詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む/番外16(情報の読み方)

2016-09-07 17:09:49 | 自民党憲法改正草案を読む
 2016年09月07日毎日新聞朝刊「天皇の『生前退位』のおことばから一か月」の特集をやっているという。コンビニエンスストアに買いに行ったが、行った二軒とも毎日新聞が売り切れていた。ネットで読んだ。(http://mainichi.jp/articles/20160907/ddm/001/040/197000c)
 それによると、

 「生前退位ができるか検討したが、やはり難しい」。今年春ごろ、首相官邸の極秘チームで検討していた杉田和博内閣官房副長官は宮内庁にこう返答した。
 天皇陛下は昨年12月18日、82歳の誕生日にあわせた記者会見で「行事の時に間違えることもありました」と述べた。昨夏の戦没者追悼式で手順を誤ったことなどを指す発言とみられている。宮内庁は官邸に「8月15日に段取りを間違えて陛下は退位の思いを強くされた。おことばを言いたいという強い思いがある」と伝えた。「陛下は摂政には否定的だ」という条件もついていた。
 官邸は水面下で検討を始め、杉田氏のもとにチームが結成された。総務、厚生労働両省、警察庁などから数人程度が出向し、内閣官房皇室典範改正準備室の別動隊という位置付けだったが、準備室のメンバーさえ存在を知らない「闇チーム」(政府関係者)だった。

 毎日新聞も、宮内庁と官邸で「水面下」で検討、交渉が続いていたことを明らかにしている。中心メンバーも「杉田和博内閣官房副長官」と明確にしている。
 興味深いのは「準備室のメンバーさえ存在を知らない「闇チーム」」という表現である。では、誰と誰が、その「闇チーム」の存在、その構成メンバーを知っていたのか。「闇チーム」と呼んだ「政府関係者」は知っていたのだろうが、それは誰なのか。こういうことが一番重要だと思うが、「ニュースソース」の関係があるのか、マスコミはなかなか「真実」を語らない。
 だから、私は、こういう部分は、かなり疑問を抱きながら読む。何を隠している? 何のために? 天皇への敬意?
 まさか。
 というのも、

 チームの結論は、「摂政に否定的」という陛下の意向を踏まえたうえでなお、「退位ではなく摂政で対応すべきだ」だった。結論は宮内庁に伝えられ、官邸は問題はいったん落ち着いたと考えた。陛下の意向が公になった7月13日の報道も寝耳に水だった。

 「闇チーム」、さらには官邸は「陛下の意向」をそのまま、憲法や皇室典範にふれないように実現するためにはどうすればいいか、ということなど考えていない。天皇の思いとは違った形で「摂政」を考えている。
 なぜ、摂政に「闇チーム」(闇チームを支持している人間)はこだわるのか。
 このあたりが、考えなければならないところだ。

 陛下がおことばを表明する数日前、宮内庁から届いた原稿案を見た官邸関係者は、摂政に否定的な表現が入っていることに驚いた。官邸内には「摂政を落としどころにできないか」との声が依然強かった。安倍晋三首相と打ち合わせた官邸関係者は、「陛下のお気持ちと文言が強すぎる。誰も止められない」と周辺に漏らした。官邸と宮内庁で原稿案のやりとりを数回したが、摂政に否定的な表現は最後まで残った。

 「安倍晋三首相と打ち合わせた官邸関係者は、「陛下のお気持ちと文言が強すぎる。誰も止められない」と周辺に漏らした。」という部分に、私は思わず傍線を引いた。やっと安倍が出てきたのだが、「摂政」を提言したのは安倍だから、最終的に安倍と打ち合わせたということだろう。
 なぜ、安倍は「摂政」にこだわるか。
 私たちは、「いま起きていること(事件)」を理解するのに、「過去」を参照する。「動機」を「過去」に探る。「原因」があって「結果」がある。これは、とてもわかりやすいからである。
 しかし、「動機」が過去にあるとはかぎらない。あることがしたい。その実現されていないこと(未来)が「動機」になることもある。毎日一生懸命ランニングをしている。それはオリンピックでマラソンに出たいからである、という具合。
 そんなふうに考えてみると、わかることがある。
 自民党憲法改正草案の「第一章天皇 第一条」は、こうなっている。

