広瀬大志『広瀬大志詩集』(現代詩文庫230 )(思潮社、2016年09月15日発行)
広瀬大志の詩は「名詞」がちらばっていて、「動詞」がつかみにくい。たくさんのことばを持った詩人であることはわかるが、何が書いてあるか、わからない。ことばをたくさん持っていることがわかれば、それでいいのかもしれないけれど。
『喉笛城』の「喉笛城 1(背景の一枚)」はこういう詩である。
一枚の鏡が割れただけ
の丘や谷に
花咲く喉を摘んだこと
それでは純愛の顔のため
詩的水準をテーブルに積み上げて
死の欠けた雲を見よう
記憶の腹を抱き締め
いつの日も永遠は呪的に横たわる
麦の穂が震えるような
叫び声のもとに
動詞(連体形も含む)を拾い上げてみる。「割れる」「咲く」「摘む」「積み上げる」「欠ける」「見る」「抱き締める」「横たわる」「震える」「叫ぶ」。この「動詞」を動くとき、肉体はどうなるのか。この動詞をどうやって「肉体」で「ひとつ(連続したもの)」にできるか。それが、わからない。動きが忙しすぎて、何をやっているか、つかみきれない。
「割れる」から「咲く」への動きは、わからないでもない。つぼみが「割れる」ことを「咲く」という。そのとき「つぼみ」という書かれていないことばの代わりに「鏡」があるのだが、「鏡」は「つぼみ」のように閉ざしている何かなのか。それとも、「花」を先取りしている輝きが、「割れる」という動詞の形で「咲く」という動詞を先取りしているのか。
「喉」を「摘む」は、「喉」を「絞める(締める)」につながり、そのとき「喉」は「腹」の「比喩」としてふたたび登場し、「抱き/締める」となりながら、「叫ぶ」という動詞とつながる。「叫ぶ」のなかには「震える」も含まれる。
セックスが「純愛」を経由しながら描かれていると読めば、途中に出てくる「死」はエクスタシーであり、その「死」が「欠けている」とは、「純愛(あるいはセックス)」が不毛であることを暗示するかもしれない。その「不毛」が「永遠」となって「呪的」に「横たわる」ことで、純愛とセックスの拮抗が、そこに噴出していると読むべきなのか。
しかし、これでは忙しすぎる。「長編小説」なら、こういう「比喩」の変化、「動詞」そのものが「比喩」となって動いていくというのも、「じわじわ」という感じがしておもしろいかもしれないが、どうにも気ぜわしくなる。
私はたぶん(いや、きっと)読み違えているのだろう。
ここに書かれていることばは「日本語」だが、「広瀬語」とでもいうべきもので、違った形で「肉体化」しないことには、対話はむずかしい。
ほとんど「お手上げ」というかたちで読み進むのだが……。『髑髏譜』の「肉体の悪魔」で、はっ、と気づかされことがあった。
おまえは悪い部分を持っている
宿りきれない抑揚の
苦しみ側の斜面に喉がある
かたちというかたちを
「心が引き起こしていく」
忘れられない方の
断崖の身寄りに
精神の結束がある
「遠のくと近づくから」
私は部分だ
雑木林の肉の切れ目で
昼が夜のように切られている
やはり「動詞」を抜き出してみる。
「持つ/持っている」「宿る/宿りきれない/きる」「苦しむ/苦しみ」「ある」「引き起こす/引き起こしていく」「忘れる/忘れられない」「身寄り/寄る」「ある」「遠のく」「近づく」「切れ目/切る」「切られている」
それまで読んできた詩にも書かれていたか、どうか。読み返して確かめることはしない。いま、ここで気がついたのだから、その気がついたことをそのまま書くと、ここには、私が読み落としてきた「動詞」がある。
それは「ある」という「動詞」。
「喉がある」「結末がある」という形で二回つかわれている。「私は部分だ」の「だ」は「である」が短縮された形であるから、合計三回つかわれていると言える。
その「ある」を読んだ瞬間、あ、そうか、広瀬は、世界を「ある」という形式、いいかえると「存在論」としてつかんでいるのかと気がついたのである。私とは「動詞」のつかみかた、「肉体」のつかみ方がまったく違うのである。これでは、広瀬の詩は、私にはわからないはずである。
