詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む/番外18(情報の読み方)

2016-09-11 16:53:02 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む/番外18(情報の読み方)

 2016年09月11日読売新聞朝刊(西部版・14版)4面に「論点 生前退位」の4回目が掲載されている。「制度度設計 政府に難題/皇室会議 活用案も」という見出しがついている。
 皇室会議は、1993年(平成5年)1月19日、皇太子が小和田雅子と結婚することについて議決したのが直近のもの。それ以来開かれていないのだが、

 この皇室会議の存在が今、にわかに注目を集めている。天皇陛下が「生前退位」の意向を示唆されたことを踏まえ、退位の可否を判断する機関として活用してはどうかという案が出ている。

 えっ、どういうことなのかなあ、と思って記事を読むと「現在の皇室会議の議員と議題となるテーマ」という「一覧表」が「メンバーの写真(一部肩書)」と一緒に載っている。
 議題となるテーマは

皇位継承順位の変更
摂政の設置・廃止
皇族男子の結婚
皇籍の離脱

 となっている。1993年の「議題」はもちろん「皇族男子の結婚(皇太子の結婚)」である。
 「天皇の生前退位」は「テーマ」には含まれていない。素人の目には「皇位継承順位の変更/摂政の設置・廃止」が関係してくるのかなあ、と思うけれど、よくわからない。
 メンバーは安倍首相(議長)を中心に、左に皇族議員(秋篠宮さま、常陸宮妃華子さま)、右に大島衆院議長、伊達参院議長、さらに時計回りで衆院副議長、参院副議長、宮内庁長官、最高裁判事、最高裁長官と書かれている。(最高裁長官と判事の順序は図で見ると長官の方が上)。

 まったく知らない世界のことなので、ここに書いてあることは、その通りなのだと思うけれど、もしかしたら違うかもしれないと疑り深い私は気になって「宮内庁」のホームページを調べてみた。
 何を疑っているかというと、今回の「生前退位」の一連の報道が、天皇を退位させ、摂政を置くことで、天皇を「元首(自民党憲法改正草案では、「象徴」のまえに「元首」という定義が出てくる)」としてお飾りにし、実際は安倍が「摂政」を操り人形としてつかうために仕組んだもの(籾井NHKをつかって、情報捜査しようとしているもの)という疑いである。
 で、調べてみると、議題となるテーマは、

1 皇位継承の順序変更(皇室典範第3 条)
2 立后と皇族男子のご婚姻(同第10条)
3 皇族の身分の離脱(同第11条・第13条・第14条)
4 摂政の設置・廃止(同第16条・第20条)
5 摂政の順序の変更(同第18条)

 とある。皇室典範の条項の順序で紹介されている。読売新聞の一覧表とは順序が違う。読売新聞は番号を振っていないが、こういうときは読者は一般に上から(1)(2)(3)と読み、それが重要な順序なのだろうと思い込む。そういう「読者心理」を利用しているのだろうけれど、4番目の「摂政の設置・廃止」を2番目に持ってきている。あるいは、これは安倍の「意図」を汲んだものかもしれない。
 やっぱりなあ、と思う。
 「皇位の継承」と「摂政」を関連づけてしまおうとしているのだ。あこだね、安倍の意図は、と思ってしまう。
 さらにメンバーを見ると、ちょっと驚かされる。
 宮内庁は、次のように紹介している。

文仁親王殿下
正仁親王妃華子殿下
衆議院議長 大島理森
衆議院副議長 川端達夫
参議院議長 伊達忠一
参議院副議長 郡司 彰
内閣総理大臣 安倍晋三
宮内庁長官 風岡典之
最高裁判所長官 寺田逸郎
同判事 櫻井龍子

 安倍が議長(議事進行)をつとめるのかもしれないが、読売新聞の一覧図のように「中心」にいるわけではない。衆参副議長の「下」に位置する。現行憲法の定義でもそうだが、衆院議長、参院議長の方が首相よりも「上」なのである。首相は「行政府」の長であるかもしれないが、どんな行政も「法」のもとにおこなわれるから「立法府」の方が「上」である。
 このわかりきったことを、「ずらして」読売新聞は紹介している。ここには、安倍の「意向」が組み込まれていると見ていいと思う。あるいは、安倍の意図がわかるように図解していると言えばいいのか。「皇室会議」では、安倍が主役ではないのに、安倍がター田ーシップをとって柿木を動かしていく、そうするのが「当然」という感じの印象をつくりだそうとしている。
 もし、「天皇の生前退位」をめぐって皇室会議が開かれるとしたら、その会議には何よりも安倍の「意向」が強く反映される。安倍が中心になって会議をリードしていくということがうかがえる。
 そして、それはどんな具合に展開されるか。

 秋篠宮さまは2011年11月、46歳の誕生日に先立ち開かれた記者会見で、一定の年齢に達した時に天皇が退位する「定年制」について「必要になってくると思う」と理解を示された。年齢を基準にすれば、本人の意思とは無関係に基準が設定されることから、「退位の強制」などが生じることもない。

