佐古祐二『丈高いカンナの花よ』(竹林館、2016年09月01日発行)
佐古祐二『丈高いカンナの花よ』は冷静すぎるかもしれない。たとえば「ささやかな贈り物」。ピンヒールのブーツを履いた若い娘をまぶしく感じると書いたあと、
おどろいたことに
くたびれた男の枯れ果てたと思われた心にも
まだ水がどこからか
人知れず湧き続けていたか
小石がひとつ擲(な)げ入れられたように
波紋がまるく広がってゆく
しばらくはその広がりを愉(たの)しむゆとりを
初老ともいうべき男は既に携えていて
むろん間もなく静まりかえってしまうのだが
からだのどこか片隅に
ぽっと
花あかりが点(とも)り続けているのは
「小石がひとつ擲げ入れられたように/波紋がまるく広がってゆく」という比喩。それを、さらに「しばらくはその広がりを愉しむゆとりを/初老ともいうべき男は既に携えていて」と「その」ということばで引き継いでゆく。ここで、ことばは「詩(比喩=ここにないもの)」から「散文(事実の積み重ね)」にかわる。それだけでは終わらずに「むろん間もなく静まりかえってしまうのだが」とことばが動く。この「むろん」は「事実を積み上げる散文」を「論理」に変えてしまう。「むろん……する(しない)」という「構文」を必然として生きてしまう。この「必然」のなかに「ことばの肉体」があるのだけれど、これは、あまりおもしろくない。
「ことばの肉体」を「肉体のことば」が突き破り、そこから新しい「ことばの肉体」がうまれるというのが、詩の最高の魅力だが、佐古のことばは、あくまで「ことばの肉体」忠実に生きて、「ことばの伝統(文学のことば)」へ落ち着いてしまう。
「からだの片隅」「ぽっと」「花あかり」という動きは、「文学の肉体」。静かに、安心して読むことができる。これを「完成された」と読む人もいるかもしれないが、この「安定した定型」のために、私はどうも「ひとごと」のように感じてしまう。
で、「ひとごと」と書いて、気になるのが……。
くたびれた男の枯れ果てたと思われた心にも
この「思われた」。ここから、「ひとごと」が始まっている。私が感じる「ひとごと」は、私が感じる前に、佐古にとっても「ひとごと」だったのだ。「自分の心」を、また「別の自分の心」がみつめて、「心」のありようを判断している。「心」がふたつある。「主語」がふたつある。「枯れ果てた心」と、それを「枯れ果てたと思う心」。この微妙な「違い/差異」のなかを、ことばでととのえているのかもしれないけれど、「心」特有の「のめりこみ」のようなものがない。「のめりこみ」を「文学のことば」がととのえすぎてしまうのかもしれない。冷静すぎるという印象は、ここから来ている。
佐古の「文体」は、とても冷静・論理的(文学の伝統を踏まえている)である。それは、この作品では「長所」になり得ていないと私は感じるが……。
「陰・影と光」は「論理」を生かしながら、論理を超えている部分がある。
女のトルソーを
デッサンする
ランプの灯りに
対象は浮かび上がる
描くのは
立体の陰であり陰である
光があたっている
ハイライトは
描かずに残す
陰も影も
光がなければ存在できない
光は
明るければ明るいほど
自らどこを向いているか
見失うときがある
そのとき
陰や影は
光が向いている方向を光に
気づかせてくれる
「陰影」とひとつにせずに「陰」と「影」にわけている。その違いを書くともっとおもしろいのだろうけれど、それは、まあ、欲張りな注文かもしれない。
この詩は「陰・影」が光の方向を知らせるというの「論理」を語ったもの。に連目は、その「論理」のみが書かれている。そして、それは一連目に書いたことを逆のところから書き直したと言えるのだが、私は、二連目の「論理」ではなく、一連目の最後、
描かずに残す
この「残す」に詩を感じた。思わず「残す」に傍線を引いた。
この「残す」には積極的な強さがある。デッサンだから、それは何かを描くのだが、「描かずに残す」という否定が、それこそ光のようにそこに輝いている。発光している。
佐古は、描いた「陰・影」が光の方向を決定すると書いているのだが、この「残す(描かない)」が光源になって、「陰・影」をととのえているように感じる。
佐古の書いていることは、そのまま理解できるが、そう理解すると同時に、佐古の書いたこととはまったく逆なことを瞬間的に感じてしまう。
この「矛盾」。そこに詩があるのだと思う。
光が影の方向をつくる。影が光の方向を決定する(逆算する?)。その「ふたつの視点(ものの見方)」は、相対化し、固定してはいけないのだ。どちらであると決めつけずに、そのふたつを「ひとつ」のこととして世界の中へ「生み出す」。そういうことが必要なのだと思う。そう感じさせてくれる。
ことばではたどりつけないものが、ことばを書いて瞬間に「残る」。「残る」ように、「残す」。佐古がテーマにしているのは「デッサン」だが、これは詩についても言えることなのだろうと思った。