詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河口夏実『雪ひとひら、ひとひらが妹のように思える日よ』

2016-09-22 11:06:33 | 詩集
河口夏実『雪ひとひら、ひとひらが妹のように思える日よ』(書肆子午線、2016年07月25日発行)

 河口夏実『雪ひとひら、ひとひらが妹のように思える日よ』はとても魅力的なタイトルである。このタイトルの詩はなくて、それは「咲きつぐ花」の後半に出てくる。
 その前半は、

今朝
早いうちに飛び立っていった小鳥が降らせた
雪が中空に舞い、滞る
その雪の魂が落ちながらひらいていくのを見ていた

 小鳥のからだから落ちた羽毛が雪にかわる(雪に見える)。しかも、それが舞うときに「ひらいていく」というのは、とても美しい。実際に雪の結晶/小鳥の羽毛が開く(大きくなる)ということはないのだけれど、目がだんだん細部まで見るようになる、その結果大きく見えてくる(開いたように見えてくる)。この変化を「ひらく」という動詞としてとらえたところが、この詩の強さだ。
 雪にしろ小鳥のからだから離れた羽毛にしろ、それは「意思/いのち」というものを持っていない。けれど「ひらく」という「動詞」と一緒に動くと、まるで「生きる力」をもっているように感じる。「いのち」を感じる。この「いのち/生きる力」を河口は「魂」と呼んでいる。
 このとき、その「魂」と河口の「魂」が対話している。それが美しいのだ。

雪ひとひら、ひとひらが
妹のように思える日よ
数枚の
さざんかの花びらがてのひらを零れ、雪に
雪に埋もれていく

 この最後の部分で雪は「妹の魂」になる。
 前半では「魂」は生きていたが、ここでは「妹の死」を連想させる。妹は死んでしまっていないが、「魂」は生きている、という感じ。「早いうちに飛び立っていった小鳥」とは、早くして(自分よりも先に)死んでしまった妹をあらわしているように思える。雪を見ながら、妹の「魂」を思い出すといえばいいのか。
 最後の「手のひらを零れ」というのは、花びらを地上に零し、その上に雪が積もるということかもしれないが、私は違うふうに読んだ。咲いている山茶花の花(たぶん妹が好きだった花)の上に、手のひらに触れながら舞った雪が積もっていく、「零れる」のは「雪/魂」と思って読んだ。
 山茶花の花に代わって、雪の花(魂の花)が咲く、雪が花を埋めるのではなく、新しい花になって「開いていく」と読んだ。

 河口の作品は、この作品は異例のものに属している。多くの作品は、一行一行がとても短い。私には、その一行の「短さ」が何をあらわしているのかよくわからないのだが、わからないまま、「晴れていく日」の書き出しは、おもしろいと思った。

やっと
ふたりきりに
なれるのは
この駅を
汽車が
通り過ぎていく
感じだ

 「短さ」がそのまま「孤立」をあらわしているように感じるからだ。「なれる」という「短い」ことばが、「通り過ぎていく」という三つの動詞(通る/過ぎる/行く)と向き合うとき、なんともいえず「孤立感」が深まる。
 「汽車」というのは、ちょっと「いまのことば」とは違うのだけれど、この場合、その古くささがいいかもしれない。「哀愁」とか「郷愁」というときの「愁」の雰囲気を呼吸しているかもしれない。
 引用しなかったが、「雪ひとひら、……」とこの「晴れていく日」には、改行の変化を無視すれば、「道の途中に立ち尽くしていた」ということばがある。
 「僕」のまわりに「降る(舞い落ちる)」「通り過ぎていく」という「動き」があり、その中で「僕」は「立ち尽くしていた」。「立つ」だけではなく「尽くす」。その「尽くす」のなかにある「過ぎていくもの/時間」を河口は「抒情」として描こうとしているのだろう。
雪ひとひら、ひとひらが妹のように思える日よ
河口夏実
書肆子午線
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水の周辺4

2016-09-22 09:21:39 | 
水の周辺4



そこまで来て
とまる。
あと少しなのに
届かない。



先端の
まるみ。
そのなかを
過ぎていく。



目を開いて
見ている。
ものが
思えなくなる。び散る光になる


*

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1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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