監督 李相日 出演 渡辺謙、森山未來、松山ケンイチ、広瀬すず、綾野剛、宮崎あおい、妻夫木聡
うーん、文学的すぎる。見ながら、これは映画よりも小説の方がおもしろいに違いないと思いながら、しかし、この「文学」に迫ろうとする「肉体(演技)」というのはすごいものだなあ、と感心した。そういう意味では「映画」なのだけれど。「映画」でしかできないことをやっているのだけれど。
何が「文学的」かというと、「事件」ではなく、ひたすら「感情」をえがこうとしていること。そして「感情」を「肉体」で再現しようとしているところが、もう、もちゃくちゃに重たい。
「文学」ならば、そこにあるのは「ことば」だけ。ことばに描かれている「肉体の動き」を自分で想像するのだけれど、「映画」ではまず「肉体」がある。「ことば」(セリフ)もあるのだけれど、「ことば」よりも前に訳者の「肉体」がある。そして、その訳者の「肉体」というのは、それぞれに「過去」を持っている。その「過去」は「演じている役」の「過去」とは違うのだけれど、自分自身の「過去」を掘り起こすようにして、「役柄」の「肉体」を誕生させる。そのうえで、その「肉体」で「感情」を、さらにえぐっていく。
これは間違いなく、とんでもない力作であり、とんでもない傑作なのだが、だからこそ、私は★五個をつけることをためらってしまう。
だって、楽しくないでしょ?
「怒り」というのは一体何なのか。それは、だれにもわからない。わからない、というのは、「怒り」をあらわす「ことば」がないということ。「怒り」を共有する「ことば」がない。共有する「ことば」がないから、ただ、ひとは「怒っている」ひとのそばにいて、「私はあなたとのそばにいる」ということを「肉体」で伝えるしかないのである。「ことば」ではどんなふうに言ってみても「怒り」の共有にはならないのである。
こんなことを知らされるのは、人間としてつらい。「怒り」は共有できる。「怒り」から生まれる連体があると信じたい。けれど、この映画はそういう安直さを許さない。「怒り」から連体など生まれない、と言っているように見える。
松山ケンイチと宮崎あおいの関係は「連体」のようにも見えるが、それは「怒り」を生んでいるものに対して一緒に戦うというものではないから、「連体」とは呼びにくい。「怒り」をおさえる方法のように感じられる。「怒り」とは違う「感情」を探し出し(つくりだし)それに向き合おうとする試み。これでは、「怒り」を生み出したもの、「怒り」の原因を解消する(解決する)ということにはならない。
それでは、つらすぎる。
このつらさを、ちょっと視点を変えて見直してみる。映画の中でおこなわれていること、演技と役者の関係で見直してみる。
だれかの「怒り」を共有できないということは、「怒っている本人」も、「怒り」を共有してもらう方法がない、ということ。その「共有されないこころ」を役者は、役者の「肉体」のなかから掘り出して、演技している。どんどん「孤独/孤立」の深みにはまり込むということになる。
だから、そこにはまったく知らない「役者」がいる。いままで知っている(共有してきた)役者が姿を消し、まったく知らない人が、孤立して、たったひとりで目の前で「怒り」を抱えている。「怒り」に振り回されている人間と向き合い、どうしていいか、わからずにいる。「好き」と言いた。「守りたい」と言いたい。でも、それをどう「ことば」にすれば「怒り」を超えて、その向こうにたどりつけるのか。そんな確信はだれにもない。
壁にかかれた「怒」という文字が最初と最後に二回出てくるが、「怒り」は「壁」のように人間と人間の間をさえぎるのである。
