詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河口夏実『雪ひとひら、ひとひらが妹のように思える日よ』

2016-09-22 11:06:33 | 詩集
河口夏実『雪ひとひら、ひとひらが妹のように思える日よ』(書肆子午線、2016年07月25日発行)

 河口夏実『雪ひとひら、ひとひらが妹のように思える日よ』はとても魅力的なタイトルである。このタイトルの詩はなくて、それは「咲きつぐ花」の後半に出てくる。
 その前半は、

今朝
早いうちに飛び立っていった小鳥が降らせた
雪が中空に舞い、滞る
その雪の魂が落ちながらひらいていくのを見ていた

 小鳥のからだから落ちた羽毛が雪にかわる(雪に見える)。しかも、それが舞うときに「ひらいていく」というのは、とても美しい。実際に雪の結晶/小鳥の羽毛が開く(大きくなる)ということはないのだけれど、目がだんだん細部まで見るようになる、その結果大きく見えてくる(開いたように見えてくる)。この変化を「ひらく」という動詞としてとらえたところが、この詩の強さだ。
 雪にしろ小鳥のからだから離れた羽毛にしろ、それは「意思/いのち」というものを持っていない。けれど「ひらく」という「動詞」と一緒に動くと、まるで「生きる力」をもっているように感じる。「いのち」を感じる。この「いのち/生きる力」を河口は「魂」と呼んでいる。
 このとき、その「魂」と河口の「魂」が対話している。それが美しいのだ。

雪ひとひら、ひとひらが
妹のように思える日よ
数枚の
さざんかの花びらがてのひらを零れ、雪に
雪に埋もれていく

 この最後の部分で雪は「妹の魂」になる。
 前半では「魂」は生きていたが、ここでは「妹の死」を連想させる。妹は死んでしまっていないが、「魂」は生きている、という感じ。「早いうちに飛び立っていった小鳥」とは、早くして(自分よりも先に)死んでしまった妹をあらわしているように思える。雪を見ながら、妹の「魂」を思い出すといえばいいのか。
 最後の「手のひらを零れ」というのは、花びらを地上に零し、その上に雪が積もるということかもしれないが、私は違うふうに読んだ。咲いている山茶花の花(たぶん妹が好きだった花)の上に、手のひらに触れながら舞った雪が積もっていく、「零れる」のは「雪/魂」と思って読んだ。
 山茶花の花に代わって、雪の花(魂の花)が咲く、雪が花を埋めるのではなく、新しい花になって「開いていく」と読んだ。

 河口の作品は、この作品は異例のものに属している。多くの作品は、一行一行がとても短い。私には、その一行の「短さ」が何をあらわしているのかよくわからないのだが、わからないまま、「晴れていく日」の書き出しは、おもしろいと思った。

やっと
ふたりきりに
なれるのは
この駅を
汽車が
通り過ぎていく
感じだ

 「短さ」がそのまま「孤立」をあらわしているように感じるからだ。「なれる」という「短い」ことばが、「通り過ぎていく」という三つの動詞(通る/過ぎる/行く)と向き合うとき、なんともいえず「孤立感」が深まる。
 「汽車」というのは、ちょっと「いまのことば」とは違うのだけれど、この場合、その古くささがいいかもしれない。「哀愁」とか「郷愁」というときの「愁」の雰囲気を呼吸しているかもしれない。
 引用しなかったが、「雪ひとひら、……」とこの「晴れていく日」には、改行の変化を無視すれば、「道の途中に立ち尽くしていた」ということばがある。
 「僕」のまわりに「降る(舞い落ちる)」「通り過ぎていく」という「動き」があり、その中で「僕」は「立ち尽くしていた」。「立つ」だけではなく「尽くす」。その「尽くす」のなかにある「過ぎていくもの/時間」を河口は「抒情」として描こうとしているのだろう。
雪ひとひら、ひとひらが妹のように思える日よ
河口夏実
書肆子午線
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水の周辺4

2016-09-22 09:21:39 | 
水の周辺4



そこまで来て
とまる。
あと少しなのに
届かない。



先端の
まるみ。
そのなかを
過ぎていく。



目を開いて
見ている。
ものが
思えなくなる。び散る光になる


*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
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Elena Gallegoの俳句翻訳

2016-09-21 14:42:58 | 詩(雑誌・同人誌)
Elena Gallegoの俳句翻訳(NHK「まいにちスペイン語」2016年09月号)
 NHKのラジオスペイン語講座「毎日スペイン語」。9月は俳句が題材。日本の俳句がスペイン語に訳されている。
 芭蕉の俳句は、こんな具合。

Un viejo estanque;
al zambullirse una rana,
ruido de agua.
(古池や蛙飛びこむ水のをと)

Silencio
En la roca se impregna
el canto de una cigarra.
(閑さや岩にしみ入る蝉の声)

 一句目は別な人の訳なのだが、二句目はエレナ・ガジェゴと太田(?)なんとか(忘れた)の共訳。
 日本語の場合、単数複数の区別がない。そこで翻訳するとき、書かれていることばを単数で訳すか複数で訳すかがむずかしい、という話題が出た。
 「古池や」の蛙は一匹。これは、私もそう思う。
 「閑さや」の蝉も一匹。これには、思わず、えっ、と声を出してしまう。

講師の福島教隆「どうして一匹ですか?」
エレナ「岩にしみ入るくらいの強い声。そういう強い声を持っているのは一匹だ」

 うーん、なるほどスペイン人らしい。ピカソとかダリとかセルバンテス(あるいはドン・キホーテ、サンチョ・パンサ)の国。何かを切り開いていくのは「集団」ではなく、強烈な「個人」。そういう人間観というものが、知らず知らずに、俳句の解釈にも反映しているということだろう。

 ここから少し脱線。
 きょうの「日記」のタイトルは「Elena Gallegoの俳句翻訳」なのだが、これは「まくら」。スペイン語の翻訳が的確かどうか判断するような語学力は私にはないので、以下は「俳句」の読み方。いや、「日本語」の「詩」の読み方に関すること。

閑さや岩にしみ入る蝉の声

 この句を読むと、「閑さや」でいったん句点「。」がある。ことばが一回終わる。それから「岩にしみ入る蝉の声」ということばが来る。このとき、「主語」と「述語」は?
 「蝉の声」が「主語」、「しみ入る」が「述語」。
 文法的には、そうなる。エレナの訳も、そういう「文法」に従っている。(ここでは、単数、複数は考えない。)「岩に」は「補語」である。
 でも、そう?
 
閑さや岩にしみ入る蝉の声

 この句の「述語」は「しみ入る」。これは確かだ。「動詞」が「しみ入る」しかないからね。
 ここからが問題。
 私はことばをどんなときでも「動詞」を中心に考える。
 「しみ入る」という「動詞」を聞いたとき、私は自然に「こころにしみる」「傷にしみる」という具合に、自分の「肉体」を「補語」として連想してしまう。句の最初に「閑かさ」ということばがあるので、どうしても「閑さ」が「こころ(肉体)」に「しみ入る」と連想する。「主語」は「閑さ」、「述語(動詞)」が「しみ入る」、「補語」が「こころ」ということになる。
 芭蕉は「こころ」と書いていないから、これは、私の「誤読」だが。
 「誤読」を承知で、私は「岩」を「こころ」の「ありよう」だと思っているのである。「岩」は「こころ」の、あるいはこういうときは「精神」のといった方がいいのかもしれないが、「岩」は「象徴」なのである。
 で、そういう風に、「俳句の切れ」を無視して、ことばを上から順に読んできて、「閑さがこころにしみこんで来る」という絶対的な「静寂/沈黙」を感じ、自分自身が「静寂/沈黙」になったと思った瞬間、「蝉の声」が来る。
 混乱する。
 だいたい「蝉の声」が聞こえているなら「閑」ではないじゃないか。
 この混乱は、意識(感覚)の「衝突」だね。
 そして、その瞬間感じる(聞こえる)のは、では「閑さ」か「騒音(蝉の声)」かというと、「閑さ」の方である。「静寂/沈黙」というのは「聞こえない」から「静寂/沈黙」というのだが、「蝉の声」があることによって、逆に、その聞こえないものが「聞こえる」と錯覚する。
 この「錯覚」の超越が「閑さや」の「や」という「切れ字」にこめられた「意味」だと思う。「感覚の超越」が「世界」を切断し、新しくする。
 「閑さ」が「岩にしみ入る」と、私は最初に書いたが、「しみ入る」は単に入るだけではなく、「入ってしまった対象(補語)」そのものになるということかもしれない。
 実際、私が感じるのは、「閑さ」が絶対的な存在となって、そこに「ある」という感じなのだ。「岩」の存在そのものが「閑さ」なのである。「閑さ」が「岩」という存在になる。そして、それが「しみ入る」と書かれているが、まわりの蝉時雨をはじき返している、拒絶している、という感じで句を受け止める。」閑さ」が「岩」からはみ出している、噴出している。それが蝉の声を、がしっとつかんで封じ込めている。蝉の声を、ほかに広がっていかないようにしていると感じる。

 また「閑さ」というのは「しずかな/しずかに」という形容動詞と繋がっている。それは「動詞」の一種なのだ。「閑さ」というのは「死すかな/しずかに」が「しずか」で「ある」という形で存在している。
 「しずかである」という「動詞の状態」が、「岩にしみ入る」というもうひとつの「動詞」によって強調されているとも感じる。「しずかである」という「動詞」と「しみ入る」という「動詞」は切り離せない、と感じる。つまり「しみ入る」の「主語」を「蝉の声」だけに限定できないと感じてしまうのである。

