詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斎藤健一「図柄」、夏目美知子「私を訪れる切れ端のような感覚」

2016-09-24 11:19:41 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤健一「図柄」、夏目美知子「私を訪れる切れ端のような感覚」(「乾河」77、2016年10月01日発行)

 斎藤健一「図柄」は、短い詩。そして、相変わらず不可解である。

睡眠は衛生である。瞼を閉じる。苦痛になる。見えるも
のだけがおそく見えて。掌を前にかぶせるが馬鹿馬鹿し
いのだ。ぽかんとする。頬を急ぎあげる。球の奥は僧侶
の裾が映り。無愛想な招待状が重なる。スリッパ。五裂
の紫桔梗。拾われている如く脈は腫れる。

 不可解なのだけれど、「見えるものだけがおそく見えて。」の「おそく」に私は思わず傍線を引く。何かを感じたのだ。「おそく」とはどういうことだろう。「遅く」という漢字をあてることができるかもしれない。「遅く」は「ゆっくり」なのか、「遅れて」なのか。たぶん、それは同じなのだ。「ゆっくり」だから「遅くなる/遅れる」。そして、それは「遅れて」いま/ここにやってきている。「瞼」の奥に、眠ろうとして瞼を閉じたが眠られぬ、その瞼の奥に。それが「見えて」いる。
 何が「見えて」いるのか。
 「見えるものだけがおそく見えて。」ということばを手がかりにして、私は読む。「瞼」の奥にやってきたものは「見たもの」。「見たもの」しか、やってこないだろう。肉体は思い出さないだろう。しかし斎藤は「見たもの」とは、書かない。「見えるもの」と核。「見る/見た」と「見える/見えた」から、ことば(肉体)を動かしてみる必要があるのだ。
 「見る」。けれども、視界(世界)のすべてを肉体は「見る」わけではない。「世界」のなかから何かを選択して「見る」。つまり「見たいものだけを/見る」。では、その「選択した見た」ものだけが、「肉体」に記憶としてやってくるのか。
 しかし、それならば「おそく(遅れて)」とは言わないかもしれない。
 「世界」に存在している。しかし、それを「意識」として「肉体」に取り込まなかった。「ぼんやり」と「見ていた/見えていた」。それが、無意識のうちに「肉体」に住み着いていて、それが「遅れて/遅くなって/ゆっくりと」、「肉体」の奥からあらわれてくる。あれは「見た」とは意識しなかったが「見えた」もの。「見落としながらも/見えているもの」。これは「矛盾」だが、その「矛盾」が、ゆっくりと、おそくなって、おくれて、「見えてくる」。
 「見えて」のあとには「いる」を補うこともできるし、「くる」を補うこともできる。それは「違う」ことなのだが、あえて「違うもの」という具合に、相対的に限定しなくてもいいかもしれない。「おそく」を「ゆっくり」か「遅れて」か限定せずに、「そういう感じ」でつかみとるのと同じだ。
 あ、あれもあったな、これも「見えて」いたかもしれない。それが、いま/ここで「見えている/見えてくる」。それは、肉体(記憶)からの「招待状」とでもいうべきもの。ふいに、しかし、「おそく」あらわれてくる(見えてくる/見えている)もの。「僧侶の裾」「スリッパ」「五裂の紫桔梗」。「裾」は「乱れる」、「スリッパ」は「乱れたまま」床にある、「桔梗」の花びらは五枚に裂ける、つまり「乱れる」。そこには「乱れる」という「動詞/動き」が隠れているかもしれない。そして、それはそのまま、「見る/見える(けれど意識しない)」「見た/見えた(けれど意識しなかった)」という「肉体(意識)」の「乱れ」と重なるかもしれない。