そのどうしようもない「壁」と向き合いながら、役者が、それぞれ自分の「肉体」を耕し、生まれ変わっている。まったく見たことのない「人間」になっている。松山ケンイチは、役者とは思えない存在感のなさで存在感を出している。(矛盾した言い方しかできないが、そういう人間になっている。)渡辺謙は服装までというのは変だけれど、何度も洗濯したような安物のポロシャツ、質の悪そうなズボン、腹を出した座り方や、姿勢の悪い歩き方を含めて、完全に漁港の町の「父ちゃん」になっている。宮崎あおいも、思わず、こんなからだをしていた?と不思議に思った。そういう「有名」な役者(私が知っているということなのだが)はもちろんだが、妻夫木聡の恋人役を演じた役者はだれなのか、私は知らないが、その知らない役者でさえ、「この役者、見たことがない」と感じさせるのである。知らない「生身の人間」が、そこにいるような気がするのである。そういう「肉体」が、ことばではな説明できない「怒り」をからだの奥で抱えながら、動いている。それを見ながら、どこへ連れて行かれるのか、わからない。
結論が想像できない。結論が出たあとも、いったい何があったのか、ことばでは語れない。整理できない。
あ、「文学的」だなあ。
小説なら(文学なら)、何度でも気になったページ(ことば)を読み直すことができる。読み直しながら、ああでもない、こうでもない、と考える。「結論」は無視して、ある場面に夢中になり、そこから自分自身の「結論」を考えてみることもできる。
でも、「映画」は、そういうことがむずかしい。決められた時間の中で、決められた順序で「映像」が動いていく。さっきの「肉体」の動き、「ことば(セリフ)」をもう一度確かめたいと思っても、本のページをめくり直したり、そこでペーしを繰るのをやめたりするようなわけにはいかない。一回限りのあり方で「肉体」が動いていく。「肉体」が動き、「感情」が生まれ、それが変化していく。
文学は「読み返し」を前提としている。けれど「映画」や「舞台」は、つまり「演技」はそういうことを前提としていない。(何度も同じ作品を見るという人もいるだろうけれど。)そういう「一回性」と向き合いながら、「一回」で感情を吐き出してしまう演技を役者たちがしている。この「行為(演技)」そのものが、「文学」の「ことば/文体」となっている、ということも感じた。
(天神東宝スクリーン3、2016年09月18日)
*
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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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うーん、文学的すぎる。見ながら、これは映画よりも小説の方がおもしろいに違いないと思いながら、しかし、この「文学」に迫ろうとする「肉体(演技)」というのはすごいものだなあ、と感心した。そういう意味では「映画」なのだけれど。「映画」でしかできないことをやっているのだけれど。
何が「文学的」かというと、「事件」ではなく、ひたすら「感情」をえがこうとしていること。そして「感情」を「肉体」で再現しようとしているところが、もう、もちゃくちゃに重たい。
「文学」ならば、そこにあるのは「ことば」だけ。ことばに描かれている「肉体の動き」を自分で想像するのだけれど、「映画」ではまず「肉体」がある。「ことば」(セリフ)もあるのだけれど、「ことば」よりも前に訳者の「肉体」がある。そして、その訳者の「肉体」というのは、それぞれに「過去」を持っている。その「過去」は「演じている役」の「過去」とは違うのだけれど、自分自身の「過去」を掘り起こすようにして、「役柄」の「肉体」を誕生させる。そのうえで、その「肉体」で「感情」を、さらにえぐっていく。
これは間違いなく、とんでもない力作であり、とんでもない傑作なのだが、だからこそ、私は★五個をつけることをためらってしまう。
だって、楽しくないでしょ?