 ことばは不思議である。「文法」どおりに解釈すれば、私のような読み方にはならない。けれど、ことば、特に「動詞」というのは「肉体」と深く結びついているので、「文法」とは違うものをかってに引っ張り込んでしまう。最初に書いたように「しみ入る」という「動詞」に触れれば、どうしても「こころにしみ入る」「傷にしみ入る」というようなことを思い浮かべる。その「思い込み」がいったん否定され、そしてまた、いやそうじゃないかもしれないと反駁する。そういう、曖昧で、矛盾したものが、「文学」を支えているようにも思う。

Mar salvaje.
Sobre Sado se extiende
la via lactea.
(荒海や佐渡によこたふ天河)

 この句もエレナと太田の共訳。「佐渡に」を「佐渡の上に」と訳している。確かに「文法」としてはそうなるのだと思うが、実際に、海が荒れていて、佐渡があって、その上の空には天河があるという情景なのだろうが、この句を読んだときの私の印象では「荒海」と「天河」が逆になるというか、「一体」になる。
 佐渡は荒海に浮かんでいるのではなく、天河に浮かんでいる。荒海の「強さ」がそのまま「天河」の広大な「強さ」になり、そこに佐渡が浮かんでいる。地上の「荒海」と空の「天河」が「ひとつ」になって、その中心に佐渡が横たわっている、佐渡が荒海と天河をつないでいるという感じ。
 「横たわる」の「横」ということばは「縦」と対になっている。「縦に立っている」ということばと、「肉体」のなかで対をつくっている。「立っている」から「横たわる」とき、それはゆったりとする、ゆったりと広がるという広がりになって、それは「世界全体」の広さ、「宇宙」の広さにかわっていく。その「中心」に「横たわる」という「動詞」がある。
 「閑」と「蝉の声(騒音)」を「岩」がしっかりとつなぎ止めている。そのつなぎ止めるときの「動詞」が「しみ入る」。
 同じように「荒海」と「天河」を「佐渡」がしっかりとつなぎ止めている。そのつなぎとめるときの「動詞」が「横たわる」という「動詞」。
 「動詞」のなかで、「ふたつ」の「存在(主語)」が「ひとつ」になる。「閑さ」と「蝉の声」、「荒海」と「天河」が溶け合い、もうひとつの存在「岩」「佐渡」がそれを結晶させる。「世界」そのものの「象徴」になる。
 俳句に「遠心/求心」ということばがある。私は俳句を、俳句の決まりなど無視して勝手に読んでいるのだけれど、この「遠心/求心」という相反する動きを、たとえば「しみ入る」「横たわる」という「動詞」で、芭蕉は「ひとつ」にしている、ということを感じる。
 同時に、その「動詞」に自分の「肉体」を重ね合わせ、私の外にある「風景」というより、私自身が風景になって存在していると感じる。「私」が消え、私の見ている「世界」そのものが「私」という感じ。

 で。
 突然、エレナの訳にもどるのだが、私の感じるような「私」が「世界」のなかに消えていき、「世界」のひろがりそのものが「私」という感じは、スペイン人は持たないのかもしれない。強烈な個性が「世界」を変えていく、新しくしていく。それは「私」ではなく、もっと強い「だれか」なのだという感じが、「蝉」を「一匹」と感じさせるのかもしれない。
 「一」であることが「人間」に求められている、ということかもしれない。
 私は「世界」が「一つ」であると感じるが、スペイン人は「世界」に対して「ひとり」で「世界」に向き合うというか、「世界」と「私」は融合せず、「世界」を変えていくのが「私」という感じといえばいいのかな、とも思ったのである。
 ドン・キホーテがそうだね。たったひとりで「世界」と向き合い、世界を変えようとしている。あれが、スペイン人の生き方なのだとも、勝手に思うのである。
 そういう「人間観」が翻訳に反映しているのかな、と思うのである。

NHKラジオ まいにちスペイン語 2016年 09 月号 [雑誌]
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NHK出版
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水の周辺3

2016-09-21 00:12:55 | 
水の周辺3



水の上をわたる鳥の声
水の中を走る魚の声

聞いているものは聞こえない



水の中から見る空の色
水の上から見る魚の影

見ているはずのものは見えない



耳と目の先には
沈黙と無があって、

流れているが、



塞き止められて透明になる内部が
表面を突き破って、

飛び散る光になる


*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
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外を見るひと―梅田智江・谷内修三往復詩集 (象形文字叢書)
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書肆侃侃房
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小網恵子『野のひかり』

2016-09-20 10:04:44 | 詩集
小網恵子『野のひかり』(水仁舎、2016年08月01日発行)

 小網恵子『野のひかり』の作品は、どれも不思議な力がこもっている。「文体」に力がある。
 「ぐるり」という作品。

幼い子が嬉しそうに木の周りを走る
ぐるりくるり ぎこちない足の運び
すっぽりと黒い幹に隠れる一瞬がある
笑い声だけ あたりに散っていく

 子どもが小さい、木が大きい。そうすると、子どもの体が幹に隠れる一瞬がある。これは、ごくあたりまえの風景である。しかし、そのあとの

笑い声だけ あたりに散っていく

 これは、どうか。「散っていく」(散る)という「動詞」が、書けそうで書けない。この「散っていく」(散る)は、このあと二連目で「幼い子(幼女)」「少女」「娘」へと「育っていく」。そのとき「散る」が「育つ」になるのだが、それは「育つ」とは何かを「散らす」こと、「失うこと」という感じで響いてくる。「散っていく」のなかに、「育つ」がふくむ「失う」がある。そういうことを感じさせる「強さ」である。
 「ことばの肉体」が、その「肉体の奥」で、とおいことばと繋がっている、という強さである。

 「すみれ」の場合は、どうか。

水が溢れそうになるので
川を描く
泡立って 飛沫をあげる
水は留まれないから
岸の岩にぶつかって
流れていく

 「川を描く」の「描く」に、私は何かどきりとするものを感じた。
 「水」が流れると、それは「川」になる。「川」と「水」と「流れる」は、区別がつかない。区別できない。
 そして、その「川」の前に書かれていることばは「水」と「溢れる」である。
 瞬間的に、私は「川」は「比喩」であると感じた。いや「水」が「比喩」であると感じたというべきか。「川」「水」「流れる」が区別がないように、「水」と「涙」と「川」が、一瞬の内に入れ代わるのである。
 「水が溢れそうになる」は四行目で「水は留まれない」と言い換えられている。「感情は留めることができない(留まれない)」は「感情は溢れそうになる」ということばとなって引き返してきて、そこから「涙が溢れそうになる」ということばに変わる。
 この不思議なつながりが「描く」という、「涙」とは無縁のように思える「動詞」によって、何か、強い力で結びつく。
 「水(涙)」が「溢れそうになる」。それを「溢れさせない」ために「川」を「描く」。「涙」を「川」のなかに、ととのえて、流してしまう。「川」にしてしまう。
 そうすると、「比喩」のなかで、「涙/水」が、また何かに変わる。
 「泡立つ」(騒ぐ)は、「涙」のもとである「感情」が「泡立つ/騒ぐ」のである。「飛沫をあげる」は「感情が飛び散る」であり、「水は留まれない」は「感情は留まれない」。それは「岩に(障害物に)ぶつかって」、それでも「流れてゆく」。動くことをやめない「感情」そのものになる。「感情」が「川」の大きさで、動いていく。「感情」を「川」のように、小網は見ている。「描き出そうとしている」。
 「川」を「描く」のではなく、「感情」を「描く」のである。
 二連目以降は、その「感情」が向き合っている「こと」が描かれる。「感情」を「悲しい」ということばを避けて、その「感情」とどう向き合ったかを小網は書いていることになる。

ホスピスに入るという友人の整った手紙を
くり返し読む

そうして川に色を塗る
うすい水色と澱んだ緑色を重ねて
色鉛筆で塗る
水がきちんと流れるように
丁寧に塗らねばならない
曲がりくねった川の緑色の澱には
魚の気配がある

色鉛筆を走らせて
岸辺にすみれの花を咲かせる
友人の庭に咲くと聞いたことがあった
紫色をいっぱいに使う

 友人がホスピスに入るという手紙を受け取った。その「文面(文字)」は「整っている」。その「整った」感じに、「感情」が動いたのだ。友人は、自分自身の「感情」を整えている、整えようとしていると感じ、そう感じた小網自身の「感情」をそれで波動整えればいいのか。小網の「感情」をどうことばにしていいか、わからない。だから「川」を「描く」。小網自身の「感情」を整えるために。
 「川」は「友人」への「返信」の「比喩」かもしれない。お見舞いとして「絵」を送るということかもしれない。
 「色鉛筆」で描く(塗る)のは、その「感情」を「多く」伝えたいからだろう。

