城戸朱理「神の示現から始まって」(広瀬大志『広瀬大志詩集』(現代詩文庫230 )思潮社、2016年09月15日発行)
きょう書くのは、「いちゃもん」である。城戸朱理「神の示現から始まって」は『広瀬大志詩集』(現代詩文庫230 )の「作品論・詩人論」に収録されている。
この「論」を読みながら、最初に考えたのは、城戸にとって「神」とはどのようなものか、である。存在していると考えているのか、存在していないと考えているのか。さらに木戸が「神」を信仰しているとしたら、どのような「神」を信仰しているか、ということである。
私は「神」が存在しているとも、存在していないとも、考えたことはない。存在していると言おうが、存在していないと言おうが、それは「ことばの論理」の上でのことであるから、どちらも同じ。だから、「論理」にはつきあってみることはあるが、「結論」にはまったく関心がない。
言い換えると、私は「神」について語る人間に対しては、その「論理経過」と「結論」が「整合性」を持っているかどうかだけを見ることにしている。「神」そのものについて、だれが、どの「神」を信じようが(どのように論理づけをしようが)、その人個人の問題であって、私には関係がない。
個人的な体験を書いておけば、私の母は、何か問題が起きると、すぐ仏壇の前で「なんまいだぶつ」を繰り返した。そんなことをしたって、たとえば父の胃ガンが治るわけではない。しかし、そういうことを母に言ってもしようがない。母は、浄土真宗の念仏をとなえれば「天国」いけるということよりも、念仏をとなえれば自分の不安が消えると信じている。その信じ方は間違っている、と言ったって、母に通じない。信じていることは、信じているにまかせるしかない。私は無言で、父が胃ガンの手術をすること、その結果は念仏は関係がないと思っているだけである。もう父も母も死んでしまった昔のことだが。
さて。
城戸は「神」が存在していると考えているのか、どの「神」を信じているのか。これが、私には、さっぱりわからなかった。
城戸は2001年9月11日のテロに触れながら、
と書いている。これは、一般的に言われていることである。何度か、聞いたことがある。そのあと、城戸はつづけて、こう書いている。
「二度にわたる……」の「主語」は「人類」。「人類は……と考えた」ということだが、「人類」って、だれ? さらに「教というものの再考を促しているのではないだろうか。」と感じる木戸は、宗教について、どう再考したのだろうか。
城戸は、再考したことは、次の文章で書いてある、というだろう。(まあ、論理的な展開は、そうなっている。)
で、問題の、「再考」を次のようにはじめる。
私は、ここで、突然笑い出してしまった。
「アマゾン川の支流、マイシ川沿いの村に数百人が暮らすピダハン族」と、城戸は対話したことがあるのだろうか。その人たちと触れ合って「宗教」について彼らが何を感じているか、どう振る舞っているかを、実際に「体感」したことがあるのだろうか。
アマゾンには「数百人」単位の民族がどれくらいいて、その民族のすべての「宗教」を確認した上で、そう言っているのだろうか。
とても、そうは思えない。
もし城戸が自分自身で確認した「事実」なら、広瀬の詩についての「論」を書くよりも、その「事実」を書くことに時間を割くべきだろうし、時間を費やしているだろうとも思う。彼らの、どんな態度から「宗教を持たない」と判断したのか、宗教を持たないことによって、彼らの暮らしは他の「人類」とどう違うのか。そのことの方が、私には、はるかにおもしろいことだと思える。広瀬には申し訳ないが、城戸に広瀬の論を書いている暇があるのなら、ぜひ、ピダバン族について文章を書いてもらいたいと思う。
たぶん、城戸はピダバン族の調査などしていない。どこかで読んだ「情報」を受け売りしている。しかも、「情報源」を明確にせずに。(「二度にわたる…人類は…考えている」も受け売りだろう。)
これは、「神」とか「宗教」とかを語る場合、あまりにも無責任である。城戸は「人類」「民族」ということばを平気でつかっているが、宗教はあくまで「個人」のものである。宗教について書くなら、自分自身の「神」/宗教」に対する態度を明確にし、その上で書かなければならない。自分の問題をほったらかしにしておいて、他人の「神/宗教」について語るのは、傲慢というものだろう。
城戸は続けている。
こう書くとき、城戸は、どこにいるのか。「先進国」の「知識人」の「ひと握りの人間」なのか、それ以外なのか。城戸は、ここで「宗教を斥ける」ということば(動詞)をつかっているが、「斥ける」と「信じない」「近づかない」は別の動詞である。なぜ、「斥ける」をつかっているか、城戸が「斥ける」人間だからであろうか。
もし、宗教を「斥ける」人間が宗教について語るならば、それはどうしたって宗教攻撃になるだろう。
宗教を信じる人間なら、信じている宗教にそったことばが語られるだろう。語ってしまうだろう。
城戸はどっち?
