詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

須永紀子「夜の深くに」

2016-09-03 10:47:24 | 詩(雑誌・同人誌)
須永紀子「夜の深くに」(「雨期」67、2016年08月25日発行)

 須永紀子「夜の深くに」は一連目がとても美しい。

夜の深くに
草木の水分をつたうチタンの舟
閉ざされた町のすきまに
軽い体が航路をつくる

 「水分」と「舟」が結びつき、「航路」をつくる。「比喩」が自然に動いていく。その動きのなかに「ことばの肉体」がある。「書き順」のようなものがある。
 フェイスブックのあるところで「文字が汚いひとは頭がいい」というようなことが話題になっていた。それがほんとうのことなのかどうかわからないが、汚い文字(?)でも読みやすいもの、きれいにみえても読みにくいものがある。これは、「書き順」による。
 「か」と「や」。「つ」を書いたあと、長い棒を先に書くか、短い棒を先に書くか。形よりも、その「書き順」の方が問題。長い棒を先に書き次に短い棒を書くと、それぞれの「書き終わり」の向きが広がる。極端にいうと「ハ」になる。こうなると「か」。ところが短い棒を先に書き、長い棒をあとから書くと、ふたつの線は平行になる(平行に近くなる。あるいは「ハ」を逆さまにした感じになる)。そうすると「や」。
 「右」と「石」。「ノ」を先に書くか「一」を先に書くか。「一」を先に書くと、大急ぎで書いたとき、どちらも「ナ」の右上の方に「筆」のつづきの線が残る。「右」の文字は「ノ」から先に書く。そうすると「ナ」の左下の方に「筆」のつづきが残る。右上がつづいているか、左下かつづいているかによって、「右/石」は区別ができる。「ノ」から書けば「右」、「一」から書けば「石」という区別がはっきりする。
 文字を読むときは、その形だけではなく、それを書いた「肉体」の動きも知らず知らずに認識している。これは「文字の肉体」というべきものかもしれない。
 だから、というと変だが。
 アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」。アラン・ドロンはサインを偽造するために、小さなサインを投影機で拡大し、壁に映し出し、それを全身でなぞっていた。「肉体(全身)」で筆跡を身につける。それが実際にサインするときに反映する。筆跡は文字を判読/判別するのではない。書いた「人間(肉体)」を判別するためのものである。文字の形のずれは「誤差」。許容範囲。
 私たちは、そういう「許容範囲」を含めて「文字」を見ている。「肉体」の動きを見ている。言いかえると、そこに「具体的な人間」(生きている肉体)そのものを見ていることになる。だから、どこかに書き残された「メモ」を見て、そこに署名がなくても「あ、これはだれそれの伝言だ」とわかる。筆跡鑑定をするつもりがなくても、なんとなく、わかる。それは「文字」の形だけを見ているのではなく、なんとなくそのひとの「肉体」を見ているのである。「肉体」というのは、少しくらい「変装」していても見間違えることはない。
 少し話をもとに戻すと、たぶん「文字の汚いひとが頭がいい」と言われるのは、「汚くても読める文字を書くひとは、頭がいい。そのひとは、文字をどういう順序で書けば判別しやすいかという法則を肉体で身につけている」ということになるのだろう。書きやすい(読みやすい)筆順(筆運びの順番)を「法則」として身につけているので、急いで書いた文字でも判別ができる。「法則」を発見し、肉体化しているから「頭がいい」ということなのだろう。

