詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多塋子『こんなもん』

2016-09-10 11:21:28 | 詩集
坂多塋子『こんなもん』(生き事書店、2016年09月30日発行)

 坂多塋子『こんなもん』は、詩集の「作り方」がかわっている。かわっているといっても、きのう読んだ神尾和寿『アオキ』ほどではない。いや、一見したところ、かわっているようには見えないかもしれない。しかし、同人誌で坂多の作品を読んできた私には、とてもかわった詩集に見えた。読んだことがあるはずの詩なのに、まったく新しく見えた。
 どうしてだろう。
 たぶん、一ページ(あるいは見開き二ページ)の行数が少ないせいである。数えてみたら一ページに十一行。詩集を開いたときに見える「文字量(ことばの情報量)」が少ないのである。
 詩を読むとき、一行一行読んでいるようで、実は、そうではないのだ。意識しないが、自然に全体を目で読んでしまっている。それから一行一行、他の行とのバランスの中で読んで、読みながら感想をととのえている。
 瞬間的に「見える」情報量が少ないと、そこに引きずり込まれてしまう。妙に、密着して、ことばが濃厚に見えてくる。というか、坂多のことばの濃厚さにあらためて気づかされるのである。
 詩集の「判形」も影響しているかもしれない。文字の大きさも影響しているかもしれない。小ぶりの詩集で、余白がきゅっとしまって見える。
 あ、これでは、感想にならないかなあ。
 ブログで書いても、詩集を読んだときの感じはつたわらないかもしれない。
 でも、やってみよう。
 「魚の家」という巻頭の詩。
  一ページ目。

魚の家




砂場で
砂を
掘っていた 掘っていたら
砂は
海の匂いをさせて
海の底だった

 同じことばが何度も出てくる。「掘っていた 掘っていたら」という行など、「意味」としては「掘っていたら」だけでも通じる。これがもし「散文」の作品で、たとえば小学校の作文の宿題だったりして、四百字詰め原稿用紙一枚に収まらない、五字ほどオーバーするとわかったら、「掘っていた」を削るだろうなあ。
 そういう感じの、ことばの動き方。言い換えると、「合理的な作文」から見ると、無駄があるのだけれど、その無駄の繰り返しのなかに、妙に引きずり込まれる。
 「砂を掘っていた」、そしてそれが繰り返され「掘る」という動作が「肉体」になじんでしまうと、「掘る」ということを忘れる。「掘る」という「肉体」の動きのどこからか、(動いている「肉体」のどこからか)、違う「肉体」が目覚めてくる。「におい」を感じる「肉体」が動き始める。あ、「海の匂い」。そう感じると、「砂場」は「海の底」に変わってしまう。
 でもこれは繰り返し掘るという肉体の動きがあってはじめて動き始めたもの。そういう不思議な、しつこい、つながりがある。
 早い変化でも、遅い変化でもない。あえていえば「ていねい(しつこい)」な変化である。「ていねい」というのは、たぶん、ひとつの動作(肉体の動き)から次の動作までの「感覚」が「均一(しつこい)」ということなんだろうなあ。
 その「均一」の「ていねい」がつくりだす、不思議な「粘着力」に引き込まれてしまう。
 見開きの二ページ目(左側のページ)。

そこでは
父の
もう
とけてしまった骨の
すきまから
小さな魚が生まれている
うたうように
うめくように
それらは
ひとすじの道をつくっていく

 一ページ目の「海の底」ということばが、ここでは言いなおされている。「魚」が登場してくる。海の底だから「魚」が出てくるのは自然なのだが、それが「父の/もう/とけてしまった骨の/すきまから」というのは、不自然。不自然だけれど、それを不自然と感じる前に、あ、父が死んでしまっているのか。もう何年も前に死んでいるのか。その父を思い出しているのか。そうすると、「小さな魚」というのは父のことかなあ、というようなことを感じる。「うたうように/うめくように」というのは父の姿かもしれない。
 父は死ぬとき、「うたうように/うめくように」最後の声をもらしたのか。あるいは、父は日頃、ひとりで歌っていたのかもしれない。歌っているつもりでも、うめくように聞こえて歌とは言えないものだったかもしれない。どちらともとれるが、それは「思い出す」という「ひとすじの道」になる。すべては父につながる道になる。
 父をみつめる(みつめた)坂多の視線が「濃密」な感じでつたわってくる。

