神尾和寿『アオキ』(編集工房ノア、2016年09月01日発行)
神尾和寿『アオキ』は、詩集の体裁がとても変わっている。タイトルと作品が分離している。タイトルと作品が別のページにある。タイトルの次のページから作品が始まる。それだけなら、まあ、何度か見かけたことがある。神尾の詩集は、それをさらに逸脱(?)して、タイトル→次のページ(作品、見開き)→その見開きの最後の部分に、つまり左側のページの下の方にタイトルという形。まるで見開きの作品のタイトルを左ページの下の方に書いているようにも見えるが、実は、それが次のページから始まる作品のタイトル。文字で書くとややかしいが、手にとってみれば、すぐわかると思う。
なぜ、こんな形にしたのかなあ。
わからない。わからないけれど、その見開きの左下のタイトルが、作品のタイトルであってもいいかなあ、とも思う。作品のタイトルが、作品を読むことで変わってしまった、ということでもいいかなあ、とも思う。
だいたい、読む、ということは読む前とは違った気持ちになるということ。だから、気持ちにあわせてタイトルも変わってもいい。書く方だって、書いてしまえば気持ちは変わる。だからタイトルが変わってもいい。
たとえば、「すっぱだか」というタイトルの作品。
これに、次の作品のタイトル「無人島なのに・ぼくがいて・まっぱだか」が添えられている。そうすると、それでもいいかなあ、という気持ちになってくる。そのとき、映画館が「無人島(観客が神尾しかいない)」にかわっている。たったひとりで、OLが裸にされる寸前(?)の映画を見ている。そのとき、まあ、ちょっとどきどき、わくわくするね。「それから先」が読めなくて、興奮する。その興奮というのは感情が「まっぱだか」状態。だれも神尾を見ていない。無人島で、神尾は、感情がまっぱだかになっている、という「比喩」として読める。
ふーん。で、その「無人島なのに・ぼくがいて・まっぱだか」は、
まあ、無人島だから、何をしていても、誰にもわからない。そういうことなのだが、これに「東尋坊」というタイトルがつけられる。そうすると、あっ、自殺寸前の状況に変わってしまう。誰も見ていない、断崖から落ちるときの叫び声(あるいは落ちてしまった瞬間の悲鳴)を誰も聞かない。ただ月が出ている。「ぼく」が消える。
という具合。
生きているということは、切断と接続の切り返しだけれど、神尾は「詩集」でそれをやっている。一篇一篇のなかにも切断と接続はあるのだが、それよりも「詩」と「詩」のあいだで切断と接続をやっている。そうすることで、切断と接続こそが「詩」なのだと言いなおしている。
いままで、これはこういう意味だと考えていたことが、いったん切断され、別の意味にととのえられる。それはただタイトルを変えるだけで、そうなってしまう。
なぜなんだろう。
読んでいる私の方にも「切断と接続」への期待があるからかもしれない。
毎日同じ生活。これを「接続」ととらえるなら、それが「切断」され、新しい生活が始まる。その新しい生活というのは、新しい「接続」のことである。
こんなことは、とくに意識はしないけれど、なんとなく、そういう気持ちがあって、それがどこかで静かに通い合っているのかもしれない。
読み進むに従って、次はどうなるのだろう、と考えてしまう。期待してしまう。
読み返せば、それは一篇の詩のなかでも起きている。たとえば、「すっぱだか」。
「ひんむいてすっぱだかにしてやるぞ」から始まる緊張した場面。それが「スクリーン(映画)」と知らされても、で、どうなる?と期待してしまうが、神尾はこれを、ぱっと切断し、それを見ている「ぼく」に切り換えてしまう。「どきどき、わくわく」という映画のストーリーが切断され、「ぼく」の「日常」に接続される。「ぼく」はたぶんOLに「ひんむいてすっぱだかにしてやるぞ」と言ったことがない。これからも言わないだろう。それはそれで「正しい」ことなのだが、なんとなく寂しい感じもする。「どきどき、わくわく」が「寂しい」に接続されて、そのとき、ふっと、そこから「生活(神尾の肉体)」というものが見えてくる。
その「ふっと見える生活」を神尾は間接的に描いているとも言える。あることを持続して書くことで見える生活ではなく(それをやると「小説」になるのかな?)、ある瞬間を切断し、別のものに接続する、そのときに動くこころを、詩として書き留めている。変化そのもののなかに、変化の瞬間に、ぱっとあらわれ、ぱっと消えていくもの。それを独特の形式で書き留めていることになる。
あ、いま、何が動いたのかなあ、と自分をちょっと振り返り、そうだなあ、そういうことがあるなあ、と思う。
それでいいんだろうなあ。
それでいいって、何が、という具合に問い詰められると困るけれど。
