Elena Gallegoの俳句翻訳(NHK「まいにちスペイン語」2016年09月号)
NHKのラジオスペイン語講座「毎日スペイン語」。9月は俳句が題材。日本の俳句がスペイン語に訳されている。
芭蕉の俳句は、こんな具合。
一句目は別な人の訳なのだが、二句目はエレナ・ガジェゴと太田(?)なんとか(忘れた)の共訳。
日本語の場合、単数複数の区別がない。そこで翻訳するとき、書かれていることばを単数で訳すか複数で訳すかがむずかしい、という話題が出た。
「古池や」の蛙は一匹。これは、私もそう思う。
「閑さや」の蝉も一匹。これには、思わず、えっ、と声を出してしまう。
うーん、なるほどスペイン人らしい。ピカソとかダリとかセルバンテス(あるいはドン・キホーテ、サンチョ・パンサ)の国。何かを切り開いていくのは「集団」ではなく、強烈な「個人」。そういう人間観というものが、知らず知らずに、俳句の解釈にも反映しているということだろう。
ここから少し脱線。
きょうの「日記」のタイトルは「Elena Gallegoの俳句翻訳」なのだが、これは「まくら」。スペイン語の翻訳が的確かどうか判断するような語学力は私にはないので、以下は「俳句」の読み方。いや、「日本語」の「詩」の読み方に関すること。
この句を読むと、「閑さや」でいったん句点「。」がある。ことばが一回終わる。それから「岩にしみ入る蝉の声」ということばが来る。このとき、「主語」と「述語」は?
「蝉の声」が「主語」、「しみ入る」が「述語」。
文法的には、そうなる。エレナの訳も、そういう「文法」に従っている。(ここでは、単数、複数は考えない。)「岩に」は「補語」である。
でも、そう?
この句の「述語」は「しみ入る」。これは確かだ。「動詞」が「しみ入る」しかないからね。
ここからが問題。
私はことばをどんなときでも「動詞」を中心に考える。
「しみ入る」という「動詞」を聞いたとき、私は自然に「こころにしみる」「傷にしみる」という具合に、自分の「肉体」を「補語」として連想してしまう。句の最初に「閑かさ」ということばがあるので、どうしても「閑さ」が「こころ(肉体)」に「しみ入る」と連想する。「主語」は「閑さ」、「述語(動詞)」が「しみ入る」、「補語」が「こころ」ということになる。
芭蕉は「こころ」と書いていないから、これは、私の「誤読」だが。
「誤読」を承知で、私は「岩」を「こころ」の「ありよう」だと思っているのである。「岩」は「こころ」の、あるいはこういうときは「精神」のといった方がいいのかもしれないが、「岩」は「象徴」なのである。
で、そういう風に、「俳句の切れ」を無視して、ことばを上から順に読んできて、「閑さがこころにしみこんで来る」という絶対的な「静寂/沈黙」を感じ、自分自身が「静寂/沈黙」になったと思った瞬間、「蝉の声」が来る。
混乱する。
だいたい「蝉の声」が聞こえているなら「閑」ではないじゃないか。
この混乱は、意識(感覚)の「衝突」だね。
そして、その瞬間感じる(聞こえる)のは、では「閑さ」か「騒音(蝉の声)」かというと、「閑さ」の方である。「静寂/沈黙」というのは「聞こえない」から「静寂/沈黙」というのだが、「蝉の声」があることによって、逆に、その聞こえないものが「聞こえる」と錯覚する。
この「錯覚」の超越が「閑さや」の「や」という「切れ字」にこめられた「意味」だと思う。「感覚の超越」が「世界」を切断し、新しくする。
「閑さ」が「岩にしみ入る」と、私は最初に書いたが、「しみ入る」は単に入るだけではなく、「入ってしまった対象(補語)」そのものになるということかもしれない。
実際、私が感じるのは、「閑さ」が絶対的な存在となって、そこに「ある」という感じなのだ。「岩」の存在そのものが「閑さ」なのである。「閑さ」が「岩」という存在になる。そして、それが「しみ入る」と書かれているが、まわりの蝉時雨をはじき返している、拒絶している、という感じで句を受け止める。」閑さ」が「岩」からはみ出している、噴出している。それが蝉の声を、がしっとつかんで封じ込めている。蝉の声を、ほかに広がっていかないようにしていると感じる。
また「閑さ」というのは「しずかな/しずかに」という形容動詞と繋がっている。それは「動詞」の一種なのだ。「閑さ」というのは「死すかな/しずかに」が「しずか」で「ある」という形で存在している。
