斎藤健一「図柄」、夏目美知子「私を訪れる切れ端のような感覚」(「乾河」77、2016年10月01日発行)
斎藤健一「図柄」は、短い詩。そして、相変わらず不可解である。
不可解なのだけれど、「見えるものだけがおそく見えて。」の「おそく」に私は思わず傍線を引く。何かを感じたのだ。「おそく」とはどういうことだろう。「遅く」という漢字をあてることができるかもしれない。「遅く」は「ゆっくり」なのか、「遅れて」なのか。たぶん、それは同じなのだ。「ゆっくり」だから「遅くなる/遅れる」。そして、それは「遅れて」いま/ここにやってきている。「瞼」の奥に、眠ろうとして瞼を閉じたが眠られぬ、その瞼の奥に。それが「見えて」いる。
何が「見えて」いるのか。
「見えるものだけがおそく見えて。」ということばを手がかりにして、私は読む。「瞼」の奥にやってきたものは「見たもの」。「見たもの」しか、やってこないだろう。肉体は思い出さないだろう。しかし斎藤は「見たもの」とは、書かない。「見えるもの」と核。「見る/見た」と「見える/見えた」から、ことば(肉体)を動かしてみる必要があるのだ。
「見る」。けれども、視界(世界)のすべてを肉体は「見る」わけではない。「世界」のなかから何かを選択して「見る」。つまり「見たいものだけを/見る」。では、その「選択した見た」ものだけが、「肉体」に記憶としてやってくるのか。
しかし、それならば「おそく(遅れて)」とは言わないかもしれない。
「世界」に存在している。しかし、それを「意識」として「肉体」に取り込まなかった。「ぼんやり」と「見ていた/見えていた」。それが、無意識のうちに「肉体」に住み着いていて、それが「遅れて/遅くなって/ゆっくりと」、「肉体」の奥からあらわれてくる。あれは「見た」とは意識しなかったが「見えた」もの。「見落としながらも/見えているもの」。これは「矛盾」だが、その「矛盾」が、ゆっくりと、おそくなって、おくれて、「見えてくる」。
「見えて」のあとには「いる」を補うこともできるし、「くる」を補うこともできる。それは「違う」ことなのだが、あえて「違うもの」という具合に、相対的に限定しなくてもいいかもしれない。「おそく」を「ゆっくり」か「遅れて」か限定せずに、「そういう感じ」でつかみとるのと同じだ。
あ、あれもあったな、これも「見えて」いたかもしれない。それが、いま/ここで「見えている/見えてくる」。それは、肉体(記憶)からの「招待状」とでもいうべきもの。ふいに、しかし、「おそく」あらわれてくる(見えてくる/見えている)もの。「僧侶の裾」「スリッパ」「五裂の紫桔梗」。「裾」は「乱れる」、「スリッパ」は「乱れたまま」床にある、「桔梗」の花びらは五枚に裂ける、つまり「乱れる」。そこには「乱れる」という「動詞/動き」が隠れているかもしれない。そして、それはそのまま、「見る/見える(けれど意識しない)」「見た/見えた(けれど意識しなかった)」という「肉体(意識)」の「乱れ」と重なるかもしれない。
これは、どういうことになるだろうか。
「おそく見えて」くる何か。それは、「肉体(意識)」が、「おそく」拾い上げるものと言い換えることができる。「おそく/遅れて」拾い上げたものによって、「肉体」の内部が膨らんでくる。「記憶」が増えてく、膨らんでくると言ってもいいのだが、これを斎藤は「脈」ということばでとらえ直し、「膨らむ(大きくなる)」を「腫れる」とつかみ直す。
「腫れる」には、何か病的なものがある。不健全なものを感じる。そういうことば(動詞)へと、斎藤のことばは自然になじんでしまうのだろう。書き出しの「睡眠は衛生である。」の「衛生」も同じである。
「病」を抱えている「肉体」というものが、「ことばの肉体」と重なり合う。実際に斎藤が病気なのかどうかはわからないが、私は斎藤の詩を読みながら、自分が病弱だった(いまでも頑強と這い得ないけれど)、子どものときの「肉体」と「風景」を思い出すのである。斎藤の書いていることばに、自分の病弱だった「肉体」を重ねて読んでしまうのである。
ふいにどこからともなくやってくる「映像/図柄」。それは「見落としていた」ものが、実は「見えていた」ものであると、「おそく」なってから、つまり「おくれて」告げに来る、「世界そのものの力」のようにも思える。