 つまり、これは秋篠宮の発言を「利用」である。皇室会議のメンバーである秋篠宮は「天皇の定年制」について理解を示している。それを議論の出発点にしようとしている。天皇が「生前退位」の意向を語り、秋篠宮が「理解」を示しているから、それでは「生前退位」を認めることにしよう、というのである。しかし、秋篠宮は、天皇が「生前退位」の意向を発表する以前のものである。さらにいえば、天皇の発言は「生前退位」をめぐるものではなく、あくまで「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」というタイトルが示すように、「象徴としてのつとめ」について語ったものである。
 「生前退位」について語ることが、天皇の政治的行為を禁止した憲法にふれるというのなら、「象徴」について自分の思いを語ることもやはり政治的行為だろう。「象徴」がどういうものであるか、それを決定するのは天皇ではなく、あくまで「憲法(国民の総意)」である。
 「象徴」について語ることは許されて、「生前退位」について語ることは許されないというのは、私から見ると、とても奇妙である。天皇のことばを読む限りでは、「生前退位/摂政の設置」はどうしても結びつかない。天皇ははっきりとそれを否定している。ただ、官邸が「摂政ではだめなのか」と言い続けた。あの「おことば」からわかるのは、その「しつこい」くらいのやりとりの経過である。
 ここに、どうしても「疑念」が残る。なぜ、天皇がそんな経過をわざわざ語ったのかという問題が残る。経過を語ることで、天皇は、安倍のやろうとしていることを明るみに出そうとしているのではないか、と私は思っている。

 さらに、読売新聞が書いている次の部分。これも、気になる。

 政府は現在、皇室典範を改正して生前退位を制度化するのではなく、いまの天皇陛下の退位だけを可能とする特例法の制定を軸に検討を始めている。「陛下のご年齢や今の負担を考えると、時間をかけるわけにはいかない」(政府高官)からだ。すでに退位の意向を示唆されている陛下には「退位の強制」が生じる懸念はなく、今回限りであれば具体的な退位の基準を作ることも避けられる。

 今回の天皇の退位だけを可能にする「特例法」。「年齢への配慮」というと、聞こえはいいが、もし「80歳定年制」というのような皇室典範ができてしまえば、次の天皇が80歳になるまでは「退位」を求める(退位させる)ことはできなくなる。「摂政」をおいて、操り人形としてつかうことができなくなる。「特例法」ならば、つぎの天皇の場合も「特例法」を制定すれば「生前退位」をさせることができる。「具体的な基準」をつくってしまえば、それができなくなる。そう考えて「特例法」の制定を検討している。天皇のための特例法ではなく、安倍のための特例法である。
 そう読むことができる。

 もう一度、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」の、奇妙な部分を引用しておく。

 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

 「思われます」「考えられます」という動詞のつかい方は、あきらかに不自然である。すべての「天皇のことば」を読み直したわけではないが、「東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば」や「パラオ国主催晩餐会における天皇陛下のご答辞(ガラマヨン文化センター)」などを読んでみても、そんな「ひとごと」みたいな表現はない。天皇はいつも「思っています」「願っています」というように、天皇自身を主語にして、こころの動きを直接語っている。
 「思われます」「考えられます」という「婉曲表現」には、「思う/考える」という動詞を主語とする天皇以外の人間が隠れていると、私は思う。
 天皇も人間だから、身内では、身体の衰えとか不安とか、いろいろ語るだろう。そのふともらしたことばを、むりやり「生前退位」ということばに仕立てられ、「意向を表明させられた」のではないか、と私は思ってしまう。
 参院選で、憲法改正に必要な三分の二の議席を確保した。今のうちに、何もかも自分の思い通りにしたい。してしまいたい。緊急の狙い(欲望)が、そこに動いていると私は考えてしまう。
 皇室典範の改正ではなく、特例法で状況を打開しようとする性急な動きを見ると、よけいにそういうことを考えてしまう。憲法の「第一章」にかかげている「天皇」の問題を「特例法」というような、一時しのぎで処理しようとするのは、どんなにいいつくろってみても不自然である。天皇は、昭和天皇のときのように、病床に倒れているわけでもない。特例法が必要なほど緊急性はない。



*

『詩人が読み解く自民憲法案の大事なポイント』(ポエムピース)発売中。
このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E4%BA%BA%E3%81%8C%E8%AA%AD%E3%81%BF%E8%A7%A3%E3%81%8F%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E6%86%B2%E6%B3%95%E6%A1%88%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E3%81%AA%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95-%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E6%86%B2%E6%B3%95%E6%94%B9%E6%AD%A3%E6%A1%88-%E5%85%A8%E6%96%87%E6%8E%B2%E8%BC%89-%E8%B0%B7%E5%86%85%E4%BF%AE%E4%B8%89/dp/4908827044/ref=aag_m_pw_dp?ie=UTF8&m=A1JPV7VWIJAPVZ
https://www.amazon.co.jp/gp/aag/main/ref=olp_merch_name_1?ie=UTF8&asin=4908827044&isAmazonFulfilled=1&seller=A1JPV7VWIJAPVZ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ターセム・シン監督「セルフレス 覚醒した記憶」(★)

