詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

廿楽順治「ぜろですよ」

2016-09-26 10:28:07 | 詩(雑誌・同人誌)
廿楽順治「ぜろですよ」(「八景」3、2016年08月01日発行)

 廿楽順治「ぜろですよ」は「家族詩」とでもいうのだろうか、ある「一家」のことが書いてある。その最後の部分は【天輪院みつお】、どうやら「戒名」らしい。「みつお」が死んだのである。行頭が不揃いなのだが、揃えて引用する。

みつおはひとりで
死ぬぞ死ぬぞと嘆いていました。
そのころからノートに書いていたのです。
死んだら、
これを詩に使え。
とくいげに言っていたがわたくしは、
とうとう相手にしなかった。

字引きがほしいというので
電子辞書を買ってやりました。
わたくしもこどものころは字引きと言った。
字を引き、
その字をみようみまねで書く。
他人事なんです。
その他人を詩にしろというのです。

 「詩」と「他人」のことが書かれている。「自分」ではなく「他人」を書く。そして、そのとき書く「他人」とは「字」のことである。「他人がつかっている字」、「他人のことば」のなかに「他人」がいる、「自分」を超えたものが生きているということか。そう思って読むのだが、そのときの、

みようみまね

 あ、ここが廿楽の(あるいは「みつお」の)、思想だね。言い換えると「肉体」だ。他人が肉体を動かして字を書く。その書いた字を、他人の肉体を思いながら、他人の肉体が動いたのを「見ながら」、それを「まねる」。ことばを知る(わかる)というのは、肉体をまねしながら動かしてみて、自分の肉体の中で、そのとき何が起きているかをつかみとることなのだ。
 その、肉体をつかってつかみとったものを書く。それが「詩」と定義されていることになる。
 こういう「抽象的」なことは、言うのは簡単。でも、実際には、どういうこと? わからないね。(私は、わからないまま、テキトウに書いているのである。)
 この「わからない」ものを、廿楽は、こう書き直している。

きみえの方は、
みんなに見まもられながら
死ぬ前に、
目覚めたように目を開けましたが、
みつおは眠ったまま、
わたくしといもうとだけに眺められていました。
でもわたくしが
目を離したすきに計器の数字は止まり、
みつおと
みつおでないもののさかいめが、
わからなくなった。
字引きがほしい。
これをなんというか、おまえのうそで書いてみろ、
わたくしの悪で書いてみろ。

 「他人」を「みようみまね」で「なぞる/たどる/再現する」とき、そこには「他人/わたくし」の「さかいめ」がある。人が死ぬということは、その「さかいめ」を見えるようにする(あるいは、逆に見えなくする)ことができなくなるということか。
 「みつお」が生きているときは、「みつお」もまた「他人」を「みようみまね」で再現していた。そのときになって、ふいに「どこまでがみつお」であり「どこからが他人(みつおではない)」かが、「消える」。完全に「わからなくなった」。そこには、ただ「肉体」だけがある。
 これが、死か。
 「わからない」ものを「わかる」ように手助けしてくれるのが「字引き」。だから「字引きがほしい」と叫んでしまうのだが。
 うーん、

これをなんというか、おまえのうそで書いてみろ、
わたくしの悪で書いてみろ。

 ここがすごい。「うそで書く」。「うそ」というのは、ほんとうではないもの。ほんとうというのは、この詩では「字引き/他人の肉体の動き」、つまり、それは「見本」である。「見本」にしたがって、「みようみまね」で再現できることが「ほんとう」のこと。「世間」で動いていること。
 「うそ」には「見本」がない。「うそ」は「自分」を語ることなのだ。「自分」がわかっていることを組み立てることである。「みようみまね」ではなく、初めて自分だけの「肉体」を動かすこと。
 それも「善」という「他人」に受け入れられるものを動かすのではなく、「悪」という他人が受け入れることを拒むものを「出せ」という。「他人」ではなくなる。たった「ひとり」の「肉体」になる。
 それが「詩」である。

 あ、こんなことを書いても、やっぱり「抽象的」なままか。
 だから、廿楽はさらに書き直す。廿楽の「肉体」と、廿楽の「悪」を。

ばりばりと、
ことばは
死んだものの肉を喰らい、
あぶらののった思い出を指でひきちぎる。
きみえもみつおも
とうにばらばらで、
なにか、
わたくしが子どものころ、
ちゃぶ台でこぼしたみそしるの具のようなんです。

二日目の
弱ったわかめのようなんですわ。

 「肉体」で「きみえもみつおも」たどり直し尽くした。いろいろな「思い出」が「肉体」で再現され、すべてが「ばらばら」になって、もう一度廿楽の「肉体」のなかで動いている。その「思い出のみつお(思い出の他人)」を、「こぼしたみそしるの具」と呼び、さらに「二日目の/弱ったわかめ」と呼ぶ。父母のことを「こぼしたみそしるの具」、しかも二日目になってちゃぶ台の下から「ここにまだあった」という具合にして拾い上げられる「弱ったわかめ」のようだと呼ぶのは、確かに、「世間」の基準から言うと「悪」だねえ。そんなふうに両親のことを呼ばなくても……。
 でも、そんな具合に、廿楽が廿楽の「肉体」で体験してきたことが、「他人のことば」ではなく「廿楽のことば」で語られるとき、そこに廿楽が「他人」として「生まれてくる」。
 いわゆる「理想化された思い出」のなかにも廿楽はいるだろうけれど、こんな具合に、自分をさらけ出した部分、「手本/見本」にならないことろに「詩」は存在する。なんといえばいいのか「見本/手本」にならない「現実」として、ふいに、出現してくる。それは「見本/手本」にはならないけれど、たしかにあるものなのだ。
 「字引き」とか「みようみまね」とか、「さかいめ」「わからない」「うそ」「悪」ということばが互いのことばの中を行き交いながら、「ことばの肉体」を獲得し、それが「詩」になっていく。それが、そのまま忠実に(正直に)書かれている。

詩集 人名
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株式会社思潮社
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