
 「政治的行為」を禁止されている天皇からの、「摂政ではダメ」という反応に、安倍はうろたえたのかもしれない。自民党憲法改正草案の「第一章 第一条」は「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」とあるが、日本国憲法にはなかった「元首であり」という文言に天皇は反発するかもしれない。
 実際、08月08日の「おことば」は「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」というタイトルで読み上げられ、そこには「象徴」が強調されていた。「天皇は象徴である。摂政では、象徴のつとめを誰がするのかという問題が起きる」と天皇は摂政を求める安倍に対して牽制したのだ。
 この、思い通りにならない天皇をどうやって動かすか。そのために籾井NHKに「生前退位」というテーマをスクープさせ、「議論」を政府主導のものにしたかったのだ。「議論」を政府主導のものにするという姿勢は、最初に引用した「有識者会議の設置を検討」(まだ設置もされていなければ、議論もおこなわれていない)→「特別措置法制定」というシナリオの存在によって明確である。

 で、このことを、もう一度「天皇のおことば」そのものから指摘したい。前にも書いたのが、一部に、とても奇妙な表現がある。仕事をしながらテレビで聞いていたときは、思わず「いま、なんて言った?」と頭の中で問いかけてしまった。背景が説明されていないので「意味」が「わからない」のだった。(背景に、官邸との水面下のやりとりがあったということがわかったのは、後日の読売新聞での報道からだった。)(引用は、宮内庁のホームページから。http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12)

 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

 「思われます」「考えられます」というふたつの「動詞」に私はつまずいたのである。「思われます」とは、どういうことだろう。天皇が「思います」ではないのか。
 「考えられます」は「考えることができます」だろうか。これも、天皇が「考えます」という形で表現しないのだろうか。
 ども、おかしい。
 他の部分の「思う」「考える」という「動詞」のつかい方と比較するとはっきりする。念のため、全文を引用しておく。

 戦後70年という大きな節目を過ぎ,2 年後には,平成30年を迎えます。
 私も80を越え,体力の面などから様々な制約を覚えることもあり,ここ数年,天皇としての自らの歩みを振り返るとともに,この先の自分の在り方や務めにつき,思いを致すようになりました。
 本日は,社会の高齢化が進む中,天皇もまた高齢となった場合,どのような在り方が望ましいか,天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,私が個人として,これまでに考えて来たことを話したいと思います。
 即位以来,私は国事行為を行うと共に,日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として,これを守り続ける責任に深く思いを致し,更に日々新たになる日本と世界の中にあって,日本の皇室が,いかに伝統を現代に生かし,いきいきとして社会に内在し,人々の期待に応えていくかを考えつつ,今日に至っています。
 そのような中,何年か前のことになりますが,2 度の外科手術を受け,加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から,これから先,従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合,どのように身を処していくことが,国にとり,国民にとり,また,私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき,考えるようになりました。既に80を越え,幸いに健康であるとは申せ,次第に進む身体の衰えを考慮する時,これまでのように,全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが,難しくなるのではないかと案じています。
 私が天皇の位についてから,ほぼ28年,この間私は,我が国における多くの喜びの時,また悲しみの時を,人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に,国民統合の象徴としての役割を果たすためには,天皇が国民に,天皇という象徴の立場への理解を求めると共に,天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において,日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅も,私は天皇の象徴的行為として,大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め,これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は,国内のどこにおいても,その地域を愛し,その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ,私がこの認識をもって,天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務めを,人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。
 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
 天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,これまでにも見られたように,社会が停滞し,国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして,天皇の終焉に当たっては,重い殯の行事が連日ほぼ2 ヶ月にわたって続き,その後喪儀に関連する行事が,1 年間続きます。その様々な行事と,新時代に関わる諸行事が同時に進行することから,行事に関わる人々,とりわけ残される家族は,非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが,胸に去来することもあります。
 始めにも述べましたように,憲法の下,天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で,このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ,これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,ここに私の気持ちをお話しいたしました。
 国民の理解を得られることを,切に願っています。

 他の部分では、「思う」「考える」以外のことばを含めてピックアップすると、

「覚えることもあり」「思いを致すようになりました」「考えて来たことを話したいと思います」「模索しつつ過ごして来ました」「思いを致し」「考えつつ,今日に至っています」「覚えるようになった」「考えるようになりました」「考慮する時」「案じています」「考えて来ました」「考えて来ました」「感じて来ました」「感じて来ました」「国民を思い」「国民のために祈る」「懸念されます」「思いが,胸に去来する」「気持ちをお話しいたしました」「願っています」

