須永紀子「夜の深くに」(「雨期」67、2016年08月25日発行)
須永紀子「夜の深くに」は一連目がとても美しい。
「水分」と「舟」が結びつき、「航路」をつくる。「比喩」が自然に動いていく。その動きのなかに「ことばの肉体」がある。「書き順」のようなものがある。
フェイスブックのあるところで「文字が汚いひとは頭がいい」というようなことが話題になっていた。それがほんとうのことなのかどうかわからないが、汚い文字(?)でも読みやすいもの、きれいにみえても読みにくいものがある。これは、「書き順」による。
「か」と「や」。「つ」を書いたあと、長い棒を先に書くか、短い棒を先に書くか。形よりも、その「書き順」の方が問題。長い棒を先に書き次に短い棒を書くと、それぞれの「書き終わり」の向きが広がる。極端にいうと「ハ」になる。こうなると「か」。ところが短い棒を先に書き、長い棒をあとから書くと、ふたつの線は平行になる(平行に近くなる。あるいは「ハ」を逆さまにした感じになる)。そうすると「や」。
「右」と「石」。「ノ」を先に書くか「一」を先に書くか。「一」を先に書くと、大急ぎで書いたとき、どちらも「ナ」の右上の方に「筆」のつづきの線が残る。「右」の文字は「ノ」から先に書く。そうすると「ナ」の左下の方に「筆」のつづきが残る。右上がつづいているか、左下かつづいているかによって、「右/石」は区別ができる。「ノ」から書けば「右」、「一」から書けば「石」という区別がはっきりする。
文字を読むときは、その形だけではなく、それを書いた「肉体」の動きも知らず知らずに認識している。これは「文字の肉体」というべきものかもしれない。
だから、というと変だが。
アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」。アラン・ドロンはサインを偽造するために、小さなサインを投影機で拡大し、壁に映し出し、それを全身でなぞっていた。「肉体(全身)」で筆跡を身につける。それが実際にサインするときに反映する。筆跡は文字を判読/判別するのではない。書いた「人間(肉体)」を判別するためのものである。文字の形のずれは「誤差」。許容範囲。
私たちは、そういう「許容範囲」を含めて「文字」を見ている。「肉体」の動きを見ている。言いかえると、そこに「具体的な人間」(生きている肉体)そのものを見ていることになる。だから、どこかに書き残された「メモ」を見て、そこに署名がなくても「あ、これはだれそれの伝言だ」とわかる。筆跡鑑定をするつもりがなくても、なんとなく、わかる。それは「文字」の形だけを見ているのではなく、なんとなくそのひとの「肉体」を見ているのである。「肉体」というのは、少しくらい「変装」していても見間違えることはない。
少し話をもとに戻すと、たぶん「文字の汚いひとが頭がいい」と言われるのは、「汚くても読める文字を書くひとは、頭がいい。そのひとは、文字をどういう順序で書けば判別しやすいかという法則を肉体で身につけている」ということになるのだろう。書きやすい(読みやすい)筆順(筆運びの順番)を「法則」として身につけているので、急いで書いた文字でも判別ができる。「法則」を発見し、肉体化しているから「頭がいい」ということなのだろう。
ここから、須永の詩にもどる。
「文字」に「書き順」があるように、「ことばの動かし方」にも「動かし方の順序」がある。
これは、夜遅く、草木の葉が「露」をつけている描写から始まっている。「結露」である。その「結露」から「水分」ということばが引き出され、さらに「舟」が誘い出される。これは、自然な連想。「チタン」は軽い存在。それは「露」に浮かべるのに向いているかもしれない。少なくとも「鉄の舟」よりは軽い印象があって、「露」にふさわしい。
この二行を、「深夜、チタンの舟が草木の水分をつたう」と言いなおしても、「イメージ全体(意味)」としては間違っていないのだけれど、「チタンノ舟」が突然すぎて「わからない」。でたらめの「書き順」で書かれたイメージのように、把握するまでに「時間」がかかる。「ことばがどうやってうごいてきたのか」ということがわからない。だから、戸惑うのである。
草木(の葉/軽い)→水分(結露/小さい)→チタン(軽い)→舟(小さい、大きい場合は「船」になる)。さらに、深夜(暗い)→水分(結露/反射/輝き)→チタン(たぶん黒い/金属の輝き)という連想も重なっているかもしれないが、こういう「連想」、思いの連なり方(動き方)は、長いことばの文化の中で、ある程度「定型化」したなじみやすい動きである。「ことばの肉体」を「文化」として共有している。