「しずかである」という「動詞の状態」が、「岩にしみ入る」というもうひとつの「動詞」によって強調されているとも感じる。「しずかである」という「動詞」と「しみ入る」という「動詞」は切り離せない、と感じる。つまり「しみ入る」の「主語」を「蝉の声」だけに限定できないと感じてしまうのである。
ことばは不思議である。「文法」どおりに解釈すれば、私のような読み方にはならない。けれど、ことば、特に「動詞」というのは「肉体」と深く結びついているので、「文法」とは違うものをかってに引っ張り込んでしまう。最初に書いたように「しみ入る」という「動詞」に触れれば、どうしても「こころにしみ入る」「傷にしみ入る」というようなことを思い浮かべる。その「思い込み」がいったん否定され、そしてまた、いやそうじゃないかもしれないと反駁する。そういう、曖昧で、矛盾したものが、「文学」を支えているようにも思う。
この句もエレナと太田の共訳。「佐渡に」を「佐渡の上に」と訳している。確かに「文法」としてはそうなるのだと思うが、実際に、海が荒れていて、佐渡があって、その上の空には天河があるという情景なのだろうが、この句を読んだときの私の印象では「荒海」と「天河」が逆になるというか、「一体」になる。
佐渡は荒海に浮かんでいるのではなく、天河に浮かんでいる。荒海の「強さ」がそのまま「天河」の広大な「強さ」になり、そこに佐渡が浮かんでいる。地上の「荒海」と空の「天河」が「ひとつ」になって、その中心に佐渡が横たわっている、佐渡が荒海と天河をつないでいるという感じ。
「横たわる」の「横」ということばは「縦」と対になっている。「縦に立っている」ということばと、「肉体」のなかで対をつくっている。「立っている」から「横たわる」とき、それはゆったりとする、ゆったりと広がるという広がりになって、それは「世界全体」の広さ、「宇宙」の広さにかわっていく。その「中心」に「横たわる」という「動詞」がある。
「閑」と「蝉の声(騒音)」を「岩」がしっかりとつなぎ止めている。そのつなぎ止めるときの「動詞」が「しみ入る」。
同じように「荒海」と「天河」を「佐渡」がしっかりとつなぎ止めている。そのつなぎとめるときの「動詞」が「横たわる」という「動詞」。
「動詞」のなかで、「ふたつ」の「存在(主語)」が「ひとつ」になる。「閑さ」と「蝉の声」、「荒海」と「天河」が溶け合い、もうひとつの存在「岩」「佐渡」がそれを結晶させる。「世界」そのものの「象徴」になる。
俳句に「遠心/求心」ということばがある。私は俳句を、俳句の決まりなど無視して勝手に読んでいるのだけれど、この「遠心/求心」という相反する動きを、たとえば「しみ入る」「横たわる」という「動詞」で、芭蕉は「ひとつ」にしている、ということを感じる。
同時に、その「動詞」に自分の「肉体」を重ね合わせ、私の外にある「風景」というより、私自身が風景になって存在していると感じる。「私」が消え、私の見ている「世界」そのものが「私」という感じ。
で。
突然、エレナの訳にもどるのだが、私の感じるような「私」が「世界」のなかに消えていき、「世界」のひろがりそのものが「私」という感じは、スペイン人は持たないのかもしれない。強烈な個性が「世界」を変えていく、新しくしていく。それは「私」ではなく、もっと強い「だれか」なのだという感じが、「蝉」を「一匹」と感じさせるのかもしれない。
「一」であることが「人間」に求められている、ということかもしれない。
私は「世界」が「一つ」であると感じるが、スペイン人は「世界」に対して「ひとり」で「世界」に向き合うというか、「世界」と「私」は融合せず、「世界」を変えていくのが「私」という感じといえばいいのかな、とも思ったのである。
ドン・キホーテがそうだね。たったひとりで「世界」と向き合い、世界を変えようとしている。あれが、スペイン人の生き方なのだとも、勝手に思うのである。
そういう「人間観」が翻訳に反映しているのかな、と思うのである。
NHKのラジオスペイン語講座「毎日スペイン語」。9月は俳句が題材。日本の俳句がスペイン語に訳されている。
芭蕉の俳句は、こんな具合。
Un viejo estanque;
al zambullirse una rana,
ruido de agua.