で、こういう作品だから、神尾のことばは、とても日常的。辞書をつかわずに、ただ、そのままぱっぱと読むことができる。(私はわからないことがあっても、辞書を引かない人間なので、こんなことを書くと変だが……。)
の、はずだが。
たとえば、
私は、えっ、そうなのか? と驚いてしまう。書いてあることは、すぐに理解できる。でも「ひんむいてすっぱだかにしてやるぞ」が、OLをバナナに見立てて(比喩として)いるとは思ったことがなかった。なんだか、とても「静かな」比喩である。
私などは、卵を産めなくなった鶏を絞めて、羽をひきむしり、皮を引き剥がしてというような、剥がそうとしても剥がせない、「肉体」にしっかり密着したものを想像してしまうが、あ、違うんだと、ここでかなり驚いたのである。
しかし、神尾のつかったバナナ(果実)の比喩は、何といえばいいのか、最後の三行の「ぼく」の静かさと通じているなあ、とも思う。
もし、あそこで鶏の皮を引き剥がすというような「説明」をしてしまったら、最後は違ったものになる。
そういう「微妙」なことばの動きがある。それが詩集を統一している。
「無人島なのに・ぼくがいて・まっぱだか」で言えば、
この「計測する」という動詞も、それに似ている。「計測する」は「記録」という「名詞」を言いなおしたもので、本当は「記録する」(残す)ということ。「東尋坊」と続けて読めば、それは「記憶する」にもなるね。だれかのなかで、静かに残っていく、だれかの記憶/思い出。だれかを思い出す、つらさ。
なんとなく、不思議な「間接的」とでも言いたいような「静かさ」がある。
ほんとうは、この「静かな間接性/寂しさ」から詩集をとらえ直した方がいいのかもしれないが、こういうことは書きながら見つけ出す感想なので、そこからはじめようとするとまた違った感想になるかもしれない。(これは、結論を想定せずに書き始める私自身への、一種の言い訳的メモ。機会があれば、静かな間接性/寂しさを中心に神尾の作品について書いてみたいとも思う。)
神尾和寿『アオキ』は、詩集の体裁がとても変わっている。タイトルと作品が分離している。タイトルと作品が別のページにある。タイトルの次のページから作品が始まる。それだけなら、まあ、何度か見かけたことがある。神尾の詩集は、それをさらに逸脱(?)して、タイトル→次のページ(作品、見開き)→その見開きの最後の部分に、つまり左側のページの下の方にタイトルという形。まるで見開きの作品のタイトルを左ページの下の方に書いているようにも見えるが、実は、それが次のページから始まる作品のタイトル。文字で書くとややかしいが、手にとってみれば、すぐわかると思う。
なぜ、こんな形にしたのかなあ。
わからない。わからないけれど、その見開きの左下のタイトルが、作品のタイトルであってもいいかなあ、とも思う。作品のタイトルが、作品を読むことで変わってしまった、ということでもいいかなあ、とも思う。
だいたい、読む、ということは読む前とは違った気持ちになるということ。だから、気持ちにあわせてタイトルも変わってもいい。書く方だって、書いてしまえば気持ちは変わる。だからタイトルが変わってもいい。
たとえば、「すっぱだか」というタイトルの作品。
「ひんむいてすっぱだかにしてやるぞ」
と 人相の悪いおとこが
誘拐してきたOLさんに対して
凄んだ
人間をバナナなどの果実に見立てた上での
表現である
しかし それから先の意図は誰にも読めない
OLさんは
唇を ぐっと噛みしめて
さっきから震えている
スクリーンのなかの 名場面である
お金を払って
ぼくは 今ここに坐って
見ている
これに、次の作品のタイトル「無人島なのに・ぼくがいて・まっぱだか」が添えられている。そうすると、それでもいいかなあ、という気持ちになってくる。そのとき、映画館が「無人島(観客が神尾しかいない)」にかわっている。たったひとりで、OLが裸にされる寸前(?)の映画を見ている。そのとき、まあ、ちょっとどきどき、わくわくするね。「それから先」が読めなくて、興奮する。その興奮というのは感情が「まっぱだか」状態。だれも神尾を見ていない。無人島で、神尾は、感情がまっぱだかになっている、という「比喩」として読める。
ふーん。で、その「無人島なのに・ぼくがいて・まっぱだか」は、
真っ裸になって
猛然と走り出す
世界新記録を出していても
それを計測する者はいない
聞くに堪えない罵詈雑言も叫び放題
誰の耳も
そこに生えていないから
夜には きれいな月光が射してきて
ヤシの木の根元に おぼろげな影が
寝る
ぼくまでもすっといなくなる
まあ、無人島だから、何をしていても、誰にもわからない。そういうことなのだが、これに「東尋坊」というタイトルがつけられる。そうすると、あっ、自殺寸前の状況に変わってしまう。誰も見ていない、断崖から落ちるときの叫び声(あるいは落ちてしまった瞬間の悲鳴)を誰も聞かない。ただ月が出ている。「ぼく」が消える。