私は「ある」という存在の形を信じていない。そこに「ある」のは、そこに「生まれてくる/何かがそれを生み出す」という形で理解しているが、広瀬は、ぱっと「ある」を「名詞」としてつかみ取っているのだ。
言い換えてみる。説明し直してみる。
おまえは悪い部分を持っている
この「持っている」は「持つ」と「いる」が組み合わさった「動詞」だが、それは「持った/状態として/ある」ということ。そこには「ある」が隠れている。これを、もしも「ある」という動詞をつかって言いなおすと、
おまえには悪い部分がある
になる。
似た行、
昼が夜のように切られている
これは、
夜のように切られた昼がある
ということである。
同じように、
かたちというかたちを
「心が引き起こしていく」
は
心が引き起こした
かたちがある
ということ。
広瀬は「名詞/存在」を「見ている」。自己を「世界」から半分切り離している。自分がその世界にいるときさえ、それを見つめる「私」が「世界」の外にいる。
それを端的に語るのが
私は部分だ
である。「全体」であることはない。「私」が「世界」そのものとして動いていくことはない。
こんなふうに考えるいいかもしれない。
水に浮かんだ舟。それに乗って進む。そうすると舟の動きに従って、岸が動く。山が動く。そのときの感じを「私はふねに乗ってここにいる(私はここにある)/あの岸があそこにある/あの山があそこにある」という感じでとらえるのが広瀬なのである。存在(名詞)を切り離して、個別に存在していると見ている。そういう風に見ている「自分自身」をもどこかで見ている。
だれでもそうではないか、と言われそうだが、実は、私はそんなふうには考えていない。「舟の上の私、そこから見える山も私、岸も私であり、山や岸は私がいなければ存在しない、つまり私が生み出した私の何かなのだ」と感じるのである。
そして、他人の詩を読むときは、そういう私の感覚に通じる「動詞」のつかい方をしている詩人の「肉体」に共感して読んでいる。
広瀬の動詞のつかい方(世界のとらえ方)は、私とはまったく違っていて、そのため目がちらちらと動き回り、なんだか気ぜわしい気持ちになったのだ。
ちょっと面倒くさいことを書きたすぎた。
詩にもどってみる。「ある/いる」が広瀬の詩のキーワードだとわかったので、それを補って、最初の詩を読み直してみる。
一枚の割れた鏡がある
その鏡がある丘や谷がある
そこには花が咲いている(咲いた花がある)、そしてその花には喉がある
(その花=あなたを摘む私がいる/あなたがいて、私がいる)
純愛にふさわしいあなたの顔がある、その顔のために書いたことば
テーブルに積み上げた詩的水準がある
(純愛のために私は詩を書いた。純愛を詩に高めた。詩集がある。それをテーブルの上に積み上げてある)
死の欠けた雲がある(エクスタシーに達しなかった愛がある)
抱き締め(記憶の)腹がある(セックスの記憶がある)
いつの日も呪的に横たわる永遠がある
震えるような麦の穂がある
叫び声といっしょに(同時に)、その麦の穂がある
「誤読」かもしれないが、「ある」を補って読むと、ぐんとわかりやすくなった。(私には、であるけれど。)まあ、「誤読」というのは自分の都合のいいように読むことだけれど……。
このとき「麦の穂」は「あなた」の比喩であり、あなたの肉体である。
「肉体」とは書いてみたものの、どうも、私にはピンと来ない。麦の穂に女を感じたことがないからかもしれない。まだ、最初の方の「鏡」や「花」の方が女っぽいかなあ。でも、これは単なる「文学の伝統」でそう感じるだけかも。
「喉」を締める、という「動詞」がセックスを語っているのだが、セックスのとき相手の首を締めるということをしたことがないので、実感としてつたわってこないのかもしれない。
つまり、まるで「映像」を見ているだけと感じてしまうのかもしれない。映像がそこに「ある」という感じ。
詩集の帯には「詩のモダンホラー」と書いてあるのだけれど、うーん、首を絞めるというようなことが書いてあるから? でも、私は、ぜんぜん怖くない。ホラーをまったく感じることができない。どうせ見ているだけ、という感じがしてしまう。
「写真」の感覚といえばいいかなあ。
「ある」ではなく、それが「動く」と怖くなるのだと思うけれど。