クリント・イーストウッド監督「ハドソン川の奇跡」(★★★★★)
監督 クリント・イーストウッド 出演 トム・ハンクス、アーロン・エッカート、ローラ・リニー
この映画のテーマはふたつある。ひとつは何度も繰り返される「初めて」。トム・ハンクスを裁く委員会の議長さえ、クライマックスで「機長、副操縦士と一緒にボイスレコーターを聞くのは、私にとってファースト・タイムである」というようなことをいう。これは、映画の中で繰り返される「ファースト・タイム」の念押しのようなものだ。いままで経験したことがない出来事に出合ったとき、どうするか。そこに、そのひとの「人生」すべてが出てくる。
もうひとつは、「ファースト・タイム」の逆。「二度目」というか、「繰り返し」。これも、映画の中では何度か描かれる。「二度」を通り越して、複数回、飛行機の不時着のシーンがいくつかの角度から描かれる。その「二度目」のクライマックスが、調査委員会での「ボイスレコーダー」の再現なのだが……。
あ、うまい、うますぎる。
それは映画の冒頭で見た最初のシーンの繰り返しなのだが。そして、それは「ボイスレコーダー」で聞いているのだから「映像」はないはずなのだが、「映像」として再現される。それはすでに見ているシーンなので、また全員が助かったことも周知のことなので、何か安心してみていることができる。しかし、その「安心」は「安心」のままなのではなく、彼らは全員が助かるという「確信」にかわり、「確信」していることが、そのまま起きることに、なぜか、感動してしまうのだ。
なぜか。
ひとは誰でも「感動」を「二度(何度でも)」味わいたいのである。ひいきの野球チームが試合に勝った。それは知っていることなのに、翌朝、新聞を読む。そして、思い返すというのに似ている。
で、そのときである。
「二度目」だから、「一度目」は気がつかなかったことにも気づく。新聞で野球の試合を読み直したとき、あ、そうか、やっぱりあれがポイントだったのかと思うのに似ているかもしれない。すばらしいと感じたことを「確信」したいのだ。起きたことを「確信」に変えたいのだ。そうやって自分のものにしたいのだ。
この映画では、トム・ハンクス、アーロン・エッカートの緊迫したやりとりの途中に、キャビンアテンダントが乗客に対して「体を伏せて、構えて」という指示を、懸命に繰り返している。その「声」がボイスレコーダーに残っていて、それが聞こえる。最初のシーンで、それが聞こえていたかどうか、私は覚えていない。たぶん、聞こえていなかった。聞こえていたとしても、私は気づかなかった。二人の緊迫したやりとりにひきずられていた。
ところが「二度目」は、映画の中で、キャビンアテンダントがどんな行動をしたか、そして乗客がどう対応したかを知っている。それを知っているために、二人のやりとりの背後に、バックミュージックのように「体を伏せて、構えて」という声が聞こえてくると、いま/そこに「映像化」されていない「客室」の様子まで見えてくる。あ、頑張ったのはトム・ハンクスとアーロン・エッカートだけではない。キャビンアテンダントも頑張ったし、乗客も恐怖に耐え、懸命に頑張ったということがわかる。
おそらくトム・ハンクスには、そのすべてが見えていた。聞こえていた。見なくても、聞かなくても、見えて、聞こえていた。自分ひとりではない。みんなが頑張っているということがわかっていて、それを力にして自分にできることをしている。
最後にトム・ハンクスが、「これは私ひとりがやったことではない。全員でやりとげたことだ」と言うが、それは「二度目(繰り返し)」によって、初めてわかることである。「二度」繰り返すことには、そういう「意味」がある。
「実話」を「映画化」するのも、「二度」事件を体験するためである。事件の本質を「確認」し、「確信」するのためである。
と、書いて、また最初に書いた「初めて」にもどる。
この映画の魅力は、「初めて」を、映像の抑制によって強調している。飛行機の不時着シーンなど、もっと「劇的」に再現しようとすれば、もっと「劇的」になったかもしれない。けれど、まるでなんでもないかのように「無事」に着水する。えっ、こんなものなの?と感じるくらいである。
しかし、それは「初めて」だから「劇的」には再現できないのである。「初めて」のことは「劇的」かどうかわからない。「劇的」と「平凡」の区別がない。ただ、それが「起きた」ということしか、わからない。「劇的」に、つまり見たこともないような映像で再現しても、それは「事実」とは限らないのである。