 「懸念されます」のほかは、すべて直接的な表現である。ただ、この「懸念されます」は「国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます」とあるように、自分自身のことではない。「国民」のことを思っているので、表現が間接的になっている。天皇自身のことではない。
 しかし、私が指摘した「思われます」「考えられます」は、いずれも天皇自身のことである。ここに「思われます」「考えられます」という表現がまじってくるのは、どうも奇妙である。
 水面下でおこなわれたという宮内庁と官邸のやりとりを想像(妄想)してみると……。

官邸「高齢化に伴い、国事行為や象徴としての行為を縮小してはどうか」
天皇「そう考えることは、無理があろうと思われます」(断定を回避している)
官邸「摂政を置くという考えはどうでしょうか」
天皇「そういう考えがあることはわかります(しかし、無理があろうと思われます)」(断定の回避)

 そういう「やりとり」を踏まえて、天皇は、「しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。」と「断定」している。「思います」も「考えます」もつけくわえずに、ことばを述べている。「思われます」でも「考えられます」でもない。そういう間接的な表現ではなく、強い「断定」である。
 この「文体」の違い(動詞のつかい方の違い)にこそ注目して読まないといけないと、私は思う。
 天皇は「摂政」置いた場合は「天皇が十分にその立場に求められる務め(象徴としてのつとめ)を果たせぬまま,生涯の終わ」る。それは天皇にとって耐えられない、と言っているのである。「象徴としてのつとめ」こそ天皇の仕事であるという、つよい「自負」がここにあらわれている。
 天皇の「思い」が、そういう強いものであるからこそ、安倍は、マスコミを利用し、国民の感情をくすぐり、状況を突破しようとしているように思える。
 天皇が一生懸命語った「象徴のつとめ」とは何かを放り出して、天皇が高齢化している、体力に問題があるとアピールすることで、天皇を退位させ、そのまま「憲法改正草案」にある「元首」としての天皇を生み出そうとしている。私には、そんなふうに思える。

 この私の不安(妄想)に対して、ある人から、天皇の退位は憲法改正とは関係がない。皇室典範の改正だけで十分である。憲法改正論議に持ち込んではいけない、と指摘を受けた。
 もちろん皇室典範の改正で天皇の皇位継承問題は解決できるだろう。だが、それだけで自民党が憲法改正から手を引くか。
 「戦争放棄(第九条)」のことを考えてみれば、容易に想像できる。
 戦争法が施行され、日本は「個別的自衛権」の枠を超えて「集団的自衛権」が行使できるようになった。「駆けつけ援護」の実績づくりに南スーダンに自衛隊が派遣される。もう「第九条」は改正しなくてもいいはずである。しかし、自民党は改正しようとしている。「集団的自衛権」の実績を重ねることで、「第九条」は「現実にあわなくなっている」「現実にあわせて憲法を変えるときだ」と主張してくる。
 同じことが「天皇」についても起きるだろう。
 皇室典範を変えるだけで「生前退位」問題は解決できるというだけではなく、安倍が何を狙って動いているか、そのことに対して「想像力」を「妄想」の領域にまでひろげて警戒しなければならないと思う。背後にどんな動きがあるのか、報道されていないことを、報道のことばの「乱れ」のなかに見つけ出していく必要があると思う。
 だれが考えだしたのかわからないが、「報道しない」ことで巨大政党が有利になる報道システムを考え出し、「民進党にはもれなく共産党がついてくる」というキャッチコピーで参院選を「自民党対共産党」という「二者択一」にしてしまう手法を考える人間がどこかにいる。(安倍自身かもしれない。)
 何かが動き出している。その何かが何なのか、わかったときは、取りかえしがつかなくなっているだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

服部誕『おおきな一枚の布』

2016-09-06 09:12:25 | 詩集
服部誕『おおきな一枚の布』(書肆山田、2016年08月12日発行)

