詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む/番外26(情報の読み方)

2016-09-29 11:04:53 | 自民党憲法改正草案を読む

 「安倍はなぜアベノミクスにこだわるか」ということを、自民党憲法改正草案と結びつけて考えてみた。

 2016年09月29日読売新聞朝刊(西部版・14版)7面に「国会論戦の詳報(28日の衆参代表質問から)」が掲載されている。
 「働き方改革」のなかで、安倍は、こう語っている。

 一刻も早く同一労働同一賃金を徹底し、正規と非正規の労働者の格差を埋めるため、どのような賃金差が正当でないと認められるかを、年内をめどにガイドラインをつくって具体的に明らかにする。

 これは、公明党の井上義久の質問を受けてのもの。井上は「非正規労働者の時間当たり賃金が正社員の6割程度である現状を改め、欧州並みの8割程度に引き上げるために、同一労働同一賃金の実現に向けた検討を急ぐべきだ」と言っている。
 安倍は「どのような賃金差が正当でないと認められるか」と答えている。これは「正当な賃金差」を前提としている。「同一」を最初から無視している。井上の質問は、いわば「欧州ではの賃金差(正規の8割)が認められている。だから日本も賃金差を認めた上で、その差を小さくすればいい」という方向へ「答え」を誘導するための質問。安倍が直接「欧州では非正規は正規の賃金の8割である。それをめざす」と主張すれば、「8割がどうして同一賃金なのだ」という批判が出て来るのは明らかである。だから、安倍は「数字」を出さない。しかし、「どのような賃金差が正当でないと認められるか」と言うことで、「正当な賃金格差」のガイドラインを決めるという。このとき、目安は「8割」が「上限」である。それ以上にならない。井上の「質問」を利用して、安倍は、そう言っているのである。
 そして、この場合、その「8割」を実現するために、どうするか。正規の賃金を固定したまま非正規の賃金をあげるという保障はない。企業の収益は限られている。それをどうやって分配するか。非正規の賃金を上げるためには正規の賃金を引き下げなければならなくなる、ということもありうる。企業は、きっとそういう方法をとる。そうやって実現された「8割」は非正規の人たちが思い描く「金額」ではない。「8割」という「数字」は上がって見えるが、その実質は「8割」には相当しない。
 類似のことがらとして、次の安倍のことばを上げることができる。

 保育士の賃金引き上げに関する野党案は、恒久的な財源確保が明らかでなく、人材確保のための必要な総合的対策となっていない。

 これを流用して、企業は、非正規の賃金を正規の賃金の8割にするための「恒久的な財源確保」のために正規の賃金をある程度カットする、と主張するに違いない。「恒久的な財源確保」の必要性は、安倍が認めている。
 国家財政と企業の経営は違うけれど、きっと、そういう「論法」が展開されることになるだろう。
 安倍は、社会福祉に関する「恒久的な財源確保策」があきらかでないと言うが、では、防衛・軍事費ではどうか。なぜ社会福祉の場合「恒久的な財源確保」が問題になり、軍事費の場合「恒久的な財源確保」が問題とならないのか。同じように「恒久的な財源確保」が問題なら、軍事費を削減すればいいだろう。さらに「福祉のための恒久的な財源確保」を「消費税」でまかなうはずだったのに、それを先のばししたのはだれなのだ。

 さらに。
 「同一労働同一賃金」の「定義」も問題になって来るだろう。「同一企業のなかでの同一労働同一賃金」(連合は、こういう主張らしい)なのか、「企業の枠を超えた同一労働同一賃金」のなか。つまり、「同一職種同一賃金」なのか。「同一職種同一賃金」ならば「子会社」をつくり、そこで新しく「正規雇用」をするという方法で「利益」を確保することはできなくなるが、「同一企業」に限定された「同一労働同一賃金」なら、「子会社化」というか「分社化」が進み、賃金の切り下げが進むだろう。「連合」は経営者候補養成機関なので、この「同一企業内の同一労働同一賃金」をめざしている。つまり、いまの連合幹部は経営者になったら「子会社/分社化」を進めることで労働者の賃金をさげることをもくろんでいる。そうすることで「経営手腕」を発揮しようとしている。
 さらに「働き方改革」の「脱時間給制度」の推進というのも、とても危険だ。「同一労働」を「同一成果」と言いなおすと、それは「ノルマ主義」になる。「同一ノルマ同一賃金」である。ノルマに達しない労働者には、その分、賃金が支払われない。この制度に対しては企業側は大賛成である。これには、連合も反対しているらしいが、「同一労働同一賃金」を進めるためには「同一成果同一賃金」でないと「矛盾」すると主張されたとき、どう反論できるか。連合に、反論する「意思」はあるか、そのことも疑問だなあ。