どっちであるか、城戸は語らないまま、「その発生において、宗教があるから宗教心が生まれるのではなく、宗教心があるから宗教が生まれるということではないだろうか。」と書き、問題を「では、宗教心とは何なのだろう。」と論を進める。
「宗教」から「心」にことばの重心を移す。論理をずらす。だから、以後、キリスト教もイスラム教も出てこない。
そして
と、つづける。
「上古の昔」と書かれているが、いまは? 城戸は? 「火山の噴火、地震、洪水」を体験して(情報として受け止めて)、「畏怖とともに、そこに超越的な力を感じた」? そして、そこから「神」という「言葉の概念」が生まれた?
他人のことではなく、自分のことを語ってくれないので、疑問ばかりが募る。
このあと、城戸は折口信夫を引用しながら、日本の神について語り続けるが、最初に書いていたキリスト教、イスラム教、それからピダハン族の無宗教は? 「タタリ」「ノル」が「祟り」「宣る」へ、さらに「呪う」へ変化していくという折口の説は折口の説としてわかるが(論理的に完結していると思うが)、それはキリスト教、イスラム教では、どういうことばで「具体化」されている? そしてピダハン族は、それをどんなことばにする? それを語ることばがないとしたら、たとえ火山の噴火、地震、洪水、旱魃、落雷、ば疾病や死に直面したとき、どう語る? だれに、何を訴える? アマゾンのどこかには、そういうことはいっさい起きない?
このあと(全体の八分の三を過ぎたあたり)、城戸は、それまで書いてきたことと広瀬を結びつける。
うーん。
「神/宗教」の問題が「恐怖」にすりかえられていないか。
私は広瀬の詩が「ホラー」だと感じない(これは、昨日書いた)。そして、そこに「恐怖」も感じないから、城戸の書いていることが理解できないのかもしれないけれど。
変だなあ。
「恐怖」ということばを導き出すために「神/宗教」を語ってきたのかな。「自然への畏怖(恐怖)」の一方、たとえば現代では「宗教」そのものへの「恐怖」というものもある。トランプのイスラム教徒への憎悪は、イスラム教は「怖い」という感覚の裏返しだろう。こういう「恐怖」は、どうなるのかなあ。
広瀬の詩は、「恐怖」を描いているということを前提とするなら、その前提と、「神/宗教」は、どうつながる? つまり、広瀬の詩は、現代のなかで、どんな形で「神/宗教」としてあらわれてくる?
城戸の論のつづきを読んでも、そのことは書かれていない。
このあたりが「結論」めいているが。
あ、なんだ、城戸は折口信夫を読んでいるということを、広瀬の詩をつかって「宣伝」しているだけなのか、と思ってしまう。
要約すると、城戸は
という論理を展開したことになるのだが、最初の神と後半の神は別物。最初の神はキリスト教/イスラム教の神であり、後半は日本古代の神(折口信夫の把握している神)。だから「神」ということばだけを取り上げるなら、城戸の論理は「循環(立ち還りながら)」することで「昇華」している「根拠」になるのだが、「神」の指し示すことがらが違っているのだから、これは、ごまかしであり、破綻である。この破綻をごまかすために、アマゾンの少数民族が古代日本と結びつけられようとしているのだが、これって、なんだか差別的。そして、「神」の指し示すものが大きく違ってしまったのに、その「神」から「タタリ/ノリ」ということばを引き出して、広瀬の詩に結びつけるのでは、これは単に、城戸が「私は折口信夫を読んでいる」という宣伝になってしまう。広瀬の詩は、その宣伝のダシにつかわれたことになる。
すべては、城戸が自分自身と「神」の問題を棚に上げ、どこかで読んだにすぎない「神」の情報をもとに論を展開することが原因になっている。「神」ということばをつかうなら、自分自身の「信仰」を明確に示す必要がある。
きょう書くのは、「いちゃもん」である。城戸朱理「神の示現から始まって」は『広瀬大志詩集』(現代詩文庫230 )の「作品論・詩人論」に収録されている。
この「論」を読みながら、最初に考えたのは、城戸にとって「神」とはどのようなものか、である。存在していると考えているのか、存在していないと考えているのか。さらに木戸が「神」を信仰しているとしたら、どのような「神」を信仰しているか、ということである。
私は「神」が存在しているとも、存在していないとも、考えたことはない。存在していると言おうが、存在していないと言おうが、それは「ことばの論理」の上でのことであるから、どちらも同じ。だから、「論理」にはつきあってみることはあるが、「結論」にはまったく関心がない。
言い換えると、私は「神」について語る人間に対しては、その「論理経過」と「結論」が「整合性」を持っているかどうかだけを見ることにしている。「神」そのものについて、だれが、どの「神」を信じようが(どのように論理づけをしようが)、その人個人の問題であって、私には関係がない。