 さて、これから、どうなるのか。
 たぶん、同人誌で読んだとき(読んだかなあ、よく思い出せないが)、もっと他の行が見えていて、「何か微妙なことが書いてあるなあ」という感じはするけれど、ぱっと読みとばしていたと思う。「粘着力」にからみつかれるという感じはなかった。
 けれど、この詩集で読むと、読みとばせいない。次が見当がつかない。詩は、ここで終わっているかもしれない。終わっていても、いっこうにかまわない。砂場で遊んでいて、砂から海の匂いを感じ、それから父を思い出す。(きっと、魚と縁のある父だったのだ。漁師とか、魚屋とか、あるいは魚が大好きとか。)
 ここで詩が終わると「魚の家」というタイトルが中途半端だけれど、詩なのだから、それでもいいかなあ、とも思う。
 さて、どうなるか。
 ページを開くと、見開きでことばが並んでいる。左側のページは、終わりの方まで行が続いている。これで終わりかなあ、まだ続くのかなあ。わからないまま、読み続ける。

 三ページ目。(見開き、右側)

遊んでいた子どもたちが
帰ったあと
あちこちに
砂の家が散らばっていた
くずれかけた階段の下で
尾ひれのない
一匹の魚が空をみている

あたしは
二度も道に迷って
家に帰った

 見開きで、ことばが左のページに続いているが、そうわかっていても、ここで詩が終わってもいいかも、と前のページで思ったことをひきずりながら、私は詩を読む。
 「尾ひれのない/一匹の魚」は父かなあ。それとも父のことを思い出している坂多かなあ。どっちであるか、決めつけたりせずに、両方あり得るなあ、とぼんやりとつかみ取ればいいんだろうなあ。
 というのも。
 どっちとも決めない、父でもあるし、坂多でもある、死ぬ前の父(ぼんやり歌を歌っている思い出の父)でもあるし、子どもだった坂多でもある。そこに描かれているのは、現在の坂多でもあるし、昔の砂場遊びをする子どもだった坂多でもある。
 その、決めつけない、どちらでも、という感じが、

二度も道に迷って

 の「二度」と響きあっているなあ、とも感じる。
 こういうことは、「意味(解釈の決定)」ということからすると、まあ、「失格」になるのだろうけれど、詩を読むというのは「テスト」を受けるわけではないし、「正解」を出すということとも違うので、私は、どちらであるとは決めつけずに、そのままにしておく。そのうえで、そうか「二度か」と思い、妙に切なくなる。
 切なくなりながら、あ、この詩はまだ続いているのだった、と思い直し、さらに先を読んでいく。

 四ページ目。(見開きの左側)

台所では
母が
魚の頭を落としている
あたしは
子どものふりをして
「多々イマ」といった
卓袱台のある
へやに
父の写真が飾ってあり
頭のない魚が行儀よく並んでいた