 ここから、須永の詩にもどる。
 「文字」に「書き順」があるように、「ことばの動かし方」にも「動かし方の順序」がある。

夜の深くに
草木の水分をつたうチタンの舟

 これは、夜遅く、草木の葉が「露」をつけている描写から始まっている。「結露」である。その「結露」から「水分」ということばが引き出され、さらに「舟」が誘い出される。これは、自然な連想。「チタン」は軽い存在。それは「露」に浮かべるのに向いているかもしれない。少なくとも「鉄の舟」よりは軽い印象があって、「露」にふさわしい。
 この二行を、「深夜、チタンの舟が草木の水分をつたう」と言いなおしても、「イメージ全体(意味)」としては間違っていないのだけれど、「チタンノ舟」が突然すぎて「わからない」。でたらめの「書き順」で書かれたイメージのように、把握するまでに「時間」がかかる。「ことばがどうやってうごいてきたのか」ということがわからない。だから、戸惑うのである。
 草木(の葉/軽い)→水分(結露/小さい)→チタン(軽い)→舟(小さい、大きい場合は「船」になる)。さらに、深夜(暗い)→水分(結露/反射/輝き)→チタン(たぶん黒い/金属の輝き)という連想も重なっているかもしれないが、こういう「連想」、思いの連なり方(動き方)は、長いことばの文化の中で、ある程度「定型化」したなじみやすい動きである。「ことばの肉体」を「文化」として共有している。
 この「共有されたことばの肉体」(ことばの動かし方)は、「定型」であるがゆえに、とてもなじみやすい。この「定型」を嫌って、わざと「定型」を壊しながら書く人もいるけれど、須永は「定型」のなかにある「法則」を発見しながら、ことばを動かしていく。「頭のいい」詩人なのである。
 「ことばの肉体」は、そのあとも、とても自然である。
 草木の葉、その上の結露、舟という「小さい」感じは、

閉ざされた町のすきまに
軽い体が航路をつくる

 「すきま」ということばにつながる。「大きなすきま」というものは、まあ、普通は想定しない。その「小さな(細い)」ものを、「つたう」(二行目に出てきた動詞)。そうすると、その「つたいつづけた跡」は「航跡」になる。舟の動いた跡。これを、須永は

軽い体が航路をつくる

 という。「軽い体」は「チタンの舟」を言いなおしたもの。それが、いま、「つくる」という「動詞」を従えている。
 ここが、とても、とても、とても、おもしろい。
 超絶技巧と呼んでみたくなる、絶妙な「ことばの肉体」の動かし方だ。
 どういうことかというと、こういうこと。
 一連、全体をふたたび引用する。

夜の深くに
草木の水分をつたうチタンの舟
閉ざされた町のすきまに
軽い体が航路をつくる

 二行目は「体言止め」。主語は「チタンの舟」。チタンの舟が結露の水分をつたう。でも、そう書くと、それは「ことばの肉体」の動きに反している。ぎくしゃくする。「意味」はわかるが、「感覚」がついていかない。だから二行目は、「感覚」をそのまま追いかけて「チタンの舟」という形で終わらせてしまう。中断させてしまう。そして、「舟」のイメージを明確にしたあとで、今度は舟を「主語」にして、もういちど新しい文をつくり直すのである。ただ、つくりなおすといっても、それは完全に新しい文にするのではなく、先に書いたことを「反復」する。つまり、言いなおす。
 「チタンの舟」という「主語」を「軽い体」と言いなおすことで「主語」を巧みにずらしながらひきつぎ、そのずれに乗って動詞を変えていく。
 ここが、すばらしい。
 チタンの舟が草木の葉の結露をつたいながら動くということは、町のすきまを動きながら「航路をつくる」こと。
 この航路は草木の葉を動かす風の動きのようにもみえる。町のすきまを風が動いていく。その動きに乗って、幻の、つまり比喩としてのチタンの舟が動いていく。

 また、「チタンの舟」「軽い体」という「主語」の言い直しからは、もうひとつ別のことも言うことができる。

草木の水分をつたうチタンの舟

 この二行目の「主語」を私は先に「チタンの舟」と書いた。そして、これを倒置法による「体言止め」と説明した。これは便宜上のこと。「ことばの肉体」そのものの動きを重視すれば、これは違った風に言いなおすことができる。いや、言いなおさなければならない。
 この二行目の「主語」は「学校文法」では「チタンの舟」だが、「ことばの肉体」にとっては「主語」ではない。「ことばの肉体」にとっては、「主語」はいつでも先にででくる。「主語+述語(動詞)」が自然である。
 「草木の水分(結露)」が「主語」である。
 そして、「草木の水分」が「主語」であるなら、その「述語(動詞)」は、どこにあるか。具体的には、どういう「ことば」か。
 書かれていない。
 書かれていないようにみえる。
 だが、書かれているのだ。
 「チタンの舟」という「名詞」が「動詞」なのだ。
 言いなおそう。
 「チタンの舟」とは「比喩」である。その「比喩」を用いるところに「動詞」が隠されている。「比喩」は「いま/ここ」には存在しないもの。それをことばの力で、ここにあるように呼び出す。生み出す。「比喩」は、つねに「生み出されて」、そこに存在するものなのである。
 だから、ここに「生み出す」という「動詞」を補って言いなおすと、二行目は、