この「共有されたことばの肉体」(ことばの動かし方)は、「定型」であるがゆえに、とてもなじみやすい。この「定型」を嫌って、わざと「定型」を壊しながら書く人もいるけれど、須永は「定型」のなかにある「法則」を発見しながら、ことばを動かしていく。「頭のいい」詩人なのである。
「ことばの肉体」は、そのあとも、とても自然である。
草木の葉、その上の結露、舟という「小さい」感じは、
「すきま」ということばにつながる。「大きなすきま」というものは、まあ、普通は想定しない。その「小さな(細い)」ものを、「つたう」(二行目に出てきた動詞)。そうすると、その「つたいつづけた跡」は「航跡」になる。舟の動いた跡。これを、須永は
という。「軽い体」は「チタンの舟」を言いなおしたもの。それが、いま、「つくる」という「動詞」を従えている。
ここが、とても、とても、とても、おもしろい。
超絶技巧と呼んでみたくなる、絶妙な「ことばの肉体」の動かし方だ。
どういうことかというと、こういうこと。
一連、全体をふたたび引用する。
二行目は「体言止め」。主語は「チタンの舟」。チタンの舟が結露の水分をつたう。でも、そう書くと、それは「ことばの肉体」の動きに反している。ぎくしゃくする。「意味」はわかるが、「感覚」がついていかない。だから二行目は、「感覚」をそのまま追いかけて「チタンの舟」という形で終わらせてしまう。中断させてしまう。そして、「舟」のイメージを明確にしたあとで、今度は舟を「主語」にして、もういちど新しい文をつくり直すのである。ただ、つくりなおすといっても、それは完全に新しい文にするのではなく、先に書いたことを「反復」する。つまり、言いなおす。
「チタンの舟」という「主語」を「軽い体」と言いなおすことで「主語」を巧みにずらしながらひきつぎ、そのずれに乗って動詞を変えていく。
ここが、すばらしい。
チタンの舟が草木の葉の結露をつたいながら動くということは、町のすきまを動きながら「航路をつくる」こと。
この航路は草木の葉を動かす風の動きのようにもみえる。町のすきまを風が動いていく。その動きに乗って、幻の、つまり比喩としてのチタンの舟が動いていく。
また、「チタンの舟」「軽い体」という「主語」の言い直しからは、もうひとつ別のことも言うことができる。
この二行目の「主語」を私は先に「チタンの舟」と書いた。そして、これを倒置法による「体言止め」と説明した。これは便宜上のこと。「ことばの肉体」そのものの動きを重視すれば、これは違った風に言いなおすことができる。いや、言いなおさなければならない。
この二行目の「主語」は「学校文法」では「チタンの舟」だが、「ことばの肉体」にとっては「主語」ではない。「ことばの肉体」にとっては、「主語」はいつでも先にででくる。「主語+述語(動詞)」が自然である。
「草木の水分(結露)」が「主語」である。
そして、「草木の水分」が「主語」であるなら、その「述語(動詞)」は、どこにあるか。具体的には、どういう「ことば」か。
書かれていない。
書かれていないようにみえる。
だが、書かれているのだ。
「チタンの舟」という「名詞」が「動詞」なのだ。
言いなおそう。
「チタンの舟」とは「比喩」である。その「比喩」を用いるところに「動詞」が隠されている。「比喩」は「いま/ここ」には存在しないもの。それをことばの力で、ここにあるように呼び出す。生み出す。「比喩」は、つねに「生み出されて」、そこに存在するものなのである。
だから、ここに「生み出す」という「動詞」を補って言いなおすと、二行目は、
なのである。私の「言い直し」はもたもたとしていて、ことばが重複している。不経済である。これをととのえたのが須永のことばである。「ことばの肉体の動かし方/動き方(筆順のようなもの)」を整理し直し、簡潔にしたのが須永の詩なのである。
一連目しか引用しなかったが、そして一連目にしかふれなかったのだが、こうした鍛え上げられたというか、「ことばの肉体」の「法則」を確実に自分自身のものにして書かれたのが須永の詩である。翻訳というか、外国の文体が、須永の「贅肉」をそぎ落とすようなかたちで働いているようにも感じるが、それが「清潔感」にもなっている。
須永紀子「夜の深くに」は一連目がとても美しい。
夜の深くに
草木の水分をつたうチタンの舟
閉ざされた町のすきまに
軽い体が航路をつくる
「水分」と「舟」が結びつき、「航路」をつくる。「比喩」が自然に動いていく。その動きのなかに「ことばの肉体」がある。「書き順」のようなものがある。
フェイスブックのあるところで「文字が汚いひとは頭がいい」というようなことが話題になっていた。それがほんとうのことなのかどうかわからないが、汚い文字(?)でも読みやすいもの、きれいにみえても読みにくいものがある。これは、「書き順」による。
「か」と「や」。「つ」を書いたあと、長い棒を先に書くか、短い棒を先に書くか。形よりも、その「書き順」の方が問題。長い棒を先に書き次に短い棒を書くと、それぞれの「書き終わり」の向きが広がる。極端にいうと「ハ」になる。こうなると「か」。ところが短い棒を先に書き、長い棒をあとから書くと、ふたつの線は平行になる(平行に近くなる。あるいは「ハ」を逆さまにした感じになる)。そうすると「や」。
「右」と「石」。「ノ」を先に書くか「一」を先に書くか。「一」を先に書くと、大急ぎで書いたとき、どちらも「ナ」の右上の方に「筆」のつづきの線が残る。「右」の文字は「ノ」から先に書く。そうすると「ナ」の左下の方に「筆」のつづきが残る。右上がつづいているか、左下かつづいているかによって、「右/石」は区別ができる。「ノ」から書けば「右」、「一」から書けば「石」という区別がはっきりする。
文字を読むときは、その形だけではなく、それを書いた「肉体」の動きも知らず知らずに認識している。これは「文字の肉体」というべきものかもしれない。
だから、というと変だが。
アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」。アラン・ドロンはサインを偽造するために、小さなサインを投影機で拡大し、壁に映し出し、それを全身でなぞっていた。「肉体(全身)」で筆跡を身につける。それが実際にサインするときに反映する。筆跡は文字を判読/判別するのではない。書いた「人間(肉体)」を判別するためのものである。文字の形のずれは「誤差」。許容範囲。
私たちは、そういう「許容範囲」を含めて「文字」を見ている。「肉体」の動きを見ている。言いかえると、そこに「具体的な人間」(生きている肉体)そのものを見ていることになる。だから、どこかに書き残された「メモ」を見て、そこに署名がなくても「あ、これはだれそれの伝言だ」とわかる。筆跡鑑定をするつもりがなくても、なんとなく、わかる。それは「文字」の形だけを見ているのではなく、なんとなくそのひとの「肉体」を見ているのである。「肉体」というのは、少しくらい「変装」していても見間違えることはない。
少し話をもとに戻すと、たぶん「文字の汚いひとが頭がいい」と言われるのは、「汚くても読める文字を書くひとは、頭がいい。そのひとは、文字をどういう順序で書けば判別しやすいかという法則を肉体で身につけている」ということになるのだろう。書きやすい(読みやすい)筆順(筆運びの順番)を「法則」として身につけているので、急いで書いた文字でも判別ができる。「法則」を発見し、肉体化しているから「頭がいい」ということなのだろう。
ここから、須永の詩にもどる。
「文字」に「書き順」があるように、「ことばの動かし方」にも「動かし方の順序」がある。
夜の深くに
草木の水分をつたうチタンの舟
これは、夜遅く、草木の葉が「露」をつけている描写から始まっている。「結露」である。その「結露」から「水分」ということばが引き出され、さらに「舟」が誘い出される。これは、自然な連想。「チタン」は軽い存在。それは「露」に浮かべるのに向いているかもしれない。少なくとも「鉄の舟」よりは軽い印象があって、「露」にふさわしい。
この二行を、「深夜、チタンの舟が草木の水分をつたう」と言いなおしても、「イメージ全体(意味)」としては間違っていないのだけれど、「チタンノ舟」が突然すぎて「わからない」。でたらめの「書き順」で書かれたイメージのように、把握するまでに「時間」がかかる。「ことばがどうやってうごいてきたのか」ということがわからない。だから、戸惑うのである。
草木(の葉/軽い)→水分(結露/小さい)→チタン(軽い)→舟(小さい、大きい場合は「船」になる)。さらに、深夜(暗い)→水分(結露/反射/輝き)→チタン(たぶん黒い/金属の輝き)という連想も重なっているかもしれないが、こういう「連想」、思いの連なり方(動き方)は、長いことばの文化の中で、ある程度「定型化」したなじみやすい動きである。「ことばの肉体」を「文化」として共有している。
この「共有されたことばの肉体」(ことばの動かし方)は、「定型」であるがゆえに、とてもなじみやすい。この「定型」を嫌って、わざと「定型」を壊しながら書く人もいるけれど、須永は「定型」のなかにある「法則」を発見しながら、ことばを動かしていく。「頭のいい」詩人なのである。
「ことばの肉体」は、そのあとも、とても自然である。
草木の葉、その上の結露、舟という「小さい」感じは、
閉ざされた町のすきまに
軽い体が航路をつくる
「すきま」ということばにつながる。「大きなすきま」というものは、まあ、普通は想定しない。その「小さな(細い)」ものを、「つたう」(二行目に出てきた動詞)。そうすると、その「つたいつづけた跡」は「航跡」になる。舟の動いた跡。これを、須永は
軽い体が航路をつくる
という。「軽い体」は「チタンの舟」を言いなおしたもの。それが、いま、「つくる」という「動詞」を従えている。
ここが、とても、とても、とても、おもしろい。
超絶技巧と呼んでみたくなる、絶妙な「ことばの肉体」の動かし方だ。
どういうことかというと、こういうこと。
一連、全体をふたたび引用する。
夜の深くに
草木の水分をつたうチタンの舟
閉ざされた町のすきまに
軽い体が航路をつくる
二行目は「体言止め」。主語は「チタンの舟」。チタンの舟が結露の水分をつたう。でも、そう書くと、それは「ことばの肉体」の動きに反している。ぎくしゃくする。「意味」はわかるが、「感覚」がついていかない。だから二行目は、「感覚」をそのまま追いかけて「チタンの舟」という形で終わらせてしまう。中断させてしまう。そして、「舟」のイメージを明確にしたあとで、今度は舟を「主語」にして、もういちど新しい文をつくり直すのである。ただ、つくりなおすといっても、それは完全に新しい文にするのではなく、先に書いたことを「反復」する。つまり、言いなおす。
「チタンの舟」という「主語」を「軽い体」と言いなおすことで「主語」を巧みにずらしながらひきつぎ、そのずれに乗って動詞を変えていく。
ここが、すばらしい。
チタンの舟が草木の葉の結露をつたいながら動くということは、町のすきまを動きながら「航路をつくる」こと。
この航路は草木の葉を動かす風の動きのようにもみえる。町のすきまを風が動いていく。その動きに乗って、幻の、つまり比喩としてのチタンの舟が動いていく。
また、「チタンの舟」「軽い体」という「主語」の言い直しからは、もうひとつ別のことも言うことができる。
草木の水分をつたうチタンの舟
この二行目の「主語」を私は先に「チタンの舟」と書いた。そして、これを倒置法による「体言止め」と説明した。これは便宜上のこと。「ことばの肉体」そのものの動きを重視すれば、これは違った風に言いなおすことができる。いや、言いなおさなければならない。
この二行目の「主語」は「学校文法」では「チタンの舟」だが、「ことばの肉体」にとっては「主語」ではない。「ことばの肉体」にとっては、「主語」はいつでも先にででくる。「主語+述語(動詞)」が自然である。
「草木の水分(結露)」が「主語」である。
そして、「草木の水分」が「主語」であるなら、その「述語(動詞)」は、どこにあるか。具体的には、どういう「ことば」か。
書かれていない。
書かれていないようにみえる。
だが、書かれているのだ。
「チタンの舟」という「名詞」が「動詞」なのだ。
言いなおそう。
「チタンの舟」とは「比喩」である。その「比喩」を用いるところに「動詞」が隠されている。「比喩」は「いま/ここ」には存在しないもの。それをことばの力で、ここにあるように呼び出す。生み出す。「比喩」は、つねに「生み出されて」、そこに存在するものなのである。
だから、ここに「生み出す」という「動詞」を補って言いなおすと、二行目は、
草木の水分はチタンの舟というイメージを生み出し、チタンの舟という比喩になり、そのチタンの舟は草木の水分をつたう
なのである。私の「言い直し」はもたもたとしていて、ことばが重複している。不経済である。これをととのえたのが須永のことばである。「ことばの肉体の動かし方/動き方(筆順のようなもの)」を整理し直し、簡潔にしたのが須永の詩なのである。
一連目しか引用しなかったが、そして一連目にしかふれなかったのだが、こうした鍛え上げられたというか、「ことばの肉体」の「法則」を確実に自分自身のものにして書かれたのが須永の詩である。翻訳というか、外国の文体が、須永の「贅肉」をそぎ落とすようなかたちで働いているようにも感じるが、それが「清潔感」にもなっている。
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