「怒り」というのは一体何なのか。それは、だれにもわからない。わからない、というのは、「怒り」をあらわす「ことば」がないということ。「怒り」を共有する「ことば」がない。共有する「ことば」がないから、ただ、ひとは「怒っている」ひとのそばにいて、「私はあなたとのそばにいる」ということを「肉体」で伝えるしかないのである。「ことば」ではどんなふうに言ってみても「怒り」の共有にはならないのである。
こんなことを知らされるのは、人間としてつらい。「怒り」は共有できる。「怒り」から生まれる連体があると信じたい。けれど、この映画はそういう安直さを許さない。「怒り」から連体など生まれない、と言っているように見える。
松山ケンイチと宮崎あおいの関係は「連体」のようにも見えるが、それは「怒り」を生んでいるものに対して一緒に戦うというものではないから、「連体」とは呼びにくい。「怒り」をおさえる方法のように感じられる。「怒り」とは違う「感情」を探し出し(つくりだし)それに向き合おうとする試み。これでは、「怒り」を生み出したもの、「怒り」の原因を解消する(解決する)ということにはならない。
それでは、つらすぎる。
このつらさを、ちょっと視点を変えて見直してみる。映画の中でおこなわれていること、演技と役者の関係で見直してみる。
だれかの「怒り」を共有できないということは、「怒っている本人」も、「怒り」を共有してもらう方法がない、ということ。その「共有されないこころ」を役者は、役者の「肉体」のなかから掘り出して、演技している。どんどん「孤独/孤立」の深みにはまり込むということになる。
だから、そこにはまったく知らない「役者」がいる。いままで知っている(共有してきた)役者が姿を消し、まったく知らない人が、孤立して、たったひとりで目の前で「怒り」を抱えている。「怒り」に振り回されている人間と向き合い、どうしていいか、わからずにいる。「好き」と言いた。「守りたい」と言いたい。でも、それをどう「ことば」にすれば「怒り」を超えて、その向こうにたどりつけるのか。そんな確信はだれにもない。
壁にかかれた「怒」という文字が最初と最後に二回出てくるが、「怒り」は「壁」のように人間と人間の間をさえぎるのである。
そのどうしようもない「壁」と向き合いながら、役者が、それぞれ自分の「肉体」を耕し、生まれ変わっている。まったく見たことのない「人間」になっている。松山ケンイチは、役者とは思えない存在感のなさで存在感を出している。(矛盾した言い方しかできないが、そういう人間になっている。)渡辺謙は服装までというのは変だけれど、何度も洗濯したような安物のポロシャツ、質の悪そうなズボン、腹を出した座り方や、姿勢の悪い歩き方を含めて、完全に漁港の町の「父ちゃん」になっている。宮崎あおいも、思わず、こんなからだをしていた?と不思議に思った。そういう「有名」な役者(私が知っているということなのだが)はもちろんだが、妻夫木聡の恋人役を演じた役者はだれなのか、私は知らないが、その知らない役者でさえ、「この役者、見たことがない」と感じさせるのである。知らない「生身の人間」が、そこにいるような気がするのである。そういう「肉体」が、ことばではな説明できない「怒り」をからだの奥で抱えながら、動いている。それを見ながら、どこへ連れて行かれるのか、わからない。
結論が想像できない。結論が出たあとも、いったい何があったのか、ことばでは語れない。整理できない。
あ、「文学的」だなあ。
小説なら(文学なら)、何度でも気になったページ(ことば)を読み直すことができる。読み直しながら、ああでもない、こうでもない、と考える。「結論」は無視して、ある場面に夢中になり、そこから自分自身の「結論」を考えてみることもできる。
でも、「映画」は、そういうことがむずかしい。決められた時間の中で、決められた順序で「映像」が動いていく。さっきの「肉体」の動き、「ことば(セリフ)」をもう一度確かめたいと思っても、本のページをめくり直したり、そこでペーしを繰るのをやめたりするようなわけにはいかない。一回限りのあり方で「肉体」が動いていく。「肉体」が動き、「感情」が生まれ、それが変化していく。
文学は「読み返し」を前提としている。けれど「映画」や「舞台」は、つまり「演技」はそういうことを前提としていない。(何度も同じ作品を見るという人もいるだろうけれど。)そういう「一回性」と向き合いながら、「一回」で感情を吐き出してしまう演技を役者たちがしている。この「行為(演技)」そのものが、「文学」の「ことば/文体」となっている、ということも感じた。
(天神東宝スクリーン3、2016年09月18日)
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