天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

 現行憲法にはない「元首であり」という文言が追加されている。
 しかし、「元首であり」、同時に「日本国及び日本国民統合の象徴」とはどういうことか。単に「象徴」であれば、改正草案第五条の

天皇は、この憲法の定める国事に関する行為を行い、国政に関する権能を有しない。

 ということになるが、「元首」は違うかもしれない。「法律(憲法)」の「定義」は、知らないが「元首」といえば、私は「権力者」を想像する。あらゆる国事、政治に関与できる人間を想像する。
 もし天皇が「元首」ならば、内閣は何ができるだろうか。「元首」の下に内閣があり、内閣は「元首」に従わなければならない、と私などは考えてしまう。内閣ができることはかぎられてしまう。
 これでは、安倍は、気に食わないだろうなあ。
 でも「摂政」の場合は、どうか。
 現行憲法は、こう書いている。

第四条
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
2 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。
第五条
皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。

 これに対して、改正草案は、こうである。

第五条
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為を行い、国政に関する権能を有しない。
第七条
皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名で、その国事に関する行為を行う。
2 第五条及び前条第四項の規定は、摂政について準用する。

 そして、「前条第四項の規定」というのは、こうである。

4 天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う。ただし、衆議院の解散については、内閣総理大臣の進言による。

 これを組み合わせると、「摂政は天皇の名で、その国事に関する行為を行う」のだが、その「国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う」ものである。つまり、「内閣の進言」によって「摂政」は動くのである。「内閣がその責任を負う」とは言い得て妙だが、「操り人形」である。
 安倍は、そういう「摂政」を狙っていて、「摂政」にこだわるのだろう。
 念のため、現行憲法では天皇の国事行為と内閣の関係をどう定めているか、見ておこう。

第三条
天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

 「内閣の助言と承認」と書いている。「進言」ではない。「助言」はあくまで「助ける」ことば。「進言」は「進める」ことば。「進める」は「勧める/奨める」でもある。
 自民党改正草案では、ことばの「支配力」が強い。だから、私は改正草案での「摂政」は「操り人形」だと言うのである。

 いまの天皇は、現行憲法に非常に忠実である。そのために現在では「保守」ではなく「ラディカル」に見える。
 このラディカルな天皇が、安倍には邪魔なのである。
 「摂政」を導入することによって(しかも、自民党憲法改正草案に定義されている「摂政」の導入によって)、「現実」そのものを変えようとしている。
 安倍の「行動原理」は「自民党憲法改正草案」にある。安倍は、改正草案を「事実」として定着させようとしている。「現実」にあわなくなった現行憲法ではなく、「現実にあった改正草案」という形に持っていこうとしている。

 まあ、こういうことは、私の「妄想」かもしれない。
 私には宮内庁と官邸の「水面下」のことなど、知りようがない。
 だが、天皇自身が語ったことばが、その「水面下」のことを明らかにしている。
 何度も書くが、

 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

 ここに、天皇と安倍との「攻防」が明確に書かれている。突然出てくる「思われます」「考えられます」という奇妙な表現が、「思う」「考える」の主語が天皇ではないことを明確にしている。
 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと「私は思います」ではない。
 こんな例を考えるといい。
 高熱が出た。会社に電話して、欠勤を告げなければならない。こういうとき、本人なら「高熱が出て、下がりません。仕事をするのは無理だと思います。休ませてください」という言い方になるか。「思われます」とは言わない。
 もし、熱が出て苦しんでいるのが本人ではなく家族の場合は、どうなるか。「高熱が出て、下がりません。仕事をするのは無理だと思われます。○○を休ませてください」と伝言になる。そして、そのとき「思われます」がつかわれる。「仕事をする」主体が自分ではない、家族(他人)だから、想像して「思われます」になるのだ。思っているのは、本人ではなく、他人である。
 「考えられます」も同じである。
 天皇も、そう「思い、考える」かもしれない。しかし、ほんとうに天皇自身が「思う」「考える」なら、そう言う。行為の「実行」の主体と「思う/考える」主体が違うときに「思われます」「考えられます」になる。
 これは、天皇のことばのなかにもう一度あらわれる「懸念されます」という表現を見れば、いっそうはっきりする。