個人的な体験を書いておけば、私の母は、何か問題が起きると、すぐ仏壇の前で「なんまいだぶつ」を繰り返した。そんなことをしたって、たとえば父の胃ガンが治るわけではない。しかし、そういうことを母に言ってもしようがない。母は、浄土真宗の念仏をとなえれば「天国」いけるということよりも、念仏をとなえれば自分の不安が消えると信じている。その信じ方は間違っている、と言ったって、母に通じない。信じていることは、信じているにまかせるしかない。私は無言で、父が胃ガンの手術をすること、その結果は念仏は関係がないと思っているだけである。もう父も母も死んでしまった昔のことだが。
さて。
城戸は「神」が存在していると考えているのか、どの「神」を信じているのか。これが、私には、さっぱりわからなかった。
城戸は2001年9月11日のテロに触れながら、
二十一世紀になってからの紛争は、キリスト教圏とイスラム教圏の文明の衝突という側面を有していることは否定できない。
と書いている。これは、一般的に言われていることである。何度か、聞いたことがある。そのあと、城戸はつづけて、こう書いている。
二十世紀。二度にわたる世界大戦を経験した人類は、テクノロジーの進歩によって、世界が抱える諸問題が解消されるのではないかと考えた。しかし、それは幻想でしかなかった。本来ならば、同じ神を戴くはずのキリスト教国とイスラム教国の衝突は、宗教というものの再考を促しているのではないだろうか。
「二度にわたる……」の「主語」は「人類」。「人類は……と考えた」ということだが、「人類」って、だれ? さらに「教というものの再考を促しているのではないだろうか。」と感じる木戸は、宗教について、どう再考したのだろうか。
城戸は、再考したことは、次の文章で書いてある、というだろう。(まあ、論理的な展開は、そうなっている。)
で、問題の、「再考」を次のようにはじめる。
およそ、世界の民族のうち、宗教を持たない民族は存在しない。ただひとつの例外は、アマゾン川の支流、マイシ川沿いの村に数百人が暮らすピダハン族だけだろう。
私は、ここで、突然笑い出してしまった。
「アマゾン川の支流、マイシ川沿いの村に数百人が暮らすピダハン族」と、城戸は対話したことがあるのだろうか。その人たちと触れ合って「宗教」について彼らが何を感じているか、どう振る舞っているかを、実際に「体感」したことがあるのだろうか。
アマゾンには「数百人」単位の民族がどれくらいいて、その民族のすべての「宗教」を確認した上で、そう言っているのだろうか。
とても、そうは思えない。
もし城戸が自分自身で確認した「事実」なら、広瀬の詩についての「論」を書くよりも、その「事実」を書くことに時間を割くべきだろうし、時間を費やしているだろうとも思う。彼らの、どんな態度から「宗教を持たない」と判断したのか、宗教を持たないことによって、彼らの暮らしは他の「人類」とどう違うのか。そのことの方が、私には、はるかにおもしろいことだと思える。広瀬には申し訳ないが、城戸に広瀬の論を書いている暇があるのなら、ぜひ、ピダバン族について文章を書いてもらいたいと思う。
たぶん、城戸はピダバン族の調査などしていない。どこかで読んだ「情報」を受け売りしている。しかも、「情報源」を明確にせずに。(「二度にわたる…人類は…考えている」も受け売りだろう。)
これは、「神」とか「宗教」とかを語る場合、あまりにも無責任である。城戸は「人類」「民族」ということばを平気でつかっているが、宗教はあくまで「個人」のものである。宗教について書くなら、自分自身の「神」/宗教」に対する態度を明確にし、その上で書かなければならない。自分の問題をほったらかしにしておいて、他人の「神/宗教」について語るのは、傲慢というものだろう。
城戸は続けている。
先進国においても、宗教を斥けることができるのは、知識人を始めとするごくひと握りの人間であることを思えば、人間は、魂の中心に宗教心を持っているかのようでもある。
こう書くとき、城戸は、どこにいるのか。「先進国」の「知識人」の「ひと握りの人間」なのか、それ以外なのか。城戸は、ここで「宗教を斥ける」ということば(動詞)をつかっているが、「斥ける」と「信じない」「近づかない」は別の動詞である。なぜ、「斥ける」をつかっているか、城戸が「斥ける」人間だからであろうか。
もし、宗教を「斥ける」人間が宗教について語るならば、それはどうしたって宗教攻撃になるだろう。
宗教を信じる人間なら、信じている宗教にそったことばが語られるだろう。語ってしまうだろう。
城戸はどっち?