(古池や蛙飛びこむ水のをと)
Silencio
En la roca se impregna
el canto de una cigarra.
(閑さや岩にしみ入る蝉の声)
一句目は別な人の訳なのだが、二句目はエレナ・ガジェゴと太田(?)なんとか(忘れた)の共訳。
日本語の場合、単数複数の区別がない。そこで翻訳するとき、書かれていることばを単数で訳すか複数で訳すかがむずかしい、という話題が出た。
「古池や」の蛙は一匹。これは、私もそう思う。
「閑さや」の蝉も一匹。これには、思わず、えっ、と声を出してしまう。
講師の福島教隆「どうして一匹ですか?」
エレナ「岩にしみ入るくらいの強い声。そういう強い声を持っているのは一匹だ」
うーん、なるほどスペイン人らしい。ピカソとかダリとかセルバンテス(あるいはドン・キホーテ、サンチョ・パンサ)の国。何かを切り開いていくのは「集団」ではなく、強烈な「個人」。そういう人間観というものが、知らず知らずに、俳句の解釈にも反映しているということだろう。
ここから少し脱線。
きょうの「日記」のタイトルは「Elena Gallegoの俳句翻訳」なのだが、これは「まくら」。スペイン語の翻訳が的確かどうか判断するような語学力は私にはないので、以下は「俳句」の読み方。いや、「日本語」の「詩」の読み方に関すること。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
この句を読むと、「閑さや」でいったん句点「。」がある。ことばが一回終わる。それから「岩にしみ入る蝉の声」ということばが来る。このとき、「主語」と「述語」は?
「蝉の声」が「主語」、「しみ入る」が「述語」。
文法的には、そうなる。エレナの訳も、そういう「文法」に従っている。(ここでは、単数、複数は考えない。)「岩に」は「補語」である。
でも、そう?
閑さや岩にしみ入る蝉の声
この句の「述語」は「しみ入る」。これは確かだ。「動詞」が「しみ入る」しかないからね。
ここからが問題。
私はことばをどんなときでも「動詞」を中心に考える。
「しみ入る」という「動詞」を聞いたとき、私は自然に「こころにしみる」「傷にしみる」という具合に、自分の「肉体」を「補語」として連想してしまう。句の最初に「閑かさ」ということばがあるので、どうしても「閑さ」が「こころ(肉体)」に「しみ入る」と連想する。「主語」は「閑さ」、「述語(動詞)」が「しみ入る」、「補語」が「こころ」ということになる。
芭蕉は「こころ」と書いていないから、これは、私の「誤読」だが。
「誤読」を承知で、私は「岩」を「こころ」の「ありよう」だと思っているのである。「岩」は「こころ」の、あるいはこういうときは「精神」のといった方がいいのかもしれないが、「岩」は「象徴」なのである。
で、そういう風に、「俳句の切れ」を無視して、ことばを上から順に読んできて、「閑さがこころにしみこんで来る」という絶対的な「静寂/沈黙」を感じ、自分自身が「静寂/沈黙」になったと思った瞬間、「蝉の声」が来る。
混乱する。
だいたい「蝉の声」が聞こえているなら「閑」ではないじゃないか。
この混乱は、意識(感覚)の「衝突」だね。
そして、その瞬間感じる(聞こえる)のは、では「閑さ」か「騒音(蝉の声)」かというと、「閑さ」の方である。「静寂/沈黙」というのは「聞こえない」から「静寂/沈黙」というのだが、「蝉の声」があることによって、逆に、その聞こえないものが「聞こえる」と錯覚する。
この「錯覚」の超越が「閑さや」の「や」という「切れ字」にこめられた「意味」だと思う。「感覚の超越」が「世界」を切断し、新しくする。
「閑さ」が「岩にしみ入る」と、私は最初に書いたが、「しみ入る」は単に入るだけではなく、「入ってしまった対象(補語)」そのものになるということかもしれない。
実際、私が感じるのは、「閑さ」が絶対的な存在となって、そこに「ある」という感じなのだ。「岩」の存在そのものが「閑さ」なのである。「閑さ」が「岩」という存在になる。そして、それが「しみ入る」と書かれているが、まわりの蝉時雨をはじき返している、拒絶している、という感じで句を受け止める。」閑さ」が「岩」からはみ出している、噴出している。それが蝉の声を、がしっとつかんで封じ込めている。蝉の声を、ほかに広がっていかないようにしていると感じる。
また「閑さ」というのは「しずかな/しずかに」という形容動詞と繋がっている。それは「動詞」の一種なのだ。「閑さ」というのは「死すかな/しずかに」が「しずか」で「ある」という形で存在している。
「しずかである」という「動詞の状態」が、「岩にしみ入る」というもうひとつの「動詞」によって強調されているとも感じる。「しずかである」という「動詞」と「しみ入る」という「動詞」は切り離せない、と感じる。つまり「しみ入る」の「主語」を「蝉の声」だけに限定できないと感じてしまうのである。
ことばは不思議である。「文法」どおりに解釈すれば、私のような読み方にはならない。けれど、ことば、特に「動詞」というのは「肉体」と深く結びついているので、「文法」とは違うものをかってに引っ張り込んでしまう。最初に書いたように「しみ入る」という「動詞」に触れれば、どうしても「こころにしみ入る」「傷にしみ入る」というようなことを思い浮かべる。その「思い込み」がいったん否定され、そしてまた、いやそうじゃないかもしれないと反駁する。そういう、曖昧で、矛盾したものが、「文学」を支えているようにも思う。
Mar salvaje.