天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,これまでにも見られたように,社会が停滞し,国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。
 
 天皇は「懸念します」と言ってもいいのだけれど(懸念しますでも、意味は変わらないのだけれど)、「懸念されます」と言っている。なぜか。経済が停滞する、暮らしに影響が出るというときの「主体」が天皇ではなく、国民(他人)だからである。もしかすると、国民は経済を停滞させないかもしれない、暮らしに影響を受けないかもしれない。実際に行動するのは国民であるから、「懸念されます」と言うのである。
 文体(表現)の、微妙な違いに、天皇の「思想」そのものがある。それを読み取らないといけないと思う。

 この部分に、ついて日本文学研究者のロバート・キャンベル東大教授は、次のように語っている。

 陛下は天皇が高齢になった時の務めのあり方について、公務を減らすことには「無理があろうと思われます」と述べられている。対応する英訳は「I think it is not possible」。原文に忠実に、もう少しえん曲な表現も可能だと思うが、原文より鮮明な意思表示となっている。

 英文は「原文に忠実に、もう少しえん曲な表現も可能だと思うが、原文より鮮明な意思表示となっている」は、日本語の文は「婉曲」だということを語っている。なぜ、「婉曲」なのか、その「婉曲」のなかに何が隠されているのか。
 そのことを、ロバート・キャンベルは、まあ、語らないだろう。
 ロバート・キャンベルが語らない「婉曲」を、私たちは「想像力(妄想力)」を働かせて読まないといけない。外国人さえ「婉曲」と感じている。もっと、敏感に「婉曲」に反応しないといけないと思う。
 このロバート・キャンベルの記事には「英訳は明確 「生前退位」海外理解深めた」という見出しがついているのだが、その背後にある安倍と天皇の「攻防」、安倍の意図は英訳では伝わるのか。「婉曲」を感じ取るのなら、そういうことにも踏み込んでもらいたいと私は思った。

 毎日新聞の記事のつづき。

 陛下は2010年夏ごろから退位の意向を周辺に示されていた。12年春ごろ、陛下から意向を直接聞いた宮内庁幹部はその場で思わず「摂政ではだめですか」と聞き返した。しかし陛下は象徴天皇としてのあり方について話し、摂政には否定的な考えを示したという。
 皇室典範は退位を想定しておらず、政府はこれまで国会答弁で否定してきた。複数の官邸関係者は「宮内庁から官邸に陛下の本気度が伝わっていなかった」と証言。「だからおことばに踏み切らざるを得なかったのだろう」との見方を示す。
 政府にできたことは、表現を和らげることだけだった。首相周辺は「最初の原稿案は、より強くてストレートな表現だった」と話す。おことばは「天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら」と断り、「私が個人として」話すとしている。天皇が政治に関与できない憲法の規定を踏まえ、整合性を取ったとみられる。
 おことばには「象徴天皇の務めが安定的に続いていくことを念じ」ともあり、典範改正を望むようにも読み取れる。政府は、退位の条件などを制度化するのは議論に時間がかかるとして、特別立法を軸に検討している。【野口武則、高島博之】

 最後の、

政府は、退位の条件などを制度化するのは議論に時間がかかるとして、特別立法を軸に検討している。

 この「特別立法」は09月06日の読売新聞にも書かれていたが、何としてでも安倍の任期中に、天皇の思いなどは無視して(天皇の高齢に配慮するふりをして)憲法改正を実現しようとする強い意思を感じるのは私だけだろうか。
 毎日新聞の二人の記者は、この最後の一文をどんな思いで書いたのだろうか。政府のやろうとしていることを肯定しているのか、批判しているのか。「特別立法を軸に検討している」を客観的に証明するものは、どこにあるのだろうか。それは「事実」というよりも、「意図」(もくろみ)ではないのだろうか。「もくろみ」は、そこで終わると考えているのだろうか。とても気になる。

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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林嗣夫「花」

2016-09-07 09:23:20 | 詩(雑誌・同人誌)
(「兆」171 、2016年08月10日発行)

 林嗣夫「花」の全行。

さきほどから
一匹のアゲハチョウが
庭のあたりを ひらひら

小さな風に揺れるヒオウギの花に
止まろうとして 止まりそこね
やっと取りついたり

花の終わったアジサイの
あの葉 この葉を
何か探してさまよったり

と、急にふうっと飛び上がり
門の近くの垣根の茂みを向こうへ越えた
向こうに何が?