水がきちんと流れるように
丁寧に塗らねばならない

 この二行は、涙が流れそうになるくらい美しい。
 「きちんと」と「丁寧」が、何といえばいいのか、自分のことだけではなく、「友人」のことを思っている。自分の「感情」を伝えることに夢中なのではなく、友人がどう受け止めるか、そういうことを気にして「きちんと/丁寧」になっているのだ。それは先の友人の「整った」と正直に向き合っている。
 「友人」が庭にすみれが咲くという話をしたのは、きっと友人が、そのすみれが好きだったからだろう。そして、そんなことを思いながら、その友人の好きなすみれを、川の岸辺に「描く」のである。
 最終行の「紫色をいっぱいに使う」の「いっぱいに」が、とてもいい。この「いっぱい」は「きちんと/丁寧」と同じ意味である。
 「いっぱい」ということばを辞書で引いても「きちんと」や「丁寧」という「意味」は出てこないかもしれない。「きちんと」「丁寧」を辞書で引いても「いっぱい」という「意味」は出てこないかもしれない。けれど、私たちは「丁寧」なことをするとき、そこに「気持ちがいっぱい」込められていることを知っている。「気持ちがきちんと」込められていることを知っている。
 「いっぱい」と「きちんと/丁寧」は「ことばの肉体」のなかでつながっている。「整った/整える」とも繋がっている。そしてそれは、そのまま「友人」とも繋がる。
 「整う」「きちんと」「丁寧」「いっぱい」と、ことばはそれぞれ違う。しかし、それを「相対化」して「違う」ととらえるのではなく、そういうことばが「一緒」になって動くとき、それは互いの「ことば」のなかを行き来して、まじりあい、いままで気づかなかった、ことばにならない何かをあらわす。「ことば」が「肉体」となって動き、その「肉体」がそのまま人間の「肉体」にも重なる。
 小網のことばは、そういう「ことばの肉体」を思い出させてくれる。小網の詩は、そして、その「ことばの肉体」のなかで、とても静かに動いている。人間の「肉体」となって動いている。その動きは静かすぎて、なかなか、こう動いた、ということができない。私には、それを壊さずに取り出す繊細さが欠けていて、それを指摘できない。こんなふうに、ぼんやりした感想として書くことしかできないのだが……。

 「豆畑」という「散文詩」も、とてもおもしろい。いつか、感想を書いてみたい詩である。「豆畑」だけではなく、最初の詩から最後の詩まで、詩集の全作品を感想をいつか書いてみたい--そういう詩集である。

耳の島―詩集
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書肆青樹社
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李相日監督「怒り」(★★★★)

2016-09-19 12:06:09 | 映画
監督 李相日 出演 渡辺謙、森山未來、松山ケンイチ、広瀬すず、綾野剛、宮崎あおい、妻夫木聡

 うーん、文学的すぎる。見ながら、これは映画よりも小説の方がおもしろいに違いないと思いながら、しかし、この「文学」に迫ろうとする「肉体(演技)」というのはすごいものだなあ、と感心した。そういう意味では「映画」なのだけれど。「映画」でしかできないことをやっているのだけれど。
 何が「文学的」かというと、「事件」ではなく、ひたすら「感情」をえがこうとしていること。そして「感情」を「肉体」で再現しようとしているところが、もう、もちゃくちゃに重たい。
 「文学」ならば、そこにあるのは「ことば」だけ。ことばに描かれている「肉体の動き」を自分で想像するのだけれど、「映画」ではまず「肉体」がある。「ことば」(セリフ)もあるのだけれど、「ことば」よりも前に訳者の「肉体」がある。そして、その訳者の「肉体」というのは、それぞれに「過去」を持っている。その「過去」は「演じている役」の「過去」とは違うのだけれど、自分自身の「過去」を掘り起こすようにして、「役柄」の「肉体」を誕生させる。そのうえで、その「肉体」で「感情」を、さらにえぐっていく。
 これは間違いなく、とんでもない力作であり、とんでもない傑作なのだが、だからこそ、私は★五個をつけることをためらってしまう。
 だって、楽しくないでしょ?
 「怒り」というのは一体何なのか。それは、だれにもわからない。わからない、というのは、「怒り」をあらわす「ことば」がないということ。「怒り」を共有する「ことば」がない。共有する「ことば」がないから、ただ、ひとは「怒っている」ひとのそばにいて、「私はあなたとのそばにいる」ということを「肉体」で伝えるしかないのである。「ことば」ではどんなふうに言ってみても「怒り」の共有にはならないのである。
 こんなことを知らされるのは、人間としてつらい。「怒り」は共有できる。「怒り」から生まれる連体があると信じたい。けれど、この映画はそういう安直さを許さない。「怒り」から連体など生まれない、と言っているように見える。
 松山ケンイチと宮崎あおいの関係は「連体」のようにも見えるが、それは「怒り」を生んでいるものに対して一緒に戦うというものではないから、「連体」とは呼びにくい。「怒り」をおさえる方法のように感じられる。「怒り」とは違う「感情」を探し出し(つくりだし)それに向き合おうとする試み。これでは、「怒り」を生み出したもの、「怒り」の原因を解消する(解決する)ということにはならない。
 それでは、つらすぎる。
 このつらさを、ちょっと視点を変えて見直してみる。映画の中でおこなわれていること、演技と役者の関係で見直してみる。
 だれかの「怒り」を共有できないということは、「怒っている本人」も、「怒り」を共有してもらう方法がない、ということ。その「共有されないこころ」を役者は、役者の「肉体」のなかから掘り出して、演技している。どんどん「孤独/孤立」の深みにはまり込むということになる。
 だから、そこにはまったく知らない「役者」がいる。いままで知っている(共有してきた)役者が姿を消し、まったく知らない人が、孤立して、たったひとりで目の前で「怒り」を抱えている。「怒り」に振り回されている人間と向き合い、どうしていいか、わからずにいる。「好き」と言いた。「守りたい」と言いたい。でも、それをどう「ことば」にすれば「怒り」を超えて、その向こうにたどりつけるのか。そんな確信はだれにもない。
 壁にかかれた「怒」という文字が最初と最後に二回出てくるが、「怒り」は「壁」のように人間と人間の間をさえぎるのである。
 そのどうしようもない「壁」と向き合いながら、役者が、それぞれ自分の「肉体」を耕し、生まれ変わっている。まったく見たことのない「人間」になっている。松山ケンイチは、役者とは思えない存在感のなさで存在感を出している。(矛盾した言い方しかできないが、そういう人間になっている。)渡辺謙は服装までというのは変だけれど、何度も洗濯したような安物のポロシャツ、質の悪そうなズボン、腹を出した座り方や、姿勢の悪い歩き方を含めて、完全に漁港の町の「父ちゃん」になっている。宮崎あおいも、思わず、こんなからだをしていた?と不思議に思った。そういう「有名」な役者(私が知っているということなのだが)はもちろんだが、妻夫木聡の恋人役を演じた役者はだれなのか、私は知らないが、その知らない役者でさえ、「この役者、見たことがない」と感じさせるのである。知らない「生身の人間」が、そこにいるような気がするのである。そういう「肉体」が、ことばではな説明できない「怒り」をからだの奥で抱えながら、動いている。それを見ながら、どこへ連れて行かれるのか、わからない。
 結論が想像できない。結論が出たあとも、いったい何があったのか、ことばでは語れない。整理できない。
 あ、「文学的」だなあ。
 小説なら(文学なら)、何度でも気になったページ(ことば)を読み直すことができる。読み直しながら、ああでもない、こうでもない、と考える。「結論」は無視して、ある場面に夢中になり、そこから自分自身の「結論」を考えてみることもできる。
 でも、「映画」は、そういうことがむずかしい。決められた時間の中で、決められた順序で「映像」が動いていく。さっきの「肉体」の動き、「ことば(セリフ)」をもう一度確かめたいと思っても、本のページをめくり直したり、そこでペーしを繰るのをやめたりするようなわけにはいかない。一回限りのあり方で「肉体」が動いていく。「肉体」が動き、「感情」が生まれ、それが変化していく。
 文学は「読み返し」を前提としている。けれど「映画」や「舞台」は、つまり「演技」はそういうことを前提としていない。(何度も同じ作品を見るという人もいるだろうけれど。)そういう「一回性」と向き合いながら、「一回」で感情を吐き出してしまう演技を役者たちがしている。この「行為(演技)」そのものが、「文学」の「ことば/文体」となっている、ということも感じた。
                  (天神東宝スクリーン3、2016年09月18日)
 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
悪人 (特典DVD付2枚組) [Blu-ray]
クリエーター情報なし
東宝
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青山かつ子「もんじゃ焼き」、高田昭子「ててっぽっぽう」

2016-09-18 11:55:52 | 詩(雑誌・同人誌)
青山かつ子「もんじゃ焼き」、高田昭子「ててっぽっぽう」(「repure」22、2016年04月16日発行)

 青山かつ子「もんじゃ焼き」の全行。

-お兄ちゃんの戒名○○○○なの-
ポツリとのりちゃんがいった
中川の土手を歩きながら

(ずっと上流でお兄さんは入水した)

すすきがゆれ
ガラスの空に飛行機雲がのびている

-のりちゃん もんじゃ焼きやろうよ
 切りイカいっぱい入れて-

記憶の土手はずっとつづいていて
中川の鉄橋をわたるたびに
戒名を告げたさびしいこえがきこえてくる

十五のわたしは
あのとき言葉をもっていなかった
のりちゃんの好きな
もんじゃ焼きのほかには

 「言葉」が最終連に出てくる。そして、その「言葉」は「もっていなかった」という動詞と一緒に動いている。「ことばを/持つ(持たない)」。「主語」は「わたし」。「ことば」はつかうものだが、そのつかえることばというものは「持っている」ことばでなければならない。
 ちょっと、まどろっこしく、めんどうくさいことを書いているだが……。
 ひとは、ときどき「持っていないことば」をつかうことがある。きのう書いた城戸朱理批判のつづきで書くと、城戸は「知っている」けれど「持っている」とは言えないことばで「論」を転換した。「神」が、それである。自分で「持っていない」(これを、私は「肉体化していない」と言うのだが)ことばで語るから、途中でその「神」が「キリスト教/イスラム教」の「神」から「日本の古来の神」にすりかわっても、気にならない。これは、ことばは、「持っていなくてもつかえ」るということ、ことばをつないでしまえばいつでも「論理」のように見えてしまうということ意味する。そんな「肉体化されていない」ことばで書かれたものを追いかけても、味気なくなるばかりである。
 この青山の詩は違う。
 友達の「のりちゃん」が悲しんでいる。なんとか慰めたい。でも、どうやって慰めていいか、わからない。わかる(覚えている)のは、のりちゃんがもんじゃ焼きが好き、というとだけ。いっしょにもんじゃ焼きをつくって食べたとき、のりちゃんは楽しそうだった、ということだけ。そののりちゃんは、切りイカの入ったもんじゃ焼きが好きなのだ。それも、覚えている。だから、自分の持っていることば、覚えていることばを、全部、つかって言う。

