詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント」の購入方法

2016-09-05 22:14:54 | 自民党憲法改正草案を読む

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大西美千代「月の道」

2016-09-05 09:46:15 | 詩(雑誌・同人誌)
大西美千代「月の道」(「橄欖」103 、2016年08月25日発行)

 大西美千代「月の道」を読んでいて、ふと立ち止まる。

裏の門を出て
月の道に立つ

会わなければならない人がいたはずだった
どこで忘れたのだろう
忘れられた、のだろう

月の道を進んでいくと
小さな人が膝を抱えてうずくまっている
ここは誰かを恨まなければ抜けられない道だった

 立ち止まったのは、三連目の三行目。「ここは誰かを恨まなければ抜けられない道だった」の「恨まなければ」ということばである。直感的に「真実である」と感じる。ここに「真実」がある。あるいは「正直」がある。人を恨むことは「正しいこと」とは言われない。けれど、人間は誰かを恨む、その「感情」を頼りに、何かを乗り越えるときがある。「恨む」という動詞よりも「恨む」という「感情の強さ」が、私を支えてくれる。
 私は詩を読むとき、いつも「動詞」に注目する。「動詞」はどの人間にも共通のものだからである。だから、今回も「恨む」という「動詞」に注目するというのが、いつもの読み方なのだけれど……。
 でも、この「恨む」というのは、大西の詩が明らかにしているように「誰かを/恨む」という具合に対象(補語)を必要とする。必要とするのが一般的である。その「誰か」が書かれていない。「誰か」としか書かれていない。だから、いま、この詩では「対象/補語」がないまま、「動詞」というよりも「名詞」として存在しているのである。
 そして、この詩の場合、それは「名詞」の方が理解しやすい。
 「名詞」は「動詞」に、つまり「動詞派生の名詞」は「もとの動詞」にもどして詩を読むというのが私の方法だが、ときには「動詞」を「名詞」にした方がわかりやすいときがある。
 なぜ「恨む」を「恨み」という「名詞」にするか。「感情」にするか。たぶん、「感情」が「肉体」を動かす力となっているからだ。エネルギーをそこに感じる。「恨み」が「エネルギー」になって「抜ける(歩く)」という動詞を動かす。「恨む」と道を「抜ける」というふたつの「動詞」を動かすよりも、「恨み」を「肉体」の内部に「感情(エネルギー)」として抱えて、足を動かし、この道を「抜ける」ということだろうなあ、と思うのである。
 でも、もしこの行が「恨みを抱えていないと抜けられない道だった」と書かれていたら、私は、たぶん立ち止まらなかった。感動しなかった。「正直」というよりも、嘘っぽいなあ、説明的だなあ、と感じたに違いない。
 なんだか、矛盾したことを書いているようだが。
 たぶん、ことばというのは、そういうものなのだろう。「論理的」に説明できる形で書かれていたら「嘘」になる。そこに書かれていることばを、もういちど自分で言いなおしてみるときに(自分にとって納得できるように、論理的に言いなおしてみるときに)、それが「ほんとう/正直」として迫ってくる。この「言い直し」というのは、自分の「肉体」で、それを「再現」してみるということである。そして、その「再現」をしてみて、つまり「言い直し」をしてみて、あ、これよりも、「言いなおす前」の、つまり最初にであったことばの方が力が強いと感じたとき、そこに「詩」を感じるのだと思う。
 ちょっとややこしくて、めんどうくさいことを書いたかもしれないが、詩を読んだとき、私に起きているのは、そういう「入り乱れ」である。「ことばと肉体の往復」である。これは言い換えると、私の中のことばが、他人のことばに出会い、動きをたしかめなおすことで肉体になるということでもあるのだが。
 で、そんなことをしていると。
 目は、ふと、前の行の「小さな人」に引き戻される。そして、あ、大西は、ここで「子供時代」のことを思い出しているのだと思う。子供に「恨む」という強い感情は、なかなか、ない。しかし、だんだん「恨む」というつよい感情、「恨み」というものを肉体の内部に抱え込むようになる。そうやって成長する。「恨む」ことを覚え、それまでの自分とは違った人間になるのである。そういうことが、具体的にではないが、ふっと思い出したのだ。
 そういう瞬間があったことを、「どこで忘れたのだろう」。私は、二連目にもどって、そんなことも考えた。そこには「会わなければならない人」のことが書かれているのだが、その人とはほんとうに「恨み」の対象だったのか。会って、恨んでいるということをはっきり告げなければならない人だったのか。「恨み」を持続するのはむずかしい。「恨む」のは、なかなか、こどもにとってはむずかしい。そういうことを「忘れてしまう」。それは、また「忘れられる」ということでもある。「恨む」ことを「忘れる」ときに、「恨む私」も「忘れられる」。相手から、というよりも、私が私によって、と言い換えた方がいいかもしれない。
 そんなふうに考えてくると、もしかすると「会わなければならない人」というのは、「恨む」ことをはじめて知った大西自身のことかもしれない、という気がしてくる。それは「思い出したい人」ということになる。自分でも忘れてしまった、自分。それを思い出そうとしている。
 そういう、ちょっと複雑で、ちょっとかなしく、いとおしいような「感情」そのものが、透明な月の光の道で、大西に見えたのだろう。雨の道とか、夕日の道ではなく「月の道」こそが、そういう重なり合い、離れるような「遠い感情」を見通すのにふさわしいと思う。
 あのとき、どうしたんだっけ? 大西は、思い出している。

こんにちは
こんばんはだったかもしれない、いやそもそも
あいさつなどという穏当な言葉で声をかけたことが
道をはずれている
小さい人は身震いをして
ますます固く冷たくなっていく

 「恨む」ことができなかったのだ。まだ「恨む」という「感情」の動きを自分ではかかえきれずに、どうしていいかわからず、ただ「固くなっていた」、そのまま夜の冷たさに、月の光の冷たさに、染まっていた。そうしたことがあったことを、思い出しているのだろう。こどもだっ大西、おとなにかわっていく瞬間の大西の発見。こどもの頑なな、かなしさが、身に沁みる。

詩集 てのひらをあてる (21世紀詩人叢書)
大西 美千代
土曜美術社出版販売
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