拾われている如く脈は腫れる。

 これは、どういうことになるだろうか。
 「おそく見えて」くる何か。それは、「肉体(意識)」が、「おそく」拾い上げるものと言い換えることができる。「おそく/遅れて」拾い上げたものによって、「肉体」の内部が膨らんでくる。「記憶」が増えてく、膨らんでくると言ってもいいのだが、これを斎藤は「脈」ということばでとらえ直し、「膨らむ(大きくなる)」を「腫れる」とつかみ直す。
 「腫れる」には、何か病的なものがある。不健全なものを感じる。そういうことば(動詞)へと、斎藤のことばは自然になじんでしまうのだろう。書き出しの「睡眠は衛生である。」の「衛生」も同じである。
 「病」を抱えている「肉体」というものが、「ことばの肉体」と重なり合う。実際に斎藤が病気なのかどうかはわからないが、私は斎藤の詩を読みながら、自分が病弱だった(いまでも頑強と這い得ないけれど)、子どものときの「肉体」と「風景」を思い出すのである。斎藤の書いていることばに、自分の病弱だった「肉体」を重ねて読んでしまうのである。
 ふいにどこからともなくやってくる「映像/図柄」。それは「見落としていた」ものが、実は「見えていた」ものであると、「おそく」なってから、つまり「おくれて」告げに来る、「世界そのものの力」のようにも思える。

 この「おそく」やってくるものを、夏目美千代は「私を訪れる切れ端のような感覚」と呼んでいるように感じる。斎藤と夏目は別の人間であり、まったく別のことを書いているのかもしれないが、同じ一冊の同人誌で、「私(谷内)」の「肉体」がそれを読むと、ふたつはつながってしまう。
 斎藤の「おそく見えて(くる)」の「来る」が、夏目の詩では「私を訪れる」という形で言いなおされていると思う。
 詩人の「肉体」に「おそく(なってから)やって来る何か」とは、どういうものか。夏目は、こんなふうに書いている。

こんなこともあった。よく知っている簡単な漢字を書く時、
突然それが全く知らない形に思えたのだ。本当にこんな字
だったのか。私は疑い、混乱する。ずっと無意識に書いて
平気だったのが、急に奇妙な形に見え、自信を失う。そし
て、現実の一枚向こう側に、何かがあるような感覚が残る。

 「無意識」、つまり意識しないできたものが、意識となってあらわれてくる。「見えている」のに「見ていなかった」と感じていたものが、突然「見えていた」ものとして、肉体の奥からあらわれてくる。
 「見る/見える」、「意識して見る/無意識に見える」。その「境目」を夏目は「現実の一枚向こう側に、何かがあるような感覚」と呼んでいるのだと思う。
 斎藤は、それを「何かがあるような感覚」とは書かずに、そこに「ある/何か」そのものとしてことばにする。「僧侶の裾」「スリッパ」「桔梗」という具合に。
 夏目はつづけて書いている。

境目を歩く。どうなるのか判らない。
どちらに落ちても、それは成り行きだ。

 「どうなるのか判らない。」だから、書くのである。ことばを動かすのである。わかっていれば、たぶん、書く必要はない。ことばにする必要はない。
 詩は、わからないものだが、それは詩人が「わからない」こと/ものを書いているからである。詩人が「わからずに」書いたものを「わかった」と「誤読」する時、詩は詩人のものから読者のものにかわる。そうして、勝手に生きていく。
 読者(私)は、私に見えていながら見落としていたものを、詩人のことばのなかに見つけ、その「おそく」なってやってきたものを、自分の「肉体」で勝手に読みなおして、勝手に動かして、それを「感想」にしている。

私のオリオントラ
夏目 美知子
詩遊社
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自民党憲法改正草案を読む/番外24(情報の読み方)

2016-09-24 08:00:00 | 自民党憲法改正草案を読む
 2016年09月24日読売新聞朝刊(西部版・14版)1面に「「生前退位」会議 来月中にも初会合」という見出しで、「天皇の公務負担軽減党に関する有識者会議」が設置されたというニュースが載っている。メンバーは6人。(初報は23日の夕刊)3面には解説が載っている。
 気になる部分を取り上げる。 

生前退位と公務の負担軽減にテーマを絞り、皇室や憲法、歴史の専門家などからヒアリングを行い、提言をとりまとめる。政府は現在の天皇陛下に限って退位を可能にする皇室典範の特例法の制定を軸に検討を進めている。