 安倍の「ことば」を追いかけるのではなく、公明党や民進党(連合)の「主張」がどういうものかも点検し、それを安倍のことばとリンクしてみないといけない。
 安倍の主張を、現行憲法から見るとおかしいというだけではなく、自民党の憲法改正草案と結びつけて見直さないといけないと思う。安倍は、もう改正草案を「安倍憲法」としてとらえている。「安倍憲法」にしたがって行動している。

日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。

 この改正草案の「前文」。
 「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」の「社会全体」「国家」を「企業」置き換えるとどうなるか。非正規、正規の労働者が「互いに助け合って」(つまり、安い賃金で我慢しあって)、「会社」のために働くということである。「労使」は対立するではなく「和を尊び」、「会社」を「形成する」。
 個人はどうでもいいのである。
 なぜ「国家」を「会社」と私は読み替えたか。
 前文のつづきは、こうである。

我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

 「経済活動を通じて国を成長させる」に注目するからである。「経済活動」ということばは現行憲法の「前文」にはない。(本文のなにかも読んだ記憶はない。)
 安倍は国民のために働いているではない。「企業(経済活動)」のために働いている。自分に金を払ってくれる企業のために働いている。アベノミクス(経済)にこだわるのは、安倍が改正草案(安倍憲法)で動いているからである。安倍にとって企業がもうかることが国家の成長なのである。国民はどうでもいいのである。












*

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田中庸介「夜の楢山」

2016-09-29 09:36:16 | 詩(雑誌・同人誌)
田中庸介「夜の楢山」(「妃」18、2016年09月22日発行)

 田中庸介「夜の楢山」は、こんな具合に始まる。

このきりきりと痛む感じはなんだろう。
おばが手術を拒む(眼の)。
手術はいやだから、やりまっせん、
とおばはいう。やんなさい/いやっ/やんなさい/いやっ/やんなっさい、
わたしはもう十分に生きてきた、自分の身体(からだ)は自分のものなんだから、
もはやこのまま、自分の好きなようにさせて欲しい!
と、おばはなぜか勝ち誇ったように言うのである。

 で、必然的に、このあとは手術を拒むおばと田中の周辺のやりとりが展開されるのだが。
 私は、三か所(三つのことば)に傍線を引いた。
 最初は「勝ち誇った」、そのあとすぐ読み返して「(眼の)」、そして「身体(からだ)」。最後の「身体」は本文は「ルビ」。
 「勝ち誇った」に傍線を引いたのは、そこに「おばの肉体」を感じたからである。「我を張る」ときの「肉体」というのは、たぶん多くの人に共通している。「我を張る」では「肉体」を感じないが「勝ち誇った」には「肉体」を感じる。「我」も個人的なものなのたが、「誇り」の方がもっと「個人的」と感じるのかなあ。きのう読んだ小松弘愛の詩の余韻が私の「肉体」のなかに残っていて、それが影響しているのかもしれないが、この「勝ち誇った」には「喜び」がある。それが、なんともいえず、うれしい。
 田中には申し訳ないが、この「おば」に「頑張れ」と声をかけたくなるような感じ。「勝ち誇った」人間というのは、なんだかわからないが「勇気」をくれる。それがうれしいのである。
 この強烈な「肉体」の自己主張に、どう田中はぶつかっていくのか。読まなくても、こりゃあ、田中の負けだね、とわかる。
 そして、その最初の「負け」は「眼の」にある。