-のりちゃん もんじゃ焼きやろうよ
 切りイカいっぱい入れて-

 それは「十五の青山」のことば。あのとき、それ以外のことばを持っていなかったと青山は書いている。いまは、どうか。もっと、のりちゃんを慰めるにふさわしいことばを持っているか。もっと「大人らしい」ことばを青山は、いまは、知っているかもしれない。しかし、それは「知っている」であって、やっぱり「持っている」とは言えないだろうなあ。大人になって「知った」ことばを、のりちゃんに向かって言うということは考えられない。
 のりちゃんを慰めるには、「もんじゃ焼きやろう」しかないのである。ことばは、常に、人と人との間で動き、生きる。他のことばでは、のりちゃんがうれしい顔と結びつかない。いまとなっては、その「もっじゃ焼きやろう」は、悲しいというか、切ないというか、なんともいいようのないことばなのだが、言うとなったら、やっぱり、そのことばだ。ことばは、あの時の青山とのりちゃんの「肉体」を持って、いまも、生きている。
 五連目の「記憶の土手はずっとつづいていて」の「ずっとつづいていて」は「土手」がどこまでもつづいていると読むこともできるが、その「記憶」がずっとつづいているとも読むことができる。 記憶とは「肉体」のなかにいきているもの、「肉体」が生きているとき、「記憶」も生きている。
 ことばは、何かを、ずっとつづけるものなのである。何かを、ずっと生かしていくものなのである。この「持続」を「持っている」という。「頭」で持つのではない。「肉体」で「持つ」のである。そのとき「肉体(いのち)」はつづいていゆく。



 高田昭子「ててっぽっぽう」は、永瀬清子「明け方に来る人よ」の山鳩の鳴き声と父の思い出を絡めて書いたもの。

あの日
父は無花果を食べていた
庭の無花果の木では
ててっぽっぽうの声がする
その時初めて
ててっぽっぽうと聴こえた
かの詩人と初めて繋がった思いを
父に告げた

父は「そうか」と言って
黙って無花果を食べていた
しばらくしてから
「ふるさとでは、ででっぽうと言っていたな。」と言った
濁音と清音が息づく様々なふるさとの言葉
南から北へとのぼりながら
言葉は素朴な濁音をまとってゆくようだった
あの日から
父は北の古里ばかりを恋うていた

 
 清瀬は「ててっぽっぽう」という「音/声/ことば」を「持っている」。その清瀬が持っているものを高田は聞いた。そして「繋がった」。高田は「繋がった思い」と書いている。これは清瀬が詩を書いたときの「思い」、詩に込めた「思い」のこと。つまり、心底「理解した」ということだろう。しかし、繋がったのは「思い」だけではないだろうと、私は思う。「耳」が、つまり「肉体」がつながったのである。同じ「肉体」を持ったのである。そして、このとき高田は「ててっぽっぽう」ということばを「持った」のである。「肉体」にしたのである。山鳩は正確には何と鳴いているかわからないが、それを高田は「ててっぽっぽう」と聞くのである。
 この「肉体」の反応に対して、父の「肉体」が動く。「ふるさとでは、ででっぽうと言っていたな。」耳が反応し、持っていた(持っている)ことばが動く。ててっぽっぽうもででっぽうも山鳩の鳴き声。同じものが違う肉体によって違う音(ことば)になる。違うものになるけれど、それが「同じ」であることがわかる。「肉体」は、何か、そういう「違い」を飲み込んで動いていく。そして、「繋がる」。
 「繋がる」というのは「広がる」ということ。そして、その「広がる」は、外へ(肉体の外へ)広がるだけではない。「肉体」の「内部」をも広げる。つまり豊かにする。
 この「広がり」や「豊かさ」は、説明しにくい。
 ここに書いてある、これがそうだよ、というようにしか言えない。高瀬はててっぽっぽうと言い、父はででっぽうという。その両方を高田は聞いてつなげる「耳」を持っている。どちらも「正しい」。
 青山の詩にもどれば(詩とつなげれば)、肉親を亡くした友人に「もんじゃ焼きやろうよ」と言うことは、客観的に(?)見れば変である。けれど、「ことば」というのは表面的な意味だけではなく、それといっしょに「肉体」を持っている。「頭」と「頭」をつなぐのではなく、「肉体」と「肉体」をつなぐことばというものがある。ことばのなかで「肉体」が抱き合う、抱擁するのである。ことばのなかで、人間が「はだかになる」とも言える。
 こういう「正直」なことばが、私は好きである。
 高田の詩について付け加えると、父は死んでいる。しかし「ででっぽう/ててっぽっぽう」という声として、いまも高田の「耳」に生きている。人間の肉体は消えても、「ことばの肉体」は生き続けるものなのだ。

詩集 あかり売り
青山 かつ子
花神社
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城戸朱理「神の示現から始まって」

2016-09-17 10:52:54 | 詩集
城戸朱理「神の示現から始まって」(広瀬大志『広瀬大志詩集』(現代詩文庫230 )思潮社、2016年09月15日発行)

 きょう書くのは、「いちゃもん」である。城戸朱理「神の示現から始まって」は『広瀬大志詩集』(現代詩文庫230 )の「作品論・詩人論」に収録されている。
 この「論」を読みながら、最初に考えたのは、城戸にとって「神」とはどのようなものか、である。存在していると考えているのか、存在していないと考えているのか。さらに木戸が「神」を信仰しているとしたら、どのような「神」を信仰しているか、ということである。
 私は「神」が存在しているとも、存在していないとも、考えたことはない。存在していると言おうが、存在していないと言おうが、それは「ことばの論理」の上でのことであるから、どちらも同じ。だから、「論理」にはつきあってみることはあるが、「結論」にはまったく関心がない。
 言い換えると、私は「神」について語る人間に対しては、その「論理経過」と「結論」が「整合性」を持っているかどうかだけを見ることにしている。「神」そのものについて、だれが、どの「神」を信じようが(どのように論理づけをしようが)、その人個人の問題であって、私には関係がない。
 個人的な体験を書いておけば、私の母は、何か問題が起きると、すぐ仏壇の前で「なんまいだぶつ」を繰り返した。そんなことをしたって、たとえば父の胃ガンが治るわけではない。しかし、そういうことを母に言ってもしようがない。母は、浄土真宗の念仏をとなえれば「天国」いけるということよりも、念仏をとなえれば自分の不安が消えると信じている。その信じ方は間違っている、と言ったって、母に通じない。信じていることは、信じているにまかせるしかない。私は無言で、父が胃ガンの手術をすること、その結果は念仏は関係がないと思っているだけである。もう父も母も死んでしまった昔のことだが。

 さて。
 城戸は「神」が存在していると考えているのか、どの「神」を信じているのか。これが、私には、さっぱりわからなかった。
 城戸は2001年9月11日のテロに触れながら、

二十一世紀になってからの紛争は、キリスト教圏とイスラム教圏の文明の衝突という側面を有していることは否定できない。

 と書いている。これは、一般的に言われていることである。何度か、聞いたことがある。そのあと、城戸はつづけて、こう書いている。

 二十世紀。二度にわたる世界大戦を経験した人類は、テクノロジーの進歩によって、世界が抱える諸問題が解消されるのではないかと考えた。しかし、それは幻想でしかなかった。本来ならば、同じ神を戴くはずのキリスト教国とイスラム教国の衝突は、宗教というものの再考を促しているのではないだろうか。

 「二度にわたる……」の「主語」は「人類」。「人類は……と考えた」ということだが、「人類」って、だれ? さらに「教というものの再考を促しているのではないだろうか。」と感じる木戸は、宗教について、どう再考したのだろうか。
 城戸は、再考したことは、次の文章で書いてある、というだろう。(まあ、論理的な展開は、そうなっている。)
 で、問題の、「再考」を次のようにはじめる。

 およそ、世界の民族のうち、宗教を持たない民族は存在しない。ただひとつの例外は、アマゾン川の支流、マイシ川沿いの村に数百人が暮らすピダハン族だけだろう。

 私は、ここで、突然笑い出してしまった。
 「アマゾン川の支流、マイシ川沿いの村に数百人が暮らすピダハン族」と、城戸は対話したことがあるのだろうか。その人たちと触れ合って「宗教」について彼らが何を感じているか、どう振る舞っているかを、実際に「体感」したことがあるのだろうか。
 アマゾンには「数百人」単位の民族がどれくらいいて、その民族のすべての「宗教」を確認した上で、そう言っているのだろうか。
 とても、そうは思えない。
 もし城戸が自分自身で確認した「事実」なら、広瀬の詩についての「論」を書くよりも、その「事実」を書くことに時間を割くべきだろうし、時間を費やしているだろうとも思う。彼らの、どんな態度から「宗教を持たない」と判断したのか、宗教を持たないことによって、彼らの暮らしは他の「人類」とどう違うのか。そのことの方が、私には、はるかにおもしろいことだと思える。広瀬には申し訳ないが、城戸に広瀬の論を書いている暇があるのなら、ぜひ、ピダバン族について文章を書いてもらいたいと思う。
 たぶん、城戸はピダバン族の調査などしていない。どこかで読んだ「情報」を受け売りしている。しかも、「情報源」を明確にせずに。(「二度にわたる…人類は…考えている」も受け売りだろう。)
 これは、「神」とか「宗教」とかを語る場合、あまりにも無責任である。城戸は「人類」「民族」ということばを平気でつかっているが、宗教はあくまで「個人」のものである。宗教について書くなら、自分自身の「神」/宗教」に対する態度を明確にし、その上で書かなければならない。自分の問題をほったらかしにしておいて、他人の「神/宗教」について語るのは、傲慢というものだろう。

 城戸は続けている。

先進国においても、宗教を斥けることができるのは、知識人を始めとするごくひと握りの人間であることを思えば、人間は、魂の中心に宗教心を持っているかのようでもある。

 こう書くとき、城戸は、どこにいるのか。「先進国」の「知識人」の「ひと握りの人間」なのか、それ以外なのか。城戸は、ここで「宗教を斥ける」ということば(動詞)をつかっているが、「斥ける」と「信じない」「近づかない」は別の動詞である。なぜ、「斥ける」をつかっているか、城戸が「斥ける」人間だからであろうか。
 もし、宗教を「斥ける」人間が宗教について語るならば、それはどうしたって宗教攻撃になるだろう。
 宗教を信じる人間なら、信じている宗教にそったことばが語られるだろう。語ってしまうだろう。
 城戸はどっち?