草木の水分はチタンの舟というイメージを生み出し、チタンの舟という比喩になり、そのチタンの舟は草木の水分をつたう

 なのである。私の「言い直し」はもたもたとしていて、ことばが重複している。不経済である。これをととのえたのが須永のことばである。「ことばの肉体の動かし方/動き方(筆順のようなもの)」を整理し直し、簡潔にしたのが須永の詩なのである。

 一連目しか引用しなかったが、そして一連目にしかふれなかったのだが、こうした鍛え上げられたというか、「ことばの肉体」の「法則」を確実に自分自身のものにして書かれたのが須永の詩である。翻訳というか、外国の文体が、須永の「贅肉」をそぎ落とすようなかたちで働いているようにも感じるが、それが「清潔感」にもなっている。

森の明るみ
須永 紀子
思潮社
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自民党憲法改正草案を読む/番外13(原発問題の情報の読み方。)

2016-09-03 00:00:00 | 自民党憲法改正草案を読む
朝日新聞朝刊3 面(http://www.asahi.com/articles/photo/AS20160901000376.html /2016年9 月1 日05時00分)に「制御棒処分、地下70メートル超 電力会社400年、国が10万年管理 原子力規制委」という見出しの、次の記事がある。(冒頭の括弧内の数字は、私がつけたもの。本文にはない。)

 (1)原子力規制委員会は31日、原発の廃炉で出る放射性廃棄物のうち、原子炉の制御棒など放射能レベルが比較的高い廃棄物(L1)の処分の基本方針を決定した。地震や火山の影響を受けにくい場所で70メートルより深い地中に埋め、電力会社に300~400年間管理させる。その後は国が引きつぎ、10万年間、掘削を制限する。これで、放射能レベルの高いものから低いものまで放射性廃棄物の処分方針が出そろった。
 (2)原発の廃炉で出る放射性廃棄物は、使用済み核燃料から出る放射能レベルが極めて高い高レベル放射性廃棄物と、L1、原子炉圧力容器の一部などレベルが比較的低い廃棄物(L2)、周辺の配管などレベルが極めて低い廃棄物(L3)に大きく分けられる。
 (3)埋める深さは放射能レベルによって変わる。高レベル放射性廃棄物は地下300メートルより深くに10万年、L2は地下十数メートル、L3は地下数メートルとの処分方針がすでに決まっていたが、L1は議論が続いていた。大手電力会社でつくる電気事業連合会は、国内の原発57基が廃炉になれば、L1だけで約8千トンの廃棄物が出ると試算している。規制委はL1について、コンクリートなどで覆って70メートルより深い岩盤内に少なくとも10万年間は埋める必要があると結論づけた。電力会社が管理する期間については「数万年とするのは現実的でない」として、300~400年間とした。その後は、国が立ち入りや掘削がされないように対策を取るとした。
 (4)処分地はL1~L3とも、電力会社が確保する必要があるが、候補地選びは難航しそうだ。すでに廃炉作業が始まっている日本原子力発電東海原発(茨城県)では、最も放射能レベルの低いL3に限って原発の敷地内に埋めることを今年1月、地元が容認した。しかし、これが受け入れが決まった全国で唯一の例で、L2やL1の受け入れを容認した自治体はない。
 (5)一方、高レベル放射性廃棄物の処分地は、火山や活断層から離れた場所で、運搬しやすいように海岸から20キロ以内が「適性が高い」などとする条件が検討されている。国は年内にも候補となる「科学的有望地」の地図を示す方針だ。(杉本崇)