Sobre Sado se extiende
la via lactea.
(荒海や佐渡によこたふ天河)
この句もエレナと太田の共訳。「佐渡に」を「佐渡の上に」と訳している。確かに「文法」としてはそうなるのだと思うが、実際に、海が荒れていて、佐渡があって、その上の空には天河があるという情景なのだろうが、この句を読んだときの私の印象では「荒海」と「天河」が逆になるというか、「一体」になる。
佐渡は荒海に浮かんでいるのではなく、天河に浮かんでいる。荒海の「強さ」がそのまま「天河」の広大な「強さ」になり、そこに佐渡が浮かんでいる。地上の「荒海」と空の「天河」が「ひとつ」になって、その中心に佐渡が横たわっている、佐渡が荒海と天河をつないでいるという感じ。
「横たわる」の「横」ということばは「縦」と対になっている。「縦に立っている」ということばと、「肉体」のなかで対をつくっている。「立っている」から「横たわる」とき、それはゆったりとする、ゆったりと広がるという広がりになって、それは「世界全体」の広さ、「宇宙」の広さにかわっていく。その「中心」に「横たわる」という「動詞」がある。
「閑」と「蝉の声(騒音)」を「岩」がしっかりとつなぎ止めている。そのつなぎ止めるときの「動詞」が「しみ入る」。
同じように「荒海」と「天河」を「佐渡」がしっかりとつなぎ止めている。そのつなぎとめるときの「動詞」が「横たわる」という「動詞」。
「動詞」のなかで、「ふたつ」の「存在(主語)」が「ひとつ」になる。「閑さ」と「蝉の声」、「荒海」と「天河」が溶け合い、もうひとつの存在「岩」「佐渡」がそれを結晶させる。「世界」そのものの「象徴」になる。
俳句に「遠心/求心」ということばがある。私は俳句を、俳句の決まりなど無視して勝手に読んでいるのだけれど、この「遠心/求心」という相反する動きを、たとえば「しみ入る」「横たわる」という「動詞」で、芭蕉は「ひとつ」にしている、ということを感じる。
同時に、その「動詞」に自分の「肉体」を重ね合わせ、私の外にある「風景」というより、私自身が風景になって存在していると感じる。「私」が消え、私の見ている「世界」そのものが「私」という感じ。
で。
突然、エレナの訳にもどるのだが、私の感じるような「私」が「世界」のなかに消えていき、「世界」のひろがりそのものが「私」という感じは、スペイン人は持たないのかもしれない。強烈な個性が「世界」を変えていく、新しくしていく。それは「私」ではなく、もっと強い「だれか」なのだという感じが、「蝉」を「一匹」と感じさせるのかもしれない。
「一」であることが「人間」に求められている、ということかもしれない。
私は「世界」が「一つ」であると感じるが、スペイン人は「世界」に対して「ひとり」で「世界」に向き合うというか、「世界」と「私」は融合せず、「世界」を変えていくのが「私」という感じといえばいいのかな、とも思ったのである。
ドン・キホーテがそうだね。たったひとりで「世界」と向き合い、世界を変えようとしている。あれが、スペイン人の生き方なのだとも、勝手に思うのである。
そういう「人間観」が翻訳に反映しているのかな、と思うのである。
NHKラジオ まいにちスペイン語 2016年 09 月号 [雑誌] | |
クリエーター情報なし | |
NHK出版 |