 どっちであるか、城戸は語らないまま、「その発生において、宗教があるから宗教心が生まれるのではなく、宗教心があるから宗教が生まれるということではないだろうか。」と書き、問題を「では、宗教心とは何なのだろう。」と論を進める。
 「宗教」から「心」にことばの重心を移す。論理をずらす。だから、以後、キリスト教もイスラム教も出てこない。
 そして

 上古の昔、(略)人間の力ではいかんともしがたい出来事--火山の噴火、地震、洪水、旱魃、落雷、疾病や死に直面したことだろう。こうした抗いがたい出来事を前にしたとき、人々は、畏怖とともに、そこに超越的な力を感じたに違いない。その心的状態が、神という言葉と概念が生じる基層となる。

 と、つづける。
 「上古の昔」と書かれているが、いまは? 城戸は? 「火山の噴火、地震、洪水」を体験して(情報として受け止めて)、「畏怖とともに、そこに超越的な力を感じた」? そして、そこから「神」という「言葉の概念」が生まれた?
 他人のことではなく、自分のことを語ってくれないので、疑問ばかりが募る。
 このあと、城戸は折口信夫を引用しながら、日本の神について語り続けるが、最初に書いていたキリスト教、イスラム教、それからピダハン族の無宗教は? 「タタリ」「ノル」が「祟り」「宣る」へ、さらに「呪う」へ変化していくという折口の説は折口の説としてわかるが(論理的に完結していると思うが)、それはキリスト教、イスラム教では、どういうことばで「具体化」されている? そしてピダハン族は、それをどんなことばにする? それを語ることばがないとしたら、たとえ火山の噴火、地震、洪水、旱魃、落雷、ば疾病や死に直面したとき、どう語る? だれに、何を訴える? アマゾンのどこかには、そういうことはいっさい起きない?

 このあと(全体の八分の三を過ぎたあたり)、城戸は、それまで書いてきたことと広瀬を結びつける。

自然への畏怖、それこそが宗教心というものを生じさせたものではないだろうか。原初のときから脈々と伝えられてきた恐怖の感覚。広瀬大志の詩とは、その恐怖を現代的な方法で示現させることによって、逆に今日の生の輪郭を明らかにするものだと言えるだろう。

 うーん。
 「神/宗教」の問題が「恐怖」にすりかえられていないか。
 私は広瀬の詩が「ホラー」だと感じない(これは、昨日書いた)。そして、そこに「恐怖」も感じないから、城戸の書いていることが理解できないのかもしれないけれど。
 変だなあ。
 「恐怖」ということばを導き出すために「神/宗教」を語ってきたのかな。「自然への畏怖(恐怖)」の一方、たとえば現代では「宗教」そのものへの「恐怖」というものもある。トランプのイスラム教徒への憎悪は、イスラム教は「怖い」という感覚の裏返しだろう。こういう「恐怖」は、どうなるのかなあ。
 広瀬の詩は、「恐怖」を描いているということを前提とするなら、その前提と、「神/宗教」は、どうつながる? つまり、広瀬の詩は、現代のなかで、どんな形で「神/宗教」としてあらわれてくる?
 城戸の論のつづきを読んでも、そのことは書かれていない。

『草虫観』とは、わたしたちが生きる世界の相対を見つめ、時間の終わり=世界の終焉と、その新生を語っているのだと考えることができるだろう。そのとき、祟りは神の示現である「タタリ」に、呪いは神の言葉である「ノル」に再び立ち還る。それこそが、詩なのだと広瀬大志は語っているのではないだろうか。

 このあたりが「結論」めいているが。
 あ、なんだ、城戸は折口信夫を読んでいるということを、広瀬の詩をつかって「宣伝」しているだけなのか、と思ってしまう。
 要約すると、城戸は

神(宗教)→宗教心→心→畏怖(恐怖)→神(タタリ/ノリ)→詩

 という論理を展開したことになるのだが、最初の神と後半の神は別物。最初の神はキリスト教/イスラム教の神であり、後半は日本古代の神(折口信夫の把握している神)。だから「神」ということばだけを取り上げるなら、城戸の論理は「循環(立ち還りながら)」することで「昇華」している「根拠」になるのだが、「神」の指し示すことがらが違っているのだから、これは、ごまかしであり、破綻である。この破綻をごまかすために、アマゾンの少数民族が古代日本と結びつけられようとしているのだが、これって、なんだか差別的。そして、「神」の指し示すものが大きく違ってしまったのに、その「神」から「タタリ/ノリ」ということばを引き出して、広瀬の詩に結びつけるのでは、これは単に、城戸が「私は折口信夫を読んでいる」という宣伝になってしまう。広瀬の詩は、その宣伝のダシにつかわれたことになる。
 すべては、城戸が自分自身と「神」の問題を棚に上げ、どこかで読んだにすぎない「神」の情報をもとに論を展開することが原因になっている。「神」ということばをつかうなら、自分自身の「信仰」を明確に示す必要がある。


広瀬大志詩集 (現代詩文庫)
広瀬 大志
思潮社
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自民党憲法改正草案を読む/番外21(情報の読み方)

2016-09-17 07:33:25 | 自民党憲法改正草案を読む
 2016年09月17日読売新聞朝刊(西部版・14版)1面に「辺野古訴訟 国が勝訴」という見出しと記事が乗っている。翁長知事による普天間飛行場移設先(辺野古)の埋め立て承認取り消し処分を、高裁名は支部が「違法」と判断したというニュースである。
 その「判決のポイント」に、

国防と外交は国の本来的な任務で、国の判断は不合理でない限り尊重される

 とある。
 ということは、もし沖縄県民が(知事が)、辺野古がだめだと主張するためには、辺野古という場所が「不合理」であるということを証明しなければならないことになる。「不合理」の証明など、できない。
 普天間の安全確保、経済発展という、国の考えた「合理」は完結している。その完結している「合理」を国が前面に出してくるとき、それに対する「不合理」は存在しない。
 だから普天間を出発点にして「合理/不合理」を考えるのではなく、辺野古を出発点にして考える必要があるのだが……。
 滑走路を造るには、土地が狭い、から「不合理」と主張すれば、土地が狭いなら海面を埋め立てて土地をつくればいい、ということになる。実際、その方向で計画が進んでいる。
 海面を埋め立てるのでは、自然破壊になると主張すれば、自然への影響を最小限に抑える工法をとる、ということになる。
 「ことば」はどうとでも組み立てることができる。そして、その組み立て方に問題がなければ「論理的=合理的」ということになる。
 「合理/不合理」ではなく、基地ができるのはいやだという、そこに住む人の「気持ち」が大事なのだ。その気持ちを、どうやって解消するか。
 納得する(説得させる)ためには、話し合いが必要だ。話し合いの中から、打開策を探していかなければならない。そのために「交渉」というものがあるのだと思うが、国の判断に「不合理」がない限り、住民は国の判断に従うべきだというのでは、「地方自治」の否定になってしまわないか。
 これでは次々に「国の判断」が「地方」に押しつけられることになる。
 どんな「判断」も「合理的」なものを含んでいる。そうしないと、「主張」できない。「全面的に不合理な判断」など、想定することができない。

 ちょっと気になり、現行憲法と自民党憲法改正草案を比較してみた。

(現行憲法)
第九十二条
地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。

(改正草案)
第九十二条
地方自治は、住民の参画を基本とし、住民に身近な行政を自主的、自立的かつ総合的に実施することを旨として行う。
2 住民は、その属する地方自治体の役務の提供を等しく受ける権利を有し、その負担を公平に分担する義務を負う。
第九十三条
地方自治体は、基礎地方自治体及びこれを包括する広域地方自治体とすることを基本とし、その種類は、法律で定める。
2 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律で定める。
3 国及び地方自治体は、法律の定める役割分担を踏まえ、協力しなければならない。地方自治体は、相互に協力しなければならない。

 いろいろ細部にも言いたいことがあるのだが、端折る。
 改正草案の方が、格段に条文が長くなっている。そして、私が一番注目するのは、その長くなったなかの、つまり現行憲法にはない、「第九十三条第三項」である。

