詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む/番外25(情報の読み方)

2016-09-27 10:59:08 | 自民党憲法改正草案を読む
 2016年09月27日読売新聞朝刊(西部版・14版)4面に「首相演説中 自民が起立、拍手/衆院議長注意/野党は抗議へ」という記事が載っている。安倍の所信表明演説注のことである。

 首相は海上保安庁職員や警察、自衛隊員の働きぶりに触れた後、「今この場から、心からの敬意を表そうではありませんか」と呼びかけて、拍手をはじめた。これを受け、自民党員らが起立して拍手を約20秒間続けたため、大島氏が「ご着席ください」と注意した。 日本維新の会の馬場幹事長は演説後、記者団に「異常な光景。落ち着いて真摯に議論しあう状況ではない」と批判。生活の党の小沢共同代表も「北朝鮮か中国の党大会のようで不安を感じた」と語った。民進党も「品がない」(幹部)と問題視しており、野党側は衆院議院運営委員会などで抗議する方針だ。

 「異常な光景」「北朝鮮か中国の党大会のようで不安を感じた」「品がない」と感じたのかまでは、読売新聞は報じていない。
 私はネットで「拍手」の部分だけを見たのだが、やはり「異常」だと感じた。「恐怖」を感じた。
 なぜか。その理由を書く。
 人がだれかに敬意を表して拍手をするということは、ある。それ自体は、異様ではない。つられて拍手をすることもある。でも、そういうとき、その拍手をされる相手が私の目の前にいる。そういうときだ。
 目の前にいないときも、もちろん、ある。たとえばテレビでオリンピック中継を見ている。水泳の男子800メートルリレー。日本チームが銀メダルを獲得した。わっ、すごい。思わず、拍手をしたくなる。多くの人と一緒に見ていたら、みんなで一緒に拍手をするだろうなあ。
 これが現実ではなく、たとえば映画「ベン・ハー」。戦車レースのシーン。チャールトン・ヘストンが落ちそうになるのに耐えて、戦車にもどる。後ろでは敵(?)の戦車が壊れる。ここで観客から拍手が起きる。
 これは「目の前」に「現実」があるわけではないが、同じ時間を共有しているので、思わず「自分の肉体」が反応し、それが「拍手」にかわるのだ。
 ところが、演説を聞いているとき、目の前には自衛隊員らはいない。安倍は、演説の中で言っているように、確かに「夜を徹して、そして今のこの瞬間にも」「任務にあたっています。極度の緊張感に耐えながら、強い責任感と誇りを持って、任務を全う」しているだろう。けれど、その「緊張感」「責任感」を、「映像」かなにかで「共有」しているわけではない。安倍は「緊張感」「責任感」というが、それがどんなものか「ことば」でも「共有」しているわけではない。(それが「ことば」で具体的に描写されるわけではない。)だから、「拍手」が「共感」として、つたわってこない。一緒に「拍手」する気持ちになれない。

 「拍手」というのは、称賛しているということを相手に伝えるものである。だから、その称賛を伝えたい相手が目の前にいることが「大前提」である。
 ここから、安倍の演説と自民党議員の態度を見ていくと、自民党議員は自衛隊員らに「拍手」を送っているのではなく、安倍に「拍手」を送っていることになる。実際、ネットの映像で見たとき、私は、その「拍手」が自衛隊員らに送られているのではなく、安倍に向けておくられていると感じた。
 感動で思わず手を打ち鳴らし、それがそのまま拍手に変わっていくというようなものではない。
 さらに、安倍の「拍手」の映像が、とても奇妙だった。「敬意」を表しているようにはとても思えなかった。縁談で「拍手」をしているが、それは「拍手」を誘う(強要する)ような感じである。「いま/ここ」にいない自衛隊員に向かって真剣に拍手をしている(リオにいる選手に思わず拍手を送る)というような感じ、我を忘れた、他者と自己を同化して真剣になってしまったという感じではなく、「ちゃんと起立して拍手しているか、おれは見ているぞ」と議席を「点検」する目つきなのだ。
 「おれがおまえたちを当選させてなったんだ、拍手しろよ」という感じでもある。安倍の「自画自賛」に自民党議員が追従している感じ。
 それが、気持ちが悪い。
 自民党議員の中で起立しなかった人、拍手しなかった人がいるのか、いないのか。読売新聞には書かれていない。「造反者」がいなかったとしたら、それはそれで、こわい。「民主主義」とは「多様性」が原則であり、「多様性」というのは「批判」を同時に含んでいる。だれも、安倍の「拍手の強要」に対して疑問も持たずに従ったのだとしたら、これは、おそろしい。自民党は「民主主義の党」では、ない。安倍「独裁」の党である。党を独裁支配し、それをそのまま国民に押し広げる。あの、議席を見渡す安倍の目つきは、そのままあすは国民一人一人に向けられるのである。