 服部誕『おおきな一枚の布』は、ことばの動きが散文的である。事実を積み重ねてく。飛躍が少ない。たとえば「阪神電車から見えるちいさい家の裏窓」。

大阪と神戸を東西に結ぶ阪神間の鉄道は
北の六甲山系の山裾から南の大阪湾沿いへと順に
阪急・JR・阪神の三路線が平行して走っている

 これは、描写か、説明か、ちょっと区別がつかない。「北から、南へ、順に」の「順に」というのは、私の感覚では「描写」ではなく「説明」だなあ。「事実」をととのえて、わかりやすくするためのことばだ。
 服部は、たぶん「わからなくてもいい」という気持ちになったことがないのだと思う。それは、自分の気持ちが他人に「わからなくてもいい」というだけではなく、他人の気持ちが「わからなくもいい」とはちっとも考えないということ。言い換えると、いつも他人の気持ちをわかろうとしている。それも、ただ「わかる」だけではなく、その向こう側、他人が「わかってほしくない」と思っていることまでも「わかる」というところまで進んでいく。そして、たぶん、その「隠していること」をつかむことを「ほんとうにわかる」と思っているのだろう。だから、その「隠していること」をことばにする。
 目で「世界」を見るだけではなく、「目」以外のもので、見えたものを「ととのえる」、「ことばにする」。
 さきに引用した「順に」というのも、ほんとうは隠していることなのだ。ただ三本の線路が走っているだけなのに、そこに「北から、南へ、順に」という「秩序」も、それが「平行」であるというのも、「肉眼」では確認できない。目で見たものを、頭の中で整理し直す、たとえば「地図」に書き込んで整理し直すことで、「目に見えるようになる」。「目」で見たのではなく、頭で「目に見えるようにした」世界に服部は住んでいる。
 肉眼では見えない「秩序」を導入することで、その「世界」を「分析する」と同時に「固定化する」。あることがらを「分析し」、ととのえて「固定化する」ことを「説明」というのかもしれない。
 くどくどしく書いてしまったが、作品の三連目、阪神電車と家並みの描写を読むと、そういう印象がいっそう強くなる。電車のなかから風景を眺めていると……。

狭い裏庭や軒先の物干し竿には家族構成の窺える洗濯ものが干されている
どれも近所づきあいのなかではことさら見せあわないものばかり
その家の住人はちゃんと匿していると思っているのだろう
電車が日に幾度となく通過しても誰にも見られてはいないと思っている
通過しているのは阪神電車の車輛であって
住んでいる人にその乗客は見えないのだ

 洗濯物。大きいシャツ、小さいシャツ、男物のパンツ、女物のブラウス。そういうものは「肉眼」で見える。けれど、「肉眼」では「家族構成」は見えない。けれど、服部は、そこにある秩序を発見し、「家族構成」を見る。さらには、その家に暮らしている人の「こころの動き」まで、「見てしまう」。
 その「見たもの」、つまり、ことばでととのえなおした「世界」は、もしかしたら「誤読」かもしれないが、服部は「誤読である」と指摘されないように、ていねいに書いている。
 でも、私は、こういうことばを読んでも、少しもリアルには感じない。言い換えると、こういうことばを読んでも、描写とは感じられない。「説明」としか思えない。だから「わかった」という気持ちにもなれない。

 あ、こんなことを書いていると、なぜ、この詩を取り上げて感想を書いているか、わからなくなるかもしれない。
 私は、このあとの、説明が終わったあとの部分で思わず傍線を引いたのだ。
 説明はさらに、

阪神・淡路大震災で全壊するまで おまえの父母は
そんな線路ぎわの騒音と振動が絶えなかったちいさな家で暮らしていた

 と続くのだが。(先に「説明」されていた「住人」は、ここで「父母」になって生きているのだが。)
 そのあと、

毎年一月十七日になるとおまえは
大阪梅田から阪神電車に乗って両親の墓参りにでかける
あの日 地震の揺れを堰き止めたたくさんの川
新淀川神崎川庄下川蓬川武庫川夙川宮川芦屋川住吉川石屋川都賀川新生田川
電車はそれらの川をやすやすと渉り
しだいに震度をあげながら神戸三宮へと近づいていく

 十二本の川の名前が一気に書かれ一行。
 そこには「東から、西へ、順に」ということばはない。「順に」という、世界をととのえることばがない。だから、この一行では、川のすべてが、「順番」をもたずに、つまり「相対化され」、同時に「固定化」されずに、目の前にあらわれてくる。それを見るとき、その流れが「川」になり、名前になる。そして、また「名前」を失う。「名前」はあるが、それは、その川を語るときにその名前があらわれてくるだけであって、いつでもその名前であるわけではないのだ。(と、書いてしまうと、何か違うことを書いてしまっているという気持ちになるが。)
 「川」ではなく「家」を見ればいいのかもしれない。地震によってこわれた一軒一軒の家。そこに住むひとは、それぞれに名前があって、別々の人。しかし、そこで芯でいった人を思うとき、そのすべての人は「父母」である。「父母」であって、またひとりひとり別な人間。それが、一気に、目の前にあらわれてくる。それは「頭」でととのえ、順番に並べ直すことのできないものである。
 川は「順番に」書かれているかもしれない。しかし、そこに「順に」ということばがないことによって、「順」を失っている。「順」を無視して、それぞれが、その一行のなかに同時にあらわれてきている。便宜上上から下へ川の名前がならべられているが、そこには「順」はない。
 引用の最後の一行「しだいに震度をあげながら神戸三宮へと近づいていく」は三宮に近づくに従って、その「震度」が強くなるのを感じながら、三宮の方が梅田よりも震度が大きかったのだということを思い出しながらということだろう。そうすると、そこには一種の「順序」が「しだいに……あげながら」という形で書かれているのかもしれないが、あの一行には、「順」を感じさせる「差」がない。すべてが密着している。くっついてひとつになって、同時に、瞬間瞬間に、固有名詞として噴出してきている。
 その強烈さに、私は、何度も何度も、その知らない川を、川の名前を読み直してしまう。
 被災者の名簿を読むとき、そこに書かれているひとりひとりが、自分の肉親ではないかと感じるように。強く、肉体そのものを揺さぶられる感じだ。
 こういう「無秩序」としての「現実」がもっと書かれれば、ことばはさらに強靱になると思った。

おおきな一枚の布
服部 誕
書肆山田
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント」の購入方法

2016-09-05 22:14:54 | 自民党憲法改正草案を読む

アマゾンでは、なぜか、「入荷待ち」の表示になっていますが…。

アマゾン内の「ポエムピース」からの購入が確実で、早い対応です。
下のリンクをクリックしてください。



日本国憲法、自民党改憲草案、全文掲載。詩人がその「言葉」を正確にたどり、違いと改憲案の危険な思想を鮮明にあぶり出す。中・高校生にも読みやすい憲法についての本。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大西美千代「月の道」

2016-09-05 09:46:15 | 詩(雑誌・同人誌)
大西美千代「月の道」(「橄欖」103 、2016年08月25日発行)