 「父の写真」は遺影か。ここに描かれているのは、いまの「家」か。母は元気に台所仕事をしている。台所仕事を母に任せて、坂多は「子どものふり」をしてただいまといったのか。それとも、これは過去の記憶。坂多はすでに「子ども」とは言えない年齢なのだけれど、「子ども」のふりをしたのか。そのときのことを思い出しているのか。「卓袱台」ということばが、なんとなく、「過去」を想像させる。
 「魚の頭を落としている」、その「頭のない魚が」がさらに料理されて、卓袱台の上に「行儀よく並んでいる」。そう読むと、「時制」としては妙なのだけれど、母が魚の頭を落としているのを見たときと、卓袱台のある部屋に入っていったときの間に「時間」の経過があると考えれば問題はない。母が魚の頭を落としていた日と、卓袱台に魚が並んだ日を別の日と思ってもいいだろう。思い出の中では、すべての時間は自在にくっついたり、はなれたりする。砂場で遊んで帰った日は一日だけではないだろう。繰り返し繰り返し、同じように遊び、繰り返し繰り返し同じような日々がつづくのだ。母は魚の頭を落とし、魚を料理する。それが、卓袱台に並ぶ。父は、魚を食べ、少し酒も飲み、いい気持ちで歌を歌ったりする。「あれでも、歌? うめいているんじゃない?」というような軽口を坂多は母と交わしたかもしれない。そんなことはどこにも書いていないのだが、そんなことが書かれていたのを私は読み落として引用しているかもしれない。

 書いてあるか、書いていないか問題ではない、というと坂多の詩から逸脱しすぎるかもしれないが。

 この不思議な粘着力ある詩を読み、ここまで書いてきて私にわかったのは、坂多が書いていることばは「一回きり」だけれど、そこには書かれない「繰り返し」があるということ。

砂場で
砂を
掘っていた 掘っていたら

 は、

砂場で
砂を
掘っていた (繰り返し掘っていた) (繰り返し)掘っていたら

 砂が海の匂いをさせるようになった、ということ。海の匂いは、突然やってきたのではない。「繰り返し」のあとにやってきた。だから、その「海の匂い」はやはり繰り返し繰り返し、砂を掘れば匂ってくるのである。
 そして、繰り返し思い出すたびに、父は繰り返し死ぬ。繰り返し死ぬとは、変な言い方だが、逆に言いなおせば、繰り返し繰り返し生きている父を思い出すということだろう。父と生きた時間を思い出す。同じように、繰り返し繰り返し母のことも思い出す。いつも魚の頭を落としている。いつも卓袱台に魚の料理がならぶ。ほかのことも思い出すのだけれど、やっぱり繰り返し、それを思い出す。
 そうした「繰り返し」が、ことばをととのえている。丁寧にしている。

 私は、どんなことばでも読むし、それがどこに書かれているかとは関係なく、そのことばを動かしたときどういうことが起きるかを問題にして読むのだが。したがって、本の形と詩の間には関係などないと思っているのだが。
 今回は、ちょっと、その考えを改めた。
 坂多の詩は、詩集になることで、もう一度、生まれ変わった。新しくなった、と感じた。
 しかし、これは先に神尾の詩集を読んだせいかもしれない。あの、妙なタイトルと作品のつなぎ方を読んだあとなので、その影響を受けて、感じ方が変わったとも言える。読む順序が逆なら、また、それぞれ違った感想になるかとも思った。
 そういう「留保」をつけるけれど、
 うーん、
 いい詩集だ。丁寧なことばの、その「感触」が、とても気持ちがいい。
 高橋千尋の装幀もおもしろい。絵の、バックの部分が単なる塗りつぶしではなく、丁寧に丁寧に、細い線が繰り返し繰り返し重ねられている。そのタッチが、坂多のことばの「繰り返し」を経たあとでだけあらわれる「丁寧」にとても似合っている。

 あ、書き忘れた。
 「魚の家」は、四ページ目で終わり。つづきはどうなっているかなあ、思ってページをめくると「なまえ」という作品になっていた。でも、その一行目は、

夜の台所に魚がいた

 だから、タイトルを無視すれば、「魚の家」とつづいているかもしれない。タイトルが違うからといって、別な詩とはいえないかも。繰り返し読めば、まざりあい、区別がつかなくなるかもしれない。
 ことばは(詩は)、おもしろくて、どこかこわーいものなのだ。

コメント
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