国及び地方自治体は、法律の定める役割分担を踏まえ、協力しなければならない。

 「地方自治」の「章」なのに、ここに「国」が登場している。「国と地方自治体」は「協力しなければならない」と定めている。このときの「協力」とは「地方自治体」に「国」が「協力する」ではないだろう。「地方自治体」よりも先に「国」ということばが書かれている。これは、「国」に対して「地方自治体」は「協力しなければならない」ということである。「国」の言うことを、聞け、ということである。つまり、「自治」の否定。
 今回の高裁那覇支部の判決は、そういう意味では「憲法改正草案」の「先取り」なのである。安倍が改正草案を先取り実施しているのと同じように、司法も安倍にあわせて(安倍に媚を売って?)改正草案を先取りしている。
 安倍も司法も、改正草案を「指針」にして行動している。現実をつくり得ようとしている。
 いま起きていることを、いまの憲法と結びつけて問題提起すると同時に、常に改正草案と関連づけることで安倍が何をしようとしているか、これから何が起きるかを見ていく必要がある。そうすることで改正草案の危険性を指摘し続けなければならない。

(参院選期間中に、大急ぎで問題点を指摘したときは、「個人」のことにばかり目が行っていて、地方自治などの部分は読みとばしてしまっていた。「ニュース」にあわせ、改正草案の問題点を指摘し続けたい。)
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水の周辺 2

2016-09-16 22:38:39 | 
水の周辺 2



ゆるむ。ゆるく、
ふくむ無念がくらくふくらむぬめる
腐敗ぬらぬら。



ふれる、ふれ、ふる、ふらるり、ふれふれ。
(雨が木の上に立っていた。)

ふれる、ゆるりゆれず、
ゆるやかな傾きつかめぬつかの間のつや。



うねるうれいのくねりうねるうれしさくねくね
うねうね。




半濁のなまぐささうるさく、
ぬくみにぬれるたくらみの悪どさくろく、
ひかる。




*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。


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広瀬大志『広瀬大志詩集』(現代詩文庫230 )

2016-09-16 11:53:52 | 詩集
広瀬大志『広瀬大志詩集』(現代詩文庫230 )(思潮社、2016年09月15日発行)

 広瀬大志の詩は「名詞」がちらばっていて、「動詞」がつかみにくい。たくさんのことばを持った詩人であることはわかるが、何が書いてあるか、わからない。ことばをたくさん持っていることがわかれば、それでいいのかもしれないけれど。
 『喉笛城』の「喉笛城 1(背景の一枚)」はこういう詩である。

一枚の鏡が割れただけ
の丘や谷に
花咲く喉を摘んだこと
それでは純愛の顔のため
詩的水準をテーブルに積み上げて
死の欠けた雲を見よう
記憶の腹を抱き締め
いつの日も永遠は呪的に横たわる
麦の穂が震えるような
叫び声のもとに

 動詞(連体形も含む)を拾い上げてみる。「割れる」「咲く」「摘む」「積み上げる」「欠ける」「見る」「抱き締める」「横たわる」「震える」「叫ぶ」。この「動詞」を動くとき、肉体はどうなるのか。この動詞をどうやって「肉体」で「ひとつ(連続したもの)」にできるか。それが、わからない。動きが忙しすぎて、何をやっているか、つかみきれない。
 「割れる」から「咲く」への動きは、わからないでもない。つぼみが「割れる」ことを「咲く」という。そのとき「つぼみ」という書かれていないことばの代わりに「鏡」があるのだが、「鏡」は「つぼみ」のように閉ざしている何かなのか。それとも、「花」を先取りしている輝きが、「割れる」という動詞の形で「咲く」という動詞を先取りしているのか。
 「喉」を「摘む」は、「喉」を「絞める(締める)」につながり、そのとき「喉」は「腹」の「比喩」としてふたたび登場し、「抱き/締める」となりながら、「叫ぶ」という動詞とつながる。「叫ぶ」のなかには「震える」も含まれる。
 セックスが「純愛」を経由しながら描かれていると読めば、途中に出てくる「死」はエクスタシーであり、その「死」が「欠けている」とは、「純愛(あるいはセックス)」が不毛であることを暗示するかもしれない。その「不毛」が「永遠」となって「呪的」に「横たわる」ことで、純愛とセックスの拮抗が、そこに噴出していると読むべきなのか。
 しかし、これでは忙しすぎる。「長編小説」なら、こういう「比喩」の変化、「動詞」そのものが「比喩」となって動いていくというのも、「じわじわ」という感じがしておもしろいかもしれないが、どうにも気ぜわしくなる。

 私はたぶん(いや、きっと)読み違えているのだろう。
 ここに書かれていることばは「日本語」だが、「広瀬語」とでもいうべきもので、違った形で「肉体化」しないことには、対話はむずかしい。
 ほとんど「お手上げ」というかたちで読み進むのだが……。『髑髏譜』の「肉体の悪魔」で、はっ、と気づかされことがあった。

おまえは悪い部分を持っている

宿りきれない抑揚の
苦しみ側の斜面に喉がある
かたちというかたちを
「心が引き起こしていく」

忘れられない方の
断崖の身寄りに
精神の結束がある
「遠のくと近づくから」

私は部分だ

雑木林の肉の切れ目で
昼が夜のように切られている

 やはり「動詞」を抜き出してみる。
 「持つ/持っている」「宿る/宿りきれない/きる」「苦しむ/苦しみ」「ある」「引き起こす/引き起こしていく」「忘れる/忘れられない」「身寄り/寄る」「ある」「遠のく」「近づく」「切れ目/切る」「切られている」
 それまで読んできた詩にも書かれていたか、どうか。読み返して確かめることはしない。いま、ここで気がついたのだから、その気がついたことをそのまま書くと、ここには、私が読み落としてきた「動詞」がある。
 それは「ある」という「動詞」。
 「喉がある」「結末がある」という形で二回つかわれている。「私は部分だ」の「だ」は「である」が短縮された形であるから、合計三回つかわれていると言える。
 その「ある」を読んだ瞬間、あ、そうか、広瀬は、世界を「ある」という形式、いいかえると「存在論」としてつかんでいるのかと気がついたのである。私とは「動詞」のつかみかた、「肉体」のつかみ方がまったく違うのである。これでは、広瀬の詩は、私にはわからないはずである。
 私は「ある」という存在の形を信じていない。そこに「ある」のは、そこに「生まれてくる/何かがそれを生み出す」という形で理解しているが、広瀬は、ぱっと「ある」を「名詞」としてつかみ取っているのだ。
 言い換えてみる。説明し直してみる。

おまえは悪い部分を持っている

 この「持っている」は「持つ」と「いる」が組み合わさった「動詞」だが、それは「持った/状態として/ある」ということ。そこには「ある」が隠れている。これを、もしも「ある」という動詞をつかって言いなおすと、

おまえには悪い部分がある

 になる。
 似た行、

昼が夜のように切られている

 これは、

夜のように切られた昼がある

 ということである。
 同じように、

かたちというかたちを
「心が引き起こしていく」

 は

心が引き起こした
かたちがある

 ということ。
 広瀬は「名詞/存在」を「見ている」。自己を「世界」から半分切り離している。自分がその世界にいるときさえ、それを見つめる「私」が「世界」の外にいる。
 それを端的に語るのが

私は部分だ

 である。「全体」であることはない。「私」が「世界」そのものとして動いていくことはない。
 こんなふうに考えるいいかもしれない。
 水に浮かんだ舟。それに乗って進む。そうすると舟の動きに従って、岸が動く。山が動く。そのときの感じを「私はふねに乗ってここにいる(私はここにある)/あの岸があそこにある/あの山があそこにある」という感じでとらえるのが広瀬なのである。存在(名詞)を切り離して、個別に存在していると見ている。そういう風に見ている「自分自身」をもどこかで見ている。
 だれでもそうではないか、と言われそうだが、実は、私はそんなふうには考えていない。「舟の上の私、そこから見える山も私、岸も私であり、山や岸は私がいなければ存在しない、つまり私が生み出した私の何かなのだ」と感じるのである。
 そして、他人の詩を読むときは、そういう私の感覚に通じる「動詞」のつかい方をしている詩人の「肉体」に共感して読んでいる。
 広瀬の動詞のつかい方(世界のとらえ方)は、私とはまったく違っていて、そのため目がちらちらと動き回り、なんだか気ぜわしい気持ちになったのだ。
 ちょっと面倒くさいことを書きたすぎた。
 詩にもどってみる。「ある/いる」が広瀬の詩のキーワードだとわかったので、それを補って、最初の詩を読み直してみる。

一枚の割れた鏡がある
その鏡がある丘や谷がある
そこには花が咲いている(咲いた花がある)、そしてその花には喉がある
(その花=あなたを摘む私がいる/あなたがいて、私がいる)
純愛にふさわしいあなたの顔がある、その顔のために書いたことば
テーブルに積み上げた詩的水準がある
(純愛のために私は詩を書いた。純愛を詩に高めた。詩集がある。それをテーブルの上に積み上げてある)
死の欠けた雲がある(エクスタシーに達しなかった愛がある)
抱き締め(記憶の)腹がある(セックスの記憶がある)
いつの日も呪的に横たわる永遠がある
震えるような麦の穂がある
叫び声といっしょに(同時に)、その麦の穂がある

 「誤読」かもしれないが、「ある」を補って読むと、ぐんとわかりやすくなった。(私には、であるけれど。)まあ、「誤読」というのは自分の都合のいいように読むことだけれど……。
 このとき「麦の穂」は「あなた」の比喩であり、あなたの肉体である。
 「肉体」とは書いてみたものの、どうも、私にはピンと来ない。麦の穂に女を感じたことがないからかもしれない。まだ、最初の方の「鏡」や「花」の方が女っぽいかなあ。でも、これは単なる「文学の伝統」でそう感じるだけかも。
 「喉」を締める、という「動詞」がセックスを語っているのだが、セックスのとき相手の首を締めるということをしたことがないので、実感としてつたわってこないのかもしれない。
 つまり、まるで「映像」を見ているだけと感じてしまうのかもしれない。映像がそこに「ある」という感じ。

 詩集の帯には「詩のモダンホラー」と書いてあるのだけれど、うーん、首を絞めるというようなことが書いてあるから? でも、私は、ぜんぜん怖くない。ホラーをまったく感じることができない。どうせ見ているだけ、という感じがしてしまう。
 「写真」の感覚といえばいいかなあ。
 「ある」ではなく、それが「動く」と怖くなるのだと思うけれど。

広瀬大志詩集 (現代詩文庫)
クリエーター情報なし
思潮社
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白井知子「少年ヴォロージャ」、弓田弓子「あした土曜日」

2016-09-15 09:01:32 | 詩(雑誌・同人誌)
白井知子「少年ヴォロージャ」、弓田弓子「あした土曜日」(「幻竜」24、2016年09月20日発行)

 白井知子「少年ヴォロージャ」は、「つながる」ということばがキーワードである。南コーカサス・グルジアのムツヘタ、リラさんの家。「迷い込むようにして」家の奥へ進む。裏庭の「逆光のなかから 少年の蒼い影が近づいてくる」。その少年が二階の部屋へ階段を上ってくる。

リラさんの民家が
十歳になる少年ヴォロージャの夏の家につながっていたなんて--
グルジア西部 クタシイ県のバグダジ村
わたしは屋根裏部屋にしのびこむ
小窓をあけると もう宵闇
<屋外にとびだし 露のおりた草むらで 仰向けに 大の字になり 星空をな
 がめているのは
ヴォロージャ少年>
つんつんしていた草がしっとりと
一晩中 星座の位置をみつけているなんて
星座のずっと向こうから<未来>がやってくるのを
ヴォロージャ少年は待っている

 場所が違っているから、ここに書かれている「つながっていた」は「事実」そのものではない。離れている。けれど、白井が「つなげた」のである。
 さらに、それは

菩提樹の薫る 四月のモスクワの通り
ルビャンスキー横丁三番にまでつながっていたなんて--

ヴォロージャ あらため
詩人 ウラジミール・マヤコフスキー 三十七歳の勉強部屋
机のうえのメモがき 電気スタンド インク壺
かれは 追い詰められていた
裏切り者を熟知し
秘密警察の手口にはだれよりも詳しかった
女優 ヴェロニカとの愛をもっても救えなかった

<部屋には硝煙がたちこめていた 仰向けに 大の字になり 両手両足を広げ
 ライオンのごとく吠えている
床に磔にされたマヤコフスキー>

 これも、白井が「つなげる」のである。
 詩は、さらに「グルジアのゴリ市 靴職人の家につながることがあり」という行を経由して、スターリンにも「つながる」。いや、白井が「つなげる」。そうすると、そこに離ればなれの場所と時間が「歴史」として浮かび上がる。「悲劇」が浮かび上がる。
 「歴史」も「悲劇」も、だれかが「つなげる」ことによって、「いま/ここ」にあらわれてくる。違う人間が、同じことを、違う「歴史」として「つなげる」ことも可能である。
 だからこそ、どう「つなげる」かが問題になる。
 「仰向けに 大の字になり」という、少年とマヤコフスキーを重ねる(つなげる)ときの「肉体/動詞」が強い。「肉体」と「動詞」を見つけ出し、そのことによって、それは「私たち」ともつながる。
 だれでも「仰向けに 大の字にな」ることができる。そして、星空を眺めることもできれば、磔にされて「吠える」こともできる。
 このときマヤコフスキーが「読者」になるだけではない。スターリンも「読者」になるのだ。複数のものと「つながる」とき、そこに「事件」が「事実」として蘇る。
 こういうことを「理屈/論理」ではなく、実際に、その「事件」の現場に肉体を置くことでつかんできたことばと一緒に白井は書いている。
 詩の引用が前後するが、「リラさんのお宅」での食事がこんなふうに描かれる。

ピザ風のパン 子牛 米 ミルクを煮込んだスープ
羊肉のミンチに米やハーブをまぜ 葡萄の葉でつつんだドルマ
スモモ 葡萄 果物の砂糖漬けまで……

 この「具体的な食べ物」が、それを食べたであろうヴォロージャ少年の肉体となり、マヤコフスキーの肉体となるだけではない。そこに生きている人すべての肉体となることで、マヤコフスキーの「悲劇」は、一緒に暮らしていた人すべての(国民)の「事件」になる。同時に、それを食べた白井の「肉体」の「悲劇」ともなる。
 本で調べて「つなげる」のではなく、その土地へ行って、その土地のひとと一緒に暮らす(ものを食べる)ということを通して、「肉体」の「事件」として、白井はとらえ直している。そういう強さがことばを支えている。



 弓田弓子「あした土曜日」。

あした
土曜日
風呂みがき

あした
土曜日
雑草ぬき

あした
土曜日
大根おろし

あした
土曜日
鰯とぶ

 という具合で「あした/土曜日」が繰り返されながら、三行目のことばが次々に変わる。このとき、「あした」というのはいつのことだろう。「あした」と書かれているが、そして「土曜日」とも書かれているが、それは「現実のあした/きょうの次の日」ではない。「あした」一日で、そこに書かれていることを全部するのではない。それは別々の「土曜日」におこなわれる、別々のことなのである。でも、その別々のものを「あした」が「つなげる」。「あした」は「名詞」ではなく「動詞」なのだ。「あしたは……する」の「する」という「動詞」、それを「する」と思う「気持ち」。「肉体」が「……する」とき、それが「あした」という「事実」になる。
 「……する」とは書かれていない。書かれていないけれど、私は、そう補って「誤読」する。そうすると、楽しくなる。
漂う雌型
白井 知子
思潮社
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自民党憲法改正草案を読む/番外20(情報の読み方/妄想篇)

2016-09-15 08:00:00 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む/番外20(情報の読み方/妄想篇)

 2016年09月15日読売新聞朝刊(西部版・14版)4面に「論点 生前退位」の7回目(最終回)がおもしろい。
 「安定的継承 議論先送り/女性・女系天皇 割れる意見」という見出しがついている。2015年11月に、小泉内閣の「皇室典範に関する有識者会議」を踏まえた「法案」がどのようにして提案されなかったかを書いている。ここに、安倍が出てくるのである。
 有識者会議がまとめたポイントは、

女性・女系天皇を認める
皇位継承順位は壇上を問わず天皇の第一子を優先する
女性宮家創設を認める
皇族女子と結婚した男性やその子どもも皇族とする
内親王はミスからの意思で皇籍を離脱できない

 「当時の皇室には、皇太子さま、秋篠宮さまより若い世代に男子はおらず、「女性天皇」は愛子さまが想定された。政府関係者は「天皇陛下のご意向に反するものではなかった」と振り返る。」と書かれている。
 「生前退位」は話題になっていないが、「皇位継承」は10年以上前から話題になっていた。「政治問題」だった。そのころから政府は「天皇の意向」を確認しながら、法律の準備をしてきたことがわかる。
 で、2006年1月26日に、小泉は「3月に法案(皇室典範改正案)を提出します」と有識者会議の吉川弘之座長らに語った。ところが、2月7日、秋篠宮紀子が退任したことが明らかになり、状況が一変する。

 小泉氏が(法案の)早期提出を主張すると、安倍氏は「総理、そうじゃないんですよ」と制し、こう説得した。
 「今、改正すれば、お子さまが男の子だった場合、その子から愛子様に皇位継承権がぽーんと移ることになるんですよ」
 男子が生まれた場合、誕生直前の法改正によって、皇位継承順位は原稿の3位から6位に変わってしまい、男子が即位できなくなる可能性が出てくることを懸念したのだ。

 小泉が「男子」にこだわると「皇位継承」がとだえることを心配しているのに対し、安倍は「天皇は男子でなければならない」ということにこだわっている。
 安倍のこだわりは、自民党憲法改正草案の前文、

日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。

 を踏まえたものである。「良き伝統」とは家長制度のことである。その伝統の「見本」が「天皇家」である。父親(男子)が家族の中心。この家長制度の復活を狙った文言は、改正草案「第二十四条」にも読み取ることができる。現行憲法にはない「家族」「親族」「扶養」「後見」ということばがついかされている。家長(父親)が「家族/親族」を統制するという考え方である。そこでは「個人」というのもが軽視されている。
 なぜ、家長制度にこだわるのか。国家と家族を重ね合わせようとするのか。国家を「家族」のように「運営」したい、という野望があるからだろう。内閣総理大臣が「家長」となって「国家」という「家族」を統制する。内閣総理大臣の意向にそわないことをするものは許さない、という野望があるのだろう。