 大西美千代「月の道」を読んでいて、ふと立ち止まる。

裏の門を出て
月の道に立つ

会わなければならない人がいたはずだった
どこで忘れたのだろう
忘れられた、のだろう

月の道を進んでいくと
小さな人が膝を抱えてうずくまっている
ここは誰かを恨まなければ抜けられない道だった

 立ち止まったのは、三連目の三行目。「ここは誰かを恨まなければ抜けられない道だった」の「恨まなければ」ということばである。直感的に「真実である」と感じる。ここに「真実」がある。あるいは「正直」がある。人を恨むことは「正しいこと」とは言われない。けれど、人間は誰かを恨む、その「感情」を頼りに、何かを乗り越えるときがある。「恨む」という動詞よりも「恨む」という「感情の強さ」が、私を支えてくれる。
 私は詩を読むとき、いつも「動詞」に注目する。「動詞」はどの人間にも共通のものだからである。だから、今回も「恨む」という「動詞」に注目するというのが、いつもの読み方なのだけれど……。
 でも、この「恨む」というのは、大西の詩が明らかにしているように「誰かを/恨む」という具合に対象(補語)を必要とする。必要とするのが一般的である。その「誰か」が書かれていない。「誰か」としか書かれていない。だから、いま、この詩では「対象/補語」がないまま、「動詞」というよりも「名詞」として存在しているのである。
 そして、この詩の場合、それは「名詞」の方が理解しやすい。
 「名詞」は「動詞」に、つまり「動詞派生の名詞」は「もとの動詞」にもどして詩を読むというのが私の方法だが、ときには「動詞」を「名詞」にした方がわかりやすいときがある。
 なぜ「恨む」を「恨み」という「名詞」にするか。「感情」にするか。たぶん、「感情」が「肉体」を動かす力となっているからだ。エネルギーをそこに感じる。「恨み」が「エネルギー」になって「抜ける(歩く)」という動詞を動かす。「恨む」と道を「抜ける」というふたつの「動詞」を動かすよりも、「恨み」を「肉体」の内部に「感情(エネルギー)」として抱えて、足を動かし、この道を「抜ける」ということだろうなあ、と思うのである。
 でも、もしこの行が「恨みを抱えていないと抜けられない道だった」と書かれていたら、私は、たぶん立ち止まらなかった。感動しなかった。「正直」というよりも、嘘っぽいなあ、説明的だなあ、と感じたに違いない。
 なんだか、矛盾したことを書いているようだが。
 たぶん、ことばというのは、そういうものなのだろう。「論理的」に説明できる形で書かれていたら「嘘」になる。そこに書かれていることばを、もういちど自分で言いなおしてみるときに(自分にとって納得できるように、論理的に言いなおしてみるときに)、それが「ほんとう/正直」として迫ってくる。この「言い直し」というのは、自分の「肉体」で、それを「再現」してみるということである。そして、その「再現」をしてみて、つまり「言い直し」をしてみて、あ、これよりも、「言いなおす前」の、つまり最初にであったことばの方が力が強いと感じたとき、そこに「詩」を感じるのだと思う。
 ちょっとややこしくて、めんどうくさいことを書いたかもしれないが、詩を読んだとき、私に起きているのは、そういう「入り乱れ」である。「ことばと肉体の往復」である。これは言い換えると、私の中のことばが、他人のことばに出会い、動きをたしかめなおすことで肉体になるということでもあるのだが。
 で、そんなことをしていると。
 目は、ふと、前の行の「小さな人」に引き戻される。そして、あ、大西は、ここで「子供時代」のことを思い出しているのだと思う。子供に「恨む」という強い感情は、なかなか、ない。しかし、だんだん「恨む」というつよい感情、「恨み」というものを肉体の内部に抱え込むようになる。そうやって成長する。「恨む」ことを覚え、それまでの自分とは違った人間になるのである。そういうことが、具体的にではないが、ふっと思い出したのだ。
 そういう瞬間があったことを、「どこで忘れたのだろう」。私は、二連目にもどって、そんなことも考えた。そこには「会わなければならない人」のことが書かれているのだが、その人とはほんとうに「恨み」の対象だったのか。会って、恨んでいるということをはっきり告げなければならない人だったのか。「恨み」を持続するのはむずかしい。「恨む」のは、なかなか、こどもにとってはむずかしい。そういうことを「忘れてしまう」。それは、また「忘れられる」ということでもある。「恨む」ことを「忘れる」ときに、「恨む私」も「忘れられる」。相手から、というよりも、私が私によって、と言い換えた方がいいかもしれない。
 そんなふうに考えてくると、もしかすると「会わなければならない人」というのは、「恨む」ことをはじめて知った大西自身のことかもしれない、という気がしてくる。それは「思い出したい人」ということになる。自分でも忘れてしまった、自分。それを思い出そうとしている。
 そういう、ちょっと複雑で、ちょっとかなしく、いとおしいような「感情」そのものが、透明な月の光の道で、大西に見えたのだろう。雨の道とか、夕日の道ではなく「月の道」こそが、そういう重なり合い、離れるような「遠い感情」を見通すのにふさわしいと思う。
 あのとき、どうしたんだっけ? 大西は、思い出している。

こんにちは
こんばんはだったかもしれない、いやそもそも
あいさつなどという穏当な言葉で声をかけたことが
道をはずれている
小さい人は身震いをして
ますます固く冷たくなっていく

 「恨む」ことができなかったのだ。まだ「恨む」という「感情」の動きを自分ではかかえきれずに、どうしていいかわからず、ただ「固くなっていた」、そのまま夜の冷たさに、月の光の冷たさに、染まっていた。そうしたことがあったことを、思い出しているのだろう。こどもだっ大西、おとなにかわっていく瞬間の大西の発見。こどもの頑なな、かなしさが、身に沁みる。

詩集 てのひらをあてる (21世紀詩人叢書)
大西 美千代
土曜美術社出版販売
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする