詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む/番外17(情報の読み方)

2016-09-08 11:02:56 | 自民党憲法改正草案を読む
 2016年09月08日読売新聞朝刊(西部版・14版)の「福岡版」に気になる記事があった。

 春日市教委は今年度、私立の全小中学校(18校)の通知表に、地域社会との関わり、ルールやマナーを守る規範意識などを評価する「市民性」の項目を加えた。地域の結びつきの希薄化、デジタル化の進展といった変化の中で成長する子どもたちの市民性を、学力と同じように重視。大切な通知表の中で評価することによって、地域社会を担う「自立した市民」としての意識を高め、その力を養う狙いがある。
 市教委は、山本直俊教育長の発案に基づき、公共心、郷土愛、地域情報への関心の三つを「市民性」の尺度に定義。(略)「地域の人へのあいさつをしている」「午後10時-午前6時はスマートフォンを使っていない」「地域の行事に参加している」などの評価項目のサンプルを作り、4月に各校に示した。

 これは、「道徳の採点化」とどう違うのだろう。「道徳」ということばはつかっていないが、つかっていなだけに、よけいにいやらしさを感じる。
 だいたい子どもに「地域社会を担う「自立した市民」としての意識」を求めてどうするのだろう。「地域社会」なんか、子どもは担わなくてもいい。生まれ育ったところを捨てて、どこへでも羽ばたいていけばいい。どこででも生きて行ける力を育てることが大切であって、いま住んでいるところにしばりつけるのは、親のわがまま。親の欲望。
 と書いてきて、思い出すのが自民党の憲法改正草案。
 その前文に、こう書いてある。

日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。

 「公共心」「郷土愛」とは書いていないが、「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って」、「郷土を誇りと気概を持って自ら守り」は「公共心」「郷土愛」と同じだろう。そして、それが「国家を形成する」と「国家」につながっていく。
 これだけでは、何も「悪い」ことを書いているようには見えないが、これは逆に見れば「国家」に都合のいい人間を育てるということだろう。
 「国家」あるいは「社会」に対して批判し、よりよいものをめざすという運動を抑制し、「国家」の言うがままに、「国家」を守る、ということにつながる。

 この前文のくだりは、現行憲法にはない。
 また、現行憲法にはない「文言」としては、次のものもある。

第二十四条
家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わ
なければならない。

 あたりまえのことを書いているようだが、ゆっくり読むと、とても怖い。家族は助け合うのが普通だが、ときにはけんかする。そして、ときにはその結果、別れてしまうこともある。日常的に、そういうことが起きている。
 自民党の憲法改正草案は、そういうことに目をつぶっている。そして「家族は、互いに助け合わなければならない」という。個人よりも「家族」が重視されているのである。
 「家族」は「公共」のはじまり。「社会」のはじまり。「国家」のはじまり、ともいえる。自民党の改正草案では、「国家→社会→家族」という具合に「決まり」をおしつけてくる。そこでは「個人」は尊重されない。
 「国家」があっての「個人」、「社会(公共)」あっての個人、「家族(親族)」あっての個人。
 これを、こどものときからたたき込むのである。教育現場で、それを強制的におこなうのである。
 「市民性」という「新しいことば」で、押し付けを隠すのである。
 新しいことばが出てきたときは、その裏には、かならずそのことばをつかった人の「思惑」がある。

 教育について、自民党憲法改正案は、こんな条項をつけくわえている。

第二十六条
3 国は、教育が国の未来を切り拓ひらく上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない。 

 この「教育環境」とは、たとえば大学教育の無料化とか、奨学金の返済免除ということではない。「国」に忠実な人間を産みだす「環境」の整備である。「国」にとっての「理想的な人間」を生み出すために、環境をととのえる責任がある(つとめなければならない)と言っているのである。
 春日市は、安倍の意向に沿って「憲法改正草案」を先取りしているのである。安倍にこびて、忠実な国民であることをアピールしようとしているのである。
 だが教育の目的は、忠実な人間を育てることだけではない。批判力を持った人間を育てること、ものごとを批判する力を育てることも重要である。批判がないままでは、前進がない。批判が歴史を動かしてきた。国家の形を変更してきた。
 春日市のやろうとしていることは、こういう人間本来の生き方を否定するものである。

 もう「自民党憲法改正草案」は「案」ではなく、施行されている。その案を具体化することで、安倍にこびる人間が生まれてきている。安倍の意向に沿って、子どもたちを「国家の道具」にしようとしている。

 読売新聞の記事は、最後に、こう書いている。

 市教委の広修治・指導主幹は「社会と自分との関わりを考えながら主体的に生きられる市民を育てたい。子どもたちが積極的に社会にかかわれば、地域の活性化という効果も期待できる」と話している。