この「抑制」はトム・ハンクス、アーロン・エッカート、さらにはローラ・リニーの演技にも言える。「緊張している/動揺している」ということが明確にわかるような演技をしない。「緊張/動揺」がわかるような演技というのは、その「緊張/動揺」が何度も経験したことのある「緊張/動揺」の場合である。彼はいま悲しんでいる、彼はいま苦しんでいる、あるいは憎んでいるということが、表情や体の動きで納得できるのは、その悲しみ、苦しみ、怒りを、「観客」が知っている(自分でも体験したことがある)ときである。そうではない場合、たとえばこの映画でトム・ハンクス、アーロン・エッカートが体験したことは、彼らにしかわからない。だから「わかる演技」にならないのだ。見た瞬間に「わかる」のではなく、あとで、あ、そうか、あれはこういう「感情」だったのか、と思い起こす類のものである。
「感情」は出演者がつくるのではなく、観客がつくるのである。観客が、思い出して、自分で「感情」をつくる、彼らの体験を自分のものにするのだ。
イーストウッドの演出は、今回もそうだが、そういう「抑制」にあわせた演出である。「過剰」に見せない。もう少し見せればいいのに、と思う寸前で、ぱっとやめてしまう。そっけないくらいである。その瞬間は、もの足りないくらいである。
しかし、コックピットの中に聞こえてきたキャビンアテンダントの「体を伏せて、構えて」という「声」のように、ああ、あれが大事だったのだと、思い出すとき、それがとてつもなく輝いて見える、という感じ。
比較してもしようがないのだが、ふと、私は「怒り」を思い出した。ある映画では、役者がみんな「過剰」な演技をしていた。松山ケンイチの「存在感のない演技」さえ「過剰」だった。あそこでは、みんな、それぞれ「初めて」を体験しているはずなのに、その「初めて」が何度も体験したかのように「煮詰まった」感じだった。
イーストウッドが監督をしたら、ああいう「文学的すぎる演技合戦」映画にはならなかっただろうなあ。「文学的」ではないからこそ、「文学的」な映画になっただろうなあ。
「ハドソン川の奇跡」はみんなが知っている「感動的」な実話なのに、見ている瞬間は、そんなに「感動」で揺さぶられるというのではないのに、一言で言うと「うーん、感動的」としか言えない強さがある。
イーストウッドは映画を知り尽くしている。
(天神東宝スクリーン5、2016年09月25日)
*
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監督 クリント・イーストウッド 出演 トム・ハンクス、アーロン・エッカート、ローラ・リニー
この映画のテーマはふたつある。ひとつは何度も繰り返される「初めて」。トム・ハンクスを裁く委員会の議長さえ、クライマックスで「機長、副操縦士と一緒にボイスレコーターを聞くのは、私にとってファースト・タイムである」というようなことをいう。これは、映画の中で繰り返される「ファースト・タイム」の念押しのようなものだ。いままで経験したことがない出来事に出合ったとき、どうするか。そこに、そのひとの「人生」すべてが出てくる。
もうひとつは、「ファースト・タイム」の逆。「二度目」というか、「繰り返し」。これも、映画の中では何度か描かれる。「二度」を通り越して、複数回、飛行機の不時着のシーンがいくつかの角度から描かれる。その「二度目」のクライマックスが、調査委員会での「ボイスレコーダー」の再現なのだが……。
あ、うまい、うますぎる。
それは映画の冒頭で見た最初のシーンの繰り返しなのだが。そして、それは「ボイスレコーダー」で聞いているのだから「映像」はないはずなのだが、「映像」として再現される。それはすでに見ているシーンなので、また全員が助かったことも周知のことなので、何か安心してみていることができる。しかし、その「安心」は「安心」のままなのではなく、彼らは全員が助かるという「確信」にかわり、「確信」していることが、そのまま起きることに、なぜか、感動してしまうのだ。
なぜか。
ひとは誰でも「感動」を「二度(何度でも)」味わいたいのである。ひいきの野球チームが試合に勝った。それは知っていることなのに、翌朝、新聞を読む。そして、思い返すというのに似ている。
で、そのときである。
「二度目」だから、「一度目」は気がつかなかったことにも気づく。新聞で野球の試合を読み直したとき、あ、そうか、やっぱりあれがポイントだったのかと思うのに似ているかもしれない。すばらしいと感じたことを「確信」したいのだ。起きたことを「確信」に変えたいのだ。そうやって自分のものにしたいのだ。
この映画では、トム・ハンクス、アーロン・エッカートの緊迫したやりとりの途中に、キャビンアテンダントが乗客に対して「体を伏せて、構えて」という指示を、懸命に繰り返している。その「声」がボイスレコーダーに残っていて、それが聞こえる。最初のシーンで、それが聞こえていたかどうか、私は覚えていない。たぶん、聞こえていなかった。聞こえていたとしても、私は気づかなかった。二人の緊迫したやりとりにひきずられていた。