何がって
そこから先はただの道 乾いた道
しかし……

蝶が 意を決したように身を翻し
風に押し揺られながら向こうへ越えた時
その行くてに

ひとつの鮮やかな花の実在を
わたしはたしかに 見たのだが

 最終連、「実在」ということばが出てくる。「花を/見た」ではなく「(花の)実在を/見た」。
 「実在」というようなことばを、私は疑ってしまうのだが、この詩では不思議とすっと「肉体」にしみこんできた。「花を/見た」だったら、たぶん、夏の終わりのありふれたスケッチとして読んだだろう。感想を書く気持ちにならなかっただろう。
 なぜ、「実在」が「肉体」に迫ってきたのだろう。

 四連目の「向こうに何が?」の「何が?」という問いかけが、たぶん、この詩の「中心」なのだと思う。「何が?」というとき、その「何」は「わかっていない」。「わかっていない」けれど、それが「何」ということば、さらに「何が?」という「問いかけ」としてしか、いま、ここに「あらわれてこない」ものだとわかっている。「何が?」と問いかけたとき、その問いかけに答える形で「何か」が「あらわれている」。林は、すでに、このときに「何か=実在」を見ているのである。つかみ取っているのである。
 そして、この「何か」をつかみ取っているとき、林は林ではない。垣根の「向こうへ/越えた」蝶である。
 六連目「蝶が 意を決したように身を翻し」という行がある。「意(精神/こころ)」と「身(肉体)」が一体になって動いている。「意を決する」と「身を翻す」が「ひとつ」なのである。それは「身を決する(肉体をある向きに動かす、その始まり)/意を翻す(気持ちを別な花に向ける)」と言いなおすことができる。「意」とか「身」、あるいは「決する」「翻す」は、「意味」を固定化できない。つまり、相対化もできない。これが「意」であり、これが「身」である。これが「決する」ということであり、これが「翻す」ということである、と固定できない。その「両方」である。「一体」になっているものである。その「一体」になったものに、林自身がなっているのである。
 それって、いったい何?
 そういう疑問が必然的に出てくるが、このときの「何」と「向こうに何が?」の「何」が、ぴったり重なる。「なに」としかいいようのないものが「何」なのである。
 「向こうにある何か」は「意を決したように身を翻し」た蝶が見た「何か」なのである。その「何か」は、蝶を「意を決したように身を翻し」ということばで林が追いかけるときに見える「何か」であり、そのとき林は知らずに、蝶になって「意を決したように身を翻し」ているのである。
 その「何か」。
 それは「花」ではない。垣根の向こうには「ただの道 乾いた道」しかないのだから、それは「花」ではない。しかし、「花」でないことによって、「花の実在」なのである。「花」ではなく「花の実在」というものがある。
 その「花の実在」とは、それ以前に書かれたヒオウギとかアジサイ、さらには「ただの道 乾いた道」が「世界」としてあらわれるとき、その全体が結晶するときに、瞬間的に「あらわれ」、同時に、「世界」を構成するすべてのもののなかに散らばっていくものなのである。「花の実在」は、あらゆるところに「見えている」。あらゆるところに「見えている」から、それは「花」の形にはしばられない。「ヒオウギ」「アジサイ」「垣根」「道」という具合に、「世界」を「分節」しても無駄である。さらに「蝶」「私(林)」という具合に「世界」を「分節」しても無駄である。そういうことをすると消えてしまう。見えなくなってしまう。「分節」することをやめ、「何?」ととうとき、その「何」のなかに「何」としてしか言いようのないものとして「実在」が生まれてくる。あらわれてくる。
 この瞬間、林が「実在」するのである。林が「詩/実在の花」になるのである。

泉―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス
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