2016-09-11 09:45:05 | 映画
ターセム・シン監督「セルフレス 覚醒した記憶」(★)

監督 ターセム・シン 出演 ライアン・レイノルズ、ベン・キングズレー、マシュー・グード

 荒唐無稽の映画は細部が大事である。ベン・キングズレーが登場していたシーンは、現実(?)のせいか、細部が丁寧に描かれていた。ように、思う。ように、思うというのは、あんな豪華な家を私は知らないからである。知らないけれど、ニューヨークの金持ちはこんなに豪華に暮らしていると、わかる。
 家に帰って来て、鍵を、バスケットボールで背中越しにパスする容量で椅子の上に放り投げるシーン(これは、あとの伏線になっている)とか、レストランでピーナツのアレルギーの話をするところなんかも丁寧。最後のコーヒーを飲む前に、スプーンで一回すくってみるところなんかも、「心理描写」としておもしろい。
 でも、それ以後がテキトー。「脳の転移(?)」後が、あまりにもストーリー中心的。
 バスケットをするシーンだけ、あ、ベン・キングズレーだと思わせるのだけれど、ほかはライアン・レイノルズの「肉体」がベン・キングズレーを引っ張りまわしている。海兵隊員(?)の「肉体」がかってに動いてしまう。それなのに、思考はベン・キングズレーとライアン・レイノルズがきちんと分類されていて、混乱というものがいっさい起きない。ベン・キングズレーは、自分になぜ、そういう行動ができるか、ということを疑問に思わない。鍵を背中越しに投げるような、「癖」が「思考」として描かれない。
 それなのに、ライアン・レイノルズの「思考」の癖を気にする。幻覚に出てきた幼い少女は誰? まあ、監督、脚本家は、「娘との時間」になんとか、そういうものを重ねているつもりなんだろうけれど、切実さがない。ストーリーの「説明」にすぎない。
 ベン・キングズレー(の思考/頭脳?)が、助けを求めに行った友人(会社のパートナー)の家で、すべての鏡にカーテンがしてあるのに気づき、そこから「異変」を感じ取るというのは、よくできているようにみえるかもしれないが、それだってご都合主義。どこかの映画でもあったかもしれないなあ。
 しかし、なんといっても問題なのは、「脳の転移」の「細部」。あんなMRTの簡易装置みたいなもので、「脳の転移」ができるとは思わないし、その「病院」の安全管理がずさん。セットがあまりにも安直。ビニールのカーテンの印象しか残らない。(これも、どこかの映画であったぞ。)こんなところで、こんなことができるはずがない。まあ、どうでもいいんだろうなあ。「脳の転移」手術の副作用を抑える「薬」の分析が簡単にできてしまっているというのも、まるで笑い話。(これは、どの映画にもないぞ。)
 で。
 一番のクライマックス。マジックミラー越しに火炎放射器(?)でライアン・レイノルズとマシュー・グードが向き合い、対決するシーン。ここだけが嘘の話の中で「リアル」。マシュー・グードが鏡のなかの自分の姿が歪むので、幻覚がはじまったと思い薬を飲む。だが、それは幻覚ではなく、火炎放射器で鏡が焼かれているために、鏡が歪んでいた、というのだが……。
 これって、ロベール・アンリコ監督の「追想」(フィリップ・ノワレ主演)のラストシーンじゃないか。妻と娘を殺された男が自宅の迷路というか、熟知している自宅の構造を利用して戦うシーンと同じ。戦争(闘い)は、侵略者が負ける。その「場」を熟知しているものが、必ず勝つ。これはアメリカのベトナム戦争での「証明」した事実、アメリカが敗北することで「証明」された戦争の事実。
 これが「応用」されているのだけれど。
 もし、こういうシーンを「応用」するのなら、それはその病院のことを熟知しているマシュー・グードでなければいけない。ライアン・レイノルズが「応用」するのなら、それは彼が住んでいた家でなければならない。その家での銃撃戦のとき、ライアン・レイノルズは床下にもぐりこんで、風通しの格子越しに銃を撃った。ライアン・レイノルズがどこに隠れているか、家の構造を知らない男たちは、そのために負ける。
 ほら、戦いを有利に奨めることができる(勝つことができる)のは、その「場」を熟知した人間である(侵略者は負ける)という「証明された事実」が、そこでくりかえされているでしょ?
 でも、その「戦争の本質」が無視されている。このあたりが、とてもずさん。
 あっちこっちの映画をつまみ食いしながらつくった映画だからだね。私はロベール・アンリコ監督「追想」(★★★★★)が大好きなので、よけいに、そんなふうに感じるのかもしれないが。
               (天神東宝ソラリアスクリーン9、2016年09月10日)


「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
追想(続・死ぬまでにこれは観ろ!) [DVD]
クリエーター情報なし
キングレコード
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする