詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆「君とぼくのあけぼのの雉狩」

2016-09-01 08:04:39 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「君とぼくのあけぼのの雉狩」(「つばさ」14、2016年08月20日発行)

 岡井隆「君とぼくのあけぼのの雉狩」には、わからないことがいろいろある。「雉狩」というのは、ほんとうの雉の猟のことだろうか。「雉を撃つ」という俗語もあって、田舎育ちの私はどうしても俗語の意味を思い出してしまう。(最終連には「雉撃ち」ということばも出てくるし。)でも、書いていることは、どうも俗語の意味とは違うものが多い感じがするのである。
 その一連目、

君は昔ぼくを名指ししてからかつたことがあつた
君は少年歌人でなぜか美しい母親(ママン)が付き添つてた
ぼくは中年の狩人として言葉の森をさまよつてた
本邦へまぎれ込んだ外来種の雉が欲しくつて、さ
ぼくのうしろには老いた父親(パッパ)が立つてたて所かな

 「歌人」「言葉の森」「外来種」を手がかりにすれば、新しい「短歌」を岡井が探していた。そして「雉」を見つけ出したということだろうなあ。「雉」は「少年歌人」の比喩かもしれない。「少年歌人」は「中年歌人(岡井)」をからかうような「新しい歌」(思いもつかない歌)をつくった。それは「外来」の感じがした。「母親」に「ママン」とルビが打ってあるのだが、これは「外来/新しい」という「暗示/比喩」なのかなあ。「父親」に「パッパ」とルビがあるが、これは「ママン」との対比か。
 「少年」に対して「中年」というのは、岡井自身に「新しい」という自負があるからかもしれない。古典的(伝統的)な「老人歌人」ではなく、「老人」よりも「新しい」という自負が。そして、「新しい」からこそ、いっそう新しい「少年」を探している、という風に読んでみることができるかもしれない。
 わかるのは、ここでは何かが「対比」されている、ということ。そして、ことばが比喩の色合いをおびているということ。ことばが、奥に何かの「意味」を隠して動いているということ。隠している「意味」は、読者にはわかりにくいけれど、「君/少年歌人」には「比喩」特有のなまなましさで伝わるんだろうなあ、ということ。

 で、わからないまま、ことばはつづいていくのだが。途中を省略して、

昨日のことだがなんとか法案つてのが暁の空を横切つて、ね
そのうしろから見たことのない異国種の雉が
あはただしく何羽も森へ落ちてつた、つてんでね
やをら古い種ヶ島を提げて(それも六挺)重かつたぜ
昔君とわたり合つた渓川を超えたつて訳さ

 ここで、「時間」が「昔」から「いま」にかわる。まあ、「昔」といっても「いま」からみて「昔」なのだから、書かれていることは「いま」なのかもしれないが、「想起」されている「時間」、その「時制」が、ここで変わった。
 「なんとか法案」というのは「戦争法案」のことかな、なんて思いながらわたしは読むのだが。そうすると、森へ落ちていった「異国種の雉」というのは、「憲法第九条(戦争放棄)」になるのかな? いや、そういう「現実」の変化にふれて、思わず書いてしまった短歌、あるいは短歌にしようと思ったいくつかの「メモ(ことば)」を「雉」ということばで比喩として語っているのかもしれない。「異国種」は一連目では「外国種」と書かれていた。これは、いままで書いてこなかったことば(内容)を暗示しているかもしれない。
 岡井は、いろいろ思うところがあって、そのことを短歌にしたのかな? 「政治」を歌に詠むか、詠まないか、というようなことを「中年歌人」の岡井は「少年歌人」は「論争」したことがあるのかもしれない。「少年歌人」は「政治」を詠まない岡井を批判した(からかった)ということかな?
 そのあとで、こんな三行がやってくる。

こんなふうに多行詩つてどんどん変るんだよな
歌はまあ 背丈はきまつてるし筋肉(マッスル)も定量だ
ひよいひよいとは変らないよな

 「多行詩」というのは、いわゆる「現代詩」のことだろう。「短歌」は「現代詩」が、突然、比較の対象になる。
 そうすると、「少年歌人」と「中年歌人(岡井)」の間であった「論争」は、「短歌と現代詩は、どう違うか」ということかもしれない。「外来種/異国種」というのは、「短歌」の領域以外(現代詩)を指していたのかもしれない。「中年歌人」の岡井の短歌は「前衛短歌」と呼ばれていた時代があると思う。その「前衛短歌」には「現代詩」から刺戟があったのかも。刺戟を受けながら、岡井は「短歌」と「現代詩」の比較をして、「現代詩は、書いていることがどんどん変わるが、短歌は一首の中で書いていることが変わらない(変わっても、その変わり方には「定型」がある)」ということに気づいたということか。
 ふーん、そうすると、「君」というのは、短歌だけではなく現代詩も書く「少年歌人/少年詩人」でもあるわけだ。その「少年詩人」に対して、岡井は、ここで短歌と現代詩の違いを、ふと、思いついたように書いていることになる。短歌と現代詩を対比させて、ことばの動きについて語っていることになる。

 そのあと、「中年歌人」の岡井が実際に体験した父親と愛人、さらに母親との関係、そのあいだにたった岡井のことが書かれる。そういうふうに「話題」がかわっていく。その「愛人問題」は、一種の「戦争」かな……と考えると「戦争法案」が成立した云々が、ちょっとつながってくる。
 その、一種の「極限」状況のなかで、岡井はこんなことを思う。

かういふときなんかには言葉の森の雉(きぎす)狩りは救抜だよ
父と子は揃つてあやめもわかぬ闇のなかへと
まぎれ込もうとしてるんだが
どうだい君も一しよに来ないか

 「救抜」ということばを私は知らないので、「救援」かなあ、と思いながら読んだ。というより、「救援」と読んでいたのだが、引用するとき「救抜」とわかって(誤読していたことがわかって)、戸惑っている。「救抜」はわからないので、誤読したまま「救援」で、考え続ける。(そのとき思ったことを書きつないでゆく。)「救援=助けてくれるもの」。
 「言葉の森」とは「短歌(和歌/歌)」。「雉」は、その「声」というか、実際の作品だろうなあ。短歌をつくって、自分のことばをととのえる。鍛える。「現代詩」と違って「背丈はきまつてる」し、「筋肉も定量」。なんらかの「定型」がある。それを利用しながら、ことばを動かしていくことができるということかなあ。精神的な困難に陥ったとき、短歌は人間(歌人)を助けてくれるものだよ、と語っているように感じた。
 「まぎれ込む」という動詞は一連目にも書かれていて、それは「短歌(言葉の森)」と密接な関係にあった。そのことも「短歌」をつくろう、と誘いかけている「証拠」としてあげることができると思う。
 で、そういうことなら。
 ここで「君」と呼ばれている人は、いま、一種の「危機」にあるのかもしれない。いままでとは違った状況にいる。苦しい状況にいる。その「君」に対して、こういうときは「短歌」をつくると感情が整理できると、しずかに誘いかけているのかもしれない。

 なんだかよくわからないのだけれど「少年歌人」へのやさしいまなざしが感じられる作品だなと思った。

詩の点滅 詩と短歌のあひだ
岡井 隆
KADOKAWA
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