 所信表明演説で気になった点をいくつか。「憲法改正」について触れた部分の、

 決して思考停止に陥ってはなりません。互いに知恵を出し合い、共に「未来」への端を架けようではありませんか。

 「思考停止」というのは、「第九条」を絶対視する、憲法は変えてはならないという主張を批判してのことばだが、そう「批判」するとき、安倍の方も「思考停止」に陥っていないか。「第九条」を変えなければ日本の安全は守れない、アメリカに押しつけられた憲法ではなく、独自の憲法でなければならない、というところで「思考停止」状態になっていないか。この憲法のおかげで七十年間、日本は戦争をせずにつづいてきた、という「事実」を見落としていないか。「未来」を語るときは、同時に「過去」も丁寧に点検すべきである。今回の演説には「未来」ということばがしきりに出てくるが、「過去」を掘り起こすという真摯さ、過去から学ぶ姿勢がない。

 「一億総活躍/働き方改革」の柱「同一労働同一賃金」についても疑問を書いておく。安倍は、こう語っている。

 同一労働同一賃金を実現します。不合理な待遇差を是正するため、新たなガイドラインを年内を目途に策定します。必要な法改正に向けて、躊躇することなく準備を進めます。「非正規」という言葉を、みなさん、この国から一掃しようではありませんか。

 安倍がこう語るとき「同一労働同一賃金」とは、どういうことを指しているのだろうか。「同一労働同一賃金」の「名目」のもとに「ノルマ」が厳しく設定されることはないのか。「ノルマ」を達成できない労働者の賃金は、そのために切り下げられるということはないのか。「非正規」をなくすために、どうするのか。全員を「正規」にするために、ある部署を「子会社化」し、その「子会社」で「正規社員」として雇用する。「子会社」を設置するとき、そこでの「賃金」を一気に引き下げる。「子会社」で「ノルマ」を厳しく管理しなおし、「同一労働同一賃金」を実現する。
 どんなことも「実現」には「具体的方法」がある。所信表明演説では「具体的方法」までは語らない。

 定年引き上げに積極的な企業を支援します。意欲ある高齢者の皆さんに多様な就労機会を提供していきます。

 というのも「ことば」は美しいが、裏を返せば、年金支給は七十五歳からにする。だから、それまでは「働け」ということかもしれない。「多様な就労機会」というのは働き手の少ない職場ならいつでも就労させるということかもしれない。








*

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村嶋正浩「室生犀星 螽斯の記」

2016-09-27 09:40:30 | 詩(雑誌・同人誌)
村嶋正浩「室生犀星 螽斯の記」(「言葉の海へ」10、2016年07月02日発行)

 村嶋正浩「室生犀星 螽斯の記」の「キリギリス」の二つ目の文字は、「虫」+「斯」なのだが、私のワープロでは表記できないので「斯」で代用した。
 その後半。

午前七時の天気予報で梅雨明けが宣言され、窓を開け放ち西風を
呼び込むのは子供の頃からのならいで、ガスレンジの上でお湯が
滾っている薬缶が気持ちのいい音を部屋中にまき散らしているの
を耳にしながら、眼、耳、舌、唇、更に手足と昨日のままなのが
嬉しく、瞼はあなたの一重が好みで、またあの夏が来たので詩人
なんか大嫌いと書き散らし、それでも振り向くとまた雨だれの音
が家の中までして季節が足早に過ぎるとブランコの揺れる公園も
今はなく、白い花の咲く頃の思い出も薄れ、カーテンは風に揺れ

 まだ続くのだが、こんなふうに読点「、」ばかりで句点「。」は最後にひとつあるだけで、延々と言う感じでことばが動いていく。
 どこが、おもしろいのか。この詩について、私は何を書くことができるのか。じつは、私にはわからない。いつも、誰の詩についてもそうだが、私は何わからないままに書く。読んでいて、ふと、つまずく。その「つまずき」について、ことばを動かしてみる。