という具合。
生きているということは、切断と接続の切り返しだけれど、神尾は「詩集」でそれをやっている。一篇一篇のなかにも切断と接続はあるのだが、それよりも「詩」と「詩」のあいだで切断と接続をやっている。そうすることで、切断と接続こそが「詩」なのだと言いなおしている。
いままで、これはこういう意味だと考えていたことが、いったん切断され、別の意味にととのえられる。それはただタイトルを変えるだけで、そうなってしまう。
なぜなんだろう。
読んでいる私の方にも「切断と接続」への期待があるからかもしれない。
毎日同じ生活。これを「接続」ととらえるなら、それが「切断」され、新しい生活が始まる。その新しい生活というのは、新しい「接続」のことである。
こんなことは、とくに意識はしないけれど、なんとなく、そういう気持ちがあって、それがどこかで静かに通い合っているのかもしれない。
読み進むに従って、次はどうなるのだろう、と考えてしまう。期待してしまう。
読み返せば、それは一篇の詩のなかでも起きている。たとえば、「すっぱだか」。
「ひんむいてすっぱだかにしてやるぞ」から始まる緊張した場面。それが「スクリーン(映画)」と知らされても、で、どうなる?と期待してしまうが、神尾はこれを、ぱっと切断し、それを見ている「ぼく」に切り換えてしまう。「どきどき、わくわく」という映画のストーリーが切断され、「ぼく」の「日常」に接続される。「ぼく」はたぶんOLに「ひんむいてすっぱだかにしてやるぞ」と言ったことがない。これからも言わないだろう。それはそれで「正しい」ことなのだが、なんとなく寂しい感じもする。「どきどき、わくわく」が「寂しい」に接続されて、そのとき、ふっと、そこから「生活(神尾の肉体)」というものが見えてくる。
その「ふっと見える生活」を神尾は間接的に描いているとも言える。あることを持続して書くことで見える生活ではなく(それをやると「小説」になるのかな?)、ある瞬間を切断し、別のものに接続する、そのときに動くこころを、詩として書き留めている。変化そのもののなかに、変化の瞬間に、ぱっとあらわれ、ぱっと消えていくもの。それを独特の形式で書き留めていることになる。
あ、いま、何が動いたのかなあ、と自分をちょっと振り返り、そうだなあ、そういうことがあるなあ、と思う。
それでいいんだろうなあ。
それでいいって、何が、という具合に問い詰められると困るけれど。
で、こういう作品だから、神尾のことばは、とても日常的。辞書をつかわずに、ただ、そのままぱっぱと読むことができる。(私はわからないことがあっても、辞書を引かない人間なので、こんなことを書くと変だが……。)
の、はずだが。
たとえば、
人間をバナナなどの果実に見立てた上での
表現である
私は、えっ、そうなのか? と驚いてしまう。書いてあることは、すぐに理解できる。でも「ひんむいてすっぱだかにしてやるぞ」が、OLをバナナに見立てて(比喩として)いるとは思ったことがなかった。なんだか、とても「静かな」比喩である。
私などは、卵を産めなくなった鶏を絞めて、羽をひきむしり、皮を引き剥がしてというような、剥がそうとしても剥がせない、「肉体」にしっかり密着したものを想像してしまうが、あ、違うんだと、ここでかなり驚いたのである。
しかし、神尾のつかったバナナ(果実)の比喩は、何といえばいいのか、最後の三行の「ぼく」の静かさと通じているなあ、とも思う。
もし、あそこで鶏の皮を引き剥がすというような「説明」をしてしまったら、最後は違ったものになる。
そういう「微妙」なことばの動きがある。それが詩集を統一している。
「無人島なのに・ぼくがいて・まっぱだか」で言えば、
世界記録を出していても
それを計測する者はいない
この「計測する」という動詞も、それに似ている。「計測する」は「記録」という「名詞」を言いなおしたもので、本当は「記録する」(残す)ということ。「東尋坊」と続けて読めば、それは「記憶する」にもなるね。だれかのなかで、静かに残っていく、だれかの記憶/思い出。だれかを思い出す、つらさ。
なんとなく、不思議な「間接的」とでも言いたいような「静かさ」がある。
ほんとうは、この「静かな間接性/寂しさ」から詩集をとらえ直した方がいいのかもしれないが、こういうことは書きながら見つけ出す感想なので、そこからはじめようとするとまた違った感想になるかもしれない。(これは、結論を想定せずに書き始める私自身への、一種の言い訳的メモ。機会があれば、静かな間接性/寂しさを中心に神尾の作品について書いてみたいとも思う。)
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