 「皇室や憲法、歴史の専門家などからヒアリングを行い」ということは、6人のメンバーのなかには、「皇室や憲法、歴史の専門家」がいないということ意味する。つまり、「生前退位を可能にした場合、皇室典範との整合性、憲法との整合性はどうなるか」ということを直接的に発言できる人がいないということ。
 それはそれで、メンバー以外から「ヒアリング」をするから問題がないということなのかもしれないが。
 そのとき、メンバーがだれにどんなヒアリングをしたか、つまりどんなことを問いかけ、どんな答えが返ってきたか、その「やりとり」はどうなるのだろうか。「有識者会議」そのものが非公開だろうし、当然ヒアリングも非公開だろう。これでは、いったいどんな議論が行われたか、国民には「想像」もできない。
 「政府は現在の天皇陛下に限って退位を可能にする皇室典範の特例法の制定を軸に検討を進めている」とあるが、もう政府方針が決まっているなら、「有識者会議」は単なる「アリバイづくり」になる。政府は独断で「特例法」を提案しているのではなく、「有識者会議」を設置し、有識者の意見を踏まえて結論を出したという「アリバイ」づくりにすぎない。
 3面の解説に、次の文がある。

 2005年に女性・女系天皇を容認する報告書を出した小泉内閣の有識者会議では、10人中2人が皇室や憲法に詳しい専門家だった。

 このときの有識者会議の結論「女性・女系天皇の容認」に安倍が反対したことはすでに書いたが、もし「皇室や憲法に詳しい専門家」を有識者会議のメンバーに加えたら、「特例法ではだめだ、皇室典範の改正が必要。そうしないと憲法上も問題が出てくる」という意見が出てくる可能性もある。
 そうなっては「困る」と安倍が考えたということだろう。
 3面の解説のつづき。

 今回の人選について、菅氏は「組織の運営や会議のとりまとめの経験が豊富な方々を選んだ」と述べ、皇室などの専門家はヒアリング対象とし、有識者会議は意見集約の資質を人選基準としたと説明した。


 「会議をとりまとめる」、つまり「意見集約の資質」が大切であって、真剣に天皇制度の将来を考えることなど、最初から考えていないのである。そして、政府が「特例法の制定」を検討しているのだとしたら、もう、最初からそれにあわせて「ヒアリング」がおこなわれ、「特例法」にふさわしい意見だけが「集約」されるということだろう。
 さらに興味深いのは、

首相官邸筋は「専門家は簡単に自説を曲げることができず議論がまとまらない上、だれを選ぶかで方向性が推測できてしまう」と解説する。

 つまり、今回の有識者会議では、「簡単に自説を曲げることができる」メンバーが選ばれたということである。3面の見出しに「人選 にじむ安倍色」とあるが、安倍の考えにあわせて「結論」を出してくれる人間をメンバーにしたということだろう。
 1面の文末に、

会議の議論や世論の動向を見極め、早ければ来年の通常国会への関連法案提出をめざす。

 とある。
 逆算すると、年内にも有識者会議の「結論」が必要となりそうだが、10、11、12月の3か月で、「ヒアリング」を行い、さらに「意見の集約」を行うというのは、非常に期間が短い。6人全員が集まるための調整もそう簡単ではないだろう。
 3面に、

ヒアリングを行う専門家は「相当な数に上る」(首相周辺)とみられ、生前退位の是非をめぐっても賛否が割れる可能性が高い。

 とあるが、ほんとうに「相当な数」のヒアリングをおこない、それを「集約」するのだとしたら、膨大な時間がかかるだろう。
 また「民主主義」というのは、他人の意見を聞き、自分の意見も述べ、そのうえで意見を調整することだと思うが、ヒアリングで「生前退位に反対」「生前退位に賛成」という意見が出たとして、その意見を述べた人たちは、どうなるのだろう。他人の意見を聞き、あ、そうだ、と考えを改めるということもあり得るはずなのに、そういう「対話」はおこなわれず、かわりに「有識者会議」の6人が、かってに「意見調整」をするというのでは、民主主義でもなんでもないだろう。
 最初から、「意見」を聞く気などないのに、そのふりをしているだけだ。

 以前に書いたが、安倍はなぜ「特例法」にこだわるのか、なぜ「特例法」の制定を急ぐのか、それを考えてみる必要がある。「特例法」を持ち出す前に、官邸が「生前退位」ではなく「摂政」を天皇側に持ちかけていた、それを天皇が拒んだということを考えないといけない。
 自民党憲法改正草案の「第六条第十項の4」

天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う。ただし、衆議院の解散については、内閣総理大臣の進言による。

 現行憲法では「助言」と定められていたものが、改憲草案では「進言」。「これこれしなさい」とすすめ、それに従って天皇が動く。操り人形としての天皇。それには、天皇そのものよりも「摂政」の方が都合がいい、と考えているのだろう。
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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