 しかし、この記事には、そういう動きを批判する側のコメントがない。市教委の言うことを、そのまま垂れ流している。
 「道徳の採点化」が問題になっているとき、そうしたことへの批判を掲載しないのは、どういうものか。








*

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新井啓子「うたかたうた」、長嶋南子「こんなこと」

2016-09-08 08:23:37 | 詩(雑誌・同人誌)
新井啓子「うたかたうた」、長嶋南子「こんなこと」(「Zero」5、2016年09月05日発行)

 新井啓子「うたかたうた」は「かた」という音がたくさん出てくる詩である。

一斉メールが来る
お盆には還暦の同窓会をしましょう
かたびらつけて厄落しのお祓いもしましょう
(喪中だから お祓いは ちょっと)
この前の やかたぶね船上同窓会にはいけなかったから
後ろ髪を引かれる
生まれた町で初盆のその暮れかた 何をしているか
洗い物かたづけながら家族にかたる

 冗談のようにして書かれていた「かたびらつけて厄落しのお祓いもしましょう」の「かたびら」の「かた」に刺戟されて思いついたのかもしれない。「やかたぶね」の、いきなりずらした「音」から始まり、いけな「かった」という乱れを越えて、「暮れかた」「かたづけ」「かたる」の「暮れかた」が美しく響く。「頭」ではなく「尻」にでてきて、あ、「かた」だと気づくせいかなあ。「くれ」という暗い音からはじまり、「かた」と明るくおわるところが、夏っぽいのかなあ。「……ながら家族にかたる」の「か(が)」の繰り返しも、特に変わっているわけではないが、「かたる」が妙に楽しい。
 二連目のはじまりは、こうなっている。

小学校では あのこに
かきかた鉛筆の持ちかたが違うと言われ
中指にタコができるまで練習したのよ
(かたこと かたこい かたやき煎餅)

 「かきかた」鉛筆がいいなあ。鉛筆でも「意味(注意されたこと)」は同じなのに「かきかた」と「かた」をつけくわえている。「持ちかた」に「かた」があるのだけれど、この「持ちかた」の「もち」は「かたやき煎餅」の「餅」になって反逆(?)してくる。こんなところもおもしろい。
 そのあとも「ゆかた」とか「あとかた」「かたぎ」「かたぼう」「かたたがえ」という具合に続くのだが、しつこくなる寸前で終わっている。「もの足りない」という人もいるかもしれないが、こういう作品は「もの足りない」くらいが気楽かなあ、と思う。



 長島南子「こんなこと」は「どんなこと」なのか、よくわからない。

こんなことになるとは
思ってもみませんでした
こんなことは
予告なしにやってきました
気づかないでまいにち
ノーテンキにお弁当を食べていたのです
占い師は転換期がきたというのです
こんなことになってから
お弁当は上の空
なにを食べているのやら

 わからないけれど、何かが突然起きる。そして、その何かによって、いままでのことが今までどおりでは行かなくなる。「ノーテンキにお弁当を食べていたのです」が「お弁当は上の空/なにを食べているのやら」に変わる。「こんなこと」になった長嶋には申し訳ないが、私はここで笑ってしまった。「ノーテンキ」に弁当を食べているときだって、「何を食べているか」なんて、そんなに意識しないだろう。だから「ノーテンキ」というのだと思うが、「意識しない」と「意識できない」は違っている。その「違い」を、かるく、かるーく書いている。その軽さに笑ってしまった。「こんなこと」になってしまって、それが重大問題なら弁当を食べるよりもすることがあるだろうに……。
 まあ、こんなことは、大したことではない。「批評」でも「感想」でもない。単なる私の「軽口」。

夢のなかにも
こんなことがあらわれて
わたしの脳をつつくのです
頭蓋骨に穴があいてしまいました
みっともないので
かつらをつけています
まいばんつつかれるで
穴は大きくなりました
空っぽ頭になったので
こんなこととはなんだったのか
わたしは本当はなにを恐れていたのか
わからなくなりました
穴は大きくなったので
かつらはもっと大きなものに
つくりかえなければなりません

 「こんなこと」が何かわからなくなっても、「かつらはもっと大きなものに/つくりかえなければなりません」ということは、わかる。この「わからない」と「わかる」の「ずれ」がおもしろい。
 何が起きるわけでもいないのだが。ここから何かを考え始めるというわけでもないのだが、こういう奇妙な「わかりかた」というのはあるなあ、と思うのである。






水椀―新井啓子詩集
クリエーター情報なし
詩学社
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