どっちであるか、城戸は語らないまま、「その発生において、宗教があるから宗教心が生まれるのではなく、宗教心があるから宗教が生まれるということではないだろうか。」と書き、問題を「では、宗教心とは何なのだろう。」と論を進める。
「宗教」から「心」にことばの重心を移す。論理をずらす。だから、以後、キリスト教もイスラム教も出てこない。
そして
上古の昔、(略)人間の力ではいかんともしがたい出来事--火山の噴火、地震、洪水、旱魃、落雷、疾病や死に直面したことだろう。こうした抗いがたい出来事を前にしたとき、人々は、畏怖とともに、そこに超越的な力を感じたに違いない。その心的状態が、神という言葉と概念が生じる基層となる。
と、つづける。
「上古の昔」と書かれているが、いまは? 城戸は? 「火山の噴火、地震、洪水」を体験して(情報として受け止めて)、「畏怖とともに、そこに超越的な力を感じた」? そして、そこから「神」という「言葉の概念」が生まれた?
他人のことではなく、自分のことを語ってくれないので、疑問ばかりが募る。
このあと、城戸は折口信夫を引用しながら、日本の神について語り続けるが、最初に書いていたキリスト教、イスラム教、それからピダハン族の無宗教は? 「タタリ」「ノル」が「祟り」「宣る」へ、さらに「呪う」へ変化していくという折口の説は折口の説としてわかるが(論理的に完結していると思うが)、それはキリスト教、イスラム教では、どういうことばで「具体化」されている? そしてピダハン族は、それをどんなことばにする? それを語ることばがないとしたら、たとえ火山の噴火、地震、洪水、旱魃、落雷、ば疾病や死に直面したとき、どう語る? だれに、何を訴える? アマゾンのどこかには、そういうことはいっさい起きない?
このあと(全体の八分の三を過ぎたあたり)、城戸は、それまで書いてきたことと広瀬を結びつける。
自然への畏怖、それこそが宗教心というものを生じさせたものではないだろうか。原初のときから脈々と伝えられてきた恐怖の感覚。広瀬大志の詩とは、その恐怖を現代的な方法で示現させることによって、逆に今日の生の輪郭を明らかにするものだと言えるだろう。
うーん。
「神/宗教」の問題が「恐怖」にすりかえられていないか。
私は広瀬の詩が「ホラー」だと感じない(これは、昨日書いた)。そして、そこに「恐怖」も感じないから、城戸の書いていることが理解できないのかもしれないけれど。
変だなあ。
「恐怖」ということばを導き出すために「神/宗教」を語ってきたのかな。「自然への畏怖(恐怖)」の一方、たとえば現代では「宗教」そのものへの「恐怖」というものもある。トランプのイスラム教徒への憎悪は、イスラム教は「怖い」という感覚の裏返しだろう。こういう「恐怖」は、どうなるのかなあ。
広瀬の詩は、「恐怖」を描いているということを前提とするなら、その前提と、「神/宗教」は、どうつながる? つまり、広瀬の詩は、現代のなかで、どんな形で「神/宗教」としてあらわれてくる?
城戸の論のつづきを読んでも、そのことは書かれていない。
『草虫観』とは、わたしたちが生きる世界の相対を見つめ、時間の終わり=世界の終焉と、その新生を語っているのだと考えることができるだろう。そのとき、祟りは神の示現である「タタリ」に、呪いは神の言葉である「ノル」に再び立ち還る。それこそが、詩なのだと広瀬大志は語っているのではないだろうか。
このあたりが「結論」めいているが。
あ、なんだ、城戸は折口信夫を読んでいるということを、広瀬の詩をつかって「宣伝」しているだけなのか、と思ってしまう。
要約すると、城戸は
神(宗教)→宗教心→心→畏怖(恐怖)→神(タタリ/ノリ)→詩
という論理を展開したことになるのだが、最初の神と後半の神は別物。最初の神はキリスト教/イスラム教の神であり、後半は日本古代の神(折口信夫の把握している神)。だから「神」ということばだけを取り上げるなら、城戸の論理は「循環(立ち還りながら)」することで「昇華」している「根拠」になるのだが、「神」の指し示すことがらが違っているのだから、これは、ごまかしであり、破綻である。この破綻をごまかすために、アマゾンの少数民族が古代日本と結びつけられようとしているのだが、これって、なんだか差別的。そして、「神」の指し示すものが大きく違ってしまったのに、その「神」から「タタリ/ノリ」ということばを引き出して、広瀬の詩に結びつけるのでは、これは単に、城戸が「私は折口信夫を読んでいる」という宣伝になってしまう。広瀬の詩は、その宣伝のダシにつかわれたことになる。
すべては、城戸が自分自身と「神」の問題を棚に上げ、どこかで読んだにすぎない「神」の情報をもとに論を展開することが原因になっている。「神」ということばをつかうなら、自分自身の「信仰」を明確に示す必要がある。
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