おばが手術を拒む(眼の)。

 これは、ごく普通のことばの順序では

おばが眼の手術を拒む。

 である。「意味」は、まあ、「便宜上」は「同じ」。そして、倒置法で、しかもかっこに(眼の)ということばを補ったものよりは、普通の順序の方が「読みやすい」。理解しやすいとも言い換えてもいいかもしれない。
 なぜ、倒置法で(眼の)と書いたのか。
 こういうことは考えても仕方がないことなのかもしれないが、どうでもいいことなのかもしれないが、私は考えるのである。
 「おばが手術を拒む」と書いた段階では、「おば」は「肉体」を持っていない。「手術を拒む」という「こと」が前面に出てきていて、「おば」は「肉体」というよりも「我(が)」である。「我」を「精神」と呼ぶ人もいる。「精神」というのは「論理」でもある。そして「論理」というのは「説得」が可能なものでもある。つまり「こっちの方が論理的」ということを証明することで、最初の「論理」を変更することができる。実際、そういうことを考えているからこそ、手術を拒む「おば」を田中たちは説得しようとするわけである。
 ところが「おば」は「精神/論理」ではないのだ。「精神/論理」である前に「肉体」である。「眼」である。「論理/精神」というのは「共有」できる。でも「眼」は完全に個人のものであり、「共有」できない。「共有」するためには「論理/ことば/精神」を経由しなくてはならない。ここに、「説得」の困難さがある。
 で。
 田中はどうしたかというと。(眼の)と括弧で「肉体」を補うことで、「精神/肉体」の関係を、修正しようとしているのだが。

わたしはもう十分に生きてきた、自分の身体(からだ)は自分のものなんだから、

 ここが問題。
 「おば」は「わたしはもう十分に生きてきた、自分のからだは自分のものなんだから、」と言ったが、そのとき「おば」は「身体」という「文字」をつかみとっていたか。たぶん、違うと思うなあ。「からだ」を「身体」とととのえなおしてつかみとったのは田中である。「おば」のことばを田中は整理しなおしている。「からだ」を「身体」と書くのは田中であって、「おば」ではない。
 「おば」は「からだは自分のものなんだから、自分の好きなようにさせて欲しい!」と言っている。その「おば」に対して
「ことば」すら「おばの好きなように」はさせていない。
 言い換えると、「おばの肉体(ことばも肉体)」に対して、田中は田中の「精神/ことば」で向き合っている。「おばの肉体(おばのことばの肉体)」をもてあましている。そのまま受け止めることができずに、自分の「ことば」に変換して、「ことば」として受け止めようとしている。
 「おばの肉体」が問題なのに、その「肉体」が切り離され、「共有できることば/精神」になっている。

 だからといえばいいのかどうか、かなりむずかしいが。

 このあと、「論理/ことば」であることを拒絶する「おば」の「肉体」と、田中側の「論理/ことば」のぶつかりあいになる。そのなかで、

また全身全霊でおれたちの倫理的論理的おすすめをはねつけるおばがこわい、
もうクライアントが亡くなってしまえば楽なのにと思う自分らの心がこわい、

 という行があらわれる。
 「倫理的論理的」については、もう「補足説明」はいらないと思うが、私がここで傍線を引くのは「こわい」である。「心がこわい」ということばは象徴的だ。「こわい」のは「こころ」である。「肉体」が「こわい」わけではない。「こころ」は、また「精神」と呼び変えることができるだろう。
 それから、すぐに次の二行が出てくる。

おばの死にたい気持ちと共謀して楢山におばを背負っていくのは負けている、
もう緩和ケアでいいじゃないかとおばに説得されてしまったなら負けである、

 「負けている」「負けである」。ここに傍線を引きながら、私は笑いだしてしまう。「論理/精神」なんてところで右往左往するから「負ける」ということばがでてくる。「論理」は「勝つ」ことをめざすものなのだ。「勝つ」は「結論」と言ってもいいかもしれない。
 でも、このときの「勝つ」は、

おばはなぜか勝ち誇ったように言うのである

 この「勝つ」とは違っているね。
 「おば」の「勝ち誇る」は「負けても」、勝ち誇ることができるのである。それは「論理」ではないからだ。「結論/解決」というものを「放棄」している。そんなものは捨ててしまって、ただ「肉体」そのものを「これが私」とさらけ出している。「肉体」がそこに「ある」ということが「肉体」の「勝つ」なのであり、それは生まれた瞬間から「勝ち続ける」ものである。「負ける」のは「死ぬ」ときだけ。
 そこが「精神/論理」とは違う。
 私は詩を読むとき(ことばを読むとき)、主語と動詞にこだわるが、動詞が同じなら「意味」はおなじとは限らない。「意味」というものは主語/動詞の結びつきで、その瞬間瞬間にあらわれてくるものであって、その結びつきを超えて動くものではないのだ。
 いつも主語と動詞を「ひとつ」にして読まないといけないのだと思う。