眼、耳、舌、唇、更に手足と昨日のままなのが嬉しく、

 この部分で、私は少し立ち止まった。読み進むスピードが変わった。村嶋は「昨日のまま」と書いている。ほんとうか。ほんとうに「眼、耳、舌、唇、更に手足」という「肉体」は「昨日のまま」か。「肉体」の内部では、細胞の生き死にがある。だから、それは「昨日のまま」ではないということを、私は知っている。そして村嶋だって、そういうことは知っているはずである。知っていて、なお「昨日のまま」と書く。それは何といえばいいのか、「意識の修正」である。「意識」を「修正」して、そのうえで「肉体」をつづけるのだ。
 「肉体をつづける」とは奇妙な言い方である。自分で書きながら、これはおかしいなあ、と思う。思うと同時に、この「肉体をつづける」というのは「世界をつづける」ということだな、と思いなおす。
 「眼、耳、舌、唇、更に手足と昨日のままなのが嬉しく、」ということばにつまずいたのは、そうか、村嶋が「世界をつづけている」と感じたからなのだ。
 「世界はつづいている」、村嶋の「肉体」と同じように、村嶋の「意識」では動かせない形で、それは「つづいている」。けれど、その自分の「意識」では動かせないものを「動かせないまま」にしておくのではなく、自分で「引き受け」、そのうえで「つづけている」と感じたのだ。
 書きながら、そういうことを私は発見していく。
 「肉体」を「肉体」まるごとで「肉体」と呼ぶのではなく、「眼、耳、舌、唇、更に手足」と「部分」ごとにことばにしながら、それをもう一度「肉体」として「つないでゆく」。「つなぐ」と「つづける」は、そのとき同じものになる。
 同じことが、「世界」に対しておこなわれている。

窓を開け放ち西風を呼び込む

 「窓」と「西風」は「眼、耳、舌、唇」のように、別の名前で呼ばれる別のもの。しかし、それが「開け放つ」「呼び込む」という、村嶋の「働きかけ」(動詞/動作)によって「つながる」。そして「世界」になる。
 それは「昨日のまま」ではないかもしれない。けれど、それは「子供の頃」のままである。
 で、ここが、不思議。
 この詩には「昨日のまま」、つまり一番近い時間といまが「同じ形」でつづいているということが書かれていると同時に、遠いある瞬間といまがやはり「同じ形」でつづいていることが書かれている。「違う」のに「同じ」。そして、この「同じ」という感覚が「違う」を「つなぐ/つづける」。

瞼はあなたの一重が好みで、

 「好み」はかわらない。「好み」はつづいている。「好み」が「世界」を「つないでいる」。

季節が足早に過ぎるとブランコの揺れる公園も今はなく、

 「足早に過ぎる」、そして「なくなる」。「公園も今はなく」と、もう、つなげようとしても不可能なものもある。けれども、そういうものを「意識」は「つないぐ」。「ない」ということばをつかいながら「つなぎ」、そして「つづける」「世界」から切断しながら、もういちど「世界」へ呼び戻す。
 切断と接続を繰り返しながら、村嶋は「好み」を整え続けている。
 そして、その切断と接続のなかには、「昨日のまま」という「感じ」がいつも入り込んでいるのだ。あらゆることが「昨日」の「近さ」でととのえられる。「昨日のまま」にされる。
 だから、この詩には、あらゆるところに「昨日のまま」を補って読むことができる。

「昨日のまま/昨日と同じように」窓を開け放ち、「昨日のまま/昨日と同じように」西風を呼び込む。(それは)子供の頃からのならい(同じ行為)である。(「昨日のまま/昨日と同じような」行為である。)ガスレンジの上でお湯が「昨日のまま/昨日と同じように」滾っている。その薬缶が「昨日のまま/昨日と同じように」気持ちのいい音を「昨日のまま/昨日と同じように」部屋中にまき散らしているのを「昨日のまま/昨日と同じように」耳にしながら、眼、耳、舌、唇、更に手足と昨日のままなのが「昨日のまま/昨日と同じように」嬉しく、「昨日のまま/昨日と同じように」瞼はあなたの一重が好みで、

 という具合だ。「昨日」は、「いま/ここ」にはないが、「昨日のまま」と思った瞬間に、それは「いま/ここ」そのものになる。
 新しいなにかをするという「充実」とは別の「充実」が、しずかな形で、ここに生み出されている。

晴れたらいいね―村嶋正浩詩集
村嶋 正浩
ふらんす堂
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