 で、こういう「野望」が、今回の一連の「生前退位」の問題とつながっていると私は思う。
 ここから、私の「妄想」はさらに暴走する。
 「生前退位」問題の出発点に、天皇の高齢化という「事実」がある。これは小泉時代の「有識者会議」のときから存在した。
 この「事実」がもっている問題点を解決するために、小泉は「女性・女系天皇を認める」という「現実」に則した方法を考えた。
 ところが安倍は、そうした「現実」的な考えには反対した。あくまで「男子天皇」にこだわった。そして、安倍のこだわりに合致するかのように、秋篠宮に男子(悠仁)が生まれ、「男子天皇」の「伝統」がつづく可能性が出てきた。
 ここからが、問題。
 安倍は、単に「男子天皇」がつづくことを願っているのではない。悠仁を「摂政」にして、安倍が悠仁をあやつるかたちで、内閣総理大臣に君臨し続けたいのだ。「摂政・悠仁」を実現することで、権力をより強大にしようとしているのだ。
 自民党憲法改正草案に「後見」ということばがあらたに付け加えられていることを先に指摘した。「摂政」は「後見」とは異なる概念だが、「摂政」が幼い場合、だれかが「摂政」を補佐する必要がある。「補佐」とは「後見」にほかならないだろう。
 「摂政・悠仁」の「後見」としての内閣総理大臣。安倍は、それを狙っている。
 現行憲法でも、自民党憲法改正草案でも「天皇の国事行為」には「内閣の助言と承認を必要とする」(現行憲法)「内閣の進言を必要」(改正草案)と定めている。この「助言」と「進言」を比較すると、「助言」よりも「進言」の方が「後見」的要素(指導的要素)が強いように私には思える。「指導」のもとに天皇に国事行為をさせる、という感じが強くなると思う。
 そういうことを安倍は狙っているのだと思う。

 「妄想」からいったん「現実」にもどる。いや、「妄想」を拡大する。

(1)「生前退位」の出発点は、天皇の高齢化。
(2)小泉は「女性・女系天皇」を認める。
(3)安倍は認めない。安倍は、そこで「摂政」の設置を天皇側に提案したのだ。いいかえると「意向を確認した」のである。
(4)これに対して、天皇は「摂政」はだめだ、と反対した。そして「生前退位」がいいと主張した。理由は8月8日の「おことば」通り。天皇は「象徴」である。「摂政」は天皇ではない。摂政の設置では、天皇は死ぬまで象徴の勤めを果たさなくてはならない。それでは「負担の軽減」にはならない。

 本当は、そういう具合に「事実」は進んだのではないのか。対立が明確になったのではないのか。報道では、天皇が「生前退位」の意向を漏らし、それを聞いた官邸側が「摂政」を持ちかけたという具合になっているが、順序が逆なのではないのか。
 小泉のときも、有識者会議を設置し、そこで出てきた「結論」を天皇に報告し、意向をを確認している。天皇が皇位継承について小泉に法案をなんとかしろと呼びかけたわけではないだろう。そういうことをすれば、「政治行為」になる。
 8月8日の「おことば」でも「政治的行為」について、天皇は二度も繰り返して言っている。発言が「政治的行為」にならないように、気を配っている。これも、今回の発言が天皇側からのものではない、という「証拠」になるだろう。安倍が、天皇を政治の場へ引っ張りだしたのである。

 「生前退位」では「摂政」の設置は不可能。それでは安倍の野望は実現しない。どうするか。「摂政」の設置を実現するためには、どうすればいいか。「摂政」の実現のためには、天皇を追い出す必要がある。
 そこで「生前退位」という気持ちを持っているということを、まず国民に知らせる必要がある。「高齢である」ということを国民に知らせ、天皇の負担を軽くする必要があるという「世論」をつくることからはじめたのである。籾井NHKをつかって、天皇の気持ちを「スクープ」させた。
 その後、世論は、安倍の狙いどおりに動いている。ただし、世論調査によると、世論は「生前退位」をいまの天皇だけではなく、「制度化」する方を望んでいる。皇室典範の改正が必要になる。これは安倍の「想定外」だろう。
 けれども、安倍は皇室典範の改正ではなく、特例法(特別措置法)で、これを乗り切ろうとしている。改正が安倍の思惑どおりに進むとは限らない。「摂政」の設置が常におこなわれるように改正されるは限らない。逆に「摂政」の設置ができなくなる可能性もある。特例法なら、何度でも特例法を制定すればいい。
 安倍の姿勢には、それでは悠仁以後はどうなるのか、という視点が欠けている。安倍は、そういう「将来」のことなど一度も気にしていない。いまのことしか考えていない。いま、自分がどれだけ権力を行使できるか、ということしか考えていない。選挙にどうすれば勝てるか、ということしか考えていない。
 自民党改正草案のとおりに憲法を改正し、いかに独裁者となるかしか考えていない。そのためには皇室も利用するのである。そういうことが、小泉とのやりとりからもうかがえる。




*

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このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
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水の周辺

2016-09-14 21:10:54 | 
水の周辺



コップ。水を注ぐ。
水が積み上がる。



水の内圧、
水の外圧、

という形。



「圧」、
その周辺が透明になる。



水の匂い。


*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
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佐古祐二『丈高いカンナの花よ』

2016-09-14 14:16:46 | 詩集
佐古祐二『丈高いカンナの花よ』(竹林館、2016年09月01日発行)

 佐古祐二『丈高いカンナの花よ』は冷静すぎるかもしれない。たとえば「ささやかな贈り物」。ピンヒールのブーツを履いた若い娘をまぶしく感じると書いたあと、

おどろいたことに
くたびれた男の枯れ果てたと思われた心にも
まだ水がどこからか
人知れず湧き続けていたか
小石がひとつ擲(な)げ入れられたように
波紋がまるく広がってゆく
しばらくはその広がりを愉(たの)しむゆとりを
初老ともいうべき男は既に携えていて
むろん間もなく静まりかえってしまうのだが
からだのどこか片隅に
ぽっと
花あかりが点(とも)り続けているのは

 「小石がひとつ擲げ入れられたように/波紋がまるく広がってゆく」という比喩。それを、さらに「しばらくはその広がりを愉しむゆとりを/初老ともいうべき男は既に携えていて」と「その」ということばで引き継いでゆく。ここで、ことばは「詩(比喩=ここにないもの)」から「散文(事実の積み重ね)」にかわる。それだけでは終わらずに「むろん間もなく静まりかえってしまうのだが」とことばが動く。この「むろん」は「事実を積み上げる散文」を「論理」に変えてしまう。「むろん……する(しない)」という「構文」を必然として生きてしまう。この「必然」のなかに「ことばの肉体」があるのだけれど、これは、あまりおもしろくない。
 「ことばの肉体」を「肉体のことば」が突き破り、そこから新しい「ことばの肉体」がうまれるというのが、詩の最高の魅力だが、佐古のことばは、あくまで「ことばの肉体」忠実に生きて、「ことばの伝統(文学のことば)」へ落ち着いてしまう。
 「からだの片隅」「ぽっと」「花あかり」という動きは、「文学の肉体」。静かに、安心して読むことができる。これを「完成された」と読む人もいるかもしれないが、この「安定した定型」のために、私はどうも「ひとごと」のように感じてしまう。
 で、「ひとごと」と書いて、気になるのが……。
 
くたびれた男の枯れ果てたと思われた心にも

 この「思われた」。ここから、「ひとごと」が始まっている。私が感じる「ひとごと」は、私が感じる前に、佐古にとっても「ひとごと」だったのだ。「自分の心」を、また「別の自分の心」がみつめて、「心」のありようを判断している。「心」がふたつある。「主語」がふたつある。「枯れ果てた心」と、それを「枯れ果てたと思う心」。この微妙な「違い/差異」のなかを、ことばでととのえているのかもしれないけれど、「心」特有の「のめりこみ」のようなものがない。「のめりこみ」を「文学のことば」がととのえすぎてしまうのかもしれない。冷静すぎるという印象は、ここから来ている。
 佐古の「文体」は、とても冷静・論理的(文学の伝統を踏まえている)である。それは、この作品では「長所」になり得ていないと私は感じるが……。

 「陰・影と光」は「論理」を生かしながら、論理を超えている部分がある。

女のトルソーを
デッサンする
ランプの灯りに
対象は浮かび上がる
描くのは
立体の陰であり陰である
光があたっている
ハイライトは
描かずに残す

陰も影も
光がなければ存在できない
光は
明るければ明るいほど
自らどこを向いているか
見失うときがある
そのとき
陰や影は
光が向いている方向を光に
気づかせてくれる

 「陰影」とひとつにせずに「陰」と「影」にわけている。その違いを書くともっとおもしろいのだろうけれど、それは、まあ、欲張りな注文かもしれない。
 この詩は「陰・影」が光の方向を知らせるというの「論理」を語ったもの。に連目は、その「論理」のみが書かれている。そして、それは一連目に書いたことを逆のところから書き直したと言えるのだが、私は、二連目の「論理」ではなく、一連目の最後、

描かずに残す

 この「残す」に詩を感じた。思わず「残す」に傍線を引いた。
 この「残す」には積極的な強さがある。デッサンだから、それは何かを描くのだが、「描かずに残す」という否定が、それこそ光のようにそこに輝いている。発光している。
 佐古は、描いた「陰・影」が光の方向を決定すると書いているのだが、この「残す(描かない)」が光源になって、「陰・影」をととのえているように感じる。
 佐古の書いていることは、そのまま理解できるが、そう理解すると同時に、佐古の書いたこととはまったく逆なことを瞬間的に感じてしまう。
 この「矛盾」。そこに詩があるのだと思う。
 光が影の方向をつくる。影が光の方向を決定する(逆算する?)。その「ふたつの視点(ものの見方)」は、相対化し、固定してはいけないのだ。どちらであると決めつけずに、そのふたつを「ひとつ」のこととして世界の中へ「生み出す」。そういうことが必要なのだと思う。そう感じさせてくれる。
 ことばではたどりつけないものが、ことばを書いて瞬間に「残る」。「残る」ように、「残す」。佐古がテーマにしているのは「デッサン」だが、これは詩についても言えることなのだろうと思った。

詩集 丈高い赤いカンナの花よ
クリエーター情報なし
竹林館
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