 この「負ける」は、あくまで田中の「論理」。「論理」というのもはとてもおかしなもので、それ自体「肉体」を持っていて、自立して動いていく。
 動いていく「論理」には、そして、それを動かしている田中には、それはおかしなものではないだろうけれど、傍から見ると、まるでコメディーである。
 「負ける」は次のようにことばを増やしていく。自己増殖する。

おばさん手術はしなくてもいいんじゃないか、と
つるっと口をすべらかしたらおしまいだ、
それは近代医療の敗北だ、
それは理想的な介護の失敗だ、
それは文明社会の敗北だ、とまでは言わないけれど、
おばに負けたくない、どうにかして負けたくない、
という気持ちに、いつのまにか、
論理的に説得したい、という気持ちがダブルに飲み込まれている。
最適な治療方法を理性的に選択してもらおうとする知性、それが喪われている。

 この「論理の肉体/ことばの肉体」に、私は大笑いしながら、でも、これって、いままでの田中の「ことばの肉体」とはかなり違うなあ、という感じも持つ。
 (これは、この詩を読み始めてすぐ、あれっと思った感じ、だから、なにか書いてみようと思った感じにつながるのだけれど。)
 このままじゃ、困るんだけれど、とも思う。
 私が好きだった田中がいなくなってしまう、という不安かな。
 
 そう思っていると「論理の肉体」が動くだけ動いた後、それが「結論」に達しないで、破れてしまう。

負けず嫌いの、卑小な、小市民の、
意地を張り合いたがる人格の小ささが、むむむ、
ついムキになる、自分の気持ちの奥から引きずり出されて、
意地っぱり。
ホラホラこれがおまえの小ささだ、
と人前で、
あからさまに、
全員に対してみせつけられている、標本のように。
おばの頑強な、そしてか弱い老練な人格は
わたしたちの偽善の卑小さを一人ひとり、
手相、顔相、二十面相のように
すっかり浮き彫りにして下さろうとする。

正しいってなんだ。
論理ってなんだ。
なんで敗北とか勝利とか
そういうことばが出てこなくちゃならないんだここに、

 ここで田中は「我に返る」。
 ここで、私は、ああよかった、と思う。
 何を書いてきたのかを忘れてしまう。もう、書きたいことがなくなった。そう、「肉体」には「正しい」も「勝利」もいらない。

八十七歳。
水がゆらゆら流れる。
お香のけむりがゆらゆら流れる。
ゆらゆら。
ゆらゆら。

ああ、ああ、
わくわくするよ、
千三百円の天ぷらそば、

 ここが好きだなあ。
 あれこれことばを動かし、笑いながら読んできて、ここで、いままで知っている田中の「ことばの肉体」に出合う。あ、生きていると感じる。
 そうか、田中は「おば」のような「肉体のことば」とはあまり親身につきあってこなかったのか。「おば」だから、あたりまえだけれど。そのために「悪戦苦闘」したのか。でも「正しい」「論理」「勝利」というような「ことばの肉体」から離れて、別の「ことばの肉体」を動かせば、突然、自然にもどる。正直にもどる。
 「ことばの肉体」は何かの衝撃で「ずれる」。そしてそれがもとにもどるまでには、あれこれを経由しないといけないのだが、必要なだけ経由すればもとにもどるということかなあ。

 なんとなく「ふーん」と思った。「ふーん」の「意味」を説明することはむずかしいけれど。きっと誤解されるだろうけれど。


詩誌「妃」18号
瓜生 ゆき,後藤 理絵,管 啓次郎,鈴木 ユリイカ,田中 庸介,月読亭 羽音,仲田 有里,長谷部 裕嗣,広田 修,中村 和恵,小谷松 かや,細田 傳造,尾関 忍,宮田 浩介
妃の会 販売:密林社
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