ところが「二度目」は、映画の中で、キャビンアテンダントがどんな行動をしたか、そして乗客がどう対応したかを知っている。それを知っているために、二人のやりとりの背後に、バックミュージックのように「体を伏せて、構えて」という声が聞こえてくると、いま/そこに「映像化」されていない「客室」の様子まで見えてくる。あ、頑張ったのはトム・ハンクスとアーロン・エッカートだけではない。キャビンアテンダントも頑張ったし、乗客も恐怖に耐え、懸命に頑張ったということがわかる。
おそらくトム・ハンクスには、そのすべてが見えていた。聞こえていた。見なくても、聞かなくても、見えて、聞こえていた。自分ひとりではない。みんなが頑張っているということがわかっていて、それを力にして自分にできることをしている。
最後にトム・ハンクスが、「これは私ひとりがやったことではない。全員でやりとげたことだ」と言うが、それは「二度目(繰り返し)」によって、初めてわかることである。「二度」繰り返すことには、そういう「意味」がある。
「実話」を「映画化」するのも、「二度」事件を体験するためである。事件の本質を「確認」し、「確信」するのためである。
と、書いて、また最初に書いた「初めて」にもどる。
この映画の魅力は、「初めて」を、映像の抑制によって強調している。飛行機の不時着シーンなど、もっと「劇的」に再現しようとすれば、もっと「劇的」になったかもしれない。けれど、まるでなんでもないかのように「無事」に着水する。えっ、こんなものなの?と感じるくらいである。
しかし、それは「初めて」だから「劇的」には再現できないのである。「初めて」のことは「劇的」かどうかわからない。「劇的」と「平凡」の区別がない。ただ、それが「起きた」ということしか、わからない。「劇的」に、つまり見たこともないような映像で再現しても、それは「事実」とは限らないのである。
この「抑制」はトム・ハンクス、アーロン・エッカート、さらにはローラ・リニーの演技にも言える。「緊張している/動揺している」ということが明確にわかるような演技をしない。「緊張/動揺」がわかるような演技というのは、その「緊張/動揺」が何度も経験したことのある「緊張/動揺」の場合である。彼はいま悲しんでいる、彼はいま苦しんでいる、あるいは憎んでいるということが、表情や体の動きで納得できるのは、その悲しみ、苦しみ、怒りを、「観客」が知っている(自分でも体験したことがある)ときである。そうではない場合、たとえばこの映画でトム・ハンクス、アーロン・エッカートが体験したことは、彼らにしかわからない。だから「わかる演技」にならないのだ。見た瞬間に「わかる」のではなく、あとで、あ、そうか、あれはこういう「感情」だったのか、と思い起こす類のものである。
「感情」は出演者がつくるのではなく、観客がつくるのである。観客が、思い出して、自分で「感情」をつくる、彼らの体験を自分のものにするのだ。
イーストウッドの演出は、今回もそうだが、そういう「抑制」にあわせた演出である。「過剰」に見せない。もう少し見せればいいのに、と思う寸前で、ぱっとやめてしまう。そっけないくらいである。その瞬間は、もの足りないくらいである。
しかし、コックピットの中に聞こえてきたキャビンアテンダントの「体を伏せて、構えて」という「声」のように、ああ、あれが大事だったのだと、思い出すとき、それがとてつもなく輝いて見える、という感じ。
比較してもしようがないのだが、ふと、私は「怒り」を思い出した。ある映画では、役者がみんな「過剰」な演技をしていた。松山ケンイチの「存在感のない演技」さえ「過剰」だった。あそこでは、みんな、それぞれ「初めて」を体験しているはずなのに、その「初めて」が何度も体験したかのように「煮詰まった」感じだった。
イーストウッドが監督をしたら、ああいう「文学的すぎる演技合戦」映画にはならなかっただろうなあ。「文学的」ではないからこそ、「文学的」な映画になっただろうなあ。
「ハドソン川の奇跡」はみんなが知っている「感動的」な実話なのに、見ている瞬間は、そんなに「感動」で揺さぶられるというのではないのに、一言で言うと「うーん、感動的」としか言えない強さがある。
イーストウッドは映画を知り尽くしている。
(天神東宝スクリーン5、2016年09月25日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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