この「おそく」やってくるものを、夏目美千代は「私を訪れる切れ端のような感覚」と呼んでいるように感じる。斎藤と夏目は別の人間であり、まったく別のことを書いているのかもしれないが、同じ一冊の同人誌で、「私(谷内)」の「肉体」がそれを読むと、ふたつはつながってしまう。
斎藤の「おそく見えて(くる)」の「来る」が、夏目の詩では「私を訪れる」という形で言いなおされていると思う。
詩人の「肉体」に「おそく(なってから)やって来る何か」とは、どういうものか。夏目は、こんなふうに書いている。
「無意識」、つまり意識しないできたものが、意識となってあらわれてくる。「見えている」のに「見ていなかった」と感じていたものが、突然「見えていた」ものとして、肉体の奥からあらわれてくる。
「見る/見える」、「意識して見る/無意識に見える」。その「境目」を夏目は「現実の一枚向こう側に、何かがあるような感覚」と呼んでいるのだと思う。
斎藤は、それを「何かがあるような感覚」とは書かずに、そこに「ある/何か」そのものとしてことばにする。「僧侶の裾」「スリッパ」「桔梗」という具合に。
夏目はつづけて書いている。
「どうなるのか判らない。」だから、書くのである。ことばを動かすのである。わかっていれば、たぶん、書く必要はない。ことばにする必要はない。
詩は、わからないものだが、それは詩人が「わからない」こと/ものを書いているからである。詩人が「わからずに」書いたものを「わかった」と「誤読」する時、詩は詩人のものから読者のものにかわる。そうして、勝手に生きていく。
読者(私)は、私に見えていながら見落としていたものを、詩人のことばのなかに見つけ、その「おそく」なってやってきたものを、自分の「肉体」で勝手に読みなおして、勝手に動かして、それを「感想」にしている。
斎藤健一「図柄」は、短い詩。そして、相変わらず不可解である。
睡眠は衛生である。瞼を閉じる。苦痛になる。見えるも
のだけがおそく見えて。掌を前にかぶせるが馬鹿馬鹿し
いのだ。ぽかんとする。頬を急ぎあげる。球の奥は僧侶
の裾が映り。無愛想な招待状が重なる。スリッパ。五裂
の紫桔梗。拾われている如く脈は腫れる。
不可解なのだけれど、「見えるものだけがおそく見えて。」の「おそく」に私は思わず傍線を引く。何かを感じたのだ。「おそく」とはどういうことだろう。「遅く」という漢字をあてることができるかもしれない。「遅く」は「ゆっくり」なのか、「遅れて」なのか。たぶん、それは同じなのだ。「ゆっくり」だから「遅くなる/遅れる」。そして、それは「遅れて」いま/ここにやってきている。「瞼」の奥に、眠ろうとして瞼を閉じたが眠られぬ、その瞼の奥に。それが「見えて」いる。
何が「見えて」いるのか。
「見えるものだけがおそく見えて。」ということばを手がかりにして、私は読む。「瞼」の奥にやってきたものは「見たもの」。「見たもの」しか、やってこないだろう。肉体は思い出さないだろう。しかし斎藤は「見たもの」とは、書かない。「見えるもの」と核。「見る/見た」と「見える/見えた」から、ことば(肉体)を動かしてみる必要があるのだ。
「見る」。けれども、視界(世界)のすべてを肉体は「見る」わけではない。「世界」のなかから何かを選択して「見る」。つまり「見たいものだけを/見る」。では、その「選択した見た」ものだけが、「肉体」に記憶としてやってくるのか。
しかし、それならば「おそく(遅れて)」とは言わないかもしれない。
「世界」に存在している。しかし、それを「意識」として「肉体」に取り込まなかった。「ぼんやり」と「見ていた/見えていた」。それが、無意識のうちに「肉体」に住み着いていて、それが「遅れて/遅くなって/ゆっくりと」、「肉体」の奥からあらわれてくる。あれは「見た」とは意識しなかったが「見えた」もの。「見落としながらも/見えているもの」。これは「矛盾」だが、その「矛盾」が、ゆっくりと、おそくなって、おくれて、「見えてくる」。
「見えて」のあとには「いる」を補うこともできるし、「くる」を補うこともできる。それは「違う」ことなのだが、あえて「違うもの」という具合に、相対的に限定しなくてもいいかもしれない。「おそく」を「ゆっくり」か「遅れて」か限定せずに、「そういう感じ」でつかみとるのと同じだ。
あ、あれもあったな、これも「見えて」いたかもしれない。それが、いま/ここで「見えている/見えてくる」。それは、肉体(記憶)からの「招待状」とでもいうべきもの。ふいに、しかし、「おそく」あらわれてくる(見えてくる/見えている)もの。「僧侶の裾」「スリッパ」「五裂の紫桔梗」。「裾」は「乱れる」、「スリッパ」は「乱れたまま」床にある、「桔梗」の花びらは五枚に裂ける、つまり「乱れる」。そこには「乱れる」という「動詞/動き」が隠れているかもしれない。そして、それはそのまま、「見る/見える(けれど意識しない)」「見た/見えた(けれど意識しなかった)」という「肉体(意識)」の「乱れ」と重なるかもしれない。
拾われている如く脈は腫れる。
これは、どういうことになるだろうか。
「おそく見えて」くる何か。それは、「肉体(意識)」が、「おそく」拾い上げるものと言い換えることができる。「おそく/遅れて」拾い上げたものによって、「肉体」の内部が膨らんでくる。「記憶」が増えてく、膨らんでくると言ってもいいのだが、これを斎藤は「脈」ということばでとらえ直し、「膨らむ(大きくなる)」を「腫れる」とつかみ直す。
「腫れる」には、何か病的なものがある。不健全なものを感じる。そういうことば(動詞)へと、斎藤のことばは自然になじんでしまうのだろう。書き出しの「睡眠は衛生である。」の「衛生」も同じである。
「病」を抱えている「肉体」というものが、「ことばの肉体」と重なり合う。実際に斎藤が病気なのかどうかはわからないが、私は斎藤の詩を読みながら、自分が病弱だった(いまでも頑強と這い得ないけれど)、子どものときの「肉体」と「風景」を思い出すのである。斎藤の書いていることばに、自分の病弱だった「肉体」を重ねて読んでしまうのである。
ふいにどこからともなくやってくる「映像/図柄」。それは「見落としていた」ものが、実は「見えていた」ものであると、「おそく」なってから、つまり「おくれて」告げに来る、「世界そのものの力」のようにも思える。
この「おそく」やってくるものを、夏目美千代は「私を訪れる切れ端のような感覚」と呼んでいるように感じる。斎藤と夏目は別の人間であり、まったく別のことを書いているのかもしれないが、同じ一冊の同人誌で、「私(谷内)」の「肉体」がそれを読むと、ふたつはつながってしまう。
斎藤の「おそく見えて(くる)」の「来る」が、夏目の詩では「私を訪れる」という形で言いなおされていると思う。
詩人の「肉体」に「おそく(なってから)やって来る何か」とは、どういうものか。夏目は、こんなふうに書いている。
こんなこともあった。よく知っている簡単な漢字を書く時、
突然それが全く知らない形に思えたのだ。本当にこんな字
だったのか。私は疑い、混乱する。ずっと無意識に書いて
平気だったのが、急に奇妙な形に見え、自信を失う。そし
て、現実の一枚向こう側に、何かがあるような感覚が残る。
「無意識」、つまり意識しないできたものが、意識となってあらわれてくる。「見えている」のに「見ていなかった」と感じていたものが、突然「見えていた」ものとして、肉体の奥からあらわれてくる。
「見る/見える」、「意識して見る/無意識に見える」。その「境目」を夏目は「現実の一枚向こう側に、何かがあるような感覚」と呼んでいるのだと思う。
斎藤は、それを「何かがあるような感覚」とは書かずに、そこに「ある/何か」そのものとしてことばにする。「僧侶の裾」「スリッパ」「桔梗」という具合に。
夏目はつづけて書いている。
境目を歩く。どうなるのか判らない。
どちらに落ちても、それは成り行きだ。
「どうなるのか判らない。」だから、書くのである。ことばを動かすのである。わかっていれば、たぶん、書く必要はない。ことばにする必要はない。
詩は、わからないものだが、それは詩人が「わからない」こと/ものを書いているからである。詩人が「わからずに」書いたものを「わかった」と「誤読」する時、詩は詩人のものから読者のものにかわる。そうして、勝手に生きていく。
読者(私)は、私に見えていながら見落としていたものを、詩人のことばのなかに見つけ、その「おそく」なってやってきたものを、自分の「肉体」で勝手に読みなおして、勝手に動かして、それを「感想」にしている。
私のオリオントラ | |
夏目 美知子 | |
詩遊社 |