 長い引用になったが、わざと長く引用したのである。この記事の馬鹿らしさは、全文を引用しないと伝わらない。
 意味のある情報(現実的な情報)は「原子力規制委員会は31日、原発の廃炉で出る放射性廃棄物のうち、原子炉の制御棒など放射能レベルが比較的高い廃棄物(L1)の処分の基本方針を決定した。地震や火山の影響を受けにくい場所で70メートルより深い地中に埋め」る、だけである。
 あとは、無責任なことばの羅列。
 「電力会社に300~400年間管理させる。その後は国が引きつぎ、10万年間、掘削を制限する。」
 と書いているが、「300~400年間」「10万年間」とは何事か。
 「電力会社が管理する期間については「数万年とするのは現実的でない」として、300~400年間とした。」と、原子力規制委員会のいうがままに書いているが、「300~400年間」が「現実的」なのだろうか。国が「10万年間、掘削を制限する」の「10万年間」は「現実的」なのか。
 「現実的」に考えよう。「電力会社」とはどこのことか。「東京電力」は「300~400年」後も存続しているのか。もし、東京電力が倒産してしまったときはどうなるのか。だれが管理するのか。管理するために、東京電力を「乖離会社」として存続させるのか。国の「10万年」後はどうか。10万年間も同じ「国」の形態がつづくのか。安倍は「10万年」後も「首相」なのか。「最高責任者」として「10万年」後も生きているつもりなのか。同じ会社、同じ国家形態が、そんなにつづくと考えることは「現実的」ではない。
 どうやって、この「決定」を引き継ぐつもりなのか、「現実的」に考えているのだろうか。「300~400年」後、「10万年」後、なんて、ことばそのものも変わってしまっているだろう。いま、私たちは「万葉の和歌」どころか、「明治・大正の文学」すら読めなくなってしまっている。ことばが、かわっている。今後も、ことばは変わるだろう。「決定事項」を文書にしても、だれも読めない時代がくるだろう。どうするつもりなのだ。
 「これで、放射能レベルの高いものから低いものまで放射性廃棄物の処分方針が出そろった。」と杉本崇は書いているが、ほんとうにそう信じているのか。原子力規制委員会がそう発表したから、それをそのまま「ことば」にしているだけなのか。
 書かれている「情報」のばからしさ以上に、この記事を書いた記者のいい加減さを問題にしないといけないだろう。
 ひとはだれでも自分にとって都合のいいことしか言わない。(不都合なことは言わなくていい、という権利を持っている。)だから、ジャーナリズムは、誰かが言ったことをそのまま「うのみ」にして伝えるのではなく、それが「不都合」を含んでいないか、批判的に点検しながらつたえる責任がある。
 一切の批判をせずに、ただ「発表」を垂れ流すのでは「宣伝」である。そして、そういうことをするのは、「批判をする」ということが、きっとこの記者・杉本崇にとって「不都合」を含むからだろう。逆に言えば、何も批判をせずに「発表」を垂れ流しにすれば、それは杉本にとって「好都合」な何かをもたらすということだろう原子力規制委員会が電力会社が、あるいは安倍か、そういうところから「好都合」なの何かを提供されるのだ。
 人間の人生は、おおよそ百年。杉本が何歳か知らないが、この記事に書かれている「300~400年」後、「10万年」後は「現実的」には、死んでしまっているだろう。(それとも「輪廻転生」を繰り返して、生きているだろうか。)だから「現実的」には、それがどうなっているか「知らない」。どうなってもかまわない、ということだろう。

 いい加減な情報、でたらめな戯言なら、それはそれでいいのだが(よくもないが)、問題は、そういう「いいかげん」「でたらめ」を垂れ流すときに、「現実」をもぐりこませ、そこに「真実」があるように装うことである。
 (これから書くことの方が、私の書きたかったことなのだが、あまりに頭に来てしまったので、先に怒りを発散させて、いま少し冷静になったつもり。)
 この記事は(1)で、「原子炉の制御棒など放射能レベルが比較的高い廃棄物(L1)の処分の基本方針を決定した。地震や火山の影響を受けにくい場所で70メートルより深い地中に埋め」ると書き出されている。
 ここに「制御棒」「地震や火山の影響を受けにくい場所」「70メートルより深い地中」という文言がある。どれも「現実」の存在、場所を思い描くことができる。「現実的」である。「現実的」なことを最初に言って、それで読者を安心(?)納得させ、そのうえで「でたらめ(非現実)」を言う。詐欺の手口である。
 (2)で「原発の廃炉で出る放射性廃棄物は、使用済み核燃料から出る放射能レベルが極めて高い高レベル放射性廃棄物と、L1、原子炉圧力容器の一部などレベルが比較的低い廃棄物(L2)、周辺の配管などレベルが極めて低い廃棄物(L3)に大きく分けられる。」という一般国民にはわからない「専門用語/専門的事実」をさしはさむ。
 「わからない国民は、専門家が言っていることを聞きなさい」という感じで「論理」を補強する。
 専門的なことを言われると、あ、この人の言っていることは私の知らないことを言っているから正しいのだ、とひとは誤解しがちである。しかし、私はこういうことばを聴くと、あ、この人は私の知らないことを言って、何かをごまかそうとしているな、と警戒する人間なので、さあ、つぎに一番のごまかしがくるぞ、と身構える。
 そうすると、警戒した通り(予想した通り)の論法が展開される。
 (3)で「高レベル放射性廃棄物は地下300メートルより深く」「L2は地下十数メートル、L3は地下数メートル」と、なんとか想像できる(現実的に理解できる)数字を並べる。さらに「原発57基が廃炉になれば、L1だけで約8千トンの廃棄物が出る」と国民の知らない「事実」を「数字」をあげて説明する。自分たちは「事実」をつかんでいる、それに基づいて発言していると印象づけるのである。その具体的な「数字」に対応するために「コンクリートなどで覆って70メートルより深い岩盤内に」という、なんとなく「安心感」を誘うことばが追加される。コンクリートで覆った上に、70メートル、さらに岩盤内か。
 そのあと、「10万年」というわけのわからない数字を出し、それを「「数万年とするのは現実的でない」として、300~400年間とした。」と言う。「数万年は現実的でない」が「300~400年」なら「現実的」という。それはしかし「比較」。いや「錯覚」させるための詐欺である。詐欺とは「錯覚」を引き起こす「話法」をいう。杉本は「詐欺の話法」を記事にそのまま転用している。
 こんな「非現実的」、原子力のように「物理/科学」にあてはめると「非科学的」というしかないこと、詐欺としか言いようのないことを書いておきながら、最後の(5)に、すごいことばがでてくる。
 「国は年内にも候補となる「科学的有望地」の地図を示す方針だ。」
 「科学的」ということばは文法的には「廃棄物を埋める有望地」を修飾しているのだが、そこに「科学的」ということばをつけくわえることで、「300~400年」や「10万年」も「科学的」だからと「お墨付き」を与えるのである。そんなものは「科学的」ではあるかもしれないが、「現実的」ではない。
 放射能の問題は「科学」の問題であると同時に「現実」の問題でもある。両方を問題にしないといけないのに「科学」だけを「正しく」つたえ、「現実」を背後に隠してしまう。そんな詐欺をはたらきながら、最後に「科学的」ということばを持ち出し、科学についての専門家ではない国民は黙っていろという。
 こういうことは、さまざまな分野でおこなわれている「詐欺」である。「経済」の専門家ではない国民はだまって安倍のアベノミクスに従え。安い賃金でもっと働き企業をもうけさせろ、企業がもうからないともっと賃金が安くなるぞ、と脅す。「法律(憲法)」の専門家ではない国民は憲法について語るな。安倍のいう通りに憲法を改正し、戦争に備えよ。そうしないと中国、北朝鮮に殺されるぞ、と脅す。
 素人にはしろうとにしか見えない「現実」がある。その「現実」を手放さずに、「専門家」が、どんなふうに嘘をつくか(詐欺を働くか)を見ていこう、批判していこう。「知らないことば」に出会ったら、騙そうとしているぞ、と疑おう。
 記事の内容を疑うと同時に、記事の書き方に潜んでいる詐欺にも目を向けよう。


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