詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

喜多昭夫「緑のボタン」

2016-09-02 07:34:47 | 詩(雑誌・同人誌)
喜多昭夫「緑のボタン」(「つばさ」14、2016年08月20日発行)

「つばさ」14を読み進むと、喜多昭夫「緑のボタン」という作品がある。

ぼくにバッタリ出会ったら
ぼくはかなしくなるだろう
なんでそんなにかなしい顔で
袖をふりふり歩いているのか
天国なんかありゃしない
ゆっくりゆっくり歩くとしよう

 悲しみに沈んでいる「ぼく」を客観視している。どれだけ悲しい顔をしているだろうか、を想像しているのだろう。でも、「袖をふりふり」がわからないし、「天国」というのも何だろうなあ。
 というようなことを考えていたら、最終連、

いまわのきわのそのきわの
くちびるに耳よせたとき
きみのひとふでがきの息
なんといったかわからぬけれど
緑のボタンを握りしめ
ぼくは うん、うん
うなずいていた

 あ、「天国」というのは、「きみ」が行ってしまった世界のことなのか。妻を亡くしたあとのことを書いているのか、と気がついた。
 そして、この詩を、岡井隆「君とぼくのあけぼのの雉狩」とつないで、「物語」にしてみたい気持ちになった。
 岡井の詩は、よくわからないけれど「少年歌人」(岡井が中年歌人だったとき、その岡井よりも若い歌人)に向けて、短歌を詠もう、ことばを書こうと誘いかけているように読むことができた。自分がのっぴきならない状況に追い込まれたとき、ことばの「定型」に帰って、そこでことばを動かすと、自分をととのえることができる、ということを父親の愛人が母親の家に押しかけたときのことを例にひきながら語りかけているように思えてくる。
 岡井は「少年歌人」と長い付き合いがあるのだろう。そして、その「少年歌人」が、いま、妻を亡くしたということを知ったのだろう。その「少年歌人」をただ慰めるのではなく、「私たちには短歌がある、ことばがある。ことばを書く、短歌を詠むことで、自分をととのえていこう、新しく生まれ変わろう」と語りかけている、と読むことができるのではないか、と思った。
 喜多は、詩で、どんなふうに岡井に答えるだろうか。

袖をふりふり歩いていたら
きみにバッタリ出会ったよ
ぼくはうれしくてたまらない
白のブラウス 緑のボタン
髪飾りなどつけぬがいいさ
母に内緒のキスをせん
園の木陰で休むとしよう

 これは思い出。はじめて出会ったとき、「きみ」は白のブラウスをきていた。ボタンは緑色だった、ということだろう。この「緑のボタン」が最終連で、もう一度出てきていたのだ。喜多にとって、「きみ」は「緑のボタン」なのだ。
 「母に内緒のキスをせん/園の木陰で休むとしよう」というのは、ことばの動かし方が、「現代詩」というよりも「短歌」。
 岡井が「歌はまあ 背丈はきまつているし筋肉も定量だ/ひよいひよいとは変らないよな」と書いていたことを思い出す。「母に内緒のキス」とか「園の木陰」ということばに潜んでいる「筋肉の定量」、つまりことばの選択の「定型」(伝統)というものが、そこにかいまみられる。
 次の連はもっと短歌っぽいものがある。

かなしいことなどなにもない
うれしいことなどなにもない
つまらなきこのじんせいだけど
きみに出会えてよろこびの唄をうたえば
うれしくなりぬ
分かりあえないにくしみの唄をうたえば
かなしくなりぬ
ぼくの頬には涙かな
きみの頬にも涙かな
ふたつの風がまじわって
ながれるように落ちました

 「うれしくなりぬ」「かなしくなりぬ」「涙かな」ということばの「調子」が「短歌」っぽい。少なくとも「現代詩」では、こういう具合にはことばを書くことはないだろうなあ。
 で、こういうことばを通ることで、最終連にたどりつく。
 もう一度、引用する。

いまわのきわのそのきわの
くちびるに耳よせたとき
きみのひとふでがきの息
なんといったかわからぬけれど
緑のボタンを握りしめ
ぼくは うん、うん
うなずいていた

 最初に読んだときも印象的だったが、「きみのひとふでがきの息」というこのことばが、とても美しい。美しいなんて言ってしまっては申し訳ないところもあるのだが、ひとは悲しみに共感しなければならないとわかっていても、その悲しみを忘れて、あ、いまの、このことばとても美しいと思ってしまうものなのだ。感情が一瞬裏切られ、そのことによって感情がぐいと強くなる。そういう瞬間。(こういう瞬間を「芸術」の体験、というのだと思う。あ、これはイタリア映画「神様の思し召し」の感想とつながっているのだけれど。08月31日のブログを参照してください。)
 この最終連は「五七五七七」ではないのだけれど、ことばのうねり具合(ことばの筋肉の動いていく順序)というのが、感動的な短歌を読んだときに感じるものに通じる。何かしらの「経路(泣かせどころ/独自の発見)」を経て、全体が「一首」に収斂していく感じ。
 妻を亡くしたかなしみから喜多が立ち直ったかどうか、わからない。けれど、この詩を読んでいると、私自身が立ち直るのを感じる。いや、私の妻は生きているから、そのまま「立ち直る」と言ってはいけないのだけれど、そういう「事実」とは別にして、「きみのひとふでがきの息」ということばによって、かなしみに「芯」ができた、かなしみが「自立」して、なにか別なものになったと感じ、あ、このことばに出会えてよかったなあ、と思うのである。
 岡井に誘われて、喜多は立ち直って歩き始めている、と感じ、そこに「対話」の美しさもおぼえるのである。
うたの源泉―詩歌論集
